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大雑把かつあやふやな怪盗の予告状②

          *

 午後三時を回った。

 いよいよ怪盗の予告タイムに突入した。

 鷹志が気を利かせて置き時計を持ってきた。それを金庫の上に置いた。アナログ式の四角い時計だ。クリーム色でプラスチック製の安っぽい物で、重厚な金庫とは少しアンバランスに見えた。

 こうして、木島達六人は半円を描いて金庫と時計を囲むことになった。木島の席からは金庫の正面と左側面が見える。黒々とした金属の塊はどっしりと重々しく、頼もしく感じられる。

 それを全員で見守った。

 大浜社長はぼってりとした腹の上で腕組みして金庫を睨んでいる。

 その隣の鷹志は落ち着きなく、きょときょとそわそわしている。

 井賀警部補は物静かに、仏像のような微笑みで座っている。

 三戸部刑事は背筋をまっすぐに立て、太い眉をしかめている。

 後ろをちょっと振り返ってみれば、反対側の壁際に巨漢の樫元が仁王立ちになっている。ぎょろりとした目でこちらを見ている。

 そして木島の隣の席では、作馬探偵が背中を丸めてうっそりと座っていた。地方の役場の職員が、窓口で暇を持て余してぼんやりしているふうにしか見えない。どうにも威厳や緊張感が伝わってこない。前の事件の時の勒恩寺探偵は自由闊達で自己主張が強く、木島は大いに振り回された。あれも困ったけれど、作馬のように主張がなさすぎるのも問題だ。これでは何のためにいるのか判らない。

 まあいい、今は見張りに集中しよう。

 木島は意識を切り替えた。

 警戒するべし。何かアクシデントがあっても金庫から目を離さないように、肝に銘ずるのだ。多分、井賀警部補達もそう考えているに違いない。

 金庫に集中する。あの中にブルーサファイアがしまってある。深く碧い輝きを放つ眩いばかりの宝石。怪盗はあれを狙っているのだ。

 しかし、どうやって奪取するつもりなのだろうか。金庫を見つめながら木島は考える。金庫は堅牢で、扉は大浜社長以外には開くことができない。こうして周囲も見張っている。六人の人間の監視下にあり、その背後からは大男のぎょろ目も睨んでいる。さらに邸内には刑事達がいる。八人の刑事があちこちで張り番をして、不審者の侵入に備えている。そして外には警官隊だ。十五人が庭を哨戒し、侵入者を防いでいる。これでは敷地に入ることすらままならない。怪盗は目算があるのか。どんな行動に出るつもりなのか。考え続けると不安になってくる。こうして時間が長いとじりじりしてくる。どうにもじれったい。無言でいるのもプレッシャーだ。そうだ、別に黙っている必要もない。

 木島は緊張をほぐすためにも喋りかけてみて、

「井賀警部補、予告状が来たのは一週間前だという話でしたよね」

「はいはい、そうですな」

 警部補は、仏像のごとく落ち着き払ってうなずいた。

「では、ブルーサファイアをここではなくどこかへ預けるという案は出なかったのですか。例えば警察署の中とか。そうすればこんなふうに見張る必要もなかったんじゃないでしょうか」

「もちろんその選択肢も検討しましたよ、しかし」

 と、井賀警部補はちらりと横目で大浜社長を窺った。

「わしが却下した」

「どうしてですか」

 木島の問いかけに、大浜社長は腕組みしたまま、

「運搬途中の安全が保証されんからだ。予告状はわしに危機感を与えて、ブルーサファイアを外へ運び出させるエサかもしれんだろう」

 すると、三戸部刑事が太い眉を片方だけ上げて、

「運搬中の警護は我々にお任せくださいと云ったのですが」

「警察を信用しとらんわけではない。しかし万一、賊が銃などで武装しておったらどうする。車で運んでいる途中で止められて、複数の犯人が銃口を向けてきたら、君らは撃ち返せるのか」

「それは」

 と、三戸部刑事が言葉に詰まった。

「撃てんだろう。いや、それが悪いこととは云わん。慣習的に銃で応戦しないのが君らの伝統だ」

 大浜社長の云うことにも一理ある。我が国の警察は、海外に比べて発砲に対して極めて慎重だ。めったなことでは銃を人に向けたりしない。まして強盗団との銃撃戦など想定すらしていない。

 武装強盗の可能性を考慮すれば、確かに移動時のリスクは高い。そう考えれば、ここに置いたままのほうが安全なのかもしれない。

 納得してから木島は、

「もうひとつ、気になっていることがあります」

「何でしょう」

 三戸部刑事が、折り目正しい口調で尋ねてくる。

「怪盗はブルーサファイアを大浜社長が持っていると知っていました。賊はどうやってそれを知ったのでしょうか。もし知っている者がごく少数だとしたら、怪盗石川五右衛門之助の正体を絞り込めるのではないでしょうか」

 木島の言葉に、鷹志が半分吹き出しながら、

「いやいや、そいつは無理無理。絞り込みなんかできっこないよ」

「なぜですか」

「だって、親父は人を家に招待しては、しょっちゅう見せびらかしていたから。さっき話に出た市長に消防署長に市議会議員のお歴々。あとは会社のみんなも。この近辺の主立った人はみんな知ってるよ。あ、それにね」

 と、鷹志は立ち上がって身軽に部屋を出て行くと、すぐに戻ってきて、

「ほら、これ見て」

 へらへらと笑いながら、一冊の雑誌を渡してくる。経済雑誌だ。お堅いことで有名で、テレビタレントのゴシップなど一切扱わない。その内容は、今年度下半期の政府と経済産業省の経済指針の見通しが財界に与える影響、とか、円高は株価上昇の追い風になるか経済評論家の予測、とか、原油高騰に対する諸外国の反応、というふうに経済記事に特化し、各界の経営者が主要購読層の雑誌である。

 鷹志は、その最後のページを開いて示す。カラーの半ページの記事で、タイトルは“わたしの宝物”。お堅い誌面にあって唯一の息抜きのコーナーと思われる。全国の経営者にインタビューした記事のようだ。

