電車のなかで、瀬口隼人は原稿用紙を広げ、文章を読んでいく。
親譲りの無鉄砲で……という書き出しではじまるのは夏目漱石の『坊っちゃん』だが、この作品を中学生のときに教科書で読んで、妙に心惹かれた。読書といえば漫画ばかりであった私が、これをきっかけに文学作品にも興味を持つようになったのだ。
思い返してみると、まさに私も持ち前の無鉄砲さゆえに損をしたことがあった。坊っちゃんが弱虫と囃し立てられて二階から飛び降りたように、私も幼稚園児のころ、勇気を見せるため、ジャングルジムから飛び降りた結果、額をしこたま地面に打ちつけ、三針縫う怪我をした。母には「危険なことをしてはいけません」とこっぴどく?られ、父には「それくらいの怪我で男が泣くな」ときつく戒められた。
また、小学生のときには、クラスに牛乳が苦手な女子がおり、給食の時間にすべて食べきれず、それでも教師に「頑張って食べなさい」と言われ、しくしく泣いていた。しかし、その教師にも好き嫌いがあり、苦手なグリーンピースが出たときには、こっそりと寄り分け、残飯にまぎれさせていたのだ。なぜ、大人は好き嫌いが許されるのか。食べ物を残すのはもったいないのではなかったのか。私は教師に詰め寄った。以降、その教師には嫌われ、いかにテストで百点を取ろうとも、通知表には反映されなくなった。
その後、中学受験をすることになったのだが、最難関を目指したものの、模試の偏差値が足りず、まわりの大人たちには志望校を見直すように言われた。しかし、ここでも、無謀なチャレンジを行うことを選んだのだった。結果、壁を乗り越えられず、挫折を知ることとなった。残念な結果ではあったが、挑戦したことについて後悔はしていない。敗北を知り、ひとまわり大きく成長できたからだ。どうにか滑りこめた中高一貫の男子校で、六年間しっかり勉強をして、今度は無事に第一志望の大学に入ることができた。挫折を糧に変えることができたのも、少年漫画の主人公たちが負けたあとに強くなるシーンをたくさん読んでいたからだろう。
私の読書遍歴の原点は、少年漫画である。
まずは、漫画を好きになった。
そして、文学の面白さに目覚めた。
考えてみれば、漱石の作品は『坊っちゃん』にしろ『三四郎』にしろ、主人公の成長を描いており、少年漫画の王道ストーリーと言えなくもない。
大人になりきれず、損得勘定をせず、曲がったことが許せないから「坊っちゃん」なのだ。
少年漫画の主人公にも、そのようなキャラクターが多い。
後先考えずに自分より強い者に立ち向かっていく無鉄砲さこそ「少年の心」ではないだろうか。
就職活動をするにあたり、大人としてのふるまいを求められることが多く、そつのない受け答えができるよう面接の練習なども行っているが、一方で、この「少年の心」をなくしたくないと思う気持ちも、私にはある。
少年漫画雑誌の編集者として、私はそれを自分の強みにしたい。
確認しているのは、前回の筆記試験で書いた作文である。
テーマは「あなたにとっての『少年の心』とは」だった。筆記試験が終わったあと、隼人は忘れないうちに、提出したものとおなじ内容の文章を原稿用紙に書き写しておいた。
隼人が志望している出版社では、作文や三題噺がよく出される。そして、それまでに提出した文章をもとに、面接の場で話題を振られることもあるらしい。そんな情報を先輩たちから聞いていたので、面接に向かうにあたって、自分の書いた作文を確認しておこうと考えたのだ。
筆記試験を突破できて、よかった。
作文を読み返して、隼人は改めて思う。
自分では特にうまく書けているとは思えず、どこが評価されたのかは、わからない。筆記試験の帰り道には、情熱が足りないと思われないだろうか、もっと少年漫画への熱い思いをぶつけるべきだったのでは……と反省しないでもなかった。しかし、おそらく、この出版社の編集者を目指す学生には漫画好きが多いであろうと考えて、あえて、べつの切り口で書いて印象づけようという狙いで、夏目漱石の引用からはじめた。結果として、無事に面接に進めることになったのだから、方向性はまちがっていなかったのだろう。
史上最高に面白い漫画を作り出すこと。
それが、隼人の夢だった。
子供のころから夢中になってきた少年漫画の数々の傑作を超えるようなものを作りたい。しかし、自分が漫画家になる、という道は想定していなかった。幼いころから悲しくなるほど絵心がなく、思いどおりの線を引くことができず、ストーリーも浮かばず、漫画を描く才能がないことは明白だった。その分、たくさん読んだ。読んで、読んで、読みまくった。面白い作品を見つけると、なぜ面白いのか、どこに感動するのか、研究と分析を重ねた。
そんな自分にふさわしい職業は、どう考えても、編集者だろう。
目的の駅についたので、隼人は作文を折りたたみ、鞄にしまった。そして、電車を降りて、ホームを進んでいく。
面接までは、まだ時間があった。不測の事態に備えて、かなり早めに家を出たのだ。
