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こつこつ、オムレツ

 プロローグ

 こつこつ。ボウルの縁に玉子を打ちつける。
 こつこつ。力の加減が難しい。いつまで経っても、おっかなびっくり。こつこつ、こ。
 うまくひびの入ったところから殻を割ると、とろ、と中身がボウルに落ちる。三つ割って塩としょうを投入。白身と黄身が分離しないようにしっかりと、でも泡立てないように慎重にき混ぜる。
 オムレツは強い火で一気に作らなければならない、と先生が言っていた。教えは守るべし。
 フライパンは小さめがいい。鉄のものなら一度サラダ油を注いでなじませてから、焦げつかない加工がされているものならそのままバターを一さじ入れる。溶けだしたバターが焦げないうちに玉子を流し込むと、はしで手早く外側から中心に向けて搔き混ぜる。全体が少し固まってきたところで火から外し、フライパンの片側に手早く寄せ、傾斜を利用して引っくり返す。ここで失敗すると形が崩れてしまうけど、自分が食べるものならそれでもいい。家族でも許してくれる。でもたいせつなひとに見栄を張りたいなら、何度か練習してから実戦に臨むこと。それがお客さまに提供するものなら、なおのこと。先生の教えは厳しい。
 反転させたら余熱で少し整えてから皿に載せる。ここもまた緊張の場面だ。しくじると今までの努力すべてが台無しになる危険をはらんでいる。息を整えて、一気に。
 ほら。白いお皿の上に鮮やかな黄色のぼうすいけい。じつに見事。今日は申し分なし。
「ふふ」
 思わず笑みが漏れる。できあがったオムレツをテーブルに運ぶ。
 チン。タイミングよくトースターが仕事を終えたと告げる。扉を開けるとこんがりと焼けたトーストが姿を見せる。今日はマーマレードで攻めよう。テーブルには他にレタスとトマトのサラダ。そして夏でも冬でも温かいストレートティー。これが朝の定番。
「朝から玉子三つ? 信じられない」
 母はあきれたように言う。
「それにバターをあんなに入れて。お腹もたれない?」
「全然。これが活力源。今日は人前でしゃべるんだから、朝からエンジンかけないと」
 フォークでオムレツを端から切る。とろっとした中身がのぞく。口に運び、ゆっくり味わう。まず焼いた面の弾力を舌に感じ、それから半熟部分のとろりとした柔らかさが広がる。バターの風味が追いかけてきてロンドを踊りだす。うん、今日も完璧。玉子を産んでくれたニワトリさん、本当にありがとう。
 トーストに載せたマーマレードは自家製。夏みかんを使っているので、さっぱりとしていて食べやすい。少しだけシナモンパウダーを入れているのも効いている。紅茶はダージリンかアッサムか気分で。今日はアッサムね。
「のんびり食べてていいの?」
 母が急かす。大丈夫。まだ時間はある。でもオムレツを冷ましてしまうのはよくないね。少しピッチをあげていこう。
 オムレツをほおると、ふと、あの日のことを思い出した。そうか。あのときのオムレツの味が、すべてのはじまりだったのか。
 あの日は最悪だったのにね。


 第一章 オムレツのにおいは流れるのか

  1

 そう、今日は最悪。皿の上に載るオムレツ、いや、オムレツになるはずだったものを前にして、しろとうはうんざりしていた。
 火が通りすぎてべったりと平面になっている。しかも表面には焦げといってもいい色の焼き目まで付いて。オムレツというより、ただ玉子を焼いたもの。箸で割ってみても中まで固くなっている。口に入れるとざわりとした焼き目の感触が舌に当たる。味は悪くないが、食感は赤点だ。
 やはり玉子一個で完璧なオムレツを作るのは無理なのだろうか。敬愛するいしよしの本のタイトルどおり「バタをひとさじ、玉子を3コ」でなければならないのか。でも朝からそんなに食べたらどれだけのカロリーを摂取することになるか。想像すると怖くなる。週一で通っているアスレチックジムを二回、いや三回にしないと体型維持ができない。ただでさえ忙しいのに、そんなことしていられない。
「ああ……」
 思わず声が漏れる。
「どうしたの? 仕事で何かあった?」
 すかさず母にかれた。
「なんでもない」
 素っ気なく返して、ただ玉子を焼いたものを口に運ぶ。トーストもバターを最小限にしか塗っていないので、いささか物足りない。生野菜にかけるドレッシングも同じく。素に近いレタスをわしわしとんでいると自分が草食動物になったような気分だった。
