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第5回

場違いな客  後編

 上体を反らされる感覚がした。
 両腕を後ろから引っ張られ、胸が開く。直後にあつしはヒュゴッと息を吸い込み、目を見開いた。飛びたくても飛びたてない夢を見ていた気がしたが、咳き込むと口から唾液が散り、目の前にはフローリングの床があった。
 篤は床に額をつけてしばらく咳き込んだあと、顔を上げた。
「良かった。起こし方は見よう見まねだったけど」
 あの男がいた。片膝をついてしゃがみ込み、篤の顔を覗き込んでいる。
「失神ゲームってあったよな。知らないか、世代的に」
 篤は体を起こそうとした。
 が、その途端、手首と足首にいましめを感じた。その二箇所を何か、紐のようなもので縛られている。後ろ手に拘束された形で、篤は床に転がっていた。
 そこは、マンションの一室だった。この男の部屋なのだろう。ごく当たり前の家具があり、その中心で篤と男は向き合っていた。
「何……」
 芋虫のようにうごめき、口ごもりながら篤はあちこちに目をやった。殴られた時に床で顔を打ったのか、鼻の奥で血がこびりついている感触があった。
 男が立ち上がったので篤はびくりとすくんだが、男は怯える篤の両肩を掴んで半身を起こさせると、部屋にあるテレビ台にもたれさせ、無理やり三角座りの姿勢を取らせた。自分の両足が目の前に来る格好になり、そこで初めて、自分の足首が荷造り用の白いナイロン紐で縛られているのだと判明した。
 男が篤を見回した。不備がないか確かめているような目つきだった。異常事態に恐怖が駆け回る。先ほどまでの男とは別人のようだ、とは思わなかった。むしろ、自分の直感が想像以上の事実となって目の前に現れたことに、なぜ関わってしまったのだろうという後悔とパニックが全身を貫いていた。
「すみません」
 手首足首の紐を懸命にねじりながら謝まった。謝罪を口にしながらも、空間に目を走らせる。立ち上がって頭突きでも入れれば逃げられるだろうか?
「いや。こちらこそ」
 男が両手を振った。
「殴ったりして申し訳ない。咄嗟にああするしかなかった」
 篤は答えず、男から目を離さないまま後ろ手で紐をねじり続けた。
「縛ってるのも、すまない」
 篤はなおも後ろ手を動かし続けた。背後を探ると、もたれているテレビ台に、緩んだネジのような出っ張りを見つけた。これに引っ掛ければ紐が解けるだろうか。急がなくては、という気持ちがあった。何かやばいことに首を突っ込んでしまったのは確実だ。篤は焦った。しかしテレビ台の出っ張りを使っても拘束が解ける気配はなく、ついに恐慌が極まり、篤は苛立ちの声を上げてテレビ台にガンッ、と背中をぶつけた。
 男が言った。
「近所迷惑だ、アツシくん」
 篤が息を荒らげて男を見ると、彼はこちらに何かを放った。床に落ちたのは篤の二つ折り財布だった。中には免許証が入っている。
「まず聞きたいんだけど」
 強張った顔で自分の財布を見つめる篤に、男が言った。
「なぜ(うち)に来た?」
 篤は必死に考えを巡らせたあと、もはや嘘は悪手だと判断して、わけを正直に話した。ペットショップでの出会いから今までのことを話し終えると、男が、
「なるほど」
 と篤の顔をまじまじと見た。
「言われてみれば、確かにあの時の店員な気がする」
「あんたが大麻を育ててると思ったんだ。それで金を脅し取ろうと」
「大麻栽培者に見えるかい」
「見えない」
「何に見える」
 男が訊いた。篤はうつむき、慎重に言葉を選んだあと「わからない」と答えた。
「サラリーマンに見える。ただの」
「その通りだよ。ただの会社員だ」
 篤は少し考えてから、大きくうなずいた。
「うん。わかったよ。あんたはただの会社員だ」
 篤の言葉に男が笑った。
「これは?」
 そう言って男は自分の手首を指差した。篤の手足にある拘束のことを示している。篤は言った。
「これは、『ただの会社員』の家に、俺が勘違いして押しかけて、反撃されたんだ」
「なんでただの会社員がそんなことするんだ」
「わからない。俺が知る必要ない。今日のことは誰にも話さない」
「けっこう頭がいいな。飲み物を取ってくるよ」
 男が背を向け、篤は身をよじった。
「なあ、見逃してくれ! 何が何だかわかんねえけど、誓って誰にも話さねえよ!」
 この男が薬の売人だか横領犯だか殺人鬼だかなんだろうが、この場から無事に帰れるのなら誰にも話さない。本心だった。すると、廊下のほうから冷蔵庫を開ける音と共に男が言った。
「信じるよ」
「え?」
「ただし誓うものによる。篤くんは何か特定の宗教に入ってるか?」
 戸惑った。この場における正答がわからなかったので、篤はとりあえず素直に、無宗教であると返した。男が部屋に戻ってきた。手に、二本の缶コーヒーを持っていた。
「なら他に誓える対象はあるか? 自分にとってかなりのものじゃないといけない。君がレーサーならレースの神様、芸術家なら君のミューズ、子供がいるなら我が子にかけて、お父さんとお母さんを大事にしてるなら両親の誇りと健康に、誓えるか?」
 篤が何か言うより先に、男が言った。
「父親って言葉に反応したね。じゃあお父さんにしよう」
 男がコーヒー缶をローテーブルに置いた。
「父親に誓って、今日のことは誰にも話さない。そう約束してくれるなら、君を信じる」
 篤はまごつきと不快感を覚えながら、うなずいた。あんな父親など誓いの代償たりえるほど神聖なものではなかったが、とりあえず男に合わせておくことにした。
「この部屋にお客が来るのは初めてだ」
 男がプルタブを開けたコーヒーを篤の近くに置いた。こちらは手足を縛られているので当然、どうもしようがない。男は自分のぶんのコーヒーを手に持つと、少し黙ったあと、缶に視線を落として言った。
「別に、マイペースな振る舞いで主導権を握りたいわけじゃないんだ。こちら自身、まだどうしたものかと決めかねてて。こんな風に誰かが突然押し掛けてくるなんて思いもしなかったからな。さっき君からペットショップでの話を聞いた時の気持ちを話しても?」
 篤の頷きを見て男が続ける。
「恥ずかしかったよ」
 そう言って男が、右手にある缶を反対の手に転がした。
「ばれやしないと思ってたんだけど、かつだったんだな、色々と。昔から少し丁寧みに欠ける性分でね」
 缶を左右の手へ転がして、男が顔を上げる。
「篤くん」
「……はい」
「君の想像通りだ。この部屋には大麻がある」
 突然の告白だった。
「育てている」
 篤は眉間に皺を寄せて男を見つめてから、部屋を見回した。それらしいものはどこにもなく、ただ、壁には備え付けのクローゼットがあった。栽培しているとすればその中なのだろうか。
 クローゼットの中とはいえ、そうしたものを育てていれば部屋に匂いがするものだ。大麻に関してはジョイントの匂いしか知らないが、大麻草自体がかなり独特の臭みのある植物だという知識はあった。だが鼻腔で固まりつつある鼻血のせいで、今の篤にはわからなかった。
「そうそう、正解」
 男が篤の目線の先にあるクローゼットを目で示して言った。コーヒーをテーブルに置き、男が腰を上げてクローゼットの前に立った。
「見るかい?」
 篤はぶんぶんと首を横に振った。余計なものは何も目撃せずに無事に帰りたかった。
 そう、と男がやや残念そうに取手から手を離した。
「本当に初めてなんだ、こんなことは。あと、そんなに後ろでモゾモゾしてたら手首を痛めるよ」
 男が背を向けたまま、テレビ台の出っ張りで手首の紐を解こうと暗闘している篤に言った。ぎくりと動きを止めると、男が近付いてきた。篤は身構えたが、男は無言で篤の後ろに回ると、手首の紐を掴んだ。ヂョキッと何かを断つ音がして、篤の両手がいきなり自由になった。解放された両手を体の前に回して篤は男を見上げた。男の手には、文具のカテゴリーには入るのだろうが百均などで売っているものに比べるとはるかに鋭利な、持ち手の黒いハサミがあった。両手が解放されたので殴って逃げようかというプランを篤は、男の手で光っている刃物と天秤にかけた。そして、今はまだその時ではないと判断した。
「尊厳を奪うような格好にさせていてすまなかったね。これで少しはマシになったかな。さ、コーヒーを飲んで」
 コーヒーには手をつけずに篤は手首を擦った。あとは足首の紐さえ解ければ、腕力でこのこうちゃく状態から抜け出せるだろう。
「コーヒーは好きじゃない? 別の飲み物は、トマトジュースしかない」
 いえ、と篤は固辞した。
「何か飲み物が必要だ。これから長いから」
「長い?」
 思わず聞き返すと、男が「うん」とうなずいた。
「君には今から、とある話を聞いてもらいたいと思ってる」
 篤は怪訝に眉を寄せて、身構えた。
 話?