 そこには間違いなく大浜社長が載っていた。ブルーサファイアを片手に相好を崩している。大浜社長は雑誌の中で“宝物”を大いに自慢していた。ざっと目を通した木島は、雑誌を作馬に回した。作馬は黙って、じっと記事に見入り始める。

「これ、先月出た号。ね、全国に触れ回っちゃってる」

 と、鷹志は軽薄な薄笑いで、

「この雑誌を見た人なら、誰でも親父がブルーサファイアを持ってるって知ってるわけ」

 なるほど、これでは絞り込みなど不可能なはずだ。この経済誌の発行部数がどのくらいかは知らないけれど、どこの書店でも手に入るくらいメジャーな雑誌だ。何なら駅の売店でも、その辺のコンビニでも売っている。

 鷹志はへらへらと軽い口調で、

「親父の悪い癖でね、書画骨董に美術品に宝石、そういうお宝が手に入ると、周りの人に自慢せずにはいられないの。手元に置いておいて、見せびらかすだけ見せびらかして、飽きたら売っちゃうんだけどね。まあ、売る時は買い値より高く売るから、その辺は我が親父ながら天晴れな商人魂だとは思うけど。雑誌の取材まで受けて自慢するんだから、病膏肓やまいこうこうってやつでしょ」

「それは、雑誌社の連中がどうしてもと云うからだ」

 さすがの大浜社長も歯切れ悪く弁明する。鷹志はさらにへらへらと、

「もうさ、そんな地方成金丸出しの趣味はやめたらって母も俺も進言するんだけどね、聞きゃしない。妹なんか特に嫌がってさ、人を呼んで自慢披露会をやらかすと、その後不機嫌になって一週間は親父と口を利かなくなるくらいで。それでもやめないんだから困った癖でしょう。高価な物ほど自慢が長くなるから手に負えない」

「ちなみに、ブルーサファイアのお値段というのは」

 おずおずと尋ねる木島に、大浜社長は不敵な笑みを浮かべて、

「警視庁の刑事さんがどれだけ高給取りか知らんが、そいつは聞かんほうがいいな。心臓に悪いだろうから」

 ブルーサファイアがそれほど高額ならば、雑誌を見た者が僻み根性で、金持ちに嫌がらせをするために予告状を出した、という可能性も捨てきれなくなる。とすると、予告自体がイタズラなのだろうか。県警の刑事が判断したように、ただの嫌がらせなのかもしれない。それだとこうして警備態勢を敷いていること自体が無駄になる。いや、この場合無駄になるほうがいいのか。盗難事件が起きないのならば、それに越したことはない。木島の報告書も書きやすくなることだろう。

 などと考えているうちに四時になった。

 一時間経過。

 大浜社長がおもむろに立ち上がって、

「一時間経ちましたな。どうだね、無事のようだから確認してみようじゃないか」

 金庫の前まで歩み出た。他の五人もそれに釣られるように、金庫前に集まる。

 大浜社長は左手で手元を隠してダイヤルを回し、そしてポケットから鍵を取り出し解錠。三戸部刑事がそこに進み出て、

「では、ここからは自分が」

 と、L字型のハンドルを四十五度回転させた。ゴトン、と重い音と共に分厚い扉が開く。

 大浜社長が金庫に手を差し入れ、黒い小箱を取り出す。蓋を開け、ビロードの覆いを剥がす。

 そこには、眩いばかりのブルーサファイア。碧々と、海の深さを握り固めたような、煌びやかな輝きが溢れ出した。

 大浜社長は、ほっとしたように、

「無事だな」

 何度もうなずき、宝石を小箱にしまった。黒い小箱を金庫に納めて、重厚な扉が再び閉じられた。

 全員が席に戻り、安堵の息をついた。

 最初の一時間は乗り切った。予告時間が終わる夜八時までは、あと四時間。これ、結構神経を使うぞ。木島は改めてそう感じた。集中力が途切れないか、少し心配だ。しかしどうして怪盗は、時間指定をきっちりしなかったのだろうか。今時は宅配便ですら、指定時間に来るというのに。この緩さは何なのだろう。もうちょっと締まりのある予告はできなかったのか。いや、不満を云っている場合ではない。あと四時間、頑張ろう。

 集中を維持するため、木島は隣の作馬探偵に話しかける。

「この確認作業、一時間毎にやるんでしょうかね」

 しかし作馬は何も答えずに、無感動な目を向けてくるだけだった。木島は諦めずに、

「あんまり無闇に金庫を開け閉めすると、怪盗に機会を与えるだけなんじゃないでしょうか。確認する時、隙ができやすいと思うんですが」

「隙ができてどうするのですか。奪うのは不可能です。奪ったとしても、そもそもこの警備態勢の中では逃げられない」

 作馬はやっと口を開いてくれた。物凄く事務的な口調ではあるけれど。

「イミテーションとすり替えたらどうでしょう。よくできた偽物ならば、しばらくは奪われたことも気づかれないんじゃないでしょうか。そうすれば逃走時間も稼げます」

「イミテーションですか。それはあり得ません」

 作馬はやけにきっぱりと云った。

「どうしてですか」

「ブルーサファイアはあれほど印象的な宝石です。形状も色も目に焼き付いて、私どもの記憶に残りやすい。それと一見したくらいで気づかないとなると、これは相当に精巧なイミテーションでないとなりません。それには腕利きの贋作職人がよほど丹精を込めて製作する必要があると思われます。先ほどの雑誌のカラー写真を見たくらいでは、そっくりな偽物など作れません。それこそ本物と首っ引きで細部まで模倣しなければ、私どもの目は欺けない。カットの角度が一ヶ所でもズレていたりしたら、輝きの印象が違って見えてしまうでしょうから。色みも、本物と同じにするには、実物を手元に置いて見較べながら作らないとならないでしょう」

