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  4. 猫がいれば大丈夫(著/村山早紀)

猫がいれば大丈夫(著/村山早紀)


 いまにも雨が降り出しそうな、重たい灰色の雲が、午後の空いっぱいに満ちていた。
 子ども用の不透明水彩絵の具の灰色で、幼い手が雑に塗りたくったような、そんな色合いの空だ。
「雨というより、この寒さじゃあ、雪が降るのかな……」
 ソファの背もたれに寄りかかったまま、さとつぶやいた。うたた寝から覚めてみると、ワンルームの部屋が、冷蔵庫の中のように冷えきっていた。
 いつもはそこまで嫌いではない、生乾きの油絵の具や溶剤の匂いが気になる。智史はぐすぐすしてきた鼻をこすった。──そこそこの広さの部屋でも、ワンルームに大小様々なサイズのキャンバスと描きかけの油絵がぎっちり並んでいる情景はさすがに息苦しい。
「てか、寒いなあ」
 すぐそばのテーブルの上にあるエアコンのリモコンに手を伸ばすのもおっくうで、そのままソファの上に足を引き寄せて、丸くなった。
 肩が震えた。ひどく寒かった。まだ寝ぼけている頭でぼんやりと考える。
(このまま寝てたら凍死したかな?)
 いやいや、そんなことはありえない、と自分にツッコミを入れて苦笑する。
「これくらいじゃ人間死なないよな。せいぜい風邪を引くかそこらだ」
 笑うと、その声も震えた。──ていうか、歯が鳴ってるじゃん。鼻水も出てきたぞ。こりゃ、本格的に風邪を引いたかな。
「まあちょっと最近無理をしすぎたからな」
 ベッドサイドのテーブルとその周辺に、エナジードリンクの空き缶が、いくつも並んだり、転がったり。──ちゃんと寝床で寝なくなってから、いったい何日目だったろう? だけど、この仕事、枚数を描けばそれだけ、金になるしな。好きな仕事じゃないけれど。
「ちょっとはからだを大切にしてやるべきだったかな。もうちょっと寝ておくべきだった。食事だって……」
 コンビニおにぎりと弁当のルーティンにはいい加減飽きてきていた。料理は苦手ではない。パスタなんか子どもの頃から作って、母親に食べさせてきたから、うまいもんだと自負している。母にも喜ばれていたし、自分だって自分の作る物の味は好きだ。できたての熱い物が食べられるのもいい。でもいまはそれだけの気持ちと時間のゆとりがなかった。栄養が偏るとわかっちゃいるのだけれど。
 いつも具合が悪くなってから後悔するものだ。──ああ、わかっちゃいるけど、この手の失敗は数限りなく繰り返す。
「寒……」
 無意識のうちに自分の両腕をこすった。凍死も困るけれど、風邪を引くのも嫌ではある。まずいぞ、背中がぞくぞくしてきた。
(ああ、こりゃ、三十九度とか四十度まで上がって、一週間くらい寝込むパターンだな)
 クリスマスが近いこの時期に、うなされながら部屋で寝ていることになりそうなのは、ひどく損をするような気がする。別に誰かと約束があるわけでもないけれど。
 家族も恋人も、それから友人だって、その季節に一緒に幸せに笑ったりじゃれあったりするような、そんな「誰か」は自分にはいないのだけれど。
 と、考えると、妙に気が滅入ったのは、この風邪の、妙に楽しげなリズム感を持って、ぞくぞくと冷えてゆく気配のせいか、それともクリスマスなんて季節について、久方ぶりで若干深めに考えたからだろうか。
「馬鹿馬鹿しい」
 ひとりきりにはもう慣れているはずなのに。子どもの頃に、そういう身の上になってから、年季が入っているはずなのに。いわばひとりぼっちのプロのような──と考えて、ため息をついた。そんなののプロじゃなく、もっとかっこいいプロでありたいものだ。
「──ああやばい。かなり熱が出てきたかも」
 そのときだった。
 ぼんやりする頭のせいか、はたまたうたた寝の中で見た、おぼろな夢の記憶の欠片かけらのせいか、
『大丈夫よ』
 不意に、耳の底に、明るい声が聞こえた。
 能天気な、ちょっとうたうような、あまり賢くない感じの、でも透明で優しい声。
 もう何年も聞いていない、懐かしい声。
『大丈夫。猫がいれば大丈夫なの。世の中ってそういうものなのよ』
 何が大丈夫だよ、と口の中で呟く。
 夢のごりのせいなのか、勝手に目がうるみ、胸の奥がぎゅっと痛む。
「ほんと、母さんは能天気で、いい加減で、思いついたらすぐ行動するし、もうおとななのに、物事を深く考えないから……」
 猫がいれば大丈夫、というのは、母のくちぐせだった。どんな理屈があってそう思うようになったのか、はたまた猫と幸運の関係なんて、ありそうななさそうな事柄、まったくが母の思いつきや思い込みや勘違いや、はたまた創作なのか、いまとなってはわからない。
 母はある日、家を出た。──あれも冬、よどんだ色の雨雲から、雨が降りしきる日だった。あの頃は、智史の家には嫌なことばかり続いていて、陽気でおしゃべりな母も黙り込んで炬燵こたつかんを食べ続けていたり、寝転がってふてくされたりしていたのが、ふいに身を起こし、部屋着の上にジャンパーを羽織って、
『──猫を探しに行ってくるね』
 口をきゅっと結んで、急にアパートの部屋を出ていったのだ。
『猫がいれば大丈夫なんだから。だから、母さん、猫を探しに行く』
 智史は、母と同じ炬燵に入っていた。その言葉にぎょっとして、慌てて止めようとして、でも声にならなかったのは──
(あのときも風邪の引きはなだったんだな。熱くて、からだが重くて、声がのどの奥に張りついたようになってた)
 炬燵の中で、汗を流しながら、母が帰ってくるのを待っているしかなかったのだ。
 能天気で無鉄砲で、智史には何を考えているかわからない母親が、どこかに行ってしまったのを、大丈夫かな、道に迷ったりしていないかな、と、心配したり怒ったり、めまぐるしく変わる気持ちを自分で持て余しながら。
(母さんたら、冬の雨の日に、ひとりきり、どこに行ったんだろうと思ってたんだ)
 あれは小学二年生くらいのときだったと思う。といっても、ほとんど学校には通えていなかった。当時のことはなぜか記憶が遠く、あまりよく覚えていない。
 母のよくわからない理屈にいらちながら、それでもどこか、ほんとうに母が猫を連れ帰って、それきり暮らし向きが良くなるような──おとぎばなしのように、日々が幸せになって終わるような幻影を見たのは、いい加減で、自称「ポンコツ」な母のことをその頃の自分はほんとうに好きだったからに違いない。
 あのときも午後だった。時間はゆっくり経っていって、夕方になり、夜になった。
 母は、帰ってこなかった。
 それきり、あの部屋に帰ってくることはなかった。
 どこに行ったのかはわからない。時を経たいまも、わからないままだ。
(いまもどこかで、猫を探しているのかもな)
 ぼんやり考えて、おかしくて笑って、なぜか、涙が一筋流れた。

