序章
重苦しい雲に覆われる王都の上を、鳥たちが飛んでいく。
まるでこれから起こる凶事から逃げ出すかのように。
大陸暦一七七四年、ゲルンヴィッテ王国、王都――。
否、その名はもう、ない。前年に南隣のマイス王国との間に勃発した戦は、王の死亡によるゲルンヴィッテの敗戦という形で幕を下ろした。
そして今まさにこれから、マイス軍によって一人の女の刑が執行されようとしていた。
「これより、ゲルンヴィッテ王国第二王女、フォルティーナ・メル・ゲルンヴィッテの絞首刑を執行する」
刑吏が声を響かせるこの場所は、旧ゲルンヴィッテ宮殿の庭園を望む広場だ。
集まった者たちの視線が、敗戦国の元王女へ集まる。
まだ十六歳という若さの彼女の白い肌は染み一つなく、後ろで縛られた両手は労働とは無縁の身分だと分かる滑らかさ。金の髪は色褪せることなく、曇どん天てんの下でもその輝きを損なっていなかった。
彼女の纏う灰色のドレスを風がはらりと揺らす。
刑吏がフォルティーナの背を押した。
彼女の足が絞首台へ続く三段の階段を踏むたびに、ギイという音が響く。
フォルティーナの首に縄がかけられた。
この刑の見届け役たちは執行人がレバーを引く時を静かに待つ。
ゲルンヴィッテ王の娘の足場が開き、自重によって縄が首に食い込み、気道を圧迫して死に至る瞬間を。ゲルンヴィッテ王の娘がこと切れるその時を。
「やれ」
金茶色の髪を持つ男が合図を出した。
執行人の男がレバーに手をかけ、動かしかけたその時――。
「待て! フォルティーナ姫の処刑を今すぐにやめろ!」
大きな声が広場を震わせた。
動揺と困惑、僅かな苛立ち。それらの感情が入り乱れる中に割って入ったのは、部下を引き連れた厳しい表情の青年。
フォルティーナの、ライラックにも似た赤がかった瞳が、その男の姿を映し出す。
濡れ羽色の髪を持ち、上等な衣服に身を包んだ、すらりとした体軀の青年であった。
ルートヴィヒ・ギデノルト。
この予期せぬ再会がきっかけとなり、娘――フォルティーナは運命を大きく変えることになる。
第1章
それは、時を遡ること一年、大陸暦一七七三年秋のこと。
この日、ゲルンヴィッテ王国の王都に立つ宮殿のさらに奥にひっそりと佇む離れの塔を訪れる者があった。金の髪をたなびかせながら娘は断りもなく扉を開ける。
「フォルティーナ、あなたってば相変わらず陰気な娘ね」
「何のご用でしょうか。お姉様」
一つ年上の姉ハイディーンの訪れに、窓辺で刺繡をしていたフォルティーナは顔を上げた。
「見てちょうだい。今度の夜会用にお父様がわたくしのために買ってくださった宝飾品が先ほど届けられたのよ。とっても素敵でしょう?」
喜びに溢れた声を出しながらハイディーンがその場でくるりと回った。
金とルビーで作られた首飾りと耳飾り。それから腕輪と指輪をフォルティーナに見せびらかしながら彼女はふふんと胸を張る。
「ふふふ。素敵なパリュールでしょう。王都で、いいえ、この国で一番と名高い工房で作らせたのよ」
同じ意匠で作られた複数の種類の宝飾品から成る、パリュールと呼ばれるセットが世間では流行っているのだそうだ。
「わたくしにとってもよく似合っているでしょう。今度、戦勝を祝う夜会があるの。我がゲルンヴィッテ軍がパルゼアノン砦での戦いで勝利を収めたのですって」
上機嫌で語るハイディーンを見つめながらフォルティーナは先日父が話していた内容を思い出していた。
ゲルンヴィッテの国王である父が夏の手前に始めた南の隣国マイスとの領土を巡る戦において優勢なのだと誇っていたことを。
「あなたにも、戦勝会の招待状は届いていて?」
「いいえ」
フォルティーナは首を小さく左右へ動かした。
すると、ハイディーンが唇の両端を持ち上げる。
「まあ、仮にも第二王女だというのに夜会への出席も認められないだなんて、フォルティーナって本当に可哀そうな子。でも、仕方がないわね。あなたは何をさせても不器用で無作法で、容姿だってわたくしに比べたら劣っているもの。お父様が隠したがるのも無理はないわ」
