ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 小説連載一覧
  3. 今夜も、眠れない
  4. 今夜も、眠れない 第八話

今夜も、眠れない 第八話

 お皿やお茶碗やマグカップ、食器はほとんどのものがふたり分ずつ揃っている。直樹なおきの使っていたものは全て捨てようと決めてゴミ袋を用意したものの、わたしのものだけになると、足りないのではないかという気がしてくる。お茶碗やお箸は捨てるとしても、お皿は引っ越し先に持っていってもいいのかもしれない。
 今月末、デパートの寝具店は閉店する。
 閉店後も、片付けがあるため、六月のはじめはデパートに出勤する。十日が締め日なので、十一日からショッピングモールの店舗に正式に異動する予定だ。
 店の片付けが終わってから十一日までの間で、引っ越しをすることにした。
 大学を卒業してから七年以上住んだ部屋なので、直樹のもの以外にも、捨てなくてはいけないものがたくさんある。引っ越し先はワンルームアパートで、ここよりも狭いため、家具や家電も買い替えが必要だった。
 慌てないでいいように準備しているけれど、なかなか進まない。
「服とかより、こっちが欲しいかも」北斗ほくとは、リビングの本棚の前に立ち、漫画を一冊取る。
 直樹の服や靴やカバンを捨ててしまう前に、北斗に「欲しいものがあれば、持っていって」と連絡した。北斗の方が直樹よりも数センチだけ身長が高いが、着られるものもあるだろう。ネクタイやカバンは、買ったばかりでほとんど使っていないものもあった。
「持っていっていいよ」
「多くなりそうだから、宅配便で送る。使っていい段ボール箱ってある?」
「これでいい?」寝室に行き、段ボール箱を取ってくる。
 引っ越し屋さんからもらったのの他に、実家や直樹の家に送るものを詰めるために、寝具店で廃棄するはずだった段ボール箱をもらってきた。
「ありがとう」座り込んで、北斗は段ボール箱の底にガムテープを貼り、漫画を詰めていく。「そこの山も、もらっていく。あと、釣りやキャンプに使っていた道具って、ないのかな?」
 リビングの隅に、Tシャツとネクタイの山ができていた。
 亡くなった人のものだし、「いらない」と言われるかと思っていたが、気にならないようだ。
「平気なんだね」
「何が?」
「嫌がる人もいるでしょ」
「オレ、霊とか信じてないし、直樹さんの霊だったら、出ても構わない」
「そういう問題だけじゃなくて……」
「何?」手を止めて、北斗はわたしを見上げる。
「姉ちゃんを裏切った男みたいには、思わないの? 北斗は、事故の時も、そういうこと言わなかったよね」
「思わないわけじゃないけど……」
「けど?」
「裏切ったとは、考えられなかったから」
「そうなんだ」
「もともと、ちょっとぐらい浮気しておいた方がいいんじゃないかって思ってたし」
「どういうこと?」
「弟のオレから見ても、不思議になるくらい、直樹さんは姉ちゃんのことを大事にしてた。オレのこと、かわいがってくれるのも、姉ちゃんの弟だから。付き合って何年経っても、ずっと姉ちゃんのことを好きでいる。そこまで価値の高い女ではないのに。他でもないオレが言うんだよ」
「……自分でも、そう思うことはあったけど、もうちょっと違う言い方にして」
 もてるタイプではなかったけれど、直樹のことを気にしている女の子は、わたしの他にもいたはずだ。大学生の時は、わたしと別れたという話が広まった瞬間に、後輩から誘われていた。サークルに入ってきたばかりの後輩が「直樹先輩って、彼女いるんですか?」と、わたしに聞いてきたこともあった。会社でも、同じようなことはあっただろう。他の子ともちょっと付き合ってみたいと考えたりしないのかと思ったが、ないようだった。
「大丈夫だよ、姉ちゃんも育ちはいいし、かっこよくて頼りになる弟もいるんだから、それなりに価値は高いって」
「さっきと言ってることが違う」
「中の上くらい」笑いながら言う。
「もういいよ」
「恋は盲目とか言うけど、他が見えてないのって、危ない感じがするじゃん」真面目に話す表情に戻り、北斗は漫画を詰めていた手を止める。
「そうだね」
「結婚する前に、他の女の人も見ておいた方がいいんじゃないのかなって、思ってた。本人には、言わなかったけど。だから、女の人と一緒だったって聞いた時には、直樹さんでも揺らぐことがあるんだって、安心するような気持ちにもなった。弟としては、怒りみたいなものも覚えたよ。でも、男同士としては、そういうこともあるかなぐらいに考えてた」
「ふうん」
「事故の時は、オレだってショックだった。けど、姉ちゃんの気持ちを考えたら、オレが落ち込むことなんてできなかった。直樹さんの代わりに、姉ちゃんを守らないといけないっていうことだけ考えてた」
「うん」
「正直に言ってしまえば、まだよくわからないんだ。仲良くしてもらっていたから、ずっと寂しい」
「……そうだね」
 寝室に行き、クローゼットを開ける。
 左側、直樹のスーツやコートがかけられている下に、衣装ケースがある。そこには、キャンプ道具や釣りに使っていたルアーが入っている。大きなものは、この部屋には置けないから、実家に置かせてもらっていたはずだ。
 衣装ケースを出して、リビングに持っていく。
「この中も、欲しいものあれば、持っていって」
「やった」嬉しそうに言う。
 遺品をもらうことを喜ぶなんて、不謹慎ではないかと思ったけれど、今でも直樹は北斗のいいお兄ちゃんなのだろう。
「服やカバンは、もういい?」
「うん、スーツや靴はサイズがビミョーに違うから。仕事用のカバンはあるし」
「わかった」
