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薄墨の花嫁 灰髪の少女は、黒曜剣士と初めての恋をする

 序章

うすずみ』と呼ばれる色がある。
 例えば、最近海の外からやってきた水彩画。この絵具を好き勝手に混ぜてみる。すると色は鮮やかさを失い濁り、やがてどんよりとした灰色になる。彩りも光も失ったこの色を薄墨と呼び、人々は忌避してきた。
 色が全てのこの世界に於いて、最も忌むべき最下級の証だから。
「キリエはね、薄墨でもいいのよ」
 そう言って、美しい母がキリエの薄墨の髪を撫でた。十歳になった頃だっただろうか。周囲の人間がどぶねずみとも呼ぶ灰色の目で、キリエは母を見上げた。子供心にも美しい女性だった。肌は白く透き通るようで、目鼻立ちも整っている。誰が見ても、器量好しと讃えておかしくない。
 ただ一つ、薄墨の髪を除いては。
 キリエと同じ薄墨の髪を持つ母は、それでも懸命に一人娘であるキリエを愛してくれた。父もまた、人々から敬遠される立場だった。害蟲駆除をなりわいとする掃除屋。誰もが人間に害を為すむしを駆除しなければ生活はままならないのに、それを担う人間を蔑むのだ。
 どうあってもキリエの生活環境が良くなる要素はない。
 この最低な暮らしには不満しかなかったが、飢えて死なずに済んだのは、ひとえに父と母の尽力が大きかった。
 あの男と出会う、あの日までは。
 よく晴れた日だった。じきの一つである澄んだ青の空で、道行く人たちは吉兆だと口にしていた。それを横目に母の手を引き、父の稼業の報酬で少しばかりの米と野菜を恵んでもらえるはずだった。
 やがて人の流れが滞り、完全に止まる。大きな通りの両端に、人々が膝を突いて微動だにしない。ひやりとした。今からこの通りに貴族様がやってくるのだ。
 帝都の中心から離れたさびれた地域に何用か。内心舌打ちをして、母に一言告げる。庶民はこうとうして通り過ぎるのを待つしかない。仕方なく両膝を突き、息を潜める。
 やがてやってきたのは四頭引きの豪奢な馬車だった。騎乗した随員を多く従え、これ見よがしにやってくる。旗は漆黒、げんじょういん家だ。
 キリエは思わず視線を上げる。貴族とやらを見るのは、実は初めてだった。漆塗りの車体は海老茶色で、金の蒔絵で家紋が施してある。なんとも綺麗なものだ。
 ほうと息を吐いて見入っていると、やおら目の前で馬車が止まる。不思議に思った矢先、馬車の中から声がした。
「そこの薄墨の子供」
 ぎくりとして顔を上げる。物珍しくて視線を上げたのが目立ったのだろうか。
「……なにか」
「目障りだ」
 ちゅうちょなく言い捨てられて、呆然とした。しかしその言葉が意味することを、直後に知ることになる。間もなく従者がやってきて、物を投げるように通りの真ん中に放り出された。意味がわからず立ち上がろうとすると、刀の柄に手を掛けた従者が立ち塞がる。
「玄条院家当主が在るところに、薄墨はいらない」
 馬車の中の声──恐らく貴族である玄条院の当主が、感情もなく言い放つのだ。薄墨だから、忌まわしい色だから死ねと。さっと血の気が引く音がした。
 ざわざわとどよめきが起こるも、止める声はない。薄墨なら仕方ないと、誰もがそう言っているようだ。
 いよいよ目の前で刀が抜かれる。刀身が日の光を受けて、きらりと光った。その瞬間だった。
「お許しください!」
 普段なら絶対に出さないような大きな声で、母が叫んだ。手を広げて通りにまろび出る。
「母さん……」
 愕然と呟いた声を頼りに、母はこちらに近よると、必死に腕の中にかき抱く。
「お許しくださいませ! なにも知らぬ子供です。薄墨への罰とおっしゃるのでしたら、わたくしがお受けいたします! どうか娘だけはお許しを!」
 余りに強く抱き締められ、痛みを感じながらもキリエは必死に周囲の様子を探った。馬車の中から、一瞬だけ息を呑む気配がした。
しんじゅひめ……たまか」
 そう言うと、玄条院家当主を名乗る男が馬車から出てきたのだ。珠代、それは確かに母の名だ。貴族の男は、母のことを知っているのか。
 しかし出てきた当主の姿に、愕然とした。玄条院家であるならば、その髪や瞳は漆黒である。だが三十歳間近であろう目の前の男は、ひどく濁った枯れ葉色の髪をしていた。母はその顔を見て、確かに小さく悲鳴を上げた。
 どういうことか。キリエの中で疑問が渦巻くも、母はひたすらこうべを垂れた。
「お許しくださいませ。どうか……どうか娘だけは!」
「……そうか、おまえの娘か。やはり薄墨だったな。汚らわしいおまえに相応しい。薄墨の娘もおまえので不幸になるんだ」
「……そんな!」
 母が目を見開く。目の前のキリエを見ているようで、幽霊でも見ているような。そんな顔をするのだ。
『おい』と当主が声を掛け、従者になにか指示を出す。刀を収めた代わりに持ってきたのは、大きな杖だ。
「杖打ちで済ませてやろう。おまえではなく娘の方だぞ。僕の視界に入った罰にしては優しいものだ」
 母の手が小さく震えていた。顔は蒼白、息も細い。それでもキリエを離さなかった。腕の中に必死に閉じ込めて、歯を食いしばるのだ。
「母さん……!」
「じっとしていなさい。いいわね」
 強くそれだけ囁くと、母はことさらにぎゅっとキリエを抱き締める。従者が大きく杖を振り上げた。当主とやらは、笑っていた。
「汚らわしい人間など、皆死んでしまえばいい」
 キリエの代わりに打たれたその日から、母はどこかに行ってしまった。いや、実際に行方ゆくえをくらませたわけではない。明らかに異変があったのだ。
 母を打った杖は、頭部を執拗に狙った。こめかみや眉間を殴打され、しばらく血が止まらず、意識も戻らなかった。
 なんとか一命は取り留めたものの、薄墨の髪はより薄汚く煤けた。そして殴打の後遺症か、目が見えなくなってしまったのだ。金色の目が色を失い、髪と同じ薄墨になった。そればかりか、まるで子供のように無邪気な顔で、日がな一日不自由に鞠をつくのだ。
「はぎのはな おばなくずばな なでしこの おみなえし またふじばかま あさがおほしの はなひとつ」
「……母さん、それなに?」
 キリエが話しかけても上の空で、まるでこちらのことなど忘れてしまったかのようだった。今まで愛し育ててくれた母が、あの日を境に別人になった。
 その異変を周囲の人間は面白おかしく噂するのだ。『薄墨が一人前に子供なんか産むからよ』と。
 それを耳にしたとき、心臓が大きく跳ねたのを覚えている。次いで悟ったのだ。自分は産まれてきてはいけなかったのだ。いなければよかった。自分の所為で、母がこうなってしまったのだと。
 父は奔走した。なけなしの財産をはたいて、高名な医者を呼んだ。今でも覚えている。青錆の髪色をした医者は、難しい顔でこう言ったのだ。
「……これは恐らく、じゃむしと取り引きしたのではないかな」
 それを聞いた父もキリエも、目を見開いた。蛇蟲とは、そこら辺の蟲とは一線を画す存在である。なんでも言葉巧みに人間を騙し、望みと引き換えに魂を食らうのだとか。国は蛇蟲との取り引きを禁じている。破れば国賊、そういう扱いだ。
 しかし誰よりも蟲に詳しい父は納得しなかった。蛇蟲と契約した人間は、目に火が灯る。目が青白く発光するその現象を、鬼火と呼ぶ。母にはその様子がなかったのだ。だが医者は続けて言った。
「このような症状は蛇蟲と契約した人間によく見られる。しかしめしいた目には色がない。色がないと鬼火も確認できない。取り引きをしていない、という証拠にはならない」
 確かに近頃、蛇蟲の目撃がいくつかあった。赤色の外殻を持った、蛇のような蟲だという。母はその赤い蛇蟲になにかを願ったのだろうか。
 そんな疑問が湧く頃に噂が立った。薄墨の母は同じく薄墨の娘と、蟲を駆除する夫と暮らすが困窮し、金品欲しさに蛇蟲と取り引きをしたのではないか、と。
