退勤して裏の倉庫に入って、ロッカーに置いていたスマホを見たら、直樹のお母さんからメッセージが届いていた。
カーディガンを脱いでエプロンを外し、シャツの上にニットを着てコートを羽織る。
倉庫から出て、店長や他のパートのお姉さんたちに「お先に失礼します」と挨拶をする。店の中を通り、他の店の間を抜けて、従業員口からバックヤードに入る。各店舗の倉庫が並び、従業員用のお手洗いもあるのだが、節電のために最低限の電気しかついていないので、薄暗い。エレベーターを待ちながら、スマホを見る。
そこには〈三回忌ですが、家族だけでやることになりました〉と書かれていた。
つまり、直樹にとって血の繫がりとしても法律としても家族ではなかったわたしは、出席しなくていいどころか、呼ばれもしないということなのだろう。行かなくてはいけないものだと考え、喪服の準備をしていた。しかし、ショックを受けるのと同時に、安心する気持ちもあった。
来月の二十一日で、直樹が死んでから二年が経つ。
落ち込んで、何もできなくなり、少しずつ調子を取り戻し、働けるようになって、普通に生活していけると思えるまで、一年半くらいかかった。今でも、気分が沈む日はあるのだけれど、前みたいに何日もつづくわけではない。一番辛かった時には、悲しみと怒りが交互に押し寄せて、自分をコントロールできなくなった。そのうちに、ショートしたみたいになり、感情を動かそうとするだけで、指先から身体中が震え出した。リビングのラグに寝転がり、窓の外や天井を眺めるだけで、日々が過ぎていった。このまま死んでいくしかないとまで考えた。自分が知らない誰かになってしまったようだった。
二年間という月日は、短いのだろうか、長いのだろうか。
事故があと数ヵ月後で、婚姻届を提出した後であれば、わたしも家族として扱ってもらえたのかもしれない。けれど、三回忌に出席することに対し、気が重いとも感じていた。息子を亡くし、直樹のご両親は、今も精神的な混乱がつづいている。お父さんが被害者遺族の会にのめりこんだばかりではなくて、お母さんも以前の大らかさを失った。黄色いゴールデンレトリバーのぬいぐるみを渡された時、お母さんは帯付きの百万円が入った封筒をわたしに押し付けてきた。婚約中でも浮気に対し、慰謝料を請求できる。訴えるつもりなんてなかったのに、示談金みたいなものだったのだろう。「いりません」と返そうとしたら、「受け取りなさいっ!」と怒鳴られた。いつか全てが落ち着いてから返すつもりだったが、もらう権利はあるという気持ちになって、寝具一式に換えてしまった。
お墓は、都内にある。
命日の前後、休みが取れた時にひとりで行けばいい。
エレベーターで一階まで降りて、倉庫や物流の事務所やゴミ捨て場が並ぶ前を通り、守衛さんにバッグの中を確認してもらい、裏口から外へ出る。
建物の間を冷たく乾いた風が吹き抜けていく。
デパートの従業員は、出勤時の従業員証の提示と退勤時の持ち物の確認が義務になっている。休憩時間や退勤後にデパート内で買い物をした場合、レシートなどの購入した証拠が必要になる。古い建物だから、どこもかしこもセキュリティで守られているわけではない。その分、アナログなことで対応している。生活していけるように戻っていく中、こういった毎日の決まりや習慣になっていることが自分を作り直していってくれる気がした。
いつもは、そのまま広い通りに出てマンションに帰るのだが、今日は裏口のすぐ横にあるお客さまも使う入口から、デパートの中に戻る。エスカレーターで二階に上がり、璃子ちゃんの働く宝飾ブランドの店に入る。
他の売場とはガラスで仕切られ、香りどころか空気から違う気がする。
ゆとりを持ってガラスケースが並べられている。
パート帰りのスニーカーと色褪せた黒のパンツで入っていいところではないと思ったが、他にお客さんはいなかった。
「いらっしゃいませ」微笑みを浮かべ、璃子ちゃんが言う。
休憩室でお喋りしている時とは、声のトーンが違った。いつもよりも少し低くて、落ち着きが感じられる。
今日は、わたしも璃子ちゃんも早番で、一緒にごはんを食べにいく約束をしている。わたしの方が三十分ほど退勤時間が早かったから、その間に接客してもらうことにした。
「何か、お探しのものがございますか?」ガラスケース越しに、璃子ちゃんは声をかけてくる。
「うーん、ネックレスかブレスレットがちょっと見たくて」
誕生日やクリスマスに直樹から指輪やネックレスをプレゼントしてもらったことは何回かあったのだけれど、自分でアクセサリーを買ったことがなかった。高いものだとは思いながらも、値段をよく知らない。
シルバーだけのものであれば買えそうだが、やはりゴールドやプラチナや宝石の入っているものは、誰が買えるのだろうと思うほどに高い。
「ご自身でお使いになるものですか?」
「そうですね」
「どういったデザインのものがお好みですか?」
「シンプルで、日常的に使えるものがいいです」
「それでしたら、こちらはいかがでしょう?」
璃子ちゃんは、ガラスケースの中に飾られている、ゴールドの太めのチェーンにブランドのモチーフがぶら下がったデザインのブレスレットを手で指し示す。
「こちら、来シーズンの新作で、日本にはまだ数本しか入ってきていなくて、昨日届いたばかりのものなんですよ」
「もうちょっと細いものがいいです」
「では、こちらは、いかがですか?」隣にあるゴールドの細いチェーンに小さなダイヤのついたブレスレットを手で指し示す。
モチーフがぶら下がった太めの方は百万円以上するが、ダイヤの方は石が小さいからか二十万円もしない。高いものの後に値段の低いものを出すと、安く感じる。販売の基本的なテクニックだ。しかし、二十万円だって、充分に高い。
