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  4. 第3話 303井上涼太
第3回

第3話 303井上涼太

 井上涼太いのうえりょうたはマンションに帰ったとき、入口に人影が見えるといったん通り過ぎる。
 疲れていても、トイレに行きたくても、今日のように夏の日射しで汗をいていても、そうせずにいられない。相手がだれかを認識するより先に目をらし、肌身離さず持ち歩いているスポーツバッグを体で隠すようにしながら、気づかれないように、自分も気づいていないという体裁ていさいを保てるように、目新しいものもない近所の景色に目を配るふりをしながら、建物の周辺をぐるりと巡る。
 ただ、今日はその願掛けも届かなかった。いつものようにきっちり三分かけてボワティエメゾンのエントランス前に戻っても、人影は同じ場所から動いていない。うそだろ、と思いつつ、やっと目を凝らす。定期清掃の日だったのか扉は開放され、さえぎるものはなにもない。そこで初めて、相手がマンションの住人や宅配業者ではなく、同じ中学の夏服を着た女子生徒であることに気がついた。
 訪問先が出ないのか、両手を脇の下に収納するように深く腕を組み、仁王におう立ちでインターホンを睨みつけている。涼太の同級生の女子たちはたいてい髪を厚くらして輪郭りんかくをごまかしているのに、その子は茶色っぽい髪をすべてうなじの後ろでまとめ、耳も頬も全開にしていた。だから、視線にも気づきやすかったのかもしれない。涼太がもう一度逃げるより前に、その目がふっと涼太の存在を捉える。
 ねえ。
 はっきりと涼太に向けて呼びかけ、彼女はあごをインターホンにしゃくった。
 無視することもできず、涼太はスポーツバッグを担ぎ直した。しぶしぶエントランスに入りながら、できるだけ感情を殺して「無理」と言う。
「え?」
「住人のふりして入り込む奴がいるから、ここ、人に開けちゃいけないって……」
 言われてる、と続ける言葉は、自然と尻すぼみになる。開けちゃいけないんだ、と断言する強い意志はないが、言われてるから、とただ命令に甘んじていることを、同級生か後輩だろう相手にさらけ出すのもはばかられた。
 彼女は眉をひそめて溜息をついた。あきれたようなその表情を見て、うちの母親そっくりだ、と涼太は思う。見た目は似ていないのに。女の人はいつ、こういう溜息のつき方を覚えるんだろう。おまえがすべて悪いのにそれすらわからないなんて、と、こちらが状況を理解するより先に罪悪感を植えつけてくるような。
「違う。押して、呼び出して」
 え、と、今度は涼太が言う番だった。
「403号室。それくらいできるでしょ?」
 それこそ母親を彷彿ほうふつとさせる有無を言わせぬ口調に、気がつけば体が動いていた。
 番号に続けて呼び出しボタンを押し、音が鳴ると同時にカメラ前の場所を譲る。相変わらず腕を組んだまま、彼女はそこにふたたび仁王立ちになった。それくらいできるでしょ、という台詞がそのまま相手にも当てはまると涼太が気がついたときにはもう、オートロックが解除され、相手はマンション内へと足を進めていた。
 自動ドアが閉まるのを見届けてから、涼太は自分の鍵を取り出し、もう一度オートロックを解除した。集合ポストの中身を確認し、めぼしいものを選り分ける。今度こそ魔除けが効くよう時間をかけたつもりだったが、エレベーターホールではさっき見送ったはずの相手が腕を組んだまま立っていた。なんで今日に限ってこんな遅いんだよ、と思って見上げた階数表示は「5」から動いておらず、ホールボタンも点灯していない。
「四階」
 なにも思わないわけではないが、騒ぐのも面倒だった。涼太は無言でエレベーターを呼び、先に乗り込んだ相手の代わりに「4」を押した。続けて「3」を押そうとしたところで、女子生徒は階数表示を見たまま言った。
「一緒に来て」
「……なんで?」
 こういうとき他の同級生であれば、きっと「は?」と返事をするのだろう。余計なすきを見せずに面倒事を切り捨てる便利な一言。涼太だってそうしたかった。だが、母親がなによりその返事を嫌い、幼いころから反抗心が芽生えるたびにその方向性さえ矯正きょうせいされつづけてきた涼太には、そのたった一文字を口にすることがどうしてもできなかった。
「いいから来て」
「だからなんで」
「あんた写真部でしょ」
 驚いてスポーツバッグを体で隠した涼太を、彼女はちらっと見て鼻で笑った。
「さんざん好き勝手に撮ってんだから、たまには恩返ししてくれてもいいじゃん」
 強引に下りなかった自分の愚鈍ぐどんを呪いながら、涼太は生まれたときから住んでいるマンションの、三階以外の廊下に初めて降りた。
 腕を組んだままエレベーターを出て右に曲がった彼女は、廊下を進んで403号室の前で立ち止まるとふたたび涼太に顎をしゃくった。呼び出せ、ということらしい。しぶしぶ従うと、自宅と同じ音が室内から聞こえて涼太をえもいわれぬ気持ちにさせた。ほどなく扉が開き、女の人が顔を出す。ゴミ捨て場や集合ポストの近辺で見た気がする顔だが、当然、ここに住んでいることは初めて知った。
 じっと見つめられて、涼太はとっさに「こんにちは」と頭を下げる。厳密に出た音は「ちは」だったが、それでも同じマンションの大人に対しては「気分を害されたら生きていけない」という、ほとんど強迫観念に近い気持ちが染みついている。こんにちは、と静かに女性は答え、同じトーンで「高宮たかみやさん」と続けた。
「この方は?」
「同じ中学の子。ここに住んでるみたい」
「約束が違います。あなたがひとりで来る条件で、私はここを提供しています」
「あたしは約束してない。そっちがさくちゃんと勝手に示し合わせたんじゃん」
「勝手ではなく石川いしかわさんの配慮です。とくに男子と一緒なら、ここは貸せません」
「男子ったってこれだよ?」
 悪しざまな流れ弾にしっかり傷つく涼太をよそに、相手は「どれでも……どなたでも、です」と返す。挨拶くらいしかしたことないけど、なんか変な人だなと涼太は思った。気を遣っているつもりなら、まず「失礼なことを言うな」じゃないのか。
「なにが心配なの。なに想像してんの? あたしのことそんな目で見てるんだ。しれっとした顔して案外エロいんだね、おばさん」
 からかうような口調の奥底に、ひやりとしたものを感じて涼太は息をむ。思わずそちらを見ると「高宮さん」と呼ばれた女子は、写真部でしょ、と涼太に指摘したときと同じ笑顔を、403号室の女性に向けていた。
 きっと同世代の女子なら、容姿に興味がないふうを装っていても、一度はこの顔に憧れるのだろう。そう、同じ写真部以外の異性と縁遠い涼太にすらわかった。どこにも間延びがなく、それでいて余白が適切にあって構図が完成されている。そこに配置されたパーツの形もひとつひとつが過不足なく活きていて、これさえなければ、あるいはあれば、という部分が見当たらない。だからこそ、専用の印画紙に現像した銀塩ぎんえん写真みたいに、微妙な表情だけでいやな感じがはっきりと浮き上がる。
 事情は呑み込めないが、ひとまず剣呑けんのんな空気だけは伝わってきた。耐えかねて、おれはこれで、と逃げ出そうとした矢先、403号室の女性がさっきと変わらない声で答えた。
「大人は、子供を守るものなんです。被害者にも加害者にもならないように」
 涼太の隣で、はっと息を呑む音がした。
「先にルールを作るのは、あなどっているからではありません。相手がどんな人間でも、私情を挟まず無条件に守るためです。それが不満なら、あなたがた子供は相応の理由を言い、時には差し出したくないものも差し出す必要があります」
 女性は押し黙る「高宮さん」に向かって、静かに玄関の扉を開け放ちながら続けた。
「この答えでも不満なら、残念ながら、ここにいてもらうことはできません」
 その台詞を聞き終わるより前に、どん、と涼太の体は隣から押しのけられた。
 セーラー服を着た背中がるように靴を脱ぎ、ポニーテールを揺らしながらずかずかと廊下を進んでいく。あまりの傍若無人ぼうじゃくぶじんな態度に涼太のほうがいたたまれなくなったが、女の人は気分を害した様子もなくそれを見送り、涼太に向き直って頭を下げた。
「すみません、門前払いのようなことをして」
「いえ……あの、おれ、もともとそんなつもりじゃなくて。どんなって言われるとあれなんですけど、とにかく、なんか……」
 言えば言うほどしどろもどろになる涼太に、相手の口角が少し緩んだ。笑顔というほどではないが、敵意はないことは伝わってきた。
「わかります。そんなつもりであれば、もっと格好をつけるでしょうから」
 ややもすると皮肉にとれる台詞だったが、なぜか涼太には、女の人がこちらを安心させようとしてくれていることが感じ取れた。少なくともこのマンションの住人から、こんな丁重な口のき方をされたことはない。廊下の向こう、涼太の自宅と同じ場所にあるのだろう洗面所から、ざあざあと水音が聞こえてくる。あんなに水を流したらうちなら怒られるな、とそちらに気を取られていた涼太は、目の前の女性がいったんその場を離れたことを見落としていた。
「あの」
「はいっ!」
 無意識に部屋を覗き込んでいたことを自覚して、思わず囚人のように直立する。その人は急に大声を出した涼太に一瞬きょとんとしてから、これ、と手を出した。
「これ、もしご興味があれば」
 そう言って差し出されたのは、パッケージに入ったままの使い切りカメラだった。
 その簡易的な仕組みから、写真好きにとってはレンズ付きフィルムという名称のほうが馴染み深い。デジカメやスマホの浸透によって衰退したものの、いまはデザインが凝ったものもあるし、現に欲しがっていた女子も写真部にはいた。ただ、涼太が実物を見たのは初めてだ。その人の手にあるものはパッケージも簡素で、レトロブームに便乗して再販されたものではなく、滅びかけていた時期の生き残りという風情がどことなくあった。
「不要なら無理なさらず。古い物ですし」
「え、あの……なんでおれ、あ、ぼくに」
「写真、お好きですよね」
 そう言われた瞬間、引きかけていた汗がふたたびぶわっと吹き出してきた。
 さっきまで自分がこの人の部屋を覗いていたのに、知らないあいだに今度は自分が覗かれていたような心地がする。黙って冷や汗を掻きながらも拒否する勇気もなく、涼太はおそるおそる、人の手から初めてえさをついばむ小鳥のように、使い切りカメラを受け取った。
