仕事から帰ってきたら、リビングで直樹が寝ていた。
昨日と今日は、大阪出張だったのだけれど、予定よりも早く帰れることになったのだろう。リュックを置いてコートを脱ぎ、スーツからスウェットの上下に着替えたところで、力尽きてラグに倒れたようだ。寒いのか寂しかったのか、クッションを抱いている。
起こさないように寝室に入り、わたしはコートを脱ぐ。
脱ぎっぱなしでベッドに広げられていた直樹のコートやスーツをクローゼットにかけて、リュックから洗濯物の入ったビニール袋を取る。洗面所に行き、洗濯カゴに靴下やパンツを出す。袋は、ゴミ捨てに使うので、台所に持っていく。
ダイニングテーブルに大きめの白い保冷バッグが置いてあり、中には豚まんや焼売が入っていた。大阪にある有名なお店のものだ。帰りに、新大阪の駅で買ってきたのだろう。チルド品だけれど、賞味期限は長くないので、これを今日の夕ごはんにした方がよさそうだ。直樹の帰りが何時になるのかはっきりしなかったから、夕ごはんをいると言われてもいらないと言われてもいいように、昨日の夜にクリームシチューを作った。シチューは明日にしてもいいし、冷凍しておける。
「……依里」目を覚まし、直樹は身体を起こす。
「ごめん、起こした?」
「……いい、大丈夫」眠そうな顔のまま、ダイニングを通り過ぎてトイレに入り、すぐに出てくる。
「これ、開けちゃったけど、いいんだよね?」
「いいよ。依里へのお土産」直樹はわたしの横に立ち、腰に手をまわして抱きついてきて、頰や首筋にキスをする。
「早かったんだね?」
「午前中に会議があって、ランチミーティングして、すぐに帰ってきた。まだ早いから会社に戻ろうと思ったんだけど、今日は直帰していいって言われたから」
いつもは、直樹の方が帰りが遅い。わたしよりも先に帰ってくることは、滅多になかった。会社の方針として、残業を減らすように言われているみたいなのだけれど、遅くなることは多い。早い日でも、八時近くなる。今日はまだ、六時を過ぎたところだ。
「夕ごはん、これ食べる? シチューもあるよ」
「シチューもちょっと食べたい」
「もう食べる?」
「うん」うなずき、直樹はわたしの肩に顎をうずめていく。
「準備するから離れて」
「もう少しだけ」
「はい、はい」
長く付き合ううちに、普通はスキンシップが減っていくものではないのだろうか。派遣先の先輩は「結婚前から、すでにレス」と愚痴をこぼしていた。いつまで経っても、直樹はわたしにベッタリくっついてくる。特に、出張から帰ってきた後は、いつも以上に離れなくなる。
「これ、大阪支社にいる先輩が買ってくれた。もともとは東京本社にいて、入社したころにお世話になった人。夏に結婚式をするって報告したら、お祝いって」
「だからか」
豚まんも焼売も好きだけれど、出張のたびに買ってこなくていいと言ってある。今日は量も多いし、中華ちまきまで入っていた。
「ちゃんとお礼言ったから」
「エライ、エライ」わたしの肩にうずまったままの頭を撫でる。
「食べた後にも、お礼のメッセージ送る」
「エライ、すごくエライ」
「結婚式、呼びたい人たくさんいるけど、やっぱり無理だなとも思った。キリがなくなる」
「そうだね」
最初は、直樹の会社の人も結婚式に呼ぶつもりだった。しかし、お世話になっている人のどこまで呼ぶのか考えるうちに、人数があまりにも多くなってしまい、やめることにした。お互いの家族や親戚と親しい友達だけで、派手にも地味にもならない規模で、みんなが楽しめる式にしようと決めた。
「楽しみだね」話しながら、直樹は手をわたしのニットの中に入れる。
その手は、温かくも冷たくもなかった。いつもは、肩に顎をうずめられると、首筋や頰に髭が当たるのに、その感触もない。朝剃ったとしても、夕方には生えてくるはずだ。キスも、されているとは思いながらも、その温度が感じられなかった。
もう二月の後半だけれど、春は遠くて、外はとても寒かった。
何も感じられないほど、身体が冷えきっているのだろうか。
「どうかした?」
「……なんでもない」手を開いたり閉じたりして、感覚を確かめると、なんとなく違和感を覚えた。
「大丈夫?」
「うん。楽しみって、何が?」
「結婚式も、新婚生活も」
「そういえばさ」直樹の手をはなして、正面から顔を見る。
「何?」
「一昨日の夜」
わたしが話そうとしたところで、寝室に置いてあるリュックからスマホの鳴る音が響く。
「ちょっと待って」寝室に行き、直樹は電話に出る。
ドアを閉めたので、何を話しているかまではっきり聞こえないけれど、仕事の電話のようだ。敬語で話し、何度かうなずき、笑い声を上げている。
保冷バッグごと台所に持っていって、わたしは夕ごはんの準備をする。
全部は食べきれないから、豚まんは箱から出して保存バッグに移し、冷蔵庫に入れる。土曜日の朝ごはんか昼ごはんにしてもいいだろう。クリームシチューの鍋を温め、焼売はレンジで使える蒸し器に並べていく。中華ちまきは、このまま温めていいのだろうか。温め方の説明書が入っていないか探したけれど、なさそうだった。
声が聞こえなくなり、もう電話は終わったのかと思ったのに、直樹は寝室から出てこない。
また眠ってしまったのだろうか。
ノックしてから、寝室のドアを開ける。
そこには、誰もいなかった。
カーテンは閉まり、電気も消えている。
ベッドには白いムートンシーツが敷かれていて、直樹のスマホが置いてあった。
久しぶりに直樹の夢を見た。