「お試しになりますか?」璃子ちゃんが聞いてくる。
「買わないよ」
「これで、高い方を買うお客さんだっているんだよ」いつものお喋りしている時の口調になる。
「そうなの?」
「デザインの好みもあるけど、見栄を張りたいっていう人もいると思う。ここに入ってくる時点で、それなり以上のお金を出せるお客さんだから。高い方を買えないとは言えなくなる」
「そうか」
「本気のオススメとしては、シルバーのこの辺りかな」ガラスケースの中に並ぶシルバーの細めのブレスレットを手で指し示す。
小さなルビーやアクアマリンのついているものもあるが、金額はどれも十万円しないくらいだ。それでも、買える値段ではない。誕生日やクリスマスに自分で自分にプレゼントすると考えても、無理だ。
「うーん」
「なかなか買えないよね。わたしだって、ここの給料じゃ、買えないもん」
「百万円のブレスレットって、どういう人が買うの?」
「お金持っていそうな男性が女性にプレゼントで買っていく。年齢は意外と幅広い。彼女にっていう人もいれば、水商売のお姉さんにっていう人もいる。たまに、わたしたちと同世代くらいの女性が買っていくこともある。都内の店舗だと、自分で買う女性の割合は増えるかも」
「そうなんだ」
同じデパート内だし、寝具店の客層とそれほど大きな違いはないだろう。寝具は生活に関わるものだから、恋人同士よりも夫婦や子供のいる家族が多いが、年齢層や男女比は近いと思う。
「あっ、時間になった。着替えてくるから、待ってて」そう言って、璃子ちゃんはレジ裏のドアを開けて入っていく。
わたしは、白い襟付きのシャツと黒いパンツというそのまま働ける格好で出勤してきている。璃子ちゃんは制服なので、着替えなくてはいけない。地下の休憩室横に従業員の更衣室があるが、この店はレジ裏に着替えられるスペースがあるようだ。
待つ間、店の中を見て回る。
奥には、婚約指輪と結婚指輪だけが入ったガラスケースがあり、直樹にもらった婚約指輪とよく似たデザインのものも並んでいた。
かつては「婚約指輪の相場は、給料の三ヵ月分」と言われていたらしい。だが、今は、もっと下がっているようだ。年齢によって差はあるみたいだけれども、四十万円しないぐらいが平均だとネットに書いてあった。もらう気もなかったからろくに調べもしていなくて、給料の三ヵ月分よりも高い指輪をもらってしまった。
直樹は、たまに高校や大学のころの友達とキャンプや釣りに行くぐらいで、お金のかかるような趣味はなかった。時計はお父さんにもらったものを使いつづけ、服装にも強いこだわりはない。オーソドックスで、長く使えるようなものを好んだ。仕事の付き合いで飲みに行くことはあっても、遅くならずに帰ってきた。車は欲しがっていたけれど、必要な時には実家の車やレンタカーを借りて、子供が産まれたら買うと話していた。同棲しはじめた時にふたりの口座を作り、結婚式と新婚旅行の資金を貯めていた。それとは別に、給料やボーナスから指輪を買うためのお金を貯めてくれていたのだ。
わたしの左手の薬指に指輪をはめて、直樹は本当に嬉しそうに笑っていた。もらっていいのか迷う気持ちがずっとあったが、その笑顔を見たら、良かったと思えた。同じぐらいの値段のものは難しくても、何か記念になるものをお返しにプレゼントして、死ぬまで彼のいい奥さんでいようと決めた。
高橋さんの奥さんと浮気していたのではなくて、何か事情があったのではないかという気がしてくる。
しかし、その事情を考えても、何も思い浮かばなかった。
どんな事情があれば、婚約者に噓をつき、知り合ったばかりの年上の女性と温泉旅館に泊まることになるのだろう。ミステリドラマじゃないのだから、隠された真実なんて、どこにも存在しない。
デパートの裏にインド料理屋があり、璃子ちゃんとはそこでごはんを食べることにした。
わたしはほうれん草チキンカレーとナンとマンゴーラッシーのセット、璃子ちゃんはひよこ豆のカレーとナンとビールのセットを頼んだ。ビールはインドのものなのかどうなのかよくわからない、青いラベルが貼ってある瓶だった。この辺りには、インド料理やタイ料理のお店がいくつかあり、どこも安い。顔よりも大きな焼き立てのナンがついてきて、セットで千円しない。
「婚活って、何してるの?」ナンをちぎってカレーにつけながら、璃子ちゃんに聞く。
今日は、璃子ちゃんの婚活と恋愛について、ゆっくり聞くと約束していた。
中学生や高校生のころや大学生になったばかりのころは、友達と恋愛のことを話していた。直樹と付き合う前は、学部やサークルの友達に「同じサークルの井上くんのこと、気になってるんだよね」と言ってまわっていた。そのころは、まだ苗字で「井上くん」と呼ぶのが精一杯という仲でしかなくて、他の誰かに取られないようにしたかった。仲良くなるために、みんなに協力してもらった。サークルの夏キャンプの時に、直樹の方から「今度、ふたりでどこか行かない?」と誘ってくれた時は、夢かと思うくらい嬉しかった。付き合ってからも、しばらくは友達に話していた。けれど、共通の友達が多かったため、あまり話さない方がいいという気持ちもあり、そのうちに話さなくなった。
こちらが話さなければ、向こうも話しにくいだろう。彼氏がいる同士で、悩みを相談し合うようなことはあっても、恋バナみたいなものから遠のいていった。二十代後半になってからは、まるで現役を退いたかのような扱いをされていた。彼氏欲しいとか婚活してるとか話す友達に「井上くんの友達で、誰かいないの?」と聞かれるぐらいだった。紹介できそうな人がいないか直樹に聞いてみても、「いない」という答えしか返ってこなかった。
すぐにではなくて、いつかまた恋愛をしようという気持ちになってきたものの、どうすればいいのかが全くわからない。