隼人は書店に寄って、ぐるりと一周しながら、棚を眺めていくことにした。いつもは漫画の売り場に直行して、そのあとは小説の新刊本や雑誌をチェックするくらいで、ほかのコーナーは素通りすることが多いが、書店を隅々まで歩くと、自分がふだんは意識していないジャンルの本が存在していることに気づく。実用書やビジネス書に、辞書や参考書、旅行地図など、書店ではノンフィクションのコーナーも広く取られており、文具や雑貨などの売り場もある。
レジに向かう途中の通路では、健康に関する本が棚一面に陳列されていた。その向こう側は医療系のコーナーとなっており、こちらは専門的な書籍が多く、分厚く難しそうなタイトルの書かれた背表紙が棚にみっしりと並んでいる。そこからさらに進むと、今度はデザインやファッション関連のコーナーになり、大判で美しい写真の使われた本が多く、棚の雰囲気が一変して華やかになった。
隼人が棚の裏側にまわると、高校の制服を着た少女が立ち読みをしていた。
それだけなら、特に気に留めず、足早に去っていっただろう。
しかし、隼人は立ち止まった。
少女の背後に、くたびれた灰色のスーツを着た中年男がいて、おかしな動きをしているのに気づいたのだ。中年男はスマホを取り出すと、片手で握りこむようにして持ち、前の女子高生のスカートの下にもぐりこませる。
盗撮だ。
その行為の意味するところを察して、隼人はかっと頭に血がのぼる。
迷惑行為をしている男に対する憤り。
そして、羞恥を覚えた。
共感性羞恥と呼ばれるものだろう。他人の失敗や恥ずかしい行為に対して、まるで自分のことかのように感じてしまう。
こんなことを平然と行うなんて、なんて恥ずかしい男だ。恥を知れ、恥を。
隼人がそちらに向かっていこうとしたとき、それを押しのけるように大きな声が響いた。
「ちょっと、あんた! なにしてんの!」
声の主は、きつくパーマのかかった髪を金色でメッシュにして、鮮やかな黄色いスーツを着た女性であった。
若作りというにはド派手な恰好であり、年齢不詳というか、一瞬、隼人は相手の女性がいくつくらいなのか判別できなかった。声のしゃがれ具合からすると、結構、年配のような気もするのだが……。
「いま、スマホで盗撮しとったやろ? 隠してもあかんで、ばっちり、この目で見たんやから」
大阪弁でまくしたてるのを聞いて、隼人の脳裏に「大阪のおばちゃん」という単語が浮かんだ。
おばちゃんという言葉は、使い方によっては、失礼になる場合もあるかもしれないが、このひとの場合、そう呼ぶのが一番しっくりくる。
「さあ、警察、行こか」
おばちゃんは中年男に手を伸ばして、その腕をぐっとつかまえる。
中年男は無言のまま、おばちゃんの手を振り払うと、脱兎のごとく走り出した。
「そいつ、痴漢や! つかまえて!」
おばちゃんの声より先に、隼人は動いていた。
書店にいるひとびとのあいだをすり抜け、中年男の背中めがけて、タックルするように飛びかかる。中年男はまさに書店から出ようとしているところだった。ふたりはもつれあうようにして、床に激突する。隼人の右腕は中年男の下敷きになり、ありえない角度で曲がった。
「よっしゃ、兄ちゃん、ようやった!」
追いかけてきたおばちゃんが、そう言って、隼人を称える。
つづいて、書店の従業員や警備員がやって来て、中年男を引き連れていく。両腕をがっしりとつかまえられて、さすがに中年男はもう逃げようという気はなくしたようだ。
立ちあがろうとした隼人は、床に手をつき、ずきりと痛みを感じた。じんじんと痺れるような感覚があり、手を握ったり開いたりしようとすると、手首に痛みが走る。
書店の従業員が心配そうな表情で、こちらを見た。
「腕、だいじょうぶですか?」
「あ、はい、だいじょうぶです」
言いながら、隼人は床に転がっていた鞄に手を伸ばした。やはり右手首が痛むので、左手で散らばったペンケースなどを拾いあげ、鞄に入れていく。
「さっきは、ありがとうございました」
深々と頭をさげたあと、書店の従業員はつづけた。
「あの男は迷惑行為の常習犯で、防犯カメラにも録画が残っているのです。私たちも気をつけるようにしていたのですが、なかなか、捕まえるところまではいかなくて……。本当に助かりました」
そう話しているうちに、ふたり組の警察官が現れた。従業員から事情を聞いたあと、隼人も名前や大学名などを訊ねられ、さきほどの経緯を説明する。
警察官のうしろには、被害者である女子高生が立っていた。
不安そうで、心細そうで、ショックを受けたように強張った表情をしており、隼人は胸が痛む。
目が合うと、女子高生はぺこりと頭をさげた。
いやいや、当然のことをしたまで……。
そう伝えるように、隼人は右手を振ろうとして、激痛に顔をしかめる。
書店の従業員が、またしても気遣うようにこちらを見た。
「やっぱり、病院に行ったほうがよくないですか?」
「いえ、本当に、全然、だいじょうぶなんで。じゃあ、俺はこれで……」
そう答えて、歩き出そうとしたところ、警察官に呼び止められた。
「ああ、待って待って。まだ事情聴取があるから、きみもいっしょに署まで来てもらわないと」
「え? でも、俺、これから面接が……」
言いながら、腕時計に視線を向けて、隼人は固まる。
噓だろ……。
