1
緑色の化け物が笑っている。
私はそいつに振り回され、子供の頃に海水浴場で大きな波に巻かれた時のように天地がわからなくなり、渦の中で回っている。
化け物の笑い声が遠のき、水中特有のくぐもった聴こえ方でさまざまな音が耳に飛び込んでくる。救急車のサイレン。私の体が台に乗せられてどこかへ運ばれていく性急な車輪の音。若い男の人の自信無げな声。「でも、ガイドラインが──」。袋を裂いて開ける音。「こちら側のどこからでも切れます」と書いてあるビニールパッケージを開ける時の音だ。私はうまく開けられたためしがない。
渦に巻かれていた私の体が止まり、今度はゆっくりと逆回転し始めた。地面に立てた野球バットに額を当てて回る「ぐるぐるバットゲーム」で回って回ってふらふらになった時、反対側に回れば平衡感覚がまともに戻ると教えてくれたのは確か小学校のクラスメイトのK君だったと思う。K君はみんなの前では私に話しかけないけれど、たまたま二人きりになった場面では時々会話を発生させ、いろんなことを教えてくれた。「秋津、子供ってどうやったらできるか知ってるか」。「女のケツにチンチンを入れるとできるんだぜ」。そんなことをしたら女の人は血が出て死んでしまうと私は言った。でも、K君の顔と口調はからかっている風でも、いやらしい冗談を言っている風でもなく、何かを自分の両目で目撃した証人の大真面目な顔だった。後日、保健の授業で子作りに関する真実を知った際、私はK君のそれが誤った認識であることを知ったと同時に、よかった、お尻じゃなかったんだと心の底から安堵した。よかった、そんなの絶対、裂けちゃうもんな──そう思うと同時に、ピリピリと何かの裂ける音がした。「こちら側のどこからでも切れます」の音。点滴用のチューブが入った袋を看護師さんが裂いている。取り出された半透明のチューブは看護師さんの手からつるんと逃げ出し、ベッドに落ちた瞬間、蛇のように這って私の首に絡みついてきた。
もがく。頭の中がぱんぱんに詰まっていく感覚がして、はち切れそうな私の前で、また緑色の化け物が笑っている。小太りのそいつは、夜の林の中で、深緑色の爪がある片手を前に突き出し、苦しむ私の体を押した。
「気持ちいいか?」
笑っている。
「どうなんだって聞いてんだよ、おい」
化け物がまた体を押す。やめろと叫びかけて、いや、と私は思い直した。
こいつの言うとおりかもしれない。事実、体は何かふわふわし始めて、ぱんぱんに詰まった頭の奥に、小さな光が見える。なんて綺麗なのだろう。まるで黒い布に針で小さな穴を開けて、そこから向こう側にあるとても素敵な場所の光が差し込んでいるみたいだ。
そうだ。この光はきっと、入り口に違いない。
私は体をくねらせて、その光を目指した。そうすると体が泳ぐように前、というか上に進み、同時にもっと首が絞まって、光はさらに近くなった。やがて私の頭の先がその光の穴に辿り着いた。私は力を込めて頭でその小さな穴を押し広げ、めりめりと突き破った。
急に視界が開けた。
圧迫から解放され、私は大きく呼吸した。自分が頭だけ、その素晴らしい世界に入れたのだとわかった。清らかな空気を吸い込みながら、私は剥製の鹿のように壁から頭だけを突き出して、素晴らしい世界で顔を上げた。
目の前にはK君の顔があった。
「秋津、ケツは入り口じゃなくて出口だぜ」
私は絶叫した。
薄く瞼を開くと、目の前には車窓があった。
途切れ途切れに後ろへ流れていく道路の白線をしばらく眺めたあと、秋津は眠気に任せてふたたび目を閉じ、バスの窓ガラスに側頭部を預けた。
が、直後にタイヤが坂道にでも乗り上げたのだろうか。車体が軽くバウンドし、秋津の頭が窓ガラスにゴンとぶつかった。鈍い音を聞いた吊り革の乗客と目が合う。秋津は取り繕うように表情を正すと、窓ガラスに付いた自分の皮脂を袖で拭いた。タートルネックの襟を顎下まで引き上げる。無意識の動作だったが、そうした瞬間に、襟の下にあるものを意識した。