 噂には尾ひれがつき、瞬く間に駆け巡る。石を投げられ仕事も減った。ぎりぎりで生活していた家計があっけなく破綻した。
 生活の場を転々とし、必死に食いつないだ。そんな中、母は回復の兆しも見せずに流行病であっさり他界した。
 骨と皮だけになった手を握って母の最期を看取ったとき、父はキリエに向かってしっかりとこう言った。
「貴族には関わるな。決してだ」
 異論はなかった。そもそも発端は、あの玄条院家の当主だ。大名行列の中、あの男がキリエを見つけなければそれでよかったのだ。何事もなく、母と父と慎ましく暮らせたのに。
 母が別人になってしまったのも、嫌疑を掛けられたのも、全てはあの貴族の所為である。住む場所を追われ、その日食べるものにも困り、水だけで凌ぐ日が何日も続いた。こんなに飢えた生活を送る羽目になったのは、全て貴族が悪いのだ。
 一抹の不安は蛇蟲の件だ。もし本当に母が取り引きをしたのなら、住む場所を失うだけでは済まされない。しかし証拠はない。証拠が出なくて、逆に良かったのだと思おう。罪人を捕らえようと役人が追ってくるわけではないのだから。とは言え、母を陥れたのは蛇蟲もまた然りなのだ。恨むなと言う方が無理である。
 だからキリエにとって、仇として憎むのは玄条院家と赤い蛇蟲だった。
 全部が全部、この二つの所為である。
 ──いや違う。全てはこの薄墨が悪いのだ。
 忌まわしい色を持って生まれた、自分の罪だ。
 この世は全く、不公平である。


 一章 薄墨の日々

 だん! と大きな音を立てて短刀を突き立てる。
 古い神社の境内。真っ直ぐに貫かれたむしはしばらく手足を動かし、やがて息絶えたのか動きを止めた。体の構造も習性も蜂に似ているが、一匹の大きさは成人男性の掌ほどはある。キリエははちむしと呼んでいた。
 仕留めたことを確認して短刀を抜くと、キリエは周囲を見回す。
「女王はこいつ。残りはか」
 先程から、体の周りをぶんぶんと低い羽音を立てて、無数の蜂蟲が飛び回っていた。ふくらんだ腹部の先端から針を出し、女王の仇とばかりにこちらを狙っている。
 数百の蟲を相手にするには、短刀では不利である。キリエは着物の袖から束ねた糸のようなものを出すと、躊躇ない動作でそれを舞わせた。風に乗るほど軽くもなく、即座に落ちるほど重くはない。むしの糸をより合わせて作った、鋼よりも強い極細の糸だ。糸はキリエの意思通りに自在に舞い、蜘蛛の巣のように蜂蟲にまとわりつく。そこを一気に引き絞れば、糸は刃となり蜂蟲を無数に切り刻む。執拗とも思えるほど細かくだ。足と体と羽と、断面から落ちる体液で石畳が黒く染まった。死骸はやがて土に還る。そうあるべきだと思うし、なによりも死骸の処理には金がかかる。粉々にした方が利が大きい。
 運良く生き残った一匹が、欠けた羽を動かして逃げていく。それを追うことはせず、キリエは見送った。蟲にだって生きる権利はあるからだ。それに女王を失っては、群れの一匹として長くはない。
「精々生きろ」
 それだけ呟くと、体液に塗まみれた顔を拭う。
 キリエは十八歳になっていた。
 短刀で刺した女王蜂の頭をもぎ取ると、それを無造作に持って歩き出す。
 蟲の頭部を持ったまま、近代的な街の中を歩く。維新だの開国だの、昨今の情勢など知ったことではない。通りの脇にはガス灯も立ち、洋装の人間もちらほらと見られる。便利になったところで、キリエにはそれにあやかる金もないのだ。
 近代化していく幸せそうな人間達を横目に向かったのは、街の一角。この辺りを取り仕切る老爺の家だ。
 乱暴に戸を叩くと、中から出てきた老爺が露骨に顔をしかめた。うすずみに対してなのか、蟲で汚れた顔に対してなのかは判別できない。持っていた蜂蟲の頭を差し出す。
「頼まれていた蟲駆除、終わったぞ。女王は殺したから、あの神社の巣はもう空になる。適当にぶっ壊して燃やすんだな」
「おお……そうか」
 それだけ言うと、老爺は摘まんだ硬貨を投げるように寄越した。礼はない。いつものことだ。用件だけを済ませると、またキリエは歩き出す。
 手に乗せた三銭を眺めて、大事そうに懐に仕舞う。
「一週間は生きられるかな」
 父から継いだ家業は、いつだって火の車だ。誰もやりたがらないことには需要がある。そのくせ、報酬は雀の涙だ。感謝もない。しかし投げ出したところで、他に生きるすべもない。どれだけ薄給だろうが縋るしかない。ないない尽くしである。
 間もなく日が暮れる。ねぐらに帰るべく裏の通りを歩いていると、母親と帰路につく子供の姿が目に入った。いかにも大事そうに、飴を持っている。
 なんとはなしに目をやると、すぐに母親が子供の手を引いた。
「薄墨なんか見ちゃ駄目よ。しかも蟲の掃除屋なんだから」
 聞こえないように言ったつもりだろうが、あいにくキリエは耳がいい。報酬を貰った帰りだから、一瞥して鼻を鳴らすだけで勘弁してやった。
「……掃除屋がいなきゃ、生きていけないくせに」
 蟲、と呼ばれる生き物が出現したのは、随分昔なのだと父から聞いた。
 この日本という国は東西に長い。なぜなら国土自体が龍の体だから、だとか。龍神が体を沈めてそこに国を興した。それが日本なのだと。
 しかも龍は今でも生きていて、その証拠とされるものが様々ある。最たるものが『りゅうみゃく』だ。大地の血管とも呼ばれる大河のような道が、地中に巡っている。
 しかし五百年ほど前、大きな震災が起きた。その拍子に龍脈を覆っていた鱗が剝がれ落ち、各地で穴が開いてしまう。りゅうけつと呼ばれるその穴からは、龍の血である青白い液体が噴き出したのだ。『りん』と呼ばれる液体は、海の外からやってきた貴重な石油にも似ていて、燃料として日本に様々な恩恵をもたらしたが、そのとき噴き出したのは燐素だけではなかった。
 龍脈に潜んでいたじゃむしと呼ばれる狡猾な生き物も世に放たれた。蛇のように長細く、硬い外殻を纏った姿は甲虫にも似ているとか。しかし知能は高く人語を解し、かんげんで人間をそそのかしてその魂を食らう。餌を得た蛇蟲は卵を産み、繁殖を繰り返す。そうして日本中に蔓延はびこったのだ。
 問題はそればかりではない。幾百幾千の卵から、蛇蟲を始祖とする下位の生き物も増えだした。それは燐素を餌にし、蛇蟲ほどの知能はなく、正に虫と同然の生物である。ただひたすら龍穴に集たかり、燐素を喰い、繁殖し、ときに人間を襲う。昆虫と区別する為に『蟲』と呼称されるようになった。
 蟲は物理的に排除することができる。しかし蛇蟲だけは人の手で倒すことが叶わず、下等な蟲の駆除も追いつかず、国中は混乱に陥ったのだとか。
 それを憐れだと思ったのだろうか。なんと国土たる龍神が、白い龍の姿の神使をつかわした。その白龍は四人の人間を選び、自らの血と神器を与えた。神器のみが蛇蟲を倒せる武器として振るわれ、世の混乱はとりあえずの落ち着きを見せたらしい。
「下らない神話の所為で、余計な手間かけさせやがって」
 舌打ちをして、周囲を睨め付ける。
 選ばれた四人はそれぞれの血脈を絶やさぬように家を興し、今でも尚、脈々と血筋と神器が継承されている。それを貴族と呼び、一つがげんじょういん家だ。
 玄条院家は主に全国の蟲駆除の指揮を執るが、その大半は蛇蟲をはじめとする群れの頭や、特に危険視されている種類に限る。では、キリエが呼ぶところの雑魚を始末するのはどうするのか。それが民間の掃除屋の仕事である。
 貴族や軍に依頼をするほどでもなく、しかし細やかながらも害はある。そういう貴族のおこぼれに与っているのが実情だ。盗っ人猛々しいと石を投げられることもある。だが掃除屋がいなければ、生活の細々としたところで不便が出てくる。庶民は仕方なく掃除屋に依頼をするが、社会的地位は汚物を汲み取る業者よりも低い。