 ま、食事なんて生命維持のための作業でしかないし。
 自分の仕事の意義を根本的に否定するようなことを思ってしまい、心の中で舌打ちをする。朝からすさんでるな、わたし。
「朝食くらい作ってあげるのに。朝は忙しいんでしょ?」
 実家に戻ってきてから何度も言われたことを、また言われる。母さんに食事を任せたらカロリー計算なんて御破算にされてしまうでしょ、と言い返したくなるが、のどもとで言葉をみ込んだ。朝から言い合いはしたくない。それでなくてもやらなければならないことが多すぎる。早々に朝食を済ませ身支度を整え、七時十五分には家を出られるようにしないと。やはり実家に戻ったのは失敗だっただろうか。自分ひとりならいくらでも自身をマネジメントできるのに。
「この前話してたことなんだけど、考えてくれた?」
 ほら、忙しいとわかっているのに母は話そうとしてくる。
ちゃんでしょ? 現金が一番いいんじゃない?」
「そんな。進学祝いにお金だなんて」
「おかしくないでしょ。叔母おばさんだってわたしが製菓学校に入学したときにはお祝いのお金をくれたよ。叔母さんの娘にお金を渡すんだったらお返しとしてもちょうどいいでしょ」
「あれは、あなたに何を贈ったらいいかふゆが思いつかなくて、しかたなくそうしたの」
「母さんも思いつかないんでしょ。同じじゃん」
「でもね、やっぱりお金じゃ気持ちが伝わらない気がするのよねえ。でね、思ったんだけど、あなたの勤めてるホテルのディナーに招待したらどうかしら。最後にあなたが作ったデザートを食べてもらって」
「それ却下」
「どうして?」
「忘れた? 美紗ちゃん、小麦アレルギーでしょ。デザートもだけど、料理も結構制限されちゃうんじゃない? ホテルではアレルギー対応はしてるけど、いろいろ店に手間をかけさせて面倒なの」
「面倒って、そんな言いかた──」
「あー、もうその話、終わり」
 陶子は食事半ばで立ち上がる。
「時間がないの。後にしてくれる? もう準備しなきゃ」
 残りのパンを手に持ち、ただ玉子を焼いたものは半分残したままキッチンを出た。
「後って、いつも陶子ちゃんはそう言って話を聞いてくれないじゃないの」
 母の恨みがましい言葉を背中で聞き流し、陶子は二階に上がった。
 たしかに「面倒」というのはよくなかった、と後になって思う。食物アレルギーのあるお客さまに対応するのが面倒というつもりではなかった。ホテルでは前もってアレルギーのことを知らせてもらえれば万全の態勢を取ることができる。デザートも小麦を使わないものを作ることなどいくらでも可能だ。ただ母ののような話にうんざりして、ついつっけんどんな言いかたになってしまった。
 本当は母にとってめいの進学祝いのことなどはどうでもよく、ただ自分と話したいだけなのだということを陶子は知っていた。子供の頃からそうだった。母は誰かと話していたいのだ。それが意味のない無駄話でもいい。いやむしろ無駄話を延々としたいのだ。それが楽しいらしい。でも娘は無駄話が好きなタイプではなかった。申しわけないけど。
 てきぱきと身支度を整え、また一階に下りてきたのは七時十三分。なんとか予定どおり。
 キッチンには起きてきたばかりらしい父がいる。母は父にも美紗の進学祝いのことを相談しているようだ。父はくだくだと話す母の言葉の合間を突いて、陶子が予想しているとおりのことを言った。
「おまえの好きにしていい」
 家事や親戚のことなどで母が相談すると、父は決まってそう言った。つまりは責任逃れなのだが、もしかしたら父は母の自主性を尊重しているのかもしれなかった。もしかしたら、だけど。
 夫と娘が話し相手になってくれないせいで、母の不満は朝からピークに達しているようだ。きっと今日も英会話教室に行ったら溜まっている不満をぶちまけることだろう。もちろん日本語で。そこまで母の語学力は高くない。授業を受けた後、同じ教室に通っているお友達とカフェで思う存分そうした話をしていることは、母本人から聞いている。
「だってあなたたち全然わたしの話を聞いてくれないんだもの。少しぐらい不満をらしたっていいわよね」
 不満を抱かせている本人たちにそう言うこともまた、母の不満解消のようだった。父と結婚してからずっと家にいることが多い母には、他にけ口がないのかもしれない。
