美しく澄み渡る、紺碧の海の底。
色鮮やかな熱帯魚や愛くるしいペンギンに囲まれ、今日も君は無邪気に笑っている。
そんな幻想的な光景を見守る僕に、視線に気付いた君が声を掛けてきた。
「ん、どうかした?」
「いや、大したことじゃないんだけど……正直ちょっと見惚れてたっていうか」
「見惚れてた? 私に?」
目を丸くする君に、僕は照れ笑いを浮かべて言った。
「うん。こんな風に君を見ていると、まるで物語に出てくる眠り姫みたいだなって」
それが自分に向けられた言葉だと理解できていない様子で、君はしばし目を瞬くばかりだった。
やがて君は意味深に微笑し、悪戯っぽく問い掛けてきた。
「ふぅん。私が眠り姫なら、君は王子様になるのかな?」
「お、王子様って、そんな大袈裟な……」
思いがけない切り返しに慌てふためく僕を、君は儚げな表情で見つめてくる。
「ふふ、冗談だよ。私と君じゃ、生きる世界が違うもんね」
一線を引くようにそう呟く君を、その時の僕は無言で見つめることしかできなかった。下手なことを口走ろうものなら、その瞬間にこの世界と君が失われてしまう気がして。
人生は些細な分岐の連続だ。何の気なしに取った選択が、その後の運命を大きく左右してしまうことだって珍しくない。
そのことに気付いた今になって思う。
あの時、僕が口にしていた言葉次第では、僕たちの未来はもっと違うものだったんじゃないかって──。
1章 夢世界へようこそ
カーテンの隙間から零れる朝日に瞼を焼かれ、僕は目を開けた。
本能的に摑んだスマホの時刻は七時を回っている。二度寝は諦めるしかない。
渋々半身を起こした僕は、せめてもの憂さ晴らしに無遠慮な欠伸をひとつ。
「……ねっむ」
布団に入ったのは二十三時頃だが、多分実際に寝ていたのはせいぜい二~三時間といったところだろう。ここ最近、寝付きがどんどん悪くなっているのを感じる。すぐに眠りに就けるのも立派な才能なんだと、僕は身をもって理解させられた。
寝る前のストレッチ、ホットミルク、スマホの禁止、どれも試したがダメだった。数ヶ月前までの僕はどうやって眠っていたのかすら、今となっては思い出せない。開き直って徹夜しようと思えば午前四時頃にようやく微睡み、気が付けば重い頭を抱えて目を覚ます……その繰り返しだ。
布団から出た途端、二月の冴えた空気が肌を刺す。暖かな春はまだまだ遠い。
布団にとんぼ返りしそうになる体に鞭打ち、部屋の外へ。
眠い目を擦り、覚束ない足取りでダイニングに赴くと、さっそく母が気遣いの言葉を掛けてきた。
「おはよう凱人。何だか顔色がよくないけど、具合でも悪いの?」
「ん、べつに……ただちょっと寝付けなかっただけ」
どうやら今の僕は相当ひどい顔をしているらしい。
余計な心配はさせまいと無難な返事をすると、今度は食卓で新聞片手にコーヒーを啜る父が言った。
「睡眠はしっかり取れよ。寝不足は学習の大敵だ、記憶力と計算力が四割落ちるとも言われている」
「わかってるよ、言われなくてもテストと模試はちゃんと頑張るって」
父は何か言いたげな視線を僕に送ってきたが、結局新聞を置いてダイニングをあとにした。勉強に集中するという名目でサッカー部を辞めたのに、これで前より成績を落とそうものなら目も当てられない。
浮かない気持ちを抱えたまま、僕は黙々と朝食を食べ進める。
公務員へのカスハラ問題、大企業のデータ偽装、芸能人のスキャンダル、政治家の裏金疑惑……片手間に読む新聞の記事や、テレビから聞こえるニュースは、既視感のある不穏なものばかり。
寝不足の頭に次から次へと嫌な情報が流れ込み、無性にイライラさせられてしまう。
高校一年生の僕は、遅くとも六年後には何かしらの形で生計を立てなければならない。抜きん出た才能も目を奪われるような容姿も持たない僕には、できるだけリスクの少ない堅実な人生を歩むことが求められるし、もちろん僕自身そうしたい。
でも、堅実な人生って何だ。調べるほど、ニュースを見るほど、わからなくなる。
正直ちょっと前までの僕は、寡黙で仕事一辺倒な父のことを平凡な大人だと思っていたし、成長すれば僕も自然とああいう大人になるんだろうなと考えていた。
