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「なぜですか?」
愕然とした声が狭い個室に響いた。シンガー志望という本人の自己申告に相違ない、よく通る声だった。
その女性はオフショルダーの服から出た肩をいからせて膝に両手を置き、テーブルの上に並べられた七枚のカードを見つめていた。背後には、この個室を仕切るための薄布がかかっている。赤紫色で先に金色の房飾りが付いた、アラビア風のカーテンだ。布を通して透けた光が、彼女の顔を赤みのある色で照らし、元の容姿にもまして美しく見せていた。
ダイヤ形に配置された七枚のカードの中から、真ん中の一枚を太い指で示すと、坂東イリスは彼女へ言った。
「〈核心〉の位置に、愚者の逆位置が出ているからです」
カードには道化師の格好をした男が描かれている。坂東にとっては逆さまだが、対面にいる彼女からは正位置に見えるだろう。
「もう一度、結論を申しますと、上京はお勧めしません。少なくとも今のタイミングでは」
「どうしてですか? これ以上、大阪にいても停滞してる感じがするんです。気持ちを変えたいんです。それに東京のほうが、誰かの目に留まるチャンスも増えるし」
声色に非難が含まれている。むしろ東京移住への背中を押してほしくて占いに訪れたのに、意に沿わぬことを言われた失望が怒りとなって表れているのが見て取れた。
「あなたが役者か漫画家なら、東京に住む必然性もそれなりにあるでしょう。役者は稽古という形で物理的にひとところへ集まる必要がありますし、漫画家も、アシスタントとして修業やコネ作りをするなら同様です。でも、あなたの場合はその必然性がない。必然性がないのに家賃と物価の高い場所に来るのは悪手です」
「必然性ならあります! さっきも言った通り、ライブひとつするにしても東京のほうが誰かの目に留まりやすくなるんです。それに、夢を持った人間の集まる街だから、有益な出会いも増えますよね。同じ夢を持った仲間と情報交換したり、ミュージシャン同士でコラボしたり」
「あなたの未来が見えます」
〈歌手志望〉の言葉を無視して、坂東は宙に手をかざした。
「上京した場合の、あなたのこの先が。あなたはすぐにアルバイトを見つけ、働きながら夢を追うでしょう。しかし次第に東京の家賃と物価で生計が厳しくなり、アルバイトを増やします。飲酒の気が見えますから、おそらく水商売にも手を出すでしょうね。そしてあなたは疲弊し、本業がおろそかになり、なんのために東京に出たのかがわからない本末転倒な事態になってゆく」
は、と〈歌手志望〉が口だけで笑った。
「夢のために水商売? そんなの転落でもなんでもありません。今までにも経験はありますし、そうやって夢を掴んでる子はいくらでもいる。潰れるかどうかなんて本人の心持ち次第だし、そこで潰れるなら私がしょせん、そこまでの人間だったってことでしょ。典型的な上京残酷物語を聞かせて、それらしいこと言ってるだけじゃない。何が占い師よ」
「あなたは話がつまらない」
バッグを持って席を立ちかけた彼女に坂東は言った。
「は?」と彼女が中腰の姿勢でこちらを睨んだ。
「トークのセンスがない。でも人の目を引く魔力がある。過去に働いていた夜のお店には、あなたと同じか、それ以上に綺麗な子がいくらでもいたのに、初対面のお客はいつも大勢の中からあなたを見つけて席に呼んだ。あなたはそれがいつも不思議だったけれど、次第に確信へと変わっていきましたね。自分には単純な容姿とはまた違う、特別な魅力があるのだと。その体験の連続が、自分は何かを成すべき人間だという確信を補強していった。だからあなたは、子供の頃に夢見た歌手という道を再び目指して、賭けてみる気持ちになった。そう思った転機は去年の九月ですね。当時、勤めていた夜のお店は、シフトの融通が利く上に短時間で高収入だったから、夢を追いながら続けても良かったけれど、辞めた。原因はアルコールです。違いますか」
〈歌手志望〉が、椅子の背に手をかけた姿勢のまま、目を見開いた顔で坂東を見ていた。坂東は自分の大きな尻の位置を椅子の上で微調整して、続けた。
「あなたを指名したお客さんたちはいつも、あなたが席について会話を始めるやいなや、思っていたよりもあなたが面白くない人間であることに、がっかりしましたね。あなたにはその落胆が伝わった。自分が人見知りで、気の利いた会話が苦手な人間だという自覚もあったから、あなたはお酒に頼るようになった。自分を大勢の中から見つけてくれた相手の失望が、とても辛かったからです。お酒を飲めば、あなたはとたんに陽気でフレンドリーな人間に変身した。相手は喜び、あなたはお酒が自分の変身ベルトであることを理解した。だけど年がら年中、変身ヒーローをやったせいで、あなたの体も生活も破綻しかけた。だからあなたはお店をやめたんです。それが判断できるだけの利口さがあなたにはあった」
そして、と坂東は自分の人差し指にある大きな天然石の指輪をいじり、言葉を継いだ。