 それで気が済むのならどれだけ娘の悪口を言ってくれてもいい、と陶子は思う。むしろそうやってストレスを発散できている母のことをうらやましく思ったりもする。だって……。
 ためいきひとつ。陶子は家を出た。
 桜の頃を過ぎ、季節はすっかり春のはずだった。なのにの風はやけに冷たい。陶子はスプリングコートのえりを寄せ、足早に歩いた。
 駅まで徒歩十三分。車内十五分。駅からまた徒歩で五分。職場であるアリスタホテルに到着する。市内で最も格式のある老舗しにせホテルだ。今日も表玄関には黒塗りの立派な車が停まっている。アメリカのIT企業のCEOが宿泊していたから、その関係だろう。昨日のレセプションでは陶子も大忙しだった。
 物々しさを漂わせている表玄関を通りすぎ、従業員通用口からホテルに入る。セキュリティゲートは最近最新式のものに取り替えられ、IDカードを携帯していればわざわざ取り出してタッチしなくても通してくれる。
 ロッカールームでコックコートに着替え、三階のデザート厨房に向かう。前室にはすでにスタッフが三人来ていた。みんな後輩たちだ。
「おはようございます」
 三人が背筋を伸ばし上半身を三十度傾けて挨拶をしてくる。
「おはようございます」
 陶子も同じように挨拶を返した。一番経験の浅い女性スタッフが手にしたタブレット端末を渡してくる。
「昨日のパーティのデータです。いちごケーキとモンブランは完売でした」
 レセプションで提供したプチガトーの消費量についてまとめた表だった。苺ケーキはどんなときも外さない定番だし、モンブランはアリスタホテルの人気メニューだから食べ尽くされても当然だろう。しかし陶子は眉を曇らせる。
「ヘーゼルナッツのタルト、ずいぶん残っちゃったのね」
「みたいです。ガトーショコラより人気がなかったみたいで……あ」
 隣に立っていた同僚にひじちで注意され、スタッフは慌てる。
「あなたたちが気にしなくていいの。自信作だったんだけど、駄目だったみたいね」
 ヘーゼルナッツのタルトは陶子が発案し、昨日のレセプションで初めて投入したものだった。そのことは、みんな知っている。
「わたし、まだまだだね」
 明るく言ってタブレットを返す。スタッフは作り笑いに失敗していた。
 気を遣わせるな。陶子は自分を𠮟しっする。
 ドアが開き、他のスタッフたちが入ってきた。みんな陶子より先輩で全員男性だ。
「おはようございます」
 陶子は後輩たちと一緒に挨拶する。角度は三十度。
 対する先輩たちは「おはよう」と挨拶を返す者、うなずくだけの者、まったく無反応な者と様々だった。誰も三十度にはならない。
「田城ちゃん、動画見たよ」
 そんな中、スーシェフのさわが声をかけてきた。
「デザートも君も、いつもながら映りがいいね。ありゃ受けるな。うん、再生数稼ぐわな」
 ナンバー2パティシエであるスーシェフは気さくな人柄で部下たちの、特に男性陣の受けがいい。た物言いをあえてしてくるのも、職場の雰囲気をやわらげるための彼なりの心遣い、らしい。
「ありがとうございます」
 陶子は三十度で返す。
「今度、俺も出してよ。ナッペの技、見せたいからさ」
 スーシェフはそう言って、スポンジにクリームを塗る仕種をした。
「ダメダメ。沢田さんなんかが出たら人気落ちちゃいますよ」
 同僚の男性スタッフが腐す。
「うちの動画チャンネルは陶子ちゃんの人気で持ってるようなもんなんだから」
「えー? 俺、数字持ってないの? これでも一流ホテルのベテランパティシエだぜ。あこがれられてもいいだろうに」
「シェフもパティシエもラーメン屋の大将も、YouTubeの世界じゃ見栄えと喋りだよ。腕前よりそういうひとが受けてるの。ねえ、陶子ちゃん」
 自分に振ってくるのは予想していた。しかしとっに反応できない。なんとかあいまいな笑みを作ってその場をしのごうとした。
 腕前より見栄えと喋り、だって。こういうのが、しんどい。
 またドアが開いて、ひとりの男性が入ってきた。一瞬で前室の空気が張りつめる。陶子も思わず背筋を伸ばした。
 誰よりも長いコック帽を被っている。コックコートの胸元には「Hoshikawa」としゅうされていた。
 ほしかわゆう。年齢は五十歳。国内外のホテルで腕を磨き、いくつものコンクールで優勝し、このホテルのオーナーがさんの礼(どういう意味かは検索してみて)をもってホテルに迎え入れたシェフパティシエ。このデザート厨房の王。誰よりも背の高いコック帽は王冠だ。