 洗面所で手を洗ってから、寝室に戻る。
 キレイな段ボール箱を選び、底をガムテープで留める。
 その中に、直樹のスーツやワイシャツとカバンを詰めていく。スマホやワイヤレスイヤホンは、壊れないようにタオルで包む。最後に黄色いゴールデンレトリバーのぬいぐるみを入れる。
 生活用品や着古したシャツや一緒に使っていた食器などは、わたしが処分することにした。直樹だけのもので、まだ使えるものや思い出の詰まっているようなものは、直樹の実家に送る。スマホでメッセージを送っても、やり取りが進まない気がしたため、手紙を入れる。そこには、わたしの現状や今後のことと事故の後にいただいた百万円を返したいということを書いた。すぐに返事をもらえないとしても、直樹のご両親の気持ちが落ち着く日まで、待つと決めている。
 百万円は、寝具一式に換えてしまったけれど、結婚式と新婚旅行のためにふたりで貯めていたお金のうち、わたしが貯めたと思える分を計算して用意した。直樹が貯めたと思える分についても、百万円とあわせて返すつもりだ。婚約指輪だけは、捨てることも売ることも他の誰かに渡すことも考えられないから、持ったままでいる。
引っ越しにかかる費用を考えると、わたしに残されるお金は、ほんのわずかでしかない。
 でも、どうにかなると思えている。
 ひとりでは何もできなくて、直樹を頼っていたころとは、もう違うのだ。
 
 休憩室で、隣に座る璃子りこちゃんがわたしのお弁当をのぞきこんでくる。
「何? 何か欲しい?」
「卵焼き、めっちゃ焦げてない?」
「……ああ、うん」
 真っ黒になったりしているわけではないが、黄色いはずの卵焼きが全体的に茶色っぽくなっている。一番外側は、完全な茶色だ。
「失敗したの?」
「失敗というか、こういうものというか」
「どういうこと?」
「味を変えたんだよ。今までは顆粒だしとか塩を入れてしょっぱくしてたの。今日のは、甘くするために、はちみつを使った」
 子供のころ、母親の作ってくれた卵焼きは甘かった。砂糖で味付けすることが多かったが、はちみつを入れることもあった。しっかり混ぜて、火力に気を付けても、はちみつの入った卵液は焦げやすい。火を弱くすると、フライパンにくっついてしまう。しかし、焦げた部分はカラメルみたいになり、プリンやカステラのような味になる。これがおいしいのだけれど、見た目はあまり良くない。
「なんで急に味を変えたの? 彼氏できたとか?」
話しながら、璃子ちゃんはコンビニで買ってきたハムレタスサンドを食べる。
「違う」首を横に振る。「むしろ逆かな」
「逆?」
「自分の好きなものを作ろうと思って」
「ふうん」
「あと、料理の味を変えるなんて、そんな大袈裟に考えることじゃないんだよ。自炊してれば、たまには違う味を試してみることなんて、よくあるからね」
「……そうか」
「そう」
 卵焼きの他にも、自分の作ってきた料理の味を変えていくことにした。変えてみて元に戻す場合もあれば、新しい味に出会うこともある。引っ越しを機に、生活についても、改めて考えていくつもりだ。新しくする家具や家電は、自分の好みとこれからの生活に合ったものを選びたいから、決まるまでに時間がかかりそうだ。しばらく不便かもしれないけれど、焦らないようにしたい。
「わたしも、ちゃんと料理しようって考えてんだよね」璃子ちゃんは、野菜ジュースを飲む。
「婚活?」
「婚活、もうやめる」
「なんで?」
「色々な人を見たけど、結局は今の彼氏がちょうどいいかなって思って」
「でも、相手は、結婚に前向きではないんだよね?」
「前向きになってもらうために、料理をがんばる。胃袋を摑んで、家庭という雰囲気を出していく」
「やめた方がいいよ」
「えっ! どうして?」意外な返しだったのか、璃子ちゃんは驚いた顔をする。
「だって、料理好きなわけじゃないでしょ。璃子ちゃん、男の人の好きな女の子になろうとするけど、無理があるんだよ。自分の好きなことをして、好きな服を着た方がいい」
「それじゃ、選んでもらえないもん」
「選ぶ側になればいいじゃん」
 家具や家電を探すために、SNSで調べたりもしている。
 素敵だなと思うのは、自分の趣味を詰めこんだ部屋に住んでいる人だ。キャラクターやアイドル、本や映画、古着やバイク、一部屋の中に自分の好きなものに合う世界を作り上げている。逆に、流行りばかりを意識した人の部屋には、惹かれない。モテることを考えた部屋には、モヤモヤしてしまう。
 料理のレシピも、「彼がお店みたいと感動してたけど、実は十分でできる簡単レシピ」とか「夫が大喜びして、毎日作ってと言ってくれたレシピ」とか、たくさん流れてくる。
 直樹と住んでいたころは、わたしもそういうレシピを見て、作ってみたこともあった。
 喜んでくれることは嬉しかったし、おいしくて定番になったものもあった。でも、「彼が」や「夫が」ではなくて、「わたしが」というものを、今のわたしは求めている。
「二十代後半になった女に、選ぶ権利なんてないんだよ」
「まだ若いよ」
「これから価値は下がっていく一方なの」
「そもそも、価値って何? 誰が決めるの? 羽毛や宝石じゃなくて、人間なんだよ。選ぶとか選ばれるっていう問題なのかな」
「……難しいこと言わないでっ!」
「ごめん」
 悪いことを言ったつもりはないけれど、けんかしたいわけではないので、謝っておく。