しかし将来を真剣に考える時期になって、医薬品卸大手で部長職を務め、家族を養っている父のすごさがよくわかった。そして同時に、『僕に同じ芸当はできないだろうな』という諦観も、頭の片隅に宿っている。仮に父と同じ会社に入ろうとも、それは変わらないだろう。
今の僕には心から熱意を注げるものがない。勉強というものは畢竟、将来生業にしたいもののための備えだが、僕にはそれが存在しない。だから勉強をすることや、僕が現在高校生であることに、本質的な価値を見出せないのだ。
寝たら明日が来てしまう。明日なんて来なくていい。大人になんてなれなくていい。僕だけずっと高校生のままでいい。
僕が夜に眠れなくなったのは、おそらくそんな将来への漠然とした不安のせいだ。
愛知県立小斗井高校、登校後のホームルームにて。
寝不足が祟っていた僕は、夢現に連絡事項を聞いていたのだが、突如として飛び込んできた奇妙な言葉で一気に目が覚めた。
「えー、それでは最後に。今日は入院中の夕霧さんに、クラスのみんなで折り鶴と寄せ書きを贈りたいと思います。教卓の上に折り紙と色紙を置いておくので、皆さんお昼までに時間を作って折り鶴とメッセージをお願いしますね」
中年女性の浅田先生は満面の笑みだが、対する生徒の反応はどこか気の抜けたものだ。「夕霧さんって……」「たしか去年階段から落ちた……」「ああ、もうそんな前の話なんだ……」そんな小声のやり取りが、教室のそこかしこから聞こえてくる。
友人と目配せを交わした女子生徒が、おずおずと手を挙げて質問する。
「あの、先生、夕霧さんってもう目を覚ましたんですか?」
夕霧未沙乃は去年の十月、学校の階段から転落して頭を打ち、救急搬送されたクラスメイトだ。一命は取り留めたものの、打ち所が悪かったようで、もう長いこと学校に来ず入院生活を送っている。昏睡状態に陥っているという噂は、本当だったようだ。
生徒の質問に、浅田先生は首を横に振り、悲痛な表情で答えた。
「いいえ、今も寝たきりですよ。だからこそこういう時は、みんなの気持ちを届けてあげるのが大事なんです。それがきっと夕霧さんの心に届いて、体にもいい影響を与えてくれるんですよ」
昏睡状態で贈られても認識できないなら心に届くも何もないじゃないか、とは誰も言わなかった。高校生にもなれば、こういう場で正論が意味を成さないことくらい百も承知だ。
半年近くも顔を合わせていないクラスメイトのことなんて、僕は正直ほとんど忘れてしまっていた。反応を見るに他の生徒も似たり寄ったりだろう。
まるで最初からこの教室にはいなかったかのように扱われている。
僕は夕霧未沙乃について『大人しい女子』という漠然としたイメージ以外に何も思い出せないし、会話した記憶などもってのほかだ。そんな相手にどんなメッセージを贈れというのか。
露骨に苦い表情をしていた男子のひとりが、果敢にも抵抗を試みる。
「でも俺、鶴の折り方なんて知らないし……」
「折り紙の傍に鶴の折り方の説明を置いておきます。それでもわからなければ、知っている人に教えてもらうように。ひとり最低一羽としますが、もちろん何羽折っても構いませんよ。それと、折り鶴とメッセージには自分の名前を書いてくださいね」
予想していた反論とばかりに浅田先生は答えると、そのままホームルームはお開きの流れとなった。『気持ちが大事』と言う割に、教え子の気持ちにはずいぶんと無頓着らしい。
一限目の開始までの空き時間に、僕は教卓まで行って折り紙を一枚手に取った。面倒事はさっさと片付けるに限る。授業中に内職で終わらせられればベストだ。
自席に戻ってから、僕は何となしに手に取った折り紙が青色であることに初めて気付き、無性に心がささくれ立ってしまった。
睡魔と闘ったり、時には身を委ねたりしながら過ごした八時間後。
スマホで折り方を調べて折り鶴を作り、寄せ書きには『早く元気になってね』と無難極まるメッセージを記し、万難を排して家に帰ろうとした僕の足は、浅田先生によって止められた。
「樋廻くん、ちょっといい?」
「何ですか?」
普段、先生が僕に声を掛けることなんて滅多にない。嫌な予感がしたが、僕はできるだけ顔に出さないよう応じる。
浅田先生は申し訳なさそうに眉根を寄せ、小洒落た紙袋を僕に差し出してきた。