「今は、アプリがメインだね」璃子ちゃんは、グラスにビールを注ぐ。
「婚活向けの?」
「わたしが登録しているのは、婚活向けともう少しカジュアルに出会いを求めるもの」
「ふうん」
「婚活向けだと、結構年上の人が多いんだよね」
「そうなんだ」
「お父さんみたいな年齢の人や離婚して小学生の子供もいるような人からメッセージが届くこともある。二十代後半だと、男は女ほど結婚に焦ってないから」
「それは、あるかもね」
結婚よりも、出産のことがあるから、男性よりも女性の方が真剣に考えているだろう。友達も、二十代前半のころはもっと気軽に恋愛を楽しんでいたが、三十歳が見える年齢になって「遊んでいる場合ではない」と言い出した。ただ、直樹のことがあるため、わたしに詳しくは話しにくいようだ。気にせず話してほしいけれど、自分が相手の立場だったらと考えれば、難しいことは理解できる。
「見た目や趣味だけじゃなくて、年収や職業もわかるから、婚活向けの方が先のことは考えやすい。でも、わたし、年が上すぎる男の人って、あんまり好きじゃないんだよね。自分より上下三歳ぐらいがいい。そう考えると、カジュアルな方が好みの人はいる」
「でも、そっちだと、結婚には繫がらない」
「そう」
「結婚に繫がることが一番大事?」
「そうだね」
「その中で、一番重視する条件って、何?」
「お金」璃子ちゃんは、はっきりと言う。「わたし、短大しか出てなくて販売以外の仕事したことないし、もしも正社員になれたとしても、たいした給料はもらえない。専業主婦になりたいわけでもないけど、ある程度の余裕を持って子供を育てて、自分の好きなものも買うために、できるだけお金を稼いでいる人と結婚したい。東京の高級住宅街やタワマンに住んで贅沢三昧で暮らしたいとまでは言わないから」
「生活するために、お金は大事だよね」
「贅沢三昧できるんだったら、贅沢したいしね」
「うん」
わたしは四年制大学を出たものの、直樹の希望もあって、卒業後は正社員ではなくて派遣社員として働くことを選んだ。派遣であれば、契約外の残業や休日出勤は拒否できる。直樹の勤めていた会社は平均より給料が高くて、福利厚生もしっかりしていた。結婚して子供が産まれたら、わたしはしばらくは専業主婦になり、子供が小学生になってから扶養の範囲内で働くつもりだった。
SNSを見ていたら、男女の世代別平均年収という表が流れてきたことがあった。出産がそれほど関係ないような年齢、十代の終わりや二十代の前半から、男性よりも女性の平均年収の方が低い。そして、その差は、三十代から四十代へと年を重ねるうちにますます広がっていく。
寝具店の仕事を以前は一時的なものと考えていたが、勉強になることも多いし、わたしを頼りに来てくれるお客さまも増えてきたから、できるだけ長くつづけたいと思っている。しかし、結婚せずひとりで生きていくことを考えると、パートの給料では厳しい。派遣社員の時も、派遣切りということをたまに聞いたけれど、契約社員やパートも同じだろう。先のことは約束されていないし、正社員と同じだけの手当もない。
男性と同じように稼ぎ、自分のお金で百万円以上するブレスレットを買える女性は、どれだけいるのだろう。
「いつから彼氏いないの?」わたしから聞く。「あっ、プライバシーに関することだから、答えたくなければ答えないでいいよ」
「いいよ、気にせずに聞いてくれて」ビールを少し飲んで、璃子ちゃんはナンをちぎる。「彼氏、いるにはいるんだよね」
「えっ? そうなの?」
「一年くらい付き合ってる」
「その彼氏とは結婚しないの?」
「候補ではあるけど、もっといい人がいないか探してる」
「……どういうこと?」わたしは食べていた手を止めて、マンゴーラッシーを飲む。
「彼氏、二歳上で、顔も好きだし、そこそこ稼いでいて、条件はいいんだけどね。でも、女関係にちょっと不安がある。まだ結婚したいわけじゃないって感じだし。このまま二年くらい付き合って、別れることになったら最悪だから、常に他も探してる」
「女関係にちょっと不安って?」
「派手に遊んでるとかではないけど、デートしてる女の子は、わたし以外にも何人かいると思う。寝てもいる。わたしも、他の男の子とデートしてるし、お互いさまっていうところだね」
「璃子ちゃんも、他の男の子と寝てるの?」
それほど広くないお店で、席は半分くらいが埋まっている。隣の席はあいていて誰もいないが、思わず声を潜める。
「身体の相性は大事だよ」
「……そうか」
「ひとりと付き合って、身体の相性を確認して、同棲して生活面でも合うかどうか確かめて、今後について話すうちに、何年が経ってしまう? そんなことしてる暇はないの」
「そうだよね。それは、わかる」
来年には三十歳と遠いことのように考えるうちに年も明け、そんな先のことではなくなった。八月の誕生日まで、あと七ヵ月しかない。直樹と付き合ってから、他の男の人なんて見ることもなかった。結婚や出産がしたいのかどうか深く考えもせず、当たり前のこととして「この人と結婚して、この人の子供を産む」と思っていた。
恋愛がしたいと考えてもまだ先のことでしかなくて、結婚したいと強く願っているわけでもないが、子供は産みたい。
わたしは、キスもセックスも、直樹としかしたことがない。直樹は高校生の時に彼女がいたから、経験はあったものの、慣れているわけではなかった。ふたりで試行錯誤を繰り返し、ネットで見たことや友達に聞いたことも試し、反省会みたいなことをしていた時期もあった。回数を重ねてお互いを知っていくものであり、最初から相性の良し悪しなんて、わかるものではないだろう。
「沢村さん、何も言わないだけで、彼氏いると思ってた」スプーンを取り、璃子ちゃんはナンではすくいにくいひよこ豆を食べる。