 礼を言うより先に、まっすぐな視線が閉まる扉に遮られてゆく。そのさらに向こう側から、廊下を部屋の奥へ向かう夏服の後ろ姿が見えた。小さな頭から垂れ下がる長い髪が、仔馬というより不機嫌な犬のしっぽのように揺れる。それが見えなくなってから、少し間を置いて、ゆっくりと鍵が回る音がした。

 そっと開けたつもりでも立て付けの悪い引き戸は存在を主張し、涼太は視線を一身に浴びる羽目になった。ホワイトボードの前で振り向いたのは今年から来た若い国語の先生で、ひとまずほっとする。これが塾長なら、きっと遅刻した理由まで見抜かれただろう。
 早く座って、と前を向き直る先生にぺこりと頭を下げ、三席並びの長机が並ぶ教室を見渡す。後列の席は軒並み埋まっていた。厳密には一席なら残っている机もあるが、教室を行きかう塾生に蹴られた経験上、できればスポーツバッグを床に置きたくない。静かに途方に暮れていると、窓際の後ろから三番目、中央に座って机をひとつ独占していた江田えだがさっと端に移り、机に散らかしていた文房具やテキストを自分のほうに搔き集めた。
「ぁいっすー」
 四十五分の授業のうち残っていた三十分を受け終わり、今日はここまで、と先生が言った直後、ちょうどチャイムや物音に紛れるタイミングを見計らって江田がにわかに口走った。油断していた涼太が急いで向き直ると、案の定、にやにやと笑っている。
「え、もっかいもっかい」
「ぁいっすー」
「バニラアイス?」
「三倍酢!」
 あーっと突っ伏す涼太に、負けー、と江田は勝ち誇ってみせた。
 挨拶するときバレないように別のことを言う、なにを言ったか当てたら勝ち、気づかずにスルーしたりわからなかったりしたら負け。いま涼太たちの中学で流行っている、一種のダウトに近いこの遊びが江田はなぜか異様に得意だ。小学校で涼太と出会って以来、一度もゲームと名のつくもので頭角を現したことなどなかったくせに、これであっさりクラスの派手めな女子たちのお気に入りになってしまった。そうなると必然的に、彼女たちの気を引きたい派手めな男子たちに引っ張り込まれる。江田が涼太とこれまでどおり話すのは、いまや写真部の部室かこの塾にいるあいだだけだ。
「涼太なんで遅れたん今日、写真屋?」
「や、えと、自主練」
「ガチ? この暑いのによーやるわ。いまさら目新しいもん撮れねーじゃんどうせ」
 いままでなら「それな」くらいの相槌あいづちを打ったはずなのに、新しい交友関係にかまけて部室に顔を出す頻度が減った江田に言われると無性に心がささくれた。自虐するぶんにはいいが、よそからつつかれるのは嫌だ。
「ほんまケチよなーうちの学校、せめて合宿くらいやってくれよなあ!」
 涼太の不機嫌を感じ取った様子もなく、江田は背もたれに豪快にひっくり返る。この鈍感さにはあきれる反面、こちらの波に動じないという点では接しやすくもあった。
 ガン、と苛立たしげな音がした。
 江田と涼太は同時に口をつぐみ、双子の鳩のようにそちらに首を向ける。最前列の席で椅子の脚を鳴らしながら立ち上がったのは、見慣れない女子生徒だった。テキストを抱えながら振り向いてこちらを睨みつけるその顔から、涼太は急いで視線を逸らしてうつむく。
 ぉぇーん、と間延びした声で江田が言い、それが実は「ごめん」ではなく「公園」であることに涼太は気づいたが、その場で指摘する勇気はなかった。二敗目だ、とフェアプレイの精神でカウントしながら、先生を追って去っていく背中を見届けてつぶやく。
「なんかさ、人多くね」
 涼太たちの通う学習塾は、小さな二階建てのビルに入っている。教室は三つしかなく、かといって少数精鋭という雰囲気でもない。おおざっぱに成績でクラスを分けているらしいが、とくに競わされるでもなく、自己申告で別のクラスに移ることも検討してもらえるという緩さだ。涼太たち三年生相手にも、受験勉強というより学校の補習のような講義形式で、中学は不登校気味の生徒がここには顔を出すこともよくあるらしい。
 涼太自身は勉強で困った経験があまりないが、それでも週二回、比較的苦手な国語と英語の四十五分授業を二コマずつ受けている。いまは夏休みだし、長期休みだけ集中講習に参加する生徒も珍しくない。ただそれを差し引いても、いつもと雰囲気が違う気がする。
 当然「それな」か「そう?」くらいの軽い返事があると思いきや、江田は珍しく視線を泳がせて少し口ごもった。いぶかる涼太を「ちょいこっち」と促して、教室、そしていったん塾の外に出る。そのまま共用トイレに向かうのかと思いきや、廊下の端に来るといきなりぴたっと立ち止まり、周囲にだれもいないことを確認してから小声で言った。
「テンコーセーだよ、あっちからの」
「あっち?」
 江田が耳打ちしてきたのは、この塾とは駅を挟んで反対側にある、大手の進学塾の名前だった。数年前にそこができて以来この塾の過疎かそ化も進み、一時は廃業寸前に追い込まれたらしい。あちらは都内どころか全国の名門高校、そして一流大学への高い進学率をうたい文句にしていて、講師も一流大学を卒業した優秀な人材だけを複数在籍させている、と、ポスティングされていたビラで涼太も見た。ただ、そのぶん厳しいクラス分けや課題の多さで悪名も高く、実際、親になかば無理やりそこに入れられてから写真部の活動を続けられなくなった奴も知っている。
「ヘンタイいたらしーよ、あっちの講師に。自分のお気に入りの生徒、盗撮してたのがバレて、そっちに通ってた女子がうちに流れてきてんだって」
「え、そんなんニュースとかならんの」
「騒ぎになるとさ、授業できなくなるじゃん。開成とか浦高とか学校別の対策やってくれるの、この辺だとあっこくらいしかねーもん。いまの時期に夏季講習やってくんなくなったら終わりだし、男子はわりとあっちに残ってんだって。つか、親が残らせてる?」
 涼太が絶句していると、廊下の反対側から足音と笑い声が聞こえてきた。
 あたりが静かなぶん、妙に存在感のあるその声の主は三人の男子で、真ん中にいるのは同じ中学でサッカー部の有野ありのだった。休み時間にコンビニに行って戻ってきたらしい彼はこちらに、おもに江田に向かって「よっすー」と手を挙げ、江田も「っすー」と返す。これは「チュロス」だ、と涼太はわかったが、有野は気づく様子もなかった。江田の実力からすれば明らかに接待プレイなのに、と鼻白む。
「なー江田、そっちのクラスに高宮いる?」
「おらんけど」
「そっかー、絶対来ると思ったのにな。あいつもあっちの塾に通ってたべ」
 江田と有野の会話が弾むかたわらで、有野の連れふたりと涼太は互いに目を合わせることもなく棒立ちになる。有野はこの塾だと江田や涼太より下のクラスだが、スポーツ推薦が決まっているのでそもそもやる気が薄く、ここにもほぼ休憩に来ているらしい。それでいて、いわゆる落ちこぼれに紛れて浮く様子もなく、こうやって行く先々で取り巻きを作っている。
「まだ向こうに通ってんのかもね」
「それはない、あいつオキニだったらしいし」
「芸能志望だとさ、慣れてるからそういうのもうなんとも思わないんかもよ」
「あれガチなんかな、被害に遭った女子から声かけられて『ブスの妄想に巻き込むんじゃねえよ』って怒鳴ったって」
「うわガチ? 激ヤバじゃん」
「いや噂な、噂。でも、もし本当ならやべーよな。そりゃこっちにも来られないわー」
 本当なら、という仮の話になぜそこまで感情を乗せられるのか、涼太にはわからない。有野は悪い奴ではない。むしろ一般的には気のいい奴なのだろう。ただ、有野と話しているときの江田があまり好きになれない。いつもの気の抜けた感じがなくなり、ドラマの子役みたいにすかした口調になる。だがいまは、それよりも引っかかるものがあった。
「あいつ都内の芸能科志望らしいし、塾通わずにどうするつもりなんだろうな」
「部活で推薦狙うとか?」
「高宮ってダンス部だろー? あのレベルでいまさら推薦は無理ゲーじゃね」
「あ」
 思わず漏れた声のせいで、その場の視線が初めて涼太のほうに集まった。
 江田がすばやく涼太に話しかけてくる。江田にとって、友達を有野のような「上位」の男子に「ハマらせてあげる」のは最大の善意らしい。
「涼太知らん? C組に高宮っているじゃん、高宮玲々れいれい。去年から芸能事務所入って雑誌とかにも載って……てかおい、ダンス部だったらおまえ、写真部で撮ってんじゃね?」
 聞き覚え、どころか今朝の話だ。あの妙な女子生徒が、たしか403号室の女の人から「高宮さん」と呼ばれていた。
「え、ガチ? 写真部?」
 涼太が答えるより先に、有野が江田を押しのけるようにこちらに身を乗り出してくる。
「なー高宮の写真持ってない? あったら一枚くんね、アイスくらいおごるし」
「いや……」
「有野っちー無理無理! こいつ俺と違ってガチめに写真やってっから」
 そう言いながら江田は涼太の首に腕を巻きつけ、反発を示しかけた頭の動きを封じる。最近江田が「ガチ」をよく使うのは、有野の影響だったのか、と腑に落ちた。
「こいつ、高校で写真の全国大会行くのが夢でさ、この暑いのに毎日朝から学校行って撮影の自主練してんの。文化祭の展示だって毎年ガチで一位狙ってるし、グラビア見てもF値とか構図としか頭にねーから。撮ってたところで高宮の顔もわかんないんじゃね」
「やっべー、ある意味ヘンタイじゃん!」
 言い方は悪しざまだが、江田なりにかばっているらしいので涼太はおとなしく無言を貫く。有野は妙に成績がいいせいでおとなしいくせに絡みにくい涼太に「写真のヘンタイ」というわかりやすいキャラができて安心したのか、とたんになれなれしく顔を寄せてきた。
「文化祭の展示って、単なる来場客の人気投票だろ。高宮撮っときゃ一位なんか楽勝で取れるって。お互いウィンウィンってことでさ、な?」
 涼太が思わず顔を上げたところで、塾の入口の扉が開き、塾長が顔を覗かせた。
 その場にいた全員の背筋が伸びる。塾長はおばさんとおばあさんの中間ぐらいの小柄な女性だが、親や学校の先生の厳しさとはまた違う、独特の雰囲気がある人だ。休み時間といっても節度は守りなさいね、と言う塾長に、はーい、と気が抜けたように有野が答えた。訳知り顔で涼太の肩をぽんと叩いてから、取り巻きたちを連れて一足先に戻っていく。
「井上くん、授業に遅れたそうですね」
「あ……すみません」
「注意するように。一度損ねた信頼は、取り返しがつきませんから」
 やっぱりバレたか、と観念して頭を下げる涼太に、塾長はそう言って戻っていった。
「遅刻くらいで大げさじゃね?」
 扉が閉まった瞬間に江田が言い、涼太はそれを黙殺する。江田がいるという理由で詳細を話さなかった塾長は、おそらく「信頼」に足る大人なのだろう。それより涼太は、肩に残った有野の手の感触が不快だった。いじれる奴、自分より下の奴、という烙印を押すようなあの手つき。有野がだれにでも気安いのは親切心や正義感からではなく、むしろ威嚇に近いことに涼太はうすうす気づいていた。
