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  4. 午前三時のサイキック 秋津編2
第12回

午前三時のサイキック 秋津編2

  

 感謝された。オーナーからだ。
 やはり面倒な客から逃げ出したというのが真実だったようで、夕方ごろに店へ帰ってきた彼女から「深川カヌレ」と小箱に書かれた洋菓子を渡された。門前仲町まで行っていたらしい。
「急に怒り出すからびっくりしちゃった」と肩をすくめる彼女に、あきが言葉を選びながら「手を触られたのが嫌だったみたいですよ」と言うと、オーナーはキョトンとしたあと、「そう」と少し落ち込んだ様子で目を壁のほうにやり、悔しげな口調で「おじいさんのくせに、もっと若い子のほうが好みだったのかしら」と、ずれたことを言った。
「そういうことではないと思いますが」秋津は咳払いをし、言った。
せんえつながら、申し上げます。お色気要素の押し付けは、嬉しがる人ばかりではないようです。GTOを欠いた振る舞いが、今回のクレームの原因だったのではないかと」
 秋津の言葉にオーナーは黙り込み、一人で噛み締めるかのように「ジーティーオー」と口の中で呟いてから、秋津を見た。
「TPOのこと?」
「それです。すみません」
「あなた」
 急に強い口調でオーナーがこちらをめ付けた。
「意外とずけずけ言うじゃない。でも考えてみて。あなた、今日が二日目のアルバイトなのよ。ここは私の店で、私はこのやり方で長年店を存続させてきたの。自分の言動を差し出がましいと思わないの」
 しまった、と感じると同時に、いや、別に何も困らないと思い直した。急に呼ばれて来ただけで、元より辞めるつもりである。
 秋津は辞める旨を伝えようと口を開いた。するとオーナーが、人差し指を顎に当てて言った。
「ボン」
「え?」
(ボン)よ、あなた。これまでアルバイトは何人か雇ったけれど、そのぐらい当事者意識を持って店に関わってくれる人材を探していたの。何と言ったって──」
 当惑しながら、今のはボンジュールやボンボヤージュのボンだろうかと考えている秋津の前で、オーナーは受付の横にある棚から一冊の本を取り出した。
「私はしばらく、これにかかりきりで忙しくなりますからね」
 そう言って彼女が差し出したのは、表紙にでかでかと目の前にいるオーナー自身の顔が印刷された単行本だった。タイトルには『魅了の法則──経営者は全員“魔性”になりなさい──』とある。版元は聞いたこともない出版社だった。
「何ですか、これは」
 秋津は渡された本を手に、表紙とオーナーの顔を交互に見比べた。
「これ、オーナーですよね。えっ」
 秋津は驚きのあまり、本をオーナーの顔の横に掲げた。
「本を出されているのですか?」
 オーナーがフフンと髪を手で払った。
「二冊目を鋭意執筆中よ」
「なんと。すごい」
 秋津は色めきたった。本を出している人に生で会うのは初めてだった。
「そういうわけだから。これから毎日来てほしいわ」
 サインをもらうべきかしゅんじゅんしていたところにそう言われ、秋津は我に返った。
「すみません。──実は、辞めさせてもらいたいと思っているのです」
 ひどく気まずかったが、口にした。オーナーが、
「なんですって」
 と大きな動作でこちらを振り返った。
「申し訳ありません。入ったばかりで本当に申し訳ないと思うのですが──」
「辞めてどうするの」
 なぜとは聞かないあたり、去られるのに慣れている感じがした。秋津は一瞬、口ごもってから、言った。
「まだ決まってません」
「モヴェだわ」
 オーナーが顔をしかめて頭を横に振った。
「モヴェ。まったくモヴェよ。秋津さん、あなたは自分の状況がまるでわかってない」
 オーナーが自分の本を前に突き出した。
「あなたは今、ひとつの芸術の誕生に立ち会おうとしているの。この本は多くの人を救った。自分に魅力がないと思い込んでる人たちが、この本を読んで何人も己の輝きに気づくことができたのよ。私は次の本でもそうするわ。私が執筆に取り組んでいる間に店を助けて、偉大な芸術の奉仕者となれることを光栄に思うべきよ」
 本を片手に詰め寄られ、気づけば、壁を背にして後ろがなかった。
 べき、って──。
 されながら秋津はオーナーの前に両手を立てた。
「オーナー、しかしですね」
「私にはあなたが必要なの」
 強い口調でオーナーが言った。
「私だけじゃない。多くの人が、あなたを必要としているの。間接的にね。いいかしら秋津さん、人生に大切なことは、ふたつよ。ひとつめは永遠に私だけの秘密だけど、ふたつめは、求められているうちが花だと胸に刻むこと、よ」
 そしてオーナーは繰り返した。
「あなたが必要なの」
 至近距離で香る香水の匂いに居心地の悪さを感じながら、秋津は自然と、その殺し文句めいた言葉について考えた。入退院以来、ずっと考えていた事柄(ことがら)にまつわる思索だった。
 償うために生きる道もあるのではないかと〈師匠〉は言った。
 それはつまり、今後は命を誰かのために使うということではないだろうか。