 色のない顔で歩いていると、いつものようにちらちらとこちらを盗み見て、笑い合う女たちがいた。
「今日も汚いわ。でも薄墨なのだから、掃除屋くらいやって当然よね」
「本当に目に入るだけで嫌だわ。私が薄墨だったら耐えられない。とっくに自害するわよ」
「そういえばあの子の父親、自害したんですって? 三年前だったかしら」
「蟲に殺されたんじゃなかった? しかも母親もほら……あれでしょう?」
「蛇蟲と契約したって言う、あれ? 本当かしらね」
「私は本当だと思うわよ。薄墨って強欲で節操ないらしいから」
 キリエが思わず睨み付けると、女たちは途端に口をつぐむ。にやにやと薄ら笑いを浮かべて去って行く後ろ姿に、唾でも吐きかけてやりたかった。
 歯を食いしばってそれに耐え、ようやく塒に辿り着く。
 馬小屋にも似た長屋の角部屋。もう何度、転々と居を追われただろうか。崩れ落ちている天井の一部から、星空も見えるほどだ。秋とはいえ、隙間だらけの家は寒い。屑米と屑野菜を煮て、少しだけ腹を満たす。
 灯りはろうそく一つだけ。ぼんやりと照らされた狭い部屋にはたった一人。僅かばかりの金銭を得るため、蟲を殺す。そういう灰色の毎日だった。父から教わった掃除屋の技術と知識だけが、キリエの生きる術である。
 せめて父が生きていれば、せめて母が健在だったら。そう考えて頭を振る。下らない妄想だ。一人になって思い出すのは、母の仇である玄条院家と赤い蛇蟲のこと。父は『貴族には関わるな』と言った。
「……関われるような世界じゃない」
 貴族など雲の上の存在である。異国よりも遠いのだ。近づけるはずもない。
 空腹で鳴る腹に気付かない振りをして、薄い布団に潜り込む。うとうとと寒さに震えながら夜が明けて、また蟲を殺す日々が始まるのだ。

  *

 荒々しく戸を叩かれ、目を覚ます。いつ外れてもおかしくない戸を開けると、昨日三銭を稼いだ店の老爺が立っていた。
「なんか用か」
 目をこすりながらぶっきらぼうに言うと、老爺の顔が険しくなる。
「今朝方、見回りの人間から報告があった。蟲の卵が見つかったんだと。掃除してくれ」
「卵か」
 蟲の繁殖は卵だ。一度に産み付ける数は数百から数千、万を超える場合もある。孵化すれば大事だ。面倒ではあるが、やらなければならない。
 報酬は五銭と約束を取り付けて、準備をする。
 現場は町外れの廃屋だった。人が住まなくなって大分経っているらしい。ぐるりと一周して、目を細める。古井戸の中を中心に、白い泡状のらんのうがびっしりと産み付けられていた。舌打ちをして、持っていた木の棒を肩に担ぐ。
「卵の大きさは指先程度。これは千を超えるな」
 目障りなのは集まってきている蟲だ。この卵の親の可能性もあるが、キリエは井戸の底に目を凝らす。ぼんやりと青白く光って見えるのだ。
「小さいが龍穴がある。この餌場に集まってきているのか」
 なにかの拍子で開いてしまったのか。しかしそれは、キリエにとって知ったことではない。龍穴の管理は玄条院家の管轄なのだから。
 キリエは手近な卵を素手で摑み、一つ握りつぶしてみる。どろりと中身が溢れて、ぼとぼとと地に落ちた。中に幼体がないということは、まだ産み付けられたばかりだ。孵るまでに間はある。
 持ってきた油を撒いて火を付けよう。これが一番手っ取り早い。蟲にとって火は天敵なのだから。
 慣れた手つきで卵囊に油を掛ける。持ってきた棒の先に火を付けると、それで着火してやる。間もなくもうもうと煙が上がって、嫌な匂いが広がった。人間の髪や爪や、強いて言えばそのものが焼ける不快な匂いである。
 それでもキリエは眉一つ動かさずに、淡々と火を付けて回った。これで終われば、どうということはない。問題は──。
「…………!」
 嫌な羽音を聞きつけて、キリエは周囲を見回した。大きな蟲が煙を突っ切って飛んできたのだ。咄嗟に木の棒を落として、袖から糸を出す。それを投げるよりも早く、なにかが腕を切り裂いた。
 の着物の袖が裂けて、傷口から血が噴き出す。構わず目を凝らすと、赤ん坊ほどの大きさの蟲がいた。かまきりのような鎌を持ちながら、胴は長く蛇に似ている。羽を持っているので飛べるのは確かだ。どう切り刻もうかと距離を取ると、やおら蟲がしゃべり出す。硬い羽を擦るようながさがさとした、奇妙な声だった。
「タマゴタマゴ……ワタシノタマゴ。モヤシタ?」
 思わず喉の奥でひゅっと息を吐く。ただの蟲ではない。言葉を操る蟲など、蛇蟲一択だ。見るのも対するのも初めてである。少なくとも、例の赤い蛇蟲とは違う個体だろうが。
「……ふざけんな。蛇蟲なんて一生に一度、見るかどうかだろ?」
 しかも卵の親だ。自分の子供を殺されて怒らぬ親などいない。咄嗟に糸を放って、蛇蟲を捕らえる。そこらの蟲ならこれで終わりだ。力を込めて糸を引く。しかし外殻を滑っただけで、傷一つも付かなかった。
 じわりと汗が滲む。さて、蛇蟲と相対して、おおせた掃除屋はいただろうか。父からは『蛇蟲とは戦うな。出会うことがあれば逃げろ』と十二分に言い含められたものだ。知らず、笑いが込み上げてくる。
「さて……どうするかな」
 神話はあくまで神話だと思ってきた。龍神だ神器だ、そういうのはおとぎばなしの要素に過ぎない。何度か糸を放ってみるも、絡みはするが切断することは欠片も叶わない。他に武器と言えば懐にある短刀だが、強度は糸よりも劣る。構えて立ち向かったところで、刃が折れるだけだろう。逃げるか戦うか、瞬時に自分に問う。ぽたぽたと腕から血が伝って落ちていき、同時に体力と体温を奪っていく。
「このままじゃじり貧か」
 万が一でも逃げ果せる可能性に賭けて、咄嗟に踵を返した。それと同時だった。
 誰かとすれ違ったのだ。背が高くて黒い影。蛇蟲に背を向けるキリエとは逆に、刀を構えて向かっていった。なにが起きたのかわからなくて、足を止めて思わず振り返る。
 目の前で起こった出来事は、実に呆気なかった。
 男が刀を振り上げて、蛇蟲を斬る。それだけだ。
 蛇蟲は胴から二つに斬られ、しばらくもがいて動かなくなった。呆然と立ち尽くしていると、その男は真っ黒な刀身を確認して、鞘に収める。
 蛇蟲を斬った。それはつまり、神器であるということか。神器を持っているのは、貴族である証拠。掛ける言葉が見つからず口を閉ざしていると、男はちらとキリエを見下ろす。
「大丈夫か? 単身で蛇蟲に挑むなど、命知らずにも程がある。ああでも、そのデータは欲しいな。今の蛇蟲の動向を詳しく聞きたい。それにこれは蛇蟲の産んだ卵か? 燃やしてしまうなどもったいない。この親も貴重なサンプルだ。回収しなくては」
 好き勝手なことを言って、男は燃え残った卵を躊躇なく素手で摑み上げた。
 ようやくここで、男の様子を観察してみることにする。なによりも際立っているのは漆黒の髪だった。周囲の光を吸い込むような、見事な黒。誰が見ても明らかだ。玄条院家の人間である。
 年齢は二十代の前半だろうか。背丈はキリエの頭一つ以上は高い。洋風のがいとうを纏っているが、厚い布越しでも体つきがしっかりしているのがわかる。荒事も難なくこなせる風格がありながら、黒縁のがねが知的な雰囲気をも醸し出していた。眼鏡の奥の瞳も黒。巷で聞くこくようせきとやらは、こんな風に光るのかもしれない。目鼻立ちも整っていて、そこらを歩けば幾人もの女が鼻を鳴らすだろう。
 それとは全く別の意味で、キリエはふんと鼻を鳴らす。
「貴族様がなんの用だ」
「我が玄条院家の仕事をしに来ただけだ。なにか問題が?」
 言われて小さく舌打ちをする。そもそも蟲の駆除は玄条院家の公務だ。そのおこぼれで生きている掃除屋はどこにでもいるが、謂わば非合法。取り締まりが強まり、逮捕される掃除屋も少なくない。ついに自分にもその手が及んだのか。ましてや小さくとも龍穴がある。一般市民は報告の義務が発生するのだ。
