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余命一年、夫婦始めます

 第1章 余命一年のふたり

「先生。俺は……あとどのくらい生きられるんですか?」
 清潔な診察室。皺のない白衣を纏った、初老の医者。机の上のカルテと、対面のホワイトボード。
 ついさっきまで俺は──待合室にいたときに入ったクライアントからの着信と、急な退職者が出た影響で進捗が遅れている案件のスケジューリングと、底がすり減っている革靴の買い替えについてしか頭になかった。
 ここのところ続く体調不良を受けて最寄りのクリニックに行ったのが三日前。薬をもらいに行くくらいの軽い気持ちだった。それが、精密検査を受けてくださいと言われ、紹介状をもらったのは辺りで一番大きい総合病院。あちこち検査室を回らされ……最後に呼ばれた診察室で俺を待ち受けていたのは、目を逸らすことのできない現実だった。
「それは人それぞれです」
 痩せた見た目通りの細い声が、粛々と響く。
「この病気で、似た症例でいいんです。余命はどのくらいなんですか。教えてください」
 食い下がる俺に、医者は眉を顰め、カルテを捲りながら淡々と答えた。
「このケースですと……持って一年ですかね。もちろん、それ以上長く過ごされた方もいます」
 俺の命の期限が……たったの一年だって?
 俺は押し寄せてくる不安に背を向けるように、医者に問いを繰り返した。
「でも、たとえ可能性は低くても……過去に完治したケースだって、あるんですよね? ほら、余命半年から生還したとか、そういう本を見たことありますよ。他の治療法とか、あまり試されていない最新の医療とか。そもそも、もう一度調べたら診察結果が違ってくるかもしれないですし」
 医者はカルテを閉じて、机上にある時計に目をやる。そして俺の顔を冷静な表情で観察しながら、淡々と語りかけた。
「私はあなたの心と体に寄り添って治療を行っていくつもりです。しかし、セカンドオピニオンという選択肢は、当然あります。ご自身が納得されることが一番ですからね」
 そう言って出口へと促すかのように椅子を回し、背中を見せた。
 この病院の受付に来てから、既に二時間が経過している。待合室で散々待たされた。今だって、診察室のすぐ外に、列を作って待っている人がいる。
 この医者にとって、俺は処理すべき業務の一つにすぎない。入社して間もない頃に、情が移って一つのクライアントに手を掛けすぎて、上司に叱責されたことを思い出した。
「分かりました……でも、少し考えさせてください」
 そう言って席を立ち、足早に診察室を後にした俺は、待合室のある廊下を歩きながら業務用のスマホを確認した。着信が一件増えていた。
 鞄を手に急いでエレベーターに乗り込む。他に誰も乗らないのを確認して、閉ボタンを何度も押す。
 徐々に下降していく箱の中。見上げた視線の先で移り変わっていく、モニターのアナログ数字。束の間の孤独が訪れる。
 俺は今からどうなるんだ? どうするべきなのか──。
 頭の中で自分の声が反響し、パニックになりそうになる。どうにか平静を保とうと深呼吸をし、今から自分がすべきことを整理する。
 そうだ、今は仕事中だ。思いの外診察に時間がかかってしまったが、本来なら既に帰社してクライアントとの打ち合わせ用の資料を作成しているはずだった。急いで通話が許されている一階のエレベーターホールまで行って、電話を折り返さなければ。
 一階に到着し、ゆっくりと扉が開く。すぐに外へと歩き出し、スマホを操作して耳につける。鼓膜を揺らす着信音。視線の先には、受付と、整然と並んだ椅子に座って順番を待っている人々の姿。
「もしもし? 何度もすいません──」
 通話が繫がり、クライアントの焦りの混じった声が耳に届く。
 ──しかし、その時だった。
「現行犯!」
 荒々しい声が聞こえた。女の子の声だ。はっとして声の聞こえた方へ首を向ける。
 エントランスとは反対側の、食堂へと通じる入り口付近に、ガタイのいい中年男性が俯うつぶせに倒れており、その足には若い女の子がしがみついていた。
 何が起こったのか分からず、状況を把握しきれない中……揉み合いになっている二人の方へ目を凝らす。
「何しやがる。いきなり飛びついてきやがってこの女!」
 ドスの効いた声。捲れたシャツから覗く背中には、明らかにその筋と分かるお絵描きが見えた。
「うるさい! このプリン泥棒!」
 女の子は荒々しく振り払おうとする男の足から意地でも手を離さず、床を引き摺られている。
 まずい。このままではあの子が危ない──俺は、彼女に駆け寄ろうとする。
 次の瞬間。苛立った男が拳を振り上げた。その光景が、まるでスローモーションのように目の前で再生される。
 女の子が体勢を立て直そうとするが、逆にバランスを崩して床に崩れ落ちる。
 横向きになり目を開いた女の子と俺の視線が、重なった。
 なぜだろうか。俺はその女の子の顔に、表情に、瞳に──まるで時間が止まってしまったかのように釘付けになった。
 ミディアムの黒い前髪が乱れる隙間から、一点の曇りもない凜とした瞳が、俺の心を撃ち抜いてくる。
 そしてふと、ピントがズレる。彼女の視線は俺の足元へと下がっていく。
 夢中になって彼女のもとへと駆け寄ろうとしていた俺は、数メートル先へともがくように足を伸ばす。しかし、彼女の凜とした声が再び俺の鼓膜を揺らした。
「危ない!」
 そうだ。すぐに止めないと──そう歯を食いしばったのとほぼ同時に、俺の視界は百八十度回転して、後頭部に鈍い衝撃が走った。