 あいつにやる写真なんか、一枚もない。たとえいけすかない女の子の写真であっても、絶対に渡してやらない。江田と教室に戻りながら、涼太は強くそう決意した。

 マンションに入ろうとした矢先に通知音が響き、涼太は立ち止まってポケットに手を入れる。ただ、反射的にそうしながら、それが自分のスマホから鳴ったものではないとわかっていた。この音に反応して、慌ただしくスマホを取り出す江田の姿を何度か見たことがある。
 ねえ、と背後から声をかけられ、振り返ったときには目の前にレンズがあった。
 高宮玲々が、こちらに向けてスマホを掲げている。一見インカメラで自撮りをしているような姿勢だが、女子はたいてい自撮りのとき、もっと腕を斜め上に伸ばして小顔を強調するはずだ。はっと気づいた涼太が腕で顔を覆おうとした瞬間、シャッターの開閉を模した効果音が響いた。
「いま、おれ撮った?」
 うん、とこちらを見もせず即答して、高宮玲々は今度こそ自撮りの角度で腕を掲げる。またシャッター音を響かせたスマホに涼太が思わず手を伸ばすと、彼女は汚いものが迫ってきたように飛びのいてこちらを睨んだ。一瞬くじけそうになったが、今回ばかりは怒りを燃やしつづけなければいけない理由がある。彼女が接写したのは涼太の顔、とくに下半分。一番のコンプレックスである成長期で伸びてきた顎と、そこに群生する吹き出物だ。
「それアップするやつだろ」
「え、BeRealやってんの? 意外」
「やってないけど」
「だよね、そーゆータイプじゃないもん。SNSやってる奴のこととかバカにしてそう」
「そんな話してない。撮るなら許可とれよ」
「こんな至近距離でだれかなんてわかんないし、そもそも言ったら許可しないでしょ。てか、盗撮魔の写真部に言われたくない」
 高宮玲々はスマホをポケットにしまい、また深く腕を組み直す。両手を脇の下に入れる独特な腕組みは、映りのいい見え方を研究し尽くしていそうなそのたたずまいに妙に不似合いだった。正直に言ってもう関わりたくないが、どうしても聞き捨てならない。
「こないだからなに言ってんの? おれら、盗撮なんかしたことないけど」
「よく言う。放課後とか校内我が物顔でうろうろしてさ、部活中でもお構いなしに入ってきてばしゃばしゃ撮ってくじゃん」
「許可、とってるよ。顧問通じて話してる。そっちが知らないだけだろ。それに相手がだれでも、撮りたいと思ったら先に訊くし」
「でも、待ってるんでしょ。許可とりましたからねって顔して、じーっとさ。相手の隠してるものがこぼれ落ちてくるまで。なんかやだなってこっちが思っても、言えないような空気を罠みたいに張って。で、油断した瞬間を狙って、食い尽くすみたいに襲ってくる――」
「おまえさあ!」
 涼太は怒るのが苦手で、怒鳴った経験がほとんどない。それなのに、予想に反して声は裏返ることもなく、父親譲りの尖った喉仏から放たれた低い怒声は野太く響いて高宮玲々の薄笑いを初めて崩した。そして目の前が真っ赤になっていた涼太は、自分が声を上げる直前にエントランスが内側から開き、中から人が出てきたことに気づかなかった。
「玲ちゃん、原田はらださん出かけたとこ……」
 言いながらその女性がイヤホンを外したのは、初めて涼太が人を恫喝どうかつしたタイミングと同時だった。彼女は目を見開いてから、意外と機敏に二人の間に割って入り、高宮を背に庇うようにしながら涼太を睨みつけた。
「この子に用ですか」
「……あ、いや」
「このマンションの子だよね。これ以上なにかするなら、ご家族に連絡しますけど」
 403号室の女性と同じく、何度か見たことのある顔だった。ただ、あの人より若い。挨拶以外で話したことはないが、少なくとも感じの悪い対応はされた記憶がなかった。
 涼太は血の気が引くのを感じる。どんなに気をつけても、生まれたときから同じ場所に住んでいれば気が緩むことはある。たった一回の油断をこうして捕まえられただけで、いままでの努力が台無しになる。そのことがわかっていたから、ずっとなるべく目立たないようここでは人目を避けてきたのに――
あおちゃん、ちがうから」
 そう吐き捨てたのは、涼太ではなかった。
 さっきまで毒づいていたはずの高宮玲々が、いつのまにか今度は涼太を背中に庇うように立ち位置を変え、厳重にしまいこんでいた手で涼太の手首を掴みながら、女性を睨みつけていた。
「こいつにそんな度胸、あるわけないじゃん。あたしがちょっかいかけてやっただけ」
「でも」
「やめてくれる? そういうのまじだるい」
 高宮は相手の返事も待たず、涼太の腕を引いて開いていた自動ドアの中へ走り込む。引っ張られながら涼太は思わず振り向いたが、女性はその場にきょとんとした顔で立ち尽くしたままで、二人を追いかけてはこなかった。
「……いまの人、知り合い?」
「おばさんの友達なんだって」
「おばさんって……」
「なんでああいうときさ、みんな、話も訊かずに悪いのは男のほうって思うんだろ」
 だるいね、と言いながら、彼女はエレベーターを自分で呼んだ。指先ではなく、人差し指の第二関節でノックするようなボタンの押し方だった。エレベーターに乗り込むと同じ指で「4」を押し、慌てて涼太が「3」に伸ばしかけた指を勢いよく掴んで止める。手ぇつめた、とそっけなく吐き捨て、また涼太の手首を引きながら四階に下りた。
「……普通、本当にそうだからじゃないの」
「違うよ。弱そうなのを庇ったほうが気持ちいいし、もし間違っててもリスク少ないし、後で恩売って、ほらあのとき助けてやっただろって言いやすいからだよ」
「恩って……さっきの、女の人じゃん」
「女なら余計にそう。借りを作ったら終わり。同じ女じゃんって一生つきまとわれる」
 大人が中学生に恩を売って、さほど得があるとは思えない。だがその憎々しげな口調の中に、単なる考えすぎで一蹴できない並々ならぬ敵意と、切実な危機感を涼太は感じ取った。
「まじだるいわ。あたし大事な時期なの。いまの志望校入る前提で進んでる話もある。変な目で見られて内申に影響出たらどうしてくれんだよ、ブスやババアと馴れ合う暇ないっての」
 塾の廊下で、江田と有野が口にした話を涼太は思い出す。盗撮被害に遭った同級生を、ブスの妄想に巻き込むなと罵倒したという噂。あのときはそんな話を楽しげにすること自体に嫌悪感を抱いたものの、正直なところ、高宮ならやりかねない気もする。
 そんな相手とこれ以上関われば、それこそこっちまで変な目で見られるかもしれない。にもかかわらず、涼太は彼女が自分の手首を握ったまま403号室を勝手に開け、玄関に入るのを止められなかった。
「ちょ待っ、だめってこないだ」
「平気、出かけてるみたいだし。あんたがなんも言わなきゃバレないよ」
「や、そーゆー問題じゃ」
「あたし厄介者だから。なにしでかすか、わかんないから。知ってて引き受けたくせに、目を離したほうが悪い」
 そう言いながら靴を脱ぐ高宮の顔は、後ろにいる涼太からは見えなかった。
 ここで待ってて、と言い残し、彼女は小走りで洗面所に向かう。強い水音を聞きながら、涼太はそわそわと周囲を見回した。間取りはちょうど真下にある涼太の自宅、303号室と一緒だった。だからこそ、余計に入り込んではいけない世界に来てしまった気がする。
「ちょっとじっとして」
 玄関に戻ってきた高宮は、手に文房具のような物体を握っていた。キャップを外すと、その裏にくっついた綿棒のような形のチップが引っ張り出される。先端についたベージュの液体を手の甲で落とした後、彼女はチップを涼太の顎先、ニキビの上でとんとんと弾ませた。
「一分、触らないで。すぐ伸ばすと取れる」
 いつになく真剣な口調に、涼太は直立不動になる。きっちり時間を確認してから、彼女は自分の指先で涼太の顎を軽く触った。それが終わると数歩引いていってこちらを真剣に見つめ、また近づいてきて同じ作業をもう一度繰り返す。
「いいんじゃない」
 そう言って渡された手鏡を涼太が覗き込むと、痛々しく膿んで存在を主張していた赤い点はおおよそ肌と同化していた。
「このコンシーラー、あたしには濃いの。あんた男子にしては白いからちょうどいいね。日焼け止めでいいから先に下地使って。落とすときは絶対クレンジングね」
「……なんで?」
「なんでって、ちゃんと落とさないと余計荒れるじゃん」
「や、そうじゃなくて……」
「気になるんでしょ、さっき撮ったときここ隠してたし。え、それともなに、男が化粧なんてーとかいまどき言う? そういうヤバい思想の人?」
「違うけど、でも、校則とか」
「わかるわけないじゃん、校則作るような大人に、うちらの気持ちなんか」
 それは涼太の年代にとって、むしろ口にするのを躊躇ちゅうちょしてしまうくらい陳腐な葛藤だった。そんな台詞をまっすぐ口にする相手に、涼太はあきれると同時に少し感銘かんめいも受ける。
「あたし肌は丈夫だけど、ダイエットもそう。調べても『中学生は成長ホルモン云々うんぬん』的な上から目線の意見しか出てこない。おまえら、子供時代が終わってこの地獄、二度と経験しなくていいから安心してんだろって思わない? いま役に立てねえなら黙ってろよ」
 コンシーラーを突き出される。古いカメラといい、よく変なものをもらう夏休みだ。躊躇しながらも、涼太の視線はコンシーラーではなく、それを握りしめる高宮の手に向かった。顔や腕と比べるときめが粗く、何か所か皮ががれて血がにじんでいる。爪を噛んだり、ささくれを剥いたりする癖のある同級生は珍しくない。ただ、美しい顔や豊かな髪とは不釣り合いなそれが、涼太にはなぜか、彼女がその手で実際に地獄を掻き分けている証のように見えた。
「おれ、なんかできることある」
「え、べつにそういうのいいんだけど」
「後々恩売られんのやだし、借り返したい」
「借りって……いやそれ……お詫びだし」
 いままでが嘘のように、高宮は小声で口走る。自分が悪くなくても謝ってしまいがちな涼太からすれば、ごめんって言うよりこっちのほうがよっぽど手間なのにな、と不思議だった。なにか言うとまた喧嘩になりそうで、ただ黙ってじっと待っていると、高宮はしばらくまごついた後、根負けしたように溜息をついた。
「じゃ、あたしの写真撮ってよ。今度ダンス部の公演があるんだ」
「……嫌いなんじゃなかったの、写真部」
「そろそろ早起きして朝練行くのえてきたし、盛れてる写真モチベにしたい」
「おれ、盛るとかそういうの無理だよ」