 でも、だからといってどうすればいいのだろう。そんな崇高な気持ちにもなれないというのが正直なところだし、方法もそれこそ、臓器提供やボランティアしか思いつかない。
 ボランティア、という考えに、秋津は目の前のオーナーへ視線を戻した。
 この人に協力すれば、彼女の言う通り、私は多くの人の役に立てるのだろうか。
 直後に正気を取り戻した。何か違う気がする。著作があるという権威に負けて、あやうく盲信するところだった。
 しかし、考えを巡らせたのち、秋津はやがておずおずと、両手でオーナーの手を握った。
「──わかりました」
 彼女に向かってうなずく。
「微力ながら、ご協力いたします。明日から執筆に専念なさってください」
 秋津は彼女の手を握手の形に握り直し、小さく縦に振った。申し出を受けることにしたのは、それが何であれ、今後の身の振り方を決める期間のためには、日々の糧が必要だからだった。表面上は力強い表情でオーナーと握手を交わしながら、秋津は内心で、ひとつの寂しい予感を抱いていた。
 私の夢は終わったのだ。
 人並みのことができないこんな自分にもひとつだけ、使える魔法があると思っていた。その力を振るう何者かになるのが、ずっと夢だった。でも、私はその夢を叶えたとたん、満足して、今までずっと自分を追いかけてきていた人生の影に身を委ねてしまった。秋津は先ほど体験した未来視のことを思い起こした。今までとは全然違う、ガタガタでお粗末なもの──きっとこれは、安易に自らの命を投げ出そうとした報いなのだろう。
 秋津はオーナーの手を離して、言った。
「いい本を、書いてください。素晴らしいことだと思います。心から」
「ジュ・タベデュー」
 オーナーが唇のグロスを笑みで光らせた。
「超ボンよ」


  

 そうして、今に至る。
『パールヴァティ』のある地下街から地上に出ると、十一月の寒風が秋津の髪をなぶった。短いボブだった髪は少々伸びて長めのおかっぱと言える形になり、今風に呼べばロングボブを略して「ロブ」と呼ぶのだと、店の片隅の小部屋で猛然とノートパソコンのキーを叩いているオーナーに教えられた。
 すっかり毎日の定番と化したユニクロのタートルネックセーターの首元をすくめ、秋津は商店街の中にある銀行へ向かっていた。少しずつ仕事を覚え、客の前でタロットをめくってありきたりのことをたどたどしく言える程度にはなったが、秋津が基本的に客の相手をするようになってから、心なしか客足がさらに遠のいた気がする。もう一人誰かパッとした占い師を雇ってくれないだろうか、と他力的なことを考えながら接客をしているうちに、釣り専用の小銭が切れた。営業中の店を両替のために出てきてしまったが、執筆中とはいえ多少の来客ならオーナーが応対してくれるだろう。
 ドラッグストアの角を曲がり、銀行のある通りに出た時だった。
 ガシャンと何かが倒れるような音がして、秋津は思わず足を止めた。音のしたほうを振り返ると、三、四軒ほど店舗を挟んだ位置にある喫茶店の前で、二人の男性がたいしていた。
 背の高い若者が、
「何すんだよ」
 と相手に顎をしゃくった。彼の足元には隣のマッサージ店のものらしき黄色い立て看板が倒れていて、キャスターが宙でカラカラと回っていた。
「知らんよ。そっちが勝手に当たったんだろう」
 相手方の老人が声を発した。秋津は遠目に立ち止まったまま、眼鏡の奥の目を細めて首を前に突き出した。声といい、姿勢の良さといい、どこかで見たことがある気がする。しかし記憶が繋がらない。人の顔が覚えられないのはいつものことだが、けんのんな雰囲気に秋津は男性二人を注視し続けた。商店街を歩くまばらな通行人たちも秋津と同様に、足を止めたり止めなかったりしながら彼ら二人に目をやっている。
 若者が言った。
「偉そうに決めつけやがって。俺だっていう証拠はあんのかよ」
「匂いでわかる」
「前の客のかもしれねえだろ。俺じゃねえよ」
「吸いたいなら便所じゃなくて外で吸いやがれ。寒いからって横着すんじゃねえ」
 これ以上の問答は結構だとでもいうように、老人が若者の言葉を無視して言った。
「今日び路上も駄目なのかもしれんがな。まったく、親の顔が見てみたいぜ」
 その言葉に若者がこれまでとは比にならないほど不穏な形相をし、老人に食ってかかった。
「親は関係ねえだろ」
「関係あるね。喫茶店の便所なんてのは、赤ん坊を連れて入っておしめを取り替える母親だって居んだ。そんな場所で煙草吸うんじゃねえよ。禁煙って字が読めねえなら、お前をアホに育てた親の責任だ」
「てめえ」
 若者が老人の鎖骨のあたりを突いた。老人は「おっと」と余裕のある声でたたらを踏んだが、また何か言おうとする雰囲気で彼が顔を上げた瞬間、その胸ぐらを若者が強い力で掴み上げた。
 通行人たちがかすかにどよめく。暴力沙汰の気配に息を呑んだ時、秋津は「あ」と遅ればせながら思い出した。仔アザラシのような白髪交じりの頭をしたあの老人は、先日、店で自分が応対したクレーマーだ。
 どうしよう。
 知り合いだからといって何かが変わるわけでもないのだが、秋津は思わず無意味に手をあたふたと動かした。そうこうしているうちに男性二人のほうから肉を麺棒で叩いたような低い音がして、よろけた老人が地面の立て看板を踏み抜きながらアスファルトに手をついた。殴られたのだ。その後ろ襟を若者が掴み、なおも引っ立てようとする。
