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第1回

プロローグ 禄朗が怪我をして

〈和食処あかさか〉で仁太とゴンドと望が話す

 いや旨い。

 この〈唐揚げ甘酢あんかけ定食〉はとんでもなく旨い。〈唐揚げ定食〉は辰さんがやってた頃からのメニューで、望がそこにオリジナルな甘酢あんかけを作ってかけたんだがブラボーと叫びたくなるぐらいに旨い。

「どう思うよ」

 ゴンドさんが顰め面で言う。

「いや旨いよ」

「違うって、そのロクデナシって野郎のことよ」

 ロクデナシと来たか。そう呼びたくなる気持ちはわかるけどさ。

「禄朗。ロクちゃんね。もしくはロックって呼ばれてたりもしたけど」

 今度は思いっ切りわざと顔を顰めた。

「ロックンローラーでもあるまいし」

「まぁ違うね」

 ロクちゃんはたいやき屋で、アンパイアだ。あんパイアだけにたいやき屋、ってのは、もう近所じゃ誰も言わないギャグだったけどな。

「ゴンドさん。ユイちゃんの、娘の結婚相手に文句を言いたい気持ちはわかるけどさ、あんたはとっくに離婚して離れて暮らす父親だからね?」

「まだ結婚してない」

「うん、してないね」

 禄朗が怪我をして仕事ができないので、ユイちゃんが押しかけ女房になって店を手伝うってことだけどまだ結納なんかもしてないね。でも結婚するんだよね。

「どうしたんだっけ禄朗は。アキレス腱切ったんだっけ?」

「違うよ、膝前十字靭帯損傷。部分断裂もしていたって言ってたよ」

 午後三時近く。遅い昼飯で他に客はいない。俺たちの話を聞いていた望が厨房から言ってきた。

「うわ、そこか」

 そりゃ重傷だ。断裂なんて聞いただけで痛くなってくる。

「まともに歩けるようになるまで、二、三ヶ月は掛かるみたい」

「だろうな」

 射撃とはいえ、俺も一応スポーツのコーチだ。その辺の勉強だってしてるからわかるよ。

「たいやき屋は立ち仕事だし、とにかく店内さえ歩けないんじゃ商売にならないからね。大変だよ」

「アンパイアも今季は無理だろうな」

 野球命の男が、アンパイア生活を棒に振るのは辛いだろうな。

「だからってユイが家に住み込んで手伝う必要はないだろうに。その禄朗のやってるたいやき屋は実は〈花咲小路商店街〉を牛耳ってるって話じゃないか」

「いやいや」

 刑事らしからぬ情報の錯綜を起こしてるよ。どうせ娘の恋人のことなんか聞けるか! ってまともに聞いてないんだろう。

「禄朗の、宇部さんところ。〈たいやき波平〉ね」

 元々和菓子屋で、大福やおはぎやたいやきといったあんこをメインにした和菓子を製造販売していたんだ。

「今の〈たいやき波平〉になったのは、禄朗の親父さんが亡くなっちまってからだよ」

 もう十何年も前になるかな。親父さんの一郎さんは奥さんの七子さんにあんこの作り方だけは伝えていたので、〈たいやき屋〉として再出発したんだ。その七子さんも、再開して間もなく一郎さんの後を追うように亡くなっちまったけどな。

「宇部家は近頃じゃ珍しい五人姉弟でさ。禄朗は長男だけど末っ子なんだ。姉たちはそれぞれ二葉に三香、四穂に五月。わかりやすいだろう? 一郎と七子の子供たちだから二から禄朗まで。で、単なる偶然なんだけど、四人の姉たちはそれぞれ商店街の店主たちと結婚したんだよ」