「あなたが感じた、自分には特別な魅力があるという確信は、勘違いでも慢心でもないですよ。事実です。あなたは他人からよく、誇大妄想癖の人間だと解釈されますが、あなたは実のところ、自分のことなんてまったく信じちゃいない。あなたは自分自身ではなく、大勢の中から自分を選んでくれたお客さんたちのことを、信じているんです。そして、かつてそこに生まれてはアルコールで取り繕っていた彼らの期待を、今度こそ正しい努力で本物にしようとあがいている。あなたの不思議な輝きは、実のところ、そうしたひたむきな魂の形から生まれているのだと思います。占いの続きを話しても?」
見ると、〈歌手志望〉は立ったまま手で口元を押さえていた。彼女の目がみるみる潤んでいき、卓にあるキャンドルの灯りが瞳に反射する。やがて彼女は口を押さえていた手を胸に移動させると、鼻から喉に落ちた涙をさするように自分の胸を撫でて、元の椅子へと腰を下ろした。
一音一音にすべて濁点の付いた涙声で、彼女が言った。
「お願いします」
「〈方法〉の位置に、隠者の逆位置が出ています」
坂東は占いを続けた。
総じると、「今は上京すべきではない。大阪でまだまだやれることがある。今いる場所でありとあらゆる努力と策を尽くし、そうすればより具体的な形で東京行きへの動機と協力者が見つかる。その時に動くべし。もっと人を頼れ。ただしアテにはするな」という結果だった。
「人を頼ることと、アテにすることはまったく違うんですよ」
坂東がそう言うと、〈歌手志望〉は力強くうなずいた。目に、前向きな決意の光が灯っていた。
「大丈夫。未来は明るい」
そう言って坂東は〈未来〉の位置にあるカードを拾い、顔の横に掲げた。
「〈吊られた男〉の正位置です」
カードに描かれているのは、逆さ吊りにされた罪人の絵柄だった。
〈歌手志望〉が少し、不安げな顔をした。
「何か、ちょっと怖い絵柄に見えますけど」
「何を言ってるんですか。これほど良いカードはない。これはね、どんなに辛く苦しいことがあろうと、最後には必ず報われるというカードなんです。報われることが保証されている努力などこの世に存在しないというのに、このカードはその兆しを私たちに見せてくれる」
カードを机の上に戻し、坂東はカードに描かれた罪人の姿をじっと見つめた。
「私の一番好きなカードです」
店を出ると、先ほどの薄暗さとは打って変わって夏の太陽の光が二人を灼いた。
会計を済ませた財布をバッグに仕舞っている〈歌手志望〉の隣で、坂東は今出てきた店の外装を眺めた。アラビア風とモロッコ風がミックスになった、洒落た都会の個室カフェ。自分の占い部屋を持たない出張占い師の坂東だが、今回は相手がたまたまムードたっぷりのカフェを指定したので、今日の占いは、水晶玉が似合いそうな、いかにもなひとときとなった。
バッグを肩にかけ、〈歌手志望〉の彼女が笑顔で言った。
「先生。駅まで一緒に行きませんか?」
彼女はこのまま新幹線で大阪へ帰るのだという。東京の知人のもとに遊びに来て、そこで知人から、よく当たる占い師がいると坂東を紹介されたというのが、彼女が予約を入れた経緯だった。
「いえ」
坂東は横目で、通りの斜め向かいにあるコンビニを見た。今時珍しく、店の軒下にスタンド灰皿が置かれている。
「私は一服していきます」
「お煙草、吸われるんですね」
「ええ。霊視のあとは必ず吸うことにしてるんです。相手から受けた気を外に出さないと体がもたないから」
坂東の言葉に、彼女は神秘的なものに対する好奇の表情を浮かべた。
「それじゃあ」
そう言ってコンビニへ向かおうと背を向けた坂東に、
「──あの!」
と〈歌手志望〉が声をかけた。
「イリス先生は、いつから──そういうことができるようになったんですか?」
霊視のことだろう。坂東は懐から煙草の箱を出し、取り出した一本を口にくわえて言った。
「生まれつき得意だった部分もありますし、自分で鍛えた部分も沢山あります」
そして、坂東は振り返って彼女を見た。
「あなたの才能もそうでしょう?」
背後で彼女が感銘を受けている気配を背中に感じながら、坂東はその場を後にした。
コンビニの灰皿にたどり着き、煙草に火を付けて通りを眺める。〈歌手志望〉の彼女は路上でしばらく、深く感じ入ったような顔で立ち尽くしていたが、やがてその表情のまま、駅方面へと去っていった。
彼女の姿が見えなくなってから、坂東は煙草を深く一口吸い込んだ。
そして、鼻の穴から盛大に煙を吐き出しながら、目玉をぐるっと上にやった。
疲れた。何が「受けた気を外に出さないと体がもたない」だ。霊視のあとに必ず喫煙するのは、単に頭を使いまくってめちゃくちゃ疲れているからである。
占いというのは、自分のような中年のオバハンが、ごく常識的なアドバイスをする際に、角が立たないように用いる方便だと坂東は捉えている。
〈歌手志望〉の上京に反対したのは、彼女の言う通り、典型的な上京残酷物語を話して聞かせただけである。具体的なプランもなく上京してもうまくいく人間は、いるにはいるだろうが、今の彼女にその胆力はないように見受けられた。