 王はしずしずと入ってきて定位置のドア前に立った。その表情を一言で形容するなら「冷厳」だろうか。すべてをへいげいする威圧感がある。陶子は星川が笑っているところを見たことがなかった。陶子も彼の前で笑ったことはない。
 スーシェフを含めすべてのスタッフが三十度の礼をした。もちろん陶子も。
「おはよう」
 星川はよく通る声で挨拶した。スタッフも全員、声をそろえて挨拶を返す。
昨夜ゆうべのレセプションはご苦労さまでした。参列者の方々も当ホテルのもてなしに満足されていたと聞いています。特にしゅひんであったリアム・ブルックスCEOはモンブランを気に入られたようで、インスタに写真をアップされたそうです」
 その投稿なら陶子も昨夜確認していた。写真に添えられた「This Cake is the best!」という言葉を誇らしく読んだ。同時にそれが自分の考案したタルトでなかったことに、いささかの無念さも感じていた。
「ただ、問題もありました」
 星川の口調は変わらない。しかし彼の言葉を聞いている全員がその瞬間、緊張した。
「モンブランが途中でなくなり、お客様からクレームが出たとの報告がありました。沢田さん」
「あ、はい」
 呼びかけられたスーシェフははたから見ても明らかなくらい緊張して返事をする。
「何が原因ですか」
「あ、えっと……それは……」
 沢田が言葉を濁す。星川の視線が鋭くなった。
「原因を把握していないのですか。それとも言いたくないのですか」
 声音が硬くなる。場の空気も硬直した。
「い、いえ。その、トータルの数は予測していた分で足りていましたので、問題はそれを提供するタイミングだったみたいです」
「作るのに手間取っていたというのですか。、何がボトルネックになっていたのですか」
 星川はさらに問いかける。
「あー、それはですね、その、作るのにちょっと時間がかかってしまったというか、三人がかりでやってたんですけど、なにしろお客さんがどんどん食っちまうんで」
「アントルメティエの人数が足りていなかったということですか。それとも手際が悪かった?」
 シェフパティシエの容赦ない追及の言葉に、陶子は胸を締めつけられるような焦りを覚えた。当日モンブランを仕上げていたアントルメティエのひとりが自分だった。
「それはですねえ、なんて言うかなあ……」
 言いよどむスーシェフが、ちらりとこちらを見る。陶子は腹をくくって小さく手を挙げた。
「わたしの責任です。他の仕事に手を取られてモンブランがおろそかになっていました」
「他の仕事というのは?」
「ヘーゼルナッツのタルトです」
「君が考案したものですね」
「そうです。予想以上に手間がかかってしまいました。申しわけありません」
 陶子は頭を下げる。
「予想以上? そうではないでしょう。あれは手間がかかると前もって指摘したはずです。その上で君はやれると断言した」
 そんなこと言われただろうか。思い出せない。しかしシェフパティシエが言うのだから、そうなのだろう。
「わたしの見込みが間違っていました。申しわけありませんでした」
 さらに深く、三十度より深く頭を下げた。
「ヘーゼルナッツのタルトはモンブランの提供を遅らせてでも作るべきものでしたか。それだけ需要のあるものでしたか」
 下げた頭に星川の声が降りかかる。ここで返答にちゅうちょしていてはいけない。
「いえ、モンブランを優先して作るべきでした。わたしの判断の甘さと手際の悪さが、すべての原因です」
 陶子は頭を下げたまま即答する。顔を上げるとシェフがこちらを見つめていた。胃のあたりがきゅっと痛くなる。
「ではこのトラブルについては田城君に責任があるということを認めるのですね。君はどうするべきですか」
 星川の視線が氷のやいばのように感じられた。
「……常に会場での消費状況を把握しながら臨機応変に対応するべきだと思います」
 返答が抽象的すぎる。自分でもそう思った。しかし今はそれくらいしか答えられる言葉が見つからない。いや、ひとつある。
「そして新メニューの提案については、今後もっと慎重に検討をしていきたいと思います」
「私もあなたからの提案については、より慎重に検討していきましょう」
 星川の言葉が胸に突き刺さる。当分、陶子の提案が採用されることはない、ということだ。
