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神の代役

 プロローグ

 赤色灯が明滅する救急車からストレッチャーが降ろされるや、救急医が患者に馬乗りになる。CPRの再開。搬送中それをやり続けていた救急救命士の顔は、汗みずくだ。
「CPAOA。気管挿管準備」
「ルート確保、CVカテーテル留置」
「動脈血ガスも取って」
 ストレッチャーは病院の中に消えた。突風にさらわれるようだった。
「付き添いの方ですね? お名前を教えてください」
 救急車の横で、点滅を続ける赤色灯の光を受けながら立ちすくんでいた女が、女性スタッフに声をかけられ、我に返った顔になる。「あ……、とうといいます」
「伊藤さん、どうぞこちらへ。患者さまのお名前や当時の状況を教えてください」
 医療スタッフは伊藤を救急専用口近くの控室に案内した。
 伊藤が決まり悪そうに言う。
「実は私、彼女の……アマンダさんの本名知らなくて」
「ご友人ではないんですか?」
「ネットだけの付き合いで、会ったのは今日が初めてで……」伊藤はスタッフに手にしていたショルダーバッグを渡した。「彼女の持ち物です。個人情報がないと困ると思って持ってきました。財布の中とかにマイナンバーカードとかあるかも。それ見たら本名や連絡先が分かりますよね?」
 スタッフはそれを受け取った。「こちらを開ける際、一緒に確認していただけます?」
「ええ、もちろんです」伊藤は声を低めた。「あの、アマンダさん、助かりますか?」
「今、医師たちが全力を尽くしています」
「私がAEDのパッドをつけたんです。初めてで手が震えて……私の処置が悪かったんですか?」
「そんなことないですよ、よくやってくださいました。お疲れさまです」
「でも、もう心臓止まってたと思う」
 伊藤は処置が行われているだろう救急救命センターの方向を軽く見やり、両腕で自分の身を抱いた。
「急に倒れたんですよ、本当に突然」
 スタッフが労った。「ご気分がすぐれませんか? 伊藤さんもショックでしょう。倒れる前の様子について、お話しはできますか?」
「私たち、楽しんでたんです」
「お酒は飲まれてましたか?」
「彼女は飲んでなかった。あの、もしかして、HBDっていうやつですか? でも私たち本当に盛り上がってたんですけど……」
「HBDは血液の数値を見ないと分かりません。落ち着いてください。今救命していますから」
「血液の数値……」
「患者さまに持病やアレルギーがあったかはご存じですか? もし分かればですが」
「持病、ありました。うん、あった。でも」
 救急救命センターの緊迫した空気、声、電子音が伊藤たちのいる控室にも届く。
「まさか……本当にこんなことに」
 背骨の浮いた伊藤の背を、スタッフがそっと抱いた。


 第一話 神の代役

 1

【ご存じですか? HBDのこと】
・ HBD(抗体誘発型体内雷撃死)は、過度な悲痛により心停止を引き起こす現象です。
・ HBDはZPウイルス抗体を持つ方なら、誰でもなる可能性があります。
・ ご不安な方は、医療機関にご相談ください。ZPウイルスの抗体検査ができます。(有料です)

・ ご家族をHBDで亡くされた方へ
 ご相談窓口があります。お気軽にご連絡ください。

 他人に対し、悪意を持って故意にHBDを引き起こす行為は、法改正後「HBD悪用傷害罪」となり、罰せられます。

  *

 地下鉄車両内に貼られた広報ポスターから、手元のスマートフォンに視線を移す。たった今、アプリにメッセージが入った。
『今日から配属先だね! 頑張りすぎない程度に頑張って。夕方七時、いつものお店で』
 親友のあかさかからの励ましをみ締めつつ、私は地下鉄に降り立った。この駅のホームにはまだ慣れない。改札までの動線が頭に入っていない。私は人の流れにお邪魔しながら、他の乗客を観察し分類する。コートにスーツ、この人はこれから仕事だ。このパンツスーツの女性も、あのマフラーを巻いた人も。降車した七割ほどは、これから勤め先へ向かう人々のようだ。新社会人らしい人は……いない。すべての人々の足取りが自信に満ちたかっに見える。
 あの人たちも、初めて配属先に行く朝はこんなに緊張したのかな? みんなこのドキドキを乗り越えた? 無理無理私は無理。手汗がすごい。トイレに行きたくなってきた。
 子供のころから緊張を強いられるシチュエーションには慣れているつもりだったが、久々に不安で胸が詰まる。
 長い階段を上り、一番出口から外へ出たところで立ち止まる。二秒鼻から息を吸い、二秒息を止めて、六秒かけて口から吐く。数度繰り返すと、若干落ち着いてきた。意識して背を伸ばし、外気をもう一度肺に入れる。
 四月に入りさっぽろはようやく春めいた。つい先日まで裸だった街路樹の枝先には、ごくごく薄い緑のもや。日当たりの良い場所では、黄色や紫のクロッカスが開きつつある。白と黒と影だった世界が、日々強まる光によってついに崩壊し、れきから彩りが生まれる。それが春だ。
 でも、一番出口から十五分歩いてたどり着いたそこは、まだ影の中だった。
 北海道にいはり血液医療研究センター。
 三階建ての建物は、ダークグレーの外壁で固められ、北向きのエントランスは、日差しに背を向けている。小さな窓が並んだ様は、ある種のようさいを思わせた。
 私の職場だ。
 私、いち二十二歳は、新年度から北海道新墾血液医療研究センターに採用された。配属は『HBD調査鑑別室』。
 事務職でエントリーしたから、総務部あたりに行くんじゃないかと勝手に思っていた。なのに、ふたを開けてみればHBD調査鑑別室。入職式で辞令を受けた時、同期はざわめき、私はポカンとなった。
 ──HBDって、あのHBD?
 ──あそこに配属される人、いたのか。
 ささやき交わしていた同期たちの顔を思い浮かべる。私の他、事務職が二人、専門職が三人。あまり打ち解ける間もなく、三日間の基礎研修は終わってしまった。
 研修期間は本来三週間だ。私だけが基礎研修後、早くも配属先行きを命じられた。
 一体どんなところなんだろう? 私、やっていけるのかな。
 いや、後ろ向きになるな。何事にも明るく軽妙に深刻ぶらず、何てことないって振る舞うんだ。
 建物のエントランス横の花壇を、ややかっぷくの良いグレイヘアの男性が眺めていた。採用面接の際にいた人だとすぐに分かった。他の面接官はいろいろ質問してきたのに、あの人だけは端っこでニコニコしていただけだった……。
「あ、あの。おはようございます!」
 思い切って駆け寄り、私から声をかけた。声が裏返って自分でもびっくりしたけど、あいさつしないよりは百倍マシだ。
 彼は私を見ると、気弱そうな笑みを浮かべた。
「一ノ瀬くんですね? 待っていました。私はHBD調査鑑別室長のももといいます」
「あっ」ってことは、上司だ。「よろしくお願いいたします!」
「こちらこそよろしく。さて、一緒に部局へ行きましょうか」

「一ノ瀬くんは、HBDについてどの程度知っていますか?」
 歩きながら、百瀬室長は柔らかに尋ねてきた。飼っている犬の名前はなんというんですか? というトーンに近かった。
「そんなに詳しくは……すみません。周囲にHBDになった人もまだいません」
 直接の知り合いから友達の友達まで範囲を広げても、いない。
「では、初めて知ったのは、いつ頃です?」
「大学入学時のガイダンスでした。保健管理センターの人がざっと説明してくれたんです」
「なるほど、入学ガイダンスですか。一ノ瀬くんが小中学生の時には、まだ学習指導要領が改正されてませんでしたからね。今は義務教育の授業で教えることになっているんですよ」
 HBD──Heart Break Death。日本語では『抗体誘発型体内雷撃死』という。
 起こるメカニズムの詳細は、私には難しすぎるけれど、要は突然死、致死性不整脈の一つだ。
 その死の引き金が絶望というところが、特殊なだけで。
「愛する人のほうに、ショックで倒れてそのまま……という話は、昔からありますよね」
 エレベーターホールで百瀬室長は上階のボタンを押した。
「ああいうのがHBDなんですか?」
「たこつぼ心筋症なんていうのもありますから、すべてのケースに当てはまるわけではないですが、一部は確実にHBDです。私たちの体では、心身がストレスを受けると副腎皮質からコルチゾールというホルモンがぶんぴつされます。ご存じですか?」
「聞いたことがあるかもしれません」
「ある種のウイルス抗体を持つ人は、コルチゾールの他にも、特定のストレス物質を作るんです。二種類ね」百瀬室長はVサインを作った。「日常の範囲を超えた異常なストレスによって、その二つは初めて分泌されますが、実は、初期に作られる一つ目だけなら、なんでもないんです。自覚症状もないので、そのまま天寿をまっとうする人も大勢いる。でも、一つ目が血中にある状態で二つ目ができてしまうと、ストレス物質同士で化学反応を起こし、心臓が止まる」
 エレベーターは三階で止まった。百瀬室長は各所に構えるカードリーダーにIDをかざしながら歩く。廊下は長かった。
「一つ目のストレス物質は、あらゆる要因で作られます。対して二つ目のストレス物質を作るのは、強い悲痛、絶望です。生きる希望を失うほどの、心の底からの悲しみです。我々は死因という名の絶望を探るのです」
 百瀬室長いわく──HBD調査鑑別室は、その引き金となった絶望を調査特定し、絶望に至った要因から犯罪性の有無を鑑別する、HBDに特化した死因究明の部署──なんだそうだ。
「最終的には警察が事件化するか否かを判断しますが、その判断に使われるのが、我々が作成する調査鑑別書です。法改正後は裁判資料にも用いられるでしょう」
「責任重大ですね」
「このような鑑別室は、現在うちを含めて全国に五か所あります。中でもうちは一番古株で、前世紀からあったんですが、二年前に法改正、いわゆるHBD法の話が出るまでは、お荷物扱いでした。現在は改正後をにらみ、できる限り死因を調査鑑別してケース数を増やすよう、行政からすいしょうされているんですよ」
 廊下を歩く道すがら、私は思った。
 だったら私も、あの時死んでておかしくなかったな。