「ちくしょう」
 何だか悔しくて、手の甲で涙をくと、ふと、目のはしに何か見えた。
 ベランダの掃き出し窓の外に、白くてもったりしたシルエットが見える。
 猫だ。
「あいつ、また来てやがる」
 ここのところ、この辺をふらふらしている、薄汚れた、でも太った猫だった。首輪もつけていないし、あの汚れ具合からすると、おそらくは家のない猫──野良猫なのだろう。もちもちとした体格で、後ろ姿はゆったりと見えるのだけれど、振り返ると金色の目が意外と鋭い。それなりにひとりで生き抜いてきたような強さを感じさせるところがある。
 ただちょっと珍しいのは、あの猫がたたずんでいるここが二十階のベランダだということで──どうやら、あの猫はベランダや非常階段を伝い歩いて、このマンションの高層階のベランダを散歩するのが最近の日課らしいのだ。まさか猫がひとりでエレベーターに乗れるとは思えないので、面白がってエレベーターに乗せている住人がいるのかもしれない。
 猫はこのマンションがお気に入りであるらしい。そもそも、ベランダを散歩する猫に、ごはんやおやつをあげている住人がいるようなのだ。
 マンションの他の住人の会話をエレベーターホールで小耳にはさんだことがあるのだが、一見人懐こそうな割に、でさせたりはしないらしい。
「ごはんやおやつだけ食べていくのよね」
「ですよね。でも美味おいしそうに食べるから、憎めなくて。猫ちゃん、またおいでっていっちゃう」
 猫好きらしい住人同士盛り上がっていたので、いくつかの部屋で、餌付けされているのだろう。ひとと距離を取りつつも、それ目当てではいかいしているのに違いない。
 ガラス越しに、目が合ったのか、猫が目を細めて笑うようにした。
「──なんだよ、その、生意気な顔は。うちにはおまえに出す物は何もないぞ」
 ええ、そんなのわかっていますとも。そんな顔をして、丸い顔の猫はこちらを見る。
「生意気だなあ」
 猫という生き物は、ときどき全てを見透かすような目でこちらを見ていることがある。思えば昔、母と暮らしたあの古いアパートから、わずかな荷物だけ背負い、事情のある子どもが行くという施設に連れて行かれた日も、近所でたまに見かけていた野良猫が、じっとこちらを見ていたのを覚えている。
 神聖な予言を告げるような目で、薄汚れた路地の草むらの中から、智史を無言で見上げていた。
(何もかもわかってる、って顔してたよな)
 幼い智史には、当時はそこまでのがなかったけれど、猫というものは、占い師や神官のような顔をしている、と思ったのだ。
 野良猫は、タクシーに乗せられて去って行く智史を、黙って見送っていたのだった。
(俺はどこにも行きたくなんてなかったのに。あのままあそこで母さんを待っていたかったのに)
 ここを離れて遠くに行くのがおまえの運命だよ、というように、猫は目を細めて智史を見送ったのだ。
 あの古いアパートは、いまはもうない。いつなくなったのかも知らない。
 子どもがひとりで訪ねるには、遠い街で育った。帰るだけの旅費もなかったし。大きくなって、自分で金を稼げるようになってから、ふらりと訪ねてみたところ、記憶の中にあった懐かしい場所は更地になっていた。
 そのときに、思った。
(ああ、もうこれで、母さんには二度と会えないのかもな)
 あの雨の日に探しに出た猫を、母が連れて帰ってきても、あの部屋はなくなってしまったのだから。
 猫を抱いて途方に暮れる、まぼろしのそのひとの姿を思い描いて、智史は胸の奥が痛んだ。
 いまもそうだ。思い出が更地になったようなあの風景を思い返すたびに、水彩絵の具で描いたような、にじんだ絵が目に浮かぶ。若いままの──だってその後に年を重ねただろう、そのひとの姿を智史は知らないから──母が、猫を抱いて佇たたずむその情景。子どもの頃の、あの雨の日の記憶の続きのように、冬の冷たい雨が降る中に、しょぼんとうつむいて、腕の中の猫と濡れている、母の姿を。

 滅入ったのも良くなかったのか、夜になるにつれて、どんどん熱が上がるのがわかった。呼吸が速くなってきたし、心拍数も上がっているらしく、手首のスマートウォッチが、異常を告げてきた。
 わかってるよ、とやさぐれる。自分の胸の鼓動の速さくらい、教えてもらわなくてもどきどき速くなったってわかるぜ、ちくしょう。
(体温計なくても、熱がやばい感じなのはわかるな。こう、とろ火で煮えているような気がする)
 呼吸が荒い。救急車に乗るような羽目になったらダサいから嫌だなあ、とひとりごちる。
 ああでも、独り暮らしの身、誰がどうやって、そんなものを呼ぶというんだろう? 自分で呼ぶのか。でも声が出るかな?
 さっきから喉が渇いているけれど、ソファから起き上がって、すぐそばにある冷蔵庫を開けて、冷たい水を出すだけの力もない。スマホは手元にあるけれど、時間が経つごとに声がかすれていっていて、この先、誰かと会話ができるような気がしない。そんな自信がない。
(救急車も抵抗あるけど、孤独死もまあまあかっこ悪いよなあ)
 ぼんやりと想像する。──まあそんなことにはならないだろうとも思う。あまりにも連絡が取れない日々が続けば、ふだん、彼のことをれ物にさわるように遠巻きに見守っている、祖父母始め親戚たちが、さすがに慌てて部屋にやって来るに違いない。
(そのときまで、命があればいいけどな)
 肉体が形を保っていられるくらいのうちには、発見してほしいものだと思った。
(これだけ寒かったら、多少の猶予はあるかなあ。運が良かったか)
 こんとんとして薄れゆく意識の中で、母のことを思った。あれきり帰ってこない以上、どこか道ばたで行き倒れ、あるいは何らかの事故で思わぬ最期さいごを遂げて、帰ってこられなかったのでは、と思わなくもない。その時点で、自分がどこの誰なのか教えられる物を所持していなければ、当たり前に、どこからもなんの知らせも来ないだろう。むしろ、親戚たちは、その可能性を想定しているようだった。
 近所にふらりと出かけていって、それきり帰れなくなるなどという不幸、普通の成人女性なら、その確率はかなり低いだろう、おそらくは。けれど、智史の母は、多少というか、かなり風変わりなひとだったので、客観的に見て、どんなに馬鹿らしい人生の終わりを迎えても、それはそれで納得できてしまうところがあった。少なくとも、実の息子の智史だって、ありそうだなと自然に思えるくらいには。