そんなに時間が経ったような気はしていなかったのに、すでに面接の開始時刻は過ぎていたのだ。
ああ、憧れの編集者への扉が……。
***
警察署に連れていかれたあと、調書の作成のため、隼人は事件のことについて何度も質問された。
「きみは、その現場を目撃したわけだね?」
「はい」
「男はどんな服を着ていた?」
「たしか、スーツだったと思います」
「スーツの色は?」
そんなことを言われても、相手の服装なんて、はっきりは覚えていない。
「たぶん、紺だったかと……」
「きみが取り押さえた男は、紺ではなく、濃いグレーのスーツを着ていたのだが」
「あっ、じゃあ、グレーです。紺じゃなくて、濃いグレーのスーツを着ていたと思います」
そんな会話をしているあいだに、右手はどんどん腫れあがり、親指の付け根が倍ほどの大きさになっていた。
ようやく調書作成が終わり、解放されたのは、三時間後のことだった。
右手は骨が折れているおそれがあり、このあと、病院に送ってくれるということになったので、警察署の廊下に置かれたソファーに座って、少し待つ。
そのあいだに、隼人は左手でスマホを操作して、メールをチェックした。
事情聴取がはじまるまえに、面接に行けなかった理由を書いて、人事担当者にメールで送っておいたのだ。しかし、どんな事情であれ、無断欠席は許されないだろう。面接をすっぽかしてしまったことには変わりない。
やはり、返事は来ていなかった。
絶望的な気分で、ソファーに座ったまま、隼人はうなだれる。
「そっちも、やっと終わったか」
大阪弁が聞こえて、顔をあげると、例の金メッシュのおばちゃんが立っていた。
「何回も何回もおんなじことを訊かれるし、ほんま、事情聴取って面倒くさいもんやな」
「ええ、ほんとに……」
気の抜けた声で、隼人は返事をする。
「これ、落ちとったで」
おばちゃんが差し出したのは、見覚えのある原稿用紙だ。
「編集者を目指している学生さんやったなんて、これもなんかの縁やな」
その発言を聞いて、隼人は驚き、ひったくるようにして、その原稿用紙を回収した。
「読んだんですか?」
「ああ、読ましてもらったわ。就職活動、うまくいくとええな」
「いや、もう手遅れなんで」
隼人は原稿用紙を左手でぐしゃぐしゃに握りつぶして、乱雑に鞄に突っ込んだ。
「今日が面接だったんですよ」
「えっ、そうやったんか」
「いちおう、一番の大本命で……。まあ、まだ、出版社は残っていますけど、この右手の怪我じゃ……」
全治何ヶ月かはわからないが、しばらくは筆記試験を受けることもできないだろう。
「ああ、そうか。それは、責任、感じるなあ。うん、これは運命なんかもね」
ひとり言のようにつぶやき、うなずくと、おばちゃんは花柄が刺繡された肩掛け鞄から、名刺入れを取り出した。
そして、名刺を一枚、隼人に差し出す。
「わたくし、こういうものやねんけど」
名刺には、こう書かれていた。
大大阪出版 代表取締役
淡路せつこ
受け取った名刺を見ながら、隼人は声に出していく。
「おおおおさか……しゅっぱん……?」
すると、訂正が入った。
「だい、おおさか、しゅっぱん、や!」
聞いたことがない。
出版業界を目指して、就職活動をしているはずなのに、そんな名前の企業はまったく知らなかった。
「本社が大阪やからね。今日は出張で、たまたま、こっちのほうに来てたんよ」
不審げな隼人のまなざしに気づいて、淡路は説明するように言った。
「うちは教科書を作っている会社やから、知名度もそんなにないと言えばないというか、きみが知らんのも仕方ないかもしれへん。まあ、それでも、大阪ではシェアナンバーワンの教科もあるし、そこそこ知られてはいるんやで」
「はあ、そうなんですか」
しかし、代表取締役とはどういうことだろうか。
名刺を持ったまま、隼人は疑問に思う。
代表取締役といえば、会社の代表であり、企業のトップとでも言うべき存在だった気がするのだが、このド派手な恰好のおばちゃんがそんな「えらいひと」だと言われても、にわかには信じがたい。
「さっきも言うたけど、うちは教科書の出版社やから、漫画は作ってない。けど、編集者は募集してる。漱石が好きなんやったら、うちの会社にはまさに漱石の研究をしていた国語科担当の編集者もおるで。うん、これも縁というやつや。きみの漫画への思いを教科書に向けるっていうのも、ありなんとちゃうか?」
「え? えっ……、ええっ?」
思いがけない提案に、隼人は目をまんまるにして、淡路を見つめる。
「編集者になりたいんやろ?」
淡路の問いかけに、隼人はうなずいた。
「ええ、それは、まあ……」
「ほなら、渡りに船とちゃう?」
たしかに、出版社には入りたい。
しかし、おなじ編集者でも、漫画と教科書では、まったくちがうのでは……。
「やる気のある新人が入ってくれるんやったら、こっちは大歓迎や。ただ、問題はもういっこ、ある」
人差し指を立てて、淡路は言葉をつづけた。
「これもさっき言うたけど、うちは大阪に会社があるわけで、兄ちゃん、えっと、名前はなんやっけ?」
「瀬口です。瀬口隼人」
「うん、瀬口くん。きみ、東京の子やろ? 就職のために、大阪に来る気、あるか?」