「こんなことは生まれて初めてなんだ」
「話って、どんな」
「人から聞かされる話で、一番退屈なものってなんだと思う?」
「え? ……さあ」
「他人が見た夢の話だと僕は思う」
 沈黙が訪れた。ともかく、この男は何かそういった話をしたいようだ。
「そんなつまらない話を聞かせるわけだから、何か飲み物を出さないと申し訳なくて。うちにお酒はない。残念ながら」
「いや、別にいいです」
「どうしてそんな頑なに飲み物を断るんだい」
 こんな奴の出すものなんか口にできるわけがないだろうがと思っていると、心が伝わったようで、男が言った。
「何が入れられてるかわかったもんじゃないと思ってるわけか」
 仕方ない、と男がポケットからスマートフォンを取り出した。
 そして男は、この状況で驚くべきことを言った。
「なら、ウーバーイーツを呼ぼう」

 約十五分後にウーバー配達員がやってきた。
 配達員がドアベルを鳴らした瞬間、篤は今こそ脱出の機会だと感じた。
 しかし、この十五分間で検討した答えに結局戻ってくる。ドアが開いた途端に大声で叫んで異常を知らせれば配達員は警察を呼んでくれるだろうが、こちらとて押し込み強盗という名の犯罪者なのだ。十数分前ならば、警察に捕まるよりも命のほうがはるかに大事だと考えてそうしただろう。だが、目の前で、どこか嬉々として「何がいい?」とスマホ画面に表示されたタピオカドリンクのメニューを見せてくる男の姿を見ていると、このままこいつの「話」とやらをおとなしく聞けば、お互いに何も失うことなく日常へ戻れるのではという予感と打算が篤の中に発生した。変なことになっている、と感じた。自分は今、明らかにこの変な状況に飲まれていて、損得勘定をしているうちに、ウーバー配達員は帰ってしまった。
「タピオカって僕、初体験だ」
 ウーバーの袋を手に男が戻ってきた。篤はもはや悪びれずに、紐を解こうとしていた足首から堂々と手を離した。
「痛い?」
「はい。こっちも解いて欲しいです」
「それはまだ我慢して。そっち解いたら君、すぐ帰っちゃうだろう」
 当然だ、と思いながら飲み物を受け取った。篤が頼んだのはウーロン茶だった。男は飲み物の他にもいろいろ注文したらしく、ローテーブルの上に次々と菓子が並んだ。台湾語が書かれた袋からサーターアンダギーのようなものを取り出してテーブルに置き、男が言った。
「何の話だったっけ」
「ええと」
「そう夢の話だ」
 男が手を打ち、言った。
「僕な、子供の頃から繰り返し見る、同じ内容の夢があったんだよ」
「はあ」
「そういうのってない?」
「まあ……ありますね」
「どんな?」
「……俺の場合は、なんか、飛ぶ夢とか……」
「それってスケベな夢らしいよ」
 不愉快に思いながら篤は返した。
「そっちは?」
「僕か? 僕はいつも夢の中で、人間の死体をバラバラにしてた」
 瞬間、判断ミスを感じた。さっきウーバー配達員に助けを求めなかったのは間違いだったかもしれない。
「そんな目で見ないでくれ。誤解だ」
 男が手を横に振った。
「その都度バリエーションはあったけど、総じると『死体を隠す夢』なんだ」
「死体を隠す?」
「ああ。僕の見る夢は常に、開始時点から死体がある。他殺体だ。でも殺したのは僕じゃない。それだけははっきりしてるんだ」
 男が自分の飲み物を手元に引き寄せた。
「誰が殺したのかは、わからない。だけど僕はその死体を隠さないといけないという強い焦燥感に駆られていて、色んな方法で死体を隠すんだ。バラバラにしてトランクに詰めて山まで運んで、ドラム缶で焼いて河原に流したり。死体の性別は不明だったよ。そこはあまり重要ではないみたいだ」
 不穏な話に篤が眉をひそめていると、男がズゴッと音を立ててドリンクのタピオカをストローで吸引した。初めて口にしたらしいタピオカの粒を味わい、「これは」とパッケージをいぶかしげに見ている。
「篤くん。君はたばこを吸うか」
「いえ」
「常々思ってたけど、あれってようはたぶん、こうしん欲求なんだよね。赤ん坊がお母さんの乳を吸うだろ。だから、ニコチン以前に彼らの要点って『吸う』という動作だと思うんだよな。『吸う』って行為に安心するんだ。つまり喫煙者っていうのは、言ってしまえば全員、乳首依存者だと僕は思うんだよ。その点において、これは……」
 口内のタピオカを複雑な顔で噛んでいる。
「食感的に、ものすごく彷彿とさせるものがあるような気がする」
「乳首をですか」
「タピオカが流行った理由に合点がいったよ。吸うという動作もセットになってるし、これも乳首欲求だ」
 そう言って男はドリンクをテーブルの傍に置いた。あまり気には召さなかったようだ。
「話を戻そう。とにかく僕は、小さな頃からずっと繰り返し同じ夢を見てた。死体の置かれている場所はいつもさまざまで、夜の公園だったり、知らない家の中だったりした。いつもすごく、焦りがあったよ。誰かが殺したこの死体を自分は、絶対に隠し抜かないといけない。でもそれ以上に強烈だったのは、山に捨てたり、埋めたりして、無事に隠しおおせた時の安心感だ」
 男が目を閉じる。内側から溢れる強い感情をまぶたで押さえ込んでいるような表情だった。
「その瞬間は、いつも強烈だった。麻薬を脳で自家生成でもしたのかと思うぐらいの快楽がやってきて、もう自分の人生にこれ以上の安らぎはないだろうっていう確信とともに目を覚ますんだ。弱冠九歳くらいの子供がだよ」
「心配になりますね」
「うん、心配になった。だから当時の僕は、図書館へ行った」
 男が目を伏せたまま言った。
「子供心にも、夢が深層意識の表れっていう知識ぐらいはあったからな。あんな、おっかない内容の夢を繰り返し見る自分は頭がヘンなんじゃないかと思って、近所にある大きな図書館へ行った。そこで、夢にまつわる心理学の本を探したんだ」
 相槌がてらに篤はウーロン茶を飲んだ。
「想像以上に沢山、夢にまつわる書籍が置かれてたよ。堅い心理学の本もあれば、夢占いみたいなスピリチュアル系の本もあった。館内を歩き回っていろいろ手に取ってみたけど、結局、その混合といったところの、読みやすそうな一冊の本を選んだ。夢占いじゃなくて、夢診断の本。占いには興味がなかった。だって知りたいのは、未来の話ではなかったからね」
 男が手に取ったその本は、目次から夢の意味を逆引きする、辞典のように分厚い本だったのだという。
「大項目と、小項目に分かれていてね。『海の夢』という大項目の下に、『海で泳ぐ夢』『海で溺れる夢』みたいな小項目が連なっている形だった。最後のほうで、僕は自分が探していた項目を見つけたよ。『死にまつわる夢』という大項目だった」
 男がテーブルの上にトンと人差し指を置いた。
「だいたいが『自分が死ぬ夢』とか『家族が死ぬ夢』とかだったけど……本当に最後のほうに、あったよ。『人を殺す夢』、その次に『死体の夢』ってページが」
 男が人差し指で卓をなぞる。
「小項目のさらに小項目って感じだったけど、ちゃんとあったよ。『死体を隠す夢』について書かれた箇所が。そこには一言、こう書いてあった」
 人差し指の動きを止め、男が言った。