 秋津は慌ててポケットに手を突っ込み、中の物を取り出すと、叫んだ。
「やめなさい!」
 負傷中の声帯を通って出たしゃがれ声が響き渡った。自分でもちょっと意外なほど、渋みのある声だった。通行人たちの視線が秋津に集中し、組み合っていた男性二人もこちらに目を向けた。視線を浴びながら、秋津は手にあるスマートフォンを水戸黄門の印籠のように掲げて、男性二人へとゆっくり歩み寄った。
「撮ってますよ。ネットに流しますからね」
 老人を追撃しようとしていた若者が「は?」と秋津を睨み、下からすくい上げるような目つきで凄んだ。
「何撮ってんだよ、おい」
 そう言って若者は放り投げるように老人から手を離すと、今度はこちらへ体を向けた。
「ふざけんな」
「ふざけてません。ネットにも流すし、警察にも渡します。だから、今すぐ──」
 言葉の途中で何かがシュッと眼前の空を掻いた。一拍遅れてから秋津が驚いてのけぞると、持っていたはずのスマホが右手から消えていて、目の前の若者の手にあった。フックのような軌道で奪い取られたらしい。
「ちょっ──」
 一瞬で奪われてしまったことに激しくうろたえたあと、秋津は「んん」と冷静になるための咳払いをした。動揺を隠しながら顔を上げ、若者に言う。
「おやおや。速い動きですね。まるでボクサーです」
 言いながら秋津はゆったりと両腕を大きく広げた。
「でも、なめてはいけません。格闘技なら私も、少々覚えがありますよ」
 そう言って、秋津はその腕の格好のままゆっくりと腰を落とした。映画の「イップ・マン」で見たカンフーの構えだった。内心では恐怖でドコドコと心臓が胸を打っていたが、落ち着け、勇気を出せ、と自分に言い聞かせた。
 秋津の構えを見て、若者が若干、気味の悪いものを前にしたような戸惑いの表情を浮かべた。狙い通りだ、と秋津は的を射た気持ちになった。この行為は何も、蛮勇の奇策ではない。警察が来るまでの時間稼ぎだ。これだけギャラリーがいるのだから、ここは治安よろしき日本であるし、すでに誰かが通報を終えているはずである。
「掌中の物、必ずしも掌中の物ならず」
 秋津は、まんが「三国志」の台詞を引用しながら、前に突き出した両手のひらを陰陽太極図のような円の軌道で動かした。
「あなたが今奪ったスマホのことですよ。さあ、大人しく返しなさい」
 すると、思いもよらぬ位置から声がした。
「もういい」
 下からだった。見ると、尻餅をついていた老人が地面に座り込んだまま上体を起こし、顎を押さえていた。
「ここまでだ。お宅もすっかり、気ががれたろう」
 若者を見上げて老人が言った。若者は険しい表情で何度か老人と秋津に目をやったが、やがて興醒めしたように舌打ちをすると、秋津のスマホを地面に放って背中を向けた。秋津のスマホが嫌な音を立てて地面をバウンドし、そのまま若者は不機嫌な大股歩きで通りの角に姿を消した。
 姿が見えなくなってから、秋津は構えを解いた。あんの長い息を吐くと、遅れて手が震え始めた。誤魔化しがてらにその手で顔の汗を拭ってから、秋津は地面の老人に手を差し出した。
「大丈夫ですか」
「ああ」
 秋津の手を取らずに老人が一人でよろけながら立ち上がった。
「悪いね。お宅こそ大丈夫かい」
 店で会った時よりもマイルドな物言いで、相手のほうはこちらを覚えていない様子だった。この際どうでもいいことに思えたので、秋津は「ええ」とずれた眼鏡を押し上げ、スマホを拾うために腰をかがめた。
 秋津は言った。
「まったく、怖い世の中ですね。何があったか知りませんが、暴力を振るうなんて」
 スマホを拾いたくて触れているのだが、手が震えているせいで指先から逃げてしまう。
「きっともうすぐ警察が来ますから、そしたら、その怪我は病院に──」
 ようやく掴めたスマホを手に上体を起こすと、老人はもう、路上のどこにもいなかった。あれ、と秋津が周囲をきょろきょろ見回していると、いきなり後ろから肩を叩かれた。
 黒い腰巻きエプロンを身につけた、初老の男性が立っていた。
 誰だろう。
「あんた、大丈夫?」
 男性が言った。秋津は頷き、誰にせよ今の一件を見ていたギャラリーの一人に違いないその男性に対して、「いやあ、びっくりしましたね」と神妙な顔で目を伏せた。
「駄目だよ、あんたみたいな人が他人の揉め事に首を突っ込んじゃ。危ないよ。男二人のけんなんだからさ」
「いったい、何が原因の喧嘩だったんでしょうか」
「二人とも喫茶店に来てた別の客だったんだけどね。あの兄ちゃんが店のトイレで煙草吸ってさ。後に入った爺さんがそれに気付いて注意したんだよ。そしたら言い合いになって、そっからは、てめえコノヤロ表に出やがれ、てな流れよ」
 まるで見てきたように男性が言い、秋津は彼の顔を見た。
「一部始終をご存じなんですね」
「そりゃ俺はその店の店主だからね」
 なんと、と秋津は男性のエプロンに視線を移した。男性はどこ吹く風で立っていて、悪びれる様子もない。迷惑だから傍観に徹した気持ちもわかるが、秋津は複雑な気分になった。
「だいたい、あの爺さんも悪いのよ」