 背中の鈍痛、くらくらする頭。気づけば俺は、天井の照明に目を細めていた。
って……何だこれ?」
 顔を顰めながら靴の裏を確認する。すり減ってグリップの効かなくなった底に、ツルツルとした液体が付着している。甘い匂い。ほんのりと苺の香り。
 床に横たわったまま視線を上げると、目の前には形の崩れたプリンと、空になった容器が落ちており、床を汚していた。
 うっすらと開けた瞼の隙間から、俺の方を見つめ、拳を振り上げたまま驚愕の表情で固まっている男の姿が目に映る。
 そしてその一瞬の隙を見計らって、病院のスタッフたちが駆け寄り、男を取り押さえる。若い女の子も男の足から引っぺがされて、ようやく騒ぎは収まっていく。
「あんた──大丈夫?」
 駆け寄ってきてくれた通院患者らしきおばさんが声を掛けてくる。
「大丈夫です。お構いなく……」
 そこでやっと我に返った俺は、手に持っていたスマホがないことに気がつき、慌てて床に落ちているのを拾い上げて耳につけた。
 すると、さっきの黒髪の女の子が、俺の方をじっと見つめているのが目に入った。
「もしもし、もしもし! 大丈夫ですか?」
 しかし、すぐに耳に届いた通話の音声にはっとする。
「──すいません。お世話になっております、瀬川せがわです。大変失礼いたしました」
 電話の向こう側の人物が、安心したように答える。
「あ、お世話になります。わかまつの広報の連島つらじまですけど……大丈夫ですか? 急に鈍い音がして声が聞こえなくなったので、通話しながら事故にでも遭われたのかと……」
「いえいえ、大丈夫です」
 ある意味事故に遭ったようなもんだよな……と先ほど床に打ち付けた頭をさする。
 もう一度エントランスの方へ振り返ると、男はどこかへと連行され、すでに女の子の姿もなかった。
 それを確認して、俺はスマホを耳に当てながら小走りで病院の外へと出る。
「申し訳ありません。要件の方は、先日のご提案に関してでしょうか」
 スマホにまとわり付く甘い苺の匂いが気になりながら、こんなに何度も着信を入れるほどの緊急な要件はただごとではないと、気を引き締めながら尋ねた。
「左様でございます。せっかくお話を進めていただいたウェブ広告の件なのですが……その、見直すことになりまして……」
 いやな予感が的中する。俺は息を呑みながら受話器の声に神経を集中した。
「見直す……と言うのは。社内で方針が変わったのでしょうか」
 連島さんが、ばつが悪そうに小さくため息をつく。
「つい先程です。社長の方から、インターネットの広告の話を進めていることについて意見がありまして……」
「意見……ですか」
「……そうですね。当社は今まで自社で折り込みチラシを作ったり、コマーシャルを制作してきたのですが……それをわざわざ予算を組んで代理店に頼んでまでお願いすること自体、どうなのか──と。今の時代、ネットの市場は無視できませんと説明したのですが、インターネットの広告とか、動画とか──正直胡散臭いと」
 胡散臭い、か。俺はわか松の名物社長の顔を思い浮かべながら、これは骨が折れそうだと気分が重くなった。
「事情は分かりました。しかし、もう一度社長にネットの広告について理解を深めていただく機会を作っていただけませんか。お願いいたします」
 俺は電話の向こうの人物に向かってスマホを耳に当てながら深々と頭を下げる。通話の音声越しに、連島さんは申し訳なさそうに声を潜めながら答えた。
「──本日十五時から、会議があります。そこで十五分ほど時間を貰いますので、社長の前でプレゼンをしていただくことはできますか?」
「今日の……ですか?」
「はい。急で申し訳ありません。しかし、そこで挽回しないとこの話はなくなってしまう可能性が高いです」
 腕時計を見る。既に午前十二時前だ。慌てて胸ポケットから手帳を取り出し、予定を確認する。社内ミーティングをキャンセルして、資料作成を今からチームに頼めばどうにか……この案件だけは取りこぼすわけにはいかない。
「かしこまりました。では、本日の十五時にお伺いさせていただきます」
 電話を切ると同時に、部下の山下やましたに電話をかける。本当は自分でやりたいが、今はこいつに頼むしかない。
「お疲れっすぅ。どうしましたぁ。俺今食堂で休憩中なんすけど」
 緊張感のない声が聞こえてくる。俺は感情的になるのを抑えて、極力丁寧に要件を伝えた。
「それどころじゃない。緊急案件だ。今すぐ“わか松食品”のプレゼン資料の作成に取り掛かってくれ。相手はネットに疎い年寄りだ。時間は十五分。極力専門用語や横文字は使わず、簡潔に。いいな?」
「あれ? 連島部長と話進んでたんじゃないんですか?」
「社長からNGが出た。十五時の会議で改めてプレゼンしなくちゃいけない。これを逃すと、せっかくうちのチームで開拓した案件がパーだ。俺はあと一時間は戻れないから、直接向かう。お前は資料を作って来い」
「マジすか……」
 落胆混じりの声の後に、言葉が途切れる。
「何だ。今から他に予定が入っているのか? 悪いがこっちを優先してくれ」
「そうじゃないんすけど……」
「何だ。はっきり言え」
 歯切れが悪い口調にイライラする。こいつももう入社三年目。新入社員の時から面倒を見ているが、この態度はいまだに変わらない。
「今ちょうど注文したカレーが目の前に来たとこなんすよ。しかもカツ乗ってんすよ。……食べ終わってからでもいいっすか?」
 もはや怒る気力も湧いてこず、頭を抱えながら「じゃあ早く食え。五分で食え。いいか?」と言って電話を切った。