秋津の首の前面には、青黒いコードの痕が残っている。
医者に言われた。こういった行為に伴う結果は、生きるか死ぬかの二択ではない、と。その狭間には、下手をすればそうした行動を起こす以前よりもはるかに悲惨な生、ようは後遺症を負うケースもあり、あなたの場合は体重が軽かったからたまたまこの程度で済んだ、とのことだった。
自分のような救急搬送患者は通常、病院の自殺未遂患者への対応ガイドラインに沿い、救命後はそのまま精神科病棟へ入院する流れになるらしい。だが今回の場合は、体が回復したあとで医者から再度の自殺願望の有無を質問され、退院許可が降りた。こちらにうつ病などの既往歴がないことが関係しているようだった。
病院では、沢山の質問をされた。『今も死にたいと思いますか?』『今回の行為を正しかったと感じていますか?』『また同じことをしようと考えていますか?』
全部の質問に「いいえ」で答えた。首吊りで運び込まれた秋津の手首には常に酸素飽和度の計測器であるリストバンドが巻かれていて、連動している医者のPC画面では、こちらの呼吸器系統の情報と血圧と、心拍数が表示されていた。
『今回の行為は、誰かに強制されたものですか?』
頭に緑の化け物の姿がよぎった。首吊り状態でもがいているこちらを下からあざ笑い、暴言を浴びせながら煙草を片手にさらなる攻撃を加えてくる、悪魔のような〈師匠〉の姿を。
同時に秋津の頭の中には「ゴリラ」という概念が浮かび上がり、筋肉質な緑色のゴリラが猿山の猿じみた声を上げながらこちらを嬉々として殴ってくる幻影が脳裏に再生された。秋津は手のひらにドッと冷たい汗が湧くのを感じながら、ふたたび医者に「いいえ」と答えた。嘘をついたのに、PC画面の心拍数は別段、揺らぎはしなかった。スパイ映画などの嘘発見器のシーンとは違うのだな、と思った。それとも、もしかしたら、この回答が本質的には嘘ではないからなのだろうか。
しかしながら、頭には緑のゴリラに暴行されるビジョンが浮かび続け、手には次々と冷たい汗が湧いてくる。完全にPTSDになっているではないか、と秋津は膝の上にある自分の手を見つめた。この動揺が検出されないリストバンドの性能を疑ってしまう。視線を落としている秋津の顔色を医者が覗き込んだ。
『大丈夫ですか?』
反射的に「いいえ」と答えてしまいそうになり、秋津は口をつぐむと、顔を上げて医者をまっすぐ見つめ、喉の損傷によって以前よりもいくぶんかハスキーになった声で、
「はい」
と肯定した。
バス停から自宅に戻ると、秋津はセルフレームの眼鏡を外して眉間を揉んだ。あの一件で愛用の眼鏡を失ってしまったため、いま着用しているのは昔使っていた古いものだった。
入院中は自分の眼鏡がなくて苦労した。院内の売店には老眼鏡しか置いておらず、病院側から間に合わせで貸してもらった度数の全然足りない眼鏡をかけていた。度が弱いわりに見た目はやけに主張が強い黒ぶちの丸眼鏡で、手洗いの鏡に写った自分を、まるでちょっと前の五千円札に描かれていた男の人のようだと思ったことを覚えている。名前は知らない。
散らかった部屋で秋津はベッドに腰を下ろした。
退院してから四日になる。
入院前にたった一日出勤しただけのアルバイト先である『パールヴァティ』には、意識が戻ったあとに「インフルエンザにかかってしまい、しばらく休む」と一本連絡を入れたきりだ。オーナーは、ゆっくり休んで快復したらまた連絡をくれと言ってくれたが、このまま辞めることになるだろう。
また無職になった。
これからどうしたらいいのかがわからない。
目的を失ってしまった。