 男性がズボンの尻ポケットに両手を突っ込んだ。
「退職して暇なのかなんなのか知らないけど、あちこちウロウロしてはそこらの店に入って、今みたいに物申してんの。ここら辺じゃ有名な迷惑爺だよ」
 そうだったのか。秋津は先日のことを思った。『パールヴァティ』もおそらく、老人の行動圏内だったのだろう。
「でもさ、姉さん。さっきはすごかったよ」
 男性が愉快そうに笑った。
「何あれ。あの、アチョーみたいなやつ。太極拳?」
「詠春拳です。イップ・マン師匠の」
「え? キックマン?」
「いえ、イップ・マンです」
「ピップマン?」
「違います。イです」
「ミ?」
 周知でないことに嘆かわしさを感じた。そうこうしながら秋津は警察の到着を待っていたが、しばらく経っても、どうにもやってくる気配はなかった。誰も通報などしていなかったらしい。すべてに嘆かわしさを感じながら、秋津は当初の目的である銀行へと向かうことにした。黄色く色づき始めた銀杏(いちょう)の植わった通りを歩きながら、秋津は空を見上げて目を閉じた。葉問(イップ・マン)師匠──ああ、葉問(イップ・マン師匠。


  

 その日は朝から『パールヴァティ』店内に奇妙な音が響いていた。
 秋津はブースの一つで、女性客を相手にタロットをめくっていた。この地下街にあるCDショップの黄色い袋を携えてやってきたその女性の相談内容は、転職すべきか否か、というものだった。秋津がタロットを並べると、その問いに対して〈塔〉の正位置が出た。転職に対しては是と思えるカードだったのでそう伝えると、では次の仕事はどんな業種が良いのか、雇用保険の面からも何月に退職するのがベストなのかといったことを仔リスのような聡明な眼差しで訊かれた。非正規雇用以外の社会人経験がほぼない秋津はその問いにうまく答えられず、ブースには針のむしろのような空気が流れ始めていた。客の冷たい眼差しを浴びて秋津が背中に一筋、冷たい汗の滴が流れ落ちるのを感じている時、店の奥のほうから、ゴン、と低く鈍い音がした。
「なんですか、あれ」
 客がとうとう、怖々(こわごわ)と口にした。占いが始まってからずっと、何分かごとに聞こえてくる音だった。  
 秋津は、
「おかしいな。昨日修理したはずなんですが」
 と、あたかもそれが何かしらの設備トラブルであるような台詞を口にして、少々お待ちください、とブースの外に出た。
 奥にある小部屋のカーテンをシャッと開ける。
 オーナーが、ノートパソコンの前でうつろな目をしていた。
 額には、先ほどから机に打ち付けているらしい赤い痕がついていた。
 秋津はオーナーの傍らに片膝をついてしゃがみ、小声で彼女に言った。
「作業中にすみません。恐れ入りますが、その音、どうにかなりませんか」
「もう駄目よ」
 オーナーがゆっくりと、虚空から、秋津の顔の真横にあるまた別の虚空へと目線を移動させた。
「もう駄目なの。ミューズがまったく囁かない」
 パソコン画面には、中ほどまで埋まった文章の末尾でカーソルが点滅していた。このあいだまでは順調に文字数を増やしていたはずだが、秋津が最後に見たくだりから内容が先に進んでいないようだった。
「少しお休みになっては」
「駄目よ!」
 急に叫んで、オーナーがまた机に額を打ち付けた。
「怠惰はミューズの嫌うことよ。彼女は深い海の底に住んでるの。会うためにはこちらがせっせと潜らなければどうにもならないのよ」
「わかりました、わかりましたからその自傷をやめてください」
 言っても彼女がなお頭を振りかぶって同じことをしようとしたので、秋津はすかさずそばにあったクッションを額の落下位置に敷いた。フリルがついたピンク色のクッションにオーナーの顔面が着地して、その格好のまま、オーナーはくぐもった声で泣き始めた。
ちょうあいを失ってしまった」
 打ちひしがれた声に、芸術のすさまじさを目の当たりにした思いになる。理解できない境地で苦しんでいるオーナーに対して畏れに似た敬意を抱き、秋津は彼女の肩を揺すった。
「大丈夫です、愛を失ってなんかいません。オーナーと芸術の神は相思相愛です」
「気休めはよしてちょうだい」
 クッションの中で自嘲している。
 自分ができることに限界を感じて、秋津は机に伏しているオーナーの背中を眺めた。心なしか痩せて、特盛が大盛になったようなサイズダウン感があった。
「ご飯はちゃんと食べていますか?」
「ええ。栄養補給も創作活動の一環ですからね。昨日の晩ごはんも、今日の朝ごはんも、きちんと食べましたよ。一文字も書けていないのに、卑しく、豚のように、ムシャムシャと」
「何を食べたのですか」
 自虐発言は無視して秋津は尋ねた。
「何だったかしらね。コンビニの何かよ。菓子パンだったかしら」
「なるほど。原因が判明しました」
 秋津は人差し指で眼鏡を押し上げた。
「オーナーが失っているのは芸術神の寵愛ではなく、栄養です。私にお任せください」
 秋津は小部屋のハンガーにかけていた上着を手に取った。
「ちょっと出てきます。その代わり、二番ブースに来られているお客様の接客をお願いいたします」