「今は、いない」
「いつからいないの? もちろん、答えたくないことは答えないでいい。デパートの従業員のルールとかではなくて、相手の不快になることに踏み込まないのは、友達としてのマナーだから」
「ありがとう」手に持っていたナンを置いて、お手拭きで指先を拭く。
隠さずに話せばいいと思っても、直樹のことを言葉にしようとすると、喉の辺りが締め付けられたように苦しくなる。高橋さんとは話せるのだから大丈夫ではないかと思ったけれど、無理そうだった。記憶が過去に引っ張られ、涙が溢れてくる。
全てが平気になるには、二年間は短い。
ラッシーを飲んで、深呼吸をして、涙がこぼれ落ちないようにする。
「もう二年も前に別れてるのだけど、ちょっと事情があって、まだうまく話せないの。ごめんね」
「……そっか」
「でも、また恋愛したいとは考えていて、アプリとかも興味ないわけじゃないから、聞かせてほしい」
「いいよ、なんでも聞いて」璃子ちゃんは、笑顔でわたしを見る。
「……うん」
このお店には、直樹とも一度だけ来たことがあった。
ほうれん草チキンカレーは、辛い物が苦手な直樹がインド料理店で、いつも頼むメニューだった。辛さを選べても「ゼロで」と注文していた。前に来た時、わたしは何を頼んだのだろう。
「お酒は、飲まないの?」ビールを飲み終え、璃子ちゃんは二本目を頼むのか、メニューを見る。
「飲めないわけじゃないけど、そんなに強くない」
「どれくらい?」
「どうかな? ずっと飲んでないんだよね」
「いつから?」
「……彼氏と別れてから」
「そうか、今は聞かないでおく。飲めそうだったら、いつか飲みに行こう」
「うん、それで、お願いします」
「わたしは、もう一本飲む」
店員さんを呼んで、璃子ちゃんはインドのものなのかどこのものなのかわからないビールを追加で注文する。
マンションに帰って、お風呂に入ろうとしていたら、高橋さんからメッセージが届いた。
次の日曜日に会う約束をしているが、店を決めていない。
最初も二回目も決めてもらったのだから、わたしが決めるべきだろう。
自分の知っている店を何軒か送る。
恋愛しようにも、わたしの周りにいる独身の男性は、高橋さんと天野マネージャーぐらいだ。
だが、天野マネージャーはありえないし、高橋さんは恋愛対象として考えてはいけない相手だ。
電車で十分もかからないのに、久しぶりに海まで来た。
何軒か送った中から高橋さんが選んだのは、海沿いにある古民家を改装したカフェだった。日曜日は混んでいるかと思ったが、季節外れだからかすいていた。この辺りは、海水浴以外にも、桜や紫陽花や紅葉のころも混み合う。今の時季は、枯れた冬の山が広がり、サーフィンする人や犬の散歩をする人がポツポツといるだけだ。ランチタイムを少し過ぎているのもあると思うが、カフェは三割ほどしか席が埋まっていなくて、窓側の海が一望できる席に通された。
よく晴れていて、海は太陽の光を反射させ、輝いている。
「こういうお店、結構好きなんですよね。飲み物もスイーツもたくさんありますね」
楽しそうに言いながら、高橋さんはテーブルの端に立てかけられていたメニューを取り、ふたりで見やすいようにテーブルに広げていく。
定番のコーヒーや紅茶の他に、自家製のレモネードやジンジャーエールもあり、アルコールも各種揃っている。いちごを使った季節限定のホットドリンクとスイーツもあった。前に行った喫茶店とは違い、コーヒーも何種類かあり、ラテにしたりキャラメルソースを追加でトッピングしたりすることもできる。紅茶も、複数種類の茶葉が揃っていた。
奥に暖炉があり、店全体が暖かい。
外は寒かったから、甘くて温かいものが飲みたい気分だったのだけれども、冷たいものの方がいいかもしれない。ブルーベリーやラズベリーの入ったソーダが気になる。でも、キャラメルラテやミルクティーも飲みたい。前に来た時も冬で、季節限定のバタースコッチラテを飲んでおいしかったが、今年はないようだ。
「決まりました?」
「えっと、ごめんなさい、もうちょっと待ってください」
「いいですよ、焦らないで」そう言って、高橋さんはメニューをわたしの方へ向けてくれる。
「すみません。こういうの、なかなか決められないんです。彼にも、よく怒られてました」
「彼?」
「えっと、直樹、じゃなくて、井上です」
高橋さんと話す時、直樹をなんて呼べばいいか迷いがあった。今までは名前を出さないでも、どうにか会話が成立していた。奥さんのことを高橋さんは「妻」と言えるが、直樹のことをわたしは「夫」と言えない。「彼」では、今みたいに誰のことかわかりにくい時がある。違和感はあるものの、「井上」と呼ぶのが正しいだろう。
「井上さん、怒る人だったんですか?」
「怒るというか、呆れられる感じですね。怒鳴ったりすることはない人だったので。依里はひとりじゃ何も決められないんだからって言って、よく笑ってました」
直樹のものやふたりで使うものはすぐに決められるのに、わたしは自分だけのものをなかなか決められない。呆れて笑いながら、直樹が一緒に考えてくれた。ここで、バタースコッチラテを決めてくれたのも、直樹だった。
「僕は、呆れたり笑ったりしないので、ゆっくり決めてください」
「ありがとうございます」
改めてメニューを見て、自分の飲みたいものを考える。
来た時に考えていた通り、甘くて温かいものにしよう。
せっかくカフェに来たのだし、ちょっと特別感のあるものにしたいから、ホイップクリームの載ったキャラメルミルクティーにする。そんな浮かれたものを飲んでいいのかとも思ったけれど、高橋さんはそのことを悪く思うような人ではない。
「決まりました」メニューから顔を上げ、高橋さんに伝える。