「は? なにかっこつけてんの、写真は真実を映す鏡とか言いたいわけ?」
「そんなのできないよ。ただ、いいって思ったものが写るだけ……」
 説明すると本当に「かっこつけて」いるように思えて、涼太は急いで言葉を足した。
「なんだろ……たとえばニキビがある人がいたら、隠したいだろうって気持ちはわかる。おれもそうだから。それでも、いいと思ったら撮っちゃう。写真を頼まれて消すことはできても、撮ることを我慢はできない……」
 やっぱり盗撮魔だ、と罵倒されることを覚悟して涼太の声は小さくなったが、意外にも高宮は黙ったまま、真顔で涼太の目を見て耳を傾けている。
「相手を撮るっていうよりか、撮りたいものを、相手の力を借りて撮る、感じ、かもしれない。相手が望む姿だけ撮るのはたぶん、無理っていうか。それより、自分がいいと思う瞬間が来たら……」
「コンシーラーひっぺがしてでも、撮る?」
 訊き返す声に、悪意は感じられなかった。だから、涼太も素直に考えを伝えた。
「それは、ない。と思う。そこまでは、したくない。でも、納得いくまで待って、何枚も撮る……そういう意味ではたしかに、盗んでるのかもしれない……」
「いいよ」
 とうとうこぼれ落ちた自白は、げ足をとられるどころか、間髪を容れず許された。
「あんたが本当に良いと思ったら、撮ってもいいよ」
 高宮は三和土たたきの上から涼太を見ている。独特な腕組みを解いたその姿に、涼太は初めてカメラマンとして心が動くのを感じた。好き嫌いは別として、たぶんいま、カメラを手にしていたらシャッターを切っていた。

 写真部の生徒が撮影した作品は、部員が自宅でも閲覧できるよう、HDDとクラウドを使って共有される。保存の基準はまちまちで、江田のように全データを見境なく放り込む部員もいれば、事前に選別する部員もいる。ただ涼太も含め、たいてい自信作はRAWで保存して自分でバックアップをとるし、画面越しで作品の良し悪しが判断できないのは写真部員ならわかることだから、その膨大ぼうだいなデータをあらためて見返す機会はあまりない。
 だから、帰宅した涼太がクラウドにアクセスしたのは、写真の出来ではなく事実確認のためだった。日付で分けられたディレクトリを去年の文化祭までさかのぼれば、すべての部員が展示に使った写真のデータ一覧が表示される。ただでさえ窮屈きゅうくつなスマホの中でさらに縮小されたアイコンでも、なにが撮られているか雰囲気くらいなら確認できた。記憶の片隅に引っかかっていた一枚を、拡大表示する。
 ステージ上で踊る女子生徒を、ほとんど貼りつくように下アングルから捉えた一枚。ターンした瞬間なのか髪が風をはらみ、隙間に入り込んだ光が粒状になっている。衣装はシンプルなTシャツだが、動きを見せるためにサイズが小さめで、どうしても多少は隙間から肌が覗く。首筋や二の腕はみずから発光しているように白く輝き、実際に見えている面積以上の存在感があった。掲げた手の先に塗ったネイルの赤も、肌との対比でより鮮やかに見える。
 被写体がアイドルならSNSで「奇跡の一枚」と軽く話題になりそうだし、部内の講評会でも評価が高かった作品だ。現に撮影者の先輩は、文化祭でこれを展示したことで一般客による人気投票の一位を獲得した。ただ、涼太は最初からこの写真が嫌だった。これ見よがしに光を使った演出があざといし、なにより、全体的に下心を感じる。被写体そのものというよりは、被写体を利用して自分の欲望を満たそうという下心――違いはうまく説明できないし、すべての写真がそうだと言われたらそれまでだが、少なくとも涼太はその撮り方に嫌悪感を覚えた。展示された際の「躍動」というセンスのないタイトルも、その気持ち悪さを助長した。
 だからこの写真が高評価を得たとき、自分の信じてきたものを否定されたような、世界中から置いてけぼりを食らったような気持ちになった。そしてそれだけいまいましく、ある意味では思い入れを持って眺めていたにもかかわらず、はっきりと顔が写っているはずの被写体が高宮玲々だったことは、本人を目の前にしても思い出せなかった。
 涼太が、自分が撮った相手を覚えていないことを自覚したのは、中学で写真部に入ってしばらく経ったころだった。小三で父親の古いコンデジを譲り受けてしばらくは、家族や友達以外を撮る機会がなかったからかもしれない。人物写真は事前の許可取りが鉄則なので、その都度、被写体とはコミュニケーションが生じる。それなのに撮影を終え、完成した作品を見たら満足して、どんな人だったか忘れてしまう。後々、被写体本人に遭遇そうぐうしても脳が反応しない。それどころか自覚がないだけで、別れた直後にはもうリセットされているのかもしれない。
 どうやら、それは人の撮った写真でも同じだったらしい。高宮の言葉について考えていたら、ふいに有野にかけられた不快な台詞が頭をよぎり、もしかして、と思った。それだって、具体的に記憶がよみがえったわけではなく予感があったにすぎない。先天的に人の顔を覚えられない脳の病気もあるらしく、一時期自分なりに調べたことがあったが、学校や塾のクラスメートの顔は普通に見分けられるし、その病気の人に欠けているという、表情で相手の機嫌を察する能力は無駄に高いと自負している。別段生活で困ったことはないし、違いそうだと自己診断とはいえ確信したときには、安心すると同時に落胆した。
 好きなだけ撮ったらどうでもよくなるなんて、本当に泥棒みたいじゃないか。
「りょーたぁ、めしだってー」
 涼太の部屋はボワティエメゾン303号室の一番奥、物置用だろう場所を無理やり子供部屋にした六畳間だった。そのせいか出入り口がスライド式の引き戸で、こうして両親、とくに父にはしょっちゅう抵抗なく開け放たれてしまう。せめてもの不満の表明として、沈黙したまま布団の上で体を起こしてスマホを伏せる涼太をよそに、父親は散らかっている涼太の机の上に目を留め「お、懐かしいな、写ルンです」とはしゃいだ声を上げた。
「……え、何?」
 反抗を忘れて聞き返してしまった涼太に、父は机の上を指さす。その指の先には403号室の玄関先でもらった、未開封のレンズ付きフィルムがあった。
「父さんが学生のときは、これでお互い撮り合ってたもんだよ。デジカメやスマホと違って現像するまで写りがわかんないから、集合写真とかも目をつぶったまま載ってる奴がいたりして。でも、その一期一会の感じがいいんだな」
 涼太は純粋に反応に困って黙り込む。だれかが不本意な撮られ方をした作品が残されるのが「一期一会」なんて、少し美化しすぎじゃないだろうか。
「昔は学校行事のたびに、カメラマンが撮影した写真が廊下にずらーっと掲示されてさ。それを見て、自分で欲しい写真を注文してたんだ。好きな女子の写真も、そこでこっそり手に入れたりなんかして」
「こっそり? 本人も知らずに?」
「そう。青春だったなあ」
「盗撮じゃん。だれか知らない奴が自分の写真持ってるとか、きもいじゃん」
「おいおい、人の甘酸っぱい思い出に水差すなよー。いまの子供なんか、SNSでみんな自撮りしてるだろ、そっちのほうがよっぽどだれが見るかわかんないだろうに。そのわりにコンプラに雁字搦がんじがらめになって、なんつーか、窮屈でかわいそうだよな」
 典型的な令和の子供批判に、涼太の口はまた閉ざされる。なにを思ったか父がにやっと笑って「写真持ってたってなにするってわけでもないよ、変なこと考えんな」と余計なことを言うせいで、汚い手で内側からまさぐられたようにかっと頬が熱くなった。タイミングよく母親の声がかかって父は出ていったが、涼太はついていく気になれず、引き戸が閉まると同時に枕を頭で殴るようにまた横になった。
 SNSにアップする写真は、撮った本人がそう見られたいと納得した上で発信される。いわば完成品だ。事前の確認もできなかったものを、無許可で全校生徒に向けて掲示されるなんてぞっとする。ましてやだれかがこっそり入手する可能性まであるなど、涼太からすれば犯罪に近い。
 甘酸っぱいとかきもすぎ。そんなんだから、写真の神様に愛されなかったんだよ。
 我ながらくだらない台詞を頭の中で吐き捨てる。実際は父が写真の神様に愛されなかったからこそ、子供には不相応なデジカメが涼太のもとに下がってきたわけだが。
「そういえば、最近また来てるのね。401号室の親戚の子」
 三人で夕食をとるとき、母は基本的に父にだけ話しかける。反抗期の息子をつついても面倒なだけだと心得ているらしい。その「わかっています」という顔がしゃくではあるが、父のように土足で踏み込んでこられるよりましなので、普段は涼太も極力存在を消している。だから思わず「いち?」と口を挟んでしまったとき、母は意外そうに目をみはった。
「そう、401。石川さんとこの姪御さん」
「あのでかい犬飼ってる奥さんちかあ」
 父の補足を聞いて、母が部屋番号を間違えたわけではないことを察する。401号室の住人の名前など知らなかったが、でかい犬を飼っている女性といえばひとりしかいない。
「うちのマンション、小型犬限定なのにね。奥さんの親戚がこの辺りの教育長かなにかでみんな強く出られないみたい。ここを買うお金だって、実家に出してもらったらしいし」
「いかにも苦労知らずのお嬢さんって感じだもんな」
「お嬢さんったって四十過ぎだから、苦労知らずで歳とりそびれてるだけでしょ。子供もいないし優雅なもんね。いっつもうさんくさいくらいにこにこして、愛想振り撒いて。旦那さんが単身赴任で寂しいんだろうけど」
 ただ同じ建物に住んでいるだけの他人の事情がこうまで筒抜けになり、しかも悪しざまに言われているという事実が、涼太の喉をぎゅっと締め上げる。その恐怖感は、隠し撮りされた写真が全校生徒に向けて掲示される世界を想像したときのものに似ていた。
「うちの食堂のパートさんとこの子がね、あそこの姪御さんと同じ塾なの。そっちでも、芸能活動やってるとかで特別扱いされてたみたい。涼太と同い年だったはずだけど、あんなふうに遊んでる暇あるのかしら」
「ま、息抜きも必要なんじゃないの。涼太もお盆くらいは塾休めるんだろ?」
 なるべく話を耳にしないよう無理やりご飯を掻き込んでいた涼太は、急に矛先を向けられてむせ返る。ああもう、と言いながら涼太のコップに麦茶を注ぐ母の手は、夏場にもかかわらず荒れていた。去年パートで大学食堂の皿洗いを始めて以来、母は手だけが目に見えて急激に老け込んだ。ハンドクリームもゴム手袋も無意味らしく、視界に入るたびにぎょっとする。
「そうだ涼太、長野にあれ持っていけよ、写ルンです。映える写真が撮れるぞ」