  *

「近年ネットの広告市場は、新聞や雑誌、ラジオはもちろん、テレビの広告費をも上回る規模で成長しています」
「あ〜ちょっとちょっと」
 広い会議室でスライドを捲りながら説明する俺に、最前列の椅子にどっしりと背中を預けて聞いていた社長が口を挟む。
「はい。何でしょう」
「内容はともかくさあ。こんなちっちゃい字見えないよ。それに、なんか色がごちゃごちゃしてて分かりにくいし」
「申し訳ありません」
 隣に立つ山下が、他人事のように飄々とスライドを見つめている。作ったのはお前だろうが。相手は年寄りだと分かっているんだから、文字の大きさなり配色なり気を遣えよ。それに、データが出てくるタイミングにセンスがなさすぎる。
 いつもならこんなプレゼンを作ってこようものなら俺が容赦なく手直ししているのだが、とにかく今回は時間がなかった。
「あー、いい。スライドはなしで。もう口頭で説明して。会議の時間押してるからさ」
「申し訳ありません。では、続けさせていただきます。わか松食品さまは百貨店や駅の売店などでお土産用の練り物製品の人気銘柄として古くから親しまれてきましたが、近年の百貨店の不振の影響を受け、連島部長主導でネットの通販市場に進出されていますよね?」
 会議室の後ろで、連島部長が頷きながら聞いている。
「これまでわか松といえば、折り込みのチラシや地方局のテレビコマーシャルがお馴染みでしたが……近年は十分な宣伝効果が得られにくくなっております。そこで当社は、リスティング広告と呼ばれる、ネット検索履歴からニーズの高い見込み客に対象を絞って広告を表示する方式を提案いたします」
 社長が首を傾げている。山下の作ったプレゼン資料に横文字が多いせいか? あれだけ言ったのに……。
 何か言いたげな社長の顔色を窺いながら恐る恐る喋っていると、ついにプレゼンを中断させられた。
「あのさあ。言っている内容がいまいちピンと来ないんだけど……結局どんなコマーシャルを作る気なんだい?」
「そうですね……ネットを利用する方の中から、練り物製品に興味がある層にターゲットを絞り、ページに表示するバナー広告や動画広告で販促を行っていくつもりです」
「それはさあ。うちで作っていたコマーシャルを、テレビじゃなくてインターネットで流すってこと?」
「そうではなく、ネットを利用する比較的若い層に合わせた広告を……」
 俺がそう答えると、社長の顔色が変わった。
「えーと、君。うちのテレビコマーシャル、見たことある?」
「はい。拝見しております」
古澤ふるさわ先生の歌。いいだろう。創業した当時から、当時駆け出しだった彼にずっとコマーシャルで歌ってもらってきたんだ。あれから彼も売れっ子になり、当社も大きくなった。かれこれ五十年以上の、長い付き合いがあるんだよ」
「……はい」
 古澤まさのり。確か、四十年ほど前に演歌でヒット曲を出したとか。
 長年親しまれてきた従来のコマーシャルは、古くからテレビを見てきた地元の人間には馴染みがあるのは確かに分かる。しかし……全国の、それもネットを使う古澤まさのりを知らない若い層に引きがあるとはとても思えない。
「君の言うプランは、彼との契約を切るってことだろう? 違うのか」
「それは……」
「そうなんだろ。じゃあ、話にならんね」
 社長が立ち上がり、プレゼンを切り上げようとする。常務や専務も同調し、揃ってぞろぞろと会議室を出ていく。
「ですが、社長……」
 連島部長が去っていく社長を追いかけながら、俺たちに申し訳なさそうに会釈をした。