大阪と言われて、隼人の脳裏には通天閣やたこ焼きのイメージが浮かぶ。
どれもテレビなどで見た映像で、実際のところは知らない。隼人はこれまで一度も、大阪の地に足を踏み入れたことがなかった。
「少し考えさせてください」
そう答えると、淡路はうなずいて、隼人がもったままの名刺に視線を向けた。
「その気になったら、いつでも連絡してや」
去っていく淡路の背中を見ながら、隼人はしばらく悩みつづけていた。
***
警察のひとが紹介してくれた病院に行き、レントゲンを撮ってもらったところ、やはり、右手は骨が折れていた。
右腕をギプスで固定され、重い足取りで、隼人は帰路に着く。
隼人の家は、両親と弟がひとりの四人家族だ。
母は専業主婦であり、父は剣道の師範として近くの公民館で子供たちに剣道を教えつつ、自宅の一階でスポーツ用品店を営んでいる。
幼いころには隼人も父の指導を受け、剣道を習っていたが、塾に通いはじめると、勉強が忙しくなったことを理由に辞めてしまった。実の息子であるゆえか、父は隼人に対しては殊更に厳しく指導をして、そのせいで剣道の練習はつらく、あまり楽しい思い出はなかった。
家に帰り、隼人は「ただいま」と言いながら、何食わぬ顔で、両親のいるリビングへと入った。
しかし、右手に巻かれたギプスが見過ごされるわけもない。
「おかえりなさい、隼人。って、あなた、その腕、どうしたのよ」
驚きの表情を浮かべた母に、隼人は今日のできごとを話す。
犯人を取り押さえて、警察で事情聴取を受けたところまでは話したが、淡路とのやりとりについては黙っていた。
話し終えると、母には「いつも危険なことはしないようにと、あれほど言っているのに、大事なときに、後先考えず、あなたはまったく、もう……」と延々とお説教をされ、父には「それしきで骨を折るなんて鍛え方が足りんからだ」と呆れた声で?責された。
両親の小言を軽く聞き流して、隼人は早々に自室へと引き上げる。
鞄を開けて、淡路にもらった名刺を取り出すと、ベッドにごろりと横になった。名刺に書かれている住所を見つめながら、しばらく考えにふける。
さて、どうしたものか……。
出版業界を志していたものの、漫画雑誌を出しているところばかりを考えて、教科書を作る会社はまったく頭になかった。しかし、思い返してみると、国語の教科書に載っていた作品はいまでも記憶に残るものが多い。
そういえば、中学生のときに読んだ『少年の日の思い出』という作品も、強く印象に残っている。
蝶の標本作りに情熱を傾ける主人公が、隣に住む友人のエーミールが持つ希少なクジャクヤママユの標本を壊してしまい、修復できず、罪を償うこともできず、ただ軽蔑されるという短編だ。淡々とした物語なのに、心に響いた。あのころは特に作者を意識していたわけではないが、『少年の日の思い出』を書いたのは、ドイツ文学を代表する作家ヘルマン・ヘッセだ。
隼人はいま、文学部で学んでおり、ドイツ文学を専攻している。卒業論文としては「ビルドゥングスロマンの系譜としての少年漫画」という内容を考えているのだ。
よくよく考えてみれば、漫画とおなじくらい、教科書に載っていた作品からも影響を受けたのかもしれない。
そう気づいて、俄然、興味が出てきた。
教科書を作る仕事というのも面白そうだ。
スマホを取り出して、隼人はインターネットで「大大阪出版」について、調べてみた。会社はちゃんと実在しており、待遇などの情報は少ないものの、歴史と実績はあるようで、就職先として悪くない気がしてくる。
しかし、問題は会社の場所だ。
就職活動をするにあたって、東京に本社のない会社に行くことなど考えもしなかった。
生まれも育ちも東京で、このまま、ずっと、東京で暮らしていくだろうと思っていたのだ。
「大阪、か……」
独り言をつぶやくと、隼人はスマホの画面をタップして、べつのアプリを呼び出す。
もし、大阪の会社に就職することになれば、大学卒業後は引っ越しをして、東京を離れることになる。そして、いま、つきあっている彼女とは、遠距離恋愛となる可能性が高いだろう。
隼人は両親よりも先に、彼女である白石陽花(しらいしはるか)に、大阪行きについての話を相談してみることにした。
ベッドに寝ころんだまま、スマホを操作して、陽花に「いま、電話いいか?」とメッセージを送る。
すると、すぐに着信音が鳴り響いた。
「どうしたの? なんか、あった?」
電話越しに聞こえる陽花の声は、どこか心配そうだった。
恋人としては、素っ気ないメッセージを送ったからかもしれない。詳細は電話で伝えようと思って、短文で済ませてしまった。
「いや、べつに、特に急ぎの用とかいうわけじゃないんだけどさ、今日、面接に行こうとしたら、その途中でちょっとトラブルっていうか、思いがけない事態になって……」
隼人はそんなふうに事情を説明していく。