  *

「だーかーらー、四方田よもださんの主義と矛盾してますよね?」
「は? だから何なの」
 ドアを開けた瞬間、やり合う声にビクッとしてしまった。私の隣で百瀬室長が悲しそうにつぶやく。
「君たちはまたそれですか……」
 デスクを四つ合わせた島に、三人の男女が座っている。その中の二人が悪びれずに言った。「すいません」
 デスク島から離れて座る眼鏡めがねの青年が、待ちかねたように話しかけてきた。
「失礼します、室長。昨日の案件について、あまさんのお母さまと道警のくろかわさんから連絡が……」
 私は異邦人の気分で部局を眺める。
 調査鑑別室というから、白壁の空間に顕微鏡やらフラスコやらが並ぶ図を想像していたのだが、実際はお仕事ドラマに出てきそうな、ごく普通のオフィスだった。デスクの島の他、奥には百瀬室長と眼鏡の青年の席。キャビネット、パーティションで区切られた応接セット。言うまでもなく、誰一人白衣は着用していない。
 三階の窓からは、敷地の境界に並ぶしらかばがすぐそこに見える。
 青年と話し終えた百瀬室長が、私をみんなに紹介してくれた。
「みなさん。こちらは、今日からみんなと働く一ノ瀬美羽くんです」
「一ノ瀬美羽です、よろしくお願いします!」
 私は声を張って緊張をねじ伏せにかかった。明るく軽妙に深刻ぶらず。こんなこときっと、なんてことない。私は緊張なんてしてない。
「一ノ瀬くん、ミーティングの前に部のみんなを紹介しますね」
 百瀬室長は全体的な紹介だけではなく、部局員一人ひとりにつないでくれた。
 まずは主任の四方田さん。女性だ。年齢は三十代後半だろうか。後ろで一つに結んだだけの髪型といい、短く切りそろえられた爪といい、黒シャツ黒パンツという服装といい、華美な要素は一つもないが、彼女はひどく目を引いた。クール、知的、端正という概念を人の顔にしたらまさにこの造形。来世があるならこんなルックスで生まれたい。舞台に立ったらさぞかっこいいだろう。ただ、口論していた直後のせいなのか、表情に若干のたけだけしさがほの見える。
 四方田さんの向かいに座る三十歳前後の男性は、さん。座高からして長身とうかがえる。「よろしくね、一ノ瀬さん」と笑ってくれたその声を聞いてたまげた。お金が取れる声だ。なぜ声優にならなかったのか。道を間違えている。
 四方田さんの隣にははったんさん。「どうもー」とおどける態度は、イケメン陽キャそのものだ。マットブラウンの髪色が、彫りの深い顔立ちによく似合っている。二木さんと同年代か、少し若いかもしれない。分かりやすいイケメンが好きな茉莉絵なら大騒ぎしそうだが、彼女には残念なお知らせとして、彼の左の薬指にはリングが光っているのだった。
 百瀬室長に話しかけた青年は、秘書のかみさんだった。スクエア型の眼鏡が理知的な顔立ちを強調していて、なんとなく四方田さんに似ている。彼も八反さんと同じ年代だ。八反さんとは対照的に、こちらが引くほど丁寧な挨拶をされた。
 それにしても、さっき聞こえた矛盾とは何のことだろう? 各人の名前が判明してみれば、やり合っていたのは四方田さんと八反さんだ。
 どうしよう。人間関係のあつれきがある職場だったら嫌だな。
「みんなの名前も含めて、ここのことは、おいおい覚えていけばいいからね。ミーティングが始まるまで、机の冊子に目を通していてください」
 百瀬室長はニコニコしてそう言うと、空席だった二木さんの隣に私を座らせ、窓辺の上司席に行ってしまった。
 デスクには薄い冊子が置かれてあった。
『はじめてのHBD』
 ホッチキスでなかじされた冊子をめくってみると、驚きの漫画仕立てだった。流行はやりの絵柄からは外れているものの、確かな技量が感じられる。一ページ目は『HBDってなに?』。変身前のシンデレラみたいなキャラクターが、直立したネズミとしゃべっている。
 デスクの島ではミーティングが始まった。
 と、隣からタブレットが差し出された。二木さんだ。
「今取り掛かってる案件のデータ、ダウンロードしてあるから、どうぞ」
 ええっ?
 温厚そうな笑みとともに渡されたタブレットだが、いいの? と思ってしまう。今しがたここに来たばかりのペーペーにデータ見せちゃっていいの? こういう資料って、かなりマル秘じゃないの? 私が明日突然辞めると言ったらどうするんだろう? そんなつもりはないけれど。
「あの、ありがとうございます!」
 でも、お礼は言った。挨拶、お礼、謝罪。人間関係の三本柱だと、基礎研修でやったばかりだ。

  2

 CASE133
 氏名:甘野さく
 性別:女性
 年齢:三十六
 住所:札幌市H区**条**丁目
 職業:無職

 主だった個人情報は概ね網羅されていた。身分証から取ったのだろう、顔写真もある。丸顔の中に配置された目、鼻、口……全てのパーツが小さく、物静かな印象だ。
 この人の死因──死に至らしめた〝絶望〞を突き止めるのだ。
 この部局の人たちは、どうやってそれをやるのだろう?
 死亡日時は、先々週土曜日の午後八時二十分前後。
 死亡場所は札幌市T区内の居酒屋『の酒場』。
 搬送先の医療機関がHBDの発症を確認し、さらに道警の検視を経た上で調査案件化している。
 参考人の名前は四名。
 櫻井 三十五歳
 伊藤おり 四十五歳
 そとさきあい 二十八歳
 もえ 三十九歳
 櫻井さんが甘野さんの恋人で、その他の三人は居酒屋での同席者だ。
 死体検案書の内容も添付されていた。
『直接死因:致死性不整脈(HBDによる)』
ふくくうきょう手術こんあり』
『胃がんの既往歴あり』
『昨年十一月にZPウイルス感染。早期抗ウイルス剤投与で重症化せず』
 甘野さんはステージⅣのがん患者だった。三年前に病気が発覚し、手術と化学療法で治療をしたものの、肝臓と肺への転移が判明し、昨年七月二日、余命一年の宣告を受ける。セカンドオピニオンでも診断は変わらず、現在は自宅療養中だった。
 両親への聞き取りは、昨日すでに自宅におもむいて行われていた。両親曰く、当日の自宅では特に変わった様子もなく、イベントに行くと言って昼に家を出たという。最近の体の調子も悪くなく、日常行動はできていた。その上で甘野さんの母親は、恋人の不義理がHBDの原因と疑っているとある。
 甘野さんの部屋の写真も複数あった。六畳ほどの部屋はさっぱりと片付いていて、所有物も少ない。漫画本が整然と並んだ六段の大きな本棚も、ところどころに余白が作られ、圧迫感はなかった。本棚を見るとその人が分かるというが、甘野さんはどうやら、友情、努力、勝利の三大原則を備えた少年・青年向けの漫画が好みみたいだ。それも一昔前のだ。手に取りやすい三段目には『レッドカーペット・ロック』が収められていて、思わず声をあげそうになった。十年前に完結した作品だが、全二十三巻、一つの抜けもなく状態も良好のようだ。
 そっか、甘野さんはレッカペを読んでたんだ。なら、アニメも見てたかもしれないな。
 調査鑑別チームは昨日、甘野さんのスマートフォンを借り受けた。内部データは現在解析中となっているが、恋人櫻井さんの不義理を疑う根拠となったメッセージは、スクリーンショット画像という形で資料内にあった。
『咲良に寄り添えなくてごめんね。今までありがとう。それだけは伝えておきたい』
 それがトーク画面上唯一のメッセージだ。死亡日当日の17:20が打刻されていた。
 百瀬室長曰く、HBDは絶望が引き金となる突然死だ。それを踏まえて考えてみる。
 これは別離のメッセージではないのか。余命わずかで、もしかしたら結婚が人生最後の望みとかで、メッセージ一つでいきなり一方的にそれを断たれたとしたら……私ならどんな気持ち?
 え、めちゃくちゃ辛い。悲しい。
 こんなの、甘野さんがかわいそうじゃない? 気の毒すぎて、さんすぎて、キツい。
 私はに落ちた。そうか、多分これだ。
 気づけばミーティングは終盤の気配である。細かな資料まで読み込めなかった。
「CA-fu19は40023、CKMJは39820。おおはまカーブに照らしても、トリガーは居酒屋での出来事だと断定できる。これを前提に進めていきます」主導する四方田さんはとても端的に意味不明の言葉を並べた。「三上、今日のスケジュールを」
「午前は、死亡現場の居酒屋で店長および伊藤さんに聞き取りを行います。櫻井さんは午後一時に来所予定、外崎さんと多田さんへの聞き取りは、アポが取れ次第になります。甘野さんのお母さまから配送伝票の件について連絡がありましたので、そちらの応対もお願いします」
「OK。じゃあ居酒屋は私と二木が行く。八反は配送伝票の確認をお願い」
 四方田さんが席を立った。私は二木さんにタブレットを返した。
「これ、ありがとうございました。頑張ってください」
 二木さんの表情が和む。「ありがとう」
「すぐ解決しそうですね」
 その言葉がどうして口をついて出たのかは分からない。二木さんの「ありがとう」があまりにイケボだったからかもしれない。実際すぐに解決しそうだとも思った。さっき腑に落ちたからだ。この人は三十代半ばで、重い病を患っていて、死の直前、恋人から一方的に別れを切り出されている。
 私の言葉に瞬時に反応したのは、二木さんではなく四方田さんだった。
「なぜすぐ解決と思うの?」
「なぜって……」
 そう思っただけなんだけど。
 私は部署内の空気の変化を感じて戸惑った。四方田さんはようしゃなく私を見ている。八反さんと三上さんは目配せし合い、二木さんは苦笑いを浮かべていた。百瀬室長は隅であたふたしている。
 四方田さんが挑戦的に笑った。
「室長。この案件、彼女にも同行してもらいましょう」百瀬室長がOKとも何とも言っていないのに、四方田さんは次を継いだ。「一ノ瀬さん、出る支度して」