事故から半年ぐらい経ったころ、毎晩のように直樹が夢に出てきたことがあった。なかなか眠れなくてベッドの隅で丸くなり、真夜中を過ぎたころにようやく眠りにつき、直樹の夢を見た。現実のままみたいな夢の日もあれば、何かわからないものから逃げつづける悪夢の日もあれば、ファンタジーのような世界にふたりでいる夢の日もあった。どんな夢でも、起きた時の気分は、最悪だった。二度と目を覚まさないで、夢の中で直樹と生きていきたかった。
あの時は、睡眠が浅くて、ほぼ覚醒していたのだろう。
一緒に暮らしていたころ以上に、寝ても覚めても、直樹のことばかり考えていた。
ベッドから起き上がって、カーテンを開ける。
四月になり、朝から暖かく感じる日が増えてきている。
寝室を出て、トイレに入ってから、洗面所で顔を洗う。
そうしているうちに、夢で見た出来事は、忘れられていってしまう。直樹が出てきたことは憶えているのに、何が起きて何を話したかは、もう思い出せなかった。
台所でお湯を沸かして紅茶を淹れ、ダイニングテーブルの前に座る。
テーブルには、スマホが二台並んでいる。
わたしのものと直樹のものだ。
昨日の夜、寝る前にクローゼットに置いてあるカバンからスマホを出し、充電しておいた。
高橋さんから奥さんのことを聞き、わたしは何も言わずに帰ってきた。怒りを覚え、許せないと思った。直樹は高橋さんの奥さんからハラスメントを受けていた可能性があり、脅されて行った旅行で事故に遭ったのかもしれない。はじめは、高橋さんの奥さんに対する怒りが強かった。その次に、ずっと黙っていた高橋さんに対する怒りが湧いてきた。それから、何も相談してくれなかった直樹を許せなく感じた。最後に、相談できる関係性を作れていなかった自分にガッカリした。何が起きたとしても、困っていることがあるのならば、言ってほしかった。
だが、直樹が生きている時に「酔っぱらってしまい、仕事で知り合った女性と関係を持った。そのことを依里にばらすと脅されている」とか言われたら、わたしは耐えられたのだろうか。泣いて喚いて直樹を責め、別れていたかもしれない。
全ては、高橋さんの話から想像した仮定の話であり、事実ではない。
仮定の話を重ねていくことしかできなくて、そのうちに自分が何を悩んでいるのか、わからなくなっていった。
海で話した日の夜、高橋さんから〈ごめんなさい〉とだけメッセージが届いた。
それに、わたしは返信を送らなかった。
もうすぐ一ヵ月が経つけれども、高橋さんから〈今月は、どうしますか?〉というメッセージは届かないし、わたしからも送っていない。
このまま、会わなくなっても、いいのかもしれない。
家族にも言えなくて、会うべきではない関係であることはわかっていた。
けれど、会えないことを残念に思う気持ちも強かった。
充電器から直樹のスマホを外す。
二年以上経つが、ちゃんと電源はオンにできた。
待ち受けは、ふたりで大阪のテーマパークに旅行した時の写真だった。クリスマスに近いころで、大きなツリーの前で撮った。ふたりとも、頭にキャラクターの載ったカチューシャをつけている。ライトに照らされた横顔がキレイで、ツリーよりも直樹のことばかり見ていた。
顔認証はできないため、パスワードを打ち込む。
パスワードは、わたしの誕生日だ。
見てもいいと言われていたし、自分のスマホの充電が少なくなっている時に借りることもあった。家族からの電話に代わりに出たりもしていた。仕事のメールや友達とのやり取りを見たりはしなかったけれど、それぞれのスマホを気軽に使っていた。わかりやすいように、パスワードはお互いの誕生日にしていた。
浮気していたのであれば変えているかもしれないと思ったが、変わっていなかった。
いきなりメッセージのやり取りを見るほどの覚悟はできていないし、写真や動画は生々しいものが出てくるかもしれない。
何から見ればいいか迷いながら、ゲームや漫画のアプリを開く。
直樹は、ゲームや漫画に詳しいというわけではなかった。全く興味がないということもなくて、話題の漫画を読んで、人気のゲームを買っていた。好きな漫画が一本あり、それをもとにしたスマホのゲームはよくやっていた。アニメ化もされていて、毎週楽しみにしていた。つづきを気にしていたが、その漫画は事故から半年が経ったころ、最終回を迎えた。
徐々に核心に近づくことにして、メールアプリを開いてみたけれど、仕事関係のものばかりだった。ほとんどが男性からだ。女性からのメールもあるが、PDFで書類を送り合っている。高橋さんの奥さんと仕事のやり取りはなかったはずなので、それらしき名前は見つからなかった。カレンダーを開いても、仕事の他には、わたしや北斗や友達と出かける予定しか書いていない。旅行に行った二月二十日と二十一日は、空白になっている。
メッセージと写真、どちらにするか迷い、先にメッセージアプリを開く。
血の気が引く感じがしたから、少しだけ紅茶を飲む。
最後にメッセージのやり取りをした相手が高橋さんの奥さんで、一番上になっていた。
深呼吸をしてから開いてみたものの、メッセージのやり取りは、二月二十日の待ち合わせ時間と場所のみで、他は通話が何回かあるだけだった。最初の通話が事故の半年ほど前で、そこから三ヵ月あいている。年が明け、一月半ばの深夜と二月初めの昼間にも通話の記録が残っていた。高橋さんが聞いたのは、一月半ばだと思う。このころ、直樹の福岡出張があったはずだ。大阪出張のことを言われた時に「先月も、行かなかった?」と聞いたことをぼんやりと憶えている。でも、なんて返されたかは思い出せなかった。メッセージを削除した痕跡はなさそうだから、約束して会ったのは旅行の時だけだったのだろう。