「最終的に宇部家が〈花咲小路商店街〉を乗っ取って裏ボスになったって言われたんですよね」

 望が笑う。

「そうそう」

「え、それは初めて聞いたが、それぞれの店ってどこなんだ」

 ゴンドさんが訊く。ようやく詳しく知る気になったかね。

「長女の二葉は〈すずき洋装店〉の友和さんとだな。次女の三香は〈佐東薬局〉の圭一郎さん。三女の四穂は〈向田商店〉の篤で、あ、四穂と篤は俺の同級生だからゴンドさんの後輩でもあるよ。四女の五月は〈ゲームパンチ〉の宮下一磨とだね」

 ゴンドさんが少し眼を丸くする。

「本当に全員が店主と結婚したんだな」

「うちの商店街は、そうやって子供たち同士でカップルになっちゃう確率高いですよね」

 望が笑う。本当だよな。調べればもう商店街全体が親戚になっちまうんじゃないかひょっとして。

「まぁそんなんでさ、禄朗は一人で〈たいやき波平〉をやっているんだよ。アンパイアをやるときには五月ちゃんが手伝いに来てるけどな」

「さっきも言ってたけどそのアンパイアって、禄朗は野球の審判をやってるのか」

 それも知らないのか。本当に話を聞かないで、ただ禄朗が娘よりはるかに年上過ぎるってだけで怒ってるんだなゴンドさん。

「ゴンドさんも野球好きだろ」

「好きだよ」

 ヤクルトファンだもんな。

「禄朗は、高校球児でさ、甲子園も行ったんだよ」

 もう二十年も前の話だけどな。

「凄かったぜ禄朗。ポジションはキャッチャーで通算打率は二割七分」

「それのどこが凄いんだ。まぁまぁだけど普通だろ」

「そう思うだろ? ところが禄朗は得点圏打率がなんと九割だった」

「マジか!」

 野球好きならわかるよな。得点圏打率が九割ってのがどんだけ凄いことか。

「まさにクラッチヒッターだったよ。前の打者が塁に出ていれば、必ずと言っていいほどホームに帰したんだ」

「そいつは確かに凄ぇな」

 スカウトに眼を付けられたけど、ドラフトに掛かるほどではなかったな。甲子園に行ったのも一回だけで、後は全然だったし。

「それでか。店を継いだ後も野球忘れられなくてアンパイアを始めたのか」

「そういうことになるのかな。でも草野球とかはやってないから、ひょっとしたらどこか痛めたとかあるのかもしれないか」

「え、でも権藤さん」

 望が言う。

「禄朗さんのこと何も知らないみたいですけど、店を継ぐ前には警察官だったって聞きましたよ」

「警察官?」

 お、そうそう忘れてた。

「あいつは高校出て警察学校行ったんだよ。で、交番のお巡りさんやってたけど、そのときにお母さんが亡くなったんだよな」

「それで警察官を辞めて、店を継いだのか?」

 そういうことになるんじゃないのかな。

「それ、うちの管内の警察官ってことか?」

「俺もその辺は知らないけど、会って話してみればいいじゃないか。離婚したとはいえ、ユイちゃんの父親なんだからさ」

 将来の義理の息子だぜ。

 禄朗、いい奴だよ。少々堅物で、人付き合いの悪いところはあるけどな。

〈ナイタート〉で淳ちゃん刑事とミケと花乃子さんとすばるちゃんが話す

 花乃子さんが店に入れ替えの花を持ってきた。

「あら、すばるちゃん」

「こんにちは」

 本当に花乃子さんって、名前そのままに花を持っているのが似合う。僕らは小さいときからその姿を見ているせいかもしれないけど。

「今日はお手伝い?」

「そう、こずえが風邪引いちゃって」

 淳ちゃん刑事さんが今日は休日でミケさんと出かけるので、僕が店番。あとで瑠夏も手伝いに来る。

「淳ちゃんもなんだか久しぶりに顔を見るわね」

 淳ちゃん刑事さんが苦笑いした。

「本当に久しぶりの休みなんで」

 連続強盗事件があってしかもそれが以前の殺人事件と関係していたとかで、淳ちゃん刑事さんはずっと家にも帰ってこられなかったって。それが一昨日になって犯人たちを逮捕できたって言ってた。