「『死体を隠す夢は、他人に知られたくないことがあるという気持ちの表れです』」
 アナウンサーじみた流麗な声で読み上げて、男が口を結んだ。
「どう思う」
「どうって。割と、まんまだなとしか」
「そう、まんまなんだよ。でも当時の僕は素直に戸惑った。だって、心当たりがなかったからね。ごく一般的な環境で育ったし、悪さらしい悪さもしたことがない。とはいえそりゃ、子供とはいっても人に知られたくないことの一つや二つはあったけど、どれも小学生男子としてありふれた、他愛もないことばかりで、あんな夢を連日連夜見る原因になるほどの秘密なんて、まったく思い当たらなかった。この本はアテにならない──そうがっかりして図書館を出たよ」
 男が、あまり気乗りのしない様子でふたたびタピオカドリンクを手元に寄せた。
「夢はその後も見続けた。中学、高校、大学生になっても」
 でな、と男が視線を落とした。
「二十歳くらいの時に、なんか唐突に理解しちゃったんだよ。この夢は、深層心理のメタファーなんかではないって」
 メタファー。篤の知らない言葉だったが、文脈的に何となく意味は理解した。それでも彼の言うことがいまいち飲み込めない気持ちを顔に浮かべている篤に、男が言った。
「つまり、僕は実際に、そういうことをやってみたいと願ってるんだ」
 篤の前にあるウーロン茶のカップが汗をかいている。そのしずくが滑り落ちたのと同時に、篤は男が言った意味を理解して唾を飲み込んだ。口の中が渇いていく。目の前の男に対してふたたび頭の中で警報が鳴り響いていた。さっきまでは心理学とかその手の、篤にとってはよくわからない分野の話をされていると思っていたが、別の意味で理解のできない願望を急に打ち明けられたことに、腹の底が冷たくなった。
「正直なところ、どっちが先にあったのかはわからない。僕には生まれつきそうした欲望があって、その欲望を人に知られたくないという潜在意識からあの夢を見ていたのか、それとも、もともと何か別の歪みがあって、その歪みを知られたくないという気持ちからああいう夢を見ているうちに、その夢自体が欲望の形になったのか。わからないんだ、いまだにね」
「その……人を殺して、なんかそういう……死体をソンカイするみたいなことを、実際にやってみたくなったってことですか」
「違う。大前提をまだ誤解してる」
 きっぱりと男が否定した。
「僕は、人殺しなんかにはまったく興味はないんだ。というより、僕のファンタジーの中では、それは絶対に、僕ではない別の誰かが殺した死体でなくてはならないんだ。それは絶対なんだよ。誰かがやった取り返しのつかないことの後始末を僕がやりおおせるというのが核なんだ。一種のマゾヒズムなのかもしれない」
 男が続ける。
「僕は夢を見たよ。これは寝ている時の夢じゃなくて、夢想って意味ね。いつか現実でそういう機会が巡ってきて、誰かが誰かを殺してしまったら、僕がその死体を綺麗に片付けてあげるんだ。なあ、篤くん」
 急に水を向けられ、篤は恐る恐る「はい」と返事をした。
「君はごっこ遊びをしたことがあるか?」
 少しの無言のあとに、篤は「子供の頃になら」と肯定した。
「小道具を使ったか。ヒーローごっこなら、仮面ライダーの変身ベルトとか、そうしたものを」
「使う時もありました」
 プラスチック製のおもちゃの剣を妖刀に見立てて遊んでいた気がする。ながものを持つとテンションが上がる子供だった。
「そうだろう。だから僕も、小道具を揃えたんだ」
 男が言うには、彼は実際に死体を解体・隠蔽することのできる道具を買い揃えたのだという。男はいくつかの具体的なアイテムを口にし、そのだいたいがホームセンターで購入可能な物だった。
「吸水ポリマーを使うのが唯一のオリジナルアイデアでね。そうすればマンションの下水や汚水槽からDNAが出てくることもないだろう」
 篤は何も言わなかった。それが完全犯罪として本当に有効な手口なのかは自分には判別ができなかったし、この男が実際に道具を揃えたというのが気にかかった。買い揃えて、それからどうしたのだろうか。
そしてその道具とやらは、今もこの部屋にあるのだろうか。
「あくまでも夢想のための小道具だよ」
 男が言った。
「現実に実行なんて、できるわけがない。だってそうだろう。そんなこと、していいわけがない。いろんな意味で。それにな、僕のファンタジーの中の死体は、僕ではない誰かが殺したものでなければならないんだ。そんな訳ありの死体やシチュエーションに、普通に生きてて遭遇することなんて、まずないよ」
 それはそうだろう。
「あの」
 篤は思わず口を挟んでいた。己の行動に自分自身が驚いた。この状況では男を刺激せずに大人しく聞き手に回るのがいいに決まっている。だが、つい口出しをしてしまったのは、心に生まれた、かすかな苛立ちからだった。
「道具を揃えたのは、まずかったんじゃないですか」
 この男は、篤には理解できない反社会的な欲望を抱えている。欲望を抑止するためにまずやらねばならないことのひとつは、実行の手立てを自分から遠ざけることだ。
 アルコール依存者の手の届く場所に、酒を置いてはいけないように。
 男はしばらく篤の顔を見つめたあと、「その通りだ」と頷いた。
「道具を揃えて、初めは楽しかったんだ。モデルガンを家でいじくり回してうっとりするみたいに。でも君の言う通り、そのせいでますます想いが膨らんでいった。そして僕はいつしか、夜の街をうろつくようになったんだ」
 嫌な予感がしながら篤は訊いた。
「何のために?」
「起こるはずのないことを求めて」
 カップの底に沈んだタピオカをストローでつつきながら、男は言った。
「普通に生きていたら、僕の望むシチュエーションの死体と出会うことはない。けど、反社会的な世界ならどうだろう、と思った。といっても僕には悪い友人の一人すらいなかったし、そういう人たちとの知り合い方も、見当がつかなかった。だから夜の繁華街や、あまり治安が良くないとされている地域を夜な夜なうろついては、道端にたむろしてる柄の悪そうな人たちとか、入った飲み屋でたまたま近くに座った怖そうな人とかを、夢想の眼差しで見つめるようになったんだ。奇跡なんか起こらないことをむしろ望みながらね」
 男のストローの先からタピオカの粒がつるんと逃げた。
「当然、何度かトラブルにも遭ったよ。何見てんだって怒鳴られたり、一度、飲み屋街の外れでってた悪そうな若者グループを遠くから眺めてたら、相手の不興を買ったみたいで、殴る蹴るされた挙げ句にお金を取られたこともあった」
 それでも男は夜の徘徊を止めることができなかったのだという。
「そんな、ある夜のことだった」
 男が顔を上げ、篤の頭上にあたる何もない空間を眺めた。
「その晩も僕は、性懲りもなく仕事終わりに夜の街をうろついてた。ちょうど年度末の関係で閑散期だったのかな、街にはあまり人がいなくて、気持ちを持て余した僕は、自販機でコーヒーを買って街の外れの公園に行って、ベンチに座った。五十メートル四方くらいの小さな公園でね、僕が座ったベンチの真後ろには、公衆便所があった。本当はトイレの近くになんか座りたくなかったんだけど、そこに腰かけるしかなかったんだ。だって唯一他にある向かいのベンチには、すでに先客がいたからね」