 五銭の報酬は諦め、真面目な市民に徹するしかない。
「……私はたまたまここを通りかかっただけだ。卵は勝手に燃えていた。どこぞの掃除屋が始末したんだろうよ。大方、蛇蟲を追ってきたんだろう? 良かったじゃないか。神器とやらが役に立って」
「薄墨の掃除屋を探しにきた」
 低い声で告げられ、ぎくりと背筋が震える。この辺りに掃除屋は幾人かいるが、薄墨と条件が付けば自分しかいない。端から目的はキリエだ。しかもわざわざ、玄条院家の人間が出張ってくるとは。
 蛇蟲と対峙したときとは違う汗が、じわりと滲む。逃げるか、それとも適当に誤魔化すか。いや、過去に玄条院家の当主とやらが、罪のないキリエと母を打ったのだ。薄墨という理由だけでなにをされてもおかしくない。
 やはり一発、ぶっ飛ばして逃げよう。
 ぐっと拳を握って距離を測る。貴族ごとき、一瞬でも隙があれば出し抜ける。
 しかし目の前の男は、じろじろとキリエを眺めて頷くばかりだった。
「見事な薄墨だ。なるほど……じゅう相当だな。いやろくとも言えるか」
「なにを言って……」
「きみの名前はあまかどキリエで合っているか? 母は天門たま、父は天門れん。これも間違いないか?」
 身元まで割れている。ここで逃げても、地の果てまでも追ってくる気だろうか。どうせあの当主の同類だ。答える義理などない。
「そこまでわかっててなんの用だ。どうせ薄汚い掃除屋を取り締まりに来たんだろう。それともなにか。今助けたからって恩を売る気か? 薄墨ごときに貸しを作って優位に立ちたいか。他人の飯の種を横取りしやがって……貴族様はよっぽど暇なんだな」
 するように吐き捨てる。しかし男は顔色一つ変えないで、眼鏡を指で押し上げた。
「食事はちゃんと摂っているか?」
「……は?」
「肉か魚か? いや卵の方が安価だな……。栄養価としては大豆もいいが……主食はどうだ。恐らく玄米が多いだろうか。白米は口にするか?」
「…………」
「睡眠はどうだ。しっかり眠れているか? 寝床はどうしている? 寒くはないか」
 矢継ぎ早の質問に、キリエはさすがに閉口した。この男は一体、なにを言っているのだろうか。
「両親はすでに亡くなっていると聞いている。兄弟はいないのか? 頼れる親族は? 友人は? 恋人はいるか? 動物を飼っていたりとか……そういうのはどうだ?」
 本当になにを言っているのだろうか。しかし、ああそうかと腹落ちする。
「……おまえ、私を馬鹿にしてるんだな? わざわざ薄墨の掃除屋を捕まえて、貶めたいんだろう。暇を通り越して娯楽にしてるんだ。貴族ってやつは……いつもいつも私たちを舐めやがって。どうせ捕まるんなら……一矢報いてやる!」
 もはや殴るくらいでは飽き足らない。母を打ち、結果的に殺したのは玄条院家の人間だ。その仇討ちをしてなにが悪いのか。殺意のこもった目で睨み付け、糸を手に取った。
 それでも男は、あまり感情の見えない顔で淡々と口を開く。
「俺は別に、掃除屋を捕縛しに来たわけじゃない」
「噓をつけ! 私を捜しにきたんだろう? 牢屋にぶち込むつもりに決まってる!」
「噓じゃない」
「じゃあ、なんの用だ!」
「きみを迎えに来た。いっしょに玄条院家に来てくれないか?」
「……はあ?」
 自分の口から、随分と間の抜けた声が出た。
 もう一度口の中で『はあ?』と繰り返してから、男の頭から爪先までをじっくり眺めた。
「わかったぞ。おまえ、頭がおかしいんだな」
「極めて正常なつもりだが」
 心外とばかりに眼鏡の奥の目が細められる。
「いいや、おかしい。選りに選って薄墨を迎えに来た? そこらの三文小説でももっと気の利いた展開にするぞ」
「言葉の意味以外の意図はないんだが。嫌か?」
「…………」
 一瞬、言葉に詰まる。これは絶好の機会なのではないか? この男の真意がどこにあるのか不明だが、玄条院家に入り込めれば、あの当主とやらに復讐することもできる。それに蛇蟲を駆除することにかけては、玄条院は専門だ。赤い蛇蟲の情報を得ることもできるかもしれない。上手く立ち回れば……。
 ここまで考えて、はんと鼻で笑う。
「馬鹿馬鹿しい。そんな上手い話があるか。わざわざ薄墨を迎えに来て、奴隷かなにかにするつもりだろうよ。それともなにか? 都合良く召使いのように働く嫁でも探してるのか? いいぞ、嫁いでやるぞ」
 底辺の人間ほど上手い話を信じない。それはいつだって、容易く裏切るのを知っているからだ。今まで以上の境遇などあり得ない。そんなこと、身に染みてわかっている。
 ひとしきりケラケラと笑っていると、なぜか男ははっとしたように息を呑んだ。
「話が早くて助かる。是非、そうしよう」
「!」
 さすがに開いた口が塞がらなかった。思わず固まって凝視していると、話はまとまったとばかりに、男は動き出す。敷地の端まで行き、どうやら馬車を呼んだらしい。
「おい待て! 正気か? 普通ここは笑い飛ばすところだぞ」
「俺はいつでも正気だ。きみがその口で言ったんだぞ。嫁ぐってな」
「おまえ、冗談って知ってるか?」
「知っているとも。好きではないが」
 にこりともせず言い放ち、今度は卵を片手に、辺りをうろうろと歩き回る。どうやら燃え残った卵を集めているらしい。大事そうに抱えて、自分が斬り捨てた蛇蟲の死骸を見下ろす。
 もはや怖くなって、キリエは青い顔で尋ねた。
「それを……どうするつもりだ」
「持ち帰るに決まっている。蛇蟲などそうそう出てくるものじゃない。貴重な資料を捨て置く意味がわからない」
「……まずいな。こいつは関わっちゃ駄目な類いの人間だ。変人だ」
「馬車が来たな。行くぞ、俺の花嫁。その怪我の治療もしなければいけないしな」
「まずい……まずいぞ」
 数歩あと退ずさると、見咎めた男の目が鋭く光る。
「一度口から出た言葉はなかったことにできない。きみも分別のある人間なら、自分の発言に責任を持て。それともきみは、口から出任せを垂れ流す低俗な輩なのか? 無責任な子供なのか? 薄墨だから蔑まれて心根まで腐っているのか?」
 さすがにむっとして、反射的に言い返す。
「ふざけるなよ。それなりの矜持があるに決まってるだろう! 貴族様よりは世間を知ってるんだ! 甘く見るなよ!」
「了承ということだな。よし行こう」
 言うなりさっさと歩き出す。後に残されたキリエは、呆然と立ち尽くすしかない。
 ついていくか、逃げるか。
 しばし考えて、男の後を渋々と追いかける。言い出したのは自分なのだから、それを蒸し返されるのは癪だ。最悪、屋敷に火を放ってでも逃げればいい。少なくとも、今より悪くなることはないだろう。そう思い直して、男の背中に向かって声を掛ける。
「おい! 名前くらい名乗れ」
 すると男は、鋭利な瞳で振り返った。
「玄条院分家当主、玄条院さく

  *

 玄条院の分家とやらは、実に立派な屋敷だった。おおだなが十も入りそうな広大な敷地に、大きな屋敷がいくつもあるのだ。馬車から降ろされたキリエは、驚きを通り越して呆れ顔である。ご大層な門構えに、一瞥を投げるしかない。
「は! 金なんてあるところにはあるんだな。ただの門にこんな装飾して……引っぺがして売ってやろうか」
「それもいいが、とりあえず中に入れ。どうにかしなければならない」
「あん?」
 他人事の調子で返していると内側から門が開き、盛大な声が出迎えた。
「まあ、若様! おかえりなさいませ!」
 藤色の着物の女性が飛び出すように現れ、そして三歩後退った。黒と呼ぶには少し薄い髪色の女性だ。長い髪を頭の上で一つにまとめ随分と快活そうだが、その目は若様と呼んだ男の手元を注視していた。
「……若様。本日もまた……いろいろとお持ち帰りのようで……お手元のそれはなんでしょう?」
「蛇蟲の死骸とその卵だ。あと彼女を頼む。身綺麗にしてやってくれ。食事の用意もだ」