「で、どうだった?」
 デスクに片肘をついた部長が、顎あごをさすりながら、口元を緩ませる。苦々しい顔で頭を垂れている俺は、悔しさを押し殺しつつ言葉を振り絞った。
「プレゼンは不調でした。しかし、それも想定範囲内です。社長の信頼を得るのは簡単ではないことは分かっています」
「信頼……ねえ」
 首を捻りながら部長が聞き返す。
「何がいけなかったと思う?」
「……そうですね。私の提案内容は間違いないと思うのですが」
 そう言って、唇を嚙み締める。データを駆使して、わか松にとって最適な提案をしたつもりだ。しかし、社長は耳を貸さなかった。
「あの社長。理屈じゃ動かないよ」
 部長が俺の顔を見つめながら、諭すように切り出す。
「君の欠点を教えてあげようか。人間味がないんだよ。分析ができて、企画書が書けるのは才能だよ。でもね。それだけじゃ不十分なんだ。数字じゃ動かない人間もいる。企業のトップなんてまさしくそうだね」
「人間味……ですか」
 部長が椅子から立ち上がり、俺の両肩を揉み込む。
「営業の仕事はね。相手を騙して取って喰うことじゃない。仲間を作るってことだ。信頼できる、仕事のパートナーをね」
 俺が不安げな顔をしていると、部長が微笑みながら肩を組んできた。
「簡単じゃない。そう。だからこそ、この壁を乗り越えた時に、君の未来が見えてくる。今まで足を棒にして実績を積んできたんだろ? この山を越えりゃ、営業局長の椅子だって射程圏内だ。君には期待してるんだから、ここが踏ん張りどころだぞ」
「……未来、か」
 頭を下げたまま俺は、誰にも聞こえない声で呟いた。

 結局昼飯を食べる間もなく電話でのクライアントとの打ち合わせ、会議を二件こなし、企画書のラフ案を練っているうちに終電は過ぎ、オフィスを出てからタクシーを捕まえた。
 夜の明治通りを進みながら、人通りの少ない並木道を窓からぼんやりと眺めていた。
 “持って一年ですかね”
 診察室で聞いた、医者の淡々とした言葉が脳裏に蘇ってくる。
 俺があと一年で……この世からいなくなる? そんな馬鹿な。
 今抱えている案件はどうなる? 苦労してやっと開拓したクライアントや、先輩から引き継いだ案件だってある。コンペだって準備しなきゃいけない。
 何より、わか松食品。ここを開ければ、間違いなく大型プロジェクトになる。一度は軌道に乗ったんだ。逃すわけにはいかない。
 唇を嚙みながら、キリキリと痛む胃を覆うようにそっと掌を置く。
 他に誰ができる? 俺しかいない。立ち止まっている暇はないんだ。
 念願だった広告代理店に内定を貰い、俺は生活の全てを仕事に捧げてきた。一年目から寝る間も惜しんでミッションに取り組み、地道に結果を残して二年目には同期に先駆けてマネージャに昇進。大きな売り上げを残しているチームに異動になった。それからというもの、毎日先輩に詰められながらパワポで資料を作り続け、目の回るような日々を地道に積み重ねてきた。
 先週、営業局長のポストがひとつ空くという噂を聞いた。俺はここ数年、その椅子に座ることをずっと目標にしてきた。
 あと少し。もう手の届く位置にいる。わか松食品さえモノにすれば、実績は頭ひとつ抜ける。もう間違いないはずだ。
 十一畳のワンルームマンションの玄関に辿り着いた頃には、コーヒー、煙草、エナジードリンクで無理やり覚醒させていた俺の脳は限界を迎えていた。
 スーツの上着をハンガーに掛け、ネクタイと腕時計を外す。いつもなら帰ってすぐにコンビニに寄って買ってきた夕食を食べるのだが、ここ最近は胃の不調からか、食欲が湧いてこない。冷蔵庫に入っているペットボトルのお茶を喉に流し込み、シャワーを浴びて濡れ髪のままベッドの方へ向かった。
 ベッド脇に座ったまま手帳を開き、明日の予定を確認する。
 朝礼、社内ミーティングの後に、クライアントのEJT……東日本トラベルとのミーティングが入っている。
 わけあって、ここの担当者と顔を合わせるのは非常に気まずい。正直この案件だけは、今すぐに誰かに引き継いでもらいたいぐらいだが、そういうわけにはいかないか……。
 そんなことを考えていると、再び胃がズキズキと痛み始める。結局病院で胃薬の処方箋は貰ったものの、調剤薬局が混み合っていて処方を待つ時間はなく、事前に買っていた市販の胃薬を水で流し込んで、部屋の灯りを消す。
 ベッドの中で目を瞑る。しかし、疲れているのになかなか寝付けない。
 枕に額を擦り付けながら、歯を食いしばる。できることなら、感情の赴くままに泣き叫びたい。
 この肉体が滅びるということへの恐怖。不安。そして……どうして俺がこんな目に遭わなければいけないんだ、という怒り。
 俺は孤独だった。ワンルームの部屋の中で、誰にも知られず。この苦しみを理解してもらえることもなく、消えていく。そんな運命に抗うこともできず、ただただ苦しみに耐えることしかできない日々が続いていくという絶望。
 この人生の中で、幸せと思える時間はあった。でも、今は独りぼっちだ。
 頭の片隅で、かつて隣にいた存在を思い浮かべる。しかし、虚しくなってすぐに搔き消す。
 全ては己の身勝手さが招いたことだ。病気になり、こうして孤独を味わうのも、その報いなのかもしれない。
 数々の後悔と自戒の記憶を辿りながら、結局ろくに寝付くこともできず。気づけば朝を迎え、カーテンの隙間から光が差し込み、部屋にぼんやりと明かりが広がっていく。俺は力なく寝返りを打ち、鳴る予定だったスマホのアラームを解除する。顔を洗って意識を覚醒させ、スーツに身を包む。
 また一日が始まる。昨日の疲れが蓄積されたままの体に鞭を打ち、革靴を履いてマンションを後にした。

