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第4回

場違いな客  前編

 天井のシーリングファンが空気をかき混ぜている。
 それにより春先にもかかわらず店内は(むら)なく高温多湿に保たれていた。
「レプタイルズ・メサ」の中はいつも生き物の匂いと音に満ちている。ここの空調が常に熱帯じみた温度と湿度に設定されているのは、商品であるトカゲや蛇たちのためだった。
 奥にあるレジカウンターの内側で、かねもとあつし(はバーコード読み取り機を片手に相手へ金額を告げた。目の前の男が筋張った手で財布から札を取り出して篤に手渡す。代金を受け取り、商品を袋詰めしながら、篤は先ほどから浮かんでは取り下げているひそかな疑念をふたたび膨らませた。
 ──まさかな。
 男が購入した商品は、実に不可解だった。
 商品自体は普通にこの爬虫類ペットショップで扱っている物だ。飼育用品の一種である。
 しかし、彼がこれを買うということに篤は、まるで合点がいかなかった。ついさっき男が初めてこの店に入ってきた時から、彼はある意味で、まったくこの店にそぐわない客だったからである。
 篤は過去にオーナーから聞いた話を思い出していた。
 この業界でまことしやかにささやかれている、とある噂だった。
『もし、場違いな客がそれを買って行ったら、そいつは──』
「どうも」
 男の言葉に篤は顔を上げた。男が釣り銭を財布に仕舞って、商品の袋を手に持った。初めて聞いたその男の声は、彼の見た目通りにくぐもった、野暮ったくて暗い印象を受けるものだった。
 店内を後にする男の後ろ姿を眺めた。平凡なサラリーマン風。とても「そう」は見えない。しかし彼の挙動や、そこそこ高額な商品にもかかわらず会計が現金だったことが、篤の疑心に拍車をかけた。
 篤はカウンターを出て、一番手前の水槽を覗き込んだ。勝手に名前を付けたフトアゴヒゲトカゲの「フトシ」に訊く。
「なあ、今の奴どう思う」
 トカゲのフトシは瞬膜を瞬かせるのみだった。 

 その男が店を訪れたのは、十分ほど前のことだった。
 篤はいつも通りカウンター裏でスマホゲームをやりながら「レプタイルズ・メサ」の店番をしていた。ガチャを回すと派手な演出とともに確率による報酬獲得があり、パチスロを打っている時と同じ脳内麻薬が出る。
 店内には馴染みの少年が一人いた。小学校低学年くらいで、いつも商品を小一時間ぐらい眺めては何も買わずに帰っていく。トカゲやカメレオンを見つめる少年の目はいつもきらきらと輝いていて、篤にはその気持ちがよくわかる。
 ペットショップの最高なところは、動物園と違ってその気になればその生き物たちを「買える」という点だ。もちろん、飼育設備を含めて子供にはなかなか手が出ない値段だろうし、爬虫類など特に、親の許可が下りない場合も多いだろう。それでも、ペットショップは常に甘美な可能性を秘めている。その気になれば──小遣いが貯まったら──親を説得できさえすれば──自分だけの小さなドラゴンを所有できるかもしれない。そんなわく的な可能性を常にぶら下げた爬虫類ペットショップに、生き物好きの子供が魅了されるのは当然だ。
 篤自身も幼い頃は生き物、特に爬虫類が好きで、よくペットショップに通っていた。もっとも当時はここのような専門店は少なく、篤が見られるのはせいぜいホームセンターのペットコーナーの片隅で投げ売られている一匹二千円のグリーンイグアナくらいだった。
 十九歳である今の自分は、爬虫類たちのことが特に好きでも嫌いでもない。
 子供がミニカーから興味を失くすように、篤も自然とそうなった。ここで働いているのは単なる縁故である。だがそれで良かったと感じている。生体販売の現場で働いていると、なまじ生き物好きだとむしろ辛い場面が多い。
 篤はスマホの時刻表示を見た。そろそろ餌やりの時間だ。だいたいが昆虫を原料にした人工ペレットか野菜で、生き餌をやるのはたまにだが、篤は立ち上がって給餌用のピンセットを手に取ると、アカメカブトトカゲの水槽に張り付いている少年に声をかけた。
「なあ」
 少年がこっちを見る。篤はピンセットを差し出した。
「やる?」
 少年が嬉しさ半分、怯え半分の顔でこくこくと頷いた。過去に初めて、ミルワームをジャイアントゲッコーに食わせるのをやらせてやった時は、殺生が怖いのか虫が気持ち悪いのか半泣きになっていたが、最近の彼は餌やりのタイミングをわかってわざとこの時間まで粘っている。
 そうやって篤と少年が戯れていた時だった。
 店の扉が開いた。入ってきたのは、グレーのスーツを着た会社員風の男だった。
 いらっしゃいませと声かけし、篤は少年とともに黙々と餌やりをする作業に戻った。この手の店に来る客は自分の世界を持っている人間が多いから、何か尋ねられた時にだけ答えるくらいの接客がちょうどいい。
 初めて見る客だった。歳は三十代半ばぐらい。ひょろっと背が高いが、重たい髪型が垢抜けない。