「夕霧さんへの寄せ書きと折り鶴の件だけどね、病院まで持って行ってもらうの、お願いできないかしら?」
「え? 何で僕が?」
「ちょっと遠い病院だし、日の入りもまだ早いから、この時間だと女子にはなかなか頼みづらくて。樋廻くん、たしかサッカー部辞めたのよね? 引き受けてくれると助かるんだけど」
手に持った紙袋から予想はしていたが、それでも男子の僕に白羽の矢が立ったのは意外だった。
「でも、男子が寝たきりの女子の病室にお邪魔するのはまずくないですか? 女子に頼みづらいなら、先生が直接持っていった方がいろいろ安心な気もしますけど」
もっともらしい言い訳で遠回しに拒否したものの、先生も譲らない。
「それも考えたんだけどね。やっぱり同級生の子が渡してあげた方が、夕霧さんも嬉しいと思うの。それに樋廻くん、ホームルームのあと真っ先に折り紙を取りに来てくれたでしょ? あなたみたいな優しい子なら安心して任せられると思ったんだけど」
僕は内心肩を落とした。面倒事を早く済ませようとしたのが裏目に出た。部活を辞めたことまで把握されていては断る理由もない。
「まぁ……べつにいいですけど、暇だし」
渋々僕が承諾すると、浅田先生はパッと明るい表情になり、紙袋とメモ用紙を差し出してきた。
「ありがとう。入院している病院と病室はこのメモの通りよ。何かあったら携帯に電話ちょうだいね」
メモに記された病院名を見て、僕は猫を被るのも忘れて顔を顰めた。場所こそ誰でも知っている総合病院だが、僕の家の方向と真逆じゃないか。マジで遠いし。
とはいえ、今さら『嫌です』と突き返すのも憚られる話だ。部を辞めた今ならちょうどいい運動になって、夜の寝付きも改善されるかもしれない。
不都合な事実を、僕は努めて好意的に解釈することにした。
受付でもらった面会証を首に下げ、病室に向かう。
そこで、僕はネームプレートを指差し確認する。
【夕霧未沙乃】、間違いない。
儀礼的なノックのあと、僕はできるだけ音を立てないよう、慎重にドアを開けた。
「失礼しまーす……」
中は二床タイプの病室だが、片方は空いている。向かって右側のベッドに眠るセミロングヘアの少女には、朧おぼろげながら見覚えがあった。
事前に耳にしていた通り、腕に点滴を打たれた夕霧未沙乃は、僕の入室にも一切反応せず眠り続けている。頭に巻かれたバンダナのようなものと、そこから延びるコードは、脳波の測定器か何かであろうか。
眠っている表情は穏やかだが、首筋や腕は不自然なほど細くなっていた。
接点のないクラスメイトとはいえ、このように力なく横たわる姿を見てしまうと、やはり些か胸が痛む。先生が何かしてあげたい一心であのような提案をした気持ちも少しわかる気がした。
単に置いていくだけというのも味気ないと思った僕は、紙袋から取り出した寄せ書きを掲げ、おずおずと声を掛ける。
「あのぉー……夕霧さん、ここに寄せ書きと折り鶴、置いていきますねぇー……」
反応はない。独り言みたいで気恥ずかしくなった僕は、寄せ書きを紙袋に戻して床頭台に載せた。
床頭台の位置から、僕は夕霧未沙乃の顔を見下ろす。
「昏睡状態って言ってたけど、本当かなぁ。普通に眠ってるだけにしか見えないけど……」
とはいえ、そう見えるのは夕霧さんが機械に繫がれ、規則正しく生命維持をされているせいなのかもしれない。今この瞬間に停電したら彼女はどうなるんだろう──そんな縁起でもない想像がつい頭をよぎる。
本当に起きないのかな。そんな疑問を抱き、僕はまじまじと夕霧未沙乃の顔を見つめる。
──何だか、眠り姫みたいだな。
まるで吸い込まれるように、気付けば手を伸ばせば届く距離まで近付いていた。
間近で見る彼女の寝顔は想像以上に綺麗で、女子の無防備な寝姿を見るという非日常性に無性にときめいてしまう。
神秘的にも思える寝顔に吸い寄せられるように、僕の右手は自然と動いた。
夕霧さんの頰に僕の人差し指が触れ、真っ白な肌にほんの少し朱が浮かぶ。
その瞬間、指先に妙な感覚が走り、僕は反射的に指を引っ込めた。
「え? 今、何か……」
指をまじまじと見つめるが、何も変わったところはない。夕霧さんも相変わらずぐっすり眠りこけている。
今の感覚──何だろう、静電気かな?