 寝具店では、店長や他のパートのお姉さんたちに仲良くしてもらっている。田島たじまさまや川本かわもとさまや山崎やまさきさまのように、何度も来てくれて、寝具のこと以外に家族や仕事のことまで話すお客さまも何人かいる。けれど、デパートの外でも会って、友達と思えるほど仲良くなったのは、璃子ちゃんと早苗さなえさんだけだ。休憩室でひとりでお弁当を食べていた時、璃子ちゃんが話しかけてくれなかったら、わたしはずっとひとりだったかもしれない。まだ直樹のことをどう考えればいいかわからない時に働きはじめ、璃子ちゃんの明るさや優しさに救われてきた。
「お疲れさま」早苗さんが来て、わたしの正面に座る。
「お疲れさまです」わたしと璃子ちゃんは、声を合わせる。
「どうしたの? なんか雰囲気暗くない?」
沢村さわむらさんがいじめるから」璃子ちゃんが言う。
「いじめてないでしょ」
「男の人に選ばれる女の子にはなれないって言ったじゃん」
「言い方、全然違わない?」
「違うけど、そういう感じ」
 わたしと璃子ちゃんのやり取りを見て、早苗さんは笑いをこらえるような顔をしながら、巾着袋からお弁当箱を出す。
 今日は、二段のお弁当箱で下の段にはごはんが入っていて、上の段には野菜の煮物とコロッケと卵焼きが入っている。オーソドックスなお弁当だけれど、どのおかずも丁寧に作られていて、おいしそうだ。煮物の汁が出ないように、鰹節をまぶしていたり、細かい工夫がされていた。
「璃子ちゃんは、素敵な子だから、そこら辺のつまんない男には良さがわからないかもしれないわね」
「……早苗さん」感動したのか、璃子ちゃんは泣きそうな顔をする。
「そう、そう、わたしもそう言いたかったの」
「違う! 沢村さんの言い方は、違った」
「そう思ってるよ。璃子ちゃんは素敵な子だから、会えなくなるのも寂しい。婚活で知り合った男の子が選んでくれなくても、わたしは璃子ちゃんを選んでるよ」
「ええっ、そんなこと言われたら、泣いちゃうじゃん」
「やめてよ、ここで泣かないでね」
「ちょっと本当に泣きそう」璃子ちゃんは、休憩用の小さなバッグからハンカチを出し、目元を拭う。
「全く会えなくなるわけじゃないから」
「またごはん行ったりしようね」
「うん」
 今までみたいに、休憩室でお昼ごはんを食べながらお喋りしたり、仕事の後でごはんに行ったりできなくなる。高校や大学の友達、派遣社員だったころに派遣先で仲良くしていた人たち、今も連絡を取り合ったり会ったりする人はいるけれど、同じ場所にいた時のようには過ごせない。繰り返し「また」と約束したところで、璃子ちゃんとも早苗さんとも、離れてしまう。それをわかっていながら、わたしは先のことを決めた。
 でも、生きていれば、また会えるのだ。
「コンサートにも来てね」早苗さんが言う。
「行きたいです」
「早苗さんは、ずっとここに勤めるんですか?」食べ終えたサンドイッチのゴミをまとめながら、璃子ちゃんが聞く。
「そうね。改装後も、ここで働く予定。一応、六十五歳までっていう契約だけど、それ以降も働いている人はいるから、つづけられるうちはつづけるつもり」
「身体、しんどくないですか?」
「しんどいけど、働かないといけないから。それに、今の仕事は結構好きなの」
「清掃、大変ですよね?」
「大変な方が楽しいのよ。正直、最初は、嫌だなという気持ちもあった。販売のパートをしていた婦人服のお店、今回みたいなデパートの改装でなくなってしまったの。年齢のこともあって、販売の仕事を探すのはもう難しかった。それで、清掃の仕事をはじめた。かがんだり、無理な体勢をしたりすることもあって、身体はキツイ。信じられないくらい、汚れていることもある。それでも、キレイになっていくのは気分がいいし、つづけるうちにコツもわかってくる。そのコツがわかってくると、楽しくなっていった」
「うーん」璃子ちゃんは、納得していないような顔をする。
「私の契約してる会社は、いい人が多いから、それにも支えられてるかな。どんなに好きな仕事でも、人間関係が合わないと、辛くなってしまうでしょ。逆に、仕事が苦手なことだったとしても、人間関係が良ければ、その職場を好きになれる」
「それは、わかります」今度は納得できたようで、璃子ちゃんは大きくうなずく。
「いくつになったとしても、元気で足腰が丈夫であれば、仕事はあるから。結婚相手探すよりも、足腰鍛えなさい。ふたりとも、細すぎ。運動なんて、全然してないでしょ」
「わたし、ヨガ教室に通ってますよ」璃子ちゃんが言う。
「何もしてない」わたしは、首を横に振る。
「沢村さん、運動苦手そうだよね」笑いながら、璃子ちゃんはわたしを見る。
「普通より、ちょっと苦手くらい」
「いい布団で寝てるだけじゃ、駄目なんじゃない?」
「そうだよねえ」
「一緒にヨガ教室通う?」
「うーん、考えておく」
 休憩時間がもうすぐ終わるので、食べ終えたお弁当箱や水筒を片付け、ふたりに手を振って休憩室を出る。

 枕カバーやパジャマをセール価格で売り、他店舗に送るもののうちのいくつかはすでに送り、商品が少なくなったので、店全体が寂しい雰囲気になっている。
 できるだけ隙間を作らないように、残っている商品を並べ替えていく。
「手伝おうか?」天野あまのマネージャーが横に立つ。
 閉店の準備で、デパートのバックヤードの倉庫に置いたままで使っていない什器じゅうきなど、重いものを他店舗に送る必要があり、その手伝いのために天野マネージャーは来ている。だが、何人かで持ち上げて台車を使えば、パートだけでも運べるものしかないし、運べないほど重いものは物流の人に頼めば倉庫に取りにきてもらえる。
 張り切っているようだが、天野マネージャーは特に必要とされていなくて、邪魔にしかなっていない。
「こっちは、大丈夫です」
「向こうのタオル、店頭に移そうか」奥のワゴンを指さす。
「いいです、それはセール品なので、ワゴンに入れておいてください」