 男は店に入ってまず、むっと蒸す空調に面食らったかのように一瞬立ちすくんだ。そしてそのあと、横でカサコソいう水槽が気になったらしく不思議そうに覗き込んだあと、中にいるものを見てびくりと一歩退いた。デュビア──餌用ゴキブリの水槽だった。
 なるほど、初心者か。
 そう思いながら篤は手を動かし続けた。オタクっぽい見た目だから一見、すでに自宅で何匹か飼っている玄人に見えなくもないが、あの様子からするにおおかた、あの歳になって興味を持ち、この手のショップに初めて足を向けたのだろう。
 別段変わった客でもないが、篤は相手に気取られないようひそかにその男を気にかけていた。
理由は──もしこの男が「お初」の一匹を探しているのだったら、ぜひともフトシを飼って欲しかったからである。
 フトシは人気種のフトアゴヒゲトカゲにもかかわらず、いまだに売れ残っている。このままだと処分されてしまう。そんなことでいちいち胸を痛めていてはペットショップ店員などやれないが、まだその心構えがなかった頃にうっかり名前を付けてしまったので、フトシには情が湧いていた。
 篤自身が引き取る選択肢はなかった。飼いやすい種類とはいえトカゲ飼育の設備を維持する金が、自分にはない。だからせめて、フリーターの自分よりは安定した収入のありそうなこの男がフトシを気に入ってくれればいいのだが。
 そう考えて篤はそれとなく、男をフトシの水槽の前へ自然に誘導するため、店内をぐるっと移動した。するとちょうど棚を挟んで男の背後に回る形になり、水槽の隙間から男の背中が見えるようになった。
 篤は男の背中に念を送った。
 フトシを見ろ。
 フトシを買え。
 世話しやすいから初心者にはぴったりだぞ。
 男が顔を横に向けた。その先にはフトシの水槽がある。よし、とますます念を込めたところで、篤はふと、奇妙なことに気が付いた。
 男は腰をかがめて、フトシの隣にあるリクガメの水槽を眺めていた。
 最初に抱いたのは、何かが違う、という違和感だった。
 気ままに水槽を見て回る男の姿に、何らおかしなところはない。きっと全てが物珍しいのだろう。しかし篤は水槽を眺める男の横顔に、言いようのない妙な感覚を抱いていた。自分がなぜそんなふうに感じるのかがわからず、篤は考えた。
 何かが違う。
 今までに見たどの客とも違う感じがする。
 次の瞬間、篤の中でそれは言葉になった。
 篤は棚越しに男の横顔を凝視した。そして、確信した。
 こいつ、爬虫類が好きではない。
 直感だった。水槽を見る男の目には、この店に訪れる客の誰もが大なり小なり持っている、好事家の熱がまったく欠けていた。
 むしろその目にはうっすらと、トカゲや蛇といったゲテモノに対する、ごく一般的な嫌悪感すら浮かんでいるように見えた。苦手だが興味のあるふりをしている。そんな印象を受ける目つきだった。
 よくよく見ると、彼の視線は向きすらもおかしい気がした。水槽の中のリクガメを見ているようで、もう少し上のあたりに目をやっている。一体何を見ているのだろうか。
 男が水槽から顔を離した。
 篤は慌てて目を背けた。男はそのまま餌や水槽などの飼育用品を扱っているコーナーへ移動すると、そこでしばらく物を吟味したあと、商品を手にレジへと向かった。
 そうして篤は、レジカウンターを挟んで男と初めて向き合った。
 男がカウンターの上に置いたのは、 UVライトだった。
 日光を必要とする種のトカゲやカメなどに、室内飼育下で紫外線を与えるための器具である。
 レジカウンターの中で、篤は過去に聞いたとある与太話のことを思い出していた。

「金本、知ってるか?」
 言ったのはここのオーナーである喜屋武だった。篤が彼と知り合って間もない頃である。
「この手の店には時々、爬虫類飼いでもないくせに紫外線ライトを買いに来る奴が居んだよ。そいつらが何なのか、お前わかるか」
 わからないと篤は答えた。喜屋武が金髪のドレッドヘアーを揺らして笑った。
「大麻育ててんだよ」
 喜屋武は現オーナーで、「レプタイルズ・メサ」はもともと別の人間が経営していた店だった。
「大麻を室内栽培するには紫外線ライトが必要だ。けどネットで買えば履歴が残んだろ。だからそいつらはこういう店とかホームセンターを回って、必要な機材を現金で揃えてくのさ」
 前のオーナーは販売の他に生体の輸入やブリーディングも手掛けていたが、ある時、フィリピンのレイテ島からトカゲを輸入するついでにヘロインも輸入してしまい、逮捕された。残ったこの店を商品であるペットたちも含めて居抜きで購入したのが、現オーナーの喜屋武である。
「信じてねえ顔だな」
 篤は曖昧な相槌を打った。あまりリアリティがないというか、悪さをするにしても要領の悪い話で、喜屋武が都市伝説を話しているだけだろうと思った。しかしながら前オーナーが逮捕された経緯も知っているので、違法薬物に関する話が意外と身近に存在するものだということも経験していたため、完全なほら話かどうかは判断がつかなかった。
「まあ、とにかくだ。この手の趣味がなさそうっていうか、ノンケっぽいっていうか、場違いな客がもし来てライト買ってったらよ、そいつは大麻栽培者(グロワー)かもしれねえぜ」