病院で目を覚ましてから、さまざまなことを考えた。けれど戻ってくるのはいつも、木の枝から吊るされる直前に〈師匠〉から言われた言葉についてだった。
“償うために生きる道もあるんじゃないのか”。
正論だ。でも、だからといって心がついていくとは限らないようだ。〈師匠〉はこちらを吊るす時、どうせなら臓器を提供して他人様の役に立てと言った。今となってはそれが一番、この自分の落とし前としては妥当だったかと思う。
思えばずっと踏み切れなかったのは、単純な恐怖に加えて「自殺者は地獄に落ちる」という説への恐れによるところが大きかったと秋津は感じている。あの世があることを前提にした考えなんて、馬鹿げているかもしれない。秋津自身ですら、そんなものが存在すると思うのかと訊かれたら、縦には首を振らない。でも、死んだあとにどうなるかなんて知りようがないから、わからないというのが正直な気持ちで、わかりようのないことを断定しないのが科学的な姿勢であると、子供時代に読んだ百科事典に書いてあった。
仮に地獄が存在して、そこにあるのがおとぎ話に出てくるような血の池地獄や針山なら、自分はもしかするとこの痛みを終わらせるほうを選んだかもしれない。でも、地獄というからには、その場所はきっと、落ちた者にとってもっとも辛い罰を与え続けるのだろう。そうでなければ地獄とは呼べない気がする。つまり、いま感じている痛みを差し引いてはくれないだろうということだ。自然に任せれば五十年やそこらで終わったはずのものを、途中退場を選んだばかりに永遠の苦しみへ落ちる。
だから、すんでのところで〈師匠〉の手により、それが他殺に切り替わりかけた時、ほっとした。
あの世の入り口で仕分けをするのが閻魔さまだか誰かは知らないが、これで、その相手を騙す余地ができる。元より天国に行けるとは思っていない。でも、自分で地獄行きを確定させるより、裁きを委ねたほうが楽だった。
だが結果、目覚めた時の自分がいたのは地獄でも天国でもなく、隣のベッドで急性アルコール中毒の大学生が胃洗浄を受けている深夜の救急治療室だった。
秋津は古い眼鏡をかけ直した。つるが弱っていて、すぐにずり落ちてきた。
胸の真ん中に痛みがあった。いま発生したものではなく、祖母が死んでからずっとそこにある痛みだった。
〈師匠〉は、こちらのあの行為をタロットカードの〈吊られた男〉になぞらえ、その通過儀礼をもって、あたかも私の何かが変わるような言い方をした。でも、私の胸は今でも痛いままだ。
痛みを誤魔化すために走る方法も、今はもうわからない。
しばらくうつむいたあと、秋津はちゃぶ台に置いていたスマホを手に取った。やっぱり、さすがにそろそろ『パールヴァティ』のオーナーには連絡をするべきだと思った。辞めると言ったら、きっとあの優しい声ががらりと変わって、冷たい口調で、もはや必要以上のやり取りを一言も交わさない省エネの構えで応対されるのだろう。気が重いが、悪いのはこちらなのだからどうしようもない。
『パールヴァティ』のオーナーは二回のコールで電話に出た。
「お世話になっております。連絡が遅くなり、大変申し訳──」
『秋津さん!』
平謝りを始めようとしたこちらの言葉に、高い声が被さった。
『あなたどうしたの。もう大丈夫なの? 心配してたのよ。連絡がないから、家で一人でどうにかなってるんじゃないかって』
「申し訳ありません。ようやく少し、良くなりまして──」
『熱は?』
「下がりました」
『咳は?』
「──はい。それも、もう大丈夫です」
言いながら秋津は、いたたまれなくなった。インフルエンザなど真っ赤な嘘だ。それにオーナーはきっとこちらの連絡のなさからそれを見抜いていて、体裁を受け取り、社会常識の欠如だけを非難するものだと思っていた。こんな風に心配されるなんて。それとも全部わかった上で、社交辞令か、もしくはわざとチクチク追及しているのだろうか。