 男──朔那がそう言って初めて視線を向けられる。女性はキリエを二度見して、かろうじて悲鳴を飲み込んだ。次いで首を傾げて、渋々と頷く。
「薄墨まで拾って帰られるとは……承知いたしました。たとえ薄墨であろうとも、完璧に仕上げてみせましょう。御前を失礼いたします」
 はきはきと言うと、彼女はキリエの腕を強く引いて歩き出す。思わずつんのめると、彼女は強い口調で言うのだ。
「きびきびと歩いてくださいませ。私は玄条院つゆと申します。この屋敷の女中頭を務めております。二十八歳です。未婚です。さあさあ足を前に出してどんどん歩く。奥へ奥へとお進みください。離れの浴室へご案内いたしますよ。まずはその汚らしい着物を脱ぐ! 脱いで! そうですそうです。そのまま洗い場に座ってください。お湯をお掛けいたします! それそれ! あら……汚れが落ちませんね。ああなるほど。灰の汚れかと思いましたが薄墨でしたね」
 わざとなのか素なのか。一方的に捲し立て、ごしごしと荒く体を洗われる。反論も悪態も許されない勢いのまま、贅沢に頭から湯を掛けられていると、露里は「あら」と目を丸くした。
「お怪我をされているのかしら。ちょっと医者を呼びましょうね。どうせ若様はこれもなんとかしろと仰るのでしょうから。後は一人でできますね? 食事の用意もしなくては……好き嫌いはございませんね?」
『言わせない』という圧を向けられ、こくこくと頷いていると、なにやら呟きながら露里は行ってしまった。
 ぽつんと広い浴室に残され呆然とした後、ゆるゆると体を洗う作業を再開する。
「……この家の人間はみんな変人だな。付き合うのも阿呆くさい。飯食ったらさっさと帰ろう」
 変人に構うほど暇ではないのだ。そのままほかほかと温まった体で浴室から出ると、小綺麗な朱色の着物が用意されていた。初めて見るが、これが絹というやつかもしれない。裸で出歩くわけにもいかず、とりあえず着てみる。
「……派手だし……売ろう」
 しばらく寝食に困ることはなさそうである。安堵して周囲を物色していると、突然引き戸を開けられる。悲鳴を上げる間もなく、現れた露里にまたも腕を引かれてどこかへ連れて行かれてしまった。
「若様が私室へ連れてこいと仰るのでご案内します。まあ本当……物好きな方で……。ああ、帯がだらしない! ちゃんと結んでください! 苦しいくらいが丁度いいんです! 若様の前に出るのですから失礼のないように!」
 叫びにも似た口調で叱咤され、着物を直され力一杯に帯を締められる。口から内臓が飛び出しそうだ。そのまま浴室の離れから歩き、別棟に連行される。戸を叩く前に、露里は懐からかんざしを取り出すと、手早くキリエの髪を結い上げた。もはや職人技である。
 瞬く間に身支度を整えられるが、露里はこちらをじっと見つめている。
「……まあ、お顔立ちが綺麗なこと」
「はあ?」
 目を回している間に露里は部屋の中に声を掛け、返事を聞くやいなやキリエを押し込んだ。
 転ばなかったことを褒めて欲しい。それくらいの勢いで放り込まれ、部屋の真ん中で蹈鞴たたらを踏む。肩で息をしながら顔を上げると、キリエは目を丸くした。
「私室……? これがか?」
 物置の間違いじゃないだろうか。もしくは問屋の倉庫である。とにかく雑多で物が多い。汚いわけではないが所狭しと置かれた棚には木箱や本が積み上がり、ここから溢れた品々が床を埋め尽くす。足の踏み場もないとはこのことだ。外観は古式ゆかしい日本家屋だが、内装のそれはほとんど洋風だった。かろうじて見て取れる範囲だが。
 顔を歪めて閉口していると、奥から低い声が聞こえてくる。
「悪くないじゃないか」
 見ると、木箱を持った朔那が本棚の陰から現れたところだった。掛けられた言葉に、キリエは半眼で朔那を見上げる。
「おまえの目は節穴か? それとも幻が見えているのか?」
「薄墨には鮮やかな色が映える。朱色のそれはこうぜん家からもらった反物だな。将来の嫁にと仕立てたらしいが、役に立ってよかった」
「紅染寺家? ああ、おまえみたいな貴族か。雲の上の世界は知らない。まあでも良い値で売ってやる。もらっておくぞ」
 ぶっきらぼうに言い放って、辺りを見回す。どうやら長椅子が埋まっているらしい。上に載っている本の山を乱雑にどけて、そこにどっかりと座った。
 キリエの無法も特に咎める様子はないようで、朔那は持っていた木箱を下ろすと、あの現場から持ち帰った蛇蟲の死骸を大事そうに収める。そして紙になにかを書いて、箱に貼り付けたのだ。非常に満足そうな顔で。
「…………」
 キリエは珍獣を見る目で朔那を眺めた。蟲など要は害虫である。蠅や蟻や百足むかでやゴキブリと同等、むしろそれ以下の生物だ。ご大層に保管してなにをする気なのか。
 やはり付き合っていられない。さっさと帰ろうと思った矢先だ。外から露里の声がして、贅沢な料理が次々と運ばれてくる。手慣れた様子で卓を片付け配膳した後、露里は一人の男を連れてきた。和服の上に洋風の白衣を羽織った、老齢の男性だ。さすがにキリエでもわかる、医者である。おまけに髪は青錆の色をしていて、どこか見覚えがあった。
「あんた……母さんを診た、あの医者か?」
 すると医者はこちらを見て、少し驚き目を細めた。
「何年か前の、薄墨の娘さんかね。お母さんは残念なことになったと聞いたよ。苦労をしたね。私は今、玄条院家に雇われていてね。今日は若様にお呼ばれされたんだ」
 にこやかに言って朔那に深く礼をする。そして皺が刻まれた手をこっちに向けた。
「怪我をしたそうじゃないか。どれ、見せてみなさい」
 言われるままに腕を出す。てきぱきと傷口を消毒し、包帯を巻いてくれた。それほど深くは切れていなかったらしい。しばらく安静にするようにと言い含められて、医者は退室していった。
 後に残されたのは、目の前のご馳走だ。
 見たこともない尾頭付きの魚と、真っ白なご飯。緑が鮮やかな野菜と、いい匂いのする味噌汁、その他諸々。呆然とするキリエの向かいに、やはり本をどけて朔那が座る。
「食べながらでいいから聞いてくれ」
「……食べてもいいのか?」
「無理強いはしないが、きみの為に用意した物だ」
 淡々と言われて料理を見下ろす。次いでちらりと見やると自分の腕には治療の跡があり、貴族が貴族に贈った着物を着て、高そうな簪を挿されていた。
 ぷるぷると震えてから、キリエは勢いよく卓を両手で叩く。
「おかしい! おかしいぞ、これは! なにかの罠だ! 薄墨がこんな待遇を受けていいはずがない! おまえは私を騙そうとしている!」
「きみが納得しないのなら、こうしよう。俺の長い話を聞く報酬として、きみはその料理を受け取る。どうだ?」
 あまり感情の窺えない顔で言い放ち、朔那は眼鏡を押し上げた。やはり変人の真意などさっぱりわからない。キリエは半分諦めた。
「……いいだろう。わけもわからずもらってばかりなど、気味が悪いからな。よし話せ」
 ぐりぐりと魚の身を箸でほじっていると、ようやく朔那は息を吐く。
「きみは神話をどこまで知っている?」
「神話? 龍神がどうとか……あれのことか? 蛇蟲が現れて暴れて、駆除も出来ずに困ってたら白龍が出たとか。その血をもらったのがおまえたちなんだろ? どうせ誰かが作ったお伽噺だろうが」
「貴族は四家ある。じきよんと呼ばれるな。青が貴色のあいみや家。赤の紅染寺家、黄の家。そして黒の玄条院家だ。鮮やかで純粋な色を持つ人間ほど、ありがたがられる。俺みたいなのがそうだ」
「全くいいご身分だな」
 漆黒の髪を一瞥して、魚を食べる作業に専念する。
「色の純度には順位がある。しきかいと呼ぶんだが、俺のように純度が一番高いのをいち、次が。全部で十段階あり、薄くなるにつれて数が増える。なので、一番薄い状態が拾位だな。ここまでくると、もうその家にはいられない。貴族として認めるかどうかも怪しい色階だ。俺の場合は玄条院家の壱位なので、げん壱位と呼ばれる」