 大麻。高校の頃にジョイントを持っている同級生がいて、彼の家で吸ってみたこともあるが、栽培ともなるとさすがに縁遠い世界だった。喜屋武いわく、売りさばくのではなく自身で楽しむために自己完結で栽培している人間もいるのだという。何にせよよくわからない世界で、仮にそれっぽい人間が紫外線ライトを買いにきたらどうすればいいのかと篤は喜屋武に尋ねた。売ればいいと喜屋武は言った。確かに愚問だった。

「どうも」
 男の言葉で篤は顔を上げた。紫外線ライトの釣り銭を受け取った男が小銭をもたもたと財布に仕舞っている。
 まさかそれはないだろうと篤は自分の連想を一笑に付した。目の前の男はどう見ても真面目なサラリーマンのおっさんだ。爬虫類に興味がないのにライトを買っていくのは、きっとそうしたペットを飼っている息子か何かに頼まれたからだろう。
 四対の紫外線ライトはそれなりの値段かつ大荷物だった。それらを現金で買い、配送手続きもせずに手持ちで帰っていった彼の姿は非合法なことをしている人間の挙動に合致しているといえば合致していたが、すぐにどうでもよくなった。あんな見た目の男を喜屋武の話と結びつけた自分のほうがどうかしている。
 篤は餌やりの作業に戻った。時計が夕方五時を指したところで、少年が「もう帰る」と篤に餌セットを突き返して店を出ていった。いつものことだった。閉店時刻の九時になった頃、いやにカサカサと脂っ気のない肌と髪をした喜屋武が店にやってきた。風呂上がりで、これから飲みに行くのだろう。これまたいつものことである。喜屋武から今月の給料を受け取り、店を閉めて篤は原付にまたがった。空には低い位置に月が浮かんでいて、篤は、帰ったら何を食おうかと考えながら原付を走らせた。

 我が家にたどり着いた時、篤は異変に気が付いた。
 自宅である長屋の窓に灯りが点いていた。篤の胸がギュッとふさがり、家の前に原付を止めると、ヘルメットを脱いでしばらくその場にたたずんだ。
 気持ちを整えてから玄関の引き戸を開けた。三和土たたきからも最奥が見通せる狭い家の和室には、予想通り、テレビを見ている父親の姿があった。
 篤は何も言わず近づくと、彼の横にあるちゃぶ台を見下ろした。スーパーのものらしき食べかけの惣菜が並んでいる。テレビでは知らない芸人コンビが海鮮丼を口に運んでいて、彼らのリアクション第一声を見届けたあと、篤はようやく口を開いた。
「何してんだよ」
「おかえり」
 おかえりじゃねえよといらいらしながら篤は部屋着に着替えた。このまま出ていってどこかで朝まで過ごそうかと思ったが、疲労感のほうが勝った。あまり変わってないな、と父親の後頭部を見て思った。こんな禿げ親父と一緒になるのは、どんな女だろうか。数年前から他所よそで彼と暮らしている相手の女と篤は、一度も会ったことがない。
 別に、自分の家なのだから帰ってくる時に連絡しろとは言わない。高二の時に父親が出ていった際、自分一人で引っ越すことも考えたが、その資金がなかったし、ボロ家で賃料も安いため、篤は一人でこの生家に住み続けている。
 父はごくまれに思い出したように帰ってくる。こっちはもう一応は自活している形なのだし、出禁にする権利はあると思うのだが、なぜかいまだに玄関の鍵を変えることすらできない。
 それ以上の会話はせずに篤は風呂に入った。食欲は失せていて、さっさと眠ってしまいたかった。
 風呂から出ると、父親が台所で冷蔵庫を開けていた。
 無視して篤は濡れた髪のまま和室の隅の万年床に寝転がった。布団でスマホゲームを始めると、父親が部屋に戻ってきたので寝返りで背を向けた。
 背後でプシュッと音が鳴った。
 その音を聞いた瞬間、篤の記憶が点火した。目を見開いて体を起こし、父親を見る。ちゃぶ台に置かれた父親の手の中にある物のラベルを目にしたとたん、篤の頭がカッと怒りに染まった。
「てめえ」
 勢いよく立ち上がると篤は父の手にある缶を叩き落とした。ビールの缶が鈍い音を立てて壁に当たって落ち、畳の上に泡が溢れ出た。
 信じられない思いだった。
 息を荒げて父親を見下ろす篤の前で、父は畳に中身を吐き出し続けているビール缶を緩慢な動作で拾った。
「違うんだよ」
「帰れ」
「篤」
「出ていけ。二度と来んな」
「違うんだって」
「何がだよ」
「だってよ、お前、先週だったろ」
 何が、と吐き捨てかけて、篤は気付いた。
 父親がティッシュで畳を拭きながら言った。
「お前の二十歳の誕生日。俺、先週は仕事の都合で来れなかったけど」
 黙り込む篤を横に、父親がビール缶をちゃぶ台に置き直した。
「昔、約束しただろ。お前が二十歳になったら一緒に酒飲もうって」
 でも、と言う。
「俺はもう、酒飲めねえから」
 そうだ。お前のかつての酒のせいで母もいなくなったのだ。
「だから、俺のほうはこれで乾杯だけどな」
 そう言って父親が卓の上にあったコップに、傍にあったペットボトルの中身を注いだ。三ツ矢サイダーだった。父はちゃぶ台のビール缶を見て、
「これは泡々(あわあわ)になっちまったな」