連絡先を交換し、二回目の通話から一月半ばまでの間に、わたしに知られたら困るようなことが起きた。
推測はできるが、事実がわかることはない。さらに仮定を重ねるだけだ。
証拠になるものが残っていてほしいのか何もないでいてほしいのか、わからなくなりながらも、写真アプリを開く。
そこには、わたしの写真と動画しかなかった。
全てがわたしではないのだけれど、七割から八割くらいは、わたしが写っている。何枚かある自撮りは、出張先からわたしに送ってきたものだ。景色の写真は、わたしと一緒に出掛けたり旅行したりした時に撮ったものばかりだ。他は、大学生のころの友達との飲み会や北斗と野球を観にいった時の写真が何枚かある。誕生日、付き合いはじめた日、プロポーズ、大事な時には動画を撮っていた。どれだけスクロールして、さかのぼっていっても、わたしばかりが写っている。
いつの間に撮ったのか、友達の子供と走り回っている姿やウェディングドレスを試着した後ろ姿や寝顔まであった。
自分の顔のはずなのに、久しぶりに会った人のように見えた。
わたしのスマホには、直樹の写真ばかりが残っているけれど、ここまでの量はない。
たとえ、浮気していたとしても、別れられなかっただろう。
いつでも、誰よりも、わたしを大事にしてくれていた。
生きていてくれたら、ずっと好きでいられた。
洗濯をして掃除機をかけてからスーパーに行き、玉ねぎとにんじんと豚バラ肉とカレールーを買ってきた。
直樹と住んでいたころは、よくカレーを作っていた。
夕ごはんをどうするか悩んで「何が食べたい?」と聞くと、二回に一回は「カレー」と返ってきた。カレーの他にミートソースとかハンバーグとか、子供が好きとされているようなものが直樹は好きだった。鍋一杯に作っても、わたしひとりでは食べきれない。冷凍しておけるが、消費するまでに何日もかかる。量を減らすと、ルーがあまってしまう。ひとりで暮らすようになってからは、カレーを作るとしても、少量で簡単に作れるキーマカレーばかりになった。
久しぶりに大きな鍋を出し、オーソドックスなカレーを作る。
煮込んでいる間、ダイニングで直樹のスマホを見る。
二年以上、アップデートされていなかったから、わたしのスマホと同じ機種のはずなのに、なんとなく使いにくい。
自分と直樹のメッセージのやり取りを開く。付き合う前、まだ同じサークルの友達でしかなかったころから、九年近いやり取りがそこには残っている。わたしのスマホでも見られるが、左右が逆になっているからか、違うもののようだった。
学生のころは、キャラクターのスタンプを用もないのに送り合っていた時期があった。夜遅い時間に通話している日も多い。別れていた間だけ途絶えて、毎日何か送っていた。会っている時にうまく話せなかったことを長文で送ったこともある。それは、直樹に対して考えていることだけではなくて、友達に関する悩みごとだったりもする。今読むと、どうしてそんなに深刻に悩んでいたのかわからないことばかりだ。しかし、深刻になるべき時には、信じられないくらい軽いやり取りをしていた。大学二年生の終わりころ、生理が一ヵ月近く遅れたことがあった。わたしは〈妊娠しているかもしれない〉と書きながらも、うさぎが泣いているスタンプを一緒に送っている。それに対して、直樹は〈そしたら、すぐに結婚しよう〉と返していた。すぐに返信をくれたことに、当時二十歳だったわたしは感動したけれど、現在二十九歳のわたしからは「考えが甘い」としか言いようがない。この時は、検査薬で確かめるか迷ううちに生理が来たはずだ。
業務連絡みたいなメッセージしか送っていないと思っていたけれど、大学生の時は意外と恋人同士らしいやり取りもしていた。写真には、ふたりで行った記憶がないような場所も写っている。旅行やドライブで遠出した場所は憶えていても、デートの途中にたまたま通ったような場所は、思い出せなかった。
台所に戻り、焦げ付かないようにカレーの鍋を軽くかき混ぜる。
本当は、二十代の半ばで子供を産みたかった。
早くに結婚して子供のいる友達を羨ましいと思っていた。友達の多くは、まだ結婚もしていなかったし、周りに影響されて焦っていたわけではない。直樹とふたりでいられれば、充分だとも考えていた。けれど、子供がいたら、より安心できるような気がした。不安になることなんて何もなかったはずなのに、直樹がいなくなってしまったら、自分には何もなくなると感じていた。
結婚していたら、子供がいたら、違う今があったのだろうか。
ダイニングテーブルに置いていた自分のスマホを取り、メッセージアプリを開く。
直樹のスマホでは、わたしとのやり取りは、高橋さんの奥さんの次に残っていた。わたしのスマホでは、直樹とのやり取りは、ずっと下にいってしまった。
高橋さんとのやり取りを開いて〈今月の後半、ゴールデンウィークに入る前に、事故現場に行ってきます。平日に二連休をもらえたので、ひとりで行く予定です〉と送る。
デパートのあちらこちらに「改装のお知らせ」が貼られ、寝具店には「閉店セール」と大きく書かれたポスターを貼った。
在庫が残ったとしても他店舗に送れるので、マットレスや羽毛布団の大幅な値下げはしていないのだが、枕カバーやシーツやパジャマは安くなっている。閉店まで一ヵ月半くらいあるけれど、徐々に片付けを進めていて、裏の倉庫の奥に置いたままで使っていないようなものを整理していく。古いポスターや色褪せてしまった包装紙は他店舗に送っても使えないため、まとめて捨てる。
ノックもせずに扉が開き、天野マネージャーが入ってくる。