「へえ」
「各家には神器が継承されるが、壱位しか使えない。原理はわからないが、一番龍の血が濃いからだと言われている。これがそうだ。玄条院家に伝わる、ぼくとうと言う」
 言って朔那は、立てかけていた刀を持ち上げた。鞘からゆっくり抜いてみせたが、刀身は高価な墨を磨ったような色をしている。
「……それはさっき蛇蟲を斬ったやつだな」
「持ってみろ」
「いいのか? 大事な神器が薄墨で汚れるぞ」
「構わん」
 躊躇なく言うので、キリエは訝しげに眉を寄せる。まあしかし、せっかく触らせてくれるというのだから、物は試しだ。それに蟲を殺す武器には興味がある。
 箸を口に咥えながら、差し出された柄を握る。すると驚くことに、刀身の色が瞬時に鋼色に変わったのだ。思わず咥えていた箸を落としたが、気にせずに刀身の裏表を観察する。
「なんで色が変わるんだ?」
「俺以外……壱位以外が持つとそうなる。その状態ではただのなまくら刀だ。蛇蟲はおろか、紙も切れない」
「ってことは、玄条院の誰もが使えるわけじゃないのか」
「今現在、玄条院で墨刀を扱えるのは俺だけだ」
「効率が悪いな。なら蛇蟲が出た場合、戦えるのはおまえだけか」
「そうなるな」
『へえ』と唸り、キリエは鞘に刀身を収める。他人が使えないのでは二束三文にもならない。落ちた箸を拾い白米をかき込んで、箸で朔那を指す。
「当主様が自ら前線に立たなきゃならんわけだ。ご苦労なことだな」
「玄条院の現状は少々ややこしいんだが……それはまあ後で説明しよう。神話の続きだ」
 朔那は足の上で両手を組む。
「墨刀のような神器が各家にある。扱えるのは各家の壱位のみ。となれば当然、それぞれの家に最低でも壱位が一人いなくてはいけない。しかし一族の人間同士が婚姻を繰り返すのもよくない。となると、他家から嫁をもらうなどするわけだ。するとどうなると思う? 例えば藍ノ宮家と黄瀬戸家が縁談を結び、子供が生まれる。両親が壱位だった場合、片方の一族の色が弐位ほどでも出れば運がいい。最悪の場合は色が混ざり、はち相当まで落ちる。緑に近づくこともある。つまり色が濁る」
「薄墨に近づくわけだ。笑える話だな」
 音を立てて味噌汁を啜って、キリエはケラケラと笑った。
「他家との婚姻を繰り返すうちに、壱位がいなくなった時代があった。誰も神器が扱えない。しかし蛇蟲は現れる。蛇蟲は卵を産み大繁殖だ。神話の時代の混乱が、また起こった」
「……それ史実か?」
「史実だ。世間には知られていないが、貴色四家の人間なら知っている」
「……ふぅん」
「ここでまた龍神が憂慮したらしい。神使が各家の当主の夢枕に立ち、お告げを下した」
 キリエは思わず顔を歪めた。いまいち信じる気にはなれないのだ。
「ある娘と結婚しろと、龍神の使者は言った。そして現れた娘は、白い髪を持っていたんだ」
「白? とくじきってやつか。龍神の神使が白龍だったから、白が最も貴重な色ってことだろ。特色を持った人間なんて見たことないけど」
「そうだ。神話にちなんで、『特色』と呼ばれる白という色が尊ばれるようになった。とは言っても、きみの言う通り特色を持つ人間など億に一人とも言われる。しかし特色の娘が現れて、当時の当主と結婚したらしい。すると、濁っていた色が変わった。当主の色が壱位になったという」
「噓くさ……」
「各家が濁ると現れ、色を壱位に戻していく。そういう例が何度かあるらしい。白龍の生まれ変わりだと信じる者もいる」
 ますますもって胡散臭い。
「……で? そんな眉唾話と私になんの関係があるんだよ」
 漬物をぽりぽりと食べて、高そうな玉露が入った湯飲みを傾ける。
「ここから先は、貴族の中でも一部しか知らない話なんだが……その特色の伝説によると白龍の生まれ変わりの娘、元薄墨だったそうだ」
「は?」
 さすがに声を上げて、湯飲みを取り落としそうになった。目の前の朔那は、それでも無感情に続ける。
「薄墨の娘が各家の当主と結婚し、白くなったらしい。そういう話が伝わっている」
「そ、そんなわけあるかよ。もしそうなら、今頃私は貴族に迎えられてもおかしく……」
 ここまで言って言葉を止める。はっとして真正面から朔那を眺めると、彼は一つ頷いた。
「それで私を迎えに来たのか?」
「まあ俺は壱位だから、現状として特色を必要としているわけではない。自分の話を少しするが、玄条院家は蟲に関わる事件や事態を収拾するのが役目だ。すでに起こったこともそうだし、これから起こりえることにも備える。その一環として、蟲の研究をしている。神器だけに頼るのは、きみが言った通り効率が悪いからな。打開策を探るべく、日々研鑽を重ねているんだ」
「ああ……それでか」
 蛇蟲の死骸を保管したり、卵を集めたり。そういう変人の言動はこれが目的だったのか。
「とは言えこの先、一族で神器が扱えなくなる事態も避けたい。特色の説も気になる。叶うなら自分のこの目で見てみたい。果たして色はどう変わるのか? 毛先か毛根か、どちらから白くなるのか? 一瞬で変わるのか、時間をかけてなのか? とても興味深い。だからきみと結婚したい」
「……神話とか伝説とか……そんな与太話を信じてるのか? おまえ、やっぱり変人だな。自分の人生を棒に振るって言ってんだぞ、それ」
「だがもし、それが本当だった場合……俺と結婚することできみにも利があるだろう?」
「…………」
 ぐっと言葉に詰まる。蔑まれる薄墨から、貴色の頂点とも呼ばれる特色へ。もしそんなことが可能なら、キリエの人生が激変する。誰もが羨み金も労も惜しまず、特色を持て囃すだろう。
「もう一度言うが、俺は生まれながらに壱位だ。今更誰と結婚しようとも色が揺らぐことはない。つまり相手が薄墨だろうが特色だろうが、関係ない。俺がきみを探していた理由をもう一つ話そう」
「まだなんかあるのか……?」
 情報量が多すぎる。胸焼けがしてきて、うんざりと朔那を見やった。
「きみのような掃除屋は何人もいる。玄条院家の蟲駆除が公務なら、きみたち掃除屋は民間の依頼を請け負う私人だ。個人の力量や仕事の質、人格の優劣まで実に様々だ。我々が取りこぼした仕事を我先に拾い、弱者に強引に売りつける。そういうあくどい連中もいる」
「仰るとおりだな」
「そんな有象無象の中でも、とりわけきみは仕事の質が高い。俺は何度もきみの現場を見てきたが、最近で言えば……蜂蟲の件だな」
「ああ……この前のやつか」
 てかてかと光るあんみつを前にして、適当に返事をする。
「一撃で女王を仕留め、残りの働き蜂を切り刻んだ」
「死骸を集めて処分するのが面倒だからな。放っておけば風に乗ってどこかへ行く」
「かと思えば、一匹見逃した」
「女王が死んだんだ。生きてけな……」
 ここまで言いかけて、恐ろしくなってゆるゆると朔那を眺める。
「……見てたのか?」
「他の人間には理解し難いらしいが、蟲の中には害蟲もいれば、益蟲もいる。俺はそういう研究もしていてな。きみはそれをちゃんとわかって、殺すべき蟲と生かしてもいい蟲を見分けている。実に素晴らしい」
「おい待て。おまえはずっと見てたのか!?」
「それ以前の現場でも、きみの仕事はとても綺麗だった。糸を扱う掃除屋はそう多くないが、きみの技量はずば抜けて高い。惚れ惚れするほど鮮やかな手並みだ。それに憐れと思ったのか、他にも傷ついた蟲を見逃したこともあった。そういう人間臭さも気に入ったし、なによりその価値観にシンパシーを感じる。嫁にもらうなら、きみのような強い女性がいい」
「おいおまえ! 私の話を聞け!」
「きみの人間性を褒めているんだ。なにか問題が?」
「私の後をつけ回し、仕事現場を覗き見していたって……そういうことなのか!?」
「研究の一環だ」
「変質者の行為だろ!」