彼女が水商売経験者であることは、話の流れで本人が自ら漏らしていた。そこから先は坂東イリス式の推察だ。会話で人を楽しませられるタイプではないのは、こちらの言葉に対してまず否定から入る話し方から察せられたし、そうした人間がホステスとしてどんな働きぶりだったかは想像に難くない。にもかかわらず、彼女は自己のカリスマ性への確信を抱いていた。ひたすらに我が強いタイプにも、なんの根拠もなく認知を歪めてしまえるほど客観性を喪失している人物にも見えなかったから、その確信は一応、実体験に根ざしているのだろう。あの手のタイプは、大勢の中から自分が選ばれたことがあるという経験を蓄積している場合が多い。もっとも、その体験の数が果たして、他の同年代の同性と比べた場合に、彼女だけが本当に突出していたかは疑問の残るところだ。まるでノイズキャンセリング付きのイヤホンを装着しているかのように、数多の事象から自分好みの情報だけを濾し取る人間は多い。
「転機が訪れたのは去年の九月」とこちらは言い切ったが、具体的な日時をとりあえず出して相手をはっとさせるのは坂東の常套手段だ。大抵の場合、自分が本当にいつそれを決意したかなどは、はっきりしていないことがほとんどだ。仮に、相手が日記をつけていたり、または、好きなアーティストのコンサートに行って、雷に打たれたような気持ちで夢を決意した、などというケースで転機の日時がはっきりとしている場合でも、夢というのは実際のところ、内心で燻り、着火し、また鎮火しては、熾火のように燃えるというのを繰り返すものだから、こちらが九月、と言い切ってしまえば、そういえばそうだったような気に相手はなりがちだ。この言い切りには相当な洞察力と、肝の太さと、言霊で事実をねじ曲げてしまえるほどのマインドコントロール力が必要だが、それらに長けているから私はこの仕事をしてんだよ、と坂東は灰皿に煙草の灰を落とした。なぜ九月か? それは単に坂東の好みだ。いいことはだいたい九月に起こる。
腕時計を見る。次の予約は十五時にT駅だ。坂東が住む常緑町の、二つ隣の駅だった。米国のことわざ風にいえば「飯を食う場所で糞をしない」主義であるから、自分の住まいの近くだというのは少し気に食わなかったが、相手が指定したのだから仕方ない。
煙草を灰皿で揉み消して、坂東は、ビジューに彩られた自分のハンドバッグを撫でた。巣鴨で買った赤いバッグで、長年愛用している。中には〈歌手志望〉から受け取った報酬の二万円が入っている。一回二万。電話での霊視なら三万。リモートのほうの値段を高く設定しているのは、名目的には「対面よりも霊力を使うから」としているが、実際の理由は言わずもがな、対面よりも情報量が少なくて、難度が上がるからである。
午前中にこなした一件を加えれば、今日は少なくとも計六万の稼ぎになるだろう。多い方ではないが、悪くはない。終わったら夜は焼肉でも食うかと考えながら、坂東はコンビニの窓ガラスで己の上腕二頭筋をチェックした。朝晩のトレーニングを欠かさないから、一見は肥満に見えてもこの体は筋肉の塊である。力士で言うところのソップ型だ。占い師に必要なのは、体力である。
T駅に着いたのは、約束の時間の十分前だった。
改札を出たところにある柱の前で、坂東は相手の到着を待った。赤いバッグを持って改札で待つ、と事前にメールで相手には伝えてある。
だいたいが、こうして待ち合わせをしては、個室のある店か、相手の自宅へ行って占いを行う流れだ。依頼者の自宅で行う場合、カフェ等で会うよりもはるかに相手の情報が多く得られるので楽といえば楽だが、同時に霊視の信憑性も落ちてしまうという意味では一長一短なため、こちらからすれば場所はどこでもいい。
坂東は近くの柱に掲示された駅ビルの店舗案内を見た。来る途中にスマホでも調べたが、このあたりは今の時間から使える個室付き飲食店の数が乏しそうだ。相手の希望次第だが、近くのカラオケボックスへ行くのもいいだろう。
そうしたことを考えながら、改札の向こうに目をやった。
駅に電車が到着したらしく、ホームのある上階から人が続々と降りてくる。
その中にいる一人の人物に坂東は目を留めた。
あれだ。
この仕事を始めてもう長い。容姿を見たことはなくとも、誰が依頼者かはすぐにわかる。たとえばマッチングアプリでアポを取った相手と駅で待ち合わせている人間は、マッチング相手と会う時の顔をしているし、仕事相手や友人と待ち合わせている人間もまたしかりで、占い師に会いにきた人間は、占い師に会いにくる時の顔をしている。
しかし、と坂東は遠目に相手の姿を見て、わずかに目を細めた。
なんとまあ。
こちらに向かってくる人物の姿に、まるでそこだけ空気が変わっていくような印象を坂東は抱いた。相手はまっすぐこちらへ歩いてくる。
背が高い。いや、実際の身長が高いのではなく、姿勢がいいのだ。
黒ぶちの眼鏡の上に、ぴっちりと斜めに流した前髪があり、その間で黒く凛々しい眉毛がきりりと線を描いている。服装は紺のカットソーに、灰色のテーパードパンツというオフィスカジュアル風のものだが、坂東は一瞬、そこが駅の改札ではなく、丸の内──いや、桜田門の官公庁社内であるような幻視を起こした。
歩くたびに黒髪のボブヘアが揺れる。レンズが光に反射しているのか、眼鏡の奥にある目は見えない。
これはまた、えらく真面目そうな奴が来たものだ。
人相学や骨相で相手を測る主義ではないが、その眼鏡ボブの女は、女性にしては肉感のないシャープな体つきをしていて、禁欲的な雰囲気を放っていた。トートバッグを肩にかけてこちらへ歩いてくる動作は非常にきびきびとしたもので、有能で知的な印象を受ける。