 と、冷蔵庫から新しい缶ビールを持ってきた。
 ん、と篤に差し出す。そして父は、三ツ矢サイダーの入ったコップをこちらに向かって掲げた。
 篤はしばらく肩で息をしていた。
 立ち尽くす篤の手に父親がビール缶を持たせた。篤は無言でプルタブを見つめた。
 自分が二十歳になったことなど忘れていた。高二から一人暮らしだったため、なんとなく自分の中での成人の区切りが十八歳で、二十歳が節目であるという感覚があまりなかった。
 だが、父親は覚えていたのだ。
 いつ思い出したのだろうか。当日の朝、ふと日付を見て、ああ今日は息子の誕生日だと思ったのだろうか。それとも前々から思い至っていたのだろうか。もしくは、当日を過ぎてから、そういえばと気が付いたのだろうか。
 どちらにせよ、父の中でその日付はちゃんと意味ある数字として残っていたのだ。
二十歳はたち、おめでとう」
 父がふたたびコップを掲げた。無言で佇む篤の手にあるビール缶に、父がコツンとコップをぶつけた。

 朝起きると父はもういなかった。
 篤は目を擦りながら布団から体を起こした。ちゃぶ台の上には昨晩、篤が飲んだビールの空き缶が二本あった。酒に弱いので若干、体がだるかったが、記憶はしっかり残っていた。
 父から差し出されたビールを半分飲んだところで、将来の話をしたのを覚えている。
 ゆくゆくはブリーダーになりたいのだと篤は言った。父は、犬猫ならともかく爬虫類のブリーディングというのがどういう仕事かよくわからなかったようで「今の店って、森本くんのところか。あそこお父さん逮捕されたんじゃなかったか」と言ったが、篤は「今は別のオーナーがやってる」とだけ返して、ビールに口をつけた。
 将来の話をした自分に何より自分自身が驚いていた。今はまだバイトだが今の店でいろいろ勉強して将来的にはちゃんと仕事にしたいのだと言った瞬間、これが酒の力かと思い、恥ずかしくなってますます酒を飲んだ。酒はあまり好きではなかったが、飲みながらも父を観察している自分がいた。酒で場が温まり始めても、父は最後までノンアルコールを貫いていた。飲酒で誘い水を向けて父を試している自分をいびつに感じながらも、父が最後までしっかりとサイダーだけを口にしていたことに、ほっとした。
 二十歳になったのだ。
 そう実感しながら、篤はカーテンを開けて朝の光を部屋に入れた。裏の家が発泡スチロールのプランターで育てているとうみょうが風で揺れていた。
 二十歳になったら何をしなければいけないのだろうと篤は考えた。きっといろいろと手続きがあるに違いない。健康保険や──税金とか。そういえば最近、ポストを確認するのをサボっていたと思い出した。郵便物を取りに行くと、案の定、役所からいくつか封筒が来ていた。二十歳になったから国民年金の手続きをしろというようなことが書いてあった。ふむふむと届いた封筒を繰っていると、役所からの手紙に交じって、火災保険の更新ハガキが来ていた。げっと思ったが、仕方ない。今日、出勤するついでにコンビニで支払ってしまおうと思い、篤はハガキを片手に、和室の隅に投げ出していた自分のボディバッグを開けた。
 バッグの中を探ったあと、篤は眉をひそめてもう一度ファスナーを大きく開き、中身を改めた。そして、青ざめた。
 ない。
 バッグをひっくり返して中身を畳の上にぶちまける。昨日、喜屋武から受け取った給料袋が、なかった。確かにここに入れたはずだった。
 血が一気に足元へ下がっていくのを感じた。
 バッグの中身を引っ掻き回し、部屋の「重要書類入れ」であるクッキー缶を確認して、なぜか一度スマホを持って結局どこにも電話をかけずに布団へ放ったあと、また家じゅうのあちこちを確かめ、ようやく篤は事実を認めた。両手で自分の髪を掴み、壁に頭を打ち付けて、壁へ額をつけたまま動物のような声を上げた。
 父が持って行ったのだ。
 自分の頭が人間と、そうではないものの二つに分かれていくのを篤は感じた。やり口、という言葉が頭に乱舞した。やり口。手口。依存症患者は本当にびっくりするような嘘で家族を欺くのよという母の言葉が蘇る。息子の自分に向けられたのは初めてだった。
 気づけば篤は畳に伏して笑っていた。
 昨日の乾杯を思い出す。
 ──二十歳、おめでとう。
 父が今までついてきた中で、これが一番、最悪の嘘だと篤は思った。

 冷やかしの少年は今日も夕方四時に来た。いつものことだった。閉店時間の九時になると風呂上がりの喜屋武が来た。すべてがいつも通りだった。
「なんか、お前痩せたか?」
 喜屋武の言葉に篤はゆっくりと目を向けた。喜屋武がこちらの変化に何か言及するのは少し珍しいことだった。
 わからないと篤は顔を背けた。喜屋武がふうんと言い、最近飲みに行った店で好みの女がいたという話を始めた。東北出身で色が白くて頭が良くて、今度同伴するのだという。喜屋武は自分と正反対のタイプの女が好きだ。その女性が隣町のじょうりょくちょうに住んでいるから、最近は、もしばったり出食わしても恥ずかしくないように毎日ちゃんと髭を剃っているのだと柄にもないことを言って喜屋武はバックヤードに消えた。