 店頭には、値下げできないキャラクター商品が出ている。それとセール品を一緒にしてはいけないことも、マネージャーなのに知らないのだ。
「なんでもするから、言って」
「倉庫の方、手伝いにいってあげてください」
「向こうは、人足りてるみたいなんだよね」
「こっちも、大丈夫です」
「六月になったら、飲みに行こうよ」わたしの横に立ったまま、話しつづける。
「えっ?」
「打ち上げとして、みんなで」
「わたしは、引っ越しがあるんで」
「沢村さんは、うちの会社で働きつづけるんだし、来なきゃ。来られる日に合わせるから」
「引っ越し、大変そうなんですよね」
「良かったら、オレが引っ越しの手伝いにいこうか?」
「弟が来てるんで、大丈夫です」
「なんでも頼んでくれていいから」そう言いながら、天野マネージャーはレジカウンターに入っていく。
 毎日のように来るのだけれど、店長もパートも全員が「困る」としか思っていなくて、押し付け合っている。そろそろ怒鳴り出すころではないかと思っても、閉店セールで売上がいいからか、ずっと機嫌がいい。
 枕や敷き寝具は、ほとんどが定価のままなのだが、セールの枕カバーやパジャマを見るために入ってきたお客さんが「少しだけ」と言って試し、買っていくこともあった。
 わたし以外のパートさんたちは、異動しないで辞めることになった。夫や子供や介護の必要のある親がいたりするため、引っ越しはできない。この辺りからそれほど時間がかからないで電車やバスで通勤できる店舗だと、天野マネージャーの担当エリアになる。つづけたいと願っている人もいたのだけれど、これからも天野マネージャーの下で働かなくてはいけなくなると考え、辞めることを決めた。新しく入る寝具店で働く人もいるし、デパート内で違う仕事を見つけた人もいるし、しばらく休むという人もいる。給料や勤務日数など、今と同じ条件は難しかったようだ。売上に厳しくない分、新しく入る寝具店では報奨金が出ないらしい。
 そのため、閉店までに一円でも売上を伸ばして報奨金をもらおうと、他のパートさんたちはいつも以上に必死で売っている。
 結婚したとしても、それで安泰というわけではない。
 離婚することだってあるかもしれないし、夫が病気や怪我で働けなくなることだってあるだろう。子供のことや介護など、急にお金が必要になることもあると思う。大きな出来事が起きないとしたって、物価は上がりつづけていて、日々の生活にかかるお金も増えてきている。
 ここの寝具店でお世話になったパートのお姉さんたちは、子供が中学生や高校生なので、フルタイムで働ける人ばかりだった。それを基本としているため、二十代や三十代の人は、なかなか求人に応募してこないのだろう。デパート内の他の店には、扶養の範囲内で働いている人も多いようだ。わたしだって、直樹といたころは、そうすることを希望していた。その制度にはメリットもあるのだろうけれど、女性の働き方や生き方を狭めてしまうようにも思える。
 戦後、男性は終身雇用で会社に勤め、女性が専業主婦になって子育てすることが当たり前だった。そういう時代に決められたことが今も大きく変わっていない。女性は男性に養ってもらえるのだから、それほど稼がなくてもいいということが前提になっている。考古学に興味を持ち、日本史も世界史も勉強してきた。多くの国や地域で、女性の立場が軽んじられてきたことは知っていたのに、自分に関係のあることだと考えられていなかった。
 結婚することや子供を産むことだって、当たり前ではなくなっている。
 それでも、女性の平均収入は男性よりも低いままだし、最低賃金の非正規雇用の仕事も多い。異動しないで他の仕事を探すことも考えて調べてみたものの、派遣やパートという職歴しかなくて、正社員になることを難しく感じた。璃子ちゃんには「価値って何?」と聞いたけれど、就活は婚活以上に価値があるかどうかを見られる。学歴や職歴や資格や年齢、どういう人を求めているかはっきり書かれていなくても、募集要項から伝わってきた。昔は、今以上に、女であるというだけで、男より価値が低いとされていたのだ。
 非正規の募集でも、正社員登用ありと書いている会社はいくつもあった。だが、必ず守られるわけではないのだろう。寝具店は、デパート内にある他の店と比べても、フルタイムで働くことができて給料以外に報奨金が出たりするので、雇用条件はいい方だった。出産や育児や介護、その他の理由で長いブランクのある女性をフルタイムで採用してくれる会社は、なかなかない。店長のように、正社員になった女性もいる。人間関係の面でも、働きやすい会社であれば、わたし以外のパートさんたちも辞めることを選ばなかったのかもしれない。
 天野マネージャーだけが悪いのではなくて、本社の偉いとされている人の中には、信じられないくらい酷い人もたくさんいる。その人たちに気に入られているから、天野マネージャーは昇進できたのだ。
 異動先の店舗は「働きやすい店舗だと思います」と言われているけれど、本当に大丈夫なのだろうか。
 もしもの場合には、どんな仕事でもできるように、早苗さんに言われた通り、足腰を鍛えた方がいい。
 ワゴンに並ぶタオルを整理しながら、軽くアキレス腱を伸ばす。
「すみません」横に立ったスーツ姿の男性に、声をかけられる。
「いらっしゃいませ」足を揃え、男性の顔を見上げる。
 高橋たかはしさんだった。
 事故現場に行ってから会っていなかったし、連絡も取っていなかった。

 橋の上でキスをして、わたしと高橋さんは手を繫いだまま、旅館に戻った。
 別々に部屋を取ったのに、わたしは高橋さんの部屋に泊まった。
 目を覚ますと、すぐ隣に高橋さんが寝ていた。