 どこか遠くから、視線を感じたような気がして、目を上げると、カーテンを引かないままになっていた窓から、いつの間に上がったのだろう、大きな満月がこちらをのぞき込むように光っていた。まるで金色の粉を散らしているような、魔法じみたまばゆさだ。
 いつの間にか、雲は遠のき、空が晴れたらしい。見開かれた、片方だけの巨大な瞳と目が合うと──そんな気がした──ぎょっとするものがある。何かひとならぬ存在に見つけられた、いつのまにやら凝視されていた、そんな怖さがある。それでいて、どこか魅入られてしまうような。
 月の光を恐れ、あるいは魅惑されていたのは、智史の母もそうだったので、その血を受け継いだのかもしれない。
 アパートの狭い庭や、海沿いの道で、満月の光に照らされながら、母はあるときは怖いといって、青ざめて走って家に帰ろうとし、あるときは浮かれて、両手を空にあげて、不思議なダンスを踊った。とりとめもない即興のステップのそれは、月の光の下だと、妖精の舞のように、美しく見えた。
 母は、さる由緒正しく、知性あふれ、裕福な家庭の末の娘として生まれた。ただ、母自身は、若干、いろんなものに恵まれずに育った。美しく愛らしく、天真らんまんで、出会うひと全てに可愛かわいらしい子どもだといわれたけれど、ものを深く考えることができず、飽きっぽく、じっとしていることができなかった。すぐに笑い、走り、うたい、踊り出すような子どもだった。喜怒哀楽も激しくて、自分で抑えることができず、人間関係を築くことができず、ひとの輪の中に入ることができなかった。家でも学校でも、ぽつんとさみしげに佇んでいる子どもでもあった。
 大きくなってもその性質は変わらず、学校の成績も恐ろしいほどに悪く、家のお金で、なんとか大学までは進学したものの、ほとんど通うことのないままに、ふらふらと街に出て、家に帰る時間は遅くなり、やがて帰らなくなった。
 その家のひとびとは、その子の行方ゆくえを捜したけれど、どこまで本気になって捜したかはわからない。少なくとも智史は、わからないと思っている。出来の悪かった末の娘の無事と幸福を願ってはいただろうけれど、愛情もあったと思うけれど、それでも、他の優秀な子どもたちと比べ、心底愛されていたかどうかはわからないだろうと思う。
 それでも、その子は捜され続けてはいたのだ。だからこそ、忘れ形見のようにひとり残された息子が見出され、実家へと連れ帰ってもらう、という奇跡が起きたのだから。
 生まれた家から姿を消した風変わりな子どもは、街の片隅でいろんなひとに食べさせてもらい、ときになにかしら仕事をして食いつなぎながら成長し、あるとき出会った男としばしともに暮らした後にその男と別れ、授かった息子をひとり育てていた。気まぐれな上、人付き合いも不得手な娘ではあったけれど、見た目の美しさや不思議な魅力もあって、助けてくれるひとには不自由しなかったようで、長続きしない人間関係を繰り返しつつ、母子ふたりなんとか生きていたらしい。
 娘が育てていた、その息子が、智史だった。十代の終わりになったある日。捜し当てられたとき、智史は古いアパートで独り暮らしをしていた。なので、ある日訪ねてきた探偵から──探偵、と記された名刺にも驚いたものだ。そんな漫画や小説にしか出てこなそうな職業のひとが自分を訪ねてくることがあろうとは、まるで思っていなかった。一瞬、怖くなったくらいだ──事情を聞かされ、豪邸としかいいようのない、豪華な母の実家へと案内されたとき、こんな暮らしをしているひとびとがいるのかと仰天したものだ。
 施設を退所した後、智史は高校時代の美術の先生の私塾で絵を学びながら、接客業のアルバイトをしていた。暮らし向きは質素で地味、けっして裕福な生活をしていたわけではない。だから、こんなお伽話のようなことがあるのかと驚いたものだ。まるで古い童話の、『小公子』みたいな話じゃないか。母が好きで子ども向けの童話全集を古書店で買って大切にしていたので、一緒に読んでいた智史にはすぐに思い当たった。
 消息を絶った娘がびんだったのだろう。ちゃんと捜してやれなかった後ろめたさもあったのに違いない。智史には、母の両親や祖父母、親戚たちから、遠慮がちな、けれど惜しみない「救いの手」がさしのべられた。
 かといって、智史からすると、そこはつまりは母の馴染めなかった実家であり、母を捜し当ててくれなかった冷たいひとびとの住む家で、打ち解けようにも無理があった。表向きには、そんな感情を表すこともない。バイトで学んだ笑顔で親戚たちには接したけれど。多少の感謝だって、親しみだってある。心からのお礼の言葉も伝えられた。
 けれど、それ以外にも伝わるところがあったのだろう。智史には実家やその近くではなく、やや遠くにある高層マンションの一室が与えられた。そうして、娘と、そして孫にこれまで満足なことがしてあげられなかった代わりに、と、月々のお小遣いが与えられ──もう立派な大人なのに──いずれ良い仕事を考えてあげようとアルバイトはやめさせられ──ハンバーガー店ではたいそう惜しまれた──絵が好きなら、と望む画材全てを買い与えられた。
 なんなら、学費は出すから、いまからでも美大に進学しないかと勧められたけれど、それはさすがに遠慮して、ただ、馴染みの私塾にだけは引き続き通わせてもらうことにした。
 智史は絵がうまかった。高校時代には、地元の絵画展で賞を獲ったこともあり、美術の先生にその才能を惜しまれて、指導を受けて描き続けていたのだった。
 画才は、遠い昔に姿を消した父から受け継いだものなのかもしれなかった。母にはそのひとのことを詳しく聞いたことはなかったけれど、絵を描くひとだったと、それだけ聞いて覚えている。それも天才的に巧いとその世界で評判だったのだと。母は絵のことはまるでわからなかったので、「その世界」だとか、「天才的」だと言葉では覚えていても、ほんとうのところどういう画家だったのかはまるで輪郭がつかめなかった。母にとって、そのあたりは、どうでもいいことだったのだろう。
 それでも、感性の鋭かった母には、智史の描く絵が子どものそれにしては巧いとわかったらしく、いつも絵を描くと、子どものようにはしゃいで、すごい、天才、と、褒めちぎってくれた。母が喜び、たくさん褒めてくれることが智史はうれしかった。
 姿を消した父親が、自分という子どもの存在を知っているのかどうか、それは知らない。いまもわからない。幼かった智史は母にそれを深く聞けなかったから、別れの理由も知らないままだ。ただ母という女性がどういうひとなのかは、智史は誰よりもよく知っていた。あんな面倒な母だもの、ずっと一緒に暮らすのは難しかったろうと想像もつく。だからそのひとを責めるつもりもない。
 ただ、自分の中に流れているかもしれないそのひとから受け継いだ絵の才能に、ふとそのひとが寄り添っていてくれるような錯覚を覚えることもありはした。特に、寄る辺なかった子どもの頃は。
 その才能は、智史に未来への夢を与え──たまの収入を得るかてにもなった。
 父なるひとは、智史に収入を得る才能を与えてくれた、といえないこともない。

「ううう、それにしても……」
 かすれた声で、自分を励ますように、智史は呟いた。
「喉も渇いて……死にそうだけど、トイレ行かないと漏れそうだ……」
 そんなの嫌だ、かっこ悪すぎる。
 けれど、熱が上がったのがたたっているのか、いよいよからだが思うように動かなくなっていた。真夏の暑い日に、分厚く重い着ぐるみでも着ているようだ。そんなバイトをしたこともあったっけ、とどこか懐かしく思い出しながら、でもほのぼのするには、からだが動かないことに恐怖を覚えた。
「いや、これでマジで、孤独死なんてしちゃうと……ちょっとなあ、かっこ悪いわ」
 頭の中だけ、冴えて冷えてくる。
 見つかる遺体が漏らしているのもダサいし、一緒に部屋で見つかる物がまずい。
 イーゼルにかかっているほぼ完成している絵は、どれもこれも偽物、他人の有名な絵や筆致に似せて描いた絵ばかりだ。
 智史はがんさく製作を仕事にしていた。
(仕事っていうか、アルバイトだよな。単なる趣味というか、ひまつぶしというか──)
 贋作を描くことで、積極的にもうけようとしたことはない。知人が持ちかけてくるままに偽物の絵を描いていただけだし、絵を描くことそのものは嫌いではないから、技術的には興味深く、面白い面もあったけれど、仕事として本気で、好きでやっていたことでもなかった。
 でもそんなこと、他のひとびとには同じようなものだろう。とにかくいまここで死んでしまえば、智史には不名誉な事実が残る。いや、智史は死んでしまうのだから、どうでもいいといえばいいのだけれど──親戚には気の毒だと思った。恥をかせてしまうことになる。
(それに──)
 母さんの顔にも泥を塗っちゃうよな、と思った。
 あんな娘の遺した息子だから、偽物の絵を描いて暮らして、挙げ句ひとりで死んだのだ、といわれるのは悲しすぎる気がした。