さて、どうするか、と坂東は思案した。いかにも論理的なタイプに見えるが、占いに来るくらいなのだからその限りではないだろう。心に浮かんだのはやりづらさではなく、今日は思ったよりも稼げそうだ、という喜びだった。
坂東の赤いバッグの中には、必要とあらば売りつけるパワーストーンの数珠作製キットが入っている。あの手の仕事ができそうなタイプは、各種スピリチュアルに対して、これはあくまでも自己啓発的な心理学だという見立てを持っているから、自分のモチベーションを上げるための物質に対して、逆に金払いのいい傾向がある。
皮算用を始めた坂東の前で、相手が改札の手前でこちらに気づいたらしく、会釈をした。坂東の赤いバッグを見とめたのだろう。坂東が軽く手を上げて返すと、改札の向こうの〈眼鏡ボブ〉は歩みを止めぬまま、滑らかな動作でトートバッグからカードケースを取り出した。まるで、一流のビジネスマンが名刺交換をする時のような、洗練された仕草だった。改札のICカード読み取りパネルに彼女がケースをかざし、テーパードパンツに包まれた、鹿のようにまっすぐな足を一歩踏み出した。
その瞬間、改札機からキンコン、とブザーが鳴った。
流麗なアニメーションの一コマが突然一時停止したかのように、彼女が足を止めた。ICカードのパネルには残高不足を示す赤い光が点っていて、急に立ち止まった彼女の後ろで、後続の客がつんのめるのが見えた。
坂東は片眉を上げた。
赤く光るタッチパネルを見て、〈眼鏡ボブ〉が坂東と同様にわずかにその凛々しい眉を上げた。彼女はそのまま、先ほどと違わぬきびきびした動きのターンで改札から引き返すと、そばにあったICカードのチャージ機で不足分を支払い始めた。彼女が、手にあるケースを開く。カードケースだと思っていたそれはよく見ると二つ折りの財布だったらしく、彼女は中から千円札を一枚取り出すと、チャージ機に差し込んだ。
その姿を前に、坂東は静かに佇んでいた。
今時、現金でICカードをチャージする人間を見るたびに、坂東は思う。このキャッシュレスの時代にわざわざそんなことをする人間は、資金洗浄でもしているのだろうか、と。チャージ機の前で彼女が開いている財布の中が、レシートだか領収書だかでパンパンになっているのが見えた時、坂東は思った。彼女に対する印象を少し改めたほうがいいかもしれない。ずさんな気質あり、と坂東は頭の片隅にメモをした。
ようやく改札を出てきた彼女が坂東のもとに歩み寄り、ぴしりと両足を揃えて言葉を発した。
「坂東イリス先生ですか!」
瞬間、坂東は思わず面食らった。声が大きい。小一時間前に会った〈歌手志望〉とはまた別の種類の、通る声だった。しかしここで呑まれてしまっては占い師の名折れである。坂東式経験則その一、『キャラの濃い相手にはそれ以上の濃さで対峙する』を胸に、坂東は普段にも増して占い師然とした、芝居気のある口調で言った。
「そうでございます」
「やはり。風格がおありになる」
相手がそう言って眼鏡を押し上げた。先ほどは光の反射で奥が見えないと思っていた眼鏡は、近くで見るとレンズが指紋で曇っているだけだった。
「お待たせして申し訳ありませんでした」
「いいえ。わたくしも今、着いたばかりですから」
「それはよかった!」
〈眼鏡ボブ〉がまた大声で言い、駅を歩く通行人がこちらへ怪訝な視線を向ける。坂東は今度はたじろがずに、内心で自分へ気合を入れて、言った。
「秋津さんとお呼びしてもよろしいかしら」
坂東のサイトからメール予約を入れてきた際に彼女が名乗った名だ。
「もちろんです」
「それでは秋津さん、早速ですけど場所はどこにしましょうか」
この辺には適したカフェはないようだから、カラオケボックスにでも、と坂東が提案すると、秋津がまた眼鏡を押し上げた。
「実は私、ここへくる途中にスマホで良いカフェを見つけたのです」
相変わらず眼鏡の奥が見えづらい目の下で、口に不敵な笑みを浮かべている。
「あら、そうなんですか。ではそこに」
「このカフェです!」
言って、秋津が坂東の目の前にスマホを突き出した。こちらの前髪がそよぐほどの勢いだったが、坂東はまばたきひとつせずに言った。
「素敵なカフェですね」
「お気に召したようで何よりです。私も行ったことのないカフェなのですが、『ラウンジ・カフェ』と書いてありますから、ボックス席のある造りなのではないかと思われます」
坂東は少し黙ったあと、喉から出かけた言葉を飲み下して「ではそちらに」と目を伏せた。
「ご案内しますよ!」
はきはきと言い、秋津が踵を返して、淀みない足取りで南口へと歩き出した。彼女が見ているスマホの地図画面を後ろから一瞥し、坂東が、
「逆の出口じゃないかしら」
と進言すると、秋津は、
「確かに!」
と北口方面へターンした。
彼女の後ろをついて歩きながら、坂東は、先ほどから抱いていた彼女への印象を確信へと変えていた。
彼女にさっき見せられたスマホ画面のカフェのページには、「language café」と書かれていた。ラウンジではない。languageである。近頃稀に見る、外国語話者の集まる語学カフェだろう。
まあいい。別に普通のカフェとして利用しても咎められはしないだろう。しかしこの秋津という人間は、languageをラウンジと読んでしまったようだ。
坂東は彼女に対する印象をとうとう心の中で口にした。