自分の身に起きた謎の現象に気を取られて、僕は病室に来ていたもうひとりの存在に気付けずにいた。
「ちょっとあなた、誰!? 娘の病室で何してるの!?」
ハッと顔を上げると、そこには緊迫した表情の四十代ほどの女性の姿があった。
娘、ということは夕霧さんの母親か。
不審者を見るような眼差しにいたたまれず、僕は床頭台の紙袋を掲げて必死に弁解した。
「あっ、ぼっ、僕は怪しい者じゃなくて! その、夕霧さんのクラスメイトの樋廻凱人っていいまして、折り鶴と寄せ書きを持ってきたんです! ほら、この通り」
クラスメイトの名前が入った折り鶴と寄せ書きを見たことで、ようやく母親の警戒心は解けたようだ。
「ああ、そうだったのね。男の子がお見舞いに来るなんて初めてだから、ついびっくりしちゃって」
「いえ、こちらこそ連絡もなくすみません……」
密室で娘と男子がふたりきりなんて怪しまれて当然だ。次の機会があるかはわからないけど素直に反省する。
話題を変える意味も含め、僕は夕霧さんに視線を向けて尋ねた。
「普通に眠っているようにしか見えないんですけど、本当にずっとこんな感じなんですか?」
「ええ。十月に学校の階段で転んで頭を打って、それから来る日も来る日も眠ったまま。一度だけ夢に出てきてくれたけれど……。何で早く起きてくれないのかしら。いくら生きているって言っても、こんなんじゃ全然安心できないわよ……」
口元に手を当てながら言葉に詰まる母親には、肌荒れと目元の隈がはっきりと窺えた。
神経質に親指を嚙み、母親は口早に捲し立てた。
「『目を覚ますのを待つしかない』って担当医は言っているけど、本当かしら? いまいち説明が要領を得ないというか、信用できなくて。原因もわからず半年近くも目を覚まさないなんておかしいじゃない。この病院、口コミもあんまりよくないみたいだし、もっと大きな所に転院させるべきだと思うのよね。手遅れになってからじゃ遅いのに、あの人ったらいつも他人事なんだもの。ねぇ、あなたはどう思う?」
娘の一大事という事情を差し引いても、母親の雰囲気は何というか殺伐としており、言葉遣いも刺々しく、有り体に言うならかなり怖い。
「え、ええと……あ、僕もう行かなきゃなんで、失礼しますね!」
言うが早いか、僕は大股で病室を出た。どう答えてもろくな展開にならないのは火を見るより明らかだ。
面会証を返却し、院外に出たところで、僕はようやく人心地ついた。陽の光を浴びるのがやけに久々に感じられた。
──やっぱり断るべきだったよなぁ。
昏睡状態の少女へ折り鶴と寄せ書きを届け、その見返りは母親からの疑念と愚痴だけ。徒労という表現がこれほど似合う状況もそうあるまい。
追い打ちを掛けるようにこれから始まる長い帰路を思い、僕は溜息とともに肩を落とす。
その道中、僕は自分の人差し指を眺め、首を傾げた。
──さっき、夕霧さんに触れた時の感覚は、結局何だったんだろう?
不幸中の幸いと言うべきか、その日の夜はベッドに入ってすぐに微睡むことができた。
散々歩いて疲れた甲斐があった。久々に出会えた健全な睡魔を、僕は掛け布団と一緒に抱きしめ、心行くまで堪能しようとした。
だから僕は驚いた。
眠りに落ちたのを感じた次の瞬間、自分がぱっちりと目を開けていたことに。
「ん……えっ?」
まだ眠って一時間、いや数分と経っていないはずだ。しかもよく見ればここは僕の部屋じゃない。
目の前を魚の群れが泳いでいる。水族館? 何で起きたら水族館に? いや、何か目の前で泡が上っているような?
っていうか泡の出所、もしかして僕の口……?