 私塾で出会った、仲の良い先輩に声をかけられ、最初は面白半分で、腕試しをするような気分で、偽物の絵を描いていた。けれどそのうち、先輩にいわれるまま、金を稼ぐために描くようになった。
 きっかけはなんだったろう? もともと、智史はいろんな絵を真似まねるのが巧かった。単純に誰かの描いた美しい絵の色使いや構図をなぞるのが心地よかったし、勉強になるとも思っていた。我ながら、写真を撮るようにそっくりな物が描けたし、ある画家風の架空の絵を描く、ということまでできた。しかし画塾の先生には良い顔をされなかったので、積極的には描かなくなっていた。
 その頃、贋作師についての動画やテレビ番組をたまたま見て、自分の才能について考えたことがある。画才にもいろんなものがあるけれど、贋作を描く才能というものがあり、自分にもそれがあるのだろうと、智史は思った。もっとまともな才能の方が良かったな、と思ったのを覚えている。お日様の当たる場所に出て行けないような才能じゃないか、と。
 そんなある日、先輩に誘われたのだ。
「売れる絵を描いてみないか? 世界中のひとをだませるような、そっくりな絵を」
 普通なら、断っていたかもしれない。先生に怒られますし、とかいって。
 けれどそのとき、智史は友人を事故で亡くしたばかりで、いろんなことを深く考えるだけの気力がなく、むしろ、どうでもよかった。暗い方向に足を踏み出すような行為が、見えない何か、あるいは誰かへの意趣返しになるような気もしていたかもしれない。──あの頃のことを、智史はよく思い出せない。混沌としていて。ふらふらと暗い道を歩いていたようで。
 智史は、先輩にいわれるままに、あるさくの画家の絵を真似て描いた。できあがった絵を、先輩はどんながあったものか、おそらくはたいそうな金額で売りさばき、智史に売り上げの一部を渡してくれた。
 それがいくらだったのか、智史はそのままポケットに突っ込んだので、よく覚えていない。ただ、あんな偽物の絵でもお金になるんだ、と思った。
(世の中なんて、チョロいもんだと思ったんだ)
 神様も仏様もいないんだな、とも思った。
 ってしまった友人、自分よりよほど画才もあり、性格も良く、いつも笑顔で笑っていた彼があっけなく事故で死んでしまうような世界だもの、救いも奇跡もないのだろうと、乾いた心で思った。
(あいつ、ほんとにいい絵を描いたよな)
 死んだ友人は、高校時代からの仲良しで、三年間ずっと同じクラス。美術の時間に絵の腕を競い合い、ともに廊下に飾られ、県の展覧会に油絵を出したりもした。絵のこと以外にもいろいろと気が合った。好みの漫画や小説や女の子のことなども。父親がいない同士で、家が裕福でないところも、気が合う一因だったかもしれない。彼には働き者のお母さんと、弟や妹が何人もいたところは違っていたけれど。古い借家にわいわいと楽しそうに住んでいた。
(みんな俺に懐いてくれて、可愛かわいかったな)
 ひとりっ子の智史にはきょうだいがうらやましかった。高校まで育った施設には、きょうだいみたいな仲間が多かった、そんなことも思い出して懐かしかったりもしたのを覚えている。卒業してからは施設を出て、ひとりで暮らしていたので、自分に向けられる笑顔に飢えていたということもあったかもしれない。
 彼のあの小さな弟たちも、妹たちも、友人と同じ、明るい笑顔で笑う子どもたちだった。いまはどうしているだろう?
 高校を卒業した後、友人は親の知人の会社で事務員として働きつつ、警備員やコンビニのバイトもしていた。たくさんいるきょうだいを、食わせてやらなきゃいけないし、上の学校にも行かせてやりたいんだといっていた。
 高校の恩師の画塾だけが息抜きだよ、生きってやつだね、と笑っていっていた。
 そうして、先生の家の離れの塾で、美しい空の絵を描いた。空の絵を描くのが好きだった。朝の空、夕方の空。ひとのいない海辺の空。華やかな都会の夜景の上に広がる星空。
 ひとの姿はなく、その気配はなくとも、誰かの息づかいや、生活の音を感じるような、あたたかく輝く空の絵を描いた。
「画家っていうか、イラストレーターになりたいのかもな」
 彼はいつだったかそういった。「誰でもふとした瞬間、疲れたなあとか、息苦しいなあ、とか、さみしいなあ、とか、思う瞬間ってあるじゃない? こんなに頑張っても報われるのかな、とかふと、思っちゃったりとか。そんなとき、俺の絵を見たら、ふっと息が吐けるような、そうだ、見上げればいつだって頭上には、明るい空があるんだよな、と思えるような絵を描きたい。で、いろんなひとのそばに置いてほしいんだ。つらいとか悲しいとか疲れたとか、そんな言葉は、俺の絵がみんな、聞くからさ」
 優しい優しい笑顔で、彼はそういったのだ。
(なんて優しい夢なんだろう、って俺は思ったんだよな。素敵な願いだって)
 叶ってほしいと思った。そういうと、叶えてみせるさ、と友達は笑った。
「俺、それだけの才能も運もあると思うしさ」
「だよな」
 俺も負けないぞ、と思いながら、そのときの智史には特に何の夢もなかった。ただ、絵を描くのが楽しいし、どこか懐かしいから、描き続けていただけだったし。
 でも、この友人と一緒に描き続けていたら、いつか自分にも描きたいものが見つかるような、そんな気がしていた。
 けれど、そんな友人は、事故で亡くなってしまった。夜明け前、警備員のアルバイトが終わって、バイクで家に帰る途中、何もない住宅街の坂道で転倒し、はずみでガードレールを越えて、下の空き地に落ちて死んだのだ。そう高い段差でもなかったのに、打ち所が悪かった。彼がいちばん好きだった夜明けの空へと落ちていき、明けていく空に見守られて、彼はあっなく、この世を去ったのだった。
 葬式の時、画塾の先生が、
「あんなにれいな絵を描いていたのに」と呟いていたのを覚えている。「一生分の綺麗な空を、描き終わってしまったのかなあ」
 でもまだ若い、若かったのに、赤い目をして、そううめいた。
 画塾の誰かが、泣きながらいった。
「綺麗な空の絵ばかり描いていたから、神様に連れて行かれたのかも」
 どうかなあ、と、智史は思っていた。涙を流さず、爪が食い込むほどこぶしを握って。
(もし、神様なんてものがいるなら、あんな善人を事故なんかじゃ死なせないと思うよ)
 生活に苦労なんてさせなかったろう。毎日、幸せで、綺麗な絵だけ描いていけるようにしてくれたに違いない。
 神様なんて、そんなものいないんだと思った。子どもの頃から、わかっていたんだとも思った。

(あいつ、夜空を描くのも巧かったよな)
 熱にうなされ、ときどき意識が途切れるのを感じながら、智史はさみしく笑った。
 いまあの友人がここにいたら、どんなに良かったろう。──トイレに連れてってもらえるし、冷たいものも持ってきてもらえる、救急車だって呼んでもらえるのに、ってことじゃなく──二十階からの夜景を見せてあげたいな、と思った。見上げる空の広さと、まばゆい大きな月と、地上の街の灯あかりを、目を輝かせて喜んで、きっと美しい絵にしただろう。
「──俺みたいなアルバイトの贋作画家じゃなく、あいつがこんな幸運に恵まれて、ここにいれば良かったのにな」
 そうしたら、どんなに綺麗な絵を描いたろう。
 暗くなったベランダに、ぼんやりと猫の白い影が見える。あのもちもちとした野良猫が、まだいるらしい。
(寒いんだし、とっととどこかに帰ればいいのに)
 高層階のベランダには、駆け抜けるように夜風が吹く。肉付きが良かろうと、毛皮をまとっていようと、寒いだろう。
(そういや、あいつも猫が好きだったな)
 ふと、思い出した。高校生だった頃のある日、友人は、猫の、あの笑っているような口元が好きだといった。いつも笑っているような、あの顔を見ていると、励まされるような気持ちになるんだ、と。何があっても大丈夫だよ、猫がここで見ている、応援しているからね、といわれているような気持ちに。
(猫がいれば大丈夫、か──)
 ああ、母さんみたいなことをいうんだな、と、懐かしく思った、それが彼と仲良くなるきっかけだったのかもしれない。
「いまはいないんだけど、うちずっと猫がいてさ。猫がいたときは父さんも家にいて、みんな笑ってたからか、幸せの象徴みたいなところもあってさ。またいつか猫と縁があったら、幸せが来るような気がしてる。家族みんなそう思って、猫との暮らしを楽しみにしてる。でもそう思ってると、不思議と猫と縁がないんだよね。飼えないタイミングのときは、いくらでも道で家のない子猫を見かけたりするし、猫もらいませんか、って話があったりするのにさ」
 できればもうちょっと、暮らしが落ち着いてから、猫を飼いたいな、きっとその頃にはうちの家族になるべき猫と縁があるように決まってるんじゃないかな、なんてことを、友人は笑顔でいっていた。その日が楽しみなんだ、と。