 真向かいのベンチには、中年の男がひとり腰掛けていたのだと彼は話した。
「初めはホームレスかと思った。髪がざんばらで、くたびれた服を着てて、横には空き缶の入ったゴミ袋があって、じっとうなだれてたからね。僕はいつもみたいに彼を少し観察したけど、すぐに関心をなくした。当時の僕の興味の対象は、もっと危険な感じのする人たちだったから」
 そうして彼は周囲への興味をなくし、自分の世界に没入してベンチでぼうっと座り続けたのだと語った。
「色んな考えが頭をぐるぐる回ったよ。いつまでこんなことを続けるのか、とか、自分は親兄弟もいて、定職にも就いていて、いわゆる犯罪における『無敵の人』ではないのに、何をやっているんだろう、とか。でも一番頭を占めてたのは、僕がまともな社会人をやればやり続けるほど、僕の夢に対するお膳立てが整ってきてしまうことへの恐怖だった。だってそうだろう。この歳になった今でも自分の心の構造を正しくは理解していないけれど、僕はとにかく、隠すということがやりたい人間のようだから」
 そんなことを考えながら、気づけば小一時間ほどそこに座っていたのだという。
「しばらくするとふいに、向かいのベンチに座ってたその中年男性がゆっくり立ち上がった。そのままこっちに向かって歩いてくる。一瞬、えっ、と思ったけど、よく考えなくても僕の真後ろには公衆便所があったからね。その男性は用を足しにきたに過ぎなかった。男性は僕の後ろのトイレに入っていった。人の排泄音なんて聞きたくないから、僕はまた物思いにふけることにして、心の中で歌をうたったよ。何年か前に流行った洋楽の『コール・ミー・メイビー』って曲だった。知ってる?」
「いえ」
「いや絶対知ってるよ。こういう曲だ」
 言って、男がふんふんふんとメロディーを口ずさんだ。言われてみれば耳にしたことのある有名な曲だったが、どうでもいい。
「ともかくそんなことをしているとな、後ろから水の流れる音がして、男性が出てきた。僕は気に留めずに心の中で歌い続けたけど、すると出し抜けに、その男性が僕の隣に腰を下ろしたんだ」
 篤はまばたきをした。男が言うには、その男性は人ひとりぶんの間を空けた位置に座ったのだそうだ。多少の距離があるとはいえこの状況で同じベンチに腰掛けられたのは明らかに不審なことで、瞬時に警戒心が走ったと男は語った。
「痴漢」
 神妙な顔で男が言った。
「……という表現が正しいのかな。ともかく何というか、性的な目的だと思った。偏見かもしれないけれど、背後に公衆便所があるという状況が尚更そう思わせたんだ。すぐに立ってその場を離れようと思ったんだけど、突然のことに初動が遅れてね。怖い犬が目の前に現れた時って、こっちが背中を向けて逃げ出した瞬間に戦闘開始のゴングが鳴っちゃいそうな感じあるだろ?」
「それでどうなったんですか?」
「少しの間のあとに、男性が口を開いたんだ」
 言って、男はその男性の口調を再現するかのように、口を歪めてしゃがれた声を出した。
「『兄ちゃん、つらいんだろ』って」
 耳を傾ける篤の前で男は顔を元の表情に戻すと、続けた。
「それもまた一種の誘いの台詞に聞こえたから、僕は『いえ』とか『別に』だのの適当な言葉を返して、今度こそベンチを立とうとした。そしたら男性がまた言った。『つらいんだろ』。そしたら、本当に不思議なことなんだけど、それを聞いた瞬間──僕の目から涙がぼろっと落ちたんだ」
 そう言って少し言葉を切ったあと、男はドリンクのカップを、大事そうに両手で包んだ。
「涙が止まらなくなった。そのおじさん、たばこの吸い過ぎみたいなガッサガサの声なんだけどそれがまた無駄にいい声に感じられてね。僕はベンチに座ったまま、無言でボロボロ泣き続けた。おじさんは黙ってずっと横に座ってた。しばらくしてから僕の感情が少し落ち着いた頃、彼が静かな声で僕に言ったんだ。『あっちのベンチに行って、ベンチの下にあるもんを見てこい』。『もし気に入ったら、やるから、お前は俺に〝二〟渡せ』。意味がわからなくて聞き返したけど、おじさんは同じ台詞を繰り返したあと、付け加えた。『くれぐれもさりげない動作でな』」
 さて、と男が言い、篤の顔を見た。
「君みたいな子なら、そのベンチの下にだいたいどんな物があったか、もう想像がつくかな」
「ええまあ」
「僕は彼の言う通りに、さっきまではそのおじさんが座っていた向かい側のベンチに移動して、座った。人目を気にしながら、ほどけた革靴の紐を結ぶフリをしてベンチの下をこっそり探ると、何かが手に触れた。ベンチの底に貼り付けてあったんだ。封筒だったよ。銀行でタダでもらえるメガバンクの白いやつ。中に何かゴワゴワしてるものが入ってるのが手触りでわかって、さすがの僕も、この状況が理解できた。あのおじさんは薬の売人で、これに入っているのは何かしらの違法薬物だろうって。なるほどな、と遠い気持ちで思ったのを覚えてる。ああいうのって所持が違法だからね。この受け渡し方ならおじさんはたとえ現場を警察に押さえられても言い逃れができるわけだ。そうやってあの公園で商売してる人だったんだろう」
 篤は無言で続きを促した。
「中を改めるのも人目が気になって、僕は急いでそれを鞄にしまうと、封筒を貼り付けてたテープを使って、財布から出した二万円を同じようにベンチの下に貼り付けた。正しい作法なのかはわからなかったけど、向かいのベンチでおじさんが小さく頷いたのが見えたから、そのまま逃げるように公園を出た。それでそのおじさんとはおしまい。それっきり。鞄を抱えて家路に就きながら、この中に入っているのは一体何の違法薬物なんだろうと考えてた。ヘロイン? コカイン? 脱法ハーブ? 僕はどきどきしてた。途中の駅のトイレで中身を確認してもよかったんだけど、持ってること自体が怖くてね。一刻も早く家に帰りたくて、封筒の中身は見ないまま真っ直ぐこの部屋に帰宅したよ」
 男が台湾風の菓子に手を伸ばした。
「部屋に入ってすぐ、封筒を開けた。中からはまず、封筒とほぼ同じサイズの、アルミホイルを畳んだ包みが出てきた。想像してたのはドラマに出てくるような白い粉の入った袋だったけど、アルミ包装の中には、予想とは少し違う小分け袋が入ってた。ビニールジッパーが付いた四角い透明の袋の中に、何か緑色の、くちゃくちゃしたものが入ってた。乾燥した香辛料か、草食動物のフンみたいに見えたけど、ああこれ大麻だ、と理解した」
 ここでようやく大麻の登場だ。篤はストローを口に含んだ。
「取り出して、観察してみた。大麻って俗にハッパと呼ぶくらいだから葉の部分が入ってると思ったんだけど、その塊は何だか丸っこくてフワフワした部分の集まりだった。ネットで検索して照らし合わせると、大麻の、葉じゃなくて花の穂の部分を集めたものらしいとわかった。大麻って基本的にその部分を使って楽しむものなんだってさ。指で押したら柔らかくほぐれて、すると中に、いくつかの粒があるのを見つけた。種だった。ネットの情報によると──」