陽花とは、大学二年の夏につきあうことになった。隼人のほうは一目惚れのような状態で、新入生オリエンテーションではじめて見かけたときから、可愛い子だと思って、陽花のことが気になっていた。しかし、彼氏がいると知って、すぐに諦めたのだ。その後、おなじ授業を取っていることから、グループで何度か遊びに行く機会があったものの、あくまで友人という関係でしかなかった。それが、彼氏と別れたらしいという情報を得たので、本人に確かめて、思い切って、つぎの彼氏に立候補してみたところ、OKの返事をもらえたのだった。
正直、望み薄だと思っていたので、自分とつきあってくれるという展開はうれしいものの、信じられないような気持ちもあり、その理由を陽花に訊ねてみたことがあった。陽花が言うには、ストレートに思いをぶつけてきた隼人の男らしさに惹かれた、とのことだった。玉砕覚悟の告白が功を奏したらしい。
同学年なので、いまはお互い、励まし合いながら就職活動を行っている。陽花も実家は東京にあり、地方での就職は視野に入れてはいないだろう。
「そんなことがあったんだ。面接前の大事なときでも、困っているひとを見過ごせないなんて、隼人くんらしいね」
事情を聞いて、陽花はそう感想を述べた。
「それでさ、いちおう、出版社だし、どこまで本気かはわかんないんだけど、もし、本気でスカウトしてくれているんだったら、大阪で就職するっていうのもありかなとか思ったりも……」
遠距離恋愛になるので陽花は反対するのではないか、と隼人は考えていた。
しかし、返ってきたのは、思いのほか明るい声だった。
「すごいよ! それって、チャンスだと思う」
その弾んだ口調とテンションの高さに、隼人も「これはいい話だ」という実感が湧いてきた。
出版不況と言われつつも、マスコミ業界の入社倍率はどこも高く、編集者は狭き門だ。
隼人自身、すでにいくつかお祈りメールをもらって、その厳しさを思い知っていたので、陽花の「チャンス」という言葉が心に響く。
「そうか? 前向きに考えてもいいと思うか?」
「うん。私だったら、絶対、そこに決める」
さみしがるかと思いきや、かなり積極的に勧められて、隼人としては、ほっとしたような、物足りないような、複雑な気分だ。
「でも、大阪だぞ? 陽花はもちろん、こっちで就職するだろ。そしたら、遠距離になるわけで……」
「えっ、あ、そっか」
陽花はようやく、その問題に気づいたようだった。
「そうだよね。卒業したら、離れちゃうってことになるもんね。遠距離恋愛か……」
一転して、陽花の声が暗く沈む。
「私、隼人くんの就職がうまくいきそうだっていうことしか頭になくて、そのことは全然、考えてなかった。大阪の会社っていうことは、そういうことになるんだよね……」
陽花が黙りこんでしまったので、話題を変えようと思って、隼人は声をかける。
「陽花のほうはどうなんだ? このあいだ、OB訪問に行くって話してたけど」
「うん。旅行会社もいいかなと思って、話を聞きに行ったのね。でも、結構、ブラックっぽい空気もあって、どうしようかなーって感じ」
陽花の声は沈んだままだ。
「隼人くんとはちがって、私、特にやりたいこともないから、あいかわらず、迷いまくってるんだよね。企業研究ばかりして、結局、やりたいことは見つけられないままだよ。世のなか、いっぱい仕事があるんだなあって思うんだけど、いざ、自分がどこに行けばいいのかってなると、わからなくて……」
「自己分析だと、広報とかが向いているって感じだったんだろ?」
「そうなんだけど、メーカーの広報って、倍率が高すぎて、受かる気がしないんだもん。いいなあ、スカウトなんて。私も、だれかに『わが社にぜひ来てください』なんて言われたいよ。自分のことを認めてくれて、求めてくれるひとがいたら、その会社に入るのに」
うらやましそうな声で、陽花はそんなふうに言う。
わずかな沈黙のあと、陽花は気を取り直すように、明るい声を出した。
「隼人くんのこと、応援してるから。夢だった出版社に入れるなんて、すごいよ。大阪でも全然いいと思う。離れちゃうのはさみしいけど、でも、大阪って、そんなに遠くないよね。東京から、新幹線ですぐだし」
こういう状況でどう励ますべきなのか、わからなくて困っていたので、陽花の口調がいつもどおりに戻ったことに、隼人は胸を撫でおろす。
「まあな」
「それに、べつに、一生、おなじ会社で働かなきゃいけないわけじゃないでしょ? とりあえず大阪の出版社に就職して、実務経験ありになってから、東京に戻ってきて、こっちの出版社に転職すればいいじゃない」
「ああ、なるほど」
「それくらいなら、待てるから」
電話の向こうで、陽花が言う。
その言葉を聞いて、隼人は大阪行きを決意したのであった。
***
朝、起きるとすぐに、隼人はカーテンを開け、ベランダからの風景を眺める。
青い空、高いビル、そして、天守閣。
隼人の部屋の窓からは、大阪城が見えるのであった。
大阪に住むのは、期間限定だ。
それなら、とことん楽しもう。
大学を卒業したあと、そんな気持ちで、新天地へとやって来た。新居を探す際にも、大阪ライフを満喫しようと思い、不動産屋で「大阪らしさを感じられるところに住みたいんです」と伝えたところ、紹介されたのが、この部屋であった。
マンションの名前は「キャッスルビューもりのみや」である。