ハイディーンは妹を見下ろし、くすくすと笑いながら夜会がどれほど煌びやかで楽しくて刺激に満ちているのかを語り始める。
外の世界よりも、フォルティーナには気にかかることがあった。
「あの……。お父様はこちらへお姉様がいらしていることをご存じなのですか?」
そう口にした途端に彼女の顔から色が消えた。
数拍置いたのち、ハイディーンが口を開きかけようとしたのと同時に、バタンと扉を開く無遠慮な音が室内に響いた。
「ハイディーン。おまえは妹の住まう離れで何をしている?」
威圧的な声を響かせながらずかずかと入室してきたのは、茶色にも見える濃い金髪を後ろに撫でつけた壮年の男だ。
男は姉妹のすぐ側までやってきたのち、鋭い目つきで二人を見下ろした。
「お父様……」
言いつけを破った自覚があるのだろう。彼女はそれから逃れるように視線を彷徨わせる。
この国の王であり二人の父でもある男はハイディーンのパリュールに目を留めた。そして不機嫌な声で続ける。
「何度も言っておるだろう。フォルティーナに外の知識を、余計なことを吹き込む真似をするな。それでこの娘が外の世界に興味を持ったらどうしてくれるのだ」
「お父様がこの出来損ないを隠したがっているのは分かっています。ですから、わたくしはこの子にわたくしとの扱いの差を示そうとしたのですわ。今度の戦勝を祝う夜会だって、皆を労うのはわたくしの役目なのだと」
ハイディーンはゲルンヴィッテ王の関心を引こうとするようにまくし立てた。
一方彼は表情を崩さぬまま娘を見下ろす。
「おまえの美しさは余を含めたこの国の者たちが分かっておる」
「本当ですの、お父様」
ハイディーンがパッと表情を明るくさせた。
「もちろんだ。宮殿のサロンへ行け。今日もおまえと話がしたいと貴族たちが詰めかけておるぞ」
ほんの僅かに声を和らげたゲルンヴィッテ王の言葉に気をよくしたのか、ハイディーンが喜色に染まった声を出す。
「まあ! 仕方のない人たちですわね。おおかた今度の夜会で踊る順番について、わたくしから色よい返事を引き出したいのですわ。お父様、こたびの勝利お祝い申し上げますわ。この調子でいけば聖ハイスマール帝国の再興も夢ではありませんわね」
「ようやくここまで来たのだ。あとはマイス王国を手中に収めたのちにギデノルト王国を支配すれば、かの帝国が瓦解したのちに多くの王たちが夢見た聖ハイスマール帝国の再興が叶うのだ!」
ゲルンヴィッテ王が薄青の瞳を爛々と輝かせた。
それは彼の悲願。否、かの帝国が瓦解したあとの時代の、数多の王たちの夢であった。
今から約百二十年前のこと。大陸北西部に広大な領土を有していた聖ハイスマール帝国が瓦解した。
政を担う中枢の権力闘争と継承問題、帝国内の領邦国家の独立など、複数の要因が絡み合い起こった争いの結果であった。
その後、旧帝国は複数の王国や公国、自治都市に分裂し、各々が平和に国や都市を治めていた。
しかし、世代交代が進むにつれ、彼らはかつて存在した帝国の再興に想いを馳せるようになった。
一つの国が隣国に侵入すると、聖ハイスマール帝国の再興という夢に取りつかれた王たちによる領土争いが周辺各国へ飛び火した。
この百二十年の間に停戦と再戦を繰り返し、旧聖ハイスマール帝国領土内の勢力図は幾度も書き換えられていた。
それは、時が流れフォルティーナが生を受けた現代においても変わりはなく。
――聖ハイスマール帝国の再興をこの手で。新たな帝国の初代皇帝の座を余のものに――
先王が叶えることのできなかった夢を余の代で、との野望に燃えるゲルンヴィッテ王は、
旧帝国の支配地域を己が領土として組み込んでいった。
「マイス王国もじきに我がゲルンヴィッテ王国の軍門に下りましょう。そうなればお父様の悲願に一歩近付きますわ」
ハイディーンが軽やかな声で父王を褒めたたえる。
「ああ、そうだとも。次の夜会は前祝いだ」