 作馬は熱の籠もらない口調で、淡々と云う。

「しかし、それでは矛盾が生じます。贋作師が偽物を作るには、本物が手元になければそっくりには模倣できません。それには贋作師に本物を預ける必要があるのです。もし怪盗が贋作職人に偽物の製作を依頼したとしたのなら、その時点で怪盗は本物をすでに手にしているということになります。本物を渡して、これとそっくりに作ってくれ、と依頼するためにです。怪盗がすでにブルーサファイアを手に入れているのならば、もうすり替えだの予告状だのというややこしい手順を踏む必要もない道理ではありませんか。本物が怪盗の手に渡っていたら、もう盗み出す必要がない。手に渡っていなかったのなら、私どもの目を欺けるほど精巧なイミテーションなど製作できない理屈になります。従って、本物そっくりのイミテーションなどは実在しないことになる」

 感情の起伏のまったく入らない作馬の言葉に、しかし木島はびっくりしていた。何だ、ちゃんと喋れるんじゃないか、しかもこんなに理路整然と。これなら最初から、しっかりと探偵らしく振る舞ってくれたらよかったのに。

 井賀警部補が向こうの席から、仏像みたいな穏やかな微笑で、

「何の内緒話ですかな、探偵さんコンビは。事件と関係あるのでしたら、私達にも聞かせていただけませんか」

「あ、お気に障ったのならすみません。内緒話はマナー違反でしたね。いえ、大したことはないんです、イミテーションの宝石を中身だけすり替えるのは不可能だという話で」

 木島が云うと、軽薄な調子で鷹志がへらへらと、

「中身だけ盗られたといえば、あの誘拐事件の時もそうだったね。あの時も中身の身代金だけを盗られたじゃないか」

 さっきからちょいちょい仄めかされる誘拐だの身代金だのという、気になるワードがまたぞろ出てきた。木島と作馬以外は皆、訳知り顔なのも気にかかる。何の話だろうか。ずっと不審に思っていたので、思い切って尋ねてみた。

「あの、誘拐事件というのは何でしょうか。前に何かあったんですか」

 木島の問いかけに、鷹志が気軽にうなずいて、

「そう、三ヶ月ほど前にね。その時も井賀さん達警察の人にお世話になった」

「鷹志、もういいだろう、そんなくだらん話は」

 大浜社長が不機嫌そうに云ったが、鷹志は意に介した様子も見せずに、

「別に構わないでしょう、この人達も警察関係者なんだし。時間潰しのお喋りにもちょうどいい。ねえ、井賀さん、問題ないですよね、喋っても」

「ええ、構いませんよ」

 井賀警部補は仏像みたいな鷹揚さでうなずく。大浜社長が仏頂面で黙り込んだので、調子に乗ったのか鷹志はべらべらと、

「実はね、親父が誘拐事件に遭いましてね、身代金をごっそり持ってかれちゃったんだよ。東京の刑事さんには珍しくもないでしょうけど、こんな田舎町じゃまず起こることのない一大事だからね、もう大騒ぎでしたよ」

「どなたが誘拐されたんですか」

 木島の質問に、鷹志はこともなげに、

「あ、人じゃないの、絵」

「えっ?」

「えっじゃなくて、絵、絵画。親父がいつもの道楽で自慢するために買った高い絵ね。そいつが盗まれたんです」

 鷹志が云う。息子が余計なことを口走るくらいなら自分で説明したほうがいいと思ったのか、むっつりと不機嫌なままの大浜社長が、

「シャルル・リシャールという画家をご存じかな。フランス印象派の絵描きだがマネやセザンヌ、モネほどメジャーではない。しかしそこそこ知名度はあって世界中にコレクターもいる。そのリシャールの『赤の湖畔』という作品を手に入れたんだ。しばらく手元に置いて眺めて楽しんだ」

「ついでに、例によって人を招いて見せびらかして、自慢もしたけどね」

 と、鷹志が半畳を入れる。それを無視して大浜社長は、

「だが、それを奪われた。東京の銀座の画廊で印象派展をやるというんで貸し出したんだ。無論、賃料は取ってな。しかしそれがマズかった。展覧会が終わって軽く打ち上げに出て、そのまま車に乗せて帰ろうとしたんだがな、この近くの道で強奪された。恐らくわしがリシャールを貸したのをどこかから嗅ぎつけた悪人どもがおったのだろう」

「絵は車で運べる大きさだったんですね」

 木島が質問を挟むと、

「ああ、P5号だからこの程度だ、そんなに大きくはない」

 大浜社長は、肩幅くらいに両手を広げて見せて、

「男が三人だった。迷彩服の上下に目出し帽で顔を隠しておってな、カーブでスピードを落としたタイミングで、暗がりから飛び出して来た。一人が手に拳銃を持っていた。リボルバーでな、モデルガンだろうと思ったが万一のことがある。撃たれて怪我でもしたらつまらん。それで抵抗できなくなった。こちらは一人、相手は三人。元より分が悪かったしな。さっき、ブルーサファイアを余所で預かってもらうのは抵抗があると云っただろう。それも、この経験があったからだ。移動中は危険だ。銃を突きつけられると人間どうしても動けなくなる」

「それは怖かったでしょうね」

「怖いというより悔しかったな。このわしがあんなチンピラどもの云うことに唯々諾々と従わねばならんとは。屈辱だ」

 と、大浜社長は唇を曲げて、

「後部座席に置いていた絵をまんまと奪われた。そして云われたんだ。絵を返してほしければ二千万円用意しろ、警察には云うな、とな。それからバイクの音がして三人組はいなくなった」

「二千万円、それが身代金ですか」

「ああ、そのくらいで返ってくるのなら安いものだ。リシャールにはそれだけの価値がある」

 大浜社長が云うと、鷹志が横から、

「帰ってきた親父が強盗に襲われたと云うんで、俺達はびっくりですよ。妹なんかすっかりテンション上がっちゃって、どんな犯人だったかどんな顔だったかどういう様子だったか、と根掘り葉掘り。目出し帽で顔は隠していたと親父は云ってるのに」

 三戸部刑事も話に加わってきて、

「そして、私どもの署長に極秘で相談が寄せられたわけです」

「何しろ警察には通報するなと警告されておる。ヘタに百十番通報して大騒ぎにでもなってみろ、犯人の神経を逆なでしてリシャールが破損されるやもしれん。そんなことになったら目も当てられんからな」