「きれいな花ですね」

「これはストックって花ね」

 ストック。聞いたことはあるかも。

「すっごくきれいな白ですね」

 そうね、って花乃子さんが微笑んで頷いた。

「ストックはとても色のバリエーションが豊富なのよ。紫や赤にピンクに黄色。それぞれのグラデーションみたいなものがあるから、知ってる人でもこれは何の花? って驚くこともあるわね」

 そうなのか。

「ちなみに花言葉は〈永遠の美〉とか〈求愛〉〈私を信じて〉とか〈愛の絆〉。もうこぼれんばかりの愛の言葉ばっかりね」

「すごいわー」

 ミケさんが笑った。

「ストックの花束なんか貰っちゃったら、その愛の重さに眩暈がしそうね」

「そうね。あ、でもこの間ストックの花束作ったわ。ほら、〈波平〉の禄朗さんの入院のときにユイちゃんに頼まれて」

 わお、ってミケさんがまた笑う。

「ユイちゃんらしいわー」

「禄朗さんって退院したんだよね?」

「あ、さっきユイさんとタクシーで帰ってきて、偶然会いました。今日は定休なので明日から始めるって」

 まだ松葉杖なしでは歩けないみたいだった。

「結婚式にはストックのブーケでも作ろうかしら」

 花乃子さんが微笑んで言う。結婚か。

「禄朗さんとユイさんなんて、聞いたときには本当にびっくりしました。全然年齢が違うから」

「十四歳違うのよね」

「何よりも交際に至ったことに驚いたわ」

 そうらしい。僕は知らなかったけど、禄朗さんは小さい頃から女嫌いで有名だったって。四人もの、しかも揃って気が強いお姉さんに囲まれて育ったからじゃないかって言われていたらしい。

「そういえば、禄朗さんって僕が小さい頃には警察官だったって聞いたんですけど、淳ちゃん刑事さんと一緒だったんですか?」

 訊いたら、いや、って淳ちゃん刑事さんがちょっと首を横に振った。

「僕も禄朗さんが警察官だったっていうのは、つい最近知ったんだ。禄朗さんが辞めた後に、僕は警察官になったから」

 そうか、禄朗さんの方が何歳か年上だし、淳ちゃん刑事さんは中学からここにはいなかったから知らないのか。

 そう、って淳ちゃん刑事さんが頷く。

「最近知ったっていうのはね。伝説の警察官だったって話なんだよ」

「伝説?」

「え、なぁにそれは。全然知らないけど」

 花乃子さんが少し眼を大きくさせた。

「内部事情だから誰も知らないと思う。禄朗さんは交番勤務を二年間しただけで辞めたんだけど、その間に一人でものすごい数の検挙をしたって話なんだ」

「検挙って、犯人を逮捕したってことね?」

 花乃子さんが訊いた。

「厳密には違いがありますけど、まぁそうです」

「ものすごい数って?」

 僕が言うと、淳ちゃん刑事さんはちょっとだけ眼を細めた。

「言いふらさないでほしいけど、二年で二百二十八件」

「二百二十八件って」

 ミケさんが真剣に驚いて、何かを考えるように上を向いた。

「単純計算で、三日に一件は犯人を逮捕していたってことになってしまうじゃない!」

「まぁそういうこと。その伝説の警察官が禄朗さんだって話なんだよ」

「それは淳ちゃん、全部泥棒とかってことなの」

「詳細は聞いていないけど、強盗や詐欺や痴漢、ありとあらゆるものがあったらしいね。なかったのは殺人犯ぐらいだったって。とにかく禄朗さんは一人でそれだけの数の犯人を見つけているんだよ」