 男が息を吐いた。
「種が付くほど成熟してしまった大麻のすいは、効きが弱くて嗜好品としては多少、質が落ちるらしい。自分で栽培をする人間にとっては、サイクルに必要だから有用なものだけど、あのおじさんがどうして僕にそれを売ったのか。僕は、つかまされたのかもしれないし、あのおじさんには何らかの事情があって、在庫処分のような感じで大盤振る舞いしてくれたのかもしれない。でも、どうでもよかった。僕の目の前には、自分の指によって選り分けられた花の穂と種があって、僕はもう、乾燥大麻のほうからは完全に関心をなくしてた。僕は種を一粒摘んで、部屋の灯りに透かしてみたよ」
 男が顔の前で手をCの形にし、目を細めた。
「これぐらいの小さな、小さな種でね……」
 眩しいものを見ているような表情だった。
「僕はその瞬間、息が詰まるような切なさを覚えた。ときめきと言ってもいい。これを誰にも見せたくない、と、そう思った。保身からくる気持ちじゃない。目の前にあるこれは、僕の魂の形にぴったりだと感じた。胸がどきどきして、あのおじさんは魔法使いか、超能力者か、神が遣わした天使だと思ったよ。乾燥大麻のほうはテーブルにほっ散らかしのままで、もう興味がなかった。僕はその種に夢中だった。そうして僕は、その種を部屋で育ててみようと思ったんだ」
「なんで?」
 素の声が出た。変態の考えることは飛躍していてよくわからない。
「代替品になり得るからさ」
 きっぱりとした口調で男が言った。
「この部屋で、こっそりこれを育てるんだ。誰かからもらったものを、僕がこっそり、この部屋で。僕の夢のジェネリックだよ。本質は違うけど、近縁だ。ここからは、もう理屈じゃない。僕は死体を隠す代わりに、隠れて大麻を育ててみようと思ったんだ」
 男が立ち上がり、クローゼットの前に立った。
「生い茂ってるよ、おかげさまで」
 うちで買ったUVライトを使っているのだろう。
「近頃、あの夢も見ない。また見るかもしれないけど、少なくとも今は見ていない」
 男が篤に向き直った。
「これで僕の話は終わりだ」
 そう言って、男は真顔で篤を見つめた。
「ご清聴ありがとう」
 床に座ったまま、篤はしばらくどう反応したものかと考えていた。
 さしあたって三つほど訊きたいことが浮かんだので、馬鹿みたいに小さく挙手をしてみた。
「どうぞ」
「その大麻、育ててどうするんですか。吸うんですか、売るんですか」
「どうもしない。試しにジョイントを何本か作ってみたけど、欲しいならあげるよ」
 いえ、と断り、篤は連ねた。
「本当にそれ、大麻ですか?」
「インディカって種類のようだ。葉っぱの特徴からして。比較的、アッパーな作用のある品種らしい」
「ええと」
 篤は膝をさすり、そして次に、一番訊きたかったことを尋ねた。
「どうして、俺にその話を聞いて欲しかったんですか」
「僕の部屋には風呂場で君を神隠しにする道具が揃ってるけど、僕は人殺しじゃないし、もろもろ、条件も整ってない。話をして人情に訴えかけたら、より強固に口止めできるかもしれないと思った」
 篤が何か言うより先に、男が発した。
「わかってるよ。こうして話をし終えた今も、共感なんか生まれちゃいないってことは。今度は僕が質問しても?」
 矢継ぎ早に発言の機会を取られ、喉から出かけた言葉がつんのめるような感覚を抱きながらも、篤は頷いた。
「どうして僕を襲った?」
「……金が、欲しかったから」
「どうして?」
「……別に。遊んだり、服買ったり、そういうことのために」
 男が篤の表情を眺めている。この男は何かと鈍臭い割に、観察力だけは時おり、妙に冴えている気がする。夜の街で危険そうな人物を観察しているうちに培われたものなのだろうか?
「そう。いくら欲しかったの?」
 答えに窮した。今更のうのうとそんなこと言えるわけがない。
 すると男は急に腰を折って篤の顔に顔を近づけると、至近距離で言った。
「いーち」
 男が指をひとつ折る。篤の顔が引きつった。
 続いて男は、にい、さん、し、と指を折っていき、五まで数えたところでにっこり微笑むと、上体を起こしてパソコンデスクに近づいた。デスクの一番上にある鍵付きの引き出しを解錠し、男は中から分厚い茶封筒を取り出した。彼が中身を取り出すと、五十万円はあると思しき万札の束が現れた。なぜ自宅にそこまでの現ナマを置いてあるのだろうと一瞬思ったが、彼がやっていることからして様々な道具を現金で購入する必要があるからなのだろう。男は札を折り曲げて枚数を数え、篤に差し出した。
「はい、四十万。色を付けて十万、おまけしといたよ。君ってわかりやすいね」
 戸惑う篤に男はさらにぐいと金を突き出した。
「これは口止め料」
「いや、」
「誓いを立ててくれたし、君の方にも泣き所があるし、すでに信じてはいるが、いいから受け取りなさい」
 迷った。そもそもはこれが目的だったが、今となっては彼から金を受け取るのが怖かった。
 しかし男は、篤が金を受け取れないでいるのを見ると、床に落ちている篤の二つ折り財布を拾い、そこに四十万円を差し込んだ。
 そして男はそのまま後ろから篤の両肩に手を置き、言った。
「父親という言葉に反応を見せた時」
 頭上にある男の表情は見えない。
「気が合いそうだと思った」
 肩から男の手が離れた。彼はゆっくりと篤の隣を横切り、ベランダのカーテンを開けた。窓の外には向かいにあるマンションの窓明かりが並び、男はまるでその一室一室へ触れようとしているかのように、ガラスに右手を滑らせた。
「あくまでも持論だが」
 撫で下ろしたところで男が手を止めた。
「すべての人間は父親から認められたがっている」
 篤のまぶたがけいれんした。
「この話における父親は、必ずしも実父とは限らない。他人だったり、人によってはその父親が女性だという場合もある。でもそれは母親ではなく、父親としか呼べない何かなんだ。組織や、神様や、もっと他のものがそれに相当する人もいる」
 男が言う。
「僕はね、自分の夢に出てくるあの死体を殺したのは、父親だと思ってる」
 男が振り返って篤に苦笑を送った。
「実父という意味ではないよ」
 そして男は再び窓を向くと、言った。
「お願いがひとつある」
「なんですか」
「いつかもし、不都合な死体が出たら、その時は僕に連絡をくれ」
 何を言っているのだろうと思った。それを避けたくて大麻を栽培しているのではないのか。
 電話番号は財布に入れておいたから、と男が言う。そして彼は窓から離れ、篤に近づくと、パソコンデスクに置いていた鋭利なハサミを篤の足首にある紐にかけた。
「会えてよかった」
 そう言って、男はヂョキッと紐を()った。

 エレベーターを降りると、篤は小走りでマンションの自動ドアから外に出た。
 途中でエントランスの監視カメラを意識して、時間にしてゆうに約二時間程のこの滞在を自分たちの他にカメラも知っているのだということに、後ろめたさと開き直りの両方を感じた。
 マンションの前で鼻を拭う。もはやそこにこびりついた血はなかったが、殴りつけられた後頭部に感じる鈍い痛みに、改めてあの場の異常さを思った。