 旅館の敷き布団は、綿の凹凸も何もないものだった。掛け布団も綿のもので、息苦しく感じるほど重い。枕はそば殻なのかビーズなのか、硬くて高さもあった。寝具店の店員としては別のものをオススメしたくなる寝具が揃っていたのに、この数年で一番と思えるくらい、深く眠れた。
 高橋さんは、わたし以上によく眠っているようだった。
 外は明るくなっていたものの、まだ早い時間だったので、わたしはそっと布団を抜けて浴衣を着直し、部屋から出た。
 自分の部屋に戻り、お風呂に必要なものの入ったポーチとタオルを持ち、温泉に行った。
 誰もいなくて、貸切状態の温泉に浸かりながら、夜のことを思い出した。
 お酒は飲んでいたけれど、酔っていたわけではない。直樹や高橋さんの奥さんのことを考え、冷静になれなくなっていたわけでもない。雰囲気に流されたわけでもない。
 わたしが高橋さんと一緒にいたかったから、キスをして、寝たのだ。
 このまま付き合うことになってもいいと思っていたし、そうしたいと願う気持ちがあった。
 最初に喫茶店で会った時は緊張していたけれど、すぐに話しやすい人だと思うようになった。立場が近いからだと考えるようにしていた。でも、違うのだ。別の誰かだったら、繰り返し会わなかっただろう。わたしは高橋さんと会うことを月に一回の楽しみにしていた。
 暗い部屋で抱きしめられても、躊躇ためらいを覚えることはなかった。
 キスをして、高橋さんはわたしを「依里より」と呼んだ。
 直樹がいなくなってから、下の名前で呼ばれることが苦手になった。呼ばれるたびに、直樹を思い出してしまう。高橋さんに呼ばれることで、生まれ変わった気分になった。
 両親や北斗には説明しにくいと思ったが、それはいずれ考えればいいことだ。
 これからも一緒にいられるのだと考えると、全身が幸福感に包まれていった。
 でも、大きな不安が広がっていくことも感じていた。
 恋人になれば、わたしは高橋さんの言うことを聞くようになってしまうだろう。今までだって、そうだった気がする。話しやすいと思うのも、なんでも話せたのも、奥さんのことを聞いてから少し強気に出られたのも、高橋さんの優しさに甘えていたからだ。主導権は常に向こうにあり、わたしは高橋さんの手のひらの上にいたにすぎない。
 直樹や高橋さんが悪いわけではない。
 誰といても、保てるだけの自分というものがわたしにはない。
 温泉から出て部屋に戻って荷物をまとめ、わたしはひとり分の朝ごはんをキャンセルさせてほしいとフロントで頼み、旅館を出た。
 そのまま、ひとりで帰ってきた。

 一ヵ月くらい経つが、わたしからは連絡していないし、高橋さんがメッセージを送ってきたりすることもなかったから、このまま終わるのだと考えていた。
 もともと出会うはずのなかった人だし、恋人になることを望めるような相手ではない。ふたりでいつづければ、直樹や高橋さんの奥さんのことが気になりつづけるだろう。
 もとの生活に戻っただけで、これでいいと思うことにした。
「枕、試させてもらえますか?」高橋さんが言う。
「どうぞ、こちらに」
 奥のベッドに案内して座ってもらい、わたしはひざまずく。
 暑かったのか、高橋さんはスーツの上着を脱いで、ネクタイも緩める。
 バックヤードの倉庫に行っていた店長とパートのお姉さんが戻ってくる。店長はレジカウンターに入って天野マネージャーと並んで立ち、パートのお姉さんはわたしがやりかけたワゴンに並ぶタオルの整理をしてくれる。
「どうしようか迷ったんです」高橋さんは脱いだ上着を軽くたたんで、荷物用のカゴに入れる。
「……はい」
「連絡しない方がいいし、会わない方がいいのだと思いました」
「……はい」
「そう思いながらも、デパートに行くようなことをしたら、ストーカーみたいになってしまう。メッセージを送ればいいだけなのかもしれないけれど、それは困らせるだろうという気がしたんです。悩んでるうちに、五月も終わりが近づいてきて、このままだとお店が閉まってしまう。もし連絡先を変えられたら、会えなくなる。そう考えて、来ました」
「……」
「寝具に関係ない話をしてたら、マズいですよね?」
「いえ、ご自身のお仕事や生活について、話されるお客さまは多いので、大丈夫です」
「でも、話すだけでは、駄目ですよね?」
「そうですね」
 話すだけ話して、何も試さずに帰っていくお客さまも、いないわけではない。しかし、わたしと高橋さんの気まずい空気は、店長と天野マネージャーに伝わっているだろう。余計なことを聞かれないようにするために、何か試してもらいたい。
「枕とマットレスも見たいんです」
「マットレス、今のお家に引っ越しされた時に、購入されていますよね」
「合っていないような気がするんです」
「わかりました。少々お待ちください」
 立ち上がってベッドから離れ、枕の並ぶ棚の方へ行く。
 購入する気があるのかないのかわからないから、枕とマットレスを合わせて用意してしまってもいいだろう。
 旅館の部屋は電気を消しても、お互いの姿が見えないほどに暗くはならなかった。一回だけではあっても、裸を見ているから、こういう寝具が合うだろうと考えられる。野球をやめた後も、身体は鍛えつづけているのか、もとの体質もあるのか、全身にほど良く筋肉がついている。服を着ていると細く見えるが、肩回りは大きく膨らんでいるし、腿も太い。似た体形の人より体重がありそうだから、やや硬めのマットレスがいいだろう。