その名のとおり、大阪城を見ることができるところが売りで、部屋に案内された隼人は窓のそとを見た途端、一目で気に入り、ほかの物件はひとつも内覧しないまま、契約に至った。
ベランダの向こうには、古式ゆかしい白壁と緑色の瓦が見え、金のしゃちほこが輝いている。
高層ビルが立ち並ぶなかで、戦国ロマンを感じさせる大阪城が独特の存在感を放っている情景は、なんとも面白い。
大阪城を眺めるたびに、自分は知らない場所にやって来たのだなあ……と実感して、新鮮な気持ちになるのだった。
大学時代は自宅から通学していたので、隼人にとっては、はじめてのひとり暮らしだ。
きちんと起きることができるのか、遅刻をしないかなど、母にはいろいろと心配されていたが、そもそも、実家暮らしをしていたときにも、スマホのアラームで起きていたのである。いちいち、母に起こしてもらっていたわけではないのだから、そんなふうに案じられるのは心外であった。入社早々、寝過ごして遅刻なんてするわけがない。今日なんてアラームが鳴るよりも先に、目を覚ましたのだ。朝食を終え、身支度を整え、予定の時刻よりもずいぶんと早くに家を出た。
最寄り駅の森ノ宮駅から、大大阪出版のある今宮駅までは、大阪環状線で乗り換えなしで行くことができる。いまのマンションに決めたのは、窓からの風景だけでなく、その通勤の便利さも、もちろん考慮に入れた上である。
森ノ宮駅の改札を抜け、ホームに向かおうとしたところ、隼人の横を大きなスーツケースを持った女性が追い越していった。急いでいるらしく、スーツケースのキャスターがごろごろと音を立てて、遠ざかっていく。
隼人はそのスーツケースに結んでいたスカーフがほどけ、はらりと地面に落ちたことに気づいた。
「あっ、落ちましたよ」
そう声をかけたが、聞こえなかったようで、女性はそのまま進んでいく。
隼人はスカーフのところまで行くと、それを拾いあげて、女性を追いかけた。
「あの、ちょっと……」
呼び止めようとする隼人に気づかず、女性はエレベーターへと乗りこむ。
隼人が追いついたときには、エレベーターの扉はすでに閉まっていた。仕方がないので、隼人は階段を使って、ホームに向かうことにした。
階段をかけあがり、ホームできょろきょろとあたりを見まわして、さきほどのスーツケースの女性を探す。
すると、まさに電車に乗りこもうとしているところだった。
隼人はあわてて、そのあとにつづく。
「これ、落とし物じゃないですか?」
スカーフを差し出しながら、そう声をかけると、ようやく、女性はこちらを振り向いた。
「ああ、私のです。すみません」
女性は恐縮しながら、そのスカーフを受け取る。
ようやく落とし物を渡せたので、隼人はほっとして、電車から降りようとした。
ところが、間に合わない。
すでに電車の扉は閉まっており、発車のタイミングとなっていたのだ。
えっ、やばいんじゃないか、これ。
動き出した電車のなかで、隼人は焦った。
反対側の電車に乗ってしまったのでは……?
一瞬、ひやりとしたが、すぐに気を取り直す。
ここは大阪環状線である。環状線というのは、東京で言えば山手線のようなもので、線路がまるく輪になっており、電車はそこをぐるぐるとまわっている。つまり、逆方向の電車に乗ったところで、いつかは目的の駅に辿り着くのだから、問題はないはずだ。
環状線を時計で例えるならば、森ノ宮駅は三時のあたりで、会社のある今宮駅は七時のあたりになる。外回りで行くほうが近いのは近いが、内回りだとしても、そんなに大きくは変わらない。
早めに家を出たし、時間に余裕はあるから、焦らなくてもだいじょうぶだろう。
そう考えると、隼人はスマホを取り出して、週刊漫画雑誌の最新号を読みはじめた。
電子書籍なら、荷物が増えることもなく、どこでも読書を楽しめるので便利だ。
夢中で読み耽っていたが、気になるところで次号につづくとなっており、顔をあげる。
そろそろ、降りる駅ではないだろうか。
電車の窓から、そとを見てみるが、なんだか、流れていく風景のスピードがちがうような気がした。
違和感はあるものの、どういう状況なのか把握できないまま、隼人は車窓を見つめる。
すると、駅のホームが見えて、電車は停まることなく、そこを通り過ぎて行った。
おかしい。
環状線は、各駅停車のはずでは……。
嫌な予感がして、隼人の背中を冷や汗が伝う。
ここ、どこだ……?
さっきまでは漫画に没頭しており、アナウンスがまったく耳に入ってこなかった。
窓の向こうに見慣れぬ景色が流れていくが、いくつか畑のようなものが見えて、違和感がますます強くなる。
都会らしいビルやマンションの立ち並ぶ大阪市内の風景とはちがって、郊外っぽいというか、あきらかに見たことのない場所に来ていた。
違和感といえば、この車両にはスーツケースやキャリーバッグを持った乗客が妙に多い。
どきどきしながら、まわりを見まわしていたら、先ほどスカーフを渡した女性と目が合った。
恥を忍んで、隼人は訊ねてみる。
「あの、この電車って、環状線、ですよね?」
すると、女性は驚いたような声で、こう答えた。
「いえ、関空快速ですけど」
関空?