  *

「お久しぶりでございます。せ・が・わ・マネージャ」
 東日本トラベルのミーティングルームで、背の高いボーイッシュなショートヘアの若い女性が笑顔を作る。
「……敬語はやめろよ。気持ち悪い。拓海たくみでいいよ」
「あら。クライアントの担当者に向かってその態度はないんじゃない?」
 彼女が不満げに口を尖らせる。
「ていうか、ニコ……まだいたんだな。とっくに寿退社したのかと思ってた」
「まさか。あなたと付き合ってた時にも言ってたじゃん。私は籍を入れようが子供を産もうが一生働き続けるつもりだって」
 クライアントである東日本トラベルの広報──丸山まるやま二胡にこ、二十七歳。高校時代の後輩で、サッカー部のマネージャーだった彼女とは、大学に入ってから集まったサッカー部の同窓会を切っ掛けに付き合い始め、五年間の交際の末、別れた。
 しかしこれも意地の悪い神様の悪戯か。それから二年を経て広告代理店とクライアントとして、再びこのミーティングルームで苗字の変わったニコと再会することとなった。
「で、どうなんだ。新婚生活ってやつは」
 聞きたくないような気もするが、そこに触れないのもどうかと思って切り出す。
「どうもこうもないよ。いやー、ホント。大変なんだから」
 むくれた顔をして頰杖をついたニコは、過干渉な相手の親に対する愚痴をつらつらと吐き出し始めた。
「週末になるとわざわざウチまでご飯作りに来るんだよ。気まずいったらないんだから。でも旦那は私の味方してくれて、もう来なくていいって説得してくれてるんだけど」
 ニコの旦那は、役所勤めの公務員らしい。毎日定時になると真っ直ぐに帰ってきて、週末やニコの仕事が遅くなる時は夕食の支度もしてくれる。部屋の掃除は彼によって隅々まで行き届き、水回りも清潔に保たれている。彼のおかげで、ニコは仕事に打ち込むことができる。
 俺に──同じことができただろうか。
 仕事が第一だった俺は、就職して以来ニコとすれ違う日々が続いた。ニコは俺との結婚を遠回しに何度も促してきたが、そのたびに俺は話を逸らしてきた。
 今はそのタイミングじゃない。俺の言い訳はいつもそうだった。しかしその言葉を繰り返すうちに、ついにその機会は二度と巡ってくることはなくなってしまった。
「なあ、ニコ……」
「……何?」
「いや、なんでもない」
 お前今、幸せか? そう聞こうとした俺は、いまだに吹っ切れていないことを痛感する。もしも俺がニコと結婚していたら。別れた後になって、何度も後悔しながら酒でごまかしてきた。
「仕事の話をしようか」
 そう言ってノートパソコンを開き、キーボードを叩き始めた俺を、ニコは心配そうに見つめていた。