機嫌をよくしたゲルンヴィッテ王は「さあ、おまえはもう行け」とハイディーンに退室を促した。
扉をくぐる直前、ハイディーンが問いかける。
「お父様。今夜の晩餐はご一緒できまして?」
「今日は特に公用は入っておらぬ。いつもの通りフォルティーナと食事する予定だ」
ゲルンヴィッテ王が返した途端に、ハイディーンは柳眉を鋭く持ち上げフォルティーナを睨みつけた。しかし父に逆らう気はないようで大人しく出ていった。
侍従が扉が閉めれば父と娘、二人きりの空間となった。
「さて、フォルティーナよ。分かっておるな」
「はい。わたしはお姉様とは違い、表に出る価値などございません」
フォルティーナはいつものように父が望む答えを口にする。これ以外は許されていなかった。もちろん口答えも。
「おまえはあれとは違う。おまえの価値は、余の側に仕えること以外、何もない。外へ興味など持つな。おまえの世界は余が全てだ。余のことだけを考えろ」
「存じています、お父様」
今日もフォルティーナは従順に頷く。
「フォルティーナよ。おまえは他の王族よりも劣っている」
「はい」
「だが、おまえの不出来さを憐れんだ古の神は、おまえに祝福をくださった。分かっておるな、フォルティーナ。おまえは余のために祝福を使うべく生かされているのだ。それが劣ったおまえの役目であり、生きる意味だ」
「はい。お父様」
物心ついた頃から何十回、何百回と言われ続けてきた言葉。今日もフォルティーナは従順に頷いた。
きっと、この塔を見張る誰かがハイディーンの訪れを王に知らせたのだ。慌てて塔を訪れたゲルンヴィッテ王はいつもと同じように娘を言葉で縛りつけたあと去っていった。
再び静寂が訪れる。止めていた針を動かせば、布の上に鮮やかな花が生まれる。
宮殿の奥に隠れ住むフォルティーナのもとを訪れる者はほぼいない。
健康維持のため塔の周囲を散歩する以外、外へ出ることもない。
まだほんの小さな頃からこのような暮らしだった。
ゲルンヴィッテ王はフォルティーナが彼以外の人間に愛着を持つことをことさら厭っていた。物心つく前から世話係は数か月に一度の頻度で入れ替わった。母や姉からも隔絶された。周囲の者は王の怒りを恐れ、フォルティーナを遠巻きにする。必要以上に声をかけない。乳母も侍女も雑役婦も教師も、皆よそよそしい態度を貫いた。
ハイディーンとフォルティーナは同じ母の胎から生まれた。
にもかかわらず、フォルティーナだけが宮殿の奥から一歩も外へ出ることを許されていない。
幼い頃、尋ねた。「どうしてわたしだけみんなと一緒に暮らせないの?」と。
ぐすぐすと泣く娘に、ゲルンヴィッテ王は先ほどと同じ言葉を繰り返した。「おまえは他の王族よりも劣っている」「おまえは余のために生き、祝福の力を使わねばならないのだ」と。
フォルティーナを生んだ王妃は、姉妹を隔てなく育てたいと夫に必死に訴えたそうだ。
しかし、もとは寒村の生まれで貴族の家の養女となったのちに王妃として迎え入れられた女の訴えにゲルンヴィッテ王が耳を貸すことはなかった。
王妃である母は人目を忍んではフォルティーナに会いに来て「わたしの血のせいであなたに悲しい思いをさせてしまってごめんなさい」と謝った。
優しかった母は、フォルティーナが八歳になった頃に姿を見せなくなった。
三か月が過ぎた頃、知らされた。病で死んだのだと。
「わたしとお姉様はあまり似ていない……」
夕暮れ時の窓辺に立ったフォルティーナはガラスに映し出された己の姿を見つめた。
太陽の光を紡いだような輝く金の髪とライラックのような淡い赤紫色の瞳は姉妹に共通している。目鼻立ちがはっきりしたハイディーンの顔立ちに比べると、フォルティーナは薄ぼんやりした印象である。
姉妹にはもう一つ違いがあった。
フォルティーナにのみ、左の足首に痣があった。それこそが古の神の祝福の証なのだそうだ。出来損ないの自分が唯一授かった奇跡の力。王女として父王の役に立てないフォルティーナに課せられた、たった一つの役割。