こいつ、見た目に反してバカである。
バカとこれから小一時間ほど話さなくてはならない疲労感を顔の皮膚の下に忍ばせながら、坂東はしずしずと彼女の後に続いた。
ご注文はいかがなさいますか、と、人種的にはラテン系と思しき彫りの深い男性が英語で尋ねた。
訪れたそのカフェは、狭いが明るい店だった。壁には、英会話教室の張り紙がべたべたと貼られている。店内の客はまばらで、カウンターでは日本人の女と白人の女が談笑していた。英語レベル中級の人間が、コミュニケーションを通して相手から言葉を教わっているような雰囲気だった。
坂東たちが通された奥のボックス席は、個室ではないが席の周りに背の高い観葉植物の鉢が並んでいて、人の目がなさそうだという意味で良い席だった。
秋津が、英語オンリーのメニューを見ながら、先ほどと比べるとずいぶん小さな声で「普通のホットコーヒーがいいです」と坂東に言った。坂東が英語でコーヒー二つを店員に注文すると、店員がサイズを尋ねた。スターバックスのようにドリンクのサイズが分かれているらしい。どうせまごつくだろうと思って坂東が秋津に、小・中・大のどれが良いかと訊くと、秋津がメニューを机に置き、サイズ表を指差しながら裏返った声で「タールで!」と店員に叫んだ。Tallだ。バカ。
注文を受けた店員が去り、秋津が羨望の眼差しをこちらへ向けた。
「イリス先生は英語も喋れるのですね」
「喋れるというほどではありませんわ」
事実を述べて、坂東は水に口を付けた。やがて、やや大きめのサイズのマグカップに入ったコーヒーが運ばれてきて、坂東はバッグからタロットカードの束を取り出した。
「さて、始めましょうか。メモを取ったり、スマホで録音したりしても構いませんよ」
「えっ、録音などしてよいのですか?」
「ええ。わたくし、バーッと喋りますので。後から聴き直して参考になさったりなどしてくださいませ」
ホオー、と秋津がマグカップ片手に嘆息した。湯気でますます眼鏡が曇っている。
「何を占いましょうか」
いそいそとスマホで録音を始めた秋津に尋ねると、彼女はただでさえ良い姿勢をさらにしゃんとし、教師に質問する生徒のように右手を挙げた。
「どうぞ」
「大変失礼なのですが、占い師の方というのは、こちらが何を占って欲しいかがわかったりはしないのでしょうか?」
「ええ、わかりませんわ」こちらを試すような不躾な質問だったが、坂東は意に介さずに言った。
「ただ、あなたは胃がお悪いです。コーヒーではなくカフェオレを注文するよう勧めるべきでしたわ」
秋津がはっとした顔で自分の腹を片手で押さえた。
「確かに最近、ムカムカするし口内炎がよくできるのです」
そうだろう。唇の荒れ具合を見ればわかる。
「深刻な病気でしょうか?」
「ではないですが、健康診断はきちんとお受けになって」
「承知しました!」
「占いたいのは、お仕事に関することね」
秋津が目を見開いた。坂東は目を伏せたままカードの山を右手側に置いた。たった今、健康診断とこちらが言った時、彼女は少し思案するような表情を見せた。職場で健康診断が義務付けられている正社員の反応とは、少し違った。見た目はまるでエリート公務員だが、フリーターかフリーランスだろう。職業面で自分の今後の身の振り方を占いにきたと見た。
「占いたいことが何かはわからないとおっしゃっていたのに」
「ええ、わかりませんわ。でも今、少しだけ視えましたの。具体的なことは未だわかりませんけれど、それはカードが明らかにしてくれるでしょう」
坂東はカードをシャッフルした。混ぜたカードを三つの山に分け、それをまたひとつの山に積む順序を秋津に選ばせる。秋津は右、左、真ん中の順を選んだ。その通りに積み直し、そこから七枚のカードを選んで机の上へダイヤ形に並べた。
中央──〈核心〉の位置に出たカードを見て、坂東は言った。
「あなたが今、考えていることは、うまくいく」
中央にあるのは〈恋人〉の正位置だった。
「このカードは、恋愛の始まりや幸運の到来を意味します。恋愛面という意味だけじゃなくて、新しい関係が明るく始まっていくことを示しているの。あなたは今、何かプランを持っている。そしてそれはあなたが思っている通り、うまくいくでしょうね」
タロット占い師ではなく「霊視」を謳っている坂東が占いの際にカードを繰るのは、実のところ、長考の間を稼ぐための手段に過ぎなかった。カードの解釈などどうとでもできるから、相手を洞察し、出たカードを見て、相手に合ったストーリーを、論理と直感に従って創作するのだ。坂東は直感に優れた人間だが、その直感の正体すら、霊能力では決してない。直感というものは、高度な情報処理を行ったために脳が途中の式の言語化をすっ飛ばして答えだけを提示してくる回答の仕方に過ぎないと坂東は思っている。もっとも、この世には本当の霊能力を持った人間がいるのかもしれないが、そこは坂東の与かり知るところではない。
秋津は沈黙した。言われたことを噛み締めている顔だった。
坂東は残り六枚のカードを眺めた。〈現在〉の位置に、運命の輪の正位置。〈方法〉の位置に、女教皇の正位置──。いくらでも解釈のしようはあったが、馬鹿らしさを感じて坂東は顔を上げた。
少し早いが、もうそろそろいいだろう。