 あんみつを口に含みながら、露骨に顔を歪める。変人を通り越して変態だ。これ以上はやはり関わってはいけない。なにが特色だ。この変態の妄想に決まっている。
 しかし朔那はこちらの反応をあまり良く思ってないらしい。納得いかないような顔をして、しばし腕を組んで考え込んでしまう。
「俺の賛辞が届かないのか……そうだな、ならば研究の成果を見て貰おうか」
「いよいよやばいな、こいつ。話が通じないぞ」
 さっさと退散するべきと、キリエはあんみつを口にかき込んだ。さすがに一般庶民に向かって刀を抜いたりはしないだろう。殴って暴れてでもここから脱するべきである。幸いなことに、朔那はなにかを探しに部屋の奥へ行ってしまった。今のうちである。出された料理を口の中に詰めるだけ詰め、そろそろと立ち上がった。
 しかし異様な気配を感じて足を止める。なにやら獣の息づかいが聞こえるのだ。
「なんだ……?」
 思わず呟いて部屋の奥に目を細める。やがて現れたのは、朔那に首根っこを持ち上げられて目を丸くする、灰色の猫型の動物だった。
「なんだ!?」
 大きさは大柄な犬よりも一回り以上あるだろうか。頭が大きく、脚も太いので子供かもしれない。金色の目をまん丸にして、熱心にこちらを見ている。
「なんだこれは! このもふもふはどういうことだ! けしからん!」
 悲鳴を上げて手を広げ、キリエはこの生き物を抱き締めた。するとこの柔らかい生き物は、殊更愛らしいダミ声で「に”ゃあ」と鳴くのだ。
「おお! おお! 可愛いな! なんだこれは! 猫の親戚か!?」
「それは虎だ。恐らく」
「虎? これが虎か……話には聞いたことがあるが見るのは初めてだ」
「こういう毛むくじゃらは好きか?」
「好きだ」
 即答すると、ようやく朔那は嬉しそうに目尻を下げた。
「よかった」
「ああでも、こいつ……薄墨だな」
 されるがままに腕の中に収まる虎の毛色は、灰色だ。キリエと同じ薄墨と呼ばれる色である。人間でも忌避される色だ。その嫌悪は犬や猫にも向けられる。さぞや虐待されてきただろう。境遇を思ってむっと唇を尖らせていると、朔那はぽんぽんと虎の頭を撫でた。
にびまると名付けた。こいつは蟲がさなぎになって脱皮したら出てきた、よくわからん生き物だ」
「は!?」
「勝手にじゅうと呼んでいる。俺は研究の一環として、蟲を飼ったり卵を人工的に孵化させたりもしている。蟲は蛹になって脱皮する。大方は蟲として脱皮するが……時折、獣に変態する個体もある」
「蟲から虎が産まれたのか?」
「そう。かつてきみが見逃した蟲の一匹だ。俺が保護した。謂わばきみは、鈍丸の命の恩人だ」
「…………」
 さすがに言葉を失って、手の中の獣を眺める。そんなことがあるのだろうか。
「もしかしたら世の薄墨の獣は、多くは蟲から産まれたものかもしれない。そういう仮説を立てた。しかしなぜ、蟲になったり獣になったりするのか。どういう条件で分岐するのか……未だに謎でな。実に興味深い現象だ」
 まさか自分の知らないところで、こんなことが起こっていようとは。キリエは改めて鈍丸の頭をぐりぐりと撫で付ける。嬉しそうに喉を鳴らしている様子は、誇張なしに可愛いものだが。
「飼育と観察、管理をしている。とはいえ、この屋敷を好き勝手に歩き回ってるだけだ。寝て食べて遊んで寝る。毎日それの繰り返しだ。これだけ懐かれると、実験などできようはずもない」
「……もしかして、今日拾ってきた卵も孵化させるのか?」
「もちろん」
「わあ……引くな……」
 言いながらもキリエは、鈍丸を撫でる手を止めなかった。蟲だろうがなんだろうが、愛らしいものは愛らしい。大きくて薄桃色の肉球をぷにぷにと押していると、なにやら朔那が紙片を持ってきて、キリエの真横に差し出す。
「……なんだそれは」
「俺が作った色見本帳だ。きみの薄墨の色階は黒でいえば拾位だが、薄墨でいえば陸位相当だな」
「へえ……もうおまえの言ってることが、よくわかんないな」
「ではわかる話をしよう。諸々の情報を顧みて、俺のところに嫁入りしないか。鈍丸もいる」
「…………」
 キリエは苦虫を嚙みつぶしたように顔を顰めた。言葉そのままを受け取るなら、薄墨の身分からは願ってもない玉の輿である。衣食住に困ることもなく、万が一にも特色になれる機会だ。その伝説やらが本当であれば、だが。
 ただしかし、残念なことに夫候補は変人だ。なにを言いだし、なにをするか予想もつかない。悪い人間ではないかもしれないが、ともあれ正気とも思えない。
 目の前に出された選択肢は二つだ。この場から逃げるか、頷くか。
 鈍丸の厚い耳をぐにぐにと引っ張りながら、押し黙ったときだった。戸を叩くと同時に少し開け、隙間から慌ただしく露里が声を掛けてくる。
「あの……若様! 本家の当主様がお見えに……!」
 朔那は明らかに嫌な顔をした。
「訪問の予定などなかったはずだが」
「はい。先触れなしでの来訪でして……」
「俺の許可など関係なくここに来るだろうな。いい露里、通してくれ」
「承知いたしました」
 さすがに聞き捨てならなかった。
「当主だと?」
 低い声でキリエは問い返す。玄条院家の当主と言えば、あの枯れ葉色の髪をした男だ。八年前、キリエを引き摺り出し母を打った、あの男のことだろうか。
「どうした。知っているのか?」
 朔那が耳ざとく聞きつけてくるが、キリエは「別に」と曖昧に返す。こんな変人に手の内を明かすこともない。それでもギラギラと目を光らせていると、やがて当主とやらがやってきた。
 その姿を見て、キリエは全身の肌が粟立つ。あのときよりも老いてはいるものの、枯れ葉色の髪は健在で、にやにやと浮かぶ薄ら笑いも覚えがある。しかし今にも飛びかからんとする勢いのキリエを、朔那は細身の体軀に似合わない強い力で引き留めた。
「な……!」
 食ってかかろうとするも、朔那は訳知り顔で小さく首を振る。こちらの反論を封じながら、眼鏡を押し上げて当主に向き直った。
「ご無沙汰しております。玄条院本家当主、らいくう様」
 朔那がわざとらしく畏まった口調で言うと、来空と呼ばれた男は漆黒の羽織を軽く払った。
「久しぶりだね、朔那。相変わらずここは汚いな。まあ、こういう辛気臭い場所がおまえには似合っているが」
「先触れなしのご訪問とは、どのような御用向きでしょうか」
「いやなに、分家の当主が薄墨を拾ってきたと聞いてね……わざわざ見に来てやったんだよ。どれどれ」
 そう言ってこちらに目を向けると、なぜか満足そうににこりと笑う。
「ああ、本当に薄墨だ。いつ見ても汚いね……餌まであげたのか? 蟲にも薄墨にも優しいんだね。おまえはどこまでも博愛だ。僕には真似できないな。で? この薄墨をどうする気かな? 蟲みたいに飼うのかな?」
 キリエは訝しんだ。八年前、この男は「目障り」だと言い放ち、キリエを斬り捨てようとしたのだ。しかし今は、どことなく嬉しそうに笑っている。同一人物であることは間違いないのだが、いまいち腑に落ちない。
 眉を顰めているキリエの隣で、朔那はしゃあしゃあと言ってのける。
「飼う、という言葉は適切ではありません。家族として養う、と言った方が正しいかと」
「おい! 勝手に話を進めるな。私はなんの返事もしてないぞ」
 咄嗟に言い返すも、朔那は不思議そうにこちらを見下ろす。そんな顔をしたいのはこちらである。
 すると来空は一瞬だけ目を見開いた後、まじまじと朔那を眺めた。
「……下女にでもする気か? この由緒ある玄条院家に薄墨を住まわせると言うのか?」
「下女ではなく嫁です」
 朔那は即答する。了承した覚えはないと朔那の袖を引くが、弾けたように来空が笑い出した。