  3

 午前十時。四方田さんが運転するミニバンで、甘野咲良さんが倒れた居酒屋に到着する。所要時間はおよそ二十分。四方田さんはいっさいの雑談をせず、運転は正確無比でスムーズだった。車内には古い、それこそ私の親世代が聴いたような洋楽が絶え間なく流れていた。
 あの挑戦的な笑みからして、「ふっ、おもしれー女」的に気に入られた……んじゃないだろうな。
 初日からさっそく居心地が悪い。
「大丈夫だよ。今日は俺の隣で見学していて。見取り稽古だよ」
 二木さんの優しさが救いだ。
 居酒屋は、地下鉄駅からほど近い雑居ビルの一階にあった。店構えや雰囲気からして、人気店のようだ。開店前の入り口に立っていた二人の男性のうち、若い方がいち早く私に気づいた。
「お疲れ様です。あれ、新しい人ですか?」
「今年度の新人、一ノ瀬美羽さん。一ノ瀬さん、こちらは北海道警察特異犯罪対策課のお二人。きのした警部補と黒川巡査」
「初めまして、北海道警察特異犯罪対策課の黒川です。よろしく」
「一ノ瀬です、よろしくお願いいたします」
 私は慌ててジャケットのポケットから名刺入れを取り出し、二人に差し出した。初めての名刺交換は、主に私の挙動のせいでスマートにはいかなかった。
 黒川巡査は笑顔で私の名刺を受け取ってくれた。一方、木下警部補は、強面こわもてで気難しそうだ。
 警察官が出張っていることで、居心地の悪さに緊張が重なる。本当に犯罪捜査みたいだ。そんな私の心中を察したのか、黒川巡査が声をかけてくれた。「調査鑑別作業は君らがメインだよ。リラックスリラックス」
 居酒屋の店長はたさんが、準備中の店内に案内してくれた。甘野さんと同席していた伊藤さんはまだ姿がない。先に店長に話を聞く。
「ここが、亡くなったお客さまがいらしたお部屋です」
 通されたのは掘りたつの個室だった。十人以下の小グループが使いそうな広さだ。
 四方田さんが軽く目を閉じた。長いまばたきのようにも短いもくとうのようにも見えた。
「甘野さんたちが来店したのは先々週の土曜日ですよね。その翌日以降も通常どおり営業を?」
「ええ、もちろん。ただここの個室はクローズしています」
 四方田さんはタブレットの資料と突き合わせながら質問をする。二木さんがタブレットを私にも見やすいようにしてくれた。この人、声だけじゃなくて人柄も満点だな。
「当日、トラブルはありましたか?」
「大きな声で騒がれてたんで、スタッフが声をかけには行きましたよ。座が盛り上がっただけかと思いきや、直後に倒れられて」店長は意を決した顔でこちらに問うた。「そのHBDっていうのは何です? 自分は料理ばっかりなもんで、何も知らない。バイトスタッフはショック死の一種だと言っていましたが、アレルギーか何かですか? それとも食中毒の一種ですか? うちに不手際が……」
 店長の心配を黒川巡査が打ち消す。
「アレルギーも食中毒も関係ありません。HBDは悲痛によるんです。絶望や悲しみで亡くなるんですよ、大将」
 だが、店長は納得がいかない顔だ。
「あんなに盛り上がってたのに絶望? 大体、悲しくて死ぬなんて、そんなことありますかね? 自分だってこの店が軌道に乗るまで随分と辛い思いをしてきましたけど……」
「そんなことありますよ」
 四方田さんが言い切った。
「人は悲しみで死にます」
 私は思わず四方田さんの横顔を見つめた。
 その時、出入り口の引き戸がたたかれた。店長が出迎えに行き、掘り炬燵の部屋に戻ってきた時は、脱いだコートを腕にかけたワンピース姿の中年女性を伴っていた。
「伊藤さんです」
 同席者の一人、伊藤佳織さんだった。
 大人しめな顔立ちをメイクとネイルで華やかに彩った伊藤さんは、きゃしゃな人だった。四十オーバーとは思えぬほどスリムで、脂肪はもちろん筋肉も少ないタイプに見えた。専業主婦で、夫と二人暮らしの自由な生活だという。
 彼女が肩から下げているトートバッグには、アニメのキャラが印刷された缶バッジがおびただしくデコられていた。
 私は思わず缶バッジの数々を凝視した。え、待って。あのキャラ、もしかして……?
 伊藤さんへの聞き取りも、引き続き四方田さん主導だ。二木さんはタブレットを支え持ちながら、器用に右手だけでメモを取る。道警の二人は見守る構えだ。店長も所在なげに横にいる。
「伊藤さんが搬送先の病院にも付き添ったそうですね」
「はい。でも彼女のこと何も知らないから、名前とかかれて困りました」
「何も知らないとはどういうことですか?」
 伊藤さんは缶バッジまみれのトートバッグを我々に示してみせた。
「私たちオタ仲間なんです、レッカペの。ご存じですか? レッカペ」
 私ののどがヒュッと鳴った。やっぱりだ、と思った瞬間、変な息の吸い方をしてしまったのだ。四方田さんがげんそうにこちらを見る。
「どうしたの、一ノ瀬さん?」
「すみません」恐縮しながら私は正直に答えた。「もしかしてそうかなって思っていたんです。私もレッカペのアニメ、大好きでした。全話録画しました」
 すると、思いがけず伊藤さんは喜んでくれたのだ。「そうなの? うれしい。十年前に終わっちゃった漫画だから、流行りを追うオタクは別の作品に行っちゃって、うちら寂しかったんですよ。あなたはアニメだけ? 原作は履修してないんですか?」
「アニメ化されなかった番外編が収録された巻は読みました」
 甘野さんの部屋にもあった『レッドカーペット・ロック』、通称レッカペは、青年誌で連載された音楽と演劇がテーマの作品だ。青年誌掲載にもかかわらず女子人気が高く、アニメ化もされ成功した。私は小学五年生の頃に放映されたアニメでハマった口だ。残念なことに、作者が完結後、育児と介護を理由に休業に入ってしまったせいか、実写映画の予定も流れたまま、その後おとがない。あの頃、もし映画のエキストラが公募されるなら一緒に申し込もうと、茉莉絵と盛り上がったっけ……。
「では、甘野さんとはレッカペという漫画のファン同士で知り合って、当日ここで会ったんですね。今までも会ったことはありましたか? 席ではずいぶん楽しまれていたようでしたが」
「アマンダさんとはその日が初対面でした。他の二人、アイさんとニッパチさんとは何度かオフ会したことがありましたけど」
「アマンダさんが甘野さん、アイさんは外崎愛さん、多田萌さんがニッパチさんですか?」
 SNSのユーザー名で呼び合っていたのだろう。よくあることだ。
「そうです。私はこういう感じで……。見せるのちょっと恥ずかしいんですけど」
 伊藤さんはスマートフォンを取り出し、SNSのプロフィール画面をこちらへ向けた。ユーザー名は『檸檬れもん無糖』。アイコンに使われている画像は、主役のショーヤと、ライバル関係にあるジェイの二人を描いたもので、プロはだしのイラストだった。四方田さんですら「あら」と呟くほどに。
「れもんむとう、さん?」
 確認するように呟いた四方田さんに、伊藤さんは苦笑いする。
「オタクじゃない人にそんなふうに名前呼ばれるの、恥ずかしいな」
「これ、伊藤さんが描いたんですか? ヘッダーのも?」
 私が思わず訊くと、伊藤さんは嬉しそうにうなずいた。「はい。私はレッカペ連載当時から趣味でイラストや漫画を描いてて、同人誌とかも作ってて……」
「すごい上手です!」
「ありがとう。あなたアニメ派だそうだけど、もしよかったらフォローしてくれない? 原作ベースだけど、アニメの話もいっぱいするよ」仲間とみなしてくれたのか、伊藤さんは徐々に私にタメ口になってきた。「例の告知があったから、近々ブーム再燃するはず。まだ好きなら一緒に盛りあがろうよ。告知は知ってるよね?」
「失礼。お話からして、アマンダさん、つまり甘野さんともSNS上で交流があったわけですよね。甘野さんのアカウントを教えてもらえますか? ご本人のスマホはちょうど解析中なのです」
 四方田さんの頼みに、伊藤さんの反応は素早かった。「今すぐここで見たいってこと? いいですよ。ええと、これです。このカーネーションのアイコン」
 アカウントは去年の十月末に開設している。カーネーションは自分で撮影したものだろうか、それとも無料の素材画像だろうか。横から覗き込んだ黒川巡査が呟いた。「甘野さんはイラストじゃないんだ」
「四人の中で彼女だけ読み専なんですよ。イベントも一般参加でした」
 原作やメディアミックス作品、ファンアート等は楽しむが、自らは二次創作しないというタイプだ。
「なるほど。では当日ここでのことを教えてもらえますか?」
 四方田さんの質問はありきたりのもののように思えたが、伊藤さんはあごに手を当てて、困った顔になる。
「それが、あまりお話しできることはないんです。普通にお料理食べて、普通に喋って、仲間で楽しんでただけなんで」
「甘野さんが倒れる直前も、レッカペの話をしていたんですか?」
「ええ、もちろん。それこそ、告知の話をしていました。まさにその時入ってきたんで。これです」
 伊藤さんはスマホの画面を見せた。
『レッドカーペット・ロック 待望のスピンオフ正式決定!』
 掲載誌の公式アカウントが、当該漫画のスピンオフが始まることを告知していた。
「うっそ、本当に? 進展あるの?」
 反射で叫んでしまった私に、伊藤さんは「そうなんだよ、ヤバいでしょ?」と目を輝かせる。
 告知が投稿されたタイムスタンプは、先々週の土曜日、午後八時ちょうどだ。その後も原作者のコメントや具体的な開始予定号など、十分ほどかけて諸々のお知らせが続いていた。これは作品ファン、とりわけ原作ファンなら待ちに待った吉報だ。
「そりゃ、うちらだって狂喜乱舞ですよ。十年越しに公式に動きがあったんですから、多少うるさくしても仕方ない」伊藤さんは開き直ってきた。「これで喜ばないならファンじゃないです」
 四方田さんは少し考えてから、こう尋ねた。
「この時、甘野さんも喜んでいましたか?」
「告知が出た時ですか? もちろんですよ、彼女だってレッカペオタの一員なわけで」
 彼女だって、という口調とニュアンスに、私はちょっとした引っ掛かりを覚えた。二木さんの長い指が画面上のキーボードを叩く。彼が打ち込んだ疑問が画面に出没した。
『甘野さんは浮いていた?』
 四方田さんは私たちの引っ掛かりを言語化した。
「甘野さんとの仲は良好でしたか?」
「どういう意味ですか?」
「甘野さんが疎外感を覚えるような雰囲気だったのかと思いまして。さっき、彼女だけが創作しない読者側だと言っていましたね。二次創作する者同士じゃないと、話が合わないですか?」
「話が合わないなんて言ってません」伊藤さんは一瞬ムキになったが、自らを落ち着かせるように一つ息を吐くと、部分的に認めた。「まあ、読み専には分からないところもあると思いますけど」
「どんなところが?」
「やっぱり産みの苦しみは分かんないと思います。二次創作って設定借りてるから楽って思われがちだけど、すごく大変。私もそうだけど、身を削って作るタイプは消耗半端ないんです」創作の話題になると、伊藤さんは多弁だった。「自分の内側に無いことって描けないじゃないですか。結局作品って自己表出作業なんです。なのに、頭の中のイメージに技術が追いつかないことがある。もどかしくてストレスですよ。これは作り手じゃないと分からないと思う。でも、描くのは好きだからやめられないんですよね。自分の作品が一番えるんです。百パーセント自分の好み、理想なので。でも、読み専の人たちを下に見るとか、仲が悪かったとかはないです。これだけは信じてほしい。私はいつだってかいわいの雰囲気をいいものにしたいと思ってる。実際レッカペ界隈は民度高いって評判なんですよ」
「今回のオフ会に読み専の甘野さんが参加したのは、たまたまですか?」
「はい。仲良かったら基本誰でも誘うんです。それに、同人誌は作らなくても、アマンダさんは萌え語りだけで十分面白い人でした。辛口だけど愛があって、言葉のチョイスもセンス抜群で、私は彼女の呟きを読むのが好きだった」
 二木さんが確認した。「私からすみません、甘野さんが倒れた時、告知の話題は終わって悲しい話題に変わっていたのではないですか? 例えば恋人と別れた、など」
「いや、本当に盛り上がっていましたよ。そこは間違いないです」店長が口を挟んだ。「むしろ、その時が最高潮でした。何せ、スタッフを行かせたくらいだったんですから」
「あの時はごめんなさい」伊藤さんはそこでようやく決まり悪そうに詫び、私たちへの協力姿勢を示すつもりなのか、こう言った。「確かに、振った振られたの話がなかったわけじゃないです」
 座の面々が心の居住まいを正した気配がした。だが、次に伊藤さんは彼らの期待をしぼませる。
「ただそれは乾杯の前でした」
 二木さんが掘り下げる。「甘野さん自らその話題を?」
「アイさんが彼氏振ったって言い出して、その流れでアマンダさんも、私も別れたよ、って。彼氏さんからのメッセージも見せてました。ごめんとか寄り添えないとか書いてあった気がします」
「その時甘野さんは、悲しそうでしたか?」
 伊藤さんは首を傾げた。「全然。二人とも笑い飛ばしてました」
 私はにわかに納得できなかった。人は取り繕うものだ。内心無理をしていたのでは? だって彼氏でしょ? 人生の最後にウェディングドレス着たいとか、もし夢見てたら……。
「そのあとは全部推しの話。うちら、互いのプライベートに干渉しないので」
 四方田さんは特に表情を変えず、タブレットに視線を落としている。SNSの告知投稿を読み込みつつ、何事かを考えている顔だ。
 いくらかの沈黙。
「えっと」
 その沈黙を伊藤さんが破った。気詰まりに耐えかねたというように。「あの、この後二人にもいろいろ訊くんですよね? アイさんとニッパチさんにも」
 パッと四方田さんが顔を上げた。「ええ、お伺いします」
「そっか。だったら、話しておこうかな。どうせ分かるだろうから」
 伊藤さんはスマホを操作し、SNSの画面をこちらに見せた。
『さっきのアマンダちょいムカついた。なんで冷めること言うかな』
『アマンダさんって微妙にノリ悪いよね。もっと空気読んでほしいよ。ワガママかよ』
 腹の中がキュッと縮む感覚。小さくてありきたりだけれど、厳然と悪意を含んでいるもの。
「これ、アイさんとニッパチさんの発言です」
「なるほど、裏アカウントですね?」
 四方田さんが言い当てた。伊藤さんは頷き、長々と嘆息した。仲間の不始末にはほとほと呆れる、という風情だ。
うらあかでは作家組だけで繫がっていました。アマンダさん、本買ってくれない上に辛口キャラなんで、たまに彼女たちをイラッとさせることがあったようです」
「本というのは、同人誌ですね?」
「この日あったイベントでも、ブースに来てはくれましたけど、何一つ買わなかった。アイさんやニッパチさんも、あれはモヤッとしたと思う」
「どうしてこの投稿を見せてくれたんですか?」
「さっき、私たちの仲を勘繰ったじゃないですか。話が合わないんじゃないか、みたいに。後で二人に聞き取りするなら、こういうのもきっとバレる。でも、変に誤解されたくなくて、ならこっちから言っておこうと」
「誤解とは?」
「私たちは全然仲良かったんですよ。ただ、一時的にこういうこともあっただけ」伊藤さんは言い募った。「仲が良くても、一瞬ムカつくことだってあるじゃないですか。そういう時に裏垢でって、ガス抜きしてた。アマンダさん一人を標的にしてたわけじゃなく、ムカつくこと全部、ここで吐き捨ててました。表でやり合ってそのまま険悪になるよりずっとマシでしょ? この先も仲良くやりたいからこその、一種のライフハックなんです。本当に険悪ならあの日だって集まらなかった」
 四方田さんは礼を言った。
「ありがとうございます。ちなみにこの時お二人は、なぜ甘野さんに腹を立てたんでしょう? 覚えていますか?」
「今も連載やメディアミックスが続いていてほしかったって話題で、甘野さんが反論したんです。そればかりか、日本の漫画業界批判まで始めちゃって。漫画というコンテンツは、連載途中の未完成の状態でお金を稼ぐようになっているから、人気が出ると作者も編集もむやみやたら延命しようとして、百倍に希釈した出涸らし化すると言っていました」
「あはは、本当に辛口だったんですね」
 なんと、四方田さんにはウケた。笑うんだ、この人も。
「裏垢で愚痴った二人は、レッカペも連載続いてたら薄めた出涸らしになってたはずと言われたみたいで、腹が立ったんだと思う」
「なるほど」
 これで調査は進展しているのだろうか。半分オタク界隈の話だったような気がする。四方田さんは最後にこんな質問をした。
「甘野さんがご病気で余命宣告されていたことは、ご存じでしたか?」
 伊藤さんは掘り炬燵の一角に視線を向けた。
「AEDをつけた時、お腹に手術痕があったのに気づきました。でも死因はHBDなんですよね? だったら病気関係ないですよね」