「あ、もちろん。ご一緒させていただきます。はい。はい」
 家のトイレの中で通話を終えた俺は、唇を震わせながら血で染まった便器の中を見つめていた。
 明日は土曜日。たった今、若松社長との接待ゴルフが入った。連島部長が頑張ってくれたみたいで、もう一度交渉するチャンスをもらえるらしい。
 しかし、今俺の体調は最悪だ。午後からめまいと吐き気がひどくなり、打ち合わせをキャンセルして早退した。
 明日までにどうにか持ち直せるか。途中で倒れたり離脱するなど、社長の前で失態は許されない。
 今からでも開いている病院を探して、処置をしてもらうか。
 ふらつきながら崩れるようにベッドに倒れ込み、スマホを操作する。渋谷近辺に夜間診療をしている内科はある、が……二十二時までか。時計を見ると、すでに日付を跨いでいる。流石にこの時間にやっているところはない。
 藁にも縋るような気持ちで買い置いていた市販の胃薬を水で流し込み、再び横になる。
 社長との約束は、午前十時。準備時間を考慮すれば、八時までは寝られる。それまでに少しでも睡眠を取って、体力を回復させなければ。
 わか松のプロジェクトの成否は、俺に掛かっている。俺がここで倒れたら、商談はどうなる。チームの為、会社の為。この体が病に蝕まれようとも、やり遂げなければ。そのプライドと責任感だけが、俺の体を突き動かしている。
 強い想いとは裏腹に、ベッドの中で俺はもがいた。胸が苦しい。寒気がする。全身に脂汗を搔き、荒い呼吸を繰り返す。
 薄れゆく意識の中、苦痛の海に投げ出され、溺れそうになりながら。俺は眠りへと落ちて行った。
 翌朝。目を覚ました時には、時刻は既に正午を回っていた。