『そう。じゃあすぐに来て』
「え?」
秋津は目をまばたいた。
『来て欲しいのよ、すぐに。あなたの力が必要なの』
「いえ、でも──」
実はもう辞めさせてもらいたいのだと言おうとすると、電話口の向こうから何か、わめく声が聞こえた。オーナーの声ではない。何やら異様な雰囲気に秋津が問いかけようとすると、
『いいわね。早く来て』
と通話が切られた。
スマホを手に秋津は憮然と立ち尽くした。いったい何だというのだろう。来いと言われたが、今さら自分が行っても何にもならない。それに、状況がまるでわからないが、穏やかではない空気を感じた。行けばややこしいことに巻き込まれるのではないだろうか。秋津は困惑の気持ちで思案しながら部屋の中をうろうろと歩き回った。しかし電話の向こうから聞こえたわめき声のことを思い、オーナーに何か身体的な危害が迫っているのではと考えた直後に、上着を拾ってアパートを出ていた。息せき切って駅まで小走りをする秋津の顔から眼鏡がずり落ちていく。鈍い灰色の空をした十月の空気を肺まで吸い込み、はあっと吐いて、秋津は駅へと向かった。
「遅くなりました。いったい──」
「秋津さん!」
『パールヴァティ』に着き、入り口を入ってすぐのところにいたオーナーを認めてそう声をかけると、電話の時と同様に彼女は素早く声を発して、豊満な体を揺らしながらこちらへ駆け寄り、腕を掴んだ。
「来てくれてよかった。病み上がりに申し訳ないわね」
いえ、と秋津は店内を見まわした。入り口に受付のカウンターがあり、中にはカーテンと衝立で仕切られた三つの小部屋がある、というネイルサロンのような作りだが、見たところ最奥の一室以外は使用中の気配がない。繁盛で人手が足りなくなったという状況ではなさそうだった。
「思ってたより顔色も良さそうだわ」
「おかげさまです。ところで──」
「でもさらに痩せたかしら? かわいそうに。ご飯はしっかり食べましょうね。食欲はあるの?」
「はい。あの──」
「あら、眼鏡変えた?」
「はい」
「前のほうがいいわ」
「わかりました」
「早速だけど、奥にお客さまが来てるのよ。接客してくれる? 私、今から急用で出かけないといけないの」
そう口にするオーナーは早くもいそいそと外出用の上着に腕を通している。なんだ、単に急な留守番を頼みたかったのだなと理解し、秋津は安堵した。
「そうなんですね。いつ頃お戻りの予定ですか?」
オーナーはなぜかその問いかけには答えず、羽織った上着の襟から豊かな髪を出して背中へ流すと、両手で秋津の手を握りしめた。
「あなた、お年寄りの相手が得意だったわね」
「え?」
「よろしくね」
言ってオーナーはグロスをたっぷり塗ったハート型の唇をすぼめて笑うと、つむじ風のような勢いで店を出て行った。残された秋津は当惑の気持ちで佇み、最奥の小部屋のほうに目をやったあと、観念して上着を脱いだ。
「失礼します──」
タロットの束を片手に会釈して小部屋のカーテンをくぐった瞬間だった。
「誰だ!」
いきなり強い語気を浴びせられ、面食らった。テーブルの向かいにある客の席に腰掛けていたのは姿勢のいいゴマ塩頭の老人で、彼は両腕を組んだ格好のまま、秋津を下から睨みつけた。
「さっきの女はどうした」
秋津は戸惑いながら言った。
「オーナーは急用で外出しました」
「逃げたか」
老人が鼻を鳴らしてせせら笑った。座ってもよいものだろうかとためらいながら、秋津はスタッフ用の椅子を引き、老人の対面に腰を下ろした。
「ええと──」
「で、あんたは何だ」
切り出した言葉を奪われ、会話に会話を重ねてくる人間ばかりだと感じながら、秋津は両手を膝に置いて言った。
「私は従業員です」
「バイトか」
「はい」
「話にならん」