  *

「可能性で言えば、彼氏と別れたと話した時、無理をしていたのかもしれない」
 帰りに車の中で二木さんが言った。
「ですよね?」
 それは私も同意見だ。二木さんと意見が合って嬉しくなっていると、運転席から四方田さんがこう言った。
「ところで、一ノ瀬さんもレッカペが好きなんだね。伊藤さん、あなたには気を許した感じだった。アニメや漫画に詳しいの?」
「もっと詳しい友人がいるから、彼女と比べたら私なんか……なレベルですけど、好きです。レッカペは特に大好きでした。あの頃の思い出と結びついているというか、私にとっては特別な作品だったので……すみません、さっきも前のめりになっちゃって。漫画は無料アプリ中心なんで、全巻読んではいないんですが」
「ライトなファンってことね。ちなみに甘野さんの本棚を見て、何か気づいた?」
「本棚ですか?」おたおたとなった私に、二木さんからタブレットが差し出される。「えっと、レッカペもあったな、って……」
 四方田さんが車を加速させた。
「ま、櫻井さんのお話を聞いてからにしようか」

  4

「こんなことになるなんて、早すぎます。俺は咲良が……」
 櫻井緋威路さんは声を詰まらせた。
「咲良が死ぬならがんでだと思ってた」
 何言ってんの、この人。
 調査鑑別室内の応接セットである。上座に櫻井さん、下座に四方田さん、二木さん、そして隅っこのパイプ椅子いすに私。私の同席は、四方田さんの指令だった。これもまた見取り稽古か。
 事務員に案内されて調査鑑別室に現れた時から、櫻井さんは落ち着かなく、また落ち込んでいる様子だった。問われるままに甘野さんとの関係を話し出したはいいものの、程なく顔をゆがませ泣き出した。
「だから、全然心の準備できてなくて」
 三上さんが運んできたお茶にすぐさま口をつけた櫻井さんは、「っつ」とうめき、少し床にこぼした。はなをすすりながら、それを靴で塗り伸ばす。三上さんは表情を変えず一礼して去った。
 スーツ姿の櫻井さんは小柄な男性だった。そうで気弱そうで、でも少し無神経で、おそらくどこか抜けている。私は彼の黒の革靴が、地味に左右違うことに気づいてしまった。形も色もそっくりだけれど、縫い目みたいな模様が違うのだ。
 櫻井さんは甘野さんの元同僚だった。漫画の話などをしているうちに親しくなり、お互い名前に「さくら」があるという共通点も相まって、なんとなく付き合うようになったという。そして交際四年目、甘野さんに病気が発覚した。
「結婚とか考えなかったわけじゃないけど、なんか、まだかなって思ってるうちに、彼女が病気になって……」
 甘野さんの方から結婚を迫るようなことは一切なかったと、櫻井さんは言って洟をかみ、床に溜め息をこぼした。
「病気になった時、甘野さんは落ち込んでらっしゃいましたか?」
 四方田さんの質問に、櫻井さんはまた吐息する。
「落ち込んでいたと思いますけど、正直俺、よく知らないんですよ。なんかそういうの、重くて無理じゃないですか」
 絶句。だが四方田さんは問いを続ける。
「当時、お付き合いされていましたよね?」
「でも、三十代でがんになるなんて、そういうの、やっぱ重いじゃないですか。手術して治るにしたって、気になるでしょ。結婚したら何十年と彼女の病気を気にしながら生きるわけでしょ。重いですよ。そういうの背負わされるのって、俺の人生設計になかった」
 だから、いったんあえて連絡をせず、フェードアウトを狙ったと話す櫻井さんを、私は片隅から睨んだ。
 病気になって心細かっただろうに。恋人に支えてほしかっただろうに。重荷を背負った彼女に力を貸すではなく、一人でやれと見捨てた。こんなひどい話あるか。
 などと怒りに打ち震えていたのだが、微妙に違和感を覚えて立ち止まる。ちょっと待って、間違い探しみたいな瞬間なかった? 何十年と生きる?
「念のため確認しますが」四方田さんはさらっとそれを言った。「甘野さんが余命宣告を受けていたことは、ご存じなかった?」
 櫻井さんはとても分かりやすく驚いた。
「えっ、マジすか? 今知りました。聞いてない。俺が知ってるのはがんになったってだけ。手術してたし、今回は元気になるんだとばかり」
「でしょうね」
 去年の七月に余命宣告を受けたのに、甘野さんは自分の体のことや残された時間を、恋人に話さなかったのか。
 なぜ? 櫻井さんが避けていたから?
「お付き合いって、いつ頃まで続いていたんでしょう?」
「スマホのやり取りとかで、もう把握されてるのかと思ってた」櫻井さんは自分のスマホをスワイプし出した。「病気になってすぐ距離を置いたのは俺の方からだけど、はっきり別れようって言ってきたのは、咲良なんです」
 メッセージアプリの画面には、甘野さん側の吹き出しでこうあった。
『彼氏と彼女の関係は、もうやめよう。ヒイロ君は、新しい人生を歩んでほしい。今までありがとう。元気でね』
「そう来られると、男ができたのかなって思って、俺も気になるじゃないですか」
 櫻井さんはそこから未練がましく、何度か甘野さんにメッセージを送っている。新しい男ができたのか、退院してるのか、一回会おうか。
「全部無視されました」
 当然だよ。
「それで、あの日、俺なりにけじめをつけるつもりで、メッセージを送ったんです」
 ──咲良に寄り添えなくてごめんね。今までありがとう。それだけは伝えておきたい。
 なるほど、あれは別れを告げられた側の、なけなしの強がりみたいなものだったのか。
 そして、一つ納得する。
 甘野さん側のメッセージアプリ画像では、櫻井さんの吹き出し一つだった。つまり、最新のがあっただけで、他はすべて削除していた。
 ブロックまではしなかった理由は不明だが、とにかく甘野さんにとって櫻井さんからのメッセージは要らないものだったのだ。
 櫻井さんはちぐはぐな靴で帰っていった。三上さんがすぐさま応接コーナーの床を掃除し始める。
「やっぱ、甘野さん側から切ってましたね」八反さんが椅子に腰掛けたまま猫みたいに背を伸ばした。「今までありがとう、のメッセージって、いつ送ってます? やっぱ九月?」
「十月一日になってるね」
 きょとんとしている私に、二木さんが教えてくれた。「昨日、ご両親が話されていたんだ。彼女は余命宣告後に身辺整理をしたと」
「資料最後まで読んでないんでしょ」
 八反さんが満面の笑みで指摘してきた。
「すみません」
 とにかく、七月に余命を告げられた直後、甘野さんは非常に不安定になったものの、カウンセリングなどのフォローもあり、一ヶ月ほどで徐々に立ち直る。そして九月に自らの持ち物をバッサリと整理した。
「その時、不要物を業者に配送した伝票が残っていたんだ。お母さまから連絡があったやつね。画像のリンクを送ったよ」と八反さん。「パソコンとかゲーム機、ゲームソフト、そして、漫画とDVDをたくさん処分していた。それらの見積もり伝票が二番目以降の画像」
 タブレットでリンクを開く。言葉どおりの画像が現れた。
 結構な冊数を処分している。こういったものは大抵二束三文で買い叩かれるものだが、それでも八万円超を受け取っているのは、作品のラインナップがいいからだ。人気が高く、今まさにブームのただ中にある作品も見られた。『神の大陸』『エンペラー』『カッコウは愛を知らない』は、とりわけ高値がついていた。
 甘野さんの自室がさっぱりと片付いていたのは、身辺整理の結果だったのだ。そして櫻井さんも整理対象となった。
「じゃあ、甘野さんの絶望の理由って、恋人と別れたことじゃなかったんですね」
「そういうことになるね」
「そっか」私は呟いた。「でも、じゃあ良かったです」
 二木さんが聞き返す。「良かった?」
「余命いくばくもないのに、恋人にも捨てられたのだったら、みじめすぎますから」
 善良ぶっているつもりはなかった。私は本心からそう言った。
 でも、部局内の空気は、一瞬静止したのだ。朝と同じく。
「惨めかどうかを一ノ瀬さんに決めつける権限はない」
 すっくと四方田さんは席を立ち、誰も聞いていないのに「トイレ」と言い残して部屋を出ていった。
 私はぜんとした。さすがにこれは「おもしれー女」じゃない。百瀬室長はおろおろと落ち着かなく、八反さんは「ドンマイ」と片目をつぶり、三上さんは何事もなかったかのように書類をファイルしはじめた。救いを求めて二木さんを見ると、苦笑が返ってきた。
「一ノ瀬さん、割と地雷踏むよね」
 どういうこと?