「いや〜マジで楽しかったっすよ。社長と友達になって、ライン交換しちゃいました」
 月曜日。出社すると、わか松食品との商談が成立していた。
 立役者は、俺の代わりに急遽接待ゴルフに駆り出された山下だった。
「ゴルフとか全然やったことなかったんすけど、社長が手取り足取り教えてくれて。その教え方が、ここでバーンとか、ガッと来てバシッと打てとかマジ適当なんすけど、不思議とうまくなっちゃって。今からプロ目指しちゃおっかなーなんて言ったら、ガハハハってめっちゃ笑うんすよ」
 山下が見せてきたスマホには、俺には見せたことのない笑顔で山下と肩を組む社長の姿が映っていた。
 俺は複雑な気持ちで、大型プロジェクトをまとめ、デスクで意気が上がるチームの面々を見つめていた。
「瀬川君。ちょっと話がある」
 俺の肩を叩いたのは、部長だった。促されるまま喫煙室へと連れられ、すぐさま部長の煙草に火を点けた。
「悪いね。だが、今から話すのは君にとって気持ちのいい内容じゃない」
 鼻の穴と分厚い唇の隙間からもくもくと煙を吐きながら、いつも笑顔の部長が顔を顰めた。
「若松社長から直々に、プロジェクトの責任者を山下に、とのご指名があった。悪いが、君には担当を外れてもらう」
 単刀直入だった。俺は医者に余命を告げられた瞬間よりも──強い衝撃を受けた。
 俺の未来が、音もなく消えていくような気がした。今まで俺を支えていた、使命感。生きがい。全てが、砂のようにさらさらと。
「山下は君が育ててきた部下だ。君の手柄のようなものなんだから、あまり気に病むんじゃないぞ」
 部長の気遣うような優しい口調は、今の俺の耳には全く届かなかった。
「はい、分かっています」
 そう言って一礼をした俺は、部長の一服が終わる前に喫煙室を後にした。
 営業のデスクに戻る前に、俺はトイレの個室に駆け込んだ。胃のむかつきが治まらず、便器に向かってえずくように咳をしたが、何も出てこなかった。
 やっと呼吸が落ち着き、個室から出ようと腰を上げたとき。何人かの集団がぞろぞろとトイレに入ってきた。声と話の内容から、俺が率いていた営業部のチームの連中だと分かった。
「瀬川マネージャ、わか松の担当外されたらしいじゃん。俺、心の中でガッツポーズしちゃった」
「だよなー。あの人が次期営業局長って噂もあったけど……正直ないわーって思ってたもん」
 俺は息を潜めながら、否応なく聞こえてくる会話を受け止めていた。
 こうして耳にするまでもなく……俺がチームの連中によく思われていないってことぐらい知っている。俺は部下を厳しく指導してきた。それで嫌われることくらい、何も思うことはない。
 しかし、まだまだ陰口は止まらない。
「このままマネージャも山下さんになってくんないかなー。あの人ノリいいし、面白いし。誰かさんみたいに時代遅れのサビ残、完徹、休日の接待とか強要してこないし」
 俺は唇を嚙んだ。強要した覚えなんかない。しかし──その空気を作っていたのは事実だ。
「あの人、頭いいし仕事できるのは分かるんだけどさ。成果とか結果最優先すぎて、人の気持ちが分かっていないというか。人の上に立つ器じゃないんだよね」
「そうそう。どれだけ優秀でもさ、そんな上司について行きたいって思わないよなー」
 それを聞いて、俺は力なく項垂れた。それまで精一杯張り詰めていた糸が、ぷっつりと切れてしまったのを感じた。
 俺よりも──求められているのは山下みたいなやつなのか。
 営業局長は、社員の推薦で決められる。上司だけではなく、部下からの評価が問われる。
 分かっていた。俺には人の懐に入り込み、足場を固めていく力があるわけではない。上に上り詰めていくには、結果を出すだけではなく、そうした行動力が必要だってことも。
「人間力──か」
 奴らがトイレから去っていき、静かになった。俺はゆっくりと個室から出て、鏡で自分の姿を確認した。
 顔はやつれ、目には力がない。
 もっと早く気づくべきだった。ここに、俺がいなければ回らない仕事はない。代わりはいる。いや、むしろ俺じゃない方がいい。
 営業局長のポストだって──もう望むべくもない。
 そう悟ったとき、俺ははっきりと人生の終わりを意識した。一年とは言わない。いますぐに消えていなくなったって、誰も困ることはないのだ──と。
 それから俺は屍のように黙々と業務をこなし、陽が暮れる前に退社した。いつも終電まで残っている俺が真っ先に帰るのを見て、皆目を丸くしていた。
 足は調剤薬局へと向いた。まだ開いているはずだ。とりあえず、少しでも楽になりたい。今はそのことしか考えられなかった。
 渋谷駅から電車を乗り継ぎ、病院に着いた。調剤薬局の営業時間にはギリギリ間に合ったみたいで、無駄足にならなかったことに安堵する。自動ドアを潜り、受付で前回処方箋を渡したものの、時間がなくて薬の処方を受けられなかった旨を告げる。待合室は混み合っていて、俺はかろうじて空いている端の席を見つけ、腰を下ろした。
 これからどうしようか──。
 待合室のテレビでは、メジャーリーグのニュースが流れている。高校時代から注目され、鳴り物入りで飛び込んだプロの舞台でも期待通りの活躍をし──ついにこの春、海を渡った日本人選手の活躍する姿が映されていた。
 俺も──あんな風に生きていると思っていた。
 学生時代から、少なからぬ期待を背負って生きてきた。
 頭が良くて、真面目で、堅実で、優秀で──。
 周囲からの目は、俺の重圧になると共に、目標を達成するという力になった。どんな時も自分を信じ、努力を重ねた。第一志望の大学には現役合格し、念願だった広告業界の大手企業への内定を勝ち取った。
 就職してからも、順調にステップを踏んでいた。過酷な競争に次々と同期がリタイアしていく中、俺は歯を食いしばって踏みとどまり、上を見上げて進み続けていた。
 しかし──どうだ。俺を待っていたのは、二十八歳での余命宣告だ。
 その現実は、あっけないほど冷徹に、俺が積み上げてきた全てを否定した。