担当エリアをまわっていて、他店舗にも行かなくてはいけないから、店長と話すだけで帰るだろう。そう思い、わたしは裏の倉庫に逃げていた。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。どう? 順調?」
「何がですか?」
「片付け」
「まあ、順調です」
「沢村さん、オレの担当エリアじゃなくなっちゃうの、残念だな」
「はあ」うなずきながら、古いポスターを広げて、捨てていいものか確認していく。
六月から、わたしは県の東部にあるショッピングモール内の店舗に異動することが決まった。
県内の店舗が増えてきたため、エリアが西と東でわかれることになった。天野マネージャーは県西部エリアの担当になる。わたしが異動する先の店舗の現店長が東部エリアの担当マネージャーに昇格する。店長と兼任するマネージャーもいるが、そこの店舗はここの二倍くらい広くてお客さまも多いため、新しく店長が就くことになった。それが今のうちの店の店長だ。その話を聞き、わたしは県東部に引っ越す予定ということにして、異動の希望を出した。どこも人手不足だし、パートに対して遠い店へ行かせるほどひどい会社ではないので、無事に東部エリアのショッピングモールへ異動できることになった。
「何かあれば、いつでも相談に乗るから」
「……えっ?」いらないポスターをまとめて丸めていく。
「同じ会社に勤めてるんだし、上司であることに変わりはないから、頼ってもらっていいよ」
「ああ、店長もいるし、東部のマネージャーもいるし、大丈夫だと思います」
東部のマネージャーは女性で、年齢は店長よりも少し上の人だと聞いている。異動先の店舗はここと違い、二十代のパートもいるらしい。学生アルバイトもいて、その中には男性もいるようだ。本社で、異動の手続きを担当してくれる人事課の課長から「沢村さんには、働きやすい店舗だと思います」と言われた。
「もしもの時のために、連絡先聞いておこうか」天野マネージャーは、スーツのズボンの後ろポケットからスマホを出す。
「あっ、今日、スマホ忘れちゃったんで」
「そうなの? ドジだなあ」
「……いや」
「じゃあ、次の時に。お疲れさま」
本人は爽やかなつもりなんだろうなという笑顔で手を振り、置いていたカバンを持って、店の方に出ていく。
「お疲れさまです」後ろ姿に向かって、一応言っておく。
丸めたポスターをゴミ箱に入れてから、ロッカーを開ける。
スマホは忘れていなくて、バッグに入っている。
メッセージを確かめてみるが、高橋さんから返信は届いていなかった。
バッグにスマホを戻して、店に出る。
天野マネージャーは他店舗に行ったようで、いなくなっていた。
レジカウンターに入り、ウェットティッシュで手を拭く。
「何か言われた?」店長が聞いてくる。
「連絡先聞かれました」
「教えたの?」
「教えませんよ。スマホ忘れたって言ったら、意外とあっさり引き下がっていきました」
「天野マネージャー、沢村さんのこと狙ってるんだと思うよ」
「やめてください。そういうこと言うのも、セクハラですよ」
「でも、気を付けてね」
「あっちこっちの店舗で、同じことしてるんじゃないですか」
店頭に出て、ワゴンセールをしている枕カバーやタオルの整理をする。
お客さまが入ってきたので、声を掛ける。
「いらっしゃいませ」
「あっ、沢村さん、良かった」
「田島さま、お久しぶりです」
「前に来てから、少しあいてしまったわね」
田島さまは、去年の秋に枕を購入して、その後もお孫さんの枕やパジャマを買うために、何度か来ていた。今年に入ってから来なくなっていたため、閉店前に会えるかどうか気になっていた。
「お元気にされていました?」
「実はね、年末に主人が亡くなったんです」
「……」
「もともとの病気もあったのだけど、寒くなってから急に調子を崩して、そのまま」
「それは、それは」
こういった時、どう返すべきなのだろう。「お悔やみ申し上げます」とかしこまって言ったりするのがマナーだと思うが、合っている自信がない。婚約者を亡くしていても、わたしにとって「死」は身近な出来事ではなかった。
「そんな気にしないでいいのよ」笑顔で、田島さまは言う。「寂しい気持ちはあるけれど、いずれはと思っていたことだから。私が先に死んで、主人が残ることになったらどうしようという心配もなくなったし、安心している部分もあるの」
「はい」
「それでね、今日は、マットレスを見せていただけるかしら」
「マットレスですね。どうぞ」
奥のあいているベッドにご案内して、座ってもらう。
「私ね、働きに出ることもなく、お見合いで結婚したの。主人を支えて、言われるままにしてきた。昔は、このデパートの外商の方も来てくださっていたし、いい暮らしをさせてもらっていました。恋愛なんて考えない結婚だったけれど、子供や孫にも恵まれて、幸せな人生だと思います」
「はい」
「けどね、もっと違う人生があったんじゃないかとも考えてしまうことはあるの」
「違う人生ですか?」
「自分がしたいことをして、自分の選んだ人と結婚する。相手よりも、自分を一番に考える人生。今の女性は、そういう生き方だってできるでしょ」
「……そうですね」
「主人が亡くなって、私もあとどれだけ生きられるかわからないけれど、残りの何年間かだけでも、そういう生き方をしてみようって決めたの。子供たちも、もう手が離れているから。孫のことは、口出しても、嫌がられるだけでしょ。それで、ひとりでも元気に生きるために、まずは寝具を新しくしたいと思って。前に、オススメしてくださった枕がすごく良かったから、マットレスも揃えたいの」
「ありがとうございます」