  *

 初日の私は定時で退勤できた。
 私に続いて出てきた二木さんが、何もないところでいきなりバランスを崩し、ヒヤリとする。
「わっ、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。コンビニに行こうと思ってさ。今日は疲れたでしょ。いきなり外で」
 そうか、私を心配してついてきてくれたんだな。二木さんの気遣いが嬉しい。
 並んで廊下を歩く。二木さんの靴のソールが擦れて、床がキュッと鳴った。私は彼の足元に目を落とす。床は鳴り続ける。キュッ、キュッ、キュッ、キュッ。やっぱりさっき、足首でもひねったのでは?
「四方田さんはたまに言葉きついし、八反さんもまあまあくせあるかもしれないけど、悪いやつじゃ
ないから」
「全然です。皆さん、全然いい感じです」
 そう自分にも言い聞かせる。
「四方田さんはさ、決めつけるのが嫌いなだけなんだ。とにかく何か訊きたいこととかあったら、いつでも言って」
「ありがとうございます。じゃあ……」場繫ぎ的に、私は思い浮かんだままの質問をする。「もしかして皆さんは、甘野さんの悲しみの目星はもうついてたりするんですか?」
「ははっ。どうだろうね」
 されてしまった。もう一つ訊く。
「病気に絶望したという路線はないんでしょうか? 余命宣告もされていますよね?」
 恋人との別れが原因でないなら、彼女の病は無視できない。だがそのことも当然考慮済みだったようだ。
「すでにストレス期にあった状態で宣告されたのなら、発症する人もいるかもしれない。でも、今回の彼女は違うよ」
「そうなんですか」
 長い廊下を進みながら、窓の外に視線をやる。小さな窓枠の向こうに見える明るい世界。この建物に入る前、この窓の並びを見て要塞のようだと思った。
「HBD法って、実際どういう感じになるのか、実はまだイメージがつかめないんです。例えば余命宣告されたのがショックで亡くなったとしたら、告知をしたお医者さんが捕まったりするんですか?」
 アホっぽい問いになったが、二木さんはにこやかにこう答えてくれた。
「医療行為に犯罪性はないよね。悪意を持って故意に、ではないから、捕まらない。法改正後の条文はこうなる予定だよ。『人に対し、悪意を持って故意にHBDを引き起こした者は、十五年以下のちょうえき又は五十万円以下の罰金に処する』」
 悪意を持って故意に。広報ポスターでも見たフレーズである。
「俺たちはまず、HBDを起こした要因の悲しみはなんだったのかを調査する。そしてそれが第三者によって引き起こされている場合、それがわざとなされたものなのか、という点を鑑別するんだ。例えばシンデレラと姉集団の場合」二木さんは突然たとえ話を始めた。「日常的に姉たちにいじめられていたシンデレラが、お城の舞踏会を知り、行きたいと熱望する。でも、その望みを知った姉たちに軟禁されてしまった。唯一の望みを絶たれたシンデレラは、牢内でHBDを引き起こして死んでしまった……とするでしょ」
「ちょっとむなくそな改変ですね」
 率直な感想が口からまろび出てしまったが、二木さんは「ね? 胸糞だよね?」と嬉しそうになった。「デスクに漫画の小冊子があったでしょ? 読んだ?」
「まだです」
「この設定、冊子にあるとおりなんだ。あれ、一度読んでね。とにかくHBDは、体内で生成されるストレス物質同士の化学反応で引き起こされる」
「それは朝、百瀬室長から聞きました」
「じゃあ、話は早い。日常的な虐待で、シンデレラの体内には一つ目のストレス物質CA-fu19が生成され始める。これが第一段階のストレス期。軟禁の末に舞踏会に行けなくなった事実がトリガー。このトリガーで二つ目のストレス物質CKMJが分泌され、シンデレラは死に至る。俺たちが探すのは、このトリガーの方だ。あ、この物質名、今は覚えなくていいよ。室長も言わなかったでしょ?」
 よかった。化学物質名のたぐいは苦手だ。
 白衣の職員の姿が廊下の先を過ぎる。それ以外は、建物内はひどく静かだ。私たちはエレベーターホールに辿たどり着き、のんびりとやってきた箱に乗り込んだ。
「百瀬室長は、ある種のウイルス抗体を持つ人がそうなると言っていました」
「うん。二つのストレス物質は、ZPウイルス抗体を持たない人の体内では作られない」
 ZPウイルス感染症は、えきせんが炎症を起こすほか、発熱、鼻水、リンパ節のれなど、風邪によく似た病気だ。ウイルス自体はもともと存在し、歴史を振り返れば一九三〇年にアメリカ東部で大流行した記録がある。大恐慌でこんきゅうしゃを中心に多くの人が命を落としたが、現代ではよほど重症化しない限りは一週間ほどで回復する。一度かんすれば基本的に二度とかからないが、十年に一度くらいのスパンで、子供や免疫力が低下した人を中心に地味に流行る。去年の秋も、注意喚起のニュースを見た。
 あ、そうか。
「だから甘野さんは違うんですね?」
「そのとおり。彼女がZPウイルスに感染したのは昨年十一月だ。余命宣告された時、彼女はまだ抗体がなかった。抗体取得後、病気は継続的なストレス要因となり、第一段階のストレス期に入ったと考えられる。でも」
「トリガーではないんですね? トリガーは居酒屋で倒れた時の出来事だと」
「いいね、一ノ瀬さん! で、さっきのシンデレラ問題だけど、シンデレラはZPウイルスキャリアで、姉たちも軟禁すれば彼女がHBDを引き起こす可能性があると予測可能だった。この場合、一ノ瀬さんは誰が罰せられると思う?」
「普通にいじめて軟禁までしたお姉さんたちじゃないですか?」
「お見事、正解。では二問目。姉たちがHBDという現象を知らなかった場合はどうだろう?」
「知らなくても、やったことは変わらないですよね?」
「この場合、姉たちは罪に問われないんだ。悪意を持って故意に、というところに当てまらないから。シンデレラはZPウイルスキャリアではないと固く信じ込んでいた場合も、HBDという結果の予測が不可能だとして、故意にはあたらない。もちろん、状況的に知らないはずがないと判定されれば、そんな逃げも通らないけれどね」
 一つ気になったところを確認する。
「お姉さんたちは、最初のストレス物質の原因でもありますよね? そっちはどうなんですか?」
「鋭いね」二木さんは短く褒めてくれた。「でもそちらは不問でね。最初のストレス物質は、要因となる継続的なストレスさえなくなれば、徐々に代謝されて消えてしまう。第二段階に至る人は、実はまれなんだ。それに一番目のストレス物質を作る要因は、本当になんでもありだから。人間って不思議で、昇進や結婚なんておめでたい話でもストレスを感じたりする。だから、調査鑑別で問題にするのは、あくまで最終的に引き金となったことなんだ」
「うーん」
 二木さんとやり取りしながら、私はしゃくぜんとしない気持ちを持て余す。形のないものをスケッチしようとしているみたいなあやふやさを感じるのだ。
「割り切れないかい? 一ノ瀬さん」
「ええ、まあ。まだ不勉強だからですかね?」
「いや、俺たちもだよ」
 実際、HBDの調査鑑別は難しいと、二木さんは軽くため息をついた。
「人の心の中は分からない。これを言ったりやったりしたら悲しむだろうと予想できても、HBDを引き起こすほどの感じ方をさせられるかまでは未知数だ。悲しみや絶望は、究極の主観だ。他者がその深さを測ることはできない」
 同じストレスを浴びても、耐えられる人もいれば耐えられない人もいる。HBDを発症するのは受け手のキャパシティにもよると、二木さんは言っているのだ。
「だとしたら、狙ってHBDを引き起こすことって、そもそも可能ですか?」
「当然の疑問だ。本当にそれなんだ。だから、俺たちが故意と読み取る事例の多くは『未必の故意』になる」
「ええと」私は一般教養の講義を必死に思い出しながらついていく。「HBDになるかもしれないけれど、なっても構わないと思って傷つけた、みたいなことですね?」
「グッド。一ノ瀬さん優秀だね」
 それでHBDという現象を知っているか否かが重要なのか。知らなければ未必の故意も何もない。それにしても二木さんは褒め上手だ。
「私も今朝けさ、地下鉄内で広報ポスターを見ました。頑張って周知に取り組んでいるようですけど、居酒屋のご主人は、何も知らないって言っていましたね」
「HBDなんて聞いたこともない、悲しみや絶望ごときで人は死なないと思い込んでいたとしても、本来わざと人を悲しませていい道理はないんだ。HBDになるかもと思いつつ傷つけて、結果発症しなかったから悪くないってことでもない。でも今決まっているのはここまで。だから、法として不完全だと施行に反対する識者も多いよ」
 HBD悪用傷害罪を採用する法改正は、再来年六月施行の予定だ。
 エレベーターを降り、一階の廊下を抜け、エントランスに至る。外に出るまでに、二木さんと私は職員証を二度、カードリーダーに通さねばならなかった。
 外の風は少し冷たかったけれど、気持ちが良かった。
「傷つくかもだけど、この程度では普通死なない的な言動でも、相手が打たれ弱い人でHBDになったら罪になりますか?」
「もちろんだよ。HBDの発症要件を知りつつ傷つけたのなら未必の故意だ。普通死なないなんて判断は、それこそ主観に過ぎない。最終的には裁判での判決にゆだねられるけれど、俺たちは未必の故意はあったとして報告書を書く」
 二木さんの答えは明快だった。
「同じ暴行を加えたとして、頑健な人なら耐えられてもそうじゃない人なら耐えられないのと同じだ。被害者が頑健だったら死ななかったはず、だから殺人罪にはあたらない、なんて言い訳が通らないのと同じだよ」
「なるほど」
「施行にはプラスの面もある。誰かを意図して悲しませ、絶望させた人間を罰することができるようになる。今は学校教育法でHBDについて教えることが定められている。悲しみで死ぬ可能性があると分かっていてなお、相手を悲しませる行動をあえて選択し、結果相手が亡くなったなら、心を使った殺人だ。目に見えないからと心の傷をなあなあにしてきた今までがとんちゃくすぎただけで、そもそも罰せられて当然のことなんだ。でも」
 ふと見上げると、二木さんの穏やかで優しい笑顔がそこにあった。
「割り切れないという一ノ瀬さんの感覚は自然だと思う。なにせ、心の中のことだからね。蓋を開けて確かめるみたいなことはできない。だからこそ俺たちも全力で調査する。亡くなった方はどんな方だったのか。何が好きで、何が嫌いだったのか。その時何が起こったのか。何を聞いて何を見ていたのか。その場にいた人との関係性はどうだったのか。死んだ人はもう、自分の絶望を語れないからね」
 なるほど、と納得しかけ、自分自身で待ったをかける。
 ──四方田さんはさ、決めつけるのが嫌いなだけなんだ。
 さっき二木さんはこう言った。
 朝は八反さんも、
 ──だーかーらー、四方田さんの主義と矛盾してますよね?
 と言っていた。
 なんか引っかかる。
「ところで、一ノ瀬さんはどうしてレッカペのアニメが好きだったの? 放映時はまだ小学生だったはずだ。ターゲットの年齢層からは外れてる」
 二木さんが話題を変えた。私はつま先あたりに転がっていた小石を、さりげなくり飛ばそうとし、やめる。
「あれって演劇と音楽の話じゃないですか。実は私も元子役だったんです」
「ああ」
 二木さんが漏らした「ああ」はどう解釈すればいいだろう? 「ああ、そうなの?」なのか「ああ、知ってた」なのか「ああ……ってええ? マジで?」なのか。私はうっすらとした気まずさを誤魔化すべく、さっさと情報開示してしまう。
「ドラマや映画に出たとかはないです。地元だけでやってる子供メインの劇団です。定期公演も、家族親戚が頑張ってチケット買って、ようやく客席が埋まるみたいな」
 自分からは吹聴しない過去だが、話題に上れば話す。センターここに出した履歴書にも、趣味は演劇・観劇と書いた。
「毎週演技やダンスなんかのレッスンがありました。習い事としては超少数派だったから、クラスでは浮いていたけど、でも」当時を思い出して、私は自然とニコニコしていた。「初めてメインの役をもらえた時は、嬉しかったな。初雪の使いの役、なんていうのも演ったんですよ」
「ああ、初雪の使い。舞台やホールに雪を降らせるんでしょ?」
「そうです、よく分かりますね。いや、そのまんまか」
 あの頃は楽しかった──劇団に行けば茉莉絵がいた。大人に褒めてもらえた。才能があると言われた。メイクして衣装を着て写真を撮られて、そして、美羽ちゃん可愛かわいいよ、将来は女優さんだね、なんて……。
 割とその気になっていた。
「中学卒業を機に辞めましたけど」
「どうして?」
 会話が途切れた。二木さんの目指すであろうコンビニは、もう目の前だ。
「ところで二木さん、やっぱりさっき、足を捻ったんじゃないですか?」
「ああ。俺の歩き方、変でしょ? 足の指が若干ないからさ」
 二木さんはさらりと言い、「じゃあ、お疲れさま」とコンビニに消えた。

  *

「で、イケメンはいるの?」
 劇団時代からの親友、茉莉絵は好奇心を隠さず訊いてきた。
 午後七時、私と茉莉絵は居酒屋にいた。初出勤をこなした私へのねぎらい……というのはもちろん口実で、会って飲めたらなんでもいいのだ、私たちは。
「茉莉絵の相変わらずさに救われる」私は烏龍ウーロン茶を一気に飲むと、運ばれてきたラーメンサラダをほおった。「変わらないよね、イケメンに目がないところは」
「許されたい。リアルでも推しを探したいじゃん?」
 二年前に専門学校を卒業し、地元地銀に就職した社会人三年目の茉莉絵からは、配属初日をようやくこなした私と違い、余裕が感じられた。茉莉絵は私が語る初日のあれこれを──もちろん個人情報には配慮した──うんうんと頷き、レッドカーペット・ロックが絡んでいると知るや大興奮し、終始共感を示しながら聞いてくれた。
 その上で、イケメンの有無を確認してきたわけだ。
「その二木さんって人は? 美羽の教育担当なんでしょ」
「茉莉絵なら八反さんの方が好みなんじゃないかな。三上さんも整ってたけど……」
「え、待って。転職したい」
「八反さんは指輪してた」
「別に結婚したいわけじゃないもん」
「四方田さんっていう主任は美人だよ」
「キツそうな人ね。仕事任される立場になると、私もピリピリしちゃうのかな」
 ──惨めかどうかを一ノ瀬さんに決めつける権限はない。
 あの時四方田さんは、怒っていたのかもしれない。
「人は悲しみで死にます、か」
 我知らず呟くと、茉莉絵は白い歯をこぼした。
「それ、HBDの新しい標語?」
「ごめん、ただの独り言。HBDのこと、茉莉絵は知ってた?」
「もちろん。就活中にチェックしてたBSの海外ニュースでも、HBDを利用した殺人事件が何度か報じられていたよ。欧米ではもう法整備ができてるんだよね」
 そうなのだ。海外ではすでに多くの国や州でHBDを悪用した際の罰則規定ができている。日本は遅れている方だった。
「うちの支店のカスハラ警告ポスターの横に、HBDのけいはつポスターも貼ってある。でも貼ってあるってことは、言葉を換えれば周知過程だよね。美羽の部署はそういう広報活動もやるの?」
「どうかな。でもリーフレットはあったから、今度一冊もらって茉莉絵にあげるね。漫画で描かれてたよ」
「力入ってるじゃん」
「事務職でエントリーしたのに、なんでこの配属先? とは思っちゃうけど。まあ、それなりにやるよ。明るく軽妙に深刻ぶらず、ってね」
「あはは、それなりにってのはダウト」茉莉絵は私の前にあるコップを指差した。「しっかり明日も頑張ろうって思ってるくせにね」
 アルコールを頼まなかった私に、茉莉絵はちゃんと気づいていた。「バレてたか」
「劇団を辞めたあと、お互い将来何になりたいか、話したことあったよね」
 夏の日差しとキャラメルモカの香りを一瞬感じた気がして、私はドキッとした。「よく覚えてるね」
「忘れるわけないじゃん。その時美羽は研究者になりたいって教えてくれた。最後の舞台のドクターになりたかったって。だから、新墾血液医療研究センターにエントリーシート出したって聞いたとき、ここが美羽の本命なんだろうなって思ってたよ」
 さすが付き合いが長い茉莉絵だ。見抜かれていた。
「残念ながら理系適性がなかったから、事務の立場で関われたらと方針転換したんだけれどね」
 茉莉絵は久しぶりに会う私の話を大いに聞いてくれ、料理を大いに楽しみ、二時間で三杯のジョッキを空にした。そうして、酔いを感じさせないシャンとした足取りで地下鉄駅まで歩きながら、私に言った。
「その調査鑑別室? もしかして、事務職より美羽に向いてるかもよ」
「本当? なんで?」
「だって美羽、役に入り込むの得意だったじゃん。ひょうがたと言ったら美羽だったよ。今度の役は、亡くなった人ってことでしょ?」
「役柄と同じにしていいのかな? それに私、リリ役で失敗してるよ」
「舞台は舞台。調査鑑別は調査鑑別。でも、気持ちを摑むって意味ではやること一緒じゃない?」茉莉絵は片目をつむった。「美羽の才能は、私が一番知ってるんだ。たださ、無理だけはしないで。自分が一番大事だよ」

