ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 小説連載一覧
  3. 隣室はいつも空き部屋
  4. 午前三時のサイキック 2
第7回

午前三時のサイキック 2

  

 十二畳のリビングには、ばんどうの呼吸音だけが響いていた。
 南向きの窓からは朝の光が柔らかく差し込み、キッチンカウンターの上に置かれたアジアンタムの細かな葉がきらきらと輝いている。
 脇腹にダンベルを引きつけるようにして肘を曲げると、片膝をついているトレーニングベンチにあごから汗が滴り落ちた。
 占い師の朝は早い。一通りのトレーニングをこなすと坂東はいつも、簡単な朝食を取りながらテレビニュースを見て、一般紙と経済紙、二種の新聞に目を通す。
 トレーニング後のシャワーで濡れた髪を自然乾燥に任せて新聞を読んでいると、インターフォンが鳴った。
 時計に目をやり、坂東は顔をしかめた。
 玄関ドアを開けると、早朝にもかかわらずしゃっきりと背筋の伸びた眼鏡ボブの女が、笑顔で立っていた。
「おはようございます!」
「まだ七時だよ」
 あきの口から勢いよく漂ってきた歯磨き粉のミント臭を顔に浴びながら、坂東は素の口調で言った。秋津が眼鏡に片手を添えて、口の端を吊り上げた。
「いつもこのぐらいの時間に朝食を召し上がると伺っていましたので、作って差し上げようかと」
「もう食べたし、朝食の準備はいらない。あと一時間、どっかで時間潰してきて」
 言って、秋津の返しも待たずに坂東はドアを閉めた。時間前に来るな、バカ。
 朝の習慣を乱されるのは大嫌いだ。

「お給料がもらえるんですか⁉︎」
 坂東が提示した条件に対する秋津の第一声はそれだった。
「ええ。掃除や洗濯、その他雑用を任せるから、月にこれでどう」
 手の指で金額を示すと、秋津は顔を輝かせた。しかしそのあと、彼女は戸惑いの表情を浮かべた。
「なんだか、弟子っていうより、家政婦みたいですね」
「何言ってるの。身の回りの世話も修業のうちよ。私の背中を見て学びなさい」
 占いのこともその中で教えてあげるから、と言うと、秋津は納得した顔で「なるほど、徒弟奉公は、確かに伝統的なスタイルですね」と了承した。秋津は今現在、日雇いの派遣アルバイトで石油ストーブを作る工場や弁当工場で働き、日々の糊口をしのいでいるのだという。彼女からすれば弟子入りの希望が通った上に、定期収入のあても得たというわけだ。文句はないだろう。
 さしあたって疑問なのは、秋津の家事能力だった。何しろ自他共に認めるポンコツである。しかし彼女は、一人暮らしが長いため家事に関しては心配無用だと豪語した。身なりの整然さを見るに、そこはあながち嘘でもないだろうと坂東は判断した。そうして彼女を弟子として雇い、一週間が経ち現在に至る。
 秋津を閉め出した足で洗面所に立ち、坂東は足元にある壁の剥がれを見つめた。
 奉公を始めた初日に秋津はまず、掃除機をぶつけてここの壁を破損させた。
 分譲賃貸である。
 その瞬間に破門しても良かったのだが、秋津が床に頭をなすりつける勢いで「補修費用は給料から差し引いて構わないので、どうか」と懇願し、今後のしつけを課題として不問に付すことにした。秋津はなんというか、家事ができないとは言わないが、すベての動作が雑破(ざっぱ)だった。自身の車幅をわかっていない車が道を走っているような危うさがあり、単純に言えば、運動神経が悪いのだろう。
 壁の補修費と、割られた琉球ガラス製のグラスの代金を一応、秋津用の帳面にしっかりと書き付けて、坂東はリビングで息をついた。
 無能を雇うほどおひとしではない。
 弟子には取ったが、解雇をためらうほどの愛着もない。
 しかし、と坂東は帳面を閉じた。カウンターのアジアンタムを眺める。小さな葉の集合体は、まるでそこだけ解像度を落としたモザイク処理のようだ。
 私はまだ、彼女のその瞬間を目撃していない。
 ふとした瞬間に突然「来る」というその直感は、どんな形で現れるのだろうか。その瞬間の彼女の顔つきや挙動は、どんなものだろうか。
 間隔は?
 語る内容は?
 気づけばボールペンのノック部分をカチカチと何度も額で押している自分がいて、坂東は首を横に振った。