店員さんを呼び、高橋さんはチョコバナナスムージーを頼む。スムージーもいいなと思ったけれど、わたしは決めていた通りの注文をする。
テーブルに広げられたメニューをまとめて店員さんに渡し、水を少し飲む。
「来月、三回忌ですよね?」高橋さんが聞いてくる。
「はい」
「行かれるんですか?」
「いえ、井上の家族だけでやるそうです」
直樹のお母さんに〈わかりました。ご連絡ありがとうございます〉とだけ、メッセージを返した。それに対する返信はないし、このまま連絡は途絶えるかもしれない。今後、連絡することがあるとしたら、わたしが直樹の残りの遺品をどうするか決めた時だろう。それだって、捨ててしまうのであれば、報告の必要もない。
「高橋さんは、行くんですよね?」
「僕も、今後は行かないことになりました」
「えっ?」
「夫として喪主もしたし、去年の一周忌は妻のお母さんに手伝ってもらいながら、どうにか執り行いました。ただ、妻の遺骨は、僕の実家の墓ではなくて、妻の実家の墓に入ってるんです。事故の状況もあって、うちの両親が拒否したので。急なことで、夫婦の墓なんて考えてもいなかった。それで、妻の実家の墓に入れることになりました。何回忌まですればいいのか決まりはないみたいですが、先のことを考えて、今後は妻の両親に任せることにしました。それでも、行くつもりではいたのに、来ないでいいと言われてしまった」
「難しいですよね、向こうの両親との距離感」
事故だったため、十二名もの人が亡くなったものの、すぐに保障や裁判といったお金の話がはじまった。直樹の両親も、生命保険の受取人はどうなっているのかと話していた。バス会社の運転手不足や労働環境の問題もあり、ただの交通事故では終わらず、裁判は今もつづいている。被害者それぞれの事情によって、起きた裁判もいくつかあるようだ。直樹の両親は、未だにわたしに訴えられる可能性を考え、高橋さんに訴えられることを恐れているのだろう。北斗には、高橋さんと会ったと話した時に「たかられたりするんじゃないの?」と聞かれた。うちの両親も、わたしの前では話さなかっただけで、訴えることも訴えられることも考えたのだと思う。
「被害者遺族の会は、事故が起きた場所にも行くみたいです」高橋さんは、水を少し飲む。
「そうなんですね」
「沢村さんは、事故現場には行きましたか?」
「……いえ」
被害者遺族の会に一度だけ参加した時、どういう場所だったか説明があり、住所も聞いた。
集まりがあった市民会館から、車で二十分ほどのところだ。見にいくと話す人もいたけれど、わたしは行かなかった。自分の感情がわからなくて、行きたいとも行きたくないとも思えず、直樹の両親に「先に戻ります」とだけ伝え、ひとりで新幹線に乗って帰ってきた。眠れない毎日の中で、思わず住所を検索してしまったことがあった。事故が起きた場所は、大きくカーブした山道で、何もないところだ。その先には、素敵な温泉街がある。雪の季節は特にロマンチックで、数年前から人気が出てきていると書いてあった。
飲み物が運ばれてきて、店員さんがテーブルに並べていく。
大きめの白いマグカップにホイップクリームがたっぷり盛られていて、キャラメルソースも零れるほどにかかっている。高橋さんのチョコバナナスムージーは、大きなグラスに入っていて、チョコチップがちりばめられていた。
「高橋さんは、事故現場に行ったことあるんですか?」
「いえ」首を横に振る。「いつか行こうとは思っているんですが、なかなか。簡単に行ける場所でもないので」
「そうなんですよね」
新幹線とバスに乗り、うちからだと五時間くらいかかる。
日帰りで行ける距離ではないため、直樹と高橋さんの奥さんが泊まった温泉街にでも、宿泊しなくてはいけなくなる。ふたりの泊まった旅館まで見にいくのは、さすがに無理だ。
「失礼なことを聞いてもいいでしょうか?」両手を膝に置き、高橋さんはまっすぐにわたしを見る。
「はい」
「答えたくないことは、答えないでいいです。それは、沢村さんと僕の基本的なルールだと考えています」
璃子ちゃんも同じようなことを言っていた。
けれど、わたしと高橋さんは、友達ではないし、同じバス事故の遺族というだけの関係でもない。
「井上さんには、うちの妻や沢村さん以外にも、付き合っている女性はいたのでしょうか? 沢村さんよりも前の彼女ということではなくて、同時に複数人の女性と付き合うような人だったのでしょうか?」
「……えっと」
「ごめんなさい、答えなくていいです」顔の前で、手を振る。
「いえ、大丈夫です。ただ、ちょっとだけ待ってください」気持ちを落ち着けるために、ミルクティーを少し飲む。
「無理せず」
「大丈夫です」小さく息を吐く。「多分ですが、井上が付き合っていたのは、わたしだけです。接待とかとは別で、仕事の後でたまにごはんに行くぐらいの女性はいたみたいです。会社の後輩や同期であって、仕事の相談をするためです。相手に勘違いさせないように気をつけ、最初から最後までふたりきりということにはせず、途中からでも誰かを呼んでいたということは、彼の同僚から聞きました」
事故の後、直樹と高橋さんの奥さんがいつごろ知り合ったのか確かめた時に「浮気していたとは思えない」という話として、そう聞いた。
「そうですか」
「わたしも彼の同僚や友人も知らないところで、女性と会っていたということもないと思います。結婚式と婚約指輪のためにお金を貯めてくれていたし、遅くなる時は必ず連絡があったから、金銭的にも時間的にも難しい気がします。それでも、出張の時に大阪や福岡で会っていたとしたら、わたしにはわかりません。けど、もしも会っていたとしても、性的な関係があったとは考えにくいです。性に関する話なので、気分を害するようであれば、おっしゃってください」
「気にせず、どうぞ」