 パーカーのポケットに手を突っ込み、夜道へ一歩踏み出す。が、篤はそこで足を止めると、マンションのほうへと引き返した。今度は正面玄関の自動ドアには向かわず、開放されている右横の通路へ入った。
 そこにはマンションの集合ポストがあった。
 男の部屋番号が書かれた郵便受けを見る。名前の表示はない。篤はその場でしばらく苛々と体を揺すったあと、くそ、と呟いて財布を出した。
 見たこともない厚みになっている二つ折り財布を開き、そこから男に渡された四十万円を取り出した。そのまま、その金を男のポストに突っ込もうとした。だがしかし、やはり手前で手が止まった。
 長い葛藤が生じた。
「くそ」
 悪態とともに財布を閉じ、篤は今度こそ逃げるようにその場を後にした。
 受け取るとややこしいことになる気がするが、口止め料を突き返すのは協定の反故を意味してしまう。どうすればいいかもわからないまま原付を止めてある駅に向かうため財布をポケットに仕舞おうとした時、ただでさえ溜まっているレシートと万札の厚みでバカになった二つ折り財布から紙がひらりと落ちた。空中で掴み、紙を見た。白いそのメモ用紙には、流麗なボールペン字で電話番号が書かれていた。
 おにいさん、小松菜。
 地元の面倒な先輩のナンバープレートを記憶しておく時の習わしで下八桁をつい語呂合わせで読んでしまい、何が小松菜だ、1564(ひとごろし)とかにしとけ、と思いながら篤はそのメモを破って捨てた。
 駅に着き、原付にまたがる。大学生たちはもういなかった。針がてっぺんを指した花壇の柱時計の後ろには、雑居ビルの中階にある「凡僧」という変な名前をした焼き鳥屋の袖看板が光っていて、この町にはしばらく近づかないことを心に誓いながら、篤は夜のじょうりょくちょうを去った。
 空には半分に割った月が浮かんでいた。

 夢を見た気がする。
 眠れやしないだろうと思っていたが眠りは訪れ、自宅の万年床の上で篤は目を覚ました。直後にずきっと頭が痛み、恐る恐る後頭部に手を伸ばすと、昨日殴られた場所にこぶができていた。こぶができたなら安心できるという俗説を信じることにして、畳の上であぐらをかき、鬱々とした。
 どんなに異常な体験をした翌日でも、朝は来てしまう。
 シフト上では今日も「レプタイルズ・メサ」に行かなくてはならない日だ。あんな風に店を飛び出したのだから、もしかしたら喜屋武の中で自分はもう切られているのかもしれないが。スマホを見ても喜屋武からは何の連絡も入っていない。
 いっそバックれてやろうか、と考える。むしろそれが空気を読めるということなのかもしれない。
 篤は畳に寝転がった。バックれを正当化する材料が頭にいくつも浮かんでくる。昨日、あんな目に遭ったばかりなこと。生体販売に対する倫理的な観点。篤に任せきりのワンオペ業務。このバイトを辞めたところで若い自分なら別の仕事も見つかるだろうという考え。それに、今の自分の手元には四十万円があるのだ。次の仕事がすぐに決まらずとも、しばらく生活していける。
 そう考え始めた自分に対して、あの男から金を奪おうとしたそもそもの理由を思い、いったい何をやっているのだかと自嘲した。
 どれだけもっともらしい能書きをたれても、自分は結局、喜屋武と顔を合わせるのが怖いだけなのだ。
 仰向けに寝転んだ視線の先には天井の丸い蛍光灯があった。子供の頃、こうして寝転びながら隣で寝ている父親についた嘘を思い出した。豆電球にした時にオレンジ色に光るそれが、自分には土星の輪のように見えると幼い篤は言った。本当はそんな風に見えたことなど一度もなかった。褒めてもらえると思ったのだが、父はただただ相槌のように笑い、その笑い方の調子に嘘を見透かされたことがわかって、ぎくりとしたのを覚えている。どうして調子を合わせてくれないのかと怒りが沸き、そのあと、思い出したくもないほど恥ずかしくなった。
 畳の上でしばらく考えを巡らせたあと、篤は体を起こした。
 ちゃぶ台の上では、父が去ってからずっと放置したままのコップの中で三ツ矢サイダーが糊のように乾いていて、篤はそれを流しに運ぶと、蛇口をひねって桶に浸けた。

「レプタイルズ・メサ」に行くと、普段なら自分が上げるシャッターがすでに上がっていた。
 こちらが来ないことを予測したその光景に陰鬱な気持ちになる。店の中には、喜屋武がいた。自分で開店作業をするなど、夜型のこの男にとってはふんまんやるかたないことだっただろう。
 店内に姿を現した篤に気づいても、レジカウンターの喜屋武はノートパソコンから顔を上げなかった。篤は何も言わずにフトシの水槽を見た。もう誰もいない。空っぽの水槽の中に、止まり木の流木だけが置かれていた。
「おはようございます」
「おう」
 意外と返事があった。
「昨日は、すみませんでした」
 今度は返事がなかった。視線も相変わらず手元のパソコンだ。「休め」の姿勢で喜屋武の言葉を待った。カチカチとマウスを押す音が響き、たっぷり三十秒ほどその音と生き物たちの物音と天井のシーリングファンの動作音だけが流れて、そのあとようやく、パソコンモニターの向こうから喜屋武が言葉を発した。
かんしゃく起こして、出ていきやがって」
「すみません」
「俺はああやって話の途中で逃げられるのが一番嫌いだ。いいかかねもと、男が話の途中で逃げていいのはなあ、女と話してて、頭にきて、これ以上この場にいたらこいつをぶん殴りかねんって思った時だけだぜ」
 平成生まれの篤にとって完全同意はしかねる話だったが、しおらしくうつむくことにした。
「なんだその顔」
 言われて顔を上げると、喜屋武の両目がモニターの上から篤を睨んでいた。一瞬、表情に反省の色がないと因縁をつけられたのかと思った。しかし喜屋武は、自分自身の顔の中心あたりを指でぐるっと囲むジェスチャーをすると、鼻で笑った。
「ヤケになって飛び出して、街で喧嘩か? くだらん。警察沙汰なんか起こしてねえだろうな」
 篤は自分の鼻柱に触れた。床でぶつけたから確かに少し腫れている。実際は喧嘩よりもよほど込み入ったことがあったのだが、「色々あって」と返すと、喜屋武がふたたび鼻を鳴らした。
「でその〈色々〉の結果、どういう考えに至ってんだよ、今のお前はよ」
「喜屋武さん」
 篤は左側にある空の水槽を見たあと、喜屋武に視線を戻した。
「フト──、ここのフトアゴは、どうなりましたか」
 喜屋武が目をすがめた。
「てめえ。まだそんなこと言ってんのか」
「金を用意したら譲ってくれる約束でした。昨日の今日だし、まだ処分はしてないですよね?」
 処分、と口にすると辛くなった。喜屋武が腕組みで横を向いた。むっつりした表情で感情は読めないが、その顔を見て篤はほっとした。フトシはまだ生きている。
 篤はボディバッグのファスナーを開いた。中からそれを取り出す時、ためらいが生じた。だが結局手に取ると、喜屋武のいるレジまで持っていき、カウンターの上に置いた。
 天板の上に置かれた厚みのある角封筒を、喜屋武が無言で見下ろした。