 篤は帰り支度をし、パーカーを羽織った格好で「お疲れ様です」と奥に声をかけた。重い足取りで出入り口に向かうと、ドアを開けようとしたところで戸のガラスにバックヤードから喜屋武が出てくる姿が映るのが目に留まった。手に何かを持っている。篤は振り返った。喜屋武はフトアゴヒゲトカゲの「フトシ」の水槽の前で、上部の蓋を外していた。手にあるのは、虫取り籠のような見た目をした小さなプラスチックケースだった。爬虫類の運搬に使う物である。
 篤はボディバッグの紐を両手でぎゅっと握った。
「あの」
「ん? ああ」
 喜屋武が水槽の中に手を入れた。
「こいつ、もうそろそろ売り物にはならない月齢だからな」
 そう言って喜屋武が水槽からフトシを掴みあげた。フトシは口をパクパクさせながら喜屋武の手の中で足をばたつかせ、抵抗もむなしくケースに収まった。ケースに入ったあともフトシは暴れ、爪がプラスチックを掻く音がした。
 篤はバッグの紐を握ったままその場に立ちつくしていた。そうか、もうさよならなのだ、と思った。一瞬、喜屋武に向かって喉から言葉が出そうになったが、それはすぐに、どうして名前など付けたのだろうという自分への後悔にすげ替わった。
 篤は口を閉じてうつむいた。
 すると、喜屋武がフトシの入ったケースをトントンと指で叩いて、中のフトシに言った。
「大丈夫だよ。暴れるなって」
 フトシの目に自分の指を追わせながら彼をあやしている。
 そして、喜屋武はドレッドヘアーの隙間から口の端を吊り上げ、優しい声でフトシに言った。
「ちゃんといいよう、、、、にしてやるから。な?」
 その言葉を聞いた途端、篤は喜屋武に向かって駆け出していた。フトシの籠を持った彼の腕に取り付く。喜屋武が驚いた顔で「あ?」と目を白黒させた。篤は言葉にならない声でうめいた。嘘つき。嘘つき。
 みんな嘘ばっかりだ。
「どうしたよ、お前。ちょっと落ち着けって、おい」
 ヘイ! となぜか英語で喜屋武が言い、篤を振り払った。喜屋武の腕力で篤はあっけなく床に転がり、尻餅をついたまま、喜屋武をにらみつけた。
 喜屋武は突然おかしくなった相手を前に、眉をひそめてこちらを見下ろしていた。
 篤は言った。
「そいつ──俺が引き取ります」
 喜屋武があっけに取られた顔をした。彼はもう片方の手でこめかみを掻くと、フトシの籠を持ったままレジ横に行き、そこにあるパイプ椅子にどっかりと腰を下ろした。
 喜屋武の膝の上でフトシがガサゴソとうごめいている。
 喜屋武はしばらく何かを考え込むようにしたあと、口を開いた。
「金はあんのかよ?」
 唾を飲み込み、篤は言った。
「あります。そいつを買うぐらいは」
「飼育設備を揃える金は?」
 篤は押し黙ったあと、喜屋武を見上げた。自分が急に、とても卑屈で甘えた目をし始めているのがわかった。
「設備は──中古のやつを譲ってもらえないでしょうか」
 古い水槽やライトが店の奥にいくらでも転がっているのは知っている。
「そんなこったろうと思ったよ」
 喜屋武が足を組んでこめかみに指を置いた。
「駄目だ」
 なぜだと篤は息巻いた。
「じゃあお前は、これからも廃棄が出るたびに同じことを平等にしてやれんのかよ? それに今までは? この箱を見るのは初めてじゃねえだろ?」
 え? と喜屋武がプラスチックケースを突きつけた。
「こいつ単体にしても、お前は今まで何かをしたか? 例えばツイッターでアカウントを作って、画像乗っけて引き取り手を募るとかよ。してねえだろ、なんも。俺はしたぜ。お前らしき奴のリツイートはなかったけどよ」
 篤ははっとして口をつぐんだ。ツイッターのアカウントは持っている。しかし、それはスマホゲームで運営からゲームのポイントをもらうためだけのアカウントだった。喜屋武がSNSをやっていることすら知らなかった。
「いいか」
 喜屋武が低い声で言った。
「設備もこいつももろもろ含めて、三十万だ。その金が出せねえならこいつはお前に売らない。給料の前借りもナシだ」
 思わず乾いた笑いが出た。普通に購入してもそんな金額にはならない。こいつは人の弱みにつけ込んでいる。そんなやり方で従業員からも搾取するのか、と憎しみが湧いた。三十万など払えない。先日、父親に給料袋を取られたから、本当を言えば今月の家賃すらままならないのだ。
 喜屋武の髪を睨む。そのドレッドヘアも、飲みに行くために入浴を済ませた肌も、何もかもが汚らわしく感じた。大股開きでパイプ椅子に腰掛けてこちらを見ている彼の体がなぜかいつもより大きく見え、篤は店を飛び出した。
 原付のエンジンをかけると背後で喜屋武が何か言う声が聞こえた。構わずスロットルグリップを捻って発進する。町の景色が後方に流れ、視界が怒りの涙でにじんだ。本当は、喜屋武が何も守銭奴めいた理由だけであんなことを言ったのではないと理解していた。だからこそ、どこにも感情のやり場がなかった。篤は空想の壁に自分を原付ごと衝突させる姿を思い描きながら、ぐちゃぐちゃの気持ちであてもなく夜の道を走り去った。