 気をつけていないと、時々意識が途切れる。汗をびっしょり搔いていて、気持ち悪かった。相変わらず、からだが動かない。もはや金縛りに遭ったようだった。指さえ動かない。
「──いよいよ孤独死コースか」
 高熱にうなされながら、ぼんやりと月の光に照らされたベランダに視線を投げていたら、ふと、幻影のようにそこに見知らぬ少女が立っていることに気づいた。
 白い野良猫のそばに、猫を従えるようにして、白い帽子とマフラー姿の少女が立って、こちらを心配そうに見ている。十歳か十一歳か、それくらいの年齢ではなかろうか。知らない女の子だ。誰だろう?
 不思議とどこかで見かけたことがあるような気もするのだけれど、じゃあ誰かと考えると、やはり知らない子だ、と思う。
(──いや、そういう問題じゃない)
 なんだってここに、見知らぬ女の子がいるんだろう? いや見知っていようと、夜のベランダに女の子がいるのはおかしい。いまは夜の何時なんだ。腕の時計で確認すると、もう十時を過ぎていた。小学生がひとりで出歩いていい時間じゃない。親はどうしているんだ? ──いやそんな問題でもなく、ここはマンションの二十階だ。猫単体ならともかく、人間の女の子にベランダを伝い歩くことはできないはずで。
 智史が身を起こそうともがいていると、ガラスの向こうの女の子の口が、
『あ、よかった』
 というように動くのが見えた。『猫さん、大丈夫だよ。きみが心配してた、あのお兄さん、生きてるよ。ほら、動いてる』
 かたわらの猫に話しかける、その口の形は、たぶんそんな風に動いた。
 猫の口も開く。たぶんじゃなくて、にゃあ、と鳴いたのだろう。
『生きてるってわかったところで、じゃあ、わたし行くね』
 そういうと、女の子は、ふわりとベランダの手すりの上に舞い上がった。

 それは小鳥か天使のような、まるで体重を感じさせない、背中に翼があるような軽やかさだった。
 でも、軽やかだろうと小鳥みたいだろうと、二十階のベランダの手すりは危ない。
「──やめろ、落ちる。死ぬぞ」
 かすれた声で智史は叫んだ。とにかく、あの子を下ろさなければ。それだけしか考えられなかった。頭と胸の中が、その想いでいっぱいになったとき、弾丸のようにたましいが──智史そのものが、動かないからだを抜けだし、窓ガラスも一瞬で通り抜けて、ベランダに飛び出したのを感じた。
『なん──なんなんだ、これ?』
 まばゆい月の光の中で、智史は自分の半透明に透けるてのひらを見た。その手で頬にさわり、やはり半透明の手足を見た。自分の体はさわれるけれど、寒天やゼリーをさわったように、どこか頼りない感触だった。一方で無意識のうちに足を入れようとしたベランダ用のサンダルには触れられなかった。透き通って突き抜けてしまう。ベランダそのものも、いまは浮いているけれど、気をつけていないと透き通り、突き抜けてしまいそうだった。どうも普通にさわれるものにはさわれないらしい。
 ガラス越しに部屋の中を振り返ると、智史そのものが、肉体が、ソファの上にがっくりとうなだれて、死体のように動かずにいた。
『これってあれなのか、ホラー漫画とかでよくある、幽体離脱、とか、生き霊、みたいな。俺、からだを抜けて魂だけになってるのか』
 それか悪夢。いまは夢だとか。──その単語が脳内に浮かんだものの、すぐに手を振って打ち消した。こんなにはっきりした夢なんてないない。絶対にない。半透明なからだもくっきり(くっきり?)見えているし、夜風は、これもからだを吹き抜けてしまうらしく感じないけれど、二十階から見下ろす夜景のリアルさは、夢の中で見る景色なんかではあり得なかった。
 なぞの女の子と、そして猫が、おやおや、という顔をして、智史を見ていた。
(俺、もしかして、この子のために、幽体離脱しちゃったのか……)
 こんな漫画みたいなことが起きるとは、今日この日までまるで思わなかった。
『ええと、とにかく──』
 智史は、おとなとしてな表情を作り、手すりに立つ少女を見上げて、声をかけた。夢だろうと夢じゃなかろうと、ちゃんと声が出るのは助かった。
『そこのきみ、危ないから下に降りてください。落ちたらどうするのかな? ここ二十階ですよ』
 話し方に、ついつい、からだに馴染んだハンバーガー屋さんのお兄さんぽさが出てしまう。
『大丈夫だよ』
 女の子は楽しげに笑う。足下で白い猫も、笑っているような表情でこちらを見ているのが、微妙にむかついた。
『大丈夫じゃないでしょう? 落ちたら死にますよ。ていうか、そもそも君は誰なんですか? もう遅い時間だし、早く家に帰りなさい。お父さんやお母さんだって心配してると──』
『わたし、落ちないし、落ちても死なないもん』
『いや死ぬでしょ?』
 女の子は、どこかいたずらっぽく、うたうように言葉を続けた。
『わたしは、死なないの。だって、空を飛べるもん』
 そういったまま、背中からふわりと、夜空に身を投げた。月の光の中で、白いマフラーが翼のように広がって見えた。
『うわあ、危ないってば』
 とっさに智史は女の子を追いかけ、ベランダから身を乗り出して、青白く輝いて見えるその細い手を捉えようとした。その手がかすめるように触れたとき、初めて気づいた。自分の体が宙に浮いていることに。
 月の光の中で、見上げる夜空も、月光に照らされた街も銀の粉をいたように美しく、こんな場面でも自分の目は、美しいものを探し、魅了されるんだな、と智史は思った。
 そしてひくひくと指が動くのは──無意識のうちに、いま見ているこの夜景を描くとしたら、どんな画材を使って、どう描くか、それを考えているからだ。
『空飛ぶの、初めて? 楽しいでしょう?』
 謎の女の子が笑う。
『た、楽しくはあるけど、これはなぜ……』
『魂だからよ。ひとは魂だけだと、とても軽くなるから、ふわって空が飛べるの』
 ピーター・パンみたいよね、とささやく声は、夜風に乗って、うたうように響いた。
『だから、落ちても死なない?』
『そう』
『じゃあ、きみもその、幽体離脱……?』
 女の子は、首を横に振った。
『わたしは違うわ。わたしは幽霊。ずっと昔に死んでしまったから、もう帰るからだはないの。自由に空を飛べるけど、帰る家もない。昔の子どもだから、お父さんもお母さんももうこの世にいないの。早く帰りなさいって𠮟しかるひとはいない』
 さっきのセリフ、懐かしかったわ、と、女の子は肩をすくめた。
 ベランダから、猫がこちらを見上げて鳴いた。
『あ、ごめん。猫ちゃんおいで』
 女の子の招くような手の動きにつれて、白い猫もまた、夜空へと舞い上がった。
『その猫も、その、飛べるのかい?』
『この子はわたしが飛ばしてあげてるの』
『飛ばしてあげてる?』
『幽霊の魔法……? 超能力、そんな感じの力かな? わたし、もう長いこと、幽霊やってるし、わけあってちょっと変わった幽霊だから、少しだけなら、いろんなことができるんだ。飛びたい猫を一匹飛ばすくらいのことなら、まあできるの。──といっても結局はお化けだから、たいしたことはできないんだけどね』
 女の子は、小さなため息をついた。
『お化けだからね、たいていのひとの目からは見えないし、さわることもできないの』
 女の子のそばに、猫が近づく。猫はすり寄るけれど、女の子の手は猫に触れることはできないようだった。猫も女の子も、それがさみしいように見えた。
 智史は首をかしげた。
『俺は君のことが見えるし、さわることだって、できるけど?』
『それはお兄さんが死にかけてたから』
 くすりと、どこか悲しげに女の子は笑う。
『いまだって、魂だけ抜けちゃってさ、半分お化けみたいなものでしょう? だからよ』
 女の子は、そして、じゃあね、と、手を振って、広がる夜空のどこかに行こうとした。
『待てよ。行くって、どこに行くの?』
『優しいひとを探しに行くの。それか、とても困っているひとや、悲しいひとを探しに。猫はそれを助けてくれるの。お友達だから』
『優しいひとや困っているひとや、悲しいひと?』
『そう。わたしたちは、「幸福の王子」なの。王子さまとつばめごっこしてるの』
 智史は母の持っていた童話の本を思い出す。丘の上に立っている王子さまの像とつばめのお話の、あれのことだろうか?
『ええと、あれはたしか、つばめが困っているひとを見つけると、王子さまがつばめを使って助けようとするとか、そういう話だったような?』
 王子は街で暮らすひとびとを愛し、その生活を見守り続けていた。冬の街には貧しいひとや困っているひとがたくさんいた。けれど、彼はひとの身ではなく、美しいだけのただの銅像。動けないその姿では何もできない。つばめは優しい王子に心打たれ、その願いに応えて、黄金で覆われ、宝石で飾られた王子の像の黄金と宝石を、くちばしでつつき、からだからいで、不幸なひとびとに配ってあげた。寒くても南の国へ渡らずに、王子のそばにいてあげた。街のひとびとは自分が誰から救われたか知らないままに救われ、幸福になった。一方で王子の像はみすぼらしい姿になり捨てられて、つばめは凍えて死んでしまう。そんなお話じゃなかったか。
(最期は、ふたりの魂は神様に救われるんだったかな)
 ふたりの魂は空へと迎えられていったような──。
 女の子は笑う。楽しげに。でもどこか涙をこらえているような表情で。
『わたしもずうっとこの街を見てきたの。そしてね、わたしもじきにこの街とお別れしなきゃだから、いまのうちにあの王子さまみたいに、不幸なひとを捜して、幸せにしたいなって』
 猫が、早く行こうというように鳴いた。
『この子は、優しい猫だから、わたしがしていることを見てて、手伝いを買って出てくれたの。わたし、猫が大好きだったから、とても嬉しくて。生きてるときは、ずっと病院に入院していたから、猫のお友達ができたの初めてだったの。猫っていいものね。さわれないことだけが、とても残念だけど』
 女の子は、猫を見つめて微笑ほほえんだ。
『とても優しくて、さわれなくても、あったかい感じがして、そばにいてくれると、ほっとするの。さみしくなくなるの。猫がいれば大丈夫、そんな気がする。不思議ね』
 女の子が軽く手を振って、夜空へ遠ざかろうとしたとき、智史はつい、そのあとを追って、自分も空を舞っていた。
 ベランダの向こうの、窓の中の、意識不明状態の自分のからだから離れるのは不安だったけれど、それよりも、女の子がとてもさみしげに見えたので、放っておけなかったのだった。
(というか)
 心の奥底で、猫が好きな優しい誰かとのさよならを繰り返すのはもう嫌だと、子どもの頃の智史がいっていたのかもしれなかった。