 上着を羽織りながら告げて、制止も聞かずに店を出た。途中で担当を代わるなどお客に対して無責任だが、あんな状態のオーナーでも占い師としてはこちらよりはるかにベテランであるし、あのような異音を放たれ続けては仕事にならない。
 地下街から地上に出て、秋津は商店街のドラッグストアへと向かった。

 棚に並んだ栄養ドリンクの中から、もっとも高価な「マムシ1000」と書かれたものをカゴに放り込み、会計をした。その足で同商店街の弁当屋にも行き、天丼の持ち帰りを注文する。テレビで将棋の棋士が勝負飯に天丼を食べているのを見たことがあった。とにかく栄養のあるものを食べて頑張ってもらうほかない。昼時なので十分ほどかかると弁当屋の店員に言われ、待つことにした。店内の待合スペースは他の客で埋まっていたので、外に出た。すると扉を出たとたん、秋津の頬に小さな雨粒がひとつ落ちた。降り出したとはいえ、混んでいる店内に戻って待つのも気詰まりなので、秋津は向かいにあるシャッターの降りた商店の軒下で小雨をしのぐことにした。
 人によっては傘も差さない程度の雨粒が空から落ちる。秋津は湿気でごわつき始めた髪を押さえて、向かいの古い建物を見上げた。雨雲で周囲が薄暗い中、二階の窓が明かりでこうこうと光っている。雨の日の校舎を連想した。この位置からは字が読めない向きで袖看板がかかっているが、あそこも、何かの店なのだろうか。
 ぼんやりしながら通りを眺めていると、目の前を若者の一団が通り過ぎた。
 正確には、リアルタイムでそう認識したわけではなかった。ただの風景だった彼らの存在を秋津が意識したのは、通り過ぎたあとで彼らのうちの一人が足を止めて、こちらを凝視してきた時だった。
「ん?」
 行き過ぎようとしていた若者の一人が、連れのその行動に同じく立ち止まった。
「なに。どしたん」
「あいつだよ。スマホの」
 そう答えて、こちらに視線を向けているほうの若者が顎で秋津を示した。
 その言葉に、全員が足を止め、秋津のほうを見た。
 こちらを示した男の顔に目をやって、さすがの秋津も気が付いた。数日前に、この商店街で老人を殴った若者だった。
 知っている顔はその場からじっと秋津を見つめているだけだったが、説明を受けた側の男が、連れたちを残してこちらへ近づいてきた。背が高く、柔和な面立ちをしている。緩くパーマのかかった茶髪に丸首の白Tシャツという格好で、小雨の中を歩いてくる姿が、妙にさまになっていた。
 秋津は周りに目を走らせた。雨空だが昼日中の往来である。しかし無意識に、右手に()げているドラッグストアの袋の持ち手を不安で握りしめていた。
 秋津の正面まで来ると、男が少し体を屈めた。秋津に目線の高さを合わせた格好で、男が言った。
「初めまして」
「初めまして」
 硬い声で返すと、男がおかしそうに笑った。
「ああ、ごめんね、いきなり。今、いいですか?」
「なんでしょうか?」
「買い物帰り? この近くに住んでる人?」
「用件は何ですか」
 向かいにある弁当屋の入り口に目をやりながらそう訊くと、男が秋津の横に並んだ。はたから見ればまるで、雨宿りに御相伴する風の立ち位置だった。
「いやね、こないだ、俺の友達の喧嘩を動画に撮ったでしょう」
 男が秋津と同じ方向を見ながら言う。
「単刀直入に言うと、あれ、消して欲しいんだ。まだSNSとかに流してはないと思うけど、後で何かあったら困るからね」
 男の声色は柔らかかった。
「あいつも、就職とか色々あるからさ」
 秋津はしばらく口をつぐんだあと、言った。
「わかりました」
 あくまでもソフトだが自分が望む返答以外を許可しないような気配を男から感じたので、彼が望んでいると思う返事を口にした。屈したような惨めさはなかった。男の言うとおりにしたところで、別に誰も不幸にはならない。告発すべきことを圧力で握りつぶされたというような構図ではなかった。
「助かる」
 男が苦笑し、片手を立てて“ごめんね”のポーズをした。
「じゃあ、早速だけど今ここで消してくれるかな」
 目の前でスマホを操作しろと言っている。性急さに少し驚いたが、秋津は言われるままにスマホを取り出した。顔認証でロックを解除したとたん、画面に一件の不在着信が表示された。どうやら男とやりとりしている間に弁当が出来上がって、向かいの弁当屋が秋津の番号にかけてきていたらしい。スマホを操作するのに表示が邪魔なのでタップすると、着信履歴の画面に切り替わった。
 すると横から突然、スマホを奪われた。
「何これ」
 人当たりのいい表情のまま、男が秋津の着信履歴を指で示した。
 数日前のものだった。
「110番してるじゃん。警察に話したの?」
 秋津は瞬きをした。確かに先日、あの喧嘩の仲裁の直後に、警察へ電話した。誰も通報していないようだったので、自分がしなければと思ったからだ。警察からはもちろん、「そのお爺さん本人が被害届を出していない以上、こちらは何もできない」と言われてしまったが、事後とはいえそうすることで、わずかでもパトロール等の目配りが強化されるならと思い、取った行動だった。
「はい、しましたね」
 秋津は正直に言った。
「被害届が出ていないので、対応は何もなされないとのことでした。何か問題ですか」