  5

 翌日、外崎愛さんと多田萌さんの二人とファミレスで落ち合った。調査鑑別室側からは、四方田さんと二木さん、そして見取り稽古中の私が赴いた。
「また漫画やアニメの話になったら、話を盛り上げて」
 今日も黒シャツ黒パンツの四方田さんは、私にそんな指示を飛ばしてきた。
 レストランスタッフだという外崎さんは、ほっそりと手足の長い、しなやかな感じの女性だった。ショルダーバッグにはレッカペのキーホルダーをぶら下げている。
 もう一人の多田さんは会社員である。小柄だが豊満で、活動的な印象だ。手持ちの革のバッグに装飾はなかったが、テーブルに載せたスマホが華々しくデコられていた。
 オーダーを済ませると、外崎さんから切り出した。
「でも、ショックです。アマンダさんが死んじゃうなんて」外崎さんは身震いしてみせた。「急に倒れた時も超怖かったけど、病院で手当てしたら治るって思ってた。でもその後檸檬さんからメッセージが来て、死んだって知らされて、もうトラウマになりそう」
「怖かったですよね」四方田さんが理解を示してみせた。「当時のことを思い出させてすみませんが、甘野さんが倒れる直前は、どんな話をしていたんですか?」
「先生の新作のことです」即答だった。「通知入ったんでSNSチェックしたら、公式がスピンオフやるって投稿していて、うわーって叫んじゃいました。もう大騒ぎでした。十年音沙汰なかったんだから、当然ですよね」
「居酒屋の人からも注意されたそうですね」
「申し訳なかったですけど、オタクなら嬉しくて当然のシチュなんですよ」多田さんも喋ってくれるタイプのようだ。「これがプロポーズのためのフラッシュモブなら、騒いでもみんな祝福してくれるのに、人って勝手だな」
「甘野さんの反応はどうでした?」
「喜んでたと思いますけど……」
「でもさ、具合悪そうだったよね」多田さんが外崎さんに言う。「黙りこくったじゃん?」
「あー、確かに。でもあの人クール毒舌キャラだし、私はあーまた冷めてるって」
「私は若干怖かった。だって彼女持病あったから」
 四方田さんは多田さんの一言を聞き逃さなかった。「彼女が病気だと、皆さんは知っていたんですか?」
「はい。何度か、SNSに持病があるっぽい匂わせ投稿してたから。半日くらいで消してましたけど、消すのが逆にリアルで」
 外崎さんも頷いた。「裏垢でアマンダさん何の病気だろうねって話題になったことあります。私は、せいぜい生理重いのかなくらいに思ってたから、構ってちゃんだなって」
「持病に限らず、ZPウイルスに感染した時も、わざわざ陽性結果の紙を写真に撮ってアップロードしてたくらいなので、構ってちゃんのところあったのは否定できない」
「それは去年の十一月のことですか?」
 四方田さんが確認すると、二人は異口同音に「そうです」と認めた。
「それも後で消してましたけど、辞世の短歌もどき詠んでたから、ちょっとウケた」
おおなんです。私だって中学の時に感染したけど、ノロの方がずっと辛いよ」
「それでさ、あの時の檸檬さんのコメント、地味に好きなんだよね」
 多田さんは裏アカウントを見せてくれた。三人が鼻白んでいるトークの中に、
『さっきのアマンダさんに、私は36度8分で大騒ぎした政治家を思い出したわけで』
 という投稿があった。檸檬無糖、伊藤さんのアイコンで間違いない。二木さんがメモをする。
「居酒屋で甘野さんが具合が悪そうになったのは、何時ごろでしょう? この最初の告知を見た直後?」
 四方田さんが自分のスマホで件の告知を表示させた。
『レッドカーペット・ロック 待望のスピンオフ正式決定!』
「いいえ。ちょっと触っていいですか?」多田が指を伸ばし、画面を変えた。「次の投稿、先生のコメントの時です」
『スピンオフという形で、また皆様にお目にかかります。ショーヤとジェイのブロードウェイ挑戦をどうか応援してください! 七月号から全十回予定!』
「七月号とありますが、レッカペの掲載誌は週刊でしたよね?」
「スピンオフは月刊誌掲載です」
 外崎さんの答えを多田さんが補足する。「週刊連載ってほんとキツいから、これからは月一ペースにするの、全然アリだと思う。先生お休み明けだし、早く続きが読みたいからって無茶させるのは、ファンの風上にも置けない」
「甘野さんは、この先生のコメントを見た直後に倒れたんですか? 具合悪そうに黙って、すぐばたりと?」
 多田さんが答える。「いいえ。倒れるまではもう少しありました」
「間違いありませんか?」
「ないです。だってアマンダさん、黙った後に毒吐いたんです。この人、リアルでも水差すのかよって呆れました。でも檸檬さんがそんなの構わないってレベルですごい興奮して、アマンダさんの毒吐き吹き飛ばしちゃって、それでうちらもつられてわーって。つまり、毒吐くくらいには元気でした」
「毒吐きって、具体的に何を言ったんですか?」
「週刊誌でやってほしかった、って。このレーベルは掲載媒体にランクがあって、週刊が一番上なんです。ビッグヒットは大体週刊連載の作品。次に月刊、その下に季刊誌、ウェブ。連載時は週刊だったんで、格落ち感を指摘したんですよ。檸檬さんが全力応援モードで流してくれたので、良かったです」
「どんなふうに流したんですか?」
「むしろ月刊の方が週刊より長く楽しめるとか、先生のペースで無理なく描いてほしい、とか、いつまででも待てる、とか。うちらが言いたいこと全部言語化してくれました。ファンの鏡ですよ」
「アマンダさんが倒れたのは、その盛り上がりの最中でした」
 彼女らの話を総合すると、甘野さんは最初の告知に喜び、次の作者コメントで束の間気分が悪そうになったが、掲載媒体に文句をつけられるほどには元気だった。そして、その毒舌に構わず三人の仲間が盛り上がっている最中、いきなり倒れた。
 二木さんがこの流れを簡潔にメモしていく。四方田さんは質問を続けた。
「では、日頃のことについて教えてください。本音では、甘野さんのことをどう思っていました?」
 外崎さんはストローから離した口を尖らせた。
「原作愛はあるんだろうけど、毒舌キャラで冷めてて、そこが合わなかった。檸檬さんは愛ある毒舌にスカッとするってようしてたけど。あとケチくさいところも嫌でした」
「同人誌を買わないところですか?」
「そういうのもだし、こういうバッジとかデコとか、うちらはお金かけてやるんですけど、アマンダさんはしてなかった」
 外崎さんの文句を聞きながら、私は甘野さんが生前整理済みだという事実を思い出していた。処分したものの中には、グッズや同人誌もあったかもしれない。ことに同人誌の処分は、なるべくなら人任せにはしたくないんじゃないか。だとしたらもう、グッズや同人誌は買うつもり自体なかったのかもしれない。だがそれを、今この場で外崎さんに言うことはできなかった。なぜなら、かもしれないだから。
 外崎さんはなおも甘野さんへの不満を重ねる。
「同人誌買わないのはいいとして、原作に対して否定的な瞬間があるのはさすがにどうなのって思ってました。原作ってか、原作の終わり方についてかな? うちらはずっと続いててほしかったけど、彼女はれいに終わって良かった、って人でした。私だけは冷静ですってアピールですかね?」
 多田さんも訴えた。
「そういうの、続きを望むうちらも否定されたみたいで、面白くないです。ファンが続きを読みたいって思うの、そんなにおかしいですかね? それに、終わっちゃった作品って、どうしてもファンも減って、オタクの間でも立場悪くなるんですよ。連載中ってだけで毎週毎月燃料投下されてネットで盛り上がってるの、正直うらやましい。だよね、アイさん?」
「うん、めっちゃ羨ましい。まあアマンダさんも、スピンオフ読みたいって言った時もあったけどね」
「あったっけ、そんなこと?」
「年明けすぐ、明日読み切りスピンオフの発表ないかなって呟いてたでしょ。ウイルス感染が治って機嫌良かったのかな?」
「まあ、アマンダさんもスピンオフ全否定ってわけじゃなかったのかもだけど、いかんせん前ジャンルは砂かけして去ったうわさあるし、辛口芸されるとモヤる」
 この場合の砂かけとは、作品のファンコミュニティを脱退する際に、作品やコミュニティに対してネガティブな言動を残して去って行くことである。作品への苦言や難癖、原作全部売った、まだファンやってる人は頭悪い、など。ソシャゲだと、ガチャの排出が悪すぎる等、運営への不満を残していくパターンもある。
 四方田さんが身を乗り出した。「その噂について詳しく伺っていいですか? 前のジャンルって何だったんでしょう?」
 代表で多田さんが答える。
「『神の大陸』です」
「めっちゃ有名な作品じゃないですか! 舞台観ました!」
 ここで私は食いついてしまったが、つまりはそれほどの大ヒット作なのである。エジプト史をベースにした歴史超大作、アニメ化はもちろん、2・5次元舞台にもなっており、漫画アプリ内の投票では、五年連続『教科書に載せてほしい漫画』第一位に輝き続けている。
「砂漠王シャンスと忠臣ゼペの二人、萌えますよね。舞台でもかっこよかったです。アニメは十月からは五期が始まりますよね。まだまだ続くって感じで、二人の冒険は果てが知れない……」
 視線を感じた。四方田さんだった。盛り上げ役を命じられていたとはいえ、うっかりやり過ぎた? いや。
 四方田さんの口元にささやかな笑みが浮かんだように見えた。でも一瞬でかき消える。視線は私から外れていき、彼女の手元のタブレットに落ちる。画面には、不要物として処分したもののリスト。
 そういえばあのリストの中にも『神の大陸』はあった。
 四方田さんは質問を続ける。
「甘野さんがどのような砂かけ行為をしたか、ご存じですか?」
「作者に終わらせる気がない、引き延ばしがひどいって言い捨てて、去ったらしいです」
 ──人気が出ると作者も編集もむやみやたら延命しようとして、百倍に希釈した出涸らし化すると言っていました。
 似たようなことを、伊藤さんからも聞いていた。
「それはいつ頃か知っていますか?」
「レッカペに来る前後だろうから、去年の秋? 具体的な日付はちょっと」
「噂は誰から聞いたんですか?」
「檸檬さん。彼女同人歴長いから、ジャンル超えて顔広いんだよね」
 多田さんが答えれば、外崎さんも続く。「よく他ジャンルにも寄稿してるよね。『神の大陸』の鈍器アンソロジーとかもそう」
「毎年クリスマス前後に『神陸アンソロジー』って、アンソロジー同人誌が出るんですけど、檸檬さんはVOL1から去年のVOL5まで、全部に寄稿しています。今年も書くんじゃないかな。主宰と仲良しなので」
「甘野さんの砂かけの噂は、檸檬さん、つまり伊藤さんが界隈に広めたんですか?」
「違いますよ。その時、別ジャンルの砂かけ発言が、オタク界隈でバズってたんじゃなかったかな。その流れでさらっと裏垢で出ただけ。全然悪口じゃなくて、そういうこともあったようだけど、レッカペでは仲良くやりたいね、みたいな感じでした。そうだよね、アイさん」
「うん。アマンダさんって、レッカペジャンルに来てからの名前だろうけど、読み専でもそこそこ目立つ人って、ジャンル移動して名前変えても大体特定されるんですよね。檸檬さんにはアンソロ主宰するくらいの友達もいたから、アマンダさんの前歴はトラブル含めてすぐ分かったんじゃないかな。でも、最初にバレたのが檸檬さんで、アマンダさんにとってはラッキーだったと思います」
「檸檬さんだと、どうしてラッキーなんでしょう?」
「いい人だからです」
 多田さんは即答した。外崎さんがさらに補足する。「レッカペの界隈が平和なのって、檸檬さんが中心だからですよ。やばい雰囲気になったら率先して話題変えたりネタ投下したり、雰囲気整えてくれます」
「アマンダさんも毒キャラだから、人気作品にもダメ出しして、タイムラインの空気悪くすることもあった。そんな時、檸檬さんがちょっとしたイラスト上げたりして、めっちゃ頑張って空気変えようとしてた」
「確か、アマンダさんが真っ先にフォローしてたのも檸檬さんです。レッカペファンダムといえば檸檬さんですから。檸檬さんがフォロー返した時、結構テンション高いやり取りしてましたよ」
「絡みやすい人だし、分け隔てなくリプしてくれるし、率先して自分が踊ってくれるタイプだから、檸檬さんにはマジで頭が下がる」
 それから外崎さんと多田さんの二人は、伊藤さんの振る舞いと『レッドカーペット・ロック』のファンコミュニティを、口々に讃えた。四方田さんは意外にも聞き上手で、「そうなんですか」「すごいですね」「レッカペファンの皆さんは、民度高いですね」などと二人を盛り上げていた。