「何だ、ここ!? 何で海の中に……ああ、夢か」
パニックに陥りかけた僕は、自分の声で冷静さを取り戻した。海の中で息をしたり喋ったりできるわけがない。これはいわゆる明晰夢ってやつだろう。
海底に直立できているあたり、夢の海には浮力が存在しないようだ。周囲を見回すと、透き通った美しい青の世界と鮮やかな珊瑚礁がどこまでも広がっている。
お伽噺のような光景に僕が見惚れていると、どこからか一羽のペンギンが泳いできて、僕の前に立った。
首を振って翼をパタパタさせる姿は、何だか挨拶をしているようにも見える。僕の膝ほどの小さな体軀だが、臆せず堂々と立っている。
僕は好奇心の赴くまま、屈んでペンギンに手を伸ばした。
「すごいなぁ、ペンギンに触るなんて夢でも初めてだ」
背中や翼といった黒い部分は硬く滑らかだが、白いお腹の羽毛はふわふわでとても心地よい。
見た目の愛くるしさも相俟っていつまでも触っていられそうだったが、唐突にペンギンは体を震わせ、僕のもとから離れてしまった。
「え、何? 怒った? ごめんね、手触りよくてつい……」
夢であることを一時忘れ、非礼を詫びる僕に、ペンギンは盛んに鳴きながら嘴をある方向に向けた。
「キューッ! キューッ!」
「何か言いたいの? こっちに来いってこと?」
僕の言葉を理解してか否か、ペンギンは海底をトコトコと歩き始めた。他にやることもないし、彼に付いて行ってみよう。
──っていうか、ペンギンってあんな風にキューキュー鳴くものだっけ?
取り留めのない疑問を抱きながらしばらく歩いていると、ごつごつした岩場が見えてきて、視界に映るペンギンの姿が増え始めた。彼らの巣穴なのだろうか。
と、僕は大きな岩の隙間に、この海底というロケーションに似つかわしくない存在を見た。
ティーポットや茶菓子が載った珊瑚のテーブルに、座り心地のよさそうな紅色の海藻ソファ、そして僕に背を向ける形でそこに腰掛ける女の子──。
「ペンタロー、どこ行っちゃったのかな。いつもは呼んだらすぐに来てくれるのに。まぁこの世界でシロクマやシャチに襲われることはないと思うけ……ど……?」
視線を感じたのか、ソファに座っていた人物が唐突に首だけでこちらを振り返った。
その顔を見た僕は、思わず「あっ」と声を上げた。
彼女の姿は見覚えがあるどころではない。つい数時間前に顔を合わせたばかりのクラスメイトだったのだから。
「君、夕霧さん?」
飾り気のないセミロングの髪に、とろんとした眠たげな眼。これまでほとんど接点のなかった地味なクラスメイトに、僕は安堵とも困惑ともつかない声で呼び掛ける。
病室で横たわっていた彼女と比べると、血色もよく幾分か元気そうに見える。
立ち上がった夕霧さんもまた小首を傾げ、不思議そうに訊き返してきた。
「ええと……君はたしか、同じクラスの樋廻くん? 何で君が私の夢世界にいるの?」
「夢世界? 何でって言われても、普通に夜寝たらこうなってただけなんだけど……」
僕は戸惑いつつ至って素直に答えたが、対する夕霧さんは懐疑的な表情だ。
「本当に? これまで何もなかったのに、きっかけもなくいきなり樋廻くんが来るなんて変じゃない?」
そういうものなのだろうか。夢なら何でもありだと思うけれど。
疑問はさておき、心当たりはひとつだけだ。
「きっかけと言えば……今日、先生に頼まれて、君の病室まで折り鶴と寄せ書きを届けに行ったんだけど」
「折り鶴と寄せ書き……? 何でそんなもの持ってきたの? 私、現実世界じゃずっと眠りっぱなしなのに」
「いや、それは多分クラスのみんなも思ってたことなんだけどね……」
心底不可解そうな夕霧さんの態度には苦笑しかない。この場に先生がいないのが悔やまれるところだ。
夕霧さんは胸元で両手を弄りつつ、どこか警戒心を伴った目を僕に向けてくる。
「それで、その……樋廻くん、寝ている私に、変なことしてないよね?」
「し、してないよ! 本当に起きないのかなってちょっとだけ頰っぺたをつっつきはしたけど……」
「…………」
「すみません! でも本当にそれ以上は何もしていないんです! 信じてください!」
何でそんな余計なことを口走ってしまったんだ。やましいことをしていないのは本当なんだから黙っていればよかったのに、これじゃ藪蛇だ。
藁にも縋る思いで頭を下げる僕に、夕霧さんは存外穏やかな声で答えた。