「今日も大切なパーティがあります。今回のことを反省して気を引き締めて臨んでください」
 星川は言った。これでやっと解放してくれたようだ。
「はい、承知いたしました」
 もう一度、深く頭を下げた。
「皆さんも心してください。我々の仕事は時間との勝負です」
 頭上をシェフの言葉が通りすぎていく。
「何よりも尊重すべきなのは、お客様のニーズに的確に応えること。もちろんクオリティを下げることは許されません。由緒あるこのホテルのステイタスを保ち、さらに上げていくつもりで頑張ってください。それでは、今日もよろしく」
 朝礼が終わった。スタッフはそれぞれの仕事をするため製菓室、ベーカリー室、アイスクリーム室へと散っていく。陶子も息をつき、製菓室へと向かおうとした。
「田城君」
 その背中に星川の声がかかる。びくりとしそうになるのをなんとかこらえ、振り向いた。
「はい」
 さらに𠮟責されるのかと身構える。
「今日はたしか、インタビューを受けることになっていましたね?」
 言われたのは別のことだった。
「あ、はい」
 少し拍子抜けしながら応じる。
「広報からよろしくと言われました。いつものように頼むと」
「わかりました」
 いつものように、というのがどういうことか、よくわからない。でも、いつものようにすればいいのだろう。
「君は製菓部の華です。経営陣もそう評価している。私も期待しています」
 星川は言う。
「あなたなら、その期待に応えてくれると信じています」
 静かな口調だった。でも陶子は喉元に鋭い刃物を突きつけられたような感覚に囚われた。怖い。
「……ご期待に添えるよう、努力します」
 恐怖に抗して、答えた。シェフパティシエは小さく頷き、自分の持ち場へと向かった。彼の姿が見えなくなってから、陶子は再度、大きく息をついた。自分でも驚くほど大きな声が漏れた。

  2

 陶子がラウンジにやってくると、その人物はソファから立ち上がって微笑ほほえみかけてきた。
「田城陶子さんですね。今日はお時間を取ってくださってありがとうございます」
 穏やかな声のひとだった。三十代後半から四十代くらいだろうか。ショートカットの髪をアッシュグレイに染めている。ハウンドトゥースのジャケットに黒いパンツ。丸い顔立ちにスクエアタイプの眼鏡めがねフレームが似合っていた。初対面でも警戒されにくそうな雰囲気だ。
「田城です。こちらこそ今日はよろしくお願いします」
 三十度の礼。いつものように。
 女性は名刺を差し出してきた。さき。肩書は「ライター」とある。すみれ色の花がデザインされたきれいな名刺だった。
 陶子も用意した名刺を渡す。田城陶子。肩書は「製菓部パティシエ」。ホテルのロゴ以外はごく普通の白い名刺だ。
「早速ですけど、お写真いいですか」
「あ、はい。どうぞ」
 スマホで撮るのかと思ったら、小瀬はバッグから黒いカメラを取り出して構えた。ボディに赤い丸のロゴマークが見える。陶子は思わず、
「ライカ?」
 とつぶやいた。
「はい?」
「あ、すみません。そのカメラ、ライカかなって」
「ライカ?」
 小瀬はカメラの正面を見て、
「……ああ、これライカって読むんですか。わたしレイカだと思ってました」
「Leica」だから「レイカ」か。たしかにそう読めるかも。
「有名なカメラなんですか、これ?」
 小瀬は無邪気に訊いてくる。
「みたいです。わたしも祖父が持ってたものしか知りませんけど」
「そうですか。へえ、高いのかしら?」
「らしいですよ。ドイツのメーカーで百年くらいの歴史があるって祖父が言ってました」
「そうなの。知らなかった」
 小瀬が自分の持っているカメラをまじまじと眺める。どうやら自分の持ち物ではないようだ。余計なことを言ってしまったと陶子は悔やんだ。いつものようにいつものように。カメラを構え直した小瀬の前で身構える。何度も被写体となっているので適正なポージングはわかっていた。背筋を伸ばしあごを引き口角を上げて──。
「最近何か笑えたことってあります?」
 いきなり尋ねられた。
「え……?」
 そんなこと急に訊かれても。必死に思い出そうとするが、思い浮かばない。
「わたしね、昨日財布を落としちゃったんですよ」
 小瀬のほうから話しはじめた。