「わたしと井上は、大学一年生のころからの付き合いです。まだ十代で、お互いに性的な行為に不慣れなころから、ずっと一緒にいました。ふたりで時間をかけ、行為に慣れていったんです。もしも井上が他の女性ともそういうことをしていたのであれば、わたしは気づいたと思います」
親しいわけではない男性に対し、何を話しているのだろうと思うが、ずっと誰かに話したくて話せなかったことだ。
「お付き合い、十年近かったんですか?」
「十九歳になる年の夏から二十七歳の冬までなので、八年半くらいです」
「そうか」驚いたような顔をして、高橋さんはチョコバナナスムージーを飲む。「うちは、知り合ってすぐに結婚しました。だから、四年くらいです。妻は仕事先に何日も泊まりこんだり、アートや英語の勉強のためと言って何ヵ月も海外に行ったりしていたので、ふたりでいた時間は、とても短い。実質、数ヵ月というところです」
「そうなんですね」
「気にしないでください。変な質問をして、申し訳ない」グラスを置き、頭を下げる。
「いえ、聞きたいことがあれば、なんでも聞いてください」
強い風が吹いたみたいで、窓が微かに音を立てて揺れる。
さっきまで晴れていたのに、どこからか流れてきた雲が空を覆っていた。
空も海も、灰色に染まっている。
朝から天野マネージャーが店に来ている。
レジカウンターに入り、店長に向かって、販売の仕事について語りつづけている。声が大きくて、よく響く。お客さまが少ないため、他の売場まで聞こえているだろう。デパートという品が失われていく気がした。
ここでパートをはじめたころは、タメになる話が聞けるかもしれないと思い、店長の横に並んで立って聞いていた。だが、とにかく盛り上げて断れない雰囲気を作り、無理やりにでも買わせればいいという話しか出てこなかった。わたしにはマネできないと感じ、聞くのをやめた。昭和から平成の初期ころまでは、布団の訪問販売というものがあったらしい。アポイントメントを取らずに家に押しかけ、掛け布団のクリーニングや敷き布団の打ち直しが格安でできると言って上がりこみ、布団を見せてもらった後で「この布団は、もう駄目だから」と話し、高い羽毛布団や敷き布団を売りつける。そういうイメージがあるのか、寝具店を「怪しい商売」と考えるお客さまもいる。天野マネージャーのノリを見ていると、それもしょうがないという気がしてくる。
パートのお姉さんは届いた商品をバックヤードの倉庫に運んでいったので、わたしは店頭に立って枕やタオルの整理をする。
「すみません」
お客さまに声をかけられ、手にしていた枕を棚に戻す。
声がした方を見ると、山崎さまだった。
去年の終わりに「毛布、見つかりませんでした」と連絡をしたのだけれど、次に繫げることができなかった。もう来てもらえないだろうと思っていた。
「いらっしゃいませ!」驚いてしまい、声が大きくなる。
「あの、前にも来て、お電話ももらって」山崎さまは、わたしの声に少し驚きつつ、そう言う。
「はい、憶えています。あの時は、毛布を見つけられず、申し訳ありませんでした」
「いえ、いいんです。今日は、何か別のものが買いたいと思っていて。前の毛布は諦めて、別の愛着を持てるようなものを。なかなか難しいと思うんですけど」
「わかりました。ご相談させていただきたいので、奥にどうぞ。お荷物は、こちらのカゴをお使いください」
一番奥のベッドにご案内して、座ってもらう。
そこで待っていてもらい、わたしはレジカウンターに入り、引き出しに取っておいた山崎さまのアンケート用紙を出して、バインダーに挟む。
ベッドの方に戻り、山崎さまの前に跪く。
「変なお願いで、ごめんなさい」山崎さまが言う。
「大丈夫ですよ。気になっていたので、来ていただけて安心しました」
「捨ててしまったのは自分だし、前の毛布は諦めることに決めました。いつまでも執着していると、ドンドン気持ちが沈んでしまう」
「そうかもしれませんね」
はっきりと「そうですね」と言うのは失礼になる気がしたから、ぼんやりとした肯定にしておく。
「あの毛布以外、寝具にこだわったことってなかったんです。全く考えていなかったわけでもないんですけど、ネットでいいと言われているものだったり、その店の人気商品だったり。多分、いいものではあるんでしょう。でも、わたしには合わないと感じることもありました。それを特に考えもせず、使いつづけていた」
「そういう方、多いです」
SNSやネットニュースやテレビの情報番組を気にして見てみると、寝具や睡眠の環境に関する情報は溢れている。寝具メーカー以外にも、家具の専門店やショッピングモールのプライベートブランドがオリジナルの寝具を発売している。「肩こりが楽になる」や「いびきが軽減される」など、アピールするポイントは様々だ。スポーツ選手が宣伝するもの以外にも、芸能人が使っていると話していたものが欲しいというお客さまもいた。「SNSでバズっていた枕」と画像を見せてくる方もよくいる。
それらは、その人にとっては合うもので、いいものではあるのかもしれないが、自分にも合うとは限らない。
「ちゃんと考えて、自分に合うものを揃えてみたいって、考えています」
「一式、お考えですか?」
「何から買うといいとかって、ありますか?」
「そうですね」
アンケート用紙を確認する。前に来た時、毛布のこと以外に、睡眠の環境や使っている寝具についても、答えてもらっている。マットレスは高校を卒業して進学のために上京して、東京で暮らしはじめた時に買ったもので、十年近く使っている。スプリングの入った硬めのものだ。枕は何度か買い替えているが、合うと感じたことがない。掛け布団は、捨ててしまった毛布の他に羽毛布団と夏用のタオルケットを持っている。