 スゴイ。

「どうやってそんなに」

「全然わからない。本当にとんでもないことなんだ。たぶん日本の警察史上でもトップだろうね。ありえないことだよ」

「禄朗さん、超能力でもあったのかしら」

「そうとしか思えないわね。知らなかったわー」

 ミケさんと花乃子さんが言う。

 後で父さんに訊いてみようかな。確か、禄朗さんも父さんの学校の生徒だったはずだから。

「でも、そんなに凄い警察官だったのに、辞めて〈たいやき波平〉を継いでたいやき焼いているのね」

 ミケさんが言って、花乃子さんが頷いた。

「覚えてるわ。お母さんの七子さんが亡くなられてすぐに、禄朗さんは警察官を辞めて帰ってきたの。お姉さんたちは全員結婚して家を出ていたから、長男として店を継ぐために帰ってきたんだなって思っていたけど」

 伝説になるような警察官だったのに、今はたいやきを焼いて、そして高校野球のアンパイアもやってる。

 僕の高校の野球部の試合のときに、アンパイアをやってる禄朗さんを見たことがあるんだ。

 カッコよかった。背が高くて長髪で、そして声が凄く良くて通るんだ。「ストラーイク!」って叫ぶ度に観客が禄朗さんを思わず見てしまうぐらいに。

 猫の名前はサークルチェンジ

 禄朗さんが入院していた一週間、ずっとクロネコちゃん、って呼んでいた。禄朗さんの怪我の原因になって、そして禄朗さんに拾われて宇部家にやってきた子猫の黒猫。

 一週間前のランニング中。土手を走っているときに突然草むらの中からこのクロネコちゃんが飛び出してきました。

 そのとき、禄朗さんは二日前に降った雨の水たまりを跳び越えようと跳んだ瞬間で。

 足の着地地点に突然現れたクロネコちゃんを避けるために、禄朗さんは咄嗟に足を広げ無理な体勢で着地して倒れてしまって、それで最悪なことに膝前十字靭帯を損傷してしまった。

 でも、そのお蔭で命拾いして、おまけに飼われる家まで見つかったクロネコちゃん。あちこち捜したけれどお母さん猫は見つからなかったし、迷子の子猫の情報もまるでなかったんです。

 お医者さんはたぶん生まれてまだ半年も経っていないって。獣医のカンで、四ヶ月って。だからたぶん一月生まれのクロネコちゃん。

 私も五月さんも、名前はどうするのか訊こう訊こうって思っていて、退院してきた今の今まで訊くのを忘れていました。

「ねぇ禄朗。猫の名前は? ずっとクロネコちゃんって呼んでいたんだけど、断裂ちゃんとでもする?」

 五月さんが笑って言うと、禄朗さんが言ってなかったか? って表情を見せた。

「サークルチェンジ」

「なんて?」

「サークルチェンジ。まぁ長いから真ん中取ってクルチェで」

 クルチェちゃん。

 サークルチェンジという単語の意味がわからないけどカワイイ名前。どことなくクロネコと語感も似てる。

「どういう意味なんですか?」

「どうせ野球用語でしょ知らないけど」

 そうだな、って禄朗さんが頷いた。

「かなりの野球好きじゃないと知らないかな。ピッチャーの投げ方、変化球のひとつだ。こうやって」

 ボールを握ろうとしたけど五月さんがパッと手を禄朗さんに向けて広げた。

「あぁいいわよ説明しなくていいわよ。わかりました。クルチェちゃんね。カワイイからそれでオッケー」

 クルチェちゃんは、今は篭の中で寝ている。

 実家で犬のダンペイを飼っているから生き物には慣れているけど、猫と、こんな子猫と一緒にずっといるのは初めてで、とても新鮮だ。子猫ってこんなにも動き回ったり、そして突然パタンって寝ちゃったりするんですね。

 一週間ずっと一緒にいてお店の仕事を教えてくれた五月さんが、子猫も子犬も人間の子供と同じよって。人間の子供も、幼稚園ぐらいまでは動くだけ動いて、電池が切れるみたいにパタッと寝ちゃったりするのよって。五月さんには子供がいないんだけれど、お姉さんたちのところにたくさん甥っ子と姪っ子がいるからわかるんだ。