「あなたはその奇矯な振る舞いで、自分の中の何かを隠している」
奥が見えない秋津の眼鏡を見つめて、坂東は言った。
「あなた、本当は何しにここへ来たの」
茶番は終わりだ。
こちとら曲がりなりにも長年、人を見てきたキャリアがある。こいつが何を考えているかはわからない。仕事に関する占い結果に興味があったのも本当だろう。だが、彼女の目的はおそらく、そこではない。
沈黙が流れた。
秋津が無言でコーヒーを飲んだ。その仕草がすでに肯定を示していた。
坂東も静かにコーヒーを口へ運んだ。こういう冷やかしの手合は大抵、オカルトライターか作家志望だ。時々やってくる。別に構わない。普段なら、そうとわかっても「占い師」を最後まで続けてやるが、こいつは少し読めないところがあるので、ぶっこむことにした。バカなのは事実だろう。そのせいで逆に読みにくい。
秋津がコーヒーをテーブルに置いた。
「さすが、坂東イリス先生です。何もかもお見通しのようですね」
コーヒーの湯気が二人の間でたゆたっている。
「イリス先生の前で偽証はやはり不可能だとわかりました。こんなお芝居はもうやめて、先生には私の真実をお話ししましょう」
坂東は表情と姿勢を動かさなかった。店内を飛び交う英語の会話が遠く聞こえ、さあ来い、と腕が鳴るのを感じた。言ってみるがいい。お前が言う真実とやらのさらに真実をこっちは見抜いてやるよ。
秋津が中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。
そして彼女は、一世一代の真実を打ち明けるような、真剣な口調で言った。
「実は私、バカなのです」
店内に流れるイージーリスニングだけが二人の間に流れていた。
坂東は身じろぎひとつせずに秋津の顔を見つめ続けた。
それは、見てわかるが。
真顔のまま無言を貫く坂東を前に、秋津はさらにクイと眼鏡を上げ、凛々しい眉毛をきりりと吊り上げて、叫んだ。
「と、同時に、天才なのです!」
今までで一番大きな声に、カウンターの中にいたラテン系の店員が思わず振り返るのを視野の端で感じながら、さてどうしたものか、と坂東はそこで初めて顎に指を置いた。長年のキャリアが告げている。こいつは本気で、本音を喋っている。
「どういうことかしら」
坂東の問いに、秋津はテーブル端にあった紙ナプキンを手にとり、眼鏡を外さぬまま器用に顔のTゾーンを拭き始めた。興奮で皮脂が噴き出てきているらしい。
「実は私、かねてよりイリス先生のツイッターでのスペース配信を拝聴しておりました。それで感銘を受けて、今回の占いを申し込んだのです」
ふむ、と坂東は顎の指を動かした。坂東は宣伝のために、占い師としてのツイッターアカウントを持っている。ほとんど呟くことはないが、ツイッター内にある「スペース」という音声チャットルーム機能を使って、定期的に無料の占いコーナーを開催している。音声チャットルームに入室してきた希望者を占い、その様子を他のリスナーが観覧するという仕組みだ。割と良い集客に繋がっている。
「ここから少し、話が前後しますがよろしいでしょうか!」
「ええ」
「たっぷりお聞かせしましょう、この私が天才たるゆえんを」
「その前に」
坂東は手を小さく上げて話を切った。
「煙草を吸ってもよろしいかしら。ここ分煙のようだし」
仕事の最中に喫煙してしまうなどプロの名折れだが、必要だと感じた。秋津が「構いませんよ!」と笑顔で言い、通路を横切る外国人店員に向かって「ヘイ!」と声をかけ、両手で丸い形を作りながら「ハイザーラ」と注文した。一応伝わったらしく店員が陶器の洒落た灰皿を持ってきて、渋い顔で机に置いた。
「私は学生時代から今に至るまで、様々な職を転々としてきました」
両手を膝につき、秋津が語る。
「どの仕事も長くは続きませんでした。事務仕事でも、工場作業でも、飲食店の厨房でもホールでも、使い物になりませんでした。私はどうやら、仕事能力が著しく低いようなのです」
それはそうだろうな、と坂東は煙草をふかした。
「悩みました。私の家は到底、裕福とは言えません。生きてゆくためには働かなくてはならないのに、私は何ひとつロクに務まらないのです。かなり意外に感じられるでしょうが、私は学校の成績も悪かったので、学歴も悲惨です」
「続けて」
「でも、そんな私にもひとつだけ、子供の頃からの特技がありました」
凛々しい眉の下で、秋津の目がにわかに光った。
「とは言っても、役には立たぬ能力ですが。私にそれを使いこなす頭脳がないのもあるでしょうが、他の部分で、その能力には致命的な欠陥があるのです」
一転してしゅんとしている。「その能力って?」坂東は続きを促した。
「私には人の過去と未来が見えるのです」
秋津が机の上で手を組んだ。
「イリス先生。私はあなたと同じことができるのです」
店員が次のドリンクを運んでくるまで、二人とも無言だった。
坂東のもとにアイスティーが来て、秋津にはオレンジジュースが置かれた。こちらのグラスの中で氷が解けてカランと音を立てたと同時に坂東が口を開こうとすると、秋津が片手を前に突き出して制止した。
「誤解しないでください。先生にこう言うのは失礼ですが、私は霊能力や超能力が存在するとは思っていません」
坂東は口をつぐんだ。