「俺、喜屋武さんがああいう条件を出した意味、自分なりにわかってるつもりです」
 カウンターの前で篤は言った。
「俺は、全員に同じことはしてやれない。でも、せめて目の前の一匹を救うのって、そんなに駄目なことでしょうか」
「何が救うだ、おこがましい」
 喜屋武が口を歪めて言った。
「この仕事はな、人の手による種の保存だとか、なけなしの正の側面を主張する奴もいるけどよ、結局は人間のエゴで生きもんを繁殖・売買・処分してるグロいグロい商売なんだよ。だけど俺は、体を十分に伸ばせないサイズのケージで飼育したり、最後まで面倒を見きれん経済力と責任感のない奴には、ペットを売らん。売ってないつもりだ。でも、売ってしまってる場合もあるんだろうよ実際は。厳密に審査できてるわけじゃねえからな」
 そう言って喜屋武は篤が渡した封筒を睨んだ。
「お前にも売らん。何だこの金は。一夜明けて急に三十万を用立てただと。その顔の傷は何だ。ロクな金じゃねえのはボケたジジイでもわかるわ。どんな手段で工面しようとどうでもいいけどな、生きもん一匹死ぬまで買うんだ。臨時収入じゃ意味ねえんだよ!」
 喜屋武がカウンターを手で叩いた。
「喜屋武さん、違います。その封筒は金じゃありません」
「あ?」
「パンフレットです」
 正確には、情報をプリントした紙の束だった。今朝ここに向かう途中のコンビニで印刷してきた物だ。
 喜屋武が封筒を手に取り、中身を見た。
「俺、動物取扱責任者になろうと思います」
 紙に印刷してあるのは、そのための手順を調べてネットプリントした物だった。
「そのためには半年以上の実務経験と、生き物の取り扱いに関する資格が必要らしくて。実務経験に関しては、ここで半年以上働いている俺は要件をすでに満たしています。資格のほうは、俺が取るとするなら、愛玩動物飼養管理士が良さそうです。仕事終わりに学校に通って、試験を受けないといけないけど」
 喜屋武がプリントをめくる。眉間には深い皺が寄っていた。
「俺、この資格を取って、もっと役に立てるようになります。専門の学校で勉強して、生体の取り扱いへの理解も深めます。だから」
 目が合わない喜屋武を前に、篤は体の前で両手を握った。
「お願いします。俺にフトシを譲ってください」
 そう言って、頭を下げた。
 喜屋武がプリントをめくる音が続いた。やがて彼は目を通し終えたプリントをカウンターの上に置くと、椅子ごと壁を向いて言った。
「結局、泣き落としじゃねえか」
「……すみません」
「俺が指摘した問題の解決にはなってねえよ」
「……はい」
「だいたい、動物取扱責任者なんてオーナーの俺は当然持ってるし、店舗に一人いれば十分だ。お前がこれを取ったところで俺の役には別に立たん」
「でも」
「うるせえ。そもそもお前、勘違いしてんだよ。にわか調べしかしてねえんだろ。うちの自治体の決まりは調べたか? ここじゃお前の言う半年間の実務経験に、アルバイトは含まれんぞ」
 そうだったのか。愕然とした。自分が調べたネットの情報ではアルバイトも実務経験に含まれると書いていたのだが、自治体によって差異があるとは。
「だいたい学校に通う金はどうすんだ? 学費もない、フトアゴを飼育していく甲斐性もない。これでもう、結論は出たな」
 喜屋武が背を向けた。篤はうつむいた。あの四十万を使えば、と思ったが、生まれて初めて真剣に考えて決めたことにあの金を使うと、今後の人生がすすける気がした。
「結論は出た。お前、うちの正社員になれ」
「え?」
 思わぬ言葉に篤は顔を上げた。
「そうすりゃ半年後に実務経験の要件は満たせるし、今より給料も上がる。資格を取った暁にはブリーディングも手伝わせられるから、その手当てもやるよ。ま、はした金でこき使うけどな」
 予想していなかった展開に何も言えずにいる篤へ、喜屋武が椅子を回して正面に向き直った。
「ただ、あのフトアゴをお前に売ることはできない。──あいつはもういない」
 な、と篤は思わず食い掛かりそうになった。
「勘違いすんな。他にもらい手が見つかったんだよ」
「嘘だ」
 あんな売れ残りの年寄りトカゲを欲しがる奴などいない。喜屋武は体のいい嘘をついている。
「お前、マジでいっぺんしっかり勉強しなおした方がいいわ」
 憤りを顔に滲ませる篤の一方で、喜屋武は呆れた表情をしながらのんびりと頭上で手を組んだ。
「いいか? 犬猫と違って爬虫類は、ベビーよりもしっかり育った成体のほうが需要が高いんだよ。若いのはデリケートすぎて飼育が難しいからな。あのフトアゴは売れ残ってたんじゃない。ちゃんと育つまで店に置かれてたんだよ、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「嘘だ。だって現に、うちに来る客には若い個体のほうが人気あるじゃないですか」
「そりゃうちの客は玄人揃いだからだ。ベビーの蛇に冷凍のピンクマウスを与える際、飲み込みやすいようにマウスの手足を切断したり、ミキサーにかけたりするのも厭わない奴らがうちの客層だ。お前はそんなことも知らずにカウンターの裏でピコピコ、ゲームばっかりやってたんだよ。この給料泥棒が」
 篤は宙を見て、しばらく自分の無知さへ静かにショックを受けていた。
「今まで『処分』してきた奴らはな、実際のところ、大半は俺のツテで誰かに高値で売ったり、爬虫類カフェとかに譲渡して今も元気に生きてんだよ。コンセプトカフェの奴らは管理に手間のかかる幼体は欲しがらないからな」
「でも、成体を店から下げる時、いつも『処分する』って言いながら箱に入れてたじゃないですか!」
 そうだ。喜屋武はいつも店から生体を引き下げる時、「もう売れないから」と言ってあのプラスチックケースに入れていた。あたかもこれから水に沈めて殺すと言わんばかりの挙動で。
 喜屋武が冷たい顔で言った。
「それはお前が今まで、あのプラスチックケースを見ても、まったく平気な顔でいたからだ」
 喜屋武がふたたび背を向ける。
「今のお前なら、ちょっとはマシだぜ」
 ちょっとはな。そう追加して、喜屋武は仕事用のエプロンを篤に投げて寄越した。

 春の陽が差す部屋の中で、篤は腰に手を当てた。
 部屋にはいくつかの段ボール箱が隅にまとめて置かれている。そこはもう、生まれた時からずっと住んでいたあの長屋ではなかった。「レプタイルズ・メサ」から近い安アパートに引っ越したのだ。
 未開封の段ボール箱がまだ残っているが、生活必需品はあらかた出したので今日のところはこれでいいだろう。明日の仕事終わりには専門学校の授業があるから、仕事と学校の隙間を縫って、おいおい片付けて行くつもりだ。
 引っ越し自体は、自分で軽トラを借りて荷物を運んだので安く済んだ。が、敷金と礼金等には、数ヶ月前にあの男から口止め料としてもらった四十万円を使わせてもらった。フトシを買い取ることには使わないという矜持があったのに、転居費用には使っていいだろうといった妙なさじ加減を発揮したあたり、己のちゃらんぽらんさが窺える。
 新居はペット可の物件を選んだ。逆に言えば前の借家はペットが不可だったのだが、そんな状態でフトシを買おうとしていた自分の無責任さに、今となっては呆れる思いだ。