 幽霊の女の子は、智史がついてきたことを、喜んでくれたようだった。見た目の年齢そのままに、さえずるようにお喋りになって、いろんなことを話してくれた。幽霊の声は、どうせ誰にも聞こえないのだから、いいのよ、ということらしい。
 女の子は街の灯りを見下ろしながら、何かを見つけるたびに、ひらひらと蝶のように舞い降りていく。
 そして、誰かを探し、そのあとを追いかけては、白猫とふたり、そのそばに佇んで微笑むのだった。
 あるときは、進学塾が終わって、友達と一緒に教室を出て、バス停で帰りのバスを待つ子どもたちの傍らに、見守るように立つ。
 中にひときわ元気でよく笑う男の子がいる。元気すぎて、バス停にいるおとなたちにちょっとにらまれて、肩をすくめたりしたあと、かばんから本を取り出して、読み始めた。本にはしおりの代わりに、愛らしい子猫の写真がはさんであった。大切そうに写真を見つめて、男の子は物語の世界に入っていく。
 白い猫が優しい目で、男の子を見上げてると、男の子もちらと本から顔を上げて、しゃがみこみ、猫を撫でた。元気かい? と話しかけながら。
『その男の子にはね、きょうだいみたいに暮らしていた猫がいたの。でも病気で亡くなってしまってね。男の子はたくさん泣いて、泣き明かして、自分の手でどんな病気でも治せるひとになろうって決めて、動物のお医者さんになるために頑張ってるの。自分がおとなになったときには、自分みたいに大切な猫が死んで泣く子どもをなくしたいんですって』
 以前猫にそんな話をしたのだという。猫はそれを女の子に教えたらしい。
『そっか。優しいねえ』
 そこにいる男の子はただ明るく元気そうで、そんなに泣いたことがあるようには見えなかった。泣き明かした後に夢を抱いたことがあるようにも。やがてバスが来て、少年は白い猫に手を振り、友達にもさよならをいって、元気に駆けて乗り込んでいった。
 その背中に、女の子はおまじないをするように、その子には聞こえない言葉を投げかけた。
『あの子に、いざというときの幸運がありますように』
『──いざというときの幸運?』
 少しだけ恥ずかしそうに、女の子はいった。
『ええと、たとえば、そのう──ふたつの答えで迷ったときに、正しい答えを引き当てることができたりとか、そんな感じの幸運になるんじゃないのかな?』
『お。それ受験生にはなかなか役に立つような。試験問題にばっちりじゃん』
 智史は目を輝かせた。女の子は慌てたように、手を振った。
『待って。そこまでの力はないかも。──あ、でも、当たりくじ付きのアイスクリームで、当たりをほんの少しだけ引きやすくなるくらいの幸運なら、確実に贈れたと思うわ』
 女の子は胸を張る。
 智史はつい笑ってしまいながら、ふと思う。
 一心に勉強をし、時に亡くした猫のことを思い出して、辛くなったりするだろうあの男の子が、塾の帰りにコンビニで買ったアイスクリームで当たりを引いたりしたら、それは素敵なことじゃないのかな、と。
 それからまた、女の子は夜の街でひとを探す。白い野良猫を連れて。裏通りにある異国の料理の店の二階の、料理の匂いが上がってくる一室で、仕事の合間に疲れてテーブルにもたれかかって眠っている女のひとをそっと見守る。女のひとの手には、スマートフォンがあって、故郷の歌が流れている。テーブルの上には故郷が幸せだった頃の街や風景や亡くした家族の写真があり、目尻には涙の跡があった。
『戦争が続いている国から逃げてきて、家族と別れて暮らしているの。いつもは笑顔で、元気なひとなのよ。──戦争が終わって、故郷の国に、元気に帰れますように。強くて勇気あるあなたに幸運がありますように』
 心をこめて、女の子は祈る。
 その様子は、智史には、四つ葉のクローバーをそっと手渡す仕草のように見えた。
 子どもの頃、まだ母と暮らしていた頃に、そのひとが四つ葉のクローバーを配ろうとしていたのを覚えている。
 公園の一角の誰も気づかないような物陰に、ひっそりと四つ葉のクローバーの群生があって、それを智史が見つけて、母に教えたら、母は、大切そうに一本一本摘んだのだ。そして、まるで魔法使いが幸せの魔法を配るように、通りすがりのひとりひとりに、はい、と、クローバーを手渡したのだった。自分が誰よりも幸せになったような笑みを浮かべて。
 少しだけ、四つ葉のクローバーのある場所を秘密にしようと思っていた智史は、恥ずかしくなった。同時に、そのときの母の笑顔が、天使みたいで綺麗だとも思った。受けとったひとたちは、みんなびっくりしていたけれど、幸せそうに笑っていた。
 智史の母は、そういうひとだった。通りすがりの誰かをそっと見守っていて、その背中に、幸運になるようにおまじないの言葉を、そっと呟くような。
「だって、みんなが幸せな方がいいじゃない」
 そんな風にいったことがある。「自分だけ幸せでも、お母さんは楽しくないな。みんなが笑ってる方がいい」
 ほんとうに困ったひとだったけれど、いろいろとトラブルも絶えなかったけれど、それでも良いひとだったと、いまも昔も、智史は思う。
 眠る異国の女性は、幽霊の女の子が自分の幸運を祈ったとは知らないだろう。気づくはずもない。けれど、一瞬、その辛そうな寝顔が和らぎ、口元に笑みが浮かんだような──そんな風に智史には見えたのだった。