「でも、ここも、閉店してしまうのね」田島さまは、壁に貼ってあるポスターを見上げ、店内を見回す。
「そうなんです」
「沢村さんは、どうなさるの?」
「別の店舗で働きます」
閉店のお知らせをしたため、お客さまには今後について説明できるようになった。わたしを頼って来てくださるお客さまには、異動先の店舗について話している。
「どちらに?」
「ショッピングモール内にある店舗です」異動先の店舗について、詳しく話す。
「あら! そこだったら、娘の家からすぐ近くだわ。また寄らせてもらいますね」
「ぜひ!」
「マットレスや他の寝具について、これからも相談に乗っていただけるかしら?」
「はい、もちろんです!」
先をどうするのか、なかなか決められなくて、とりあえずと考え異動することにした。寝具について勉強することは好きだと思えたし、中途半端にしたくない気持ちがあった。それでも、これでいいのかという迷いはあった。異動先でも、またパートタイマーとして雇用される。一日八時間週五日働くのであれば、どこかで正社員になった方がいい。迷いは完全に消えたわけではないけれど、わたしが働きつづけることを喜んでくれるお客さまがひとりでもいるのであれば、良かったと思える。
「マットレスなんですけどね、今までは主人と一緒に大きなベッドに寝ていたんです。でも、そんなに大きなものは、もう必要ないかと思って」
「そうですね。田島さまがおひとりで寝られるのであれば、シングルかセミダブルサイズがオススメです」
「セミダブルって、大きいんじゃないの?」
「メーカーによって差はあるのですが、基本的にはシングルの横幅が一メートル、セミダブルが一メートル二十センチになります。そこから、二十センチ刻みでサイズが上がっていきます。今まで、大きなベッドに寝られていたということですと、シングルでは小さく感じられるかもしれません」
「そうなのね。今のベッドのサイズ、どれくらいなのかしら。測ってくれば、良かったわね」
「ご主人と寝ていて、狭く感じたことはありますか?」
「大きさは、それほど不満はなかったの。ただ、主人が動くと、それで起きてしまった。主人も、私が動いたことで、起きてしまったことがあるみたい。そのことで、よく怒られもしました。自分だって動いているのに、私ばかり動いているみたいに言われて」
楽しかった思い出のように、田島さまは笑いながら話すので、わたしも笑顔で聞くようにする。
「大きさが気にならなかったということであれば、ダブルよりも大きなサイズかもしれません。ダブルだと一メートル四十センチなので、ひとり分の幅は七十センチくらいしかないんです」
ご主人は身体の大きな方ではなかった。どちらかといえば、小柄な方だろう。それでも、寝返りを打つことを考えたら、七十センチは狭い。
平等にならないで、どちらかが幅を取り、どちらかが我慢しているということは、よくあるだろう。ここに寝具を見にくるお客さまだと、だいたいは女性の方が我慢している。これから一緒に住むと話すお客さまには、ダブルなどの大きなサイズよりも、シングルを二台くっつけて並べることをオススメする。合うマットレスは人によって違うし、お互いの寝返りも響かないので、落ち着いて寝られる。子供が生まれた時にも、一台で母子が寝たり、一台を別の部屋に持っていったり、家族の変化に合わせた対応ができる。置く場所に問題がある場合は、セミシングルやスモールシングルというシングルよりも十から二十センチ幅の狭いものもある。
「これは、冬用の布団なのでしょ」田島さまは、隣に敷いてあるムートンを手で示す。「昔ね、外商の方にすすめられたことがあったのよ。けど、主人は暑がりだったから、そんなものでは寝られないって断ったの。私は、寒がりだから、気になっていたのよね」
「こちら、夏でも使えるんですよ」
「あら、そうなの?」
「夏場、寝苦しくなるのは、気温もあるのですが、湿度も関係があるんです。日本は、どうしても梅雨から夏の間は、湿度が高くなりますよね」
「そうね」
「綿などのシーツは、湿気を溜めてしまうんです。部屋の温度は高いのに、なんとなくシーツが冷たいというか、じめっとすることってありませんか?」
「あるわね。うちは、主人がそれを嫌っていたから、夏でも布団乾燥機を使っていたの。温めてから冷まさなくてはいけなくて、大変だった」
「それがムートンでは起こらないんです」
「どうして?」
「羊の毛は、湿気を溜めないんです。湿度の高い部屋に敷きっぱなしにしていても、サラッとした感触が保たれます。もちろん、冬場は身体を温めてくれるので、一年中お使いいただけます」
「そうなのね」
「この辺りでは、冬の一番寒い時でも、零下というほどにはなりません。温めるということでは、これで充分という寝具がたくさんあるんです。日本で睡眠時に一番調整が難しいのは、暑さや寒さよりも、湿度なんです。羊の毛はバネになって寝返りも助けてくれますし、体圧が一点に集中せずに分散されるので、身体のためにもオススメできます」
「そうなのね。じゃあ、これもいただくわ」
「えっ?」
購入していただくつもりもなくて、軽く説明しただけだった。
「ずっと欲しかったんだもの。沢村さんがいいものだと言ってくださるのであれば、信頼します」
さっき「怒られもしました」と話した時とは違い、田島さまは本当に楽しそうな顔をしている。若いころ、少女に戻ったみたいに見えた。ご主人がいなくなり、ひとりで生きていく不安が全くないわけではなくても、解き放たれたような気持ちもあるのだろう。