 すると男は何も言わず、スマホを持ったまま秋津から離れた。そのまま連れたちのもとへ戻り、さっきの当人に何かを話している。男の言葉を聞いた先日の若者が、「はあ?」と声を上げると、怒りの形相で秋津に目を戻し、こちらへ向かってきた。秋津の腕にさっと鳥肌が立ち、そして、秋津は向かいの弁当屋に視線を戻すと、そこへ向かって、一気に軒下を飛び出した。
 すると、息が詰まった。
 上着のフードを後ろから掴まれたのだ。
 そのまま強い力で引っぱられ、気付くと、先ほど雨宿りをしていた建物の脇の路地だった。フードから手を離されて秋津が咳き込むと、顔の横の壁に手を置かれ、先日の若者が至近距離で秋津を睨みつけていた。腕で遮られていないほうには路地の出口があるが、そこにはさっきの男を含めた仲間が数人立っていて、物理的にも視界的にも道を塞いでいた。
「おい、お前」
 男が威嚇の表情で言った。
「何してくれてんだよ。警察に通報? 暇人か」
 秋津が腕で遮られていない方向に顔をよじると、バン、とそちらにも手が置かれた。
「人の未来潰すのが趣味か? てめえが毎日しょうもない生活送ってるからって、他人を引きずり下ろそうとすんじゃねえよ」
 間近で言われて思わず顔を背け、そのあとふたたび若者の顔に目をやった。その両目の怒気にすくんで再度、顔を横に向けると、秋津はかすれた声で、つぶやくようにして「やめてください」と言った。
 相手がせせら笑った。
「今から強姦されますみたいな顔してんじゃねえよ。誰がお前みたいなの相手にするか、バカ」
 男がまるで漫才師の突っ込みのように秋津の頭をはたいた。とうとう暴力を振るわれたが、その打撃はこの状況にそぐわないほど軽く、バラエティ番組じみていて、かえって恥辱的だった。
 しかし、直後に衝撃を感じた。
 遠く離れた位置で、真横に吹っ飛んだ秋津の眼鏡が地面に落ちる音がした。
 頬を張られたのだ。
 路地の出口のほうから、先ほどのパーマの男が言った。
「あーあ。やっちゃったよ。気が短いんだから」
「うるせえ。こういう自意識過剰なブスはいらつく」
「やっちゃった以上、対処しといたほうがいいよ」
 パーマの男が片手をメガホンのように口に添えて助言した。
「おおごとにされたら今度こそやばいからさ」
 それほど強く殴られたわけではないが、打たれた衝撃で放心し、彼らが交わす言葉の内容が理解できないまま頬に手をやる秋津の手首を、若者が掴んだ。そのまま彼はなぜか秋津のズボンのウエスト部分を掴んで、引きずり下ろそうとした。意味がわからず、下ろされかけたズボンの腰部分をとっさに押さえて抵抗すると、
「別に犯しゃしねえよ。お前だって勝手に撮っただろ。だからこっちもお前を撮る。誰かに言ったらデジタルタトゥーの刑に処す」
 どっかで聞いたやり口だろ、と男がスマホを掲げて、秋津のズボンの腰部分に手をかけたまま、電子音とともに録画を開始した。あらがう自分の姿がしっかりと動画に撮られているのを意識させられながら、秋津は、いっそ一撃、この男の両目に、起死回生の目潰しでも喰らわせようかと考えた。
 でも、そんなことをしたらどうなるだろう。恐ろしかった。恐怖でパニックになりながら、秋津はふと、あることに思い至った。
 私、この前、死のうとしていたのではなかったっけ。
 不思議だった。いま、反撃して、彼らにもっと痛い目に遭わされたら恐ろしいと感じているのは、他人に殺されるのはまた別口だということなのだろうか。まあそれはそうだ、と秋津の脳裏に、緑色のゴリラの姿がよぎった。瞬間、秋津は怒りを感じた。怯えながら男とスマホの間で往復していた両目に怒りの炎が宿り、そして、秋津は口を開いた。
「どうぞご自由に」
 秋津は押さえていたズボンの上部から手を離した。
「そんなことされても痛くもかゆくもありませんよ。なんなら裸で『シェー』のポーズでもしましょうか。私のそんな動画を見て泣く身内もいませんし、そんなことで困る職業でもありません。唯一傷つくのは私の尊厳ですが、そんなものは」
 言って秋津は男の手を振り払い、顔の前で二本の指を束ねて立てた。
「負けるのを承知であなたたち全員に一発ずつお見舞いすれば、じゅうぶんお釣りのくることです。ケツが出口ではなく入り口だということをわからせてあげますよ」
「何だ、こいつ」
 束ねた二本の指を向ける秋津を前に、若者が怒りと困惑の混じった顔をした。
 しかし若者は前回と違い、今度はすぐさまその戸惑いをかなぐり捨てると、秋津の肩を突き飛ばすように片手で押した。
「イキんな、ブス。毎回わけわかんねえこと言いやがって」
 そう言ってまた突き飛ばす。どことなく男性というよりも女子の喧嘩を思わせるその行為は秋津が立ち回ろうとするたびに繰り返され、三度目で秋津は路地の出入り口を背にして尻餅をついた。秋津は怯えた仕草で後ずさり、わざと大げさに倒れたその位置から、地面に手を這わせた。地面に落ちていた物が指先に触れた瞬間、秋津はそれを掴むと、男めがけて振り抜いた。
 路地に連れ込まれた際に秋津が落とした、ドラッグストアのレジ袋だった。
 鈍い音が鳴り、遠心力付きで「マムシ1000」五本セットの打撃をくらった男が痛みの声を上げながら顔の中心を押さえた。