『今夜は最後に、あの古本屋の店長さんのところに行こうと思うの』
 その夜も終わる頃、商店街の一角を指さして、女の子は、つばめのように舞い降りていった。
 古い本が店の床から天井まで、いっぱいに詰まったその古書店には、気難しそうな顔のおじいさんがひとりいて、いつのものなのかわからない古新聞を折りたたみながら読んでいた。ラジオの音が静かに鳴っていた。お客さんは誰もいない。
 店に貼ってある開店時間と閉店時間を見ると、どうも午後から夜明けまで開いているお店のようだった。
 商店街のほかの店は、どれももう閉めてしまって、静かなさみしい雰囲気になっているのに、その一角だけは明るかった。
『このお店はね、灯台なんですって』
 優しい声で、女の子はいった。『前に、遅い時間にひとりでやってきた、泣きそうな顔のお客さんに話してたの。長い夜がさみしくて、街のどこにも居場所がないと思ったとき、ふとこの店の灯りを見て、やって来てくれたらいいと思って、店を朝まで明けてるんだ、だからいつでも、さみしいときは来ていいんだよ、って』
 にこっと笑った笑顔が可愛かったんだよ、と女の子は笑う。
 ほんとかな、と思ったとき、店にお客さんがやって来て、ちら、と視線を上げたお店のひとのそのまなざしの奥に、たしかに人好きそうないたずらっぽい笑みが隠れているような気がした。
『優しい店長さんに、いいことがたくさんありますように』
 女の子の透明な声が唱える。想いを込めて、そっと。いつの間にか、智史も、小さな声で、同じ言葉を呟いていた。
 さえずるように、女の子がいう。
『宝くじとか当てられる幸運をどーんとプレゼントできるといいんだけどな。でもわたしじゃあ、当たってもきっと三百円くらいな気がする……』
 智史は微笑む。きっとあの店長さんなら、宝くじで三百円当たれば大喜びで、その日一日ご機嫌なような気がして。
(俺、いつかこの店に来ようかな)
 灯台の灯りのようなあたたかな光の下で、店長さんと話してみたいような気がした。
 そして思った。よく知っているはずの商店街なのに、同じ街を行き交うひとたちなのに、こんなひとたちがいたなんて知らなかったなあ、と。ただ明るかったり、元気そうに見えていても、あるいはぶっきらぼうに見えていても、ほんとうのところは優しかったり、心に抱いた夢がそれぞれにあったりしたんだなあ、と。
(まあそりゃそうだよな)
 智史という人間だって、心に寂しさや傷や、想いをいくつも抱えている。その全てを表に出して生きているわけではない。
 夜景の明かりを見ながら、思った。
(みんなそれぞれに生きているんだなあ)
 幸せであってくれ、と思った。──ちょっと幽体離脱しただけの自分のような人間のおまじないに、わずかな力でもあるのかどうか、それはわからないけれど。
 ふと思った。昔、子どもの頃に、さみしい気持ちで、母とふたり暮らしていた頃。
 世界から見捨てられたような気持ちになって、心が凍るようだったけれど、もしあのときに、この女の子のような存在が──見えない小さな奇跡のような存在が、そばを通りかかり、小さな幸運をささやいてくれたとしたら、どれほど幸せだったろう、と。
 祈りの言葉が聞こえなくてもいい、優しさに気づかなくてもいい。ただそんな存在があれば救われただろう、と。
(あのときはたぶん出会えなかったけれど)
 でも今夜、こうして少女の祈りのそばにいたことで、十分幸せだと思った。
 世界はきっと、そうそう優しい場所ではなく、善意は報われず、夢は叶わず、わかりやすい幸運に出会うこともないだろうけれど、それでも見えない奇跡があることを知ったのだから、もうそれでいいと思った。四つ葉のクローバーを手渡すような、優しいその子がいるのなら。美しい空の下で、街のひとびとの幸せを祈ってくれると知ったのだから。

 最後の最後に、女の子は、商店街のはずれに、智史を誘った。
 そこにはちかけた古い洋館があった。廃病院だった。もうだいぶ使われていない、住むひともいない建物は、危ないので取り壊すことになったらしいと、何かで聞いたのを智史は思い出した。
 そして、はっとした。街のがわを向いた壁の一角に、女の子の絵が描いてあることに。
 白い帽子をかぶり、マフラーを巻いて、どこかさみしげな笑みを浮かべた、愛らしい女の子の絵。いまから街に出かけるところのような、そんな姿の。
 元は美しい絵だったのだろう。けれどいまは、洋館の他の部分と同じように、ひび割れ、あちこちが砕け、壊れ始めているようだった。
(そうだ、この絵だ。知っている)
 あれはいつのことだったか、かつて偶然にこの近くを通りかかった際になんでこんなところに肖像画みたいな絵が、と驚いたから記憶していた。女の子の絵が生き生きとして見えたから、わいそうになった。だから、覚えていた。
『わたし、この病院の子どもだったの。ここに住んでいたの。でも生まれたときからからだが弱くてね。いつも窓から外を見るばかり。遊びに行ってみたいな、いろんなひととお話をしてみたい。そんなことを思いながら、子どものうちに、死んだの』
 女の子は、静かにいった。
『両親はそんなわたしを不憫がってね。せめて姿だけでもこの街に立てるように、って画家さんに頼んで、絵を描いてもらったらしいの。──それから長い長い年月が経って。気がついたら、わたしは幽霊になっていたの。ちょっとだけ普通じゃない幽霊。この絵から生まれてきた、幽霊。ほんの少しだけの、魔法やおまじないを使うことができる幽霊になって、ここにいたの。
 両親も知っているひとたちも、もうずっと昔に亡くなってしまって、わたしはひとりぼっち。でもね、「幸福の王子」みたいに、街のみんなをそっと見守ることができるって気づいてからは、それなりに楽しくなったの』
 暗い商店街で、女の子はささやく。
『なんでわたしが、不思議な幽霊になったのか、それはわからないわ。わたしがそうなりたいと願ったわけじゃないから。──たぶん、もしかしたら、両親があんまりわたしのことが可哀想で、ここに絵姿を遺したことが、その原因なのかも。そうしてくれてよかったと思ってる』
 だけど、と女の子は、うつむいた。
『わたし、わかるの。この建物が取り壊されてしまったら、この絵がなくなってしまったら、いまみたいに街で暮らしていけなくなるってことが。魂が消えてしまって、こんな風に考えたり喋ったりもできなくなるってことが』
『消えてしまう?』
 その子は小さくうなずいた。
 きゅっと唇をんだ。けれどすぐに、笑って顔を上げた。
『だけど、お兄さんに今夜会えたから、だからもう、消えてしまってもいいや。そう思うことにする。ほんとはずっとずっと、大好きなこの街にいて、街のひとたちを見守って、幸せを祈っていたかったけれど。わたしに気づかない、気づいてくれなくてもいい、わたしはそれでよかったんだけど』
 わたしのこと、忘れないでね、と、女の子は、ささやいた。そっと微笑んで。
『この街に、わたしみたいな子どもがいたってこと、覚えていてね』
 夜が明けてきた。空が薄い金銀の光に包まれる中で、女の子は智史を見上げていった。
『お兄さんの幸せを祈るね。今夜わたしのそばにいてくれた、優しい優しいお兄さんに、いいことたくさんありますように』