「ありがとうございます」田島さまにとってより良いものをオススメするため、わたしは気持ちを切り替える。「よろしければ、お使いの枕と合わせ、マットレスとムートンシーツ、それに合わせたベッドフレームまで、一式ご相談させてください。これからの田島さまの生活に合ったものを選ばせていただきたいと思います」
「よろしくお願いします」
「少しお待ちください」
ベッドから離れ、田島さまに合うと思われるマットレスを棚から出してくる。
東京駅から新幹線に乗り、東北へと向かううちに季節が変わっていく。
うちの辺りでは散ってしまった桜がまだ咲いていた。
満開は過ぎているみたいだけれど、新幹線の窓から川沿いの桜並木や山沿いで咲く桜がちらほらと見えた。
「桜、まだ咲いてるんですね」隣に座る高橋さんに言う。
「ああ、そうですね」高橋さんも、窓の外を見る。
メッセージを送って三日ほど経った夜に、高橋さんから返信が届いた。〈仕事の調整をして休みが取れるので、僕も行きます〉と書いてあった。一緒に行くつもりではなかったと思ったが、そう言ってくれる期待もあったから、わたしは行く前に伝えたのだ。早朝に出れば日帰りできないこともないけれど、直樹と高橋さんの奥さんが泊まった温泉旅館に一泊することにした。部屋は別々に取り、夕ごはんはどちらかの部屋に用意してもらえるようにお願いした。
平日の昼間なので、新幹線はすいている。
わたしたちの他には、出張と思われるスーツ姿の男性が何人かと海外からの観光客が何組かいるだけだ。
温泉街は、雪の季節は人気があるようだけれど、今はオフシーズンなのだろう。ゴールデンウィークは混み合うのかもしれないが、直前でも旅館の予約が取れた。
「駅に着いたら、お昼ごはん食べましょうね」
「先に事故現場に行かなくていいんですか?」
「お腹すいてませんか?」
「すいてますけど……」
「ちゃんと食べて、元気な状態で行きましょう」
「そうですね」
「ごはん、食べられるところありましたかね?」足元に置いていたバッグを取り、スマホを出す。
「蕎麦屋とかあった気がします」
「お蕎麦いいですね」スマホで検索する。
駅の周りにお蕎麦屋さんが何軒かあるようだった。少し離れたところまで行けば、他にもお店がある。新幹線の駅の辺りは観光地というほどではないみたいだし、オフシーズンでも通常の営業をしているだろう。
「井上のスマホを見たんです」バッグに自分のスマホを戻してから、直樹のスマホを出す。
「はい」
「高橋さんの奥さんとのやり取りは、最低限という感じでした。ちなみに、ふたりは東京から一緒に行ったわけではなくて、現地集合だったようです」
待ち合わせ場所は、わたしたちが今向かっている温泉街の旅館になっていた。帰りも別々であれば、どちらかは事故に遭わなかったのかもしれない。どれだけ「たら」「れば」と並べても、起きたことは変わらないとわかっているが、いつまでも考えてしまう。
「妻が仕事か何か別の用で、先に行っていたのだと思います」
「なるほど」
「僕たちも、東京から一緒に行く必要はありませんでしたね」
「嫌でしたか?」
「いえいえ」高橋さんは、首を大きく横に振る。
「わたしは、高橋さんと東京から一緒に行きたかったんです。そしたら、井上は胸が圧し潰されるほどの嫉妬をすると思うので。男の人とふたりで旅行に行ったなんて、お墓にもうちにある写真にもどこにも報告できません」
「妻は、怒って暴れると思います。僕のことなんて、好きでもなかったはずなのに、独占欲は強い人でした」
「嫉妬して、明らかに機嫌が悪くなりながらも、井上は何も言わないと思います。黙って抱きついてくることで、わたしにプレッシャーをかけてくる。それで、わたしは察してあげるんです。彼の嫌がることは、二度としません」
「そういう感じなんですね」
「そういう感じです」
テーブルを出し、そこに直樹のスマホを置く。
電源は入れたままだ。
誰からも電話がかかってくることはないし、メールやメッセージも届かない。たまに、迷惑メールだけが送られてくる。
「モラハラだったんじゃないですか? って、高橋さんは言ったじゃないですか」
「すみません」高橋さんは、頭を下げる。「それは、僕が井上さんのことを知らずに勝手に思ったことなので、忘れてください」
「忘れられませんよ」
「そうですよね」
「考えてみたら、モラハラだったのかもしれません」
「……はい」
「大学に入ってすぐに知り合って、それからわたしはずっと彼が好きでした。好かれたいと思って、気に入られるような服を着て、かわいいと思われる髪型やメイクにして、望まれている振る舞いをしました。見るものも食べるものも、全てを合わせていきました。自分が何をしたいかなんて考えなくなっていって、言われる通りにした。仕事も将来のことも、妻になって母親になることを考え、彼にとって一番いい選択をしました」
「はい」
「怒鳴られたり、強制されたりしたことはありません。実録漫画みたいなものにあるような、嫌みを言われた覚えもないです。いつも優しかったし、わたしのことを好きでいてくれた。勉強ができて、いい会社に就職して、友達もたくさんいて、わたしの家族とも仲良くしてくれて、欠点と言えるようなところのない人でした。一緒に暮らしていれば、だらしないと感じるところやわがままと思うことは多少ありましたが、多少です」
「同じような業界で働く者として、井上さんが将来有望であったことは、想像できます。本当に、申し訳ないことをしたと思っています」
「高橋さんが何かしたわけではないので、もう謝らなくていいです。何もできなかったのは、わたしも同じです。残念ながら、過去は変えられません」