 大浜社長が云うのに、鷹志が口を挟んで、

「だから新浜署の署長さんにこっそり相談するよう、俺が提案したんですよ。普段から親父は、署長さんとは懇意にしているって、ことあるごとに公言してましたからね。こういう時に相談に乗ってもらわないでどうするんだって、渋る親父の尻を叩いて、署長さんに話を持ちかけたんです」

 三戸部刑事がそれを補足し、

「あくまでも大浜氏からの個人的な相談、という形で話を伺いました。そして署長が気を利かせて、我々井賀班が極秘裏に捜査に当たることになったのです。犯人に気取られないよう、こっそりと」

「次の日に、携帯電話が届いた。宅配便でな。後はドラマなどでもよくある展開だ。電話の指示に従って、わしがあちこち移動させられた。二千万円の詰まったボストンバッグを持ってな」

 大浜社長が苦々しげに云い、三戸部刑事も太い眉をしかめ、

「我々にとっても苦しい仕事でした。高価な絵画が人質に取られているのです。絵に何かあったら、そこでアウトですので。表立って動けないので追跡も困難でして、引き離されないようにするのが精一杯でした。ああ、ちなみに携帯電話は盗品で、そこから犯人に辿り着くことは不可能でした」

「結局は警察は追跡に失敗したがな。新浜の港に、わしの名義でモーターボートをレンタルしておったのだ。わしが船舶免許を持っていることも、下調べ済みだったんだろう」

「海に出られたのは想定外でした。極秘捜査だったので、海上保安庁に協力を要請するわけにもいきません。尾行は諦めざるを得ませんでした」

 三戸部刑事が悔しそうに云うと、大浜社長もむっつりとしたままで、

「その後は何のことはない。近くのマリーナまで誘導された。外房の、わしのクルーザーも預けてある馴染みのマリーナだ。そこの桟橋に例の三人組が待っておってな、ボストンバッグの現金は奴らの持ってきた布袋に移された」

「ボストンバッグの底には発信器を取り付けておいたのですが、残念です」

 三戸部刑事が云うと、大浜社長はつまらなそうに、

「金は奪われた。これで終わりだ」

「絵はどうなりましたか」

 木島の質問に、社長はさらに白けた口調で、

「返ってきた。ふざけたことに次の朝、この家の門の外に立てかけられておった。ビニールと油紙で厳重に梱包してな。朝一番に娘が見つけたよ。汚損もなく、無事だった」

「しかし二千万円は奪われたままなんですね」

「ああ、そうだ」

「大きな損害ですね」

 木島が云うと、横から鷹志がへらへらと軽薄な口調で、

「ところがそうでもない。絵には保険がかけてあってね、その辺親父は抜かりがない。身代金は保険金で補填されて、親父の出費はゼロ。損はしてないんですよ」

「バカを云うな。わしの気分的には大損害だ。このわしから金を奪いおって。あんな屈辱的な目に遭ったのは初めてだ。精神的には大きな負担を強いられたわい」

「その絵はそれからどうしましたか。ここには飾られていないようですけど」

 木島が周囲を見回しながら聞くと、大浜社長は鼻を鳴らして、

「もうない。とっくに売り払ったわ。げんが悪い」

「もちろん買い値より高く、ね。親父は転んでもタダじゃ起きないから」

 と、鷹志が茶化すように、

「そして刑事さん達は、その事件をまだ解決してくれないんですよ。憎っくき三人組をなかなか逮捕しないから、親父の刑事さん達への不信感は今でも拭えないでいるわけなんです」

 その言葉に三戸部刑事は必死に反論して、

「いや、あれは絵という人質があちらにある分、最初から大きなアドバンテージを取られていたのです。切り札を握られている以上、我々も思うように動けない。それに県警の人員を出してもらえないのも追跡に支障をきたしました。我々所轄だけでは海上まではカバーできませんでしたから。その点は決して我々だけの手落ちではないはずです。だのに署長は毎日しつこく、早く犯人を確保しろと口喧しくて。大浜社長案件だから自分の顔を潰すな早くしろと、井賀警部補を責め立てて。そのせいで警部補は胃をやられて、すっかり体調を崩してしまい、とても心配です。無論、逮捕できないのは自分も悔しいですし」

 それをからかうみたいに鷹志が、

「だったら余計に早く解決しないと」

「ですから時間の問題ですと何度も」

 三戸部刑事はいちいち律儀に反論している。

 なるほど、そういう未解決の絵画誘拐事件があったのか。ようやく納得できた。人のよさそうな井賀警部補のためにも、早く解決するといいと思う。隣を見ると、作馬探偵は何の関心もないような顔で黙って座っている。相変わらず影が薄い。探偵なのだから、未解決事件に何かアドバイスする気遣いはないのだろうか。消極的にもほどがある。