 努力が足りなかったのなら、自分を責めることができる。後悔だってできる。それはこれから巻き返すための力になるのだから。
 でもそうじゃない。俺は治ることのない病気という運命によって、打席に立つという資格すら失った。
 テレビの中で、「長年の夢だった」というメジャーリーグのユニフォームを身に纏いながら、「自分の力を試したい」と目を輝かせるプロ野球選手の姿が流れている。
 唇を嚙む。悔しくて、胸が張り裂けそうになる。
 もう俺は、あんな風に生きることはできない。病気によって奪われたものは、返ってこない。
 無力感が体を支配する。──俺は何をしているんだろう。
 そうだ。楽になりたい。そのために、ここに薬を貰いに来ている。
 ──でもそれから、俺はどうすればいいんだろう。
 空っぽになった心の中で、乾いた声が虚しく反響する。その答えを考える気力も湧いてこず、テレビという別世界の中──バットを構え、フラッシュを浴びる凜々しい背中を見つめる。
「瀬川さん」
 ふと、受付から俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
 こんなに混み合っているのに……もう順番が回ってきたのか? と思い、慌てて腰を浮かせる。
 受付に歩み寄り、椅子に座ろうとした瞬間。真っ白なワンピース姿の若い女の子が行手に現れ、俺よりも先にちょこんと腰を下ろした。
「え?」
 思わず間抜けな声が出る。俺が視線を落とすと、前髪が目にかかるくらいの黒髪をなびかせ、まじまじと俺を上目遣いに見つめる二つの瞳と視線が重なった。
「すいません! お呼びしたのは……あおいさん。瀬川葵さんです。失礼しました」
 受付の薬剤師さんが申し訳なさそうに頭を下げる。
 なんだ。たまたま苗字が同じだったのか。勘違いしてしまった。気まずい感じで待合席に戻った俺は、薬の説明を受ける華奢な背中を見つめていた。
 それにしてもあの子、どこかで会ったような。そうだ確かあの時の──。
 脳裏に、威勢のいい声が再生される。現行犯! そう叫んでいた、あの時の光景とともに。
 やがて女の子が薬を受け取り、席を立つ。そのまま自動ドアで外へと出ていくと思いきや、くるりと向き直り、ずかずかと待合席へと歩いてきて、空いている俺の隣に腰を下ろした。
「あなた……苺プリンの汁ですっ転んでたリーマンの方ですよね」
「……そうだが」
 覚えていたんかい。ていうか、冷静になって思い返してみれば、その光景はかなり恥ずかしいな。
「いや、二次災害を引き起こしてしまったみたいで、ちょっと気になってたんですよ。怪我とかなかったんですか?」
 この子、面識ない男によくここまで馴れ馴れしく話しかけられるな。
「いやいや、君の方こそ。随分といかつい男と揉めてたみたいだけど」
 ずっと気になっていた。不思議と心に引っかかっていた、と言ってもいい。自分が苺プリンですっ転んだことが、ではなく。この子の存在が。
「揉めてたって。人聞きの悪い。私は犯人を捕まえようとしただけですよ」
 瀬川葵、と言ったっけ。偶然にも俺と同じ苗字の女の子が、不満げに頰を膨らませる。
「犯人? あの男がか?」
「そうです。常習犯です」
 状況から察するに、売店で盗みを繰り返していたのを捕まえようとしたのかと思ったが、そうではなかった。
「あのプリン、検査入院していた時に私が買って楽しみに置いていたものなんです。病室には冷蔵庫がないんで、食堂の共用の冷蔵庫に名前を書いて置いていたんですけど。それをあの男は……」
 怒りで目が血走っている。なるほど。勝手に食われていたのを不審に思い、ついに“現行犯”で捕まえようとしたってわけか。
「それなら、病院のスタッフに通報すればよかっただろ。何もあんないかついやつを自分で捕まえようとしなくても」
 瀬川葵は、俺の顔を指差しながら目を釣り上げた。
「言いましたよ。何度も。でも何もしてくれませんでした。あのおっさん暴力団とか反社とか噂があったから、変に恨みを買いたくなかったんでしょうね」
「お前は、怖くなかったのかよ」
 呆れたように尋ねる俺に、瀬川葵は首をぶんぶん振りながら答えた。
「怖いですよ。当たり前でしょう。でもね。あのまま泣き寝入りするなんて絶対に嫌だったし、それならいっそ玉砕覚悟で捕まえてやろうかと」
 分からない。苺プリン一つの為に玉砕する女子の気持ちが。
「で、結局どうなったんだよ」
 仁義なき苺プリン戦争の顚末。告発者はニヤリと笑った。
「目には目を。トラップを仕掛けておいてあげました」
「トラップ?」
「後日──冷蔵庫に仕掛けておいたんです。苺プリンと見せかけて、ハバネロプリン。パッケージと見た目と匂いは苺に偽装しておいたので、まんまとひっ掛かって悶絶してました」
「お前なあ」
 頭を抱える俺に、瀬川葵は勝ち誇ったかのように親指を突き立てる。
「おかげでスッキリしました。スッキリすることは大事ですよ」
 歯を見せて笑うその顔に、俺は胸が温かくなるような心地よさと、微かな高揚を覚えた。こいつ、変なやつだな。でも、不思議と気になる。
「瀬川さん──瀬川拓海さん」
「あ、はい」
 今度は確実に俺が呼ばれた。受付に向かい、椅子に腰掛けると、ひと通り薬の説明をしてくれた後に、薬剤師さんが目を細めながら言葉を付け加えた。
「可愛らしい奥様ですね。お二人とも、お大事に」
「え?」
 俺がきょとんとしていると、逆に薬剤師さんに不思議な顔をされた。困惑しながら後ろを振り返ると、背後に薬の袋をお腹の位置で抱えた瀬川葵が笑顔を見せながら立っていた。
「行きましょうか。だ・ん・な・さ・ま」

   *

続きは発売中の『余命一年、夫婦始めます』で、ぜひお楽しみください!

高梨愉人(たかなし・ゆじん)

広島県出身、愛媛県在住。1987年生まれ。会社員の傍ら30歳で執筆活動を始め、『二度目の過去は君のいない未来』(集英社文庫)でデビュー。

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