 勢いでレジ袋が手から離れ、壁にぶつかって中身が割れる音がした。秋津はずり下がったズボンに足をもつれさせながら、もはや破れかぶれに路地の出口へと向かった。男の連れたちは殴られた仲間を助けようとするでもなく、クラスの大人しい生徒が突然切れたのを見たように目を見開いて、口を半分、笑いの形にしていた。パーマの男が笑いの混じった声で、
「おお。待て待て」
 と、怯えた犬でもあやすかのような動きで腕を広げて秋津を受け止める体勢をとった。くそ──秋津は突撃しながら歯噛みした。頭の中になぜか、懐かしのK君の顔が浮かんだ。たぶん、これは走馬灯だ。『秋津、知ってるか?』雑学王の彼は言う。『カマキリって、ゴキブリの親戚らしいぜ』。知るか。もうどうにでもなれ。秋津は叫びながら頭を頭突きの形に低く下げた。
 その時だった。
「おい」
 路地に、低い声が響いた。
 若者たちの声ではない。そう認識すると同時に、秋津はその認知とは何の因果関係もなく、自分のズボンの裾を踏んで前に転んだ。ズザーッと地面を斜めに滑って壁にぶつかり、野球の塁に頭から滑り込んだような格好になった。
 伏したまま顔を上げると、男たちがこちらではなく、反対側に目を向けている光景が目に飛び込んできた。
 彼らの向こうに一人の人物が立っていた。
 片手で何かを抱え、もう片方の手で、これもまた何かをこちらに向けている。シルエットだけを見るなら、エナジーバッテリー付きの光線銃を構えた宇宙隊員のようだった。いや、隊員というにはたいが萎びているから、白髪交じりの髪も相まって、SF風の武器を持った老科学者と言い表したほうが適当かもしれない。
 先日のクレーマー老人が、こちらに消火器のホースを向けていた。
「クソガキどもが。今すぐせろ」
 男たちが顔を見合わせた。しばしの間のあと、パーマの男が顎を掻いた。
「えっと──」
「黙れ。警察を呼んだからな」
 そう言って老人が再度ホースで狙いをつけると、わかったわかったとでも言うように、パーマの男が軽く両手を上げた。
「オッケー。了解。誰だか知んないけど落ち着いて。ね、おじいちゃん」
「俺はお前のおじいちゃんじゃねえ。お前のさんは、もりのところの兄貴だろう」
 パーマの男が、なだめるように上下させていた手の動きを止めた。
 老人が路地の奥、秋津の向こうで鼻を押さえている若者のほうに、ホースの狙いを切り替えた。
「お前の親父はまつうらさんとこの婿養子だ。出来の悪い息子を持って、別嬪(べっぴん)の母ちゃんも苦労してらあな」
 自分を先日殴った若者に老人が言う。鼻を押さえている若者は目を見開いたあと深く眉間にしわを寄せ、何か言おうとした様子だったが、鼻が痛むのか、顔を歪めて悪態をついた。
 狙いを奥の若者から動かさないまま、老人がパーマの男を横目で見た。
「何ボサッとしてんだ。この中じゃお前が一番、はしこいように見えるんだがな。俺の勘違いか」
 その言葉にパーマの男は、緩やかに肩を下げながら長い息を吐くと、
「行こ」
 と短い言葉で連れたちを促し、路地から出ていった。奥の男も鼻を押さえて、通り過ぎざまに秋津を睨みながら、後へ続いた。
 若者たちがいなくなった路地で、老人が秋津のもとに歩み寄った。
「大丈夫か」
 消火器を手にぶら下げて老人が言った。
 秋津は打たれた頬に手をやり、口の中の怪我の有無を舌で探りながら、
「はい」
 と答えた。
「病院に行ったほうがいいな」
 秋津は顔をしかめて地面に手をつき、立ち上がった。
「怪我はないみたいです。警察を呼んでくださったんですよね」
「通報は嘘だ」
 秋津から少し離れた位置でたたずみ、通りのほうを目で確認しながら老人が言った。
「悪いが、ありゃただのハッタリだ。警察に行くなら自分で行ってくれ。ああいうのは調書やら何やらで、やたら時間が取られるから」
 秋津は老人の顔を見たあと、消火器に視線を移した。どこから持ってきたのかは知らないが、引っ掴んで駆けつけてくれたのだろう。
「ありがとうございます」
 遅ればせながら礼を口にした。
 老人が消火器のホース先端を本体のノズル受けに戻して言った。おぼつかない手つきだった。
「あそこから、あんたが連れ込まれるのが見えたからよ」
 顎で指し示されたのは、向かいのビルの上階あたりだった。二階に明かりがついていた所だ。秋津は瞬きをした。
「あそこにいらっしゃったんですか」
「まあな」
 あそこは何なのだろう、まさかこの老人の住居なのだろうかと考えた瞬間、口の中にピリッと痛みが走った。怪我がないように感じたのは興奮のせいだったらしく、口の中が切れていた。歯で粘膜を怪我したようだ。秋津は片手で口の横をさすり、「ともかく」と言葉を継いだ。
「助かりましたよ。もしかして私のことを覚えていて、それで、お返しに助けてくださったんですか。なんと義理堅い。あなたはくんです」
「お返しも何も、最初はそのつもりで来たが、駆けつけて蓋を開けてみりゃ俺のせいじゃねえかよ」
 ばつが悪そうに老人が言う。言われてみればそうなのかもしれないと秋津は思ったが、筋道を頭で追究しようにも、口の中がどんどん痛くなってきていた。老人が言った。