山崎さまは、わたしよりも細い。細いというよりも、薄いと感じる。骨格もあるが、筋肉量が少ないのだろう。長い手足は簡単に折れてしまいそうだ。硬めのスプリングでは、寝返りが打ちにくいだろう。バネの力が強すぎるため、細く薄い身体で筋肉質の力の強い男性にぶつかりにいっているようなものだ。眠れないと話していたのは、毛布のせいばかりではなくて、これも原因かもしれない。まずは、マットレスとあわせて枕をオススメする。掛け布団は冬は羽毛でいいから、暖かくなってから薄掛けの購入を相談させてもらうのがいい。
「あの、あれって、なんですか?」山崎さまは、隣のベッドのマットレスにかけられているムートンシーツを指さす。
シーツといっても厚みがあるため、マットレスの上に羊の毛皮の敷き布団が重ねられているような状態だ。ベッドのどれか一台に必ず、ムートンシーツを敷く決まりになっている。今は、柔らかくもなく硬くもない、一番多くのお客さまにオススメしやすい茶色のものが敷かれている。
「寝てみます?」
「いいんですか?」
「はい、ちょっとお待ちください」
棚から、山崎さまに合いそうな柔らかめのビーズが入った枕を取ってきて、ムートンシーツの上に置き、不織布をかける。
商品をオススメする順番というものがあり、うちの店では枕が最初で、その次がマットレスで、その次にムートンシーツという順番になっている。掛け布団は、話の流れ次第で、マットレスの後にオススメする。
いきなりムートンシーツに寝てもらうことは基本の順番とは違うのだけれど、気になっているものを「駄目」とも言えない。
「どうぞ、寝てみてください」
「本当にいいんですか?」
「大丈夫ですよ」
「うわっ、すごい!」ムートンシーツに触り、山崎さまは目を輝かせる。
ブーツやコートなどに使われているムートンよりも毛足が長いので、動物に触っているという感覚は、より強くなる。ニュージーランド産の食肉加工される羊の毛皮を輸入して、日本国内の工場で繰り返し洗浄したものを染色して毛足を揃え、シーツにしている。何年も工場に勤める人たちによって、ほとんどの工程が手作業で作られている。
そのため、値段は、とても高い。
毛足が短くて、毛の密度も低いものであれば、シングルサイズで税込み二十二万円からあるが、百万円以上のものもある。
羽毛布団は、五万円くらいで、軽くて暖かいものが買える。なので、百万円や二百万円やそれ以上する羽毛布団が売れることは、年に数回しかない。同じように、ムートンシーツにも、安価なものがないわけではない。しかし、国産品ではなかったりする。ものにもよるのだけれど、海外で作られた安価なものは、羊の獣っぽいにおいが残っていたりするらしい。また、うちの店で扱っているものは、メンテナンスやクリーニングの対応もできるため、長く使える。何よりも寝心地が良くて、雲の上で寝ているようとたとえられる。高くても、買う方は驚くほどに多い。
「気持ちいいですね」山崎さまは、ムートンシーツに仰向けで寝る。
「寝返りを打ってみてください」
「ああっ! すごい楽」
「羊の毛は、一本一本が巻いているためバネの役割をして、寝返りを助けてくれるんです」
「へえ、そうなんですね」
「マットレスに重要なのは、体圧分散なんですが、その点でもムートンシーツは優れています」
「体圧?」寝返りを打ち、ベッドの横に跪くわたしの方を見る。
「綿の敷き布団などは、面で身体を支えているんですね。身体には凹凸があるため、出っ張っている部分や腰などの重い部分に力がかかりやすくなります。そうすると、寝て身体を休めているのに、腰を痛めてしまったりすることがあるんです。スプリングのマットレスでも、硬さの合わないものだと身体がバランス良く沈み込まないので、近い状態になります。硬いと腰が浮いてしまい、柔らかいとお尻が沈んでしまう。点で支えるようにすると、圧力を分散させることができるので、腰痛が起きにくくなります。寝返りを助けるバネの機能がスプリングのマットレスになって、体圧を分散させる機能がウレタンの凹凸のある敷き布団になっているという感じでして、ムートンシーツはその両方を兼ね備えています」
勉強しているのだけれど、枕もマットレスもなかなか売れないわたしには、ムートンシーツをオススメする機会はたまにしかないため、うまく説明ができない。自分でも使っているくせに、バネや体圧分散のことを理解しきれていなかった。説明すればするほど、自信がなくなっていく。
質問されても答えられないから聞かないでと願っていたら、レジカウンターから出てきた天野マネージャーがわたしの横に来て、座りこむ。
「どうですか? いいでしょ」驚くほどの大きな声で聞く。
「ああ、はい」山崎さまは明らかに引いている小さな声で答え、起き上がる。
「お値段って、もう聞かれました?」
「いえ」
「これね、春から値上がりするんですよ。今、スーパー行っても、色々なものが値上がりしてるでしょ。だから、買うんだったら、今ですよ」
「そうなんですね」
「今日、買われるようであれば、できるだけ早くお届けできるように、対応します」
「……あっ、いや」
どう見ても、山崎さまは困惑しているのに、天野マネージャーは気づいていない顔をしている。多分、気がついてはいるのだ。わかっていない顔で話を進め、断れないところに追い込むのが手口なのだから。
「色って、こちらがいいですか?」
「他の家具が白っぽいから、これはちょっと色が濃すぎるので……」
「沢村さん」天野マネージャーは、わたしの方を向く。「ここって、これのベージュは置いてないの?」
「ないです」
同じ商品で、違う色もあるが、ここには置いていない。
希望するお客さまがいる場合、カタログを見て選んでもらう。
「カタログ、お持ちして」
「はい」