「少なくとも、私のこれは、そういうものではないです。私は子供の頃から、他人の、いろんなことが当てられました。当てられた人は驚いていましたし、未来に関する予言も、事実になりました。でもそれは、なんというか、こう……」
秋津が何かをこねるように体の前で手をわちゃわちゃと動かした。
「超能力とかじゃあ、ないんです。人の言葉の端々とか、表情とか、その前に見聞きしたこと、いろんなことが私の中に溜まっていて、それが私の中で結びついた時、ビビッ! と結論になるんです。そして当たるんです。やってることは名探偵シャーロック・ホームズと同じだけど、私はホームズみたいに過程を説明できない。そんな感じです」
ほう、と坂東は刮目した。それは確かに──私の知っている霊視の本質と同じではないか。
自分には霊能力がある、などと言い出だしたのなら、さっさと切り上げてお開きにしようかと思っていた。だが、表現は拙くともこの秋津という人間は、私と同じ物の捉え方をしている。彼女の言うことが事実なら、この女は本当の意味で、極端に直感力の優れた人間なのかもしれない。もっとも、彼女が自分でそう思い込んでいるだけでなければだが。
ならば──。
「秋津さん。話の途中で申し訳ないけれど、だったらあなたは、私の何かがわかるのかしら」
坂東は、占い師として自己演出をするときのミステリアスな眼差しを秋津に向けた。
「私にどんな過去があって、どんな生活をしていて、どんな未来が訪れるのか──」
たっぷりと視線をよこすと、秋津は少しどぎまぎしたように顔を赤らめて目をそらしたあと、肩を落としてうなだれた。
「わかりません。何も」
「あら、それはおかしいわね」
「中性脂肪が高そうだなとしか」
坂東の額に青筋が浮いた。ソップ型だっつうの。よく見りゃわかんだろ。それに占い師は体力仕事だから脂肪の蓄えも必要なのだ。
「すみません。それがまさに私の特技の、致命的な欠陥なのです」
組んだ手を握り締めて、秋津が力なく言った。
「幼い頃から自分の能力は自覚していましたから、大人になって自分がウスノロだと気付いた時、では代わりに唯一の特技を活かして、生業にできないだろうかと考えました。私は、」
そこで秋津は一度、畏れ敬うように言葉を切った。
「私は、占い師になろうかと思ったのです」
坂東は何も言わずにアイスティーを飲んだ。
「能力を活かして、投資やギャンブルで身を立てることも考えましたが、それらは私の知能では難しいと判断しました。誰か賢い人と組めばあるいは、とも思いましたが、私はバカですからおそらく、相手に利用されて終わりでしょう。──バカな私でも、占い師ならなれる、と思ったわけではありません。それは決して、違います」
揺れる胃を押さえるように、組んだ手を腹に引き寄せている。発言の不敬さを自覚しながらも、懸命に言葉を絞り出している印象だった。
「私は占い師になりたい」
そして、秋津は言った。
「でも、無理なんです」
秋津が両手で顔を覆った。
「私のこの能力は、自分が思った時に出せないんです」
深い失望を感じる声だった。
「いつも突然来るんです。たとえば電車に乗ってる時とか、お風呂に入ってる時とか、深夜、急に目覚めた時とかに。職業としてやっていくには安定して力を使えないと駄目でしょう? だから私は天才なのに、プロにはなれないんです」
秋津が手のひらの中でわーっと叫んだ。
「私の能力は、本物ではあるんです。たとえば!」
急に秋津がビッと指を一本立てて天を指した。
「イリス先生のことは全然わかりませんが、今から五、六分後に、小さな地震が来ます」
ほう、と坂東は眉を上げた。これはまた大きく出たものだ。
「えらく都合がいいわね」
「逆です。一週間前に今日のこの時間、地震が来るのを夜中に突然予感したので、この日時でイリス先生の予約を取ったんです。証明するにはこのタイミングしかないと思ったから」
坂東はスマホを取り出して、ネットの地震予測情報を検索した。関東地方への地震予報は出ていない。
「もし当たったら、すごい能力じゃない」
「これも超能力ではなくて、ナマズやネズミの原理だと思いますがね」
「大地震の時に予知したら、ヒーローになれるわね」
「地震を見たのは今回が初めてです。私の力は、見たいものの種類さえ自分で選べないんです」
秋津は悔しげに唇を噛んでいる。なるほど、それでは確かに職業としては成り立たないだろう。知能さえあれば詐欺師にはなれそうだが、それがないから使いあぐねている。
あくまでも彼女の能力が本物だと仮定しての話だが。
これが事実なら、さしずめ、再現性のない天才といったところか。
坂東の心に暗い影がよぎった。
「五分後が楽しみね。ああ、もうあと四分くらいか」
坂東の言葉に秋津がハハハ! と高らかに笑って眼鏡を中指でクイクイとやった。
「不謹慎ですが今回はごく小さな地震なのでアリとしましょう! 私の天才ぶりを証明できると思うとこちらも非常に楽しみです!」
「ところで天才の秋津さん。あなたみたいな、自分の意思とタイミングで能力を使えない人間が、それを職業として成立させられる方法があるんだけど、知ってる?」
我ながら口ぶりに悪意がこもっているのを自覚した。
秋津が指紋で曇った眼鏡を鈍く光らせた。
「ほう。興味深い。ぜひお聞かせを」