「わかった、信じるよ」
「え?」
てっきりさらなる疑念のひとつやふたつ向けられると思っていたのに、僕は拍子抜けしてしまった。
夕霧さんの寛大さに感謝する間もなく、彼女は後ろ手を組んで頭上を仰いだ。
その視線の先では、相変わらず魚群やペンギンが澄んだ蒼色の中、縦横無尽に伸び伸びと泳いでいる。
「『この夢世界では噓をつけない』、そういう風に決まっているから。ちょっと頰っぺたをつっついた……まぁそれくらいならいいよ。どうやら樋廻くんが現実の私と直接接触したことが、私の夢世界に迷い込むきっかけになったみたいだね」
夕霧さんは自分の頰を指でなぞり、意味深に横目で僕を見て言った。
「でも、感心しないなぁ。無防備な女の子に勝手に触るなんて」
「そ、その件に関しては申し開きの余地もなく……」
「あはは、冗談だって。面白いね、樋廻くん」
恐縮する僕を、夕霧さんは愉快そうに笑い飛ばした。その反応に安心した僕は、ずっと抱いていた違和感を改めて自覚した。
夕霧さんはこの奇怪な状況に何ひとつ動じていないどころか、やけに慣れた様子だ。
「あの……今さらだけど、夢世界って何?」
「そのまんまの意味だよ。ここは私が見ている夢の世界。現実世界の私はずっと眠ってて何もできないけど、その代わりこの世界では私はどんなことでも思い通りにできるの。こんな風にね」
夕霧さんが人差し指をくるりとひと回しすると、僕たちが立つ海底に色とりどりの花が咲いた。たしかに現実世界ではありえない芸当だ。
「す、すごい……事故に遭ってからずっと?」
「うん。最初はあの世かと思ったんだけどね。夢世界で一度だけお母さんと話をしたことがあって、現実の私が昏睡状態で生きていることを知ったんだ。多分現実では病室で死にかけみたいな感じだと思うけど、こっちでは割と楽しくやってるんだよ」
夕霧さんは軽く言うけれど、様々な管につながれた彼女の姿を見ている僕は、少し返答に迷ってしまった。
「へ、へぇ……じゃあこのペンギンたちも君が? ペンギン好きなの?」
僕がそう訊くと、夕霧さんは僕を案内したペンギンを持ち上げ、幸せそうに頰ずりして答えた。
「大好き! つぶらな瞳でもふもふでよちよち歩きで、逆に嫌いになる要素がないくらいじゃない?」
「キューッ」
夕霧さんに抱き寄せられたペンギンは短い翼をしきりにパタパタさせている。
よく見るとこのペンギンは他と違い、両頰に白い模様が付いていて、頭頂部から一房の黒い毛がピョコッと飛び出している。子ペンギンなのか、他と比べてサイズがひと回り小さめで、もふもふ度合いも高い。
解放しても傍に立つアホ毛ペンギンを、夕霧さんは愛おしげに眺めている。このペンギンのことはとくにお気に入りのようだ。
「この子はペンタローって言うんだけど、呼べばすぐに来てくれるし、私と一緒に遊んでくれるんだ。他のペンギンもすっごくいい子ばっかりで、全然寂しくないんだよ。本当に、ここは現実なんかよりもずっと……」
そこまで言ったところで、夕霧さんは不意に口を噤んだ。
しばし何事か考える素振りを見せたあと、夕霧さんが尋ねてくる。
「せっかく樋廻くんがいるのに、こんな話をしてばっかりじゃつまんないよね。何かこの世界でやってみたいこととかある?」
「いや、とくにはないけど……」
そもそも何ができるのかもろくすっぽわかっていない僕は、反射的にそう答えた。
夕霧さんは人差し指を立て、控えめに提案する。
「じゃ……じゃあさ、スケートなんてどうかな?」
「スケート? いいけど、ここではそんなこともできるの?」
僕の質問が終わらぬうちに、夕霧さんは唐突に両手を持ち上げた。
その手の動きに合わせて海底から珊瑚の階段が生え、夕霧さんは当然のような素振りで海上へと通じるその階段を上っていく。
「うん。時々ペンギンたちと滑って遊んでるんだけど、人間とやるのは初めてなんだよね。ついてきて」
「へぇ、この世界にはスケートリンクもあるんだ……」
夕霧さんが生み出した階段を上りきり、海上に出た僕は、四方の彼方まで広がる波打つ海面を見て言葉を失った。その光景にではなく、直後に何が起こるのかを察したためだ。
夕霧さんは深く息を吸い込むと、右腕を指揮者のように大きくひと振りする。