そのためにフォルティーナは生かされていた。
ゲルンヴィッテ王はフォルティーナが少しでも宮殿の外への好奇心を示せば、何に影響を受けたのだと激しく詰問した。原因が人であれば罰せられ、物であれば壊されたり隠されたりした。いつの頃からかフォルティーナは外への興味を表に出すことをやめた。
それでも暇つぶしのためにと裁縫道具や聖ハイスマール帝国に関わる歴史書や古典が与えられたのだから幸せと言えよう。
人の寄りつかぬ離れの塔へ届く情報はあまりに少なく、フォルティーナは変わらぬ日々を繰り返していた。
そのような中、小さな変化があった。ハイディーンの訪れがぷつりと途絶えたのだ。
それから少し経過したある日のこと、武装したゲルンヴィッテ王が姿を見せた。
「おまえを迎えに来た。余と共に来い」
「来いとは……どちらに?」
「おまえは余の言う通りにしていればいいのだ」
今まで頑なに外へ出そうとしなかったのに一体どうしたというのだろう。訝しんだが、理由は比較的早く知ることができた。
――国境線を突破されて以降、我が軍は戦線を後退させられたままだ――
――このままでは王都陥落も現実味を帯びてくるのでは――
――静かに。そのような物騒なことを口にするな――
――しかし、マイス王国沿いの領主たちが彼らと密約を交わしたという噂もあるではな
いか――
マイス王国との戦いの前線が王都へと迫りつつあったのだ。
出陣したゲルンヴィッテ王に連れられ、生まれて初めて宮殿の外に出たフォルティーナの耳に家臣や軍人たちが噂する声が届いた。
当初猛攻を仕掛けていたゲルンヴィッテ王国は、しかしマイス王国に反撃され、次第に押し返されるようになっていった。
マイスとの開戦からすでに一年。劣勢に立たされてもなおゲルンヴィッテ王は、旧聖ハイスマール帝国再興の夢に取りつかれていた。
それは砦の四方をマイス王国軍に包囲されても同じであった。
敗戦の空気が色濃く漂う砦の最奥の間に立てこもりながらも、ゲルンヴィッテ王は「まだだ。余は諦めるものか」という台詞を繰り返していた。
そして運命が分かたれた日。
その日の詳細について、フォルティーナはあまり覚えていなかった。
立てこもっている部屋まで届いた、何かを壊す鈍い音。外を見張る歩哨の切迫した報告。砦が破られたことへの動揺。そこかしこであがる嘆きの声と悲鳴。
混乱が続いた。人々が忙しなく動いた。ゲルンヴィッテ王の怒号を耳が拾った。事ここに至ってもまだ負けを認めぬ王に、誰かが悲鳴じみた声で嘆願した。
それを彼は切り捨てた。その男の胸を剣で貫いて、あっさりと。
「余の盾となれ! マイス軍を一人でも多く討ち取れ!」
そう叫ぶ王に家臣の一人が叫んだ。
「もう付き合いきれませぬ!」
それがゲルンヴィッテを崩壊へと導く最後の一手であったのだろう。
マイス軍が差し迫るさなか、フォルティーナは家臣たちによって王から引き離された。
「フォルティーナを置いていけ! あれは余のものだ!」
ゲルンヴィッテ王の怒号が響いた。しかし、彼の命令に耳を貸す者は誰もいなかった。否、それどころではなかった。砦が破られたのだから。
家臣らの目的は、第二王女を差し出すことによるマイス軍への命乞い。
ゲルンヴィッテ王の死を告げられたのは、その翌日のことであった。
父の死を知らされた翌日、フォルティーナは宮殿近くの建物へ移送された。
収容されたのは、ひんやりとした石壁に囲まれた粗末な部屋だ。
――劣っているおまえを憐れんだ女神と余がおまえに慈悲をくれてやったおかげで、何不自由のない生活が送れているのだ――
硬い寝台の上でうずくまるフォルティーナの頭の中に父の声が何度も蘇る。
肝心な時に役に立つことができなかった。己は彼の役に立つためだけに生かされていたというのに、一番大事な時に側にいることができなかった。
(どうして……。どうして何の力も発現しなかったの?)