  *

 一昔前の洋楽が流れる帰りのミニバンの中、四方田さんは語らず、二木さんは諸連絡をタブレットで確認すると、やはり黙った。
 タブレットを見せてもらう。案件情報は逐次アップデートされ、充実していく。
『檸檬無糖さんがフォロバしてくれて、めちゃ嬉しい! 以前からこっそり作品拝読しています。クールな絵とダークで深みのあるストーリーが大好きです。よろしくお願いします!』
 これは甘野さんのSNSアカウントに残されていた、伊藤さんへの最初のレスポンスだ。確かに普段の甘野さんと比べたらテンション高めなのかもしれない。最初の挨拶のせいもあるのか、辛口のへんりんもなかった。
 甘野さんの所有物やスマホ内の電子書籍情報、昨日画像で見た処分済みの書籍、物品伝票の内容も、読みやすくデータ化されていた。
 ──本棚を見て、何か気づいた?
 昨日四方田さんから言われた。だったら何か必ずあるのだ。私は所有物の中の漫画リストに目を凝らした。出版社は関係なさそうだ。ジャンルもスポーツもの、ファンタジー、ラブコメ、ミステリーと幅広い。
 これらの共通点は、友情、努力、勝利が織り込まれている、一昔前の少年・青年漫画だということ。
 処分されたタイトルも見ていく。こちらにも友情、努力、勝利が織り込まれた作品は存在した。これらはなぜ、生前整理対象になったのか。そんなに好きじゃなかったのか、今まさにブームのただ中にある作品も多いのに、残された人生の中で、これはいらないと分別された……。
 処分済みリストの中に、四十冊ほどの同人誌があった。
 話に出てきた『神陸アンソロジー』のVOL1〜4もあった。一冊四百円の査定だった。VOL4発刊は一昨年おととしのクリスマス。余命宣告を受ける前に出た本は、買っていたのだ。
 お金を落とさない、ケチくさいと外崎さんから言われていた甘野さんだが、余命の件がなかったら、きっと彼女の同人誌も買ったような気がする。
 漫画が好きな甘野さん。レッカペ好きな甘野さん。甘野さんは何が悲しかったんだろう。彼女の気持ちになりたい……。
 はっとする。今、頭の中で何かが見えた。

  *

 その日、私は退勤後『喜多の酒場』に足を運んだ。
 店長に頼み込み、甘野さんが倒れた掘り炬燵の席に座らせてもらう。店はこれから忙しくなる時間帯だったが、許してもらえた。
 ──気持ちを摑むって意味ではやること一緒じゃない?
 私は深呼吸した。一度、二度、三度。甘野さんの気持ちに近づき、取り込んでいく。また一瞬、何かが見えた。路地裏に隠れる猫の尻尾しっぽみたいにひらりと。その尻尾に手を伸ばし手繰り寄せる。そうだ、売った作品には共通点がある、そして残った作品の共通点も。
 甘野さんというキャラクターを私の中に下ろす。昔、劇団にいた頃、そうしてきたように。
 ここは居酒屋。一緒にいるのは大事な趣味を共有する仲間……。

  *

 朝、部局員が揃ってまもなくだった。
「甘野さんが所有していたレッカペの単行本。紙の方は、かなり版を重ねていた」
 四方田さんが発言した。それを機に、まるで雑談のようにミーティングが始まった。
「電子書籍は、去年の八月二十五日に全巻いっかつ購入だね」
「余命宣告を受けた日付七月二日、セカンドオピニオンは七月十七日です」
「身辺整理開始は親御さん情報で八月中旬でした」
 事実列挙の中途、
「一ノ瀬さん」
 いきなり名を呼ばれた。目が合った四方田さんがにっこりした。
「甘野さんが処分した書籍リストを見て、どう思った?」
 座の視線がこちらへ集中するのを感じる。
 私は腹を決めた。椅子に浅く腰をかけ、丹田に力を込める。
「結構いい査定がついてると思いました」
「査定が良かったのはなぜだと思う?」
「はやりのタイトルが多かったからではないでしょうか。『神の大陸』『エンペラー』『カッコウは愛を知らない』……みんな旬です」
 四方田さんは頷いた。「漫画は連載途中の状態でお金を稼ぐコンテンツだと、甘野さんも言っていた。つまり、この三作の共通点は?」
「三作品とも、現在絶賛連載中です。逆に、本棚に残っていたのは完結作品ばかり」
「そのとおり」
 四方田さんが親指を立てた。綺麗とか素敵とかいうより、勇ましい。「じゃあ、そこから何が推察される?」
 百瀬室長が心配そうにこちらを見ている。対して八反さんはエンタメを眺めている感じ。三上さんは真面目な顔で、二木さんは──さつの笑みだ。その笑みが語りかける。
 言ってみなよと。
「甘野さんは」発声と同時に口の中がみるみる乾いた。「完結が見届けられない作品を切ったんだと思います。本当はその作品も好きだったのかもしれないけれど、絶対に最後まで読めないから」
 舌が上手うまく回らずつかえてしまった。さりげなくつばを飲み、続ける。
「彼女は、引き延ばし作品に否定的でした。あれも自分に言い聞かせていたのかも。読めないんじゃなくて、自分にとって読む価値がないものだって。怒りもあったかもしれない。引き延ばしをしないで描いてくれていれば、もしかしたら間に合ったかもしれないのにと。『神の大陸』も、連載開始当初は三年で完結する予定だったって聞いたことあります。でも今は架空の国も出てきちゃって、いつ終わるか分からない。ドル箱だから、出版社の事情もあるんだろうけど……」
 四方田さんは大きく頷いてくれた。
「私もそう思う。これは、余生を精一杯楽しむ上での甘野さんの選択だった。いよいよこの世を去るという時に、完結を見届けられない作品がまだあることが、大きな心残りになることをうれいたのでは。スピンオフについても、彼女が読みたいと言っていた形態は読み切り。それも明日発表ないかな、だった。そうだよね、一ノ瀬さん」
 なぜか四方田さんは私を相手にする。私はそれに懸命に食らいついた。試されているのかもしれないからだ。
 あるいは、期待されているのかも?
「はい。だから、甘野さんは余命宣告後、完結済みの作品を選んで読んだのだと思います。読んで……」
 言いながら、昔の私を思い出す。
 こんなふうに、誰かの期待に応えたいと懸命になった時期があった。あの頃は楽しくて、やりがいがあった。私にはこれが向いている、才能がきっとある、舞台に立って演劇をして生きていく……。
 ──伸びなかったね、一ノ瀬美羽。
「どうしたの?」
 二木さんだった。私は慌てて首を振り、言葉を継いだ。「読んで、『レッドカーペット・ロック』にハマった。ハマって買い揃えて、終わりそうもない『神の大陸』は砂かけした。最期までレッカペだけで楽しむつもりだった。でもあの日のオフ会中に、告知が飛び込んできた」
 役になりきって、その人の気持ちで。
「余命一年の宣告は去年の七月。スピンオフは全十回、掲載は月刊誌です。七月号からだから、発売は六月として、終わるのは来年の三月。そう考えたら……」
 昨夜、居酒屋で摑んだ甘野さんのキャラクターを被る。
 私は残された時間を精一杯楽しむことに決めた。思い残しを作らないように、うしろ髪引かれそうなものは私から捨てた。私より先に終わっているものは安心できる。私は何も逃さずにすむ。
 そこに舞い込んできた吉報。喜ぶ仲間たち。でも私は待てない。凶報でしかない。
「本当は好きな作品の続きが読みたい。でも、それが現実になった時、読み切ることはできないと分かってしまった。だから悲しかった……」
 不意に小さなクエスチョンが頭の中で生まれる。
 私だってアニメや漫画は大好きだ。好きな作品のスピンオフが見られない、読めないとしたら、残念で悲しい。
 でもそれって、死ぬほどのこと?
 頭の中でアラートが鳴る。こんな気づき、昨夜ゆうべはなかったのにどうして。これ以上クエスチョンを見つめてはいけない。これは〝私〞の気持ち。甘野さんじゃない。また失敗してしまう、私自身が出てしまう、リリの時のように──。
 アラートは間に合わなかった。憑依は解け、私は口走っていた。
「こんなことで?」
 と。
「こんなことで、とは何?」
 一瞬で肝が冷えた。四方田さんの目には怒りがあった。
「それはあなたの価値観でしょ」
 言葉が出なかった。
 口の中に苦い味が広がる。舞台の上で失敗した時に感じていたのと同じ苦みのまぼろし
 視線だけで周りを窺うと、百瀬室長がオロオロしている他は、割とそっけなかった。また地雷踏んじゃったか、という雰囲気。
 でも。だったらやっぱり矛盾している。
 ──四方田さんはさ、決めつけるのが嫌いなだけなんだ。
 決めつけるのが嫌いだと言いながら、ここの中心にいて、調査を主導する四方田さん。
 ここは調査鑑別して、もう答えを言えない人の答えを決めつけるところじゃないのか。
 最初の日に、八反さんが四方田さんに矛盾と言っていたのも、きっとこのことだ。
 四方田さんの怒りは、すぐに気配をなくす。彼女はさっぱりとこう言った。
「いずれにせよ、檸檬無糖さんこと伊藤さんに、もう一度話を聞いてみなければね」