「そうですね」
「歴史の仮説って、たくさんあるんです。有名なものであれば、邪馬台国はどこにあったのかという話です。近畿地方説や九州説があり、確かなことは今もわかっていません。どちらか、もしくはどこか違う場所にあったのでしょう。それは、確かな証拠がなければ断定できなくて、推測では決められません。今を生きるわたしたちがどれだけ想像して考えたところで、事実が変わることはないので、その場所が動くことはないんです」
「はい」
「わたしと高橋さんがどれだけ考えて、お互いに謝り合ったとしても、高橋さんの奥さんも井上も生き返りません。死んでしまった事実は変えようがない。ふたりの間に起きたこと、全てがわかることもない。過去を前向きに捉えられるようになるためには、二年は短いです」
「わかります」
「国や地域、宗教によって、死に対する考えも違うんですよね。日本は火葬ですが、土葬する国も多いです。灰になってしまう日本は魂が幽霊になり、遺体をそのまま埋めるアメリカではゾンビが出ます。亡くなった者による呪いみたいな話も古くからありますね。怪談とかではない前向きに感じられる話として、魂がいつもそばにいてくれるという考えも日本人は好きです。風になったり星になったり。死んでからも直樹が一緒にいてくれる気はしているし、話しかけられている気持ちになる時もあります。でも、やっぱり、そこにはいないんです。高橋さんとふたりでいることをどこに報告したって、もう嫉妬もしてもらえない。わたしは、直樹に触りたいし、もっと触ってほしかった」
「大丈夫ですか?」高橋さんが隣からわたしの顔をのぞきこんでくる。
「大丈夫です」自分でも気づかないうちに、涙がこぼれそうになっていた。「ごめんなさい、直樹と呼んでしまった。井上のことです」
「いいですよ。気にせず、沢村さんの楽なように話してください」
「モラハラのことから、話がずれましたね」バッグからハンカチを出して涙を拭き、息を吐く。
「そうでしたね」
「直樹が意識的に、わたしをコントロールしていたわけではないです。けど、結果として、そうなっていました。言われた通りに生きることだけがわたしの人生だった。いなくなってしまったら、どう生きていけばいいのかわからなくなるのは、当然でした」
「……はい」
「でも、直樹と付き合うより前から、わたしはそうだったんです。父や母にとって、いい娘であることが大事でした。両親だって優しい人で、強制されたわけではなかったのに。何も考えず、従うことがわたしにとって、楽だった。だから、悪いのは意志のないわたしであって、直樹ではないんです」
「井上さんのこと、ハラスメントの加害者だなんて、思っていません」
「ありがとうございます」
「沢村さんのことも、そんな弱い人だと思っていませんよ」
「……これからは、自分がどう生きていきたいのか、ちゃんと考えます」
新幹線の中に音楽が鳴り響く。
もうすぐ駅に着く。
事故現場は、山道の何もないところだった。
今の時季は、周りの木々が青々としはじめているけれど、事故の時は雪で真っ白だったはずだ。
ガードレールが新しくなり、いつから置かれているのか、枯れた花束が風に飛ばされそうになっていた。
「直樹は、とても寂しがり屋でした」
「はい」
「高橋さんの奥さんのことが好きで、わたしのことを裏切ってもいいと思えるぐらいの気持ちがあったのであれば、良かったのかもしれません」
「……それは、ないと思います」
「だったら、わたしが一緒に死んであげたかった」
「無理だったんですよ」
「わかっています」
強く風が吹き、どこからか桜の花びらが飛んでくる。
手を伸ばしても、届かない。
温泉街は閑散としていて、旅館のお客さんも少ないようだった。
川沿いに大正や昭和のはじめころの木造建築が並んでいて、わたしたちが泊まるところも歴史のある旅館だった。SNSで映えるのは雪景色なのかもしれないが、春でも充分に素敵だ。
先に温泉に入り、その間に高橋さんの部屋に夕ごはんを用意してもらった。
久しぶりの旅行だし、気持ちが沈んでしまわないように、ランクの高いコースの夕ごはんを予約した。ひとり用の鍋のすき焼きにお刺身や天ぷらもあり、少しだけと言いながら、ビールとワインと日本酒も飲んだ。高橋さんは、お酒の営業をしているのでさすがに詳しくて、料理に合わせて選んでくれた。合うお酒にすると、お肉やお魚が何倍もおいしく感じられた。品数が多いかもしれないと思ったけれど、最後までキレイに食べられた。
「お仕事ですか?」テーブルの片付けをしながら、仲居さんが聞いてくる。
「いえ、旅行というか」高橋さんが答えようとしながらも、口ごもってしまう。
「この近くで知人が事故に遭って、亡くなったんです。今日は、その現場に寄ってきました。命日に来られなかったので」
わたしから、はっきりと言う。
隠すようなことではないし、誤魔化したら誤魔化したで、関係を怪しまれそうだ。
「一昨年のバス事故ですか?」
「はい」
「うちに泊まっていたお客さんも亡くなったんですよ。男性がおひとりと女性がおひとり。男性の方が急いで帰ろうとしていて、危ないとは言ったんですけどね。この辺りでも珍しいくらい、雪の強く降った日だったので。揉めていたようなんですけど、連れの女性も一緒に帰っていきました」
「……揉めていた?」高橋さんが聞く。
「けんかしたのか、お部屋も別に取られていました」
「どうして、揉めてたんですか?」わたしから聞く。
あくまでも、興味本位で聞いているのであって、自分たちの知り合いは違う人だという顔をすることにした。