 とはいえ今はまだ、篤の部屋には篤以外の生き物がいない。
 フトシは今どこにいるのか、と先日の仕事終わりに喜屋武へ尋ねた。喜屋武はしばらく言い渋っていたが、最終的に、実は例の「オキニ」の女性が飼っているのだと白状した。その女性と夜の店で初めて出会った時、色白の見た目と聡明な受け答えに魅了されたと同時に、彼女の二の腕からちらりと覗く、肌色のバンテージが気になったのだという。明らかなタトゥー隠しで、その下には何の刺青いれずみがあるのかと喜屋武は質問した。トカゲのタトゥーだと彼女は言った。トカゲが好きなのかと喜屋武が尋ねると、彼女は頷き、「飼うのが夢だ」と話したのだそうだ。喜屋武はさっそく、自分が爬虫類屋であることをアピールし、何度目かのアフターの後、ついに彼女の部屋に上がらせてもらうことを成し遂げた。そして喜屋武は下心に胸を膨らませながら──彼女の部屋がペット可の物件で、飼育に十分な広さがあり、給料明細まで見せてもらって彼女に爬虫類オーナーたる資格があることをきっちり確認すると、水槽や紫外線ライトを設置して帰ったのだという。
「女の部屋に上がって何もしなかったのは初めてだ」
 と喜屋武は悔しそうに言った。
 今でも時々、フトシの現況確認をダシにして彼女の部屋に行くのだという。一度、部屋で一緒に映画を見ながらいい雰囲気になりかけたらしいが、「ベネが見てるから」という理由で何もさせてもらえずに帰されたそうだ。フトシは今ではベネディクトという名前で飼われているらしい。彼女が好きな俳優の名前から取ったそうだ、と喜屋武が恨みがましく、しかしまんざらでもなさそうな顔で語っていた。
 自分もそのうち最初の一匹を飼いたい、と篤は思う。
 しかし、それはまだ少し先になりそうだ。正社員になって給料が少し上がったとはいえ、爬虫類を飼うには餌代も光熱費もかかる。その夢を叶えるのは、専門学校の学費を払い終えてからになるだろう。
「さて」
 篤はボディバッグを持ち、部屋を出た。引っ越し資金の足しに原付は売ってしまったので、徒歩で目的地へと向かう。
 歩いて十分で区役所についた。転居にまつわる手続きを済ませ、その足で、運転免許証の住所を書き換えるために最寄りの警察署にも寄った。
 旭の代紋が掲げられた警察署の前に立つと、やはり少し、足がすくんだ。もともと警察は好きではないが、あの一件以来、警官やパトカーを見ると今まで以上に内心で過敏な反応をしてしまう。
 気を取り直して警察署の中に足を踏み入れた。釣り堀のいけのように大きなカウンターがあり、その中で職員たちが忙しなく動き回っている。運転免許証にまつわる窓口を見つけ、他に並んでいる人間がいなかったのですぐに手続きが受けられた。窓口の女性職員が書類に記入するのを前にボーッと「生簀」を眺めていると、篤はその中にふと、見覚えのある人物を発見して、硬直した。
 猫背。
 垢抜けない、重たい髪型。
 半袖の制服姿で電話番の男性職員に書類を渡して何かを話しかけている。
 篤の口が斜めに引きつった。と同時に、男のほうも何気ない動作で書類を片手に顔を上げ、そこにいる篤を見て、無言でその場に佇んだ。
 時間にすればほんの一秒ほどだっただろう。
「こちらで間違いありませんね?」
 交通課の女性職員が篤に免許証の記載事項の確認を求めた。篤は慌てて新しい住所が追記された免許証に目を落とし、上の空のまま、はい、と答えた。免許証を受け取り、逃げるように窓口から離れてふたたび広いカウンターの中を見た。すると同時に、ポケットの中でスマホが震えた。
 おにいさん、小松菜。
 画面に表示されていたのは、あの晩、語呂合わせで記憶してしまった電話番号だった。カウンターの中に視線を戻すと、職員たちが行き交う中で、あの男が席に腰掛け、斜めを向いた格好で耳に銀色の二つ折り携帯を当てていた。傍目には仕事用の携帯で業務をしている姿にしか見えない。
 指が震えた。こいつ、警察官だったのかよという衝撃とともに、警察官があんなことをしているというスキャンダラスさを受け止めきれなくなる。ばれたらいろんな意味で大ごとになるにもかかわらず、今もこうしてあの場所からのうのうと電話をかけてきている。なぜこちらの番号を知られているのだろうとも思ったが、答えは簡単で、こんとう中に氏名と一緒に電話番号も把握されてしまったのだろう。スマホのロックナンバーを生まれ年の西暦にしていたことを後悔した。ひったくりへの注意喚起を促すポスターの前でしばらく迷ったあと、篤は電話に出た。
『お世話になっております』 
 事務的な声が電話口から聞こえた。スマホを耳につけたままカウンターの中を見ると、声がふたたび電話越しに続いた。横顔で電話をかけている男の唇と言葉が完全にリンクしている。
『その後、お加減はいかがですか?』
 篤は口をつぐんでいた。しかし、と考える。警察職員の所持している電話というのは、たとえ携帯でも通話内容が記録されるものなのではないだろうか? 
 わからない──わからないが、下手なことは言えない。結果、篤は警戒しながらも、当たりさわりのない言葉を返した。
「はい」
『何よりです。この間、変わったことはありませんでしたか?』
 何のつもりだ?
「はい」
 警察署のロビーとカウンター内というわずかな距離を挟んで、相手が言う。
『そうですか。何かありましたら、ぜひご連絡くださいね』
 合点した。死体が出たら連絡しろと言っているのだ。相も変わらず、こんな場所で、いけしゃあしゃあと──。
「あるわけありません。何かなんて」
 事務机に肘を置いて男が笑った。
『それが一番です。しかし万が一ということがありますからね。その時はぜひご連絡ください。では、また』
 通話が切れた。事務机の向こうで男が携帯を折りたたみ、隣の職員との会話に戻った。篤のほうを、もう見向きもしなかった。
 何が会社員だ。何が万が一だ。億にひとつもあるわけがないだろう。この国の警察機関にあんな男がいることに戦慄を覚えながら茫然と出口へ向かう篤の頭に、あの晩、男がこちらに口ずさんでみせた「コール・ミー・メイビー」のメロディが再生された。きっと電話してね、と待ち望む女の歌だ。
 かぶりを振って音楽を頭から追い出し、自動ドアをくぐる。外へ出ると、署内の空調と外気の温度にほとんど違いを感じなかった。一年のうち、ほんのわずかな間だけ存在する、春秋の現象だった。もうすぐ夏がやってきて、外の空気も「レプタイルズ・メサ」の中の温度や湿度と変わりがなくなるのだろう。
 警察署の出入り口に立っている警らの若い警官が、まっすぐ立ったままこちらに一瞥をよこした。篤は一瞬、立ち止まったあと、顔をしかめて彼に向き直った。あの男がいる署内を顎で示し、自分の頭の横で人差し指をくるくるとやる。警官が訝しむ顔をしたが、篤は指を回しながら彼の横を通り過ぎると、「ぱあ」の仕草でその手を咲かせ、春の空気の町へと去った。

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