追い払うように手を振る老人を前に、秋津はこの状況を理解しようと努めた。理由はわからないがこの老人が怒っていて、そして、自分が何か厄介なことを押し付けられたのだということだけはわかった。
「私は秋津と申します」
意味がわからないながらも、とりあえず名乗って礼をした。顔を上げると、老人が秋津の一連の動作をジロジロ眺め、組んだ腕の上を人差し指で叩いた。
「アキツだか何さんだか知らんけどよ、俺はさっきの女に文句があんだ」
文句。やはり怒っているのか。
「と、おっしゃいますと」
「ここはスナックか?」
「え?」
唐突なことを言われて秋津が顔に疑問符を浮かべると、老人は「ここは飲み屋か、って聞いてんだよ」とさらに激しく指を腕の上で叩いた。
「違うだろう」
「はい、違います」
「そうだよな」
「そうです」
老人が顔を厳めしい形にした。
「だったら余計なことするんじゃねえ!」
ビリビリと空気が震えた。他に客がいないのが幸いだったが、秋津は両手を体の前に出し、相手を落ち着かせようと試みた。
「どういうことでしょう」
「俺は占いに来たんだ」
老人は苦々しい表情で言った。
「なのにあの女は、カードをめくって何やらかんやら言ったあと、手を握ってきやがった。最初は手相でも見るのかと思ったが、変にシナを作りながら撫でくりまわしてきやがるからよ、やめろと言ってこっちが手を引っこめたら、艶っぽく笑いながら何て言ったと思う。『そんなにカッカなさらないで、お父さん』だとよ。俺はお前のお父さんでも何でもねえわ」
いいか、と老人が人差し指を立てた。
「俺は占いに来たんだ。占いの途中で何やかや聞かれたからこっちの事情も色々教えたが、寂しい老人だからって馬鹿にするんじゃねえ。ああいう生々しい女に色っぽいことを言われたい時は、俺あ、そういう飲み屋に行く。あんたらがどういう商売をしてんのかは知らんが、余計なことするんじゃねえよ」
なるほど、そういう事情だったのかと秋津は得心した。オーナーは確かに色っぽいが、お客さんにもそうした接し方をしていたとは。それがセールス上のテクニックなのか、天然なのかが秋津にはわからなかったが、老人の言うことにも一理あるように思えて、秋津は言った。
「お寿司屋さんに入ったら、カレーが出てきたみたいなことでしょうか」
「あ?」
「違いましたか。では、ご飯屋さんの看板を信じて入ったら、裸踊りを見せられたとか、そういう……んん」
顎に手の甲を添えて首をひねると眼鏡がずり落ちた。
「ラーメン屋さんに入ったら、ホストみたいな男の人がいて、肩に手を回された……?」
「おい」
老人がテーブルに片肘を乗せた。
「あんた、さっきから何を言ってる」
「嫌さの喩えを探しているのです。──あっ」
秋津は左手に右手の拳を打ち付け、人差し指を立てた。
「牛丼屋に入ったら──」
「もういい」
老人が片手のひらを前に向けた。
「やめとけ。あんた、喩えが下手だ」
「駄目でしたか」
傷つきながら秋津は眼鏡を指で押し上げた。
「ともかくオーナーが不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした。クレームは真摯に受け止めさせていただきます」
「クレームだと」
老人がまた眦を吊り上げた。
「クレーマーだって言いたいのか」
秋津は黙って眼鏡のブリッジを片手で押さえ、しばらく考えを巡らせたあと、
「いえ」
と口を開いた。
「風紀といいますか、公序良俗のために、間違いを指摘してくださったんですよね。今後もこうしたことが続いて、他の方が同じように嫌な思いをしてはいけない、と」
本心からそう言うと、相手はなぜかこちらがおかしなことでも言ったかのように真顔で黙り込んだあと、「おう」と椅子に深くもたれた。
「おう。そうだ。そういうことだよ」