「スタバで友達とお茶してて、いざ支払いをってときに気がついたんです。バッグに入ってないの。思わず『財布落とした!』って叫んだら友達が呆れて『また?』って。じつはこの前この友達と会ったときもわたし、財布を落としたんです。そのときは駅の改札にあってすぐに見つかったんですけどね。何度もこういうドジ踏んじゃってるんですよ。でも今度は大丈夫だったんです。だってわたし反省して財布にエアタグ付けておいたんです。エアタグ、知ってます? それ付けてるとスマホで場所を確認できるんですよ。だからすぐに調べてみたんです。そしたらなんと、財布はわたしたちがいるスタバの中にあるって。これ、もしかしたらスリがいてわたしの財布をスリ取ったばかりなんじゃないかって思うじゃないですか。急いでエアタグを鳴らしてみました。スマホでエアタグから音を出して居場所がわかるようにできるんです。そしたら聞こえるんです。ぴぴぴぴぴっぴぴって。どこから聞こえたと思います? わたしの足下。見たら、テーブルの下に落ちてたんです。財布を出そうってバッグを開けたときに落としちゃったんですね、きっと。そしたら友達が言ったんです。『財布、落とし立てのほやほやだったのね』って」
 そう言って小瀬は笑う。ころころと小気味のいい笑い声だった。陶子も釣られて笑う。
 カシャ。シャッターが切られた。
「いい笑顔でした。ありがとうございます」
 陶子は当惑する。まったく油断していたときに撮られるとは思わなかった。今のを雑誌に載せるつもりだろうか。
「笑い話って聞いてる人の表情をナチュラルにしてくれるんですよね。笑ってもらえたならわたしの財布も成仏できます。いや、財布が死んだわけじゃないけど。無くしてもいないし」
 ひとりで言ってひとりで突っ込んでいる。おかしなひとだ。悪いひとではないみたいだけど。さっき笑ったのも彼女の失敗談が面白かったのではなく、彼女の笑い声が楽しかったからだった。
「今日は『スイーツホリック』のインタビューでしたね。どういうことをお話しすればよろしいのでしょうか」
 態勢を立て直すために尋ねた。製菓業界専門誌で、陶子も購読している。
「すでに資料はお送りしていますけど、『女性パティシエの肖像』という連載で田城さんにオファーさせていただきました」
 小瀬は答える。
「これまでの連載記事のコピーもお送りいたしましたが、お伺いするのはパティシエになろうとしたきっかけとか現在までの歩みとか、パティシエという職業に対する心構えとか、そういったものです。念のため録音させていただいてよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
 陶子が応じると、小瀬はレコーダーをテーブルに置いて録音を始めた。そして脇にタブレットを置き、メモ帳を構える。
「では、はじめますね」
「はい、よろしくお願いします」
 いつものとおりだ。女性パティシエとして尋ねられることは媒体が違っても変わらない。ならばいつものように話せばいい。
 陶子は話した。小学四年のときに初めて家でホットケーキをひとりで焼いてお菓子作りの楽しさに目覚めたこと。中学のときにテレビで観たフランスの一流ホテルのパティシエがケーキを作る様子に憧れて自分もパティシエになりたいと思ったこと。それから一貫して「将来の夢はケーキ屋さん」であったこと。高校卒業後にタジマモリ製菓専門学校に入学し、在学中にジャパン・スイーツ・コンテストのエコール部門で銀賞を獲ったこと。卒業後にアリスタホテルに就職し、ホテルの育成プログラムの一環としてフランスに向かうことになったこと。二年の研修を終えて帰国した後はここでアントルメティエとしてデザートのデコレーションに携わっていること。すでにこの手のインタビューで何度も話していることだった。
 小瀬はあいづちを挟みながら要所で質問を挟み、陶子の言葉を促した。こういう仕事に慣れているのがわかる。記事もうまくまとめてくれるだろう。
「田城さんのこれまでの作品をいくつか拝見したんですが、どれもデコレーションが素晴らしいですね。特にこれとか」
 小瀬がタブレットに表示させたのは昨年陶子が作ったケーキだった。名前は「グロッタ・アズッラ」。青く着色したクレーム・シャンティイホイップ・クリームパータ・ジェノワーズスポンジをコーティングし、ブルーベリーとぎんぱく、チョコレートでデコレーションしたものだ。