思いがけない言葉に、隼人はあわてて、車内の扉の上部に設置された路線図を確認する。
たしかに関空快速というものは存在しており、環状線を通りつつも、途中の天王寺駅で分岐して、べつの路線となり、大阪湾に浮かぶ関西空港が終着駅となっていた。
そして、快速の名のとおり、いま、乗っている電車は普通列車よりも停車駅が少なく、どうも知らないうちに今宮駅を通過してしまったようである。
やってしまった! 気づかなかった……。
入社式の際には、迷ってはいけないと考えて、通勤経路をしっかりと頭に入れ、念には念を入れて、インターネットの路線案内で乗るべき電車を何度も調べた。
しかし、大阪の路線にもくわしくなったので、さすがに今日はそんなに調べなくてもだいじょうぶだろうと思って、油断したのだった。
どっ、どうすればいいんだ、これ……。
焦りながら、スマホで経路を調べてみるが、急いで折り返したところで、どう考えても始業時刻には間に合わない。
絶望的な気持ちで、隼人はスマホを握り、検索ワードに「新入社員 遅刻」と打ち込んで、対処法を調べてみた。こういう場合、メールで知らせるのは悪手で、気まずくとも電話で伝えるべきらしい。
関西空港駅に電車が着き、ホームに降り立つや否や、隼人は淡路に電話をかけた。
本来ならば、人事部なり、直属の上司なりに知らせるべきところなのだろうが、隼人にとっては淡路が唯一の会社との窓口なのだ。代表取締役という肩書きではあるが、淡路いわく、ちいさな会社だから人事部なんて気の利いた部署はなく、就職に関することに限らず、会社の細々とした用件は淡路が一手に引き受けているので、どんなことも気軽に相談してほしい、とのことだった。
「瀬口くんか。おはよう。どうしたんや」
電話越しに淡路の声が聞こえて、隼人は開口一番、謝罪する。
「申し訳ありません! 電車を乗りまちがえてしまって、いま、関空にいるんです」
その言葉に対して、すぐさま、笑い声が響いてきた。
「あちゃー、やってもうたな。環状線は、山手線とちがって、ぐるぐるまわる電車だけやなく、奈良に行くやつとか、和歌山に行くやつとかも来るからなあ」
「本当に申し訳ありません! あの、いまから折り返して、すぐにそちらに向かいますので」
「わかった、わかった。急がんでいいから、気ぃつけて、戻っておいで」
淡路のあたたかな言葉に胸を撫でおろしつつ、折り返しの電車に乗って、隼人は大阪市内へと戻る。
電車のなかではじりじりしながら座っているしかなかったが、今宮駅に着くと、走って、会社のあるビルへと向かった。
初出社の日に、こんなしくじりをするなんて、我ながら情けない。
全力疾走していると、ようやく、看板に「大大阪出版」と書かれた四階建てのビルが見えてきた。
石造りのビルは大正モダンを思わせる雰囲気で、意匠を凝らした壁の一部が欠けているところがあったり、色褪せや苔むしているところもあったりして、なんとも古びている。
大阪行きを決めたあと、淡路に連絡を取った隼人は、面接のために大大阪出版の本社を訪れて、その年季の入った建物のたたずまいに驚いたのだった。
古いと言えば、古い。
かなりのおんぼろビルだ。
しかし、淡路いわく、このたたずまいは、古いではなく、レトロと表現するのが正しいらしい。
ちなみに、一階には飲食店が入っており、二階から上が大大阪出版のオフィスとなっている。
隼人は裏口の階段をかけあがり、編集部のある二階のオフィスへと向かう。
そして、オフィスのドアを開けると、とりあえず、その場にいる全員に頭をさげた。
「遅くなって、申し訳ありません!」
その場のひとびとの視線が、隼人に集まる。
呆れているような、面白がっているような、さまざまな視線が刺さり……。
いたたまれない気持ちで立ち尽くしていたところ、淡路の声が響いた。
「ああ、瀬口くん、おはよう。関空行きに乗るとは災難やったな」
「はい、あの、今後はこのようなことがないよう……」
「まあいい、まあいい。それで、ここがきみの席やから」
隼人の謝罪を遮って、淡路はオフィスの奥へと案内した。
デスクが四つ並べられており、そのうちのひとつが隼人の分だった。
「瀬口くんには、家庭科を担当してもらうことになった」
淡路の言葉に、隼人は驚きの声をあげる。
「えっ? 国語の教科書じゃないんですか?」
先日の入社式では、それぞれの教科を担当する社員と顔合わせはしたものの、自分がどこに配属されるかはまだ知らされていなかった。
隼人は文学部出身ということもあり、てっきり、国語科を担当することになるとばかり思っていたのだ。
それが、まさか、家庭科とは……。
「そう、家庭科。中学の教科書では、技術分野と家庭分野て言うんやけどね」
うなずいて、淡路は説明をつづける。
「昭和の時代には、女子は家庭科、男子は技術というように、べつべつに分けられていたことがあったんよ。そのせいか、いまだに、家庭科って女子のものというイメージが抜けきれへんよね」
淡路は肩をすくめると、振り向いて、大きめのデスクにいる女性に声をかけた。
「雪吹さん、家庭科が男女必修になったのは、何年やったっけ?」