 長い橋を渡ると、篤は隣町の駅前で原付を止めた。
 駅前にはマクドナルドやその他の飲食店が立ち並び、ひときわ明るいサイゼリヤの前に、大きな円形の花壇があった。
 夜の駅前は人で賑わい、花壇のへりには大学生風のグループが座って酒を飲んでいた。この常緑町は大学があるため若者が多い。篤は止めた原付からゆっくり花壇へ歩くと、わざと、大学生グループからほんの少ししか離れていない位置のへりに腰掛けた。大学生たちが篤に目をやり、一瞬静まった。篤は膝の間で手を組み、この中の何人が自分の金で大学に行っているのだろうかと考えた。けんかを売られるならそれでいいし、もしくは、酒に酔った彼らが変なテンションで構ってくるのならば、そうやって輪に入りたいような不思議な気持ちで、篤は花壇に座っていた。だが大学生たちは篤をちらちらと見やったあと、また自分たちだけの会話に戻っていった。
 篤は下を向いて、自分の両手を意味なくもてあそんだ。
 考えた。
 喜屋武が三十万と言うからには、びた一文まからないのだろう。もし用意したら、彼はどんな顔をするだろうか。
 ──きっと大層、驚くのではないだろうか。
 まず彼は虚を突かれた顔をする。耳をそろえて三十万円を突き出す篤をまじまじ見たあと、息が抜けるように肩を下ろし、そして、ふっと笑って言うのではないだろうか。「お前、男だな」喜屋武がこちらの肩を叩く。「やるじゃねえか」。
 篤はなぜかその空想に囚われた。脳内で喜屋武の台詞のバリエーションを変えてその妄想にふけっている自分に気が付いた時、篤は急に今までにないほどの怒りと屈辱を感じた。誰もが王様に認められたがっていて、空席になった玉座に自分は喜屋武を据えようとしているのだと思うと、吐き気がした。
 片手で顔を覆うと、聞きたくもないのに隣の大学生たちの会話が耳に入ってきた。なぜか今時、口裂け女の話をしていた。その幼稚さに篤はますます苛立ち、駅前を行き交う人々を眺めた。彼ら一人一人のかばんや背格好を注視している自分がいた。篤の頭に反社会的な発想が生まれた。
 この中の一人二人たたけ、、、ば、三十万などすぐに手に入るんじゃないか。
 直後に首を横に振った。同じ中学・高校出身の奴らならそうしたかもしれない。だからこそ自分もこんな発想が浮かんだのだと思うが、馬鹿げている。
 篤は花壇から腰を上げると、目の前にあったコンビニで缶チューハイを買った。帰りが飲酒運転になってしまうが、どうでもよかった。コンビニの前で缶を開け、飲みながら通りを見ていると、また人々の持ち物を観察している自分を自覚した。馬鹿なことを考えるなと自分を戒める。篤はさらにチューハイを口に運んだ。それはビールよりもはるかに度数の高い流行のアルコール飲料で、酒に弱い自分の酒量からすれば一本も飲めばへべれけで足腰が立たなくなるに違いなかった。早くそうなって、悪さがそもそもできないようなコンディションに自分を追い込むため、篤は缶をあおった。三分の一も飲まないあたりで顔が熱くなってきて、それでも通行人を目で追うのがやめられなかった。あの中年女性は、弱そうだ。あのOL風の女も弱そうだ。二人とも金を持っていそうだ。鞄も手提げで引ったくりやすそうだ。でも俺はそんなことはしない。弱そうな人間を襲うなど卑怯だからだ。遠目にある花壇の前をガタイのいい中年男性が通り過ぎる。あいつは強そうだ。流石さすがにめちゃくちゃ強そうだからやめよう。あれ、と篤は思った。では誰ならいいのか。酒でどろんとし始めた目を横に向けると、サイゼリヤの前を通過していく別の男性が目に留まった。そうそう、と篤は思わず一人で笑った。ああいう奴なら丁度いい。男だからフェアだし、ひょろっとはしているが背が高いから弱いものいじめっぽくはないし、ギリギリ勝てそうでもある。おかしくなって苦笑しながら虚しい気持ちで地面に目を落としたあと、篤は真顔で面を上げた。サイゼリヤの前を通り過ぎていく男性を凝視する。スーツ姿の背の高いリーマン。猫背気味で髪型が垢抜けない。忘れもしない。以前「レプタイルズ・メサ」で紫外線ライトを買って行った、あのサラリーマンだった。
 篤は目を擦った。
 まず抱いたのは、見間違いだろうという考えだった。人の顔の覚えはいい方だが、街中で見知らぬ他人に誰かの面影を見てしまうなどよくある現象である。
 しかし、何度見ても目の前にいるのは確かにあの男だった。容姿自体はそこまで特徴的な男ではない。だが、店で初めて見た「ノンケ」の客だったことと、喜屋武に吹き込まれた与太話が相まって、印象に残っていた。
 男はスーパーの袋を持って歩いていた。
 ほろ酔いで鈍った頭が無理やりに回転し始める感覚がした。
 買い物姿からして、彼はこの町の住民なのだろう。しかしここは「レプタイルズ・メサ」からは隣町にあたる。この常緑町には確か、ホームセンターもあれば、うちよりももっと規模の大きいエキゾチックアニマル専門のペットショップもあったはずである。紫外線ライトなどそこで容易に買えるはずだ。
 ならばどうしてわざわざ隣町のうちまで買いに来たのか?