絶え間なく波打っていた海面は、夕霧さんを中心として白く凍り付き、あっという間に広大な氷原──もといスケートリンクが完成した。
「できた。これだけ広さがあれば充分だよね」
夕霧さんは満足げに頷くと、珊瑚の階段から氷原に飛び降りた。
氷は軋むこともヒビ割れることもなく、強度は充分だ。さっきまで海を泳いでいた魚やペンギンたちは大丈夫なんだろうか。
肌に吹き付ける風が冷たくなったように思い、僕は遅まきながら尻込みさせられる。
「あの、実は僕スケートしたことなくて……」
「あ……じゃあやっぱりやめとく?」
シュンとした夕霧さんを見るのが忍びなく、僕は両手を振り回して弁解した。
「いや、そういうわけじゃないんだけど! ただ怪我したり夕霧さんに気を遣わせたりするかもって思うと……」
「私は全然気にしないよ。安心して、この世界では転んでも怪我なんてしないから」
ふと視線を落とすと、僕の足にはいつの間にかスケート靴が履かされていた。夕霧さんの能力が為した業だろうか。
考えてみれば、海中から上がったばかりなのに服も体も乾いているし、ここが現実と全く違う物理法則なのは間違いない。リクエストがないと言った手前、これ以上遠慮するのも憚られる。
珊瑚の階段から足を伸ばし、そろそろとスケート靴のブレードを氷原に接地させた。そのまま左足、右足と順に足を下ろし、階段の端をがっしり摑んだままおっかなびっくり直立する。
こんな不安定な靴で氷の上に立つなんて無理に決まっているじゃないか……という僕の懸念通り、靴は僕の意思と無関係な方向に滑ろうとし、僕はへっぴり腰で珊瑚の階段にしがみ付いた。生まれたての子鹿のような情けない立ち姿だが、手を離したらそれこそ無様にすっ転んでしまいそうだ。
そんな僕のもとに夕霧さんは悠々と滑ってきて、両手を差し出した。
「大丈夫。体重を前に掛けて、靴を氷に押し込むようなイメージで滑ってみて。足で八の字を書くような感じで。慌てなくていいから」
藁にも縋る思いで夕霧さんの手を取ると、彼女の顔が間近に迫り、夢の中の出来事だとわかっていながらも、僕は不覚にもドキドキしてしまう。
夕霧さんは有り体に言うなら地味な女子だけど、異性とふたりきりで遊ぶこと自体が僕には縁遠いイベントだ。多分ドキドキの半分は転倒の恐怖も混ざっているだろうけど。
僕と手を繫いで向き合った夕霧さんは、ゆっくりと後ろ向きに滑り、それに引っ張られる形で僕も前方に滑り出す。
「一、二、一、二……」
最初はただ夕霧さんの動きに身を任せるばかりだったが、足の動かし方を試行錯誤しているうちに少しずつ要領は摑めてきた。
唐突に夕霧さんがパッと手を離し、僕は身ひとつで氷原に投げ出された。支えを失いパニックになりかけた僕だったが、慣性のおかげで体勢は崩れなかった。
重要なのは力の強さではなくタイミングだ。片方の足を戻すタイミングで、もう片方の足で体を押し出す。それを等間隔で繰り返せばスピードも付いてくる。
冷たい空気を全身で切る感覚が心地よい。
こなれた足捌きで氷上を滑る僕に、夕霧さんが後ろから追い付き、嬉しそうに言った。
「そうそう、その調子。ちょっと向こう側まで競走してみようか」
「え?」
「よーい、ドン!」
僕は突然の夕霧さんの提案に応じる余裕がなく、スタートダッシュで出遅れてしまった。夕霧さんに追い付くべく力任せに氷を蹴ると、あっという間に凄まじい速度に到達し、僕は彼女を追い抜いた。
しかし、そこで僕は減速の仕方を学んでいないことを思い出す。これどうやって止まればいいんだ──そんな不安と雑念を抱いたが最後、僕は足捌きのタイミングを誤り、体勢を崩して脇腹を強打してしまった。
転んでも勢いは止まらず、僕は倒れた姿勢のまま無様に氷上を滑っていく。絵面だけ見ればギャグ漫画のような滑稽さだ。
軽く目を回した僕は、半身を起こして自分の体を見下ろした。
「いっ……たくないな、本当にこの世界では怪我しないんだ」
肘と横腹をぶつけた感覚こそあったものの、あとを引く痛みは全くない。夢の世界だから当然と言えばそれまでだが、どうにも不思議な感覚だ。
僕の真横で華麗に停止した夕霧さんは、心底可笑しそうな笑い声を上げた。
「あははっ! 樋廻くん、転び方派手すぎるよ!」
「仕方ないだろ、止まり方知らなかったんだから……」
氷上に座り込んで恨みがましく言う僕に、夕霧さんは丁寧にレクチャーしてくれる。