 そんな木島の思いが伝わるはずもなく、作馬探偵はじっと無表情で、床の一点を見つめている。

 そうした過去の事件の話などをしているうちに五時になった。

 大浜社長は腰を上げ、

「よし、一時間経ったな、確認してみよう」

 どうやら勝手に恒例化したらしい。やはり確かめないと不安になるのだろう。

 皆の見守る中、社長は金庫の鍵を開ける。

 ダイヤルのつまみを回転させ、鍵をポケットから取り出して解錠。

「じゃ、今回は俺が」

 鷹志が進み出てレバーを握り、金庫の扉を開いた。そしてそのまま鷹志は、黒い小箱を取り出す。ベールを剥がすと間違いなく、ブルーサファイアはそこにあった。

 一同、満足そうにうなずく。

 鷹志は柄にもなく慎重な手つきでビロードの布を宝石にかけ、小箱の蓋を閉める。それを金庫の中へそっとしまう。

 三戸部刑事が気を利かせて、金庫の扉を閉めた。ゴトンと重々しい音が響く。

 ほっと、安堵の空気が皆の間に流れる。

 いや、ここで気を抜いてはいけない。指定時間はまだ三時間もある。気を張っていないと。木島は握った拳に力を込めた。

 そして椅子に座り直そうとすると、作馬探偵が意想外の行動に出た。椅子へは戻らず、ドアへ向かって行くのだ。

 何だ、トイレか、と思ったが、それならひと声かけてほしいものだ。

 背中を追って、木島もドアのほうへ。

 作馬はためらいなくドアを開いて廊下に出て行く。それを追って、木島も室外に出る。ドアの前で張り番をしていた刑事が怪訝そうに、

「どうかしましたか」

 と、聞いてくる。

「いえ、特にどうということはありません」

 我ながら意味不明な言い訳をして、木島は作馬を追いかけた。

 廊下の途中でそれを引き止め、

「どこ行くんですか、作馬さん。トイレならあっちですよ」

 作馬は表情を動かすことなく、

「木島くん、ひとつ私の予測を云っておきますが、この事件、案外何も起こらずに終わるかもしれません」

 木島はびっくりして、

「えっ、本当ですか」

「確実ではありませんが、恐らくそうなるでしょう」

「じゃ、怪盗は現れないんですか。それとも庭辺りですぐに捕まるとか」

「そういう捕り物もなく、終わるような気がします」

「その根拠は?」

「根拠はありません。ただのカンです。それはそうと、木島くん、五時になりました。定時なので帰ります」

「はあ?」

 何を云い出すんだこの探偵は。

「今、なんて云いましたか」

「帰ると云ったのです。定時ですから」

「冗談はやめてください。まだ予告時間は残っているじゃないですか」

 てっきりふざけていると思った木島は半笑いで云ったが、相手は至って真面目な顔で、

「いいですか、木島くん、私は公務員です。公務員は規則に厳格であるべきです。定時になれば帰宅する。これは規則です。規則ならばそれに従う。どこか間違っていますか」

「いや、物凄く間違っていますよ。こういう場合は指定時間が過ぎるまでいるものでしょう」

「その時間は誰が規定したものですか。法ですか、条例ですか、違いますね。あくまでも怪盗と名乗るどこの何者かも判然としない正体不明の人物が私信上で勝手に設けた時間制限です。私はただの公務員ですので何者かも判らない人物の決定に従う義務はありません」

「そんな無茶苦茶な。屁理屈ですよ、それは」

「屁理屈結構。いいですか、木島くん、我々小役人は普段から不法な時間外労働を強いられています。月に百五十時間オーバーのサービス残業は当たり前です。我々下っ端地方公務員の過酷な実態をあなたは知らないからそう無体なことが云えるのです。いつも無理な残業を強要されてこき使われているのです。おまけに薄給はどんなに年を重ねても上がらず、何か問題でも起こせばそれがどんな些細なことでも、これだから税金泥棒は、と世間のバッシングに晒される。だのに不平不満を口にすることすら許されない。こんな報われない職種が他にありますか。なのでこういう特殊業務の時くらい定時で上がらせてもらう。こんなささやかな願いくらい聞き届けてもらってもいいではないですか。ですから強引にでも定時で上がります。ええ、誰が何と云おうと上がります。そのくらいの役得はあってもバチは当たらないでしょう」

 ごく事務的な口調で淡々と一通り、愚痴を垂れ流すと作馬は、背を向けて玄関の方角へ去ってしまう。

 追いすがろうとしても無駄だった。

 地方公務員の平均値ともいえる角度で哀愁に満ちて丸まった背中にかける言葉を、木島は持たなかった。

 一人廊下に取り残されて、しばし茫然としてしまった。

 やがて我に返った。いや、待てよ、そんなのありか、定時だからって事件の途中で帰ってしまう探偵って。そんなの聞いたことがない。前代未聞だ。っていうかあの人、本当に公務員だったのか。見た目通りだったわけだ。

 いやいや、今はそんなことはどうでもいい。それより本当に帰ってしまったのが問題だ。これから一体どうすればいい? 探偵不在で何ができる。

 とぼとぼと、元来たほうへと歩を進めた。どうしたものだろうかと、頭を悩ませながら。

 廊下を曲がったところで、ばったりと出くわした人とぶつかりそうになった。

「おっと、失礼しました」

 よけると、相手は全身でぎくりとしてこっちを見てきた。

 木島も驚いた。てっきり私服刑事の一人かと思ったが、スーツ姿ではない。それどころか異様にラフな服装だった。

 その若い男は、上下共にグレーのスウェット。小太りの体型で、べったりと脂っこそうな長髪だった。不精髭がもっさりとしており、不健康そうな青白い顔をしていた。全体的に不衛生な感じがする。

「あ、失敬」

 驚かせてしまったのを謝罪しても、言葉は返ってこなかった。睨めつけるみたいな敵意のこもった目つきで睨んでくる。ぼってりと厚い唇を動かして、ぶつぶつと独り言を云っている。

 誰だろう、警察関係者には絶対に見えないし。と、不安に思っていると、相手が突然、

「ってんだよっ、何だよっ畜生めがっ、ごらあっ」

 大声で喚いた。

 びっくりした。何なんだ、この小太りの男は。

 魂消た木島をもうひと睨みすると、不潔そうな長髪男はゆっくりとした足取りで、廊下を歩いて行く。そして、そのまま階段のあるほうへ曲がった。

 誰だ、あれは。いや、それにしても驚いた。いきなり大きな声で威嚇するのはやめてほしい。心臓に悪い。しかし何と云っていたのだろう、あの男は。

 動悸を抑えつつ、金庫の部屋に戻った。

 ドアを開いて入室する時、壁際に立つスーツに包まれた業務用キャビネットみたいな巨漢の樫元が、ぎょろりとした目でこちらを見てきた。しかし見ただけで何も云わない。どうやら顔を覚えてくれているらしい。