「もともと、女性の方が前日から泊まられていて、お部屋はひとつしか取ってなかったんですよね。混む時季だったんですけど、雪で来られないお客さまがいて、キャンセルがあったんです。それで、男性の方が別の部屋にしてほしいと望まれて、ご用意しました。女性はそのことにも怒っているようでした。怒鳴っている声が聞こえて、他のお客さまの迷惑になるからお声掛けしたんです。何が原因だったのかまでは、わかりません。その後、亡くなられたので、もっと違う対応をしておけばよかったかもしれないって、今もたまに考えるんですよね」
「……そうなんですね」わたしと高橋さんは、声を合わせる。
ここで働いている他の人に聞いたとしても、これ以上の話は出てこないだろう。ミステリ小説やドラマであれば、奥から「実は、あの時」と詳しく話してくれる人が出てくるかもしれないが、そんな都合のいいことは起こらない。
「ごめんなさいね。こんなふうに、お客さまについて話したりすること、いつもはないんですよ。印象に残った方たちのことだったので、つい」
「気にしないでください」高橋さんが言う。
「失礼いたします」
テーブルの上に湯吞みと急須だけ残し、仲居さんは部屋から出ていく。
「部屋、別々だったんですね」わたしは急須を取って、ポットからお湯を足す。
「そうですね」
「それでも、多分、ここに来る前には何かしてるんですよね」
「どうなんでしょう?」
「してなかったら、来なくないですか?」湯吞みにお茶を注ぎ、高橋さんに渡す。
「ありがとうございます」手が冷えているのか、両手で囲むようにして湯吞みを持つ。「キスぐらいかもしれませんよ。井上さん、沢村さん以外の女性とうっかりキスするタイプではなかったんですよね?」
「うっかりキスしたりできないタイプですね」
「妻は、そういうことを見抜けるタイプでした。飲み会の席で、ちょっとキスして、それを脅しに使ったのかもしれません。ここに来て、それ以上の関係になろうとしたのに、失敗したのでしょう」
「キスかあ」お茶を少し飲む。「それぐらいだったら、全然許したのに」
「でも、傷つくでしょう」
「そうですね」
結婚式の準備を進めていた時だったのだ。そのタイミングで「飲み会で、一回だけキスした」とか言われたら、わたしは泣いただろう。泣かないとしても、引っ掛かるものは残った。
「大事にされていたんですね」
「うーん」
「井上さんが羨ましいです」
「ん?」
顔を上げて、正面から高橋さんを見る。
「沢村さんみたいに、大事に思える恋人がいたこと、いいなって思います。僕は妻に対して、沢村さんが井上さんを思うほどの気持ちはありませんから。大事にされていなかったし、僕も大事に思っていなかった」
「人生で、あれだけ好きだと思える人と出会えて、大事にされていたことは、わたしの宝物です」
もう大丈夫という気がしていたのに、また泣きそうになってしまった。
「散歩に出ませんか?」わたしの目を見て、高橋さんが言う。「夜も、キレイみたいですよ」
「寒くないですか?」
「冷えたら、また温泉に入ればいいので」
「はい」
「近くであれば、浴衣で外に出てもいいみたいだから、このまま行きましょう」
羽織を重ねて、高橋さんはスニーカー、わたしはショート丈のブーツを履いて、外に出る。
気温は昼間よりも下がっていたものの、寒いと感じるほどではなかった。
旅館から離れ、温泉街を歩いていく。
古い建物の窓にはあかりが灯っているが、東京やうちの辺りみたいに明るくはない。
街灯も少ないため、通りの先は真っ暗だ。
空には星がたくさん見えて、タイムスリップしたような気分になった。
「暗いですね」高橋さんは、確かめるように自分の手元を見る。
「普段、自分たちが必要以上に明るい中にいるんだろうなって感じます」
「足元、気を付けてください」
「見えないって、怖いですね」
「川の方に行きましょう」そう言って、高橋さんはわたしの手を引く。
「高橋さんは、女性とうっかり手を繫ぐタイプですか?」
「いえ」
「わたしも、男性とうっかり手を繫ぐタイプではないです」
「嫌であれば、はなします」
「このままで、いいです」
手を繫いだまま歩き、温泉街のメイン通りである川沿いに出て、橋の上から景色を眺める。
歩いている人は他にもいるけれど、ここも明るいというほどではないため、はっきりと見えなかった。
羽織のポケットにスマホを入れてきた。でも、写真を撮るためには手をはなさないといけなくなる。見るだけでは、いつか忘れてしまうが、それでいいのだろう。
「先に言っておきますけど、僕は酔ってないし、たとえどれだけお酒を飲んでいたとしても、女性とうっかりキスするタイプではないです」
「前置き長い」思わず、笑ってしまう。
「ごめんなさい」
「わたしだって、うっかりキスするタイプではありません。というか、直樹以外の男性とキスしたこともないです」
「そうですよね」
申し訳なさそうに言いながらも、高橋さんは顔を近づけてきて、唇が重なる。
うまくできないかもしれないと思ったけれど、そんなことはなかった。
高橋さんは、わたしに合う人だ。
■ 著者プロフィール
畑野智美(はたの・ともみ)
1979年東京都生まれ。2010年「国道沿いのファミレス」で第23回小説すばる新人賞を受賞。13年『海の見える街』、14年『南部芸能事務所』で吉川英治文学新人賞の候補となる。著書に『夏のバスプール』『タイムマシンでは、行けない明日』『ふたつの星とタイムマシン』『消えない月』『大人になったら、』『水槽の中』『神さまを待っている』『若葉荘の暮らし』『ヨルノヒカリ』など多数。最新刊は『世界のすべて』。