 きっかり一時間後に、秋津はふたたび戸口に現れた。
「ロビーのソファで、本を読んで時間を潰していました」
 そう言ってトートバッグから彼女が取り出したのは、『占術大全』という題をした大判の本だった。洋の東西を問わず占術に関する基礎知識を浅く広く記した書で、先日、坂東が彼女に貸与したものだった。
 そう、と坂東は彼女の手から本を取り上げた。
「じゃ、さっそく支度して。今日は一緒に出かけるから」
 こちらの言葉に秋津が、本を持つ形で手を空中へ残したままほうけた顔をした。
「一緒に? まだお掃除もお洗濯も終えていませんが」
「いいの。さあ、顔を直しなさい。前から思ってたけどあんたかなりの脂性だね」
「お買い物にでも行かれるのですか? かしこまりました。荷物持ちなら任せてください」
 そう貧弱な腕を曲げてみせる秋津を前に、坂東はリビングへ引き返して、テーブルの上にある日焼け止めを自分の腕にまんべんなく塗った。
「違う。お客のところに一緒に行くんだよ。一時間後に霊視の予約が入ってるから」
 言ったとたん、秋津がいる廊下からガンッと何かがぶつかる音がした。見ると、リビングのドア枠に足の小指をぶつけたらしき秋津がうずくまり、苦悶の表情であえいでいた。
「お客のところに、私が?」
 愕然とした声だった。
「そうだよ」
「私と?」
「そう」
「先生。お言葉ですが、何を考えていらっしゃるのですか」
 足先をさすり終えた秋津が立ち上がり、ずれた眼鏡を押し上げて言った。
「先生のもとへ弟子入りして一週間。私がしたことはいまだ家事のみです。いつか必ずそうしたことをおっしゃってくださると信じていましたから、不満はありませんでした。しかし」
 強い語気で言い、秋津はテーブルの上にある『占術大全』を指差した。
「私は先生に貸していただいたそのご本を、まだ三周しかしていないのです!」
「三回も読んだの?」
「つまり、まだ仕上がっていないのです」
 悲痛な声を上げて秋津がよろめき、壁に手をついた。
「先生、私を見くびってはいけません。私はどれだけマニュアルを読んでも人前で誰もが驚くような粗相をやらかす人間です。せめて、せめてもう少し座学を」
「読んでもべつだん役に立たないよ、こんなもの」
 坂東は『占術大全』をテーブル脇に押しやった。
「教養として読ませたけど、実地が一番だよ。私がやってるのは体系的な占いじゃなくて霊視なんだし」
 秋津が何か言おうとしたのを坂東は「それに」と発して遮った。
「お客の前って言っても、あんたは何もせずに座ってりゃいいの。先方にはもう話を通してあるから。今日会うのは、私の常連さんだよ」
 常連、と秋津が壊れ物を扱うような震え声で復唱した。
「そのような大事なお客様でしたら、余計に」
 それ以上の言葉は聞かずに坂東は秋津の鼻先でリビングの扉を閉めた。テーブル上の化粧ポーチからあぶらとり紙を取り出し、もう一度扉を開けて、廊下の秋津に押し付け、また扉を閉めた。廊下で取り乱している秋津をよそに、首筋にも丹念に日焼け止めを塗る。今日は暑い日になりそうだった。