 枕はどれがいいのか、一番難しいタイプだ。頭が小さいから柔らかめの方がいいのだけれど、首の太さや肩の筋肉を考えると硬めの方がいい。頭と首で素材の違う枕は、扱いがない。新しく入る寝具店で、オーダーメイドで作った方がいいんじゃないかと思う。だが、そうオススメするわけにもいかないので、柔らかいものと硬いものをいくつか選んで、あいているベッドに置く。
 マットレスは、川本さまの息子さんの大我たいがくんが購入したものと同じ、三分割になっているものから、合いそうな硬さを選ぶ。
 店長がレジカウンターから出てきて、わたしの横に立つ。
「マットレスも買うの?」小声で聞いてくる。
「前にも来たお客さまで、試したいみたいです」
「前は、何か買ってるの?」
「枕を試されただけで、何も購入されていません」
「いつごろ?」
「半年くらい前だったと思います」
 最初に高橋さんが寝具店に来たのは、夏が終わって秋になろうとしていたころだった。
 何度も会って、何時間も話してきたように感じていたけれど、被害者遺族の会で一回会って挨拶をして、ここで二回会い、喫茶店やカフェで五回会い、事故現場に行っただけなのだ。それだけの時間で、わたしの考えや見える世界は確実に変わっていった。
「何か手伝ってほしいことがあれば、合図して」
「わかりました」
「マットレス、閉店前の発送に間に合うから」そう言って、店長はレジカウンターの中に戻っていく。
 高橋さんに立ち上がってもらい、マットレスを交換して、枕を置いて不織布をかける。
「どうぞ、仰向けで寝てみてください」
「はい」
 ベッドに座り直して靴を脱ぎ、高橋さんは仰向けで横になる。
「今、違和感を覚えるところとか、ありますか?」
「使っているものと素材が違うからか、身体が沈む感じがします」
「お使いのもの、これより硬いんですか?」
「はい」
「前にいらっしゃった時、ちょっと硬めと言ってましたよね? これより硬いと、結構硬めですよ」
「じゃあ、結構硬めです」
「高橋さんの体形だと、硬すぎるものでは、使いつづけるうちに腰を痛めるかもしれません。お身体は細くても筋肉がついていて、曲線がはっきり出ている体形なので、腰や膝などが浮いてしまうんです。柔らかいマットレスは身体が沈みすぎてしまうのですが、これくらいの硬さでほどよく沈むものの方がいいのではないかと思います」
「なんか、意外と冷静に接客するんですね」起き上がり、高橋さんはベッドに座る。
「自分の知識に集中することで、平常心を保ってるんです」
「なるほど」そう言って、少しだけ笑う。
「枕は、いかがでしたか?」
「たとえばですけど、枕とマットレスを購入したら、沢村さんが六月からどうするのか、教えてもらえますか?」
「……えっと」
 事故現場に行った時、わたしは自分の今後について、高橋さんに話さなかった。その前に会った時に寝具店が閉まることだけは伝えたけれど、異動すると決めていなくて、迷っていると話した。
「マットレス、閉店前の五月中に発送できます」
「何を買ったら、異動先での対応になりますか?」
「わたし、異動するって言ってませんよね」
「沢村さんは、辞めるとは決められないと思ったので」
「……自分のこと、なかなか決められないから」
「違いますよ。ここの店も仕事も、好きでしょ。仕事のことを話す時、いつも楽しそうにしてました」
「そうですか」
 それは、高橋さんと話すことが楽しかったからだと思うけれど、言わない方がいい。
「ムートンシーツや羽毛を買えば、異動先で対応してもらえますか?」
「エリア内にある別店舗に引き継ぎます」
 店長とわたし以外は辞めてしまうため、発送の間に合わないお客さまには、天野マネージャーの店舗が対応することになっている。わたしのお客さまに関しては、異動先で対応できるのだけれど、それを言う気はなかった。
「お客さん、どうですか?」天野マネージャーが来て、わたしの隣に跪く。
「……あの、こちらのお客さまは」
「いいから、いいから」何も良くないのに、天野マネージャーは笑顔でわたしを止め、高橋さんの方を見る。
「いや、えっと」
「閉店セール中なんですけどね、枕やマットレスは安くできないんです。でも、今日ご購入いただければ、枕カバーやシーツをサービスさせてもらいますよ。発送も、五月中にできるんで、ご安心ください。これから暑くなるんで、夏用の掛け布団とかも、ご一緒にいかがですか?」
「彼女に聞くから、大丈夫です」高橋さんは、はっきりと言う。
「いえいえ、僕にも是非お話しさせてください」
「いいです。彼女の知識や人間性を信頼して、ここに来たので」
「知識だったらね、僕の方がありますから」
「本当に、結構です」
「お客さまも、こうおっしゃっていますので」わたしは、天野マネージャーの顔も高橋さんの顔も見られなくて、下を向く。
「何か困ったことがあれば、呼んでください」
明るい声で言いながら、天野マネージャーはレジカウンターに戻る。こういう時は、パートもマネージャーに合わせて、盛り上げるように言われている。あとで怒鳴られるだろう。
「すみません」高橋さんに謝り、わたしは軽く息を吐く。
「大丈夫です」
「今みたいなことが嫌なんです」
「どういうことですか?」
「高橋さんといたら、わたしは守られるばかりで、また自分を失ってしまう。自分からは、何も言えないまま、そのことに疑問も覚えられなくなる」
 けれど、強くなりたいと願うのも、高橋さんのためなのだ。
 高橋さんの恋人として、堂々と隣にいられる人になりたかった。
 これから先、長い年月を一緒に過ごしていきたいと思っている。
「わかりました」
「……ごめんなさい。せっかく来てくれたのに」
「枕は、買います」
「はい」
 使っているマットレスは、試してもらったものより硬いということなので、別のものに交換する。できるだけ、いつも寝ている状況に近くして、もう一度横になってもらう。