そう言って、頷きながらこちらを何度も指差している。
「ご指摘いただき、心より感謝いたします。不快な思いをさせられたお店へは黙って二度と行かなくなるか、インターネットのレビューで低評価を付けるお客様がほとんどの中、こうしてスタッフに直接ご意見をくださる方は、本当にありがたい存在です。ご意見を踏まえて、今後のサービス向上に繋げさせていただきます」
「あんた、若いのになかなかわかってるじゃねえか」
老人が半身を机に乗り出した。
「バイトのほうが出来がいいとはな。逃げ出した店主よりもよっぽど受け答えがしっかりしてて賢そうだぜ。あんた、伊達に眼鏡じゃねえな」
賢そうと言われて、思わず、まんざらでもない気持ちになった。もっと己のサービスの良さを見せつけたいような気分になり、秋津は訊いた。
「ところで、差し支えなければ、何を占いに来たのかを教えていただけますか」
「あ?」
「いえ、良ければ私が、占いをやり直して差し上げようと思いまして」
そう言ってタロットの束を机の上に置くと、老人が怪訝な顔をした。
「あんたも占い師なのか」
意外そうに言ってから、彼は自分自身でそれもそうかと納得した顔になった。
「私ではご不満かもしれませんが──」
「もういい。その気も失せた」
また苦い顔で腕を組んだ。ふたたび不機嫌状態に戻ってしまったようだ。
「だいたい俺は、タロットだか何だか知らんが、こういう感じの店は信用しとらん」
秋津は目をしばたいた。ではなぜここへ来たのだろうと考える間もなく、老人が続けた。
「四柱推命や手相見なら、すごい先生を何人か知ってるけどよ。昔このへんに居た手相の先生とか、すごかったぜ。俺と連れの手を見て、事業の今後や、子供が何人産まれてその子らがどういうアレルギーを持ってるかまで、全部当てちまったんだ。当時すでに爺さんだったから、もう亡くなってるだろうけどな。いま思うに、手相ってのが一番、信頼に値するな。人生や健康状態とかが全部、体の末端に表れてるんだろうよ。俺が思うに──」
そこから老人は「思うに」「思うに」を繰り返し、自分の論を語り続けた。易学の話に対する興味深さで秋津は相槌を打っていたが、次第に違和感を覚え始めた。目の前の老人の話題はいつの間にか、「細木数子の行きつけの寿司屋が梅ヶ丘にあり、夜は高いが昼時なら八貫セットを千二百円で食える」というものに移り変わっていた。
──この人は何をしに来たのだろう。
「占いに強いご興味がおありなんですね」
「強いご興味なんか、ねえ」
駄弁りと化しつつある会話へ差した水をすげなく絶たれ、秋津は続く言葉を失った。
すると、老人がつぶやくように言った。
「ただ、俺は、好きなんだ」
「え?」
「手相にしても、四柱推命みたいな生まれた日時で占うやつにしても、相手がどういう人間かってのを、昔の人間が残した膨大な記録を使って、目の前にあるもんから読み解くわけだろ。そういうのは、面白い」
そう話す老人の視線は、机の上に注がれていた。そこには何もなく、客と占い師という二人の人間が向き合うための天板が存在するだけだった。秋津は一瞬、老人の見つめる場所に、自分には見えない何かが置かれているような幻視を抱いた。
机上を見つめていた老人が、瞳を小さく左右に揺らしながら顔を上げた。
「ともかく、根本的にこういう非論理的なもんを信じてるわけじゃない。散歩中にたまたま見かけたから入ってみたが、この店の雰囲気も好かん。桃色できゃらきゃらしてて、化粧品屋みたいだ」
「ではなぜ入ったのですか」
老人の顔が渋くなったのを見て、しまった、と思った。つい率直な疑問を発してしまった焦りで、秋津は言った。
「いえ、せっかくご来店くださったわけですし、そろそろちゃんと本来のサービスを提供したいと思いまして。お客様が先ほどおっしゃった通り、ここは占いをする店で、おしゃべりに女性が相槌を打つだけのお店ではございませんので」