「ごめんごめん、止まる時は足を横にするんだよ。ブレードの摩擦でスピードを抑え込むイメージで」
「こ、こんな感じ?」
夕霧先生の教えに従い、僕は再び試行錯誤する。基礎的な滑り方を学んだおかげか、止まり方はすんなりと習得できた。ただこれは僕の運動神経がいいというよりは、ここが何でもありの夢の世界だからだろう。
それでも、腹這いで滑るペンギンと並走したり、こちらから夕霧さんに競走を挑んだりして過ごした数時間は、この上なく楽しかった。
ひとしきり滑って満足したあと、僕たちは氷上に腰を下ろし、焚火に当たった。現実であれば正気を疑う自殺行為だが、煌々と燃え爆ぜる炎は氷をわずかほども解かさない。
「はー、楽しかった! 誰かとこんなに遊んだのってすごく久し振り」
ペンタローを抱えて座り込む夕霧さんは、すっかりご満悦だ。いくらペンギンが一緒とはいえ、半年近くもずっと夢世界にひとりきりでは心細いだろう。彼女のよき思い出になれたなら何よりだ。
焚火に手を翳して暖を取りながら、僕は意外な気持ちで尋ねる。
「夕霧さん、すごくスケート上手いんだね。習い事とかやってたの?」
終盤はかなりまともに滑れるようになったという自負があるものの、結局夕霧さんとの競走では一度も敵わなかった。プロスケーターも斯くやのフォームとスピードだ。これほど卓越したスケート技術を持つクラスメイトがいたのなら、小耳に挟んでいそうなものだが。
夕霧さんは照れたようにはにかみ、手慰みにペンタローのアホ毛を弄っている。
「そんなんじゃないよ。練習する時間はいくらでもあったし、実は私も滑るイメージがしっかり固まるまでは何回も転んでたんだ。樋廻くん、初心者にしてはかなり上手い方だと思うよ」
「そりゃどうも。まぁ、夢で上手く滑れるようになったところで、現実ではからっきしなんだろうけど……」
僕が何の気なしにそう答えると、思いがけず夕霧さんは冷ややかな言葉を向けてきた。
「それ、必要?」
「え?」
虚を衝かれた僕が素っ頓狂な声を上げると、夕霧さんは光を失った目で僕を見つめ、重ねて問うてくる。
「現実でスケートが上手くなる必要、ある? 夢世界が楽しければそれでよくない?」
その眼差しに射竦められて何も言えずにいた僕は、何となしに頰を搔こうとし、そこで自分の体の自由が失われていることに気付いた。
「あれ? 体が……」
動かない──というか、少しずつ消滅している?
体が透け始めた僕を、夕霧さんは名残惜しそうな表情で見つめている。
「……もう行っちゃうんだね」
その言葉で僕は理解した。ここが夕霧さんの夢世界なら、僕がここにいられるのは当然眠っている間だけなのだ。
消えゆく僕に、夕霧さんは切実さを伴う声音で尋ねてくる。
「ねぇ、樋廻くん……また私に会いに来てくれる?」
「もちろんだよ! むしろこっちからお願いしたいくらい。と言っても、また来られるかどうかはわからないけど……」
本心から出た言葉だったが、これが今夜限りの不思議な夢という可能性も否めない。
自信なく語尾を濁らせる僕に、夕霧さんは嬉しそうに微笑んで言った。
「そっか、その言葉が聞けてよかった。君が夢世界に来てくれるなら、私は君を歓迎するよ。それしか言えないけど、きっとそれがすべてだから」
そんな夕霧さんのひと言を最後に、僕は目を覚ました。
半身を起こし、周囲を見回す。
当然そこは海底でも氷原でもなく、見慣れた自室だ。
カーテンの隙間から差す朝日は、現時刻が早朝であることを示している。
久方振りの快適な目覚めに、僕は大きく伸びをして呟いた。
「……すごくいい夢だったな」
人生で一番の爽やかな朝を、心行くまで嚙み締める。
そんな僕の頭の片隅には、別れ際の夕霧さんの表情が、妙に印象に残っていた。
*
続きは発売中の『僕が溺愛したのは、余命八ヶ月の眠り姫だった』で、ぜひお楽しみください!
■著者プロフィール
こがらし 輪音(こがらし・わおん)
第24回電撃小説大賞《大賞》を受賞し、『この空の上で、いつまでも君を待っている』で作家デビュー。著書に『冬に咲く花のように生きたあなた』『死神の助手はじめました』『7年』『電話交感 私とおばあちゃんの七日間の奇跡』(すべてKADOKAWA)『さよなら、無慈悲な僕の女王。』(実業之日本社)などがある。