「それで、禄朗」

「うん」

「ユイちゃんは完璧に仕事覚えたからね。あんたは仕込みや準備は何にもしなくていいからただそこに座ってたいやき焼くだけよ。下手に動き回って悪化させたらますます治りが悪くなるんだからね」

 立っていられない禄朗さんのために特注した高めのスツールに座って、くるりと回って禄朗さんが頷いた。

「了解。でも仕込みで重いもの」

「平気。あんたユイちゃんがオリンピック選手だったってことを忘れないようにね。射撃ったって全身鍛えていて鋼の身体なんだから。腕相撲したって、あんたと対を張るわよきっと」

 それは言い過ぎのような気がしますけれど。

「本当に大丈夫です」

 全然平気です。重い鍋だって何でも平気で持った。そもそもいつも一緒に走っていたときだって、まぁ若いせいもあるのだろうけれど、体力は私の方があったんですから。

〈たいやき波平〉は人気店。平日はさすがにないけれど、土日や休日には店の前にお客様が並ぶぐらいに人気があるんだ。ずっと休みにするわけにはいかない。

 禄朗さんが、静かに頷いて私を見る。

「本当にすまないなユイちゃん。よろしく頼む」

「任せておいてください」

 ずっとここに通っていたんだから、店のことは隅々までわかっていたし、この一週間で仕事も全部五月さんに仕込んでもらった。

 自分でいうのもなんですけれど、私は器用です。一度覚えさえすれば、何でもこなせる自信はあります。

「今日は一日ゆっくりして様子見なさいよ。お風呂とか入れるかどうかもちゃんとチェックして。ダメならうちの旦那と一緒に銭湯よ」

「わかってる」

「じゃあまぁ後は若い人同士でってことで。ユイちゃん本当によろしくね。何かあったらいつでも呼んで」

 五月さんの家、〈ゲームパンチ〉は〈花咲小路商店街〉の裏側。〈たいやき波平〉とは同じ中通りの角だから走ったら三十秒も掛からない。

 それを言ったら、お姉さんたちの家、〈すずき洋装店〉も〈佐東薬局〉も〈向田商店〉もどこでも走れば一分で着いてしまうんですけれど、子供がいなくて、そしてお店にたくさん従業員がいるから店に出なくてもいいのは五月さんだけ。

〈たいやき波平〉は宇部家の玄関が店舗です。

 店そのものは六畳ぐらいの広さしかなくて、たいやきを焼いている目の前に四人ぐらい座れる小さなカウンターと、二畳ほどの小上がりに座卓がひとつ。そこで日本茶を飲みながらたいやきを食べることができる。

 たいやきの他のメニューは、春と夏は〈あんみつ〉、秋と冬は田舎汁粉の〈ぜんざい〉。〈あんみつ〉は本当に春夏だけだけど〈ぜんざい〉は通年出せる。けれど、中に入るお餅は、白玉団子に変わったりする。

 店の中で食べていくのは、近所の人が多いみたいです。一尾税込み百五十円と安いので、子供たちだけでやってくることもあるし、そのまま子供たちはここで宿題とかやっていくこともあるって言っていました。

 店の奥の家は、これが狭い店内からは想像できないぐらいに奥まって広いんです。

 大体、この〈花咲小路商店街〉の中通りにあるお店は、奥に細長いお店や家が多い。それは、その昔の江戸時代の土地割りがそのまま残っているせいなんだって聞きました。

 宇部家も店の奥はすぐ居間になっていてその隣に台所にさらにお風呂にトイレ。居間の奥には部屋が二つあって、二階には小さく分けられた部屋が五つ。だから五人姉弟でも平気だったんだと思います。

 禄朗さんが松葉杖を突きながら居間に戻ろうとする。

「自分で行けないと困るから手伝わなくていいよ」

 練習練習って禄朗さんが言って、器用に片足しか使わないで店から居間に戻って、奥に歩いていく。元々運動神経がいいから平気だろうけれど、良過ぎて今回の怪我をしたんじゃないかと思うところも。