「ふたつあるの。自己啓発書に載ってるようなベタベタな内容だけれど」
坂東は指を二本立てた。
「ひとつは、ルーチン。つまり自分なりの起動のスイッチを知ることね」
「イリス先生、お言葉ですが」
秋津があからさまに落胆した様子で言った。
「先生のおっしゃる通り、自己啓発本によく載っていることですから、それはもう試したのです。検証の結果、私の能力が『来る』時の時間帯や、行動や、シチュエーションも、精神状態や体調も、ばらばらでした。条件や規則性は見当たらないんです」
「そう。ちなみにもうひとつは」
坂東は指を一本折った。
心の黒い淀みが増した。
「テクニックよ」
秋津が坂東の立てた指を見つめた。
一拍の間のあと、秋津の口からひどく生意気な言葉が発せられた。
「それは、あなたがいつもやっているあれですか?」
坂東は表情を微動だにさせないまま秋津を眺め、やがてゆっくりとボックス席の背にもたれた。「一」の形にしていた手を、グー、チョキ、パーと変えて遊び、それから、坂東は悠然と微笑んだ。
「何言ってるの。私のこれは霊能力よ」
「そうですね。あなたは霊能力者です。大変、無粋をいたしました」
間髪容れず言われた言葉に、ふうん、と思いながら坂東は自分の、深緑に塗った爪を眺めた。こいつは存外、ものがわかってるじゃないか。いくらタネがあっても、占い師は決して体裁を脱ぎ捨ててはいけないのだ。
「イリス先生のスペースを拝聴して、私は思いました。自分に必要なのは、これである、と」
秋津が言う。
「私はあなたの霊能力を学びにここへ来たのです」
つまり、いつ来るともわからない閃きに頼った天才でいるより、技術で再現性を獲得するため、凡人のもとに学びにきたというわけか。
この次に来る彼女の言葉を、坂東は察知した。
「イリス先生。私をあなたの弟子にしてください」
頭を下げる秋津を前に、坂東は爪を検め続けた。この申し出は、話の途中から予想のついていたことだった。
答えはもちろんノーだ。弟子を取る気などない。何時代だ。
「六分経ったわね」
地震は起きていない。机の上のドリンクの水面にすら、わずかな波紋も生じていない。
秋津が店の壁にある、太陽の形をした時計を見た。
そして、彼女は「あれ?」とあからさまにうろたえ始めた。
「そんなはずは。先週、確かに視えたのに」
「安心しなさい。地震は起きるわ」
爪のマニキュアを検分しながら坂東が言うと、秋津がぽかんとした顔でこちらを見た。
次の瞬間だった。
カタカタ、と音を立ててテーブル脇にあるカトラリー類が震え始めた。遅れてグラスと、天井から垂れ下がるシーリングライトが振動し始める。その後にようやく、坂東は靴の裏から地面の揺れを知覚した。
「quake」
という声が矢継ぎ早にカウンターから上がった。ラテン系の店員は緊迫した面持ちで客に向かって片手を水平に差し出し、頭を低くするよう指示している。同時に、店内にいる客全員のスマートフォンから緊急地震速報のアラートが鳴った。カウンターにいた二人連れ女性客の片割れである白人女性が悲痛な声でパニックになって叫び、連れの日本人女性のほうは「あ、地震」と比較的のんびりした声で、揺れるワイングラスを押さえていた。
短い揺れが終わり、店内に静けさが戻った。
揺れが収まったのを確認して、秋津がオレンジジュースのグラスからおずおずと手を離し、坂東を見た。
その顔には、本来は訪れるべきだった勝ち誇りの表情はなく、こちらに対する驚きと、畏怖の色が浮かんでいた。
坂東は彼女に向かって、
「ね」
と言い、尊大な仕草で煙草に火を点けた。
ナマズはお前だけではないのだ。Jアラートより一秒ほど先に地震を感知することぐらい、三半規管の感覚でこの私にもできる。訓練を積んだ五感で天変地異の類を一足早く感知し、あたかも予言に見せかけることなど、霊感商法を営む者にとっては古よりのほんの嗜みだ。
ともかく、相手のほうは「ホンモノ」──その言葉を内心で口にする時に、坂東はクリスチャンでもないのに指で十字を作った──だったようなので、少し考えを改めることにした。
弟子か。
坂東は今現在、月に二回、ハウスキーパーを家に呼んで家事を任せている。そこそこ稼いでいる上に、自宅を事務所として申告しているので家事代行業者の費用は経費計上もできるが、こいつを弟子の名目で丁稚として雇えば、もっと安く便利に上がるのではないだろうか。鞄持ちを雇えば、霊視──坂東はまた指を十字にした──も、さらにやり易くなるに違いない。いかさま賭博師が相手の背後に仲間を立たせて手札を〈透視〉するように。
「いいわ。弟子にしてあげる」
そう言って爪をふっと吹くと、秋津が、
「本当ですか!」
とテーブルを叩いて立ち上がった。そのままのけぞって天を仰ぎ、「ヤッター!」とゴールを決めたストライカーのように叫んでいる。
初対面の、しかもこんな変な奴を雇うなど人が聞いたら正気を疑うだろう。しかし構わない。元よりハウスキーパーを呼ぶので自宅に貴重品は置いていないし、何かあったらこいつの顔面をその曇った眼鏡ごとボコボコにするだけである。
何より、こいつは私の前で、天才という言葉を使った。
また心の中で、黒い思念が渦を巻く。その靄が蛇のような形となって秋津の両腕に絡みつき、腕をもぎ取る光景を坂東は夢想した。
(「2」へ続く)