「首が太くて、頭が小さいので、合う枕がなかなかないと思います。肩も筋肉がついているから、横向きも高さが必要です」
「頭小さいですか?」
「同じくらいの身長の方よりも、ひとまわりは小さいですよ」
「そうなんですね」
「顔小さいって、言われませんか?」
「たまに」
「自分に合う寝具を見つけるためには、まずは自分を正確に知る必要があるんです」
「そうなんですね」
「別の枕と交換しますね」
 枕をいくつか交換して、仰向けから横向きになってもらい、合うものを探していく。ビーズだけの枕だと、やはり首と頭で沈み方が違い、合わない。綿と硬めのビーズの二層になっているものにしたら、綿は沈むものの、下の層のビーズが支えてくれるため、良さそうだった。家のマットレスに合わせ、綿とビーズの量を調整する必要はあるが、これがいいということで決まった。
 在庫が残っているものだったので、裏の倉庫から新しいものを出して、レジでお会計を済ませる。
 店の入口で商品を渡し、見送りをする。
「ありがとうございました」頭を下げる。
「ありがとうございます」
「あの」高橋さんの顔を見上げる。「生きていてください」
「……依里も」
 そう言って、高橋さんは店から離れ、エスカレーターの方へ向かう。
 追いかけたくなっても、わたしはここから先には出られない。
 後ろ姿に、もう一度頭を下げる。

 エレベーターが止まり、扉が開いた。
 そこは、真っ暗で何もなかった。
 階数ボタンを押し忘れ、一階を通り過ぎて、地下一階と地下二階の間まで下りてきてしまったようだ。
 電気がついていなくても、エレベーター内の明かりに照らされれば、そこにあるものの輪郭だけでも見えるはずだ。
 それなのに、何も見えない。
 闇がどこまでも広がっている。
 閉店後にレジ締めをして、入金室に行った。いつもは並ぶ入金室がなぜかすいていて、わたしの他に誰もいなかった。エレベーターにも誰も乗っていなくて、妙に広く感じた。
誰かがエレベーターを呼んだから止まったのだと思うが、人の気配を感じられない。
 ここは、本当に地下一階と地下二階の間なのだろうか。
 降りたら、どこへ辿り着くのか。
 冷たい風が吹き、身体を運ばれるような感覚がした。
 足を踏み出しそうになったところで、扉が閉まった。

 デパートとショッピングモールという違いはあっても、系列店なのだから、仕事に差はないと考えていた。
 しかし、並んでいる商品も店の雰囲気も、全然違った。
 ショッピングモールは、デパートよりも客層が広い。
 駅前に高層マンションの建設が進み、その周辺には建売住宅が並ぶ地域なので、家族で来る方が多い。駅の反対側には、昔からの住宅街も残っているようで、高齢の方もいた。店頭に並ぶキャラクターの枕カバーやタオルを見るお客さまの中には、近くの高校に通う生徒たちもいる。
 客層に合わせ、デパートの店舗には置いていなかった購入しやすい価格帯の枕やマットレスも扱っている。
 商品を試し、勉強し直さなくてはいけない。
 また、ショッピングモール自体も広大で、どこに何があるのかがわかりにくい。
 縦に重なっていくデパートに対し、横に広がっていっている。バックヤードは迷路のようだ。従業員入口や休憩室やゴミ捨て場がどこにあるのか、点と点が線で繫げられない。建物が新しいため、どこもかしこもセキュリティで守られている。従業員証のデータによって、入れない場所があった。お店の数もとても多いのだが、お客さまに聞かれた時のために、できるだけおぼえた方がいい。
 知らない世界に迷い込んだ気分だったけれど、二週間が経ってやっと全体が見られるようになってきた。
 枕の並ぶ棚の整理をしながら、感触やそれぞれの特徴を確かめていく。
「慣れました?」学生バイトの橋本はしもとくんが横に立ち、話しかけてくる。
 パートは、二十代から五十代までいて、女性ばかりだ。結婚していたり独身だったり子供がいたりいなかったり、様々だった。離婚や不妊など、それぞれの抱える問題もあるようで、お互いのプライバシーに踏み込まないことが暗黙のルールになっている。他に、平日夜や土日に入る短時間勤務のアルバイトが橋本くんの他に、ふたりいる。三人とも、沿線にある大学の体育学部で、スポーツトレーナーになるための勉強をしているらしい。
「どうにか」
「沢村さんって、この辺りに住んでるんですか? 前にいたデパートからだと、ちょっと遠いですよね?」
「ちょうど引っ越そうと思っていた時だったから、引っ越してきたの」
 話しながら、店の奥に行き、レジカウンターに入る。
 レジカウンターも広くて、隣に橋本くんが立っても、窮屈さを感じない。
 引っ越しはどうにか荷ほどきは終えたものの、まだ片付いていない。
 直樹のものは北斗にあげて、直樹の実家にも送ったが、まだ残っている。写真やふたりで旅行に行った時に買ったものなど、どうすればいいか決められなかった。テーマパークのカチューシャを使うことは二度とないだろうから捨てていいのに、思いきれずに持ってきてしまった。とりあえず、婚約指輪と一緒に箱に入れて、ベッドの下にしまった。時間をかけて決めていくつもりだ。
「沢村さん、ゴミ捨て行ける?」休憩に行っていた店長が戻ってくる。
「あっ、僕、行きますよ」橋本くんが言う。
「ゴミ捨て場の場所をおぼえたいし、わたしが行くから大丈夫」
 レジ裏の倉庫に入り、ゴミをまとめる。
 ここもデパートの二倍くらいあるし、バックヤードの倉庫も広いので、在庫をたくさん置くことができる。
 商品数が多いため、それだけゴミも出る。
 一回で運べるように、段ボール箱を台車に載せて、その上にゴミ袋を重ねていく。