フォルティーナは何度も問うた。
人も、神も、誰も何も答えてくれない。
父は言った。おまえには古の時代の神――女の神だったと言い伝えられている――から授かった祝福の印があるのだと。
母は言った。陛下は妄信しているけれど最後に祝福の力らしきものが発現したのは、二百年以上も前だと聞いた。そのようなもの、おとぎ話と変わりはしないと。
(わたしには確かに痣があるけれど……。お父様の死に気付くことができなかった。これまで一度だって祝福の力の使い方について女神から啓示を受けたこともなかった)
家臣たちによってゲルンヴィッテ王から引き離されたフォルティーナは祈り続けた。王の身の安全を。どうか無事でいてくれと。
しかし、その願いも虚しく、ゲルンヴィッテ王は命を散らした。
王の侍従だった一人のゲルンヴィッテ人がフォルティーナのもとを訪れ、その最期について語ったのだから間違いない。
世間では古い神はとっくに忘れ去られていた。
ゲルンヴィッテを含む大陸の多くの国々では、そのあとの時代に広まった神を信じている。教会は、この神のみを唯一とし崇敬するよう説いている。
父もフォルティーナも、教会にて洗礼を受けた。
今よりもっと前の時代、教会の教えを守らない者たちは異端と見なされ厳罰に処せられていたそうだ。
塔を訪れる教師から教えられる教義とゲルンヴィッテ王の言動。混乱したフォルティーナは一度尋ねたことがあった。どちらを信じればいいのかと。
――古い神を追い払ったのが今の教会だ。どちらも存在すると思っておけばいい――
それは教会を軽んじる発言だったが、幼いフォルティーナはそういうものなのかと折り合いをつけた。
聖ハイスマール帝国の再興という野望に取りつかれたゲルンヴィッテ王はいつ古い言い伝えを知ったのだろう。
きっと奇跡を起こせるなら、縋る相手は何でもよかったのだろう。
――陛下は、おとぎ話に魅せられ、祝福を授けられたいとし子の家系だと言い伝えられているわたしを王都へ連れ帰った。祝福の印を持つ子をわたしに産ませるために――
王妃である母は、王や侍従たちの目を盗んではフォルティーナに会いに来た。
迷信を信じるゲルンヴィッテ王のせいで娘が宮殿の奥に閉じ込められていることを彼女は憐れんでいた。
――もしも本当にそんな力があったのだとしても……陛下のやり方で祝福の力が発現するだなんて、わたしには思えない。陛下のやり方はむしろ祝福を遠ざけている。そう何度も進言したのに……――
母は何度もフォルティーナの頭を撫でてくれた。そしてこの血のせいで娘が不自由な思いをしていることを悲しんだ。祝福など現実ではあり得ないと考えていたのだ。
「お母様の方が……正しかったのかしら─……」
ぽつりと零れた呟きは、誰にも聞かれることなく冷たい壁に吸い込まれた。
真実は分からない。
胸の中に生まれたのは罪悪感だった。何の価値もない己が何不自由なく暮らすことができたのは、ゲルンヴィッテ王から与えられた使命があったからだ。
それを果たすことができなかったくせに、今もフォルティーナはのうのうと生きている。
「でも……きっと、わたしもすぐにお父様の側に行くことができるはず」
この身はマイス軍のもとにある。かの国もまた旧聖ハイスマール帝国の再興を掲げているのだと、ゲルンヴィッテ王は忌々しげに話していた。
それから、帝国を復活させるにあたっては各王家の直系の人間が邪魔になるのだとも。王権を剝ぎ取るだけでは心許ないのだそうだ。
おそらくマイス王家も同じ考えを持っているに違いない。王家の血を絶つために、フォルティーナに死んだゲルンヴィッテ王と同じ場所へ行けと命じるに決まっている。
「だったら……それで、いい」