 近場を避けた買い物に、あの時の挙動に、現金購入。篤の中で次々と要素が結びつき、補強されていった。突飛な考えなのはわかっている。あの男はどう見ても大麻など育てているように見えない。しかし、彼が「レプタイルズ・メサ」で見せたあの異質な目つきを思い出すと、もはや理屈を超えた嗅覚と言うべき部分で篤は確信してしまった。あいつは何かやっている。
 男の背中が通りの向こうに遠ざかっていく。
 犯罪者。
 そんな言葉が頭に浮かんだ。
 相手が、後ろ暗いところのある人間なら──。
 喉が鳴り、自分の目がぎらつくのがわかった。フトシの姿が目に浮かび、金を手にして自分が彼を救い出すヒロイックな光景が浮かんだ。男を襲い、結果、だった彼に警察を呼ばれて、彼らの前で自分が「大麻を育てていると思った。社会正義のためにやった」と心神喪失めいた言い逃れをし、気の毒な若者として放免される楽観的な未来が浮かんだ。正気な部分の自分が、馬鹿なことはよせと篤をたしなめた。男の姿がそろそろ曲がり角に消えてしまう。
 するとその時、篤の背後でコンビニの自動ドアが開いた。中から二人組の若者が出てくる。花壇で酒盛りをしている大学生グループの一員だった。彼らは篤の横を通り過ぎながら、大きな笑い声を上げた。
「年齢確認されたわ」
「まじか。大丈夫だったん」
「うん。だって俺こないだ二十歳になったもん」
「そうなの!? 言えよ! バースデーしなきゃじゃん」
「いいよそんなん。親に散々祝ってもらったし」
 言って、若者がたばこに火を点けた。
「親父、感極まって泣いてたよ。すっげウザかったわ」
 反射的に、篤は手にある缶の中身を地面の排水溝に流していた。空き缶を乱暴にゴミ箱へ放り、角に消えゆく男の後を追った。
 三十万。
 ただただそのことだけを考えて、篤は男を追いかけた。

 男の住まいは駅からすぐのマンションだった。
 ベージュ色の外壁で、ベランダの規模からファミリー層向けではなく単身者用の物件のようだった。
 男がスーパーの袋を提げたままマンション入り口のオートロックを開錠した。
 自動ドアが開く。篤はマンションの前で最後のしゅんじゅんをしたあと、男に付いて一緒にエントランスへと侵入した。
 男が少し驚いたような顔をしたが、篤がスマホ片手に会釈をすると、彼はうろんな表情で会釈を返してエレベーターに乗った。間近で見るとやはりあの時の男に間違いないことがわかり、同時に、彼のほうは篤の顔などすでに記憶にないのが表情から察せられた。
 篤は男に続いてエレベーターに同乗した。四階のボタンがすでに押されていた。篤はその下にある三階のボタンを押して、スマホに目を落とした。やや気まずい沈默のあと、三階でドアが開いた。篤が降りると、背後で男がほっと緊張を解く空気が伝わってきた。
 閉じたエレベーターが上階へ移動するのを確認したあと、篤は周囲を見回し、左手にあった非常階段を素早く上った。四階に辿り着き、踊り場の陰から廊下を覗く。ちょうどエレベーターが開いて、先ほどの男が廊下に出てきたところだった。男はそのまま廊下を進むと、奥から二番目の部屋の扉に鍵を差し込んだ。
 男が扉を開けたところで、篤は踊り場から姿を現した。
 スニーカーを履いた足で男に向かって歩いていく。今まさに部屋の中へ入ろうとしていた男が、廊下をまっすぐ歩いてくる篤の姿に気づいて「えっ」と間抜けな声を上げた。男は一瞬、何が起きているかがわからなかったようで硬直していたが、すぐに危機を察したらしく、玄関に体を滑り込ませて内側から扉のノブを掴み、素早く引いた。篤は大股で追いつき、閉まる直前のドアに片足を突っ込んだ。
 力任せにドアをこじ開ける。眼前に現れた男が恐怖に満ちた顔で口を大きく開き、三和土に落ちたスーパーの袋の中で卵が割れるような音がした。男が叫び声の最初の一音を喉から発した瞬間に、篤は男の胸を腕の側面で左側の壁に押しつけた。そして、彼の顔の至近距離で言った。
「乱暴はしない」
 男が恐怖と困惑の混じった顔をした。なおも男が叫ぼうとしたので、篤はさらに顔を近づけた。
「怪我させるつもりはない」
「な、何」
「警察呼ぶか? いいぜ。ほら」
 そう言って男にスマホを差し出した。画面にはすでに「110」を打ち込んであった。
「呼べよ」
「何なんですか、一体」
「俺が押してやろうか」
 篤は発信ボタンの上に親指をかざしてみせた。
「すぐ来てくれるぜ、きっと」
「やめてください。金なら払います」
「何をやめて欲しいんだ」
「殺さないで。金なら──」
 篤は男の顔の前で指を鳴らした。男が「ひっ」と怯えた声を上げた。
「乱暴はしねえっつってんだろ。いいか落ち着いてよく聞け。乱暴はしない」
 正確にはすでにしてしまっているのだが、篤は続けた。
「俺が聞きたいのはひとつだ」
 篤は110を打ち込んだスマホを再びかざした。
「これを・押して・いいか・って聞いてんだ」
 男が怯えきった表情でスマホと篤を交互に見た。口からはいまだに小さく「え、え?」と戸惑いの声が漏れている。篤の首筋に汗が湧いた。この男が本当に部屋で何かよからぬことをしているなら、この場に警察を呼ばれては困るはずだ。
 違ったのか?