 多少変わった不思議な幽霊でも、やはり朝の光とともに、その姿は消えてしまうのだろうか。女の子は、空に溶け込むように見えなくなった。
 あとには目覚めていく街の朝の賑に ぎわいの中に、智史の魂と、白い野良猫が残された。
 野良猫はため息をつくように肩を落とした。明るい光の中で見ると、猫は思ったよりも年老いて疲れて見えた。白い毛並みだって、薄汚れているし、あちこちの跡もある。
 うなだれている様子は、ひどくさみしげにも見えた。壁画の女の子をじっと見上げる様子を見ていると、この絵がなくなり、女の子が消えてしまったら、この猫はひとりぼっちに戻るんだろうなあ、と予想ができて、胸が痛くなった。ひとりぼっちで街に残される辛さは、智史には身に染みてわかったから。
 智史は、猫に声をかけた。
『よかったら、うちで休んでいくか?』
 猫はきょとんとしたように顔を上げた。
『なんか、さみしくなっちゃってさ。よかったら、来てくれよ。なんならずっと住んでくれてもいいぞ。たしかあの部屋、ペット可だったし。どっちみち、独り暮らしにはちょっと広すぎる部屋だったんだ』
 猫はわかったというように、目を細くした。ああやっぱり、猫はこんなとき、口元が笑ったように見えるんだなあ、と智史は思った。──いやほんとうに、笑ってないか? この猫。
 智史は微笑んだ。
『さて』
 マンションの部屋に置いてきた風邪引きの肉体のことを思う。いまからあっちに帰って、生き返らなければいけない。そんなことできるんだろうか、と思うと気が重くなる。そりゃそうだ。幽体離脱だって、そこから元に戻るのだって、初めての経験だもの。
『でもまあ、なんとかなるだろう』
 あの女の子が幸運を祈ってくれたんだし。
 猫がいるから、きっと大丈夫だろう。
 早く肉体に戻って、コンビニに猫缶を買いに行かなくちゃいけないし。
『とにかく、気合いと気力だ』
 何が何でも復活してやる。──真っ先にトイレに駆け込んでやるぞ。漏らしてなるものか。

 それから、数日が経ち。
 智史は病み上がりながら、起き上がれるようになった。
 あの夜のことを思えば、起こったこと全てがあまりにも現実離れしていて、夢だったような気がするけれど、でも、もう野良猫ではなくなった白猫がいまそばにいてともに暮らしていることを思うと、どうやら現実の出来事だったようにも思えるのだった。
 あの女の子とはその後、会っていない。
 商店街のはずれの古い洋館を訪ねてもみたけれど、まるであの夜が最後のお別れだったように、建物はもうれきの山と化していて、このどの部分にあの子の絵があったものか、それすらわからなかったのだった。
 すっかり元気になって、指先に力が戻ってきた頃、智史は新しいキャンバスを用意して、ひとつ息をすると、あの子の絵を描いた。
 記憶の片隅に残る、白い帽子とマフラーを身に着けた、冬のお出かけ姿の少女の絵だ。失われてしまった絵を、自分の手でよみがえらせてみようと思った。
 その頃には、親戚に頭を下げて、違う部屋に引っ越していた。もう少し街に近い賑やかな場所。古いけれど、もっと地上に近いフロアで、猫とのんびり暮らせる部屋で、いまの智史は暮らしていた。窓を閉めると外界の音が聞こえなくなった、前のマンションと違って、朝に昼に夜に、街の賑わいが聞こえ、誰かの暮らしの気配を感じられるような場所で、智史は久しぶりに絵筆を執った。
 自分には描ける、と思った。
(本物とそっくりの絵を描くのは、巧いのさ)
 あれ以来、先輩にはきちんと断って、贋作製作の世界からは足を洗った。
 まだ何も、これからのことは決めていない。絵を仕事にするとも、ただの趣味にするとも。ただ、これが久しぶりに描く、自分で描きたいと思った絵だった。
 夜の空と街の色でりをして、パステルであちこちにあたりをつけ、油絵の具を塗り重ねてゆく。やがてキャンバスの中に、あの子の姿が立ち上がった。洋館の壁に描かれていた絵と違うのは、桜色の唇に浮かべた笑みだった。
 あの、愛らしくもさみしげな笑顔ではなく、智史が描いた絵の中の少女は、月光を受けて笑う、明るく元気そうな少女になってしまったのだった。
「ま、これはこれでいいか」
 少なくとも、智史の記憶の中にあるあの子の笑顔は、崩れかけた洋館に描かれていた少女のそれではなく、いまここに生まれたそれの方によく似ていたから。
 どこまでも月の光の中を飛んで行きそうな、自由で幸せそうな女の子がそこにいた。
 描き上がった絵を見せると、白猫はじっと見つめ、智史を振り返り、猫の笑顔で笑った。

 その夜、不思議な夢を見た。
 母が訪ねてくる夢だ。母は若い姿のまま、ふらりと部屋を訪ねてくる。眠っている智史のそばに来て、子どもの頃によくしてくれていたように、頭をなで、抱くようにした。
 そして、炬燵布団の上でうたた寝している白猫に何やら話しかけ、微笑みかけた。
 振り返り、智史に何かいった。
 懐かしい声で、楽しげに何かいってくれた。
 気がつくと、朝だった。明るい部屋の中に、そのひとの姿はなかった。
 けれど、智史の頭には、懐かしいひとの手が触れた感触が残っていたのだった。
 耳の底に残る、はずむような声の響きとともに。

  *

本作は、2月4日発売の『猫さえいれば、たいていのことはうまくいく。肉球の巻』(ポプラ文庫)に収録されます。

■ 書籍情報
『猫さえいれば、 たいていのことはうまくいく。肉球の巻』

君さえいれば今日もしあわせ――
猫を愛する作家陣がすべての猫好きに贈る、
猫まみれの大好評アンソロジー第2弾!

■ 著者プロフィール
村山早紀(むらやま・さき)
1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。著書に「シェーラひめのぼうけん」「アカネヒメ物語」「コンビニたそがれ堂」「カフェかもめ亭」「花咲家の人々」「竜宮ホテル」「風の港」などのシリーズ作品のほか、『百貨の魔法』『魔女たちは眠りを守る』『不思議カフェNEKOMIMI』『さやかに星はきらめき』『街角ファンタジア』など多数。エッセイに『心にいつも猫をかかえて』、絵本に『みまもりねこ』(絵・坂口友佳子)がある。

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