 その家のインターフォンを押すと、ややあってから門扉が自動開錠される音がした。
 秋津に持たせた日傘の下で、坂東はハンカチで汗を拭いた。秋津のほうを見ずとも、後ろにいる彼女がガチガチに固まっているのが伝わった。
 あたりには上品な一軒家が建ち並び、山の手という言葉がふさわしい閑静な雰囲気が漂っている。坂東がインターフォンを鳴らしたその家は、
〈中邑〉
 というしょうしゃなデザインの表札が掲げられた洋風のレトロな戸建てで、この住宅街の中でもひときわ、華美過ぎない真の上流といった風格を放っていた。
「別世界です」
 勝手知ったる仕草で門を開き、なかむら家の玄関ドアをくぐる坂東の後ろに続いて、秋津が呟いた。「別世界ですよ。先生のお宅に伺った時もそう感じましたが、この住宅街は何か、入った途端にそこらを散歩してる犬のサイズが急に大きくなった」
「静かに」
 秋津を肘で小突いてスリッパを履き、廊下奥の部屋へと向かった。顧客である中邑は、占い師然とした見た目の者が自宅に出入りするのをいとうので、今日は坂東も白のブラウスに紺のパンツといった、比較的コンサバティブな装いをしていた。秋津のほうはもともとそうした系統の服装なので問題ない。
 奥の部屋の扉を開くと、ソファの後ろに立っていた人物が、窓を背にしてゆっくりとこちらを振り返った。
「お久しぶり、坂東さん」
「ご無沙汰しております」
 窓際にたたずむ五十代後半の婦人に坂東は頭を軽く下げた。この女性が、この家の主であり、この家に一人で暮らしている、中邑という名の婦人だった。
 婦人が坂東の背後に目を向けた。
「そちらの方が、例のお弟子さんね」
 はひ、と後ろから秋津の裏返った声がした。思ったよりも離れた位置から聞こえたので、坂東は振り向いて秋津をにらんだ。秋津は坂東よりも五歩ほど下がった位置で、ぴんと背筋を伸ばして、高級な家具が並ぶ室内に目を泳がせている。
「秋津と申します」
 このまま歩かせたら確実に右手と右足が同時に出るだろうという固さで、秋津が名乗った。秋津はそのあと三秒間ほど言葉を切り、「よろしくお願いいたします」と九十度に腰を折った。不細工だが、一応挨拶はできたので良しとする。坂東は持参した手土産を中邑に渡した。
「まあ、桃」
 と中邑が袋を覗いて嬉しそうに言った。
「切ってくるわね。お掛けになって」
 そう坂東たちにソファを勧め、中邑は部屋を出て行った。彼女の羽織っているロングカーディガンの裾が戸の向こうに消え、坂東はソファに腰を下ろした。秋津にも同様に座れと促す。
「すごく、ハイソで優しそうな方ですね」
 坂東の横におずおずと座った秋津が言って、部屋を見回した。
「あっ。あの絵、私、知っています。モネですよ。まさか本物でしょうか?」
「キョロキョロするな」
 さすがに複製に決まっているし、モネではなくドガのリトグラフだが、坂東は口の前で手を組み、低い声で秋津に言った。
「監視カメラがあるから」
 えっ、と秋津が言い、頭上を見上げようとしたのを膝で小突いてやめさせた。
 坂東たちがいる部屋の右上角には、埋め込みのダウンライトに見せかけた監視カメラがある。昔からそうだ。この家に初めて来た時から知っている。
 さらに、そのカメラの死角となる箇所を補う形で、窓際にあるチェストの上に置かれたポプリの中にも、カメラが仕込まれている。これも以前と変わらない。坂東と同様に家事を業者へ外注している中邑なりの自衛策だ。かつて何か不愉快なことでもあったのだろう。
 だが、と坂東は部屋の隅にあるコウモリランに目をやった。そして、自分たちの近くにある、もうひとつのポプリにも。また、固定電話の横にあるシュガーバインの茂みにも。直視は避けたが、以前とは違って素人目にもわかる露骨な形で、それらの中からリスの目のような小さな黒いレンズが覗いていた。
 数が増えている。
 あんたんたる気持ちで、坂東は向かいにある空席のソファを眺め続けた。