「すまんな。あいつら、ひでえことしやがる」
「目撃者が一人もいないなんてことはないと思うんですが、誰も助けてくれませんでしたよ。でも、あなたは来てくださった」
「あんたもそうだった」
 自分と老人の間に、熱いものが流れるのを秋津は感じた。老人の顔は淡々としていたが、少なくとも一方的に、秋津はそう感じた。
「──まあ、お宅と違って、俺が助けてもらえなかったのは自分のせいだけどな」
 秋津は片眉を上げた。
「どういうことです」
「どうもこうもねえよ。それよりあんた、痛むのか」
「大丈夫です。そんなことより──」
 秋津は口調を改めた。
「立ち入ったことでしたら、すみませんが。──あなたは何か、問題を抱えていらっしゃるのですか」
 老人が眉間に皺を寄せた。返ってくるのはどうせまた「うるせえ」の類だと予想できたので、先んじることにした。壁に手をついて路地の奥へ二、三歩行き、落ちている自分の眼鏡を拾いながら、秋津は言った。
「人前でお年寄りが暴力を振るわれているのに、誰も助けないのは異様なことです。差し出がましいようですが、もし、あなたが──」
 眼鏡を装着して振り返ったとたん、秋津は眉をひそめた。そこにいたはずの老人の姿が、なかった。視線を先に向けると、ちょうど路地から出て行こうとしている彼の背中が見えた。前回と同じ技で消えようとしている老人を前にして焦り、秋津はとっさに、
「待ってください!」
 と、思いつくまま言葉を発した。
 本当に、苦し紛れで出た言葉だった。
 低い声で、秋津は言った。
「あなた、白と黒の丸い何かに、深い関わりがありますね」
 老人が足を止めて振り返った。その顔にはいぶかしげに眉が寄っているだけだったが、彼が立ち止まったことにわずかな可能性を感じて、秋津は先日、彼と会った直後に見たイメージの断片を必死に組み立てた。
「玉砂利や、碁石のような──いえ」
 秋津は白黒の物体と共に頭に浮かんだ、ピースサインのような男性の手を思い出した。自分の薬指と小指の二本を折りたたみ、意味なくその手つきを再現してみる。そして、思った。何かがふいに一本の糸で繋がるような懐かしい感触がして、秋津の口から、もはや誰に向けるでもない言葉が漏れた。
「ような、じゃない。碁石だ」
 秋津は目を見開いて、自分のその手をまっすぐ宙に差し向けた。秋津は囲碁や将棋に関心がないが、棋士の勝負飯を取り上げたテレビ番組で見たことがある。この手つきは、盤に駒を置くときの手の形だ。そして白黒の石。秋津はその指を自分の唇に置き、宙を見つめてひとりごちた。
「囲碁だ」
「占い師ってのは、みんなそうなのかい」
 気づけば近くで声がした。老人が秋津から少し離れた位置で、真正面に立っていた。
「おおかた誰かに聞いたか、あの場所から出てきたってことで推測して言ってんだろう」
 呆れるように後ろを仰いで彼が示したのは、向かいのビルだった。
「違いますよ。それに私は、あなたの言うあの場所が、どういう所なのかを知りません」
「そうかい。この前の礼で忠告してやるけどな、そういう詐欺みたいな商売は、ためにならんぞ。まだ若えんだから、まっとうに生きな」
 違うと言いかけて、やめた。説明しても伝わらないことだ。しかし彼の物言いからして、こちらが口にしたことは、あながち見当はずれでもないらしい。
「囲碁をされるんですね」
「あんたは変わった奴だな」
 そう言うと老人は音を立てて消火器を置き、その場にしゃがみ込んだ。
「どうされました。大丈夫ですか」
「疲れただけだ。歳だからな。あんた人を疲れさせるってよく言われないか」
 沢山思い当たる。秋津は言った。
「君子、私はあなたを助けたいのです」
 口にしてから、自問した。私は何を言っているのだろう。薄暗い路地の壁には秋津自身の影が伸びていて、自分と同じ輪郭の彼女がささやいた。
 ちょうどいい相手を見つけたね。
 秋津が思わず壁から手を離すと、影も同じく手を引いた。秋津は無言で自分の手のひらを眺めたあと、その手を拭くようにタートルネックを顎下まで引き上げて、老人に言った。
「詐欺と言えば、そうかもしれません」
 秋津はしゃがれた声で続けた。
「私は詐欺師です。本当は占い師になりたかったんですけど、なれなかったので、今は占い師としてあのお店で働きながら、お客さんのことなんてちっともわからずに、教本の内容をそのまま読み上げるようなことばかりして、お金をもらってる詐欺師です」
 でも、と秋津は言った。
「でも……」
 秋津はうつむいた。
「でも……なんか……人の役に立ちたいんです」
 もっともらしいことを言おうと組み立てていたはずの言葉が空中でばらばらになって、うまく言えなかった。無防備な気持ちになり、秋津は卑屈な目で老人を見た。老人は膝に両肘を乗せてげんな顔で秋津を仰ぎ眺めたあと、気力の糸が切れたようなため息をついてうなだれた。
 路地の地面に転がった「マムシ1000」の瓶を指差し、老人が言った。
「とりあえず、そいつを一本くれ」

(「秋津編3」に続く)

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