「ケーキでここまで青いもの、あんまり見たことがないので新鮮に思いました。素敵です」
「ありがとうございます。これはカプリ島の青の洞窟グロツタ・アズツラをイメージしたものです。チョコレートで洞窟を再現してその合間から青い海が見えるようにしてみました」
「海のさざ波まで再現してあるんですね。こんなケーキを誕生日にプレゼントされたら本当に素晴らしい気分になると思います」
 小瀬は手放しで称賛する。おもはゆさに表情が動きそうになるのを陶子は奥歯を嚙みしめて我慢した。
「今はひとりでデザート作りを任されているんですか」
「そういうこともあります。当ホテルには星川悠人という日本でも随一のパティシエがおりますので、今はその指導を受けながら修業している最中です」
 星川の名を差し挟むこともできた。これで経営陣の心証も良くなるだろう。
「将来の夢というか、展望は何かありますか」
 小瀬は質問を変えてくる。陶子は迷わず答えた。
「そうですね。もっと洋菓子の可能性を広げられる活動ができればと思っています」
「ご自分でお店を持つということは考えませんか」
 これもよく訊かれる質問だ。
「自分の可能性のひとつとして想像することはあるんですが、個人で店を持つとなると経営者としてやらなければならないことが出てきます。それを考えると今はまだ知らないことが多すぎて現実的には思えませんね。とにかく今はホテルパティシエとして腕を磨くことに専念したいと思います」
 陶子の言葉に小瀬は頷き、言った。
「なるほど。とても優等生的な回答ですね」
 ん? 今の言いかた、何?
 表情が変わりそうになったのを慌てて抑える。何と返したらいいのか。すぐには思いつかない。だから聞こえなかったことにした。
「では、この後はケーキを作るところを撮影させていただいてよろしいですか」
 小瀬も何事もなかったかのように話題を変えた。
「あ、はい。準備しておりますから」
 陶子は立ち上がり、彼女をデザート厨房へと案内する。
「田城さんがやっていらっしゃるYouTubeの動画チャンネル、拝見しました。とても人気のようですね」
 歩きながら小瀬が話しかけてくる。
「あれはわたし個人ではなくアリスタホテル公式チャンネルです。ホテルのスタッフや他の店の方々の動画もいろいろあります」
 言いかたが少し突慳貪になってしまう。さっきの言われかたに引っかかっているようだ。いけない。感情は抑えないと。
「でも再生数では田城さんの動画がトップクラスですよね。そういうこと、やっぱり意識したりします?」
 この物言いも少しトゲを感じる。陶子は冷静を保つよう意識しながら答えた。
「いえ。再生数とかにはあまり関心がなくて。新作デザートの告知とかしているだけですし」
 本当は再生数めっちゃ気にしてるけど。
「ケーキのデコレーションの仕方とかも教えているじゃないですか。あれ、わかりやすかったですよ。田城さんの手際も素敵だったし」
「ありがとうございます」
 あおるようなことを言ったり褒めたり、小瀬の意図がよくわからない。でも陶子は考えないことにした。どうせこれっきりで二度と会うこともない相手だ。
「小瀬さんはスイーツ専門のライターさんなんですか」
 反撃というわけでもないが、訊かれるばかりでは不公平な気がして質問をしてみた。
「いいえ。専門というのはないんです。何でも屋ですね」
 小瀬はフレンドリーに答える。
「芸能、歴史、ペット、グルメ、ビジネス、依頼があればいろいろなひとに会って記事にします」
「すごいですね。じゃあ有名なひとに会ったりもするんですか。芸能人とか」
「たまに、ですけど。一昨日おとといも会いました」
 と、小瀬があげたのは陶子もよく知っているミュージカル女優の名前だった。
「すごい。わたし、あのひとの歌声が好きなんですよ」
 陶子は少し興奮する。
「小瀬さん、音楽にもお詳しいんですか」
「いえ」
 話の流れを断ち切るような語調で、小瀬は否定した。
「音楽だけは対象外です」
 それはどうして、と訊いていいのかどうか迷っている間に、厨房に到着して会話は途切れた。
 前室で小瀬にはキャップを被ってもらい、彼女と自分の衣服にブラシをかけてから一緒に製菓室へと入る。甘い匂いが体を包み、働くスタッフたちの静かな熱気が伝わってくる。毎日浴びている職場の空気だ。
「何度もデザートの厨房にお邪魔してますけど、やっぱりいいですね。この香りにうっとりしちゃいます」