「いえ、あの、いいです」慌てたように、山崎さまが言う。「今日は、買いません。もう帰りますから。もともと、今日すぐに何か買おうというつもりはなかったんです。試させてもらいたいっていうだけで。仕事が午後からで少し時間があって、寄っただけなんです」
「そうですよね」わたしはレジカウンターに行こうとしていたのをやめて、バッグの入ったカゴをベッドの横に置く。
「ごめんなさい。また来ます」バッグを取り、靴を履く。
「気にせず、いらっしゃってください」
逃げるように帰ろうとする山崎さまを入口までお送りする。
天野マネージャーもついてきて、わたしの横に立つ。
山崎さまがエスカレーターの方へ行き、後ろ姿が見えなくなるまでお見送りする。
「沢村さんっ!」天野マネージャーの怒鳴り声が頭上から降ってくる。「何、考えてんだよっ! 帰さずに、買うって言うまで場を盛り上げるのがパートの仕事だろっ!」
「はい、すみません」頭を下げる。
「いつまで経っても、売上もないっ! 簡単にクビにできるんだからなっ! 来月のシフト、まだできてないし、すぐに辞めてもらってもいいんだよ。いなくても、どうにかなるんだから」
「いえ、つづけさせてください」
辞めてしまってもいいのではないかと思うが、ここで働きはじめて、もうすぐ一年が経つ。
そんな簡単に、決められるわけではないだけの関係性は、店長やお客さまとの間にある。
天野マネージャーの怒りが収まらず、店の雰囲気がどうしようもないくらい悪くなってしまったため、店長に「先に、休憩に行ってきて」と言われた。行っていいのかと迷っていたら、天野マネージャーは「休んでる場合じゃねえよなっ!」とわかりやすくキレていた。店長が「休憩は、勤務時間に対して取ることが決まっているので」と言ってくれた。
いつもよりも早いため、休憩室はすいている。
端の席でお弁当を食べながら、辞めることを考える。けれど、天野マネージャーや本社の人が来ない日であれば、何も不満はないのだ。店長は上司に対して「はい、はい」と言うばかりではあるけれど、ちゃんと守ってくれた。辞めたところで、何ができるのかという問題もある。また派遣社員に戻り、事務の仕事をした方がいいのだろうか。資格でも取ればいいのかもしれない。三十代は、直樹の奥さんとして生き、母親になると思っていた。その未来がなくなったのだから、どうしていくのか考えなければいけない。
高橋さんの奥さんは、空間デザイナーとして人気があり、有名だったようだ。事故の時も、ネットニュースに「人気デザイナー」と書かれていた。見てはいけないと思いながら検索したら、手掛けたデパートのウィンドウディスプレイの画像や本人のインタビュー記事が出てきた。お洒落でキレイな人だ。好きなことをして稼ぎ、百万円のブレスレットだって、自分で買える人だったのだろう。
「お疲れさま。ここ、いい?」早苗さんが来て、隣に座る。
「お疲れさまです。どうぞ」
「怒られてたね?」
「見られてました?」
「掃除しながら、少しだけ」
「お恥ずかしい」
「ああいう人、ここのデパートには結構いるから」
「そうなんですね」
「上司が男性、売場に出るのは女性っていうお店が多いでしょ」話しながら、早苗さんはお弁当箱を広げていく。
二段のお弁当箱で、彩りと栄養バランスを考えた野菜中心のおかずが詰められている。下の段のごはんには、鶏ひき肉と卵の二色のそぼろがかかっていた。
「そうですね」
「ここで働く女性は非正規が多いから、いきなりクビにされる可能性を考えて、言い返せなかったりする。労働局に訴えた人もいたけど、証拠が足りないとか言われて、動いてもらえないみたい。男性は、好きなだけ怒鳴ることができる。ずっとその環境にいると、自分は偉いって、勘違いしちゃうんだろうね」
「はい」
デパートには、非正規で働く女性がたくさんいて、売場を支えている。
女性たちがいなければ、営業していくことが難しくなるのに、そのことを考えることもできない男性はいる。売場に出ている男性もいるし、物流や警備は男性が多い。性別だけの問題ではないのだけれども、うちの店に限れば、女性だけの方が楽しく平和に営業していけている。ベッドや棚を動かす時だって、ふたりいれば持ち上げられるから、男性を必要とすることもない。本社の人や天野マネージャーがヘルプで来た日に、売上が大幅に増えるということもなかった。
「音楽、好き?」早苗さんが聞いてくる。
「うーん、普通に聴くという程度です。詳しくはないです」
「わたし、クラシックギター弾いてるのね」
「えっ、すごいですね」
「それで、駅の向こうにあるカフェで、たまに演奏させてもらってるの。今度、良かったら見にこない?」
「行きたいです!」
「趣味でしかないし、コンサートなんて言えるほどのことじゃないけど、ごはん食べながら気軽に見られる感じだから」
「楽しみです」
「気分転換にもなるでしょ」
「……はい」
早苗さんに気を遣わせてしまい、恥ずかしくなってくる。
でも、おかげで、楽しみに思えることに誘ってもらえた。
恋愛や仕事のことばかり考えるのではなくて、趣味を持ってみるといいのかもしれない。
集中できることがあれば、気持ちを切り替えられる。
デパートで働いているだけよりも、出会いもあり、何かが変わっていくだろう。
■ 著者プロフィール
畑野智美(はたの・ともみ)
1979年東京都生まれ。2010年「国道沿いのファミレス」で第23回小説すばる新人賞を受賞。13年『海の見える街』、14年『南部芸能事務所』で吉川英治文学新人賞の候補となる。著書に『夏のバスプール』『タイムマシンでは、行けない明日』『ふたつの星とタイムマシン』『消えない月』『大人になったら、』『水槽の中』『神さまを待っている』『若葉荘の暮らし』『ヨルノヒカリ』など多数。最新刊は『世界のすべて』。