「本気か!? 薄墨を嫁に迎えると言うのか!? これは傑作だ! いいぞ、本家当主である僕が許可しよう。玄条院分家の当主は、選りに選って薄墨を嫁入りさせると言い出した、そう知らせよう。いよいよおかしくなったと、皆言うだろうな。分家の格が落ちるのは間違いない。おい薄墨、精々おもしろおかしく振る舞えよ。薄墨らしくこの男の脚を引っ張って、落ちぶれてしまえ」
 なにがそんなに可笑おかしいのか、来空は笑うのをやめない。そればかりか、キリエに指を突き付けて、醜悪に顔を歪ませた。
「大方、例の伝説でも聞かされて舞い上がっているんだろう? 薄墨が特色になるなんて、あるわけがないんだよ。過去にその話を信じた連中も確かにいた。だがな、薄墨の花嫁は誰一人として特色にならなかった。そればかりか、薄墨の女は一様に小賢しい。我が玄条院を乗っ取り、没落寸前にまで追いやった悪女もいた。どうせおまえも同類だろう。そもそも底辺の人間が貴族になれるわけもない。どれだけ従順に努力しようとも、薄墨如きがなにかを得ようなんてがましいんだよ。なにをやろうとも、なにを言おうとも、薄墨の存在に価値なんてないんだからな」
 吐き捨てるような言葉に、さすがのキリエもこめかみをピクリと動かした。制していた朔那の腕を押しのけて、来空の胸ぐらを摑み上げる。
「おいてめえ……もう一度言ってみろよ」
 直接的な暴力には弱いのか、来空は口の中で悲鳴を上げた。
「おまえら貴族様が福々しく太っていられるのはな、私ら底辺の人間が地べたを這いずり回って、おまえたちのケツ拭いて回ってるからなんだよ。一人じゃなにもできないくせに、偉そうな口ばかり叩きやがって……そもそもおまえは母さんを……!」
「キリエ」
 すかさず朔那が口を挟み、キリエの手を上から押さえる。今この場で来空を殴り飛ばし、鬱憤を僅かでも晴らすことは可能だろう。しかし母の仇をそれだけで許す程、キリエの懐は広くない。あのときの言動を心底後悔するよう、もっと長い時間を掛けてじわじわと痛めつける方法はないだろうか。
 手を放すようにと鋭い視線を向けてくる朔那を睨み返し、ふと手を緩める。
 今の会話を聞いていると、どうも玄条院はややこしいことになっているらしい。少なくとも本家と分家は、仲睦まじいとは言い難い関係だ。もっと言うなら、本家当主である来空は、分家当主である朔那を疎ましく思っている。できれば分家の格が落ちることを望んでいるのだ。理由がわからないが、同じ玄条院なのにである。
「ふぅん……」
 キリエは低く唸って、思いついた。来空に対する最高の嫌がらせだ。
 摑んでいた来空の胸ぐらをぱっと放して、両腕を腰にあてる。
「おい、黒髪のおまえ」
「朔那だ」
「いいぞ、嫁入りしてやる。おまえと結婚してやるぞ」
「よし、決まりだ。来空様、よろしいですね?」
 しかしキリエは来空の返事も待たずに、枯れ葉色の髪に指を突き付ける。
「おい、茶渋のおまえ」
「茶渋……!」
「私は特色になってやる。そうすれば分家の格とやらは本家よりも上になる。そもそも茶渋のおまえより、漆黒の方が格は上だろうがな。ご立派な本家の評判がじりじりと落ちていくのを、精々指をくわえて見てればいい」
 茶渋呼ばわりされたのが余程衝撃だったらしい。言葉が出てこないのか口をぱくぱくさせ、呆然とこちらを眺めるばかりである。
 ダメ押しをしたのが鈍丸だった。キリエの前ではごろごろと喉を鳴らしていたが、来空が現れると毛を逆立てていたのだ。その鈍丸がとうとう痺れを切らして、来空に飛びかかる。
 やはりわかりやすく力で押されるのには弱いらしい。惨めな悲鳴を上げて、来空は逃げ出した。聞き馴染みのある捨て台詞を残して行ったが、キリエは鼻で笑い飛ばす。
「ばーか。おととい来やがれ」
 来空を追い払って満足していると、不意に隣から噴き出すような声が聞こえてきた。口元を手で押さえ、朔那が肩を震わせている。余りにも品のない言動に怒っているのかと思いきや、どうやら笑っているらしい。
 その顔を半眼で見上げると、彼は一つ咳払いをして真顔に戻る。
「……いや、失礼。絵に描いたような見事な逃げっぷりだったので、つい」
 言って眼鏡を押し上げた。
「きみに話しておきたいことがいくつかある」
「なんだよ」
「きみの母……天門珠代の旧姓を知っているか?」
「知らん」
「玄条院珠代という」
「……は!? 玄条院だと!?」
 さすがに声を上げて、朔那を振り仰いだ。
「どうやら本家筋の人間で、かつてあの来空の許嫁いいなずけだった……らしい。なにか理由があって、来空に玄条院家を追放されたそうだ。だが彼女周辺の情報はほとんど残っていない。当時を知っている人間も僅かで、かんこうれいも敷かれている。俺も詳しい話を知らない」
「母さん……貴族だったのか……?」
「確かなのは、彼女が特色だったということだ」
「そんなはずないだろ。母さんは薄墨で……」
「玄条院の人間は『しんじゅひめ』と呼んでいた。今でも真珠姫と言えば、珠代様のことを指す。まあ、その名前は口に出してはいけないとされているが」
 しばし押し黙って、キリエは指先を嚙んだ。
「……だからあのとき、茶渋が『真珠姫』って言ってたのか。やっぱり顔を知っていたんだな」
「なにか理由があって……なにかの条件が揃って、真珠姫は薄墨になってしまったのではないか。しかし逆に考えれば、薄墨が特色になれる証拠ではないかと、俺は思った。特色は完全な突然変異だとされている。だが貴色四家と同じく、血筋や遺伝が関係する可能性もあると思っている。研究者としての勘だが」
「……真珠姫の娘だから私を捜していたのか?」
「結果的にそうなっただけだ。きみの身辺調査をするうちに、行き当たったと言った方が正しい」
「…………」
 尾行、盗み見につきまとい、更にはこそこそと身辺調査。もはやなんでも有りだ。変人を通り越して犯罪ではないのか。
「貴族だからって、なにしても許されると思うなよ」
「なにを怒っている?」
「……もういい。他にまだあるのか?」
 腕を組んでじろりと朔那を睨むと、すんなりと頷いた。いい加減、情報の海で溺れそうだ。
「事情は追い追い話すが、分家と本家は仲が悪い」
「だろうな」
「俺はあの男を当主の座から引き摺り下ろしたい。見ての通りの人間だ。信望もなく、権威を振りかざしての横暴な振る舞いが散見される。このまま静観していても、被害を被る人間が増えるだけだ。玄条院家にとってなんの利もない。しかし正にきみの言うとおり、俺が特色の花嫁を迎えれば玄条院家での立場が上がる。一族の主権を握れる可能性が高まるんだ」
「おまえが本家の当主になるってことか?」
「そうだ。分家を本家として認めさせる」
『へぇ』とキリエは低く呟いた。ただの変人かと思いきや、なかなかの野心家だ。
「正義だ平和だ博愛だ、なんて綺麗事抜かす奴は信用ならない。おまえみたいな企みを秘めた腹黒い人間の方が好きだぞ。それに……あの茶渋は母さんを追放した。その理由を知りたい。私がそれを調べることはできるか?」
「玄条院家の内側からなら」
「……いいだろう。おまえの野望に協力してやる。私は母さんの復讐をしたい。茶渋を内側から突き崩せるなら、それも叶う。その為なら、嫁入りだろうが結婚だろうが、なんでもやってやろうじゃないか」
 鼻息も荒く言い放つと、朔那はすっと右手を差し出してきた。
「では今後、よろしく頼む」
「おうよ。任せとけ」
 キリエが朔那の手をぐっと握った瞬間、この奇妙な契約結婚が成立した。

  *

続きは6月4日発売の『薄墨の花嫁 灰髪の少女は、黒曜剣士と初めての恋をする』で、ぜひお楽しみください!

■ 著者プロフィール
織都(おりと)

横浜出身。著者に『魔女の結婚〜愛し子の世界征服を手伝いますが、転生のことは秘密です〜』『魔女の結婚〜愛し子との婚約は破棄します〜』(ともに小学館)がある。

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