「写ルンですって、あの使い捨ての?」
「そう。じいちゃんばあちゃんも、孫に写真撮ってもらえるなんていちばん喜ぶんじゃないか? ゆかちゃんも今年で四歳だし――」
「カメラは持ってかない」
 つっけんどんに涼太が吐き捨てると、父は口をつぐむ。代わりに溜息をついたのは母だった。ふだんは決して阿吽あうんの呼吸とは思えないのに、こういうときばかり、二個セットのおもちゃみたいに息がぴったりなのだ。
「いいじゃないの、長野に工藤くどうさんいないし。昔のことでしょ。あんなおばあさんに怒られたくらいでいつまでうじうじしてるわけ?」
 涼太は箸を茶椀の上に強く置き、椅子を背中で押して立ち上がった。
 食べ終えた食器を重ね、流しに持って行く。こんなときでも、江田が家ではそうだと言うように「うるせえババア」と怒鳴ったり、せめて自分の食べたものくらい片付けなさいという言いつけを無視したりできない。そのことが、まるで自分の怒りなどとるに足らないと認めているようで無性に腹立たしかった。現に、両親は息子の態度をとがめるでもなく普通に話しつづけている。
「なんでうちのマンション、犬だのよその子だのを面倒見る余裕のある人が多いのかな」
「多いって石川さんとこだけだろ」
「忘れたの? 前、問題になったじゃない。ほら、入江いりえさんたちが理事長だったときに、不良みたいな子供が集団で出入りして、そのときも工藤さんが……」
 成績も悪くなく、素行不良でもない涼太は、大人からすれば「安心できるいい子」なのかもしれない。ただ、こういうときは自分自身のことを、支柱にがんじがらめにされ、太陽に向かって枝を伸ばせなくなった植物のように感じる。
 たしかに涼太は写真を始めたころ、三階に住むおばあさんを無断で撮って怒られたことがある。以来、このマンションで写真を撮っていないのは事実だ。ただ、父の実家にカメラを持っていきたくないのはそれが理由じゃない。そこまで弱いと決めつけられるのは心外だった。
 家族の写真が、涼太にはうまく撮れない。思い出を懐かしんだり、成長を記録したり、そういう手段としての写真を撮ることに、どうしても興味が持てない。祖父母やいとこが嫌いなわけではないし、いつも苛立たされる親のことだって、憎いというほどではない。他の人の家族写真に心が動くこともある。ただ、単純に自分は、被写体として、家族にシャッターを押す指が動かないだけだ。
 それとこれとは別。自分の大事なものは、自分だけのものにしたい。それだけの主張がまるで、なにか人として重大な欠陥があるように受け取られてしまう。
 洗い物を終え、急いで部屋に戻ると、涼太は机の上に放置していた「うつるんです」を手に取った。403号室の女の人にこれをもらったときは、古代生物の化石を贈られたような気持ちだった。それなのに、いまや時代錯誤な盗撮の道具にしか見えない。このうちでなにかを出しっぱなしにしてろくなことはない、と何度目ともつかない反省をしつつ、涼太はそれをスポーツバッグのサイドポケットにすっぽりと隠すようにねじ込んだ。
 父からぽいとカメラだけを渡された小学生のころ、涼太は撮影のマナーなど当然なにも知らなかった。エントランスから出てきたおばあさんに向かってシャッターを切り、爆発音のような怒号と同時に耳を引っ張られて初めて、無許可で他人を撮るのがいけないことだと知った。カメラだけは奪われまいと胸に抱きしめた仕草が余計に癪にさわったらしく、家まで怒鳴り込まれたのを覚えている。
 一時間近く頭を下げさせられたにもかかわらず、母は「気をつけなさいね」と言ったきり、涼太をほぼ叱らなかった。代わりにその夜、なにも知らずに帰った父がこっぴどく咎められるのを布団の中で聞くことになった。できるだけ耳をふさいでいたので詳しいことはわからないが、あのばあさんうるさいから、とか、子供のしたことだし気にすんなよ、とか、いつもの調子でかわそうとする父に、母が吐き捨てた台詞だけはまだ脳裏に焼きついている。
 ――そりゃ、あなたはほとんど帰らないからいいでしょうけどね。こんな小さな世界で一度でも嫌な印象を持たれたら、この先、育ちが悪いってイメージに苦しめられるのは涼太なの。そしてね、あの子がそうなったとき、育て方が悪いって白い目で見られるのは私なの。
 盗撮魔と高宮に呼ばれて怒ったのは、言いがかりだからというのもある。ただ、子供のころの記憶が蘇ったことも大きかった。中学で写真部に入ってからも涼太は専用のカメラバッグではなく、スポーツバッグでカメラや部品を持ち歩いている。仕切りがないせいでいちいち部品を布でくるまないといけないのは面倒だが、工藤さんに見咎められるほうが怖かった。
 自分が悪いのはわかっている。でも、やっぱり、たまにうんざりする。大学に行くか、就職するか、とにかくこのマンションを出られるようになるまで、自分は「盗撮魔」のレッテルに怯えなくてはいけないのかと。現に403号室の女の人だって、涼太が写真好きだと知っていた。このマンションでそれを知っている人は、両親と工藤さん以外にいないはずなのに。
 そこまで考えて、ふと、違和感を覚えた。

 小さなプレハブは熱を閉じ込めるから、日中は作業に向かず、早朝か夕方以降に時間を作る必要があった。窓がないのは遮光カーテンを用意する手間が省けてありがたいが、エアコンも水道もない。この場所を塾長が自習室として解放していたのは「少し前の話」らしいが、涼太には信じがたい話だった。
 片付けに集中していると、体温の上昇しか時間経過を確かめる手段がない。脱水症状は命取りになるから、涼太はここに着くとまず三十分ごとにアプリのタイマーを設定する。水筒に入った麦茶を口に運ぶと、室内の赤い光は赤外線由来のものではないのに、レンジで温めたようにぬるく感じた。通販でセーフライトや波長フィルタを用意すると高くつくから、休日に都内の家電量販店まで行って赤い電球を買った。もともとあったものの箱詰めがおおよそ済んだ後、早々に電球を変えたら一気に秘密めかした雰囲気が強まった。
 涼太が通う塾は規模こそ小さいが歴史が古く、中学の教師にまで「子供のころに教わった」と証言する元生徒が交じっている。彼らいわく、塾長は「二十年前から変わらない」らしい。塾長とその夫である前塾長がガレージのプレハブで始めた小さな教室は、何十年もかけて、自宅近くに小さなビルを借りるほど大きくなった。必然的に残されたプレハブは使い道を失い、いまや前塾長の遺品を詰め込んだ物置になっていたらしい。
「終活というのかしら、そろそろ整理しないといけないんだけど。頭でわかっていても、実際に目にするとどうも情が移ってね。夫は趣味の多い人で、片付けなくてはいけないと思うだけでも億劫だし、私には使い道のわからないものも多くて」
 中三の四月、振り分けられるクラスを決める二者面談が早々に終わって塾長の世間話を聞き流していた涼太は、あれとか、これとか、と列挙されるがらくたと無頓着に並べられた「あと困るのが、現像用の引き伸ばし機。いまの子はスマホで写真を撮るから知らないでしょう」という台詞に耳を疑った。知らないどころか、それは涼太が喉から手が出るほど欲しくて、フリマアプリや通販サイトで検索しては溜息をついていた代物だった。
 ぼく、自分の暗室で写真を現像するのが夢なんです。
 いつも口数の少ない涼太の勢い込んだ申し出を、塾長は驚きながらも聞いてくれた。志望校を決めた理由さえ伝えていなかっただけに、それまでとのギャップが大きかったらしい。
「役目を果たさず捨ててしまうくらいなら、差し上げたいところだけど。井上くんの家に運べる大きさではなさそうなの」
「……ですよね」
「ご両親も迷惑するでしょうし」
「そう、思います」
 塾長の冷静さと自分の熱量のギャップが恥ずかしくて下を向いた涼太に、塾長は教室で騒いでいる生徒を説教するときと同じ口調で「あなたにうちに来てもらわないといけなくなるけど、それでもいいかしら」と続けた。
 以来、涼太は定期的にこのプレハブに足を運ぶようになった。暗がりから急に髪の乱れた五月人形が飛び出してきたときには心が折れかけたが、一ヶ月かけて蔵書を段ボール箱に詰め終えたときにはもう慣れて、いまやすっかりルーティンになっている。勉学をおろそかにしたら預かった鍵は即座に没収という条件つきだったので、塾の授業がなくても部活が休みの日は自習のために通いつめ、行き帰りに少しずつ作業を続けたことで、梅雨が明けるころにはようやくその一角に、引き伸ばし機をはじめとする古い機材を設置する余裕が見えた。
 塾長にはとくに口止めされていないが、涼太はここの存在をだれにも、両親や江田にも話していない。実際に入ってこられるわけではなくても、後ろめたいことなどなにもなくても、詮索され、説明を求められるだけで、ようやく見つけた自分だけの場所を踏み荒らされるような気がしてくる。現にここが片付いてきてからは、部室や自宅から少しずつ、自分の昔撮った作品の一部なども移している。ずっと置けるわけではないが、なぜか、そのほうが安心する。
 ボワティエメゾンの涼太の自室には、死角というものが存在しない。少なくとも涼太はそう感じる。薄い布団やカーテンをめくればなにを裏に隠しても見えてしまうし、小学生のころから買い換えていない机は引き出しのスペースが十分とは言えない。コンテナを重ねただけの本棚に扉なんてご立派なものはなく、洋服もかけっぱなしの畳みっぱなしだった。唯一扉のある押し入れは生まれる前から両親の私物に占拠され、ゲームオーバーになったパズルゲームのようにぎちぎちで涼太の手の入る隙間がない。抗議しようにも、この狭いうちで他のどこに置くんだ、と父も母もまともに取り合ってくれなかった。
 塾長はここを片付けたい理由を「終活」と言っていたから、もしかしたら両親も、死が見えてくるまであそこを譲ってくれる気が無いのかもしれない。一人部屋があるだけありがたいのは承知しているが、涼太があの部屋、あのマンションで、本当の意味で落ち着けたことは一度もなかった。
 汗を拭いつつ、周囲を見渡す。頻繁に涼太が出入りするせいか、最初はかびの臭いで充満していた空気は深呼吸ができるくらい新鮮になっている。まだ準備は整っていないとはいえ、このペースで行けば、文化祭でここで現像した銀塩写真を展示することも夢ではない。胸を弾ませながらそう考えたとき、自然と、高宮の顔が頭をよぎった。
 じゃ、あたしの写真撮ってよ。