「家が広いから、禄朗さん一人じゃ淋しかったですか」

「淋しいとは思わなかったけれど。帰ってきたときには、それこそそのうちに猫や犬を飼おうかって思っていたんだけどね。そのままになっていたけど、とんでもない形でクルチェが来た」

 猫用じゃなくて、竹でできた篭の中で眠っているクルチェ。きっとこれちょうどいいわよって五月さんが置いたものなんだけど、本当にちょうどよかったみたい。

「サークルチェンジってどんなボールですか?」

 あぁ、って言いながらそこにあった野球のボールを手に取る。本当にこの家にはあちこちに野球の道具が置いてあるんだ。

 初めてお店に来たときに不思議に思いました。

 禄朗さんはもちろん野球大好きだけれど、草野球とかを今もしているわけじゃないです。やっているのは、アンパイアだけ。アンパイアにはバットもボールもミットも必要ないんだけれども、ここにはひとチーム分ぐらいの野球道具があるから。

「チェンジアップの一種なんだけどね。人差し指と親指でこうやってサークルを作って、中指と小指と手のひらでボールを握って投げる変化球だ。日本で投げている人は少ないんだよね」

 右手でボールを持ったけれど、本当は左利きの禄朗さん。その左の肩を怪我したらしい。それは高校三年生のとき。その怪我は粉砕骨折手前みたいな大怪我で、二度と左腕でボールを投げることができなくなった。ボールどころか、さよならと左腕を上げることさえ難しい。不幸中の幸いというか、夏の甲子園で初戦敗退した後のことだった。

 だから、野球はもうできない。

 その代わりに、アンパイアをやっている。アンパイアがピッチャーにボールを投げることがあるけれども、それだけはできるように右腕で投げる練習をした。

 本当に野球が大好きで、野球に関われるような仕事に就きたかったんだろうけど、何故か高校を出て警察学校に入って、警察官になった。それも、二年間で辞めてしまって、お母さんが亡くなった後の〈たいやき波平〉を継ぐために戻ってきた。

 どうして野球関係の仕事に就かなかったのか、何故警察官になったのか、そしてどうして二年間で辞めてしまったのか。まだ訊いたことはない。

 禄朗さんと知り合ってからはもう十年以上経つけれど、お付き合いを始めて半年も経っていません。禄朗さんについて知らないことは、まだたくさんあるんだ。

「さっき、病院に迎えに行くときに、稲垣さんが店の前を通ったんです。後から退院祝いを持ってくるって言ってました」

「稲垣が?」

 稲垣さん。花乃子さんと結婚して、〈花の店にらやま〉を一緒にやっている禄朗さんの同級生。

「そんなのいいのにどうしたんだ」

「なんか、九州にいる知り合いから美味しいものをたくさん貰ったので、日本酒と一緒に持ってくるって。後で電話するって言ってましたよ」

「へぇ」

「稲垣さんって、同級生なのに〈宇部さん〉ってさん付けですよね」

 いつもどうしてだろうって思っていた。あぁ、って禄朗さんが言って、少し何かを考えた。

「あのね、ユイちゃん」

「はい」

 禄朗さんが、居間の真ん中にある丸い大きなちゃぶ台に足を伸ばして座ったので、私も正面に座った。

 このレトロ感あふれるちゃぶ台は、禄朗さんのお祖父さん、波平さんの時代からあるんだって。五人姉弟はここに丸くなって座ってご飯を食べていたんだって聞いた。

「俺たちは、結婚の約束もした」

「はい」

「でもまだ君に話していないことが、たくさんあるんだ」

「たくさん」

 そう、って禄朗さんが頷く。

「稲垣とのこともそう。確かに高校の同級生なんだけど、俺は年はひとつ上なんだ。だからあいつはいまだにさん付けで呼んでくる」

 ひとつ上?