 冷たい汗が首筋を流れていく。
 男を押さえつけた状態で、一秒を凝縮したような葛藤が起きた。このまま逃げればまだ引き返せるかもしれない。幸い、男はこちらがあの時のペットショップ店員であるとは気づいていない様子だ。
 いや、と篤は切り捨てた。後から思い出す可能性は十分にある。それにマンションの入り口には、防犯カメラがあった。
「まあいい」
 男をますます壁に押しつけて篤は言った。
「部屋ん中見りゃわかることだ」
 男の両肩を掴み、部屋の中に向かって彼を突き飛ばした。男が小さく叫んで廊下の床に倒れた。見下ろす篤を前に、ばっと頭をかばい、震えている。篤よりもずっと背が高いが、間近で接すると想像以上に、体格差とはまた別の胆力のような部分でこちらが御し切れる相手だと感じた。男が両腕の隙間から恐怖の顔で篤を見上げた。
「何なんですか、本当に。意味が、わからない。お金なら渡します。警察にも言いません。だから頼む、やめてください」
「俺はな」
 床に転がる男を見下ろし、篤は言った。
「知ってんだよ。お宅が部屋で大麻育ててるって」
 カマかけだった。「大麻!?」と男が目を見開いた。
「意味不明だ。どうかしてる」
 正気ではない者を見るような目だった。篤は足元の底が抜けていく感覚を抱いた。自分に向けられた男の目を見た途端に、悟ってしまった。
 まずいことになった。
 すべて、自分の思い違いだったのだ。
 威勢を崩さない態度を続けながらも、頭の裏側で計算した。相手が後ろ暗いところのある奴なら警察沙汰になることなく金を脅し取れると思っていたが、どうやらあてが外れたようだ。今すぐにでも逃げの一手に移行したほうがいいだろう。
「そうか。それは悪かった。俺はてっきり」
 篤は後ろ手で玄関ドアのノブに手をかけた。
 男に目を向けたまま、パーカーの袖でドアノブを拭うのを忘れなかった。
「そう思ったんだ。俺は病気なんです。違うなら、いいよ。このことは警察に言わないでくれると助かる」
 言いながら少しずつ後ずさる。男がぽかんとした顔で頭をかばう両手をおずおず解いて、篤に言った。
「は──はい。それは、もちろん」
「俺は病気なんだ」
 篤は続けた。
「病気だから──あんたがもし警察に言えば、何をするかわからない。あんたの実家の住所も知ってる。今日のことはお互い忘れよう。二度と関わらねえよ」
 男が必死の形相でこくこくとうなずいた。
「ここに来ればハッパがあると思ったんだ。全部、バモイドオキ神に言われてやったことなんだ。じゃあな」
 過去にニュースで見たことのある単語を出して下手な芝居を打ち、篤は袖越しに掴んだノブを一気に下げた。体を翻し、パーカーのフードを素早く頭にかぶせてドアを開くと、かくはんされた夜の空気が体を包んだ。夜空に星が光っている。篤は一瞬、「レプタイルズ・メサ」から外に出た時にいつも感じるものと同じ心地を感じた。
 すると、急に真後ろで声がした。
さかせいとは懐かしいね」
 男が言った。振り返ろうとした次の瞬間、篤は後頭部に衝撃を感じた。気づけば頬の下にマンションの外廊下の床があって、頭を何か硬いもので殴られたのだと察した。
 篤の視界が暗くなり、次にひとつ、触覚を認識した。頬がずるっと上方向に擦られる感触で、部屋の中に引きずられているのだとわかった。
 あごの下を何かで圧迫される感じがした。ぎりぎりと締まり、頭の中がぱんぱんに詰まっていく。
 そうして、篤の意識は完全に暗転した。

後編につづく)

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