 あれは、涼太が初めて受けた依頼だったのかもしれない。はっきり返事をしなかったのは嫌だからではなく、もし高宮を自分が撮るならどんな写真にすべきか、単純にイメージが湧かなかったからだ。本人が別のことに没頭している瞬間、それこそダンス部の活動中が一番いいのかもしれないが、どうしても去年の文化祭で先輩が展示した一枚と、有野の言葉がちらついて気持ちが乗らなかった。そもそも半端に相手を知ってしまった以上、関係性を無視して被写体としてだけ接することはできそうもない。
 高宮が来るようになってから、一度、石川さんと遭遇した。早朝、涼太はゴミを出してからこのプレハブに向かう途中で、石川さんは犬の散歩から帰ってきたところだった。
「早いのね。部活の朝練かなにか?」
 暑そうな毛に包まれた犬がもふもふと涼太のほうに寄ってきたので思わず立ち止まると、石川さんはおはようという挨拶もそこそこに言った。人好きのするおばさんを絵に描いたような石川さんが、学校は、部活は、と世間話をしてくるのは珍しいことではないので、はあ、と適当に答えた。いつもなら、そこで終わりのはずだった。
「うちの姪と、同じ中学だったのね。しかも学年まで一緒だなんて、こないだ聞いてびっくりしちゃった」
「おれ……ぼくも、最近まで知らなくて」
「ずっと同じ場所にいたのに、いまさら知り合うなんて。不思議なこともあるのねえ」
 目は細めたまま意味深長に言われて、涼太はなにか詮索されているのかと訝った。高宮が余計なことを言ったのかも知れない。だが、石川さんはもう一度「そんなことが、あるのね」とつぶやいたあと、急に「うちの姪と同い年なら、受験生ね」と話題を変えた。
「どこか塾には通っているの?」
「あ、はい。駅前の、スーパーの隣の」
「ああ……あっちね。女性の先生が、おひとりで長くやっていらっしゃるって聞いたことがある。そう。そうなの……」
 噛みしめるようにうなずく石川さんと困惑する涼太の足元で、わふ、と犬が退屈したように鳴いた。ああ、ごめんね、と石川さんはどちらにともなく謝り、リードを引きながら去り際にもう一度、だめ押しのように涼太に微笑みかけた。
「うちの姪のこと、よろしくね」
「はあ……」
「私にはなにも話してくれないの。まあ、無理もないことだけど」
 そのときは深く考えなかったが、よく考えればおかしな台詞だった。なにも話してくれなくても無理はないなんて、まるで石川さんに責任があるような言い方だ。それに「なにも話してくれない」わりには石川さんは高宮のことに詳しかったし、涼太にも興味を持っていた。高宮が伝えていないとすれば、自分たち二人が一緒にいるところを見ただれかから、説明を受けたとしか思えない。
 塾に通えない事情はともかく、高宮はなぜ、またボワティエメゾンに来るようになったのだろう。それも、おばだという401号室の石川さんのところではなく、隣人ですらない他人の部屋に。さらにもう一人、高宮から「青ちゃん」と呼ばれていた女性も絡んでいるらしい。涼太にはひとり暮らしの経験はないが、同じ建物内に住んでいるだけで、大人は親戚の子供を預けるほど繋がり合うものだろうか。
 なんだか不気味だ。
 石川さんはどうしてあんなふうに、信頼されることをあきらめたような言い方をするのだろう。まるで人形でも貸し借りするみたいに行き来させられることを、高宮自身はどう思っているのだろう。「青ちゃん」はなぜ、高宮を身を挺してまで守ろうとしたのだろう。あの403号室の女の人は、どんな魂胆で、赤の他人の子供を自宅に招いているのだろう。
 そしてなにより、彼女はなぜ、涼太が写真好きであることを知っていたのだろう。

 扉を開けると同時に視線が顔に集まったとき、涼太は夏季講習の開始時間を勘違いしたのかと思った。
 ただ、塾長に「チャイムが鳴ったら着席」と叩き込まれているはずの生徒たちはみんなまだ席を立っているし、涼太から目を逸らした後も固まったまま顔を寄せ合って話し込んでいる。呆気にとられる涼太のもとに江田が走ってきて、腕を引っ張りながら廊下の端に連れ出した。
「おまえガチ?」
「なにが」
「なにって、高宮と」
 また高宮、とうんざりする涼太をよそに、江田はあの日と同じく声をひそめてみせる。
「あいつのBeRealフォローしてた奴が、一瞬アップされて消えたの絶対おまえんちの前だって、LINEでスクショ回してんの。すぐに削除されたから余計ガチっぽいって」
「親戚がうちとマンションに住んでんだって」
「有野にそんなん言わんかったろ」
「なんであいつに言う必要あるわけ?」
 そんなん、と江田が食い下がろうとしたとき、背後から「おい」と声がかけられた。
 違いますようにという祈りもむなしく、振り向いた先に立っていたのは有野とその取り巻きだった。いつものようにへらりと手を挙げてなにか言おうとした江田を、有野は肩で押しのけて涼太の目の前に立った。
「おまえだましたな、高宮とのこと」
「……騙して、ない」
「付き合ってない女うちに呼ぶんかよ」
「あいつの親戚が同じマンションに住んでるだけ。最近まで知らんかった」
 こいつ知らん女とツーショ撮るんだってよー、と、教室からこちらをうかがう生徒たちに声を張り上げたのは有野の取り巻きだった。江田と有野の話に置いてけぼりにされたとき、彼らに少し共感したことを涼太は後悔する。くだらない。なにもかもが、くだらない。
「本人に訊けよ。あいつの写真欲しいくらい興味あんだろ。おれは関係ない、まじ迷惑」
 空気がしんと冷える。江田が隣でおろおろと息を呑み、有野でさえ目に見えてたじろいだ。不満を表明しても相手にされたためしがない涼太にとって、自分の不機嫌に場が支配される瞬間を経験したのは初めてだった。
「なに、その言い方。信じらんねえ」
 口調の変化に涼太が違和感を覚えるまもなく、有野はさっきまで脅すように低くひそめていた声を、急に演説さながら張り上げてみせた。
「あいつがなにされたか知ってんのに、よく関係ないとか言えるな。冷たすぎじゃね」
「……は」
「あいつが嘘ついてヘンタイのこと庇うの、グルーミングされたからなんだろ。うちの親が言ってた。大人が子供を可愛がるふりして洗脳すんだって。知ってて関係ないとか言うの、人間としてどうなん?」
 幼稚な言いがかりから一転した流暢りゅうちょうな正論に圧倒されながら、涼太は気づく。遠巻きにこっそり成り行きをうかがう視線には、おそらく高宮が通っていた塾から来た生徒のものも混じっているだろう。有野は状況が不利になったことを素早く察知して、自分は「詮索している」のではなく「物申している」と見せつけることにしたらしい。
 理不尽な難癖のほうが、いや、いっそわけもなく殴られたほうが、よっぽど納得できたかもしれない。言葉を失う涼太を見て主導権を取り返したと思ったのか、有野はにやにや笑いながら、涼太が肩にかけたままだったスポーツバッグのストラップに手を伸ばしてきた。
「それとも、おまえもヘンタイの気持ちわかるとか? やっぱさ、変だもん。言ったじゃん江田、一回こいつのカバンとか確認したほうがいいって。いまおれが見てやるわ」
 涼太は我を忘れたことが一度もない。どんな目に遭わされたところで、感情をぶちまけようとすると、決まって工藤さんに怒鳴られた子供のころを思い出した。あのときと同じで間違っているのは自分のほうかもしれない、という、一瞬の躊躇が怒りの邪魔をした。だから、自分がキレたらどうなるのかを知らなかった。
 なにしてるのっ、という塾長の声が響いて我に返ったとき、涼太の目の前で有野は鼻を押さえて座り込んでいた。手の隙間から滲む血に取り巻きが女の子みたいな悲鳴を上げ、周囲が騒然となる。涼太が抱きしめたスポーツバッグの角には有野の血とおぼしきシミがついていた。それを見て涼太が覚えたのは、罪悪感や恐怖ではなく、安堵だった。
「……しね」
 こちらを涙目で睨み上げてくる有野に小声で吐き捨て、涼太は江田や先生たちが止める声も聞かずに走って逃げだした。責任から逃れるためではなく、自分の聖域をこれ以上、くだらない連中に汚させないために。
 一目散に自転車を漕ぎ、あと少しでマンションに着くというところで顔を上げると、嫌でも覚えてしまった背中が少し先に見えた。
 無視して通り過ぎようかと思ったが、その場にたたずんでいる様子が気になってとっさに自転車を減速していた。しかたなく、おい、と声をかけても振り返らない。自転車を下りて今度は「おい!」と強く呼びながら肩を叩こうとすると、手をはねのける勢いで振り向いた。その顔は真夏の夕方にもかかわらず青白く、見開いた目は明らかに泳いでいる。
「おい――」
 文句を言う前に彼女は強く涼太の二の腕を掴み、すがるように背後に回った。そこでようやく異変に気づき、涼太は苛立ちまぎれに張り上げようとした声をかろうじて収めた。
「どした?」
 高宮が人差し指を伸ばした先には、マンションの入口に停まる軽自動車があった。どこでも見かける国産で、色も平凡なシルバー。変わった光景とも思えない。
「一緒なの」
 指と同じくらいかそれ以上に、声も震えていた。話させるのが悪いような気はしつつ、状況が分からないだけに、なにと、と訊かないわけにはいかなかった。
「前の、塾の」
 涼太は勘が鋭くない。少なくともそう自覚している。だが、さすがに察しがついた。すべて理解できたわけではないにせよ、これ以上、高宮に言わせてはいけないという直感があった。
「ナンバーは?」
「わかんない……覚えてない」
「おれ見てくる?」
 高宮は激しく首を振り、涼太の腕をますます強く掴んだ。
「だれか呼んでこようか」
「なにがあったか、訊かれるじゃん」
「そうだろうけど」
「ママにも、伝わっちゃう。こんなことで、高校落ちたら。あんなことがあったせいだ、って、一生、忘れられなくなる」
 息が続かないのか、マラソンの後のように切れ切れの口調だった。それでも高宮は懸命に話しつづける。
「ばれたら、なかったことにできない。大人って、覚えてるもん。そういうことばっか、ずっと。いまなら、まだ、忘れられる……」
 ゆがんだ祈りのような、まっすぐな呪いのような言葉は、涼太への説明というより、自分に言い聞かせるようだった。
 あの車がだれのものであれ、ひとまず彼女を安心できる場所に連れていかなくてはいけない。それも、大人に知られない場所に。同じ建物に住んでいるだけで他人の事情が筒抜けになり、だれがどこでどう繋がるか見当もつかない町で、だれの視線も届かないと言える場所に。
 迷う暇はなかった。涼太は高宮の両手を取り、自分の自転車のハンドルの上に重ねた。こわばった指を上から一本ずつ剥がして握り込ませる。女子の手を取るのは初めてだったが、それよりも、その肌の感触のほうに衝撃を受けていた。水分は失われ、全体に赤くひびが入り、鋭いささくれにはむしったばかりのような血が滲んでいる。