 先程までとは打って変わって小瀬がはしゃぐように言う。陶子は冷蔵庫から前もって用意しておいた作りかけのケーキを取り出し、作業台に置いた。パータ・ジェノワーズにクレーム・シャンティイをナッペしてある。グロッタ・アズッラのような青ではないが、デモンストレーションとして同じ趣向で作るつもりだった。すでにブルーベリーと銀箔は飾りつけてある。チョコレートの洞窟の代わりにはシューでアーチを作っておいた。これは最後に飾るつもりだ。
 陶子は口金を付けクレーム・シャンティイをじゅうてんしたポッシュ絞り袋を手にしてケーキの上面に添えた。
「写真、撮りますか」
「あ、ちょっと待ってください」
 小瀬はカメラのレンズをもたつきながら交換すると、構えた。
「どうぞ」
 陶子はポッシュに力をかけなから口金の先を動かした。白い平面に白い波のような模様が盛りつけられる。シャッターを切る音が連続した。白い波にかすかな乱れが起きる。音のせいか、それとも撮影されていることを意識しすぎているのか。
 大丈夫、少し緊張しているだけ。ひとつ息をついて、次の動作に移ろうとした。そのとき、背後に気配を感じた。
 振り向くと、星川が立っていた。朝礼のときの緊張が全身によみがえって、思わず息が止まった。
 星川は何も言わない。ただ背後から陶子の作業を見ているだけだ。
 小さく一礼して作品に向き直る。大丈夫、いつものようにすればいい。いつものように。呪文を心の中で唱え、口金をケーキの余白に当てる。が、そのまま動けなくなった。
 ポッシュを絞れない。硬直したように体が固まってしまった。
 なんだ? どうした? なぜ動かない? 自分を𠮟咤しても、どうにもならない。一旦、ケーキから離れた。
「どうしました?」
 小瀬が尋ねてくる。陶子は背筋を伸ばし、小瀬に言った。
「紹介します。こちらがシェフパティシエの星川です。シェフ、今日取材にいらっしゃったライターの小瀬さんです」
「どうも」
「はじめまして。小瀬です」
 ふたりが挨拶をしている間に、陶子は息を整えた。落ち着こう。落ち着けば大丈夫だから。そう自分に言い聞かせてポッシュを構えようとした。が、やめた。
「小瀬さん、写真撮影はこれくらいでよろしいでしょうか。わたし、この後も予定がありますので」
「あ、はいはい。これで大丈夫、だと思います。できればケーキの完成品を撮影したかったんですけどね。でも大丈夫。うん、大丈夫です」
 小瀬は何度も「大丈夫」を繰り返した。全然大丈夫だって思ってないな。でも、そう言ってくれるならありがたい。
「では」
 陶子は星川にもう一度、今度は三十度で一礼し、小瀬を伴って厨房を出た。
「わたしは大丈夫だけど、田城さんはどう?」
 前室でキャップを脱ぎながら、彼女は言った。口調が変わっている。
「え?」
「大丈夫?」
「あ、はい。もちろん」
 そう答える陶子の顔を、小瀬はじっと見つめた。何なの? 何か因縁つけたいの? 身構えると彼女は自分のスマホを差し出した。
「連絡先、交換しません? LINEとかやってる?」
「やって、ますけど」
「じゃあ、これ。読み取って」
 勢いに圧され、表示されたQRコードを自分のスマホで読み取った。
「必要ないと思ったら消してくれていいから」
 小瀬は言った。
「ま、おまじないみたいなものだと思ってくれれば」
「おまじない、ですか」
「要らない心配ならいいけどね」
 釈然としない陶子に、小瀬は微笑みかけた。

  *


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■ 著者プロフィール
太田忠司(おおた・ただし)
1959年愛知県生まれ。81年に「帰郷」で「星新一ショートショート・コンテスト」優秀作を受賞。
90年、長編ミステリー『僕の殺人』で作家デビュー。2004年、『黄金蝶ひとり』でうつのみやこども賞受賞。17年、『名古屋駅西 喫茶ユトリロ』で日本ど真ん中書店大賞小説部門3位。他の著書に、グルメミステリー「ミステリなふたり」シリーズの他、『奇談蒐集家』『レッドクラブ・マーダーミステリー』など多数。
本書は、和菓子の道を志す職人の卵を描いた『ぐるぐる、和菓子』の姉妹編。

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