フォルティーナはそう呟いたのち目をつむった。
変化は、その二日後に訪れた。
フォルティーナが収容された部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
再度尋問が行われるのだろうか。捕らわれた時にハイディーンの行方などを問われたが、何も答えることができなかった。
ずかずかと入り込んできたのは三人の男たちだ。まだ若く、軍服を纏っている。
そのうちの一人が口を開いた。
「これがゲルンヴィッテ王の二番目の娘か。ふうん。まあまあ見られる顔じゃないか。ハイディーン姫の絵姿からは気位の高さが見てとれたが……こっちの方は従順そうだ」
真ん中の薄茶色の髪の男はフォルティーナを上から下まで眺めた。二十を少し超えたであろうその青年のにたりとした目つきに、フォルティーナは頰を無意識に強張らせた。
「ゲルンヴィッテ王がことさら大事に囲っていたと聞いている。何しろ、負け戦の最後の悪あがきの場所にまで連れていったのだからな」
「あの王はこの娘のことを、幸運の娘だと言いふらしていたのだそうですよ」
別の男がせせら笑いながら言い添えた。
「はっ。幸運の娘ねえ……」
薄茶の髪の男も同じように笑いながらフォルティーナが座り込む寝台のすぐ前へやってきた。そしてフォルティーナの腕を摑み、自身へ向け強く引き寄せる。
「おまえはどんな幸運を持っている?」
「……」
沈黙で返してしまう。今の自分には何もないのだから。
「ちっ。話に聞く通り、何の反応も示さない女だ。それともお高くとまっているのか? その涼しい顔がいつまで保つか見物だな」
その言葉と同時に薄茶の髪の男はフォルティーナを後ろへ押し倒した。
寝台の上に仰向けになった。こちらを見下ろす男の二つの瞳の中に、得体の知れないほの暗い光を見つけた。
それがどのような類のものなのか、フォルティーナは知る由もない。
「さあ、お楽しみといこうじゃないか」
「……よろしいのですか?」
「俺はこたびの戦でアルヌーフ殿下のお役に立ったんだ。味見くらい許されるさ」
別の男の遠慮がちな声かけに、寝台に上がった男が機嫌よく答えた。
「おまえらは両腕を押さえろ」
命じられた男二人が寝台の両端に位置取った。フォルティーナは磔にされるかのように両腕を押さえつけられた。
男三人の視線に晒される。得体の知れぬ視線に本能が戦慄いた。
拘束から逃れようと腕を動かそうとするもぴくりともしない。何が始まるのかも分からないのに頭の奥で警鐘が鳴り響く。
足を動かそうとした矢先、寝台の上に身を乗せた薄茶の髪の男がフォルティーナのスカートの裾をまくり上げる。
「やっ……」
唇を戦慄かせるフォルティーナを見下ろす男が舌なめずりをする。
「ふうん……。いい反応じゃないか」
男は断りもなくフォルティーナの白い足を撫で回す。
「……っ!」
唇は固まり何も発せないが、心の中で本能が拒絶の言葉を叫ぶ。
怖い。嫌だ。やめて。放して。
フォルティーナは愕然とした。
死を受け入れたはずなのに。どうして怖いと感じるの。そんなの許されるはずないのに、震える心を止めることができない。
「いや……やめ……て……」
唇から漏れるのは恐怖に慄く拒絶の言葉。
「さあ、楽しもうぜ。お姫様」
衣服の胸元が乱雑に解かれ、ビリリと布を引き裂く音がこだました。
歯がカタカタと鳴った。
「い……や……」
これから何が行われるのか全く想像もつかないのに、男三人の下卑た笑いに体が震える。
怖い。怖い。怖い――。
この男たちから逃げなければ取り返しのつかないことになる。
その時――。
「何をしている!」