 学生アルバイトの男の子たちは、汚れそうなものや重いものを運ぶ仕事を率先してやってくれるのだけれど、マネージャーからは「それを当然としないように」と言われている。彼らは、雑用係として雇われているわけではない。
「ごめん、沢村さん」店長が倉庫に入ってくる。「やっぱり、ゴミ捨ては橋本くんに行ってもらって」
「何かありました?」
「川本さまがいらっしゃった」
「えっ! 本当ですか?」
「奥のベッドで、お待ちいただいてる」
「はい、わかりました」ウェットティッシュで手を拭いてから、倉庫を出る。
 ゴミ捨てを橋本くんにお願いして、わたしは奥のベッドの方へ行く。
「沢村さん」川本さまが手を振ってくる。
「いらっしゃいませ。今日は、おひとりですか?」ベッドの前に跪く。
「そうなの。沢村さん、ちょっと雰囲気変わった?」
「髪を少し切りました。あと、前のお店とは、エプロンのデザインが違うんです」
 エプロンが黒であることはデパートの時と同じなのだけれど、こちらの方が肩紐が太めでポケットも大きくて、機能的になっている。それ以外にも、名札をつけなくなった。店員の名前をネットで検索したりSNSに載せたりするお客さまがいるらしい。個人情報を守るため、マネージャーから「この店では、つけなくていい」と言われた。
「前より、顔色も良くなった感じがする」
「照明の色が違うからかもしれません」
「それだけじゃなくて、なんか活き活きとしてる」
「そうですか」自分の頰に触る。
 おぼえなくてはいけないことはたくさんあるし、引っ越しの手続きでわからないこともある。なかなか落ち着けないのだけれど、疲れているせいか、夜はよく眠れる。
「わたしの寝具を買おうと思って、来たの」
「ついに!」
「まだチビたちがいるんだけどね。沢村さんの異動のお祝い。パパにそう言ったら、好きに買っていいって許可してもらえたから。大我の寝具のことでお世話になったし」
「大我くん、どうですか? 枕やマットレス、合わないとかありませんか?」
「大丈夫みたい。すごく気に入ってる。もうすぐ夏の予選もはじまるから、疲れを取るのは大事になるって言ってた。まだ一年生で、試合に出られるかもわかんないんだけどね」
「活躍してほしいです」
「来年、再来年が本番かな」
「いつか、試合を見にいきたいです」
「夏の予選は、暑すぎるから」
「そうですよね」
 梅雨に入り、涼しく感じる日がつづいているものの、先月の終わりごろは夏のような気温の日がつづいていた。
 暑さや湿気対策の寝具がよく売れる。
「大我のおかげで、欲しいものを買う口実ができてよかった」
「大我くんのこれからのためにも、下のお子さんたちのためにも、川本さまが元気でいることは、大事ですよ。もちろん、川本さま自身のためにも」
「そうよね。パパと子供たちのことばかりで、なかなか自分のことは考えられないから」
「川本さまのために、より良い寝具をご用意させていただきます」
「ありがとう。でもね、今日じゃないの。今日は、チビたちの英会話教室の間に来ただけで、もう帰らないと」
「あっ、そうなんですね」
「また、デパートの時みたいに、電話してから来れば、沢村さんにお願いできる?」
「はい、是非、ご連絡ください。ちょっとお待ちくださいね」
 レジカウンターに行き、電話番号の書いてあるショップカードを持ってきて、川本さまに渡す。
「ありがとう」
「お待ちしております」
 店長も出てきて、店の敷地ギリギリのところまで出て、川本さまを見送る。
 接客のために、ここから出てはいけないのは、デパートと同じだ。
「沢村さんには、ちゃんとお客さんがつくようになったね」店長が言う。
「ありがたいです」
「去年の終わりごろは、売れないって言って、頭抱えてたのに」
「まだ、そんなに売ってないですけどね」
「これから、これから」
「はい」
 話していると、ゴミ捨てに行ってくれた橋本くんが戻ってきた。左手で何も載せていない台車を押し、右手にはジュースの缶を持っている。
「お帰りなさい。ありがとう」
「これ、もらっちゃいました」ジュースの缶をわたしと店長の前に突きだす。
「どこで?」店長が聞く。
「一階のエントランスホールで、キャンペーンやってるんです。ジュースとかエナジードリンクとか新商品の宣伝のために、よくあるんですよ。ゴミ捨て場のおっちゃんに今日来てるって聞いて、もらってきました」
「一本もらっても、子供たちでわけられないからな」
「わたしも休憩の時にもらってきて、店長に渡しますよ。二本あれば、少しずつ飲むことはできますよね」
「五人だからね」
「僕のは、あげませんよ」
「いい、いい。自分で飲みなさい」
 橋本くんと店長のやり取りに笑いながら、わたしは店の奥に戻る。
 棚に並ぶ枕やマットレスや掛け布団から、川本さまに合うものを考える。

※本連載は今回が最終回です。ご愛読くださり、ありがとうございました。本作はポプラ社より書籍化予定です。
 

 
■ 著者プロフィール
畑野智美(はたの・ともみ)

1979年東京都生まれ。2010年「国道沿いのファミレス」で第23回小説すばる新人賞を受賞。13年『海の見える街』、14年『南部芸能事務所』で吉川英治文学新人賞の候補となる。著書に『夏のバスプール』『タイムマシンでは、行けない明日』『ふたつの星とタイムマシン』『消えない月』『大人になったら、』『水槽の中』『神さまを待っている』『若葉荘の暮らし』『ヨルノヒカリ』など多数。最新刊は『世界のすべて』。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す