  6

 二日後、四方田さんが運転するミニバンで、伊藤さんが指定したカフェに向かった。カフェは郊外の山近く、自然豊かな場所にあった。
 四方田さんは黒いビジネスリュックを左肩に担ぎ、さっさと店の奥に行く。
 十分ほど待つと、コート姿の伊藤さんがやってきた。入店してきた彼女の表情は硬かったが、四方田さんの隣に私が座っているのに気づくと和らいだ。
 たった一人の同行者に私が選ばれたのは、このためもあるのかもしれない。
 それぞれのオーダーを終えると、四方田さんは切り出した。
「まず、これまでの我々の鑑別を、こちらの一ノ瀬からお話しさせてください」
 無茶振りだった。「私ですか?」
「一昨日、私たちに話したことをそのままお伝えして」
「え、何?」伊藤さんは四方田さんではなく私に訊いてきた。「何か分かったの?」
 私はミーティングの場で話したことを繰り返した。甘野さんの病気のこと、生前整理のこと、完結済みの作品だけを残し、未完の作品は切ったこと、そこにスピンオフが決まったこと、それはおそらく最後まで読めないだろうこと。
 伊藤さんは次第につまらなそうになり、私の話が終わるとこう言い捨てた。
「ふうん」
 こんなことで? と口走った先日の私が、彼女の「ふうん」に重なった。
 私も思ったのだ。こんなことで死なない。死ぬほどのことでもない。もっと辛いことは、世の中にいっぱいある、と。
 でも、それは私の話だ。私だけに当てはまる価値観だ。
 あの時怒りをあらわにした四方田さんの気持ちが、少し分かった。
 すぐ解決しそう。
 かわいそうで惨め。
 四方田さんが反応したとき、私は甘野さんの話にも拘わらず、私の価値観で結論づけていた。
 四方田さんが話し始める。
「甘野さんは去年の夏、余命一年の宣告を受けていました。来年三月まで続く作品は見届けられない、心残りを抱いて死ぬのだ、という失意は確実に芽生えたでしょう。そして、それを増幅させたのがあなたたちが喜ぶ様子だったと思います」
「喜んじゃいけませんか? オタには嬉しくてたまらないことですよ? 喜ぶのは犯罪じゃない。先につまんないこと言ったのはアマンダさんです。週刊が良かったとか、盛り下げたんです」伊藤さんはうっぷんを晴らすかのように捲し立てた。「あの時のアマンダさんには、正直腹立ちましたよ。私こう見えて怒りっぽいんです。でもこの歳でカリカリしてると、若いオタに更年期って陰口叩かれる。こらえて調停役に徹してるんです。私は界隈の空気を大事にしています」
「甘野さんが悪くした雰囲気を整えることも多かったそうですね」
「辛口芸を使いこなすには、アマンダさんは幼すぎました」
「それで、あの場でも調停役として振る舞ったんですね? 甘野さんの毒舌を喜びで流してしまおうと」
「ええ、そうですよ」
「でも、それだけですか?」四方田さんは唐突にリュックから同人誌を取り出した。「伊藤さん、このアンソロジーに寄稿されていますよね」
 表紙にさんぜんと輝くはくしの『神陸アンソロジーVOL4』。
 ちょ、なんでそれを? 私は目をいた。
「待ってよ」伊藤さんの頰がメイク越しでも赤くなった。「わざわざ取り寄せたの? ファン以外が読むの想定してないのに。そういうの、ヌーディストビーチの盗撮みたいですごい嫌。反則」
「いえいえ。私も『神の大陸』のファンで、二次創作も読むんです。このアンソロジーも毎年買っています。これも発売日にネット通販で購入しました。ほら、購入日が一昨年のクリスマスでしょう?」
 ネットショップの購入履歴を堂々と見せる四方田さん。オタク趣味なんて一つも知らないみたいな顔して、すっかりだまされた。
「だから、初めてお目にかかった日、あの檸檬無糖さんかと驚いたんです。思わずお名前を確認してしまいました。アイコンの絵柄で、間違いないとは思いましたけどね」
 あの名前の復唱にはそんな裏があったとは。四方田さんは続ける。
「マイナージャンルですが、私も描き手の端くれですしね。とにかく、こちらのアンソロジーは毎号読み応えあります。もちろん、檸檬無糖さんの作品も引き込まれましたよ」
「……ありがとうございます」
「この年の寄稿作品は『神曲』ですね」四方田さんは同人誌のページを開いた。「原作の裏で、実際こんなエピソードがあったんじゃないかと思わせる、リアリティのある短編でした。原作には名前しか出てこないモブキャラを使って、主人公の残酷な面を際立たせていた。キャラの解像度が高いからこそなせる技です。感服しました」
 伊藤さんは同人誌から目を逸らし、窓枠を睨む。「嬉しい感想です」
「この中で主人公は、鼻につくモブキャラへの制裁として、彼をうたげに呼びつけ、満座の前で彼の政敵を盛大に祝福しますね。その場のみんなも、政敵をたたえて歌い踊る。ダークでした。こういうセリフもあります。『最も効果的な嫌がらせは、そいつの気に入らないことをことさらに楽しんでみせることだ』」
 窓枠に注がれる伊藤さんの目つきが変わった。
「伊藤さんは身を削って作るタイプとおっしゃっていましたね。自分の内側に無いことは描けない、とも」
 同人誌を手にしたまま、四方田さんは静かに詰め寄った。
「調停役を自任するあなたなら、砂かけ前科のある人が大切なレッカペ界隈に来て、警戒したでしょう。空気を読まず毒を吐く甘野さんの振る舞いに対して、思うところは一つもありませんでした? あの日、甘野さんの前で店の人に注意されるほどに喜んでみせたのは、場の空気を整える意図だけですか? 伊藤さん、あなたは甘野さんに持病があることに気づいていましたね。ここからは私の想像ですが、あなたは作品を引き延ばすことを極端に否定する彼女の態度から、命に限りがある病の可能性も考えたのではないですか? 読み続けられない事情があるんじゃないか、それは持病と関係あるのではと。その上であの日、あなたはあえて嬉しがってみせたのでは? あえて、いつまででも待てると言ったのでは? それが一番悲痛与えられると踏んで」
 伊藤さんは四方田さんを睨んだ。
 その目で十分だった。
「だからなんなの」
 伊藤さんの口調は、ギョッとするほど憎々しげだった。
「こっちがムカつくのには理由があった。先にダメなことしたのはアマンダなのに、正当にやり返してもこっちが悪く言われるなら、どうすればいいわけ? そこまで気を遣わなきゃいけないほど彼女は偉いの?」
「『神の大陸』のファンダムを砂かけして去る前、甘野さんはこのアンソロジーも購入されていました。当然、伊藤さんの作品も読んだはず。ダークで深みのあるストーリーが大好きだと、SNSで繫がった際の挨拶にもありましたね」
「だからなんだっていうんです?」
「伊藤さん」
 四方田さんは分厚い同人誌をテーブルに置いた。
「甘野さんは気づいたんだと思います、あなたがお店に注意されるまで喜んでみせた意図に。気づくほど、あなたの作品を読み込んでいた。最初のやり取りでの『大好き』は、お世辞でも誇張でもなかったと思います。だから悲しくなった。自分を傷つけようと、必要以上に喜んで見せている人間が目の前にいる。それが檸檬無糖さんだということが、心底悲しかった。それで、HBDを起こした……作品が読めないからじゃない。あなたにわざと傷つけられていると分かったからこそ、彼女は絶望したんです」
 伊藤さんは舌打ちした。「バッカみたい」
「伊藤さん。あなた、HBDについてご存じですよね?」
 ──でも死因はHBDなんですよね? だったら病気関係ないですよね。
 HBDについて無知であれば、出てこないセリフだ。
「甘野さんがZPウイルスの抗体を持っていることも知っていたはずです。彼女の感染時の投稿を、あなたは読んでいる」
「だから何? 結果論でしょ。私の態度でアマンダが絶望するかどうかなんて、私に予知できたとでも言うの?」
「でも、HBDを引き起こすかもしれない可能性は把握していた。ならないかもしれない。でもなるかもしれない。その上で傷つけようとことさらに盛り上がって見せたのなら、それでHBDになってもまあいいか、と思ったということ。立派な未必の故意です」
「刑事ドラマでしか聞いたことない単語」
「じゃあ、今を機に覚えてください。他人に対し、悪意を持って故意にHBDを引き起こす行為は、法改正後『HBD悪用傷害罪』となり、罰せられる。今回あなたのしたことは、未来においては犯罪です」
 伊藤さんの顔がはっきりと歪んだ。
「……でも今は、罪に問えませんよね?」
 顔を歪ませながらなお、伊藤さんは笑ってみせた。

  *

 翌週、甘野さんの実家に四方田さんと百瀬室長が出向いた。甘野さんのスマートフォン等が返却され、仔細の説明および報告書が手渡された。
 その数日後、甘野さんのSNS等に当人の死を告げる投稿がなされた。本人が事前に用意していた文面だった。メッセージアプリで個別のやり取りをしていた人たちにも、送信された。
「親御さんに最後の投稿を託していたんだね」
 しみじみと二木さんは言い、私はそれで、櫻井さんをブロックしていなかった意図に気づいた。
 櫻井さんは余命宣告を知らなかった。甘野さんの別れのメッセージは、櫻井さんに新しい人生を歩んでほしいと望むものだった。自分の死を知らぬまま、万が一引きずることがあってはならない。甘野さんは自らの死を知らせるその日のために、ブロックだけはしなかったのだ。
 部局員らが特にそのことについて語り合わないのは、承知の上だからだろう。
 私は『はじめてのHBD』を手に取る。まだほとんど読んでいない。ずっと甘野さんの一件ばかり考えていた。
 続くんだろうか。こんな私が役に立てるのか。いてもいなくても、きっと全然変わらないんじゃないか。
 表紙をめくったところで、横に三上さんが立った。なんだろうと見上げる間もなく、何かが差し出された。タブレットだった。
「これからはこちらをお使いください。一ノ瀬さん専用です」
 受け取ると、三上さんはにっこりした。
「その漫画、主任が描いたんですよ」
 ──それはあなたの価値観でしょ。
 四方田さんの言葉が、頭から離れない。
 心の中は、その人だけのものだ。他の誰も分からない。だから本当は、もはや語ることのできない人の心を代弁するなんて、誰にもできやしないのだ。
 きっと四方田さんも、二木さんも、ここの部局員達はみんな分かっているのだろう。調査鑑別して結論づける行為は、故人の価値観を尊重することと決定的に矛盾していると。

  *

 退勤時、廊下から窓の外を見ると小雨が降っていた。傘を差すまでもない、わたあめの糸より細い雨だ。要塞じみた建物内にも外気の匂いは入り込んでいる。私は雨の匂いを吸い込みながら歩く。
 エントランスを出ると、なぜだか百瀬室長がいた。花壇の脇にしゃがんでいる。そういえば、退勤時には部局にいなかった。
「お疲れさまでした」
 百瀬室長は少し湿った顔で微笑ほほえんだ。
 私は立ち止まった。百瀬室長はなんの花を見ていたのか。クロッカスは花期を終え、紫のチューリップはまだつぼみだ。
「結局、分かんないんだよなって思いました」
 百瀬室長は訊き返してくれた。「何がですか?」
「甘野さんの本当の気持ちです。何が彼女を絶望させたかは誰にも断言できない。もしかしたらみんなの盛り上がりの最中に、彼女の悲しみを呼び起こす全然別の何かを、見たり聞いたりしていたのかもしれない」
「それが分かるのは、神様だけ」百瀬室長はおうように笑った。「永遠に答え合わせはできないです」
「いいんですか? 調査鑑別室なのに」
「穴だらけの悪法だという批判も、実際そのとおりなんです。ただ、HBDを発症した以上、亡くなられた方が絶望されたという事実だけは揺るがない。そこだけは否定してはいけません。生きている誰もがそんなことでは絶望しないと言ったとしても、死んだ彼、彼女だけは悲しんだんです」
 前屈みの姿勢だった百瀬室長が、軽く呻きながら腰を伸ばす。
「いやあ、若い頃はなんでもなかったことが、年々できなくなる。腰は肉月に要ですね」
 一ヶ月前は花壇も雪に埋もれていただろう。今は雪なんて影も形もない。
「矛盾が分かってて、なんで調査鑑別室はあるんですかね?」
「そりゃあ、神様がいないからでしょう」
 百瀬室長は微笑みながら濡れた額をで、「また明日」と建物の中へ入っていった。

  *

■ 著者プロフィール
乾ルカ(いぬい・るか)
1970年北海道生まれ。2006年、「夏光」でオール讀物新人賞を受賞。10年『あの日にかえりたい』で第143回直木賞候補、『メグル』で第13回大藪春彦賞候補に。著書に、ドラマ化された『てふてふ荘へようこそ』のほか、『君の波が聞こえる』『向かい風で飛べ!』『森に願いを』『わたしの忘れ物』『コイコワレ』『明日の僕に風が吹く』『おまえなんかに会いたくない』『水底のスピカ』『花ざかりを待たず』『葬式同窓会』『灯』など多数。

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