 木島は自分の席に戻った。

 すると、井賀警部補がおっとりとした口調で、

「おや、相棒の探偵さんはどうしました?」

 やっぱり尋ねてきた。そりゃ気になるよね、と思いつつ木島は、

「あ、いや、ええと、それがですね、そう、外、外です、外の様子が心配だと、見回りに行きました。一応点検すると」

「外ならば我が署の警官隊が巡回しておりますが」

 と、三戸部刑事が不審そうに云う。

「ああ、その、何だか探偵独自の視点から調べることがあるそうで」

 しどろもどろになってしまう。帰ってしまったとは、云える雰囲気では到底なかった。そんな非常識なことがあっていいはずがない。

 木島は必死で取り繕って、

「そうそう、廊下で刑事さんじゃない人と行き合いました。若い男の人で、長髪の」

 話題を逸らそうと努める。それに、不審人物が侵入して来ているのならば注意喚起をせねばならない。独り言をつぶやいたり奇声を発したりと、あからさまに怪しい様子だった。これは報告義務がある。

 しかし、なぜだか大浜親子が気まずそうに顔を見合わせた。井賀警部補も、仏像のごとき物静かな顔つきでのんびりと、

「ああ、その人は気にしなくても問題ありません。忘れてください」

「でも、明らかに様子が変でしたが」

 食い下がる木島に、大浜社長がむっつりと不機嫌顔で、

「本当に気にせんでくれ。それはうちの息子だ、下の」

「息子さん、ですか」

 ちょっときょとんとしてしまった木島に、鷹志が困ったように、

「不肖の弟ですよ、残念なことに」

 ああ、本当にいたのか、茄子太が。

「弟は引きこもりってやつでね、最近は珍しくもないでしょう。鴻次っていうんだけど、一日中部屋に閉じこもってネットゲームばかりしている。もう二十五になるのに、ただの無駄飯食いの穀潰しだよ」

「おい、やめんか。わざわざ余所様にする話ではなかろう。あんなクズのことは放っておけと云っておるだろう」

 大浜社長が強い口調で云うので、鷹志もそれきり口を噤んだ。

 物凄く気まずい感じになってしまった。

 家庭内の触れてはいけないデリケートな部分に足を踏み入れてしまったらしい。

 これでは作馬のことをますます云い出しにくくなった。

 何ともいたたまれない。

 部屋に重い沈黙が落ちる。

 井賀警部補は仏像のごとき穏やかな表情で、悠然と座っている。

 三戸部刑事は背筋を伸ばし、堅苦しい姿勢で腰かけている。太い眉もまっすぐ一文字だ。

 大浜社長は不機嫌そうにソファにふんぞり返り、鷹志はそわそわと落ち着かず何度も座り直していた。

 皆が、金庫を見るともなく見張っている。

 そして、金庫とは反対側の壁では、巨体の樫元が仁王立ちに聳えている。ぎょろりとした目の怖い顔立ちで、宙を見据えている。

 木島は嫌な汗をかいてきた。

 どうしよう、まだ二時間半以上もある。作馬が帰ってしまったことはいずれバレる。庭を調べているという口実も、そうそう長くは通じない。最後まで戻って来なかったら、いくらなんでも不自然だ。

 どう云い逃れしたものか。いつまで露見しないで保つだろう。こっちまで非常識な変人だと思われるんじゃないか。白い目で見られるのはご免だ。なぜ毎度こんな目に遭うのか。探偵の随伴官など割に合わない。ああ、参ったな。どうやって誤魔化そう。

 嫌な汗が止まらない。いたたまれない。居心地が悪いったらありゃしない。

 そうして、落ち着かないでいる中、金庫の上の時計が五時半ちょうどを指した時、ドアがノックされた。扉が開き、刑事らしき男が顔を出し、

「井賀警部補、地域課の第二班が」

 云いかけた時、それは起こった。

 最初、何が起きたのか判らなかった。

 ドアから半歩、部屋に足を踏み入れた刑事が一瞬で中空に吹っ飛び、天井すれすれまで持ち上がったと思ったら床に叩きつけられたのだ。その上から、業務用キャビネットと見紛う物体がのしかかる。その間、およそ一秒。まさに電光石火の早業だった。

 刑事は、巨大な肉体に圧し潰されて動けなくなっている。これはあれだ、横四方固めだ。

「あ痛、いだだだだだ」

 刑事の口から悲鳴が漏れる。それでも上に乗った巨体は容赦しない。がっちりと、さらに締めにかかる。

「ひいいい、助けてええええ」

 刑事が叫ぶ。さすがにのんびりした井賀警部補も慌てて立ち上がり、三戸部刑事もそちらに駆けつけようとした。

 それより早く大浜社長が、

「樫元っ、ブレイク、ブレイクっ、離せっ、樫元、その人はいいんだ、ブレイク」

 命じると、樫元は素早く刑事の上からどいて立ち上がる。ぎょろりとした目玉のその顔は、汗ひとつかいていない。

「樫元、その人は刑事だ、入室しても構わない、いいな」

「はい、社長」

 樫元は、そう応じて元いた場所に戻る。そしてさっきまでと同じ、仁王立ちの体勢になった。何事も起きなかったみたいな、まったくの無表情だった。

 三戸部刑事が、床にひっくり返った刑事を助け起こしている。

「大丈夫か」

「はあ、どうにか、痛たたた」

 刑事は体をさすりながら上体を起こす。

 最前、大浜社長が命令したからだ、と木島は悟った。「ここにいる者以外は誰も部屋に入れるな」と、大浜社長は命じていた。巨漢の樫元はそれを忠実に守ったわけだ。

 鷹志が、この時ばかりは真顔になって、

「すみませんすみません、彼は融通が利かなくて、申し訳ありません」

「気にしないでください。それより木下くん、怪我はないかね」

 井賀警部補に尋ねられて、よろよろと立ち上がりつつ刑事は、

「ええ、大丈夫、だと思います」

 顔をしかめて答える。三戸部刑事がそれを支えながら、

「それより、木下、用件は何だ」

「ああ、そうでした。制服組の交代要員が到着したんです。第一班といつでも交代できます、とご報告に」

「おお、もうそんな時間でしたか。では第一班と第二班は速やかに交代を。引き継ぎをしっかり頼みますよ。それから、暗くなったらいつでも投光器を使うように伝えてください」