「俺は高校一年を二回やってるんだ。ダブった。留年だね」

 あ、そうだったんだ。それは本当に知りませんでした。

「で、どうしてダブったのかも知らなきゃ、ずっと疑問符が浮かぶだろうから話しておくけれど」

 一度、言葉を切って考えた。

「その話は誰も知らないことに繋がる話になる。友達はもちろん、親兄弟も。この世で誰一人知らない俺に関する話。それを話しておかないと、きっと君と結婚はできないと思う。だから、ここで話しておく。話そうとは思っていたけれども、どうしてこのタイミングでかというと、それは何故留年したかという話から繋がるものなんだ」

 禄朗さんは、生真面目なせいなのか、きちんとしようとしてときどき話が回りくどくなる傾向があります。

「留年は、それ自体はよくある話ですからその理由まで聞かなくてもいいですけれど、きちんと理由を説明するためには、その、誰にも話していない禄朗さんの秘密みたいなものを言わなきゃならないってことですか?」

「そういうこと。まぁ秘密というほど大げさじゃないんだけど、確かに今まで誰にも言わなかった、秘密にしていたことだ」

 生きていきゃ誰にだって秘密にしておきたいことのひとつや二つはできる、って教えてくれたのは仁太さんだった。私のコーチだった仁太さん。

 私にも、ある。でもそれは特に言わなくてもいいことだから、たとえ禄朗さんにでも言わない。

「言いたくなければ、言わなくてもいいですけれど」

「いや」

 きっぱり、と言います。

「話さなきゃならないことなんだ。もしも誰かと付き合うときには、結婚なんて考えたときには、話そうと思っていた。ひょっとしたらそれを告げることで、付き合いも結婚もできなくなるかもしれないようなことだから」

 そんなに。

 重大な秘密が?

「長くなる。まず留年の理由から話すと、高校一年のときだ。野球の県大会の決勝戦でさ。そこを勝てば代表として甲子園に行けるっていう試合だった」

 禄朗さんが甲子園に行ったのは三年生のとき。

「その試合は負けた。九回裏で相手校の攻撃。点差は一点差で俺たちが勝っていた。ツーアウトまでこぎつけたけれど、ピッチャーが崩れだしてなんだかんだで満塁になってしまった」

 九回裏ツーアウト満塁。

 どっちを応援していても、手に汗握る展開。

「禄朗さんはレギュラーでキャッチャーだったんですね?」

 そう、って頷いた。一年生からキャッチャーでレギュラーって凄い。

「必死でリードしたけれども、スリーボール、ツーストライクになってしまった。でも、あと一球で勝てる、ひとつのストライクで勝てるっていうところまで来たんだ。そして最後の渾身の球をバッターは見逃した。確かに際どいコースだったが、でも、ストライクだった。間違いなくストライク。この眼で見てこの手で取ったんだから本当に間違いない。それまでにも何度もこのコースで球審はストライクを告げていた。でも、そのときは一瞬迷った後に、ボールとコールしたんだ」

 フォアボール。押し出しの一点。

 それで同点になったんだ。

「試合は、負けた。ピッチャーは耐え切れなかった。サヨナラ負けだ。その試合の後に、おれはアンパイアを殴ったんだ」

 殴った?

「それで、俺は処分された。留年。一年ダブって、次の年に新入生で入ってきた稲垣と同じクラスになったんだよ」

 殴った。

 禄朗さんが、球審、アンパイアを。

 確かに真面目で堅物とまで言われている人だけど、決して暴力的なことをする人じゃないのに。

「理由があるんですね? ストライクだったのにボールと言われて、負けて悔しくて殴ったっていう単純なことじゃないんですね?」

 ゆっくりと、禄朗さんは頷いた。

「アンパイアは、嘘をついた」

「嘘」

「ストライクとわかっていたのに、そう判断したのにボールと告げた。どうして嘘をついたのかは今となってはわからない」

 嘘をついた。

 アンパイアが。

「俺は、人がその言葉に込めた嘘がわかるんだ。物心ついたときから、ずっとだ」

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