突如大きな男の声が聞こえた。その直後、片方の腕から圧迫感が消えたと思ったら、ガタンガタンという何かが床の上に落とされるような音を耳が拾い、思わず目をつむった。
次に目を開けた時、フォルティーナは体の自由を取り戻していた。
体の上に覆いかぶさっていた男の姿もなかった。
動悸が止まらないフォルティーナの頭上から軽蔑を隠しもしない男の声が聞こえてくる。
「マイス軍は随分と下劣な集団に成り下がったのだな」
「なっ─……んだ、貴様は。俺がアルデンス公爵家の人間だと知っていての狼藉か?」
「おまえの方こそ言葉と態度に気をつけろ! ギデノルト王国のルートヴィヒ王太子殿下の御前であるぞ!」
「ま……さか……!」
誰かが愕然とした声を出した。
「おまえたち、この男たちを連れていけ」
それは人に命じることに慣れた声だった。
三人の男たちはルートヴィヒ王太子の名前に観念したのか抵抗しなかった。
やがて室内はもとの静けさに包まれた。
ようやく動悸が収まったフォルティーナはゆっくりと体を起こした。
「あの……」
黒髪の青年と目が合ったものの、すぐに彼は顔を横に向けてしまう。
彼は「これを羽織れ」と言いながら今しがたまで纏っていた暗い色の上着を差し出してきた。その声から、この青年こそがルートヴィヒなのだと理解する。
「私の上着で悪いが、ないよりはましだ」
フォルティーナは自分の体を見下ろした。胸元の生地がビリリと破かれ、下着が見えている。ありがたく受け取った上着を羽織り胸元を隠すために釦を留めた。
「あ……り……がとう……ござい……ます」
恐怖の名残かまだ唇が上手く動いてくれず、お礼の言葉はぎこちないものになってしまった。
ルートヴィヒが再度フォルティーナに向き直る。
十六歳のフォルティーナより五、六歳年上であろうまだ若い青年だった。
黒髪は薄暗い室内であっても艶めいており、奥二重の瞳は叡智を宿したような涼やかさを醸し出していた。
彼は瞳に怒りの色を湛え「まさか軍の規範となるべき将校階級の男たちがあのような下劣さを有しているとは思わなかった」と吐き捨て、声を和らげて続けた。
「私はギデノルト王の息子ルートヴィヒだ。中立の立場からこたびの戦の戦後処理に立ち会ってほしいと要請を受けて、先日からゲルンヴィッテに滞在している。今日は捕虜の待遇について抜き打ち査察を行ったのだが……間に合ってよかった」
フォルティーナはぼんやりと彼の顔を見上げた。
「今回のような卑劣な暴力が二度と起こらないようにさせる。ひとまず部屋を移った方がいい。同じ部屋では気が休まらないだろう」
その眼差しと声はまるで冬の寒さに凍え固まるフォルティーナを溶かそうとするかのようだった。そのような譬えが思い浮かぶほどに心が冷えきっていたのだ。
身の安全が戻ったからこそフォルティーナは自分の心の内を分析し、生き汚さを痛感することとなった。
(次はきちんと死を受け入れる……)
ゲルンヴィッテ王はフォルティーナが生き残ったことに立腹しているだろうから。
フォルティーナに絞首刑が言い渡されたのは、その翌日のことであった。
*
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■著者プロフィール
高岡未来(たかおか・みらい)
2021年、第6回カクヨムWeb小説コンテスト恋愛部門 “特別賞”と “CW賞”を同時受賞しデビュー。『黒狼王と白銀の贄姫』はシリーズ累計30万部を突破している。他の著作に『チョコレート聖女は第二王子に甘く庇護&溺愛される 異世界トリップしたら作ったアレが万能薬でした』『このたび三食昼寝付きの契約花嫁になりました 魔法使いの嫁は簡単なお仕事です』『わたしの処女をもらってもらったその後。』など。