 井賀警部補の指示に、

「了解しました」

 と、まだ体にダメージがあるらしく、よぼよぼと立ち上がった刑事は、よたよたとドアを出て行く。

 鷹志がいつもの軽薄な調子に戻って、

「ああ、びっくりした。いや、とんだハプニングでしたね」

 陽気に笑ったので、部屋の淀んだムードが少し明るくなった。

 そうして、三十分が過ぎる。

 午後六時。

 井賀警部補がおっとりと、

「一時間経ちましたな」

「うむ、では確かめるか」

 と、大浜社長が立ち上がった。

 ルーティンの動作で金庫を開くと、井賀警部補が進み出て、

「では、今回は私が」

 と、金庫の中に手を差し入れ、ゆっくりと黒い小箱を取り出す。その場に立ったままで警部補は蓋を開け、ビロードの布をめくる。

 碧い輝きが木島の位置からも見える。

 井賀警部補は、小箱の中のブルーサファイアを大浜社長にも見せ、

「無事ですね」

「うむ、確かに」

 大浜社長もうなずく。木島もほっとひと息ついた。今回も大丈夫だ。

 井賀警部補は宝石をビロードにくるみ、小箱の蓋を閉める。それを金庫に戻していると、ドアの外が騒がしくなった。

「だから入れてくれれば判ると云っているだろう、ええい、頭の堅い連中だな、手を離したまえ」

 傍若無人な大声だった。何の騒ぎかと一同が見守る中、勢いよくドアが開いた。そして、その勢いのまま誰かが入って来ようとしているのが見える。あ、マズい、と木島が思ったのと同じ危機感を持ったのだろう。井賀警部補は大慌てで金庫の扉を閉めると、金庫とは反対側の壁のほうに身構えた。一人の長身の男が、両腕を刑事二人に引っぱられながら入室しようとしているのだ。マズいと思った懸念は正しかった。長身の男が一歩、室内に踏み込んだ瞬間、仁王立ちだったスーツを着た業務用キャビネットが目にも留まらぬ速さで動いた。再びの電光石火。

 入り口のところで縺れ合っていた三人が、一斉にラリアットを喰らって吹っ飛んだ。刑事二人はドアを飛び出し、室外へと弾け飛ばされていった。まん中の長身の人物だけはかろうじて持ちこたえたけれど、それも刹那のことだった。瞬きする間もなく、その体は天井近くまで投げ上げられる。落ちてきたところを大型キャビネットのごとき肉体が、がっしりと捉える。長身の男の体に巨体が絡みつく。四の字固めだ。

「痛だだだだだ」

 体を極められた男の口から、さっきの刑事と同種の悲鳴が上がる。その顔を見て、木島ははっとした。見覚えのある顔だったからだ。つい前に出て、木島は、

「勒恩寺さんっ」

 そう、三ヶ月前の密室事件で一緒になったあの探偵、勒恩寺に間違いない。ただしあっちは再会に驚いている余裕はなさそうだった。

「あ痛だだだ、はな、離してぐれ、いだいいだいいだい」

 四の字固めを極められて苦しむのに忙しそうである。

 大浜社長が慌てて進み出ると、

「樫元、ブレイク、ブレイクっ、そこまでだっ、離せ、離してやれ」

「はい、社長」

 樫元はすんなり技を解いた。そして元の場所に戻ると、一歩たりとも動いていないような顔で仁王立ちの体勢に復帰する。

 長身の男はその場にへたり込んだ。

 木島はそちらに駆け寄って、

「大丈夫ですか、勒恩寺さん」

 抱き起こそうとすると、相手は顔をしかめながら目を上げる。木島の顔を見ても無反応だ。こいつは誰だ、といわんばかりのきょとんとした顔つきである。

 また忘れている、と木島は少しがっかりしながら、

「僕です、木島です、随伴官の、警察庁の新人で」

 それでやっと思い出したらしく、

「ああ、君か、奇遇だ痛でででで」

「大丈夫ですか」

「うん、平気、だよ、多分」

 と、勒恩寺は腰を押さえてふらふらと立ち上がりつつ、

「しかし荒っぽい歓迎だね。この地方では来客を投げ上げて締め上げる風習でもあるのかね。何祭だ、これは」

 減らず口を叩いている。すらりとした長身に、ざっくりとジャケットを羽織っていた。男ぶりのいい整った顔立ちと、それに似つかわしくない乱れた頭髪。紛れもなく探偵、勒恩寺公親その人である。

 勒恩寺はようやくしゃっきりと立ち上がると、いきなり両手を伸ばしてきて、木島の頬を鷲掴みにして思いっきり両側に引っぱる。

「痛ででででで」

 今度は木島が悲鳴を上げる番だった。木島は必死でそれを振りほどき、

「何をするんですか、藪から棒に」

 しかし勒恩寺は涼しい顔で、

「いや、怪盗が現れると予告状が届いたんだろう。怪盗は大抵内部の人間に化けているものだ。もし化けているとしたら俺の見知った人物に変装しているはずだ。初対面の人に化けても意味がないからね。だから木島くん、君が怪盗の変装した姿かどうか確かめたんだよ。こう、ゴムの仮面が顔全体からべりべりっと剥がれないかと思ってね。しかしどうやら違ったようだ。君は本物の木島くんらしいね」

 どの口がそれを云うか、と木島は思う。見知った顔も何も、今の今まで木島のことなど忘れていたくせに。しかし、前回あれだけ振り回された勒恩寺の奇行を懐かしく思ってしまうのは、我ながら心外だった。作馬が帰ってしまったのがそれほど心細かったのだ。この際だから、勒恩寺でもいいからいてくれたほうが心強い。

 勒恩寺はそんな木島の心中とは関係なく、周囲を見渡して、

「警備の責任者のかたはどなたですか」

「私ですが」

 おずおずと進み出た井賀警部補に、勒恩寺はずけずけと、

「部屋の前に立ち番を置くのは悪手ですね。あれでは大事なものがここにあると一目で判る。現に俺はこうして迷わず辿り着いた。どうせならばカムフラージュにすべてのドアの前に立哨を置くべきです」