焦りでますます余計なことを口にしてしまう。図らずも嫌味じみてしまったこちらの台詞に「何だと」と老人が額に青筋を浮かせた。
「俺が厄介な爺さんだとでも言いたいのか」
それは先ほどから若干感じ始めていたことだったが、秋津は「いえ、いえ、そんなことは」と言いながら、慌ててタロットカードを繰り始めた。
「タロット占いをしましょう。さ、これを今から交ぜて、三つの山にしますからね。そしたらその三つを、好きな順番で重ねてください。ね。楽しいですよ」
「保育士みたいな話し方すんじゃねえ!」
言って老人が勢いよく席を立った。
「揃いも揃って無礼な奴ばっかりの店だ!」
そう言うと老人は椅子に掛けていた上着を手に取り、机の上をバンと叩いた。
「帰る!」
宣言すると同時に老人は大股で小部屋を出ていった。客を怒らせてしまったことと、クレームに対して代金を無料にするなどの権限を何も与えられていないのに料金をもらい損ねてしまった事態に秋津が慌てて彼の後を追おうと立ち上がると、さっき彼が手を叩きつけた机の上に、五千円札が一枚置かれているのに気が付いた。秋津は料金には十分足りるその札を拾い上げると、「お釣り──」とつぶやいて、老人が去った方向へ駆け出そうとした。
その瞬間だった。
ザッ、という音が耳のすぐそばで聞こえて、秋津は思わず頭を手で押さえた。それはまるで排水溝に無理やり砂利を流し込んだような音で、ドクドクと脈打ち、秋津の鼓動と連動していた。
頭の中に澄んだ世界が広がる。これは、と思った瞬間、いつものように大きく膨らみかけたイメージが突然、ザザッという音で中断された。秋津は頭を押さえたまま机に片手をついた。
断片的なイメージの渦が秋津を襲った。
はじめに見えたのは、一枚絵のように切り取られた奇妙なワンシーンだった。
手だ。
男性の手だけが、大写しになっている。
その手は薬指と小指の二本を折りたたみ、そのほかの指を天に向かってまっすぐ立てていた。
──これは、ピースサインだろうか。
そう思った途端にまた頭の中で砂利の音色めいた血流の音が鳴り、画が別のものに切り替わる。今度はスローな映像だった。
小石のような丸い何かが、椀の中にぎっしりと詰まっている。菓子盆に入ったキャンディのように見えたが、奇妙なのはそれらのひとつひとつがはっきりと白黒に分かれていることだった。やがてその白黒の詰まった椀が秋津のイメージの中でぐるぐる回り、白と黒の入り混じったただの丸い塊になって、ゆっくりと落下し、地面に叩きつけられた。その瞬間に強い恐怖が秋津を貫き、気付くと、秋津は全身に冷たい汗をかいた状態で、『パールヴァティ』の小部屋の机に片手をついた格好のまま、肩で呼吸を繰り返していた。
今のは、いったい何なのだろうか。
秋津は手の甲で額の汗を拭った。五感で拾った情報を無意識的に統合した、未来視とも呼べるこのビジョンが訪れるのは入退院以来、初めてのことだった。それに、いつものものとはまったく、感じが違った。普段はこんなふうに断片的ではない。もっと言えば今までのそれは絵的なイメージですらなく、とにかく「わかる」というのが自分にできる限りの正確な表現だった。だというのに、たった今起きたそれは、何かが膨らみ切る前に中断されて、ひどく不自由な感じがした。まるで枷をつけられたようだ。
かぶりを振る秋津の足元に、机上に積んでいたタロットの山からカードが一枚、舞い落ちた。空中を蛇行したあと秋津のヒールにぶつかる形で床に着地したそれには、杖を持ち、厳しい顔で前を見据える、老いた男の姿が描かれていた。
タロットカードの五番。
規律と道徳を意味する〈法王〉のカードだった。
(「秋津編2」に続く)