すると、雪吹と呼ばれた女性は、ちらりと隼人を一瞥したあと、淡路に答えた。
「中学は一九九三年からで、高校がその翌年の一九九四年から共修になりました」
雪吹の視線は鋭く、隼人は身が縮むような思いがした。
冷静で落ちついた声に、びしっとスーツを着こなして、いかにも有能そうな女性である。
「そうそう。もう、何年や? えっと、いまが二〇一六年やから……」
淡路は指を折りながら、計算していく。
「二十三年か。そんな経つのに、家庭科のイメージはあんまり変わってへんのよ」
小学生のころ、隼人はあたりまえのように女子といっしょに家庭科の授業を受けていたが、調理実習のときなどは男子はふざけたり、遠巻きに見たりで、熱心に参加する者は少なく、リーダーシップを取るのは女子が多かった。
なので、家庭科は女子のもの、というイメージがいまでもあることはわかる気がする。
中学高校はとにかく大学進学に重きを置く男子校だったせいか、受験に関係しない教科は軽んじられる傾向があり、家庭科の授業はほとんど記憶にない。
家庭科と言われても、隼人にとっては自分とは「無関係」で「縁遠いもの」だという気しかなかった。
そんな自分が、家庭科の教科書を作るなんて……。
戸惑っていると、淡路が問いかけた。
「瀬口くんは、どうや? 家庭科、好きやったか?」
その質問に、隼人は正直に首を横に振る。
「いえ、あまり、得意とは言えないので、意外というか、驚いています」
それを聞いて、淡路は納得したように、うんうんとうなずく。
「その教科が得意な子ばかりじゃなくて、苦手な子もいるわけやし、そういう立場での視点も必要やと思うてな。専門家ばかりやなく、ふつうの子の感覚があってこそ、広く受け入れられる教科書が作れるというもんや。それに、瀬口くんには『少年の心』があるやろ」
その単語を口に出して、にやりと笑う淡路に、以前、読まれた筆記試験の作文を思い出して、隼人は少し赤面する。
「ぜひ、家庭分野の教科書作りで、瀬口くんの『少年の心』を活かしてほしい。男子も興味を持つような家庭科の教科書を作ってほしいねん。その役目は『少年の心』を持っている瀬口くんにこそ、ふさわしい。そう考えて、こういう配属になったというわけや」
そう説明すると、淡路は振り返り、雪吹のほうを見た。
「この雪吹さんが、家庭分野の編集長やから。ほんじゃ、雪吹さん、あとは任せたから。瀬口くん、しっかり働いてや」
気合を入れるように、隼人の背中をばしんと叩いて、淡路はその場から立ち去っていく。
隼人はぺこりと頭をさげて、淡路を見送ったあと、雪吹のほうを向いた。
「あの、よろしくお願いいたします」
そう挨拶をした隼人に対して、雪吹の視線は冷ややかなものだった。
「教科書というのは、まちがいが決してあってはならないものなの」
静かな口調ではあるが、斬りつけるような言い方だ。
淡路のやわらかな大阪弁とはちがって、雪吹の話し方は標準語であり、それゆえか、言葉がきつく感じる。
「それなのに、出社初日に電車を乗りまちがえるような新人だなんて……」
溜め息をつかれて、隼人はうつむく。
教科書にはまちがいがあってはならない。
言われてみれば、当然のことだろう。
教科書に書かれている内容を子どもたちが学んでいくのだ。
まちがいなど、決してあってはならない。
教科書を作るという仕事の責任の重さを、改めて実感する。
雪吹の厳しい態度に、隼人は身が引き締まる思いがした。
☆☆☆
なにか、聞こえた気がした。
小野田流果は、道の途中で立ち止まり、耳を澄ます。
流果の手には、古布をパッチワークした手作りのエコバッグが下げられている。小学生男子としてはなかなか渋いセンスであるが、祖母が使っていたものを譲り受けたのだ。
スーパーで買い物をした帰り道で、流果が手に下げたエコバッグには、牛乳とネギと青梗菜(チンゲンサイ)と味噌が入っていた。
牛乳のことはちょっと気になるものの、幸い、冷凍食品は買っておらず、すぐに冷蔵庫に入れなければならない生ものもないので、少しくらい寄り道をしても構わないだろう。
そう判断して、流果はしばらく、そこで耳を澄ましていた。
やはり、聞こえる。
耳に届いたのは、消え入りそうな「ミャー」という鳴き声だ。
猫?
声がしたほうに向かって、どんどん歩いていく。すると、軽自動車が停まっていて、その向こう側のコンクリート塀の下に、段ボール箱があった。
段ボール箱のなかをのぞきこみ、そこで鳴き声の主を見つける。
子猫だ!
やわらかそうな白い毛の子猫が、ちいさな前足をぴんと立て、こちらを見あげていた。
子猫の口が開いて、そこから「ミャー」というか細い声が聞こえてくる。
どうしよう……。
鳴き声の主を見つけたものの、流果は途方に暮れた。
流果の暮らしているマンションは、ペット不可なのである。子猫を拾ったところで、飼うことはできない。
困った……。
流果はしゃがみこみ、子猫を見つめた。
子猫は全身を震わせながら、弱々しく、か細い声で鳴きつづけている。
見捨てることなんてできるわけがない。
この子猫を飼ってくれるひとを探さないと……。
そう決意して、流果は立ちあがった。
だれか、親切なひとが、きっと……。