 涼太の周りにも、ささくれを剥いたり爪を噛んだりしている同級生はいる。だから、高宮の手だけが荒れていることを最初は気にしなかった。違和感を覚えたのは、去年の文化祭で展示された写真を見たときだ。印象的に写っていた彼女の手は真っ白で、多少の加工はされているにせよ、そちらが本当の姿なのだろうと思わせた。受験のストレスがかかる時期とはいえ、一年でここまで変わるのにはきっかけがあったとしか思えない。そして、過剰な手洗いや消毒が肌にどれだけ悪影響かは、母の手の荒れようを見て承知している。
「これで、おれが言う場所に行って」
 奇妙な腕組みもボタンの押し方も、それで説明がついた。涼太にとってはなにげない日常にしか見えていなかった地獄を、高宮は本当に、その手で掻き分けて生きていた。

 涼太が暗室の明かりをつけると、高宮は丸椅子の上で膝を抱えながら、赤く染まった室内を不思議そうに見回した。低い位置に吊るされた電球に手をかざし、あつくない、とつぶやく。
「変な感じ。オーブンの中みたいな色なのに」
「赤く塗ってあるだけで、ただの電球だから」
「ここだと写真の色、わかんなくない?」
 子供のように訊いてくる高宮を前に、涼太は自分自身も現像の経験がないことを忘れて「暗室ってどこもこうだよ。できあがりを見るのは出た後」と説明していた。
「それに、ここで現像できるのはモノクロだけ。カラー写真だと赤でも感光するから」
「かんこう?」
「光で色がつくってこと。写真を現像する印画紙って、波長の短い光に反応すんの。青とか緑とか。だから正反対の赤い光を使う」
「ふつうの照明じゃだめなの。青とか緑の光なんて、そんな無いよ」
「白い光は、白じゃない。いろんな色の光が混ざり合ってそう見えるだけ。だから印画紙に当てると、そこから波長の短い光を拾う。光の三原則ってやつ。理科でやったじゃん」
「忘れた……理科苦手で。受験、やばいかな」
 そう言いながら高宮の声が低く沈み、涼太は調子に乗って話しすぎたことを後悔した。
「やばくないでしょ、それくらい。どうでもいいよ。知らなくても困らない」
「どうでもって……大事なことなんでしょ」
「おれにはね。だからって、無理に大事に思う必要ない」
 意味わかんない、と小さく笑って、高宮は腕を伸ばし、指先を目で追ってほんの少し顔を仰向けた。色素の薄い髪と瞳はどす黒くつぶされ、白を超えて青くなっていた肌は均一に赤くなり、ひび割れて血が滲んだ手も、この光の下だとほとんどわからなくなる。
「でも、なんか、やじゃない」
「……そう」
「うん、焼かれてるみたい」
「焼かれたらなにになるんかな、おれ」
「なにになりたい?」
「んー、うまければいい。パンとか餅とか」
「あたしはクッキーかな」
「え、うちそんなん焼いたことないわ」
「焼きたてって全然違うよ、味も食感も。あとね、どんどん家中が幸せな香りになるのがめっちゃいい。この家にひどいことが起こるとかありえない、そんなわけない、みたいな香り」
「よく作んの?」
「ママがね。昔はアメリカにいたからチョコチップとかココナッツ入れて、もういかにもって感じ。あたしが事務所に入ってからは、おからとかバナナとか使って、できるだけ太りにくいようにしてくれたけど」
「いい親だね」
「うん。だからずっと、そんなわけない、でいてほしい。なんにも変わらず、いてほしい」
 ただでさえ口が上手くない自分が不用意に踏み込めば、ろくなことにならないのがわかりきっていた。だが、最後の一言をつぶやいたときの高宮の口調は、明らかに涼太がそこを掘り返してくることを求めていた。誘うというより、ほとんどすがるようだった。
「だから相談しないの?」
「期末の成績が落ちただけで、泣きそうな顔された。あんたよりひどい目に遭った子が、もう別の塾で頑張ってるのに、なんでサボる理由があるの、やっぱりなにかあったのって」
「ひどすぎじゃね。うるせえ人の気も知らねえでって、言ってやれよ」
 自分もできないのに思わず語気が荒くなった涼太に、高宮は即座に首を振った。
「だめだよ、きっとおかしくなっちゃうもん。忘れてもらわないと。周りの人たちにも、どうせ忘れるならいますぐにして、とっとと飽きてほしい。だってさ、そういう目でしか見てもらえなくなるじゃん。そんな奴が舞台に立って、だれが純粋に感動してくれるの?」
 低くうなりながらつぶやく彼女に、涼太はそれ以上かける言葉がなかった。
「みんな、ただの噂ならいいけど、って口では言いながら、そうであれって期待してる。そうじゃないと、あたしがみんなの代わりに戦う理由がなくなるから。もしも『本当なら』勇気を出せって言われるたびに、あたしはあたしじゃなく被害者でしかないって思わされる。ここにいたらそれ以外なんにもなれない。地獄だよ、地獄……だから、認めるわけにいかない……」
 少なくとも、この場所を出て行くまでは。
 自分のことを、だれも知らない場所に行きたい。大切なものを守るための秘密基地、踏み荒らされない聖域が欲しい。しがらみに汚されたいまの自分ではない、本当の自分に会いたい。その切実さは涼太にも覚えがあったが、それでも、安易に「わかる」と言ってはいけない気がして黙っていた。
「なにも変わらない。なんにもなかった。だから平気。みんなに見られても平気。他人が触ったものに触るのも平気。男の人に触られても平気。写真だって、いくら撮られても平気」
「平気じゃない」
 反射的に言うと、高宮はぎゅっと口をつぐみ、咎めるように睨み返してきた。初めて彼女のスマホに触れようとしたときと同じ獣のような目が、いまとなればいっそ懐かしかった。
「あんた、まじで写真しか頭にないの? ばかなの? 人の心とかないわけ?」
「でも、平気じゃない。なっちゃいけない。そんな写真ならおれ、撮りたくない」
「空気読んでよ。あんたは平気かもって思ったのに、こっちが必死で頼んでるのに、なんでいまさらそんな意地悪言うのっ」
 高宮は涼太に突進すると、胸の辺りを掴んで強く揺さぶった。激しい動きのせいで体が機材にぶつかってしまいそうで、涼太が彼女の手を掴んで抵抗しようとした瞬間、涼太しか鍵を持っていないはずの暗室の入口が音を立てて開いた。赤い光に慣れた目にはそこにいる複数の人影がとっさには見分けられなかったが、目を凝らすまもなくひとりがまっすぐこちらに近づいてきて、高宮から涼太を引き剥がし、思いきり突き飛ばした。
 仰向けに倒れた拍子に、涼太はこちらを見下ろしているのが「石川さん」だと知った。いつも母いわく「うさんくさい」ほどにこやかな顔は赤い光で塗りつぶされ、ぎらついた目と怒りに歪む口元が浮き上がって見える。彼女は姪を背中に庇いながら涼太にもう一度近づき、今度は顔を叩いた。倒れた拍子に椅子の脚に頭がぶつかり、視界が白くなる。
「さくちゃん、待って待って違うから!」
 高宮の声が聞こえる中、涼太はバグを起こしたように脳内で古い記憶が巡るのを見た。
 知らない大人、しかも女の人に叩かれたのはこれで二回目だ。最初は、なぜ自分が怒られなくてはいけないかわからなかった。事が大きくなっていくにつれ、取り返しがつかない失敗をしたと悟らされた。自分が責められることはもちろん、親に頭を下げさせたことがなによりも耐えられなかった。申し訳ないから、ではなく、ひとりでなにもできないのだと、あらためて思い知らされた気がしたから。
 二度とごめんだって、思ったのにな。
 逃げるように目を閉じつづけながら、涼太は大きくなる喧噪けんそうの中、遠ざかっていく高宮の声だけをじっと追っていた。

 エレベーターが四階で開いたとき、涼太は初めて、廊下に充満した雨の匂いに気がついた。
 さっきマンションの外に出たから、早朝から小雨が降っているのは知っていた。でも、ただ上から来る水を機械的によけただけで、空を見ることも、雨音を聞くこともなかった。部屋にいるあいだじゅうカーテンを閉め切っていたせいかもしれない。写真の出来を左右する天候の変化はつねに気にしていたはずなのに、たった一週間ですっかり意識が鈍っていた。
 なんで、いまになって気になったんだろう。
 先を行く背中を見つめながら、涼太は思う。たいていの人が自分の体臭に気づかないのは、自分のにおいを警戒する必要がないせいだとテレビで見たことがある。だとすると他人の家の匂いが気になるのは、知らない場所では無意識に神経が働くせいかもしれない。マンションをたった一階下りただけで、神経がここを「知らない場所」とみなして警戒しだしたのだとしたら。涼太には、そんな自分がひどくちっぽけで、くだらなくて、情けない存在に思えた。
「すみません、急にお声かけして。どうぞ」
 403号室の女性が玄関の鍵を開け、扉を大きく開け放つ。無防備なその動作で、涼太は高宮がもうここにはいないし、たぶん二度と来ないのだと悟った。
「いいです。すぐ、戻らないといけないし」
「なにか用事ですか」
「まだ、親が。さっきも、ゴミ捨てのためだから外に出られたんで」
 ああ、と女性は小さくうなずいた。
 暗室を「不純な目的」に利用したかどで涼太は塾長に鍵を没収され、夏季講習への参加を禁止された。騒ぎは家族にも伝わり、塾や部活はおろか、散歩に出ることすらもままならない。直前の暴力沙汰もあって塾長が生徒の保護者に監督不行き届きを批判されている、と江田からのLINEで知ったとき、損ねた信頼は取り返せない、といういつかの注意が時間差で涼太の頭を殴りつけた。引きこもっているせいで体は重くなる一方だったが、その反面、自分の存在が薄く削れていくような心地がしていた。
『すしねた』
 その生活が数日続き、もう死のっかな、という発想がうっすらよぎりだした深夜、江田からLINEが来た。悪ふざけに付き合う気も起きず無視しようとしたが、そこから『しんねん』『おろしがね』『しおまねき』『しえらねばだ』と突拍子もない連投が続いたので、耐えかねて『なに』と返した。
『当たりある?』
 しばらく考えてから『シエラネバダは無理だろ』と返信すると、今度は堰を切ったようにスタンプを連投された。社会科が苦手な江田が、アメリカとスペインにある同名の山脈を知っていたとは思えない。挨拶ゲームのためなら異常な集中力を発揮する奴だから、たぶんあれ以来「し」と「ね」の入る言葉を検索しまくっていたのだろう。暇かよ、と毒づきながらも、想像すると久しぶりに少し笑えた。その翌日、石川さんが涼太の自宅を訪ねてきた。
「あの子、自分の親に話したんだって。あの塾でなにがあったか」