「はあ、そうですか」

 井賀警部補は、突然の闖入者の妄言に目を丸くしている。

 大浜社長も不審に思ったようで、

「誰だね、君は。人の家に勝手に入ってきおって、無礼ではないか」

 威圧的に問うた。さすがに貫禄がある。

 しかし勒恩寺はそのプレッシャーをものともせず、

「探偵です。名探偵の勒恩寺公親といえば俺のことです。お見知りおきを」

 優雅に一礼する。

「勒恩寺さん、どうしてここへ?」

 木島が尋ねると、勒恩寺は気取った仕草でジャケットの襟を直しながら、

「うん、上に聞いたら今日の担当は作馬さんだというじゃないか。あの人のことだからどうせ定時に帰ったんだろう。だから代わりに来た。今からでも一日分の日当がつくからね」

 それを耳聡く聞きつけた三戸部刑事が、

「帰ったって何ですか。定時というのは?」

「いや、その、帰ったというか交代というか、それでこうして新しい探偵が」

 もごもご云う木島の努力を、まるっきり台無しにして勒恩寺は、

「さっきまでいた探偵はもう帰ったんですよ。定時で帰るんです、あの人は。ただし、この名探偵が代わりに参上したのだからお釣りが来るでしょう。もう大丈夫です。ご安心ください。怪盗など寄せ付けもしませんよ。この名探偵にお任せあれ」

「すみませんすみません、僕の上司です。あ、正確にいえば上司ではないのですけど、パートナーです。とにかく怪しい者ではありません。身分は警察庁が保証しますんで、心配しないでください」

 木島が云い募るほど怪しさが増す気がする。皆の視線が痛い。思いっきり変人の仲間だと思われている。作馬が帰ってしまったのが露見したのも痛かった。事件を放っぽらかして途中で帰宅するのは、やっぱり非常識この上ない行動だ。ああ、バレちゃったよどうしよう、恥ずかしいったらありゃしない、と木島はおろおろするしかなかった。

 そんな木島の気まずさなど気にもせず、勒恩寺は颯爽と、

「さて、木島くん、俺にはどなたがどなたなのかまったく判らない、さあ、この場にいらっしゃる皆さんを紹介してくれ」

 その場にいる人達を見回して云う。皆、思いっきり胡散くさいものを見る目をしている。

 そんな中でも随伴官としての仕事はしなくてはならない。中途半端な立場はつらい。木島は勒恩寺に紹介して、こちらが現場責任者の井賀警部補で、こちらがその片腕の三戸部刑事で、という具合に、最後にさっき探偵を投げた巨漢の樫元氏まで教えると、

「うん、オーケー、人物構成は飲み込めた。さあ、皆さん、この名探偵勒恩寺公親が現場に入ったからにはもう恐れるものは何もありません。怪盗など何するものぞ。お宝は必ず守りきり、近づいて来た賊を見事ひっ捕らえてご覧に入れましょう。皆さんは大船に乗った気で俺の活躍を見物してくだされば結構です。名探偵の華麗な働きをご披露いたしましょう」

 勒恩寺は朗々と語った。四の字固めのダメージが残っているのか、腰をさすりながらという点がいささか精彩を欠くけれど。そして、

「木島くん、これで皆さんは安心できただろう。それはそうと、これまでの経緯を俺はまだ知らない。さしもの名探偵も何の情報もないのでは少し心許ない。今までのことを教えてくれたまえ。今日、ここに来てから何があったのかなどを」

「判りました、判りましたからとりあえず座ってください」

 悪目立ちする探偵を引っぱって、一番隅の椅子に座らせた。さっきまで作馬が座っていた椅子だ。

 これまでの出来事を話そうとして、木島はふと思い出す。ボイスレコーダーだ。胸ポケットにずっと入れていた。それを取り出す。ここに全部、今までの会話などが録音されているはずだ。

「なるほど、これは便利だ。木島くん、役に立つね、やっぱり君、この仕事に適性があるんじゃないかな」

 嫌なことを云って勒恩寺は、両掌を擦り合わせている。その耳にイヤホンをさせて、録音を再生した。そういえば昼間に見せてもらった予告状のコピーもポケットにしまってあった。ついでにそれも渡す。

 どっかりと足を組んだ尊大な態度で座った勒恩寺は、ボイスレコーダーの音声を聞く。時折、これは何をしているのかと質問が入るので「雑誌を見ているんです。大浜氏がブルーサファイアを紹介した記事が載っていて」とか「刑事さん達が部屋の隅々まで点検している音です」と、木島はその都度、説明する。勒恩寺は、ふんふんと鼻で返事を返す。お行儀が大層悪い。勒恩寺はレコーダーの音声を早送りで聞いているらしい。ハイスピードの会話がイヤホンから洩れ聞こえてくる。これで内容を理解しているのだから器用な男である。

 大きな態度が気に障るらしく、大浜親子は非難がましい目つきで探偵をちらちら見ている。三戸部刑事も太い眉をしかめて、こちらの様子を窺っていた。今まで比較的良好な関係を築いてきた人達からの冷たい視線。木島はまたしても、いたたまれなくなってくる。だが、立場的には随伴官として、勒恩寺の世話を焼かなくてはならない。板挟みの気分だ。ストレスが大きい。やはりこの仕事、向いているとは思えない。得手勝手な探偵のお世話係は、もっと図太い神経の者でないと務まらないだろう。自分に適しているとは、木島はどうしても思えなかった。

 早送りで聞いたためか、思ったより早く聞き終わった。イヤホンを耳から外して勒恩寺は、尊大な態度のまま、

「木島くん、作馬さんはこの一件は何事もなく終わるかもしれないと云っていたね」

「ええ、根拠は不明ですが」

「いや、俺もそう思う。ひょっとしたら今日は何も起こらずに帰ることになるかもしれない」

「どうしてですか」

「作馬さんのカンはよく当たるんだよ、ほぼ百パーセントの確率で。それに」

 と、勒恩寺は不敵に笑って、

「俺の論理がそう告げている」

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