 部屋に入ってきた母にそう言われたとき、涼太が感じたのは安堵ではなく、ああ、これだけやったのに、という虚脱きょだつ感だった。
「あんたにも謝りたいって言ってるけど、どうする? 嫌なら帰ってもらうけど」
 会う、と答えたのは謝ってほしかったからではなく、高宮と繋がれる線が他になかったからだ。自分と無関係な場所でみんなを巻き込んでいく大きな流れに、なんでもいいから少しでも触れたかった。だから、ダイニングテーブルで向き合った石川さんから「あの子が、涼太くんには申し訳なかった、あなたはなにも悪くないと教えてくれました」と深く頭を下げられたとき、ただ真実を知りたい一心で、後先を考えず訊いてしまった。
「嘘ですよね?」
「……え」
「高宮は、そんな言い方しないから」
 テーブルに額をくっつけんばかりにしていた石川さんがはっと顔を上げ、追いすがるように見つめる涼太からそっと目を逸らした。その反応に食いついたのは涼太ではなく、涼太の隣に座り、黙って見守っていた母だった。
「うちの子のこと、彼女はどう言ったんですか?」
「それは……」
「教えてください。こちらは知る権利があります。いまさら嘘をつくなら、形だけ謝りになんか来なければいいじゃないですか。勝手に丸く収めてなにもなかったことにするつもりなら」
 ちょっと、と制止した涼太を無視して、母はテーブルに肘をついた。口調は冷静だったが、涼太から見れば、いまにも叫び出しそうな怒りを堪えているのが一目瞭然だった。
「もちろん、誤解される行動をしたうちの子にも責任はあります。姪御さんが大変なのもわかります。でもね、噂は一度立ったら取り消せないんです。新学期に息子が学校でどう見られるか、受験生に勉強に集中できないのがどれほど痛手か、ちょっとはこの子の立場になって考えました? だいたい、本人の母親はなにをしているの。子供が同い年ならいまがどれだけ大事な時期かわかるはずじゃない。さんざん振り回しておきながら、あなたみたいなただの親戚に尻拭いさせて知らん顔で」
 やめろよ、と涼太は叫んだ。制止して庇いたかったのは、うつむきもせずに正面から罵倒を受け止める石川さんよりむしろ、これからも同じ建物に住みつづけるはずの相手に、なりふり構わず牙を剥く母のほうかもしれなかった。
「おれも悪いって言ったじゃんっ。自分ちの子がよければそれでいいんかよ」
「いいに決まってるでしょうっ」
 とっさに叫び返されて、涼太は思わず絶句した。
「親はみんな、自分の子が無事ならいい。人の子の不幸に同情するのは、自分の子が同じ目に遭うと嫌だから。そうでなければ関係ないし、むしろ巻き込まないでほしい」
 母はさすがに一瞬言葉を切ったが、やがて息子の目をまっすぐ見返しながら、開き直ったように続けた。自分から失望されに行っているとしか思えないほどの言葉を、しかも石川さんの前で吐き出す母に、しかし、涼太は不思議といつものような反感を抱くことができなかった。それはずっと正論で息子の心を矯正してきた母が、おそらく初めて涼太にぶつけた本音だった。
「理由もないのによその子の面倒を見たがる大人なんか、偽善者か暇人か、なにか魂胆があるか。なんにせよ、信頼できる相手じゃないんだから。あんたも覚えておきなさいね」
 言い返すことも、うなずくこともできない涼太に向かって「涼太くん」と呼びかけたのは、怒鳴られても怒るでも涙ぐむでもなく、静かにすべてを受け入れていた石川さんだった。
「ごめんなさい。あなたの言うとおり。姪を悪く思われたくなくて、嘘をついたの。少し普通と違う、理解されにくいところがある子だから……私なんかに言われなくても、あなたのほうが、わかってくれていると思うけど」
「……違います。そんな、特別みたいな言い方、なんか、違います。普通です、おれもあいつも。ただ、普通に生きてたら、普通と違うことが、勝手に起こったから。普通と違う、わかってもらえないようなことしないと、どうにもなんなかっただけです」
 母のみならず、息子の自分まで責めるのは嫌だった。それでも言わずにはいられなかった。石川さんは涼太の言葉を最後まで聞いた後、もう一度、ごめんなさい、とつぶやいた。
「そうね。本当に、そのとおりね」
 高宮がなにをどこまで説明したのか、石川さんは詳しく話さなかった。大人として、彼女のプライバシーを守るためだろう。ただ断片だけでも、そこに高宮が紛れ込ませた嘘に涼太は気がつくことができた。涼太との関係を詮索されたとき、彼女はこう吐き捨てたらしい。
 ――関係ない。男子ったってあれだよ? 変な噂立てられたら迷惑なんだけど。
 いかにも不愉快そうに歪んだその表情まで、ありありと想像できた。
 廊下の向こうから、犬の鳴き声が小さく聞こえる。
 涼太に向かって扉を開けたまま、403号室の女の人が声のしたほうを一瞥する。つられて涼太も401号室の扉をしばらく見つめた。石川さんは中にいるのだろうか。このやりとりを玄関先で聞いているかもしれない。あるいは「青ちゃん」も。
 涼太のことを、もしかしたら高宮のことすら置き去りにして、大人たちは勝手に結託する。
「石川さん、あなたには本当に申し訳ないとおっしゃっていました」
「べつに怒ってないです。てか、おれが謝んなきゃいけないくらいなんで」
「気に病まないほうがいいですよ。あなたは、巻き込まれただけですから」
 労りのはずのその言葉を聞いて、涼太はこれまで受けたどんな仕打ちにもなかった、強い痛みに胸が刺し貫かれるのを感じた。
 巻き込まれただけ。それ「だけ」で済ませていいんだろうか。周囲を巻き込むやり方でしか伸ばすことができなかった、地獄を掻き分けてひび割れたあの手を離してしまったことを、たとえ本人に望まれたところで、災難だったと忘れていいんだろうか。高宮は、あんなに恐れていた場所に落ちる覚悟を決めてまで、すべてを引き受けて涼太を守ってくれたのに。
「ずっと思ってたけど」
「はい」
「なんで敬語なの。子供を子供扱いしない理解ある大人アピール? なんもできないくせに。助けらんないなら最初から関わんな。希望持たせんなよ。あんたみたいのが一番だるい」
 相手を拒絶するようにそっぽを向いて、涼太は吐き捨てる。犬の声が止まったせいで、沈黙が耳に痛かった。いきなり罵倒されたのに、相手は溜息もつかずに平然としている。そのことにかっとなり、もっとひどい言葉を吐こうと息を吸いかけたとき、
「おっしゃるとおりです」
 思わず顔を向けるともう、相手は涼太に深く頭を下げていた。
「ごめんなさい」
 涼太は血の気が引いていくのを感じる。ずっと、ままならない現実を力でねじ伏せたいと願っていた。それなのにいざ叶うと、満足どころか、また自分を嫌いになるだけだった。
「違う……違います。なんも悪くないです。八つ当たりしました。すみません、おれ……おれが、一番だるいのは、おれで」
 大人になれば、ここを出ることさえできれば、合わない靴を脱ぎ捨てるように、どこにでも行けると信じたかった。でも、たとえ大人になったってきっと自分は役立たずのままだ。せめて少しのあいだ、一緒に逃げてやるだけの足も場所も持てず、それどころか、より悪い事態を招くことしかできなかった。
 うなだれる涼太の前で、静かに扉が開き、また閉まる。とぼとぼと立ち去ろうとしたとき、ふたたび背後で扉が開く音がした。
「待って。これを、渡したかったんです」
 差し出されたのは、一通の封筒だった。白の長型で、見覚えのあるロゴが入っている。涼太自身もよく利用する、駅前のスーパーにも店舗があるチェーンの写真店のものだ。
「うちに、高宮さんから送られてきました。住所はここでしたが、宛名はあなたでした」
「……すみません、せっかくもらったのに」
「いいえ、私が一方的に押しつけたものですから」
「そんなんじゃないです。ただなんか、あいつが持ってたほうが、いい気がしたんです。写真しか頭にねえのかってまた怒られて、捨てられるかもって思ったけど、でも……」
「捨てられませんでしたね」
 涼太は家族の隙を見て、もともとは目の前の女性からもらったレンズ付きフィルムを、この部屋のポストに投函していた。高宮に渡してください、と書いた付箋をつけて。石川さんが協力してくれるとは思えなかったし、ほかに彼女に届く方法を考えつかなかった。そして、あのカメラが役割を果たしたことは、手にしている封筒の厚みで明らかだった。
「ここで、見てもいいですか」
 もちろん、とうなずかれて、涼太は震える指先を封筒に差し入れ、現像済みの銀塩写真二十七枚を一枚ずつ確かめていった。
 最初の数枚は、インスタで百回見たような写真ばかりだった。雲、猫、花、お菓子。加工できない上に画質も悪く、技術が伴わないからそれが味にさえなっていない。鏡を使った自撮りらしきものにも挑戦しているが、なにを間違えたのかフラッシュが反射して白飛びしていた。
 へったくそ、と思わず声が出る。撮影者本人も、なんでこんなことしなきゃいけないの、としぶしぶやっているのが透けている。
 ただ、中盤に差し掛かったあたりから、つたないなりにも個性と言えそうななにかが出てくる。電柱の足元に貼られた結婚相談所の広告。畑ではなく線路の脇に立てられた案山子かかし。見てこれやばい、という笑いを含んだ声がいまにも聞こえてくる気がした。初めて登場したまともな人物写真は、ブランコに乗った母子が笑顔でピースサインをしている一枚。子供を撮らせてもらうことは写真部でも難しいのに、あのひねくれた高宮がどうやってこんな表情をしてもらえるまでになったのだろう。自分が知っている高宮なんて、きっと本当にごく一部なのだと思った。そのことが無性に嬉しかった。
 最後の写真は、高宮の自宅であろう場所だった。キッチンで女性がオーブンを覗き込む背中を、おそらくリビングから捉えている。急いで撮ったのかブレが激しいし、構図も甘く、写りも不明瞭。写真部の講評会に出したらだめ出しが連発されるだろう。ただ、涼太には伝わってきた。彼女がこれを、涼太に見せたかった理由まで。
 長野にはカメラを持っていこう、と涼太は決意する。
 祖父母もいとこも、両親の写真だって、いまならうまく撮れるかもしれない。たとえ無理やりにでも幸福な風景を切り取って届けようとしてくれた高宮に、涼太も自分の手の届く場所から、血の通うなにかを返したかった。だれにも見つからない遠くに行けなくても、自分以外のものになれなくても。いまは地獄にいるかもしれない彼女が、そうではない場所も案外近くにあるし、いつでも戻れると信じられるように。

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