「それでね、どちらのデザイナーさんにお願いしようかと考えてるの」
 切り分けられた桃と紅茶と、二枚の紙がローテーブルの上に並んでいる。紙には基礎化粧品のボトルデザインが二案、印刷されていた。中邑が経営する化粧品会社の、しわりクリームだった。
とうさんはどうされたのですか?」
 坂東は尋ねた。後藤とは彼女の会社の役員兼、デザイナーだ。
「後藤には辞めてもらいました」
「では、今は妹さんがそのお立場に?」
「とんでもない」
 やや強い口調で中邑が言い、高い音を立てて紅茶のカップをソーサーに置いた。
「あの子はエナジーバンパイアよ。会社に置くどころかもう、電話も着信拒否にしておりますの」
 そんなことより、と中邑がデザイン案を坂東のほうに押し出した。
「どちらがいいかしら。前のデザインを踏襲したこちらもいいけれど、がらっとホテルライクに刷新したこちらの方のセンスも素敵だと思っているの」
 坂東は無言でタロットをシャッフルした。そしていつものごとくろくぼうせい形に並べると、中央にあるカードをいちべつして言った。
「中邑さん。私はそもそもデザインを変えることに反対です」
 中邑が坂東を見つめ、静かな口調で言った。
「あら」
「ええ」
「そう? 確かに、うちのクリームといえば現行のあのデザインだものね。でも」
「今のあなたは何ひとつ大きな決断をすべきではない。今のあなたにとって、何よりも先決なのは」
 坂東は〈方法〉の位置に出たカードに指を置いた。絵柄は月の正位置だった。
「病院に行くことです」
 坂東の言葉に中邑は一瞬、黙り込み、そのあと、ぷっと吹き出して、やや耳障りな笑い声を上げた。
「あなたまで私を病気扱いするのね」
「メンタルを患われていますよ。専門家にかかるべきです」
「かかってるじゃない、こうして」
「私は医者じゃありません」
「嫌よ!」
 急にテーブルをバンと叩き、中邑が立ち上がった。坂東の隣で秋津が尻を飛び跳ねさせ、手にあるカップから紅茶がこぼれた。中邑はそのまま窓際へ行き、自分をコントロールしようとしているかのように息を二、三度、深く吸った。
 そして、言った。
「西洋医学の薬漬けにされるなんてこりごり。大丈夫、私には〈お水〉があるから」
 坂東は無言でカードを片付けた。隣で秋津が、突如出てきた、水、というワードが理解できない様子で坂東の横顔をうかがう。
 坂東は紅茶のカップを手に取り、ひと口飲んだあと、水面に視線を落として言った。
「私はこの水が好きじゃない。何の霊力も感じられないからです」
 中邑は無言で窓から夏の庭を見つめている。
「服薬に抵抗があるのだとしても、きちんとした医療機関でカウンセリングだけでも受けてください」
 しばしの間のあと、中邑が「ねえ」とこちらを振り返った。
「また、新しい数珠を作ってくれないかしら。今度はローズクォーツを使ったものがいいわ」
「お断りします」
 坂東は言った。
「今月中に心療内科の予約をとってください。J駅にMという良心的なクリニックがあります。電話番号を置いておきますね」
 言って坂東はタロットカードをかばんに仕舞い、ソファから腰を上げた。帰るぞと秋津に目配せをする。
 中邑は何も言わず窓の外に目をやっていて、桃と紅茶の香りと無数の監視カメラだけが、坂東たち二人を見送った。

「あの方は心の病気を患っておられるのですか?」
 駅に向かって住宅街を歩く坂東の後ろを、日傘を持って追いかけながら、秋津が訊いた。
「診断を下すのは私じゃなくて医者だけど、異常な疑心暗鬼に陥ってる。医者にかかったほうがいいのは間違いないね」
「確かにあの家の様子には驚きました。ところで、その……」
「何」
「水、というのは何ですか。イリス先生はあの時、紅茶を見つめておられましたが、あの……まさか私たちの飲み物にも入っていたのですか?」
「心配しなくていいよ。本当にただの水だから。あの人、いろんなスピリチュアルにかぶれては、つかまされてるんだ」
 足早な坂東の後ろを、秋津がさらに追いかける。
「長年の部下と実の妹を切るようにそそのかしたのも、たぶん他の占い師だ。周りと分断して、孤立させて、自分に依存させるのが、そういう奴らのやり口だから」
「なるほど。しかし疑問があります」
 不器用な手つきで坂東へ日傘を傾けながら、秋津が眼鏡を押し上げた。
「イリス先生は、なぜ数珠を売らなかったのですか?」
 押し上げても押し上げても秋津の眼鏡は汗と脂で滑り落ちていく。
「確か、結構なお値段なんですよね。裕福そうな方が自らお求めになったわけですし、売って差し上げれば利益になったのでは」
「あの人は裕福じゃないよ」
 鞄から扇子を取り出し、顔をあおいだ。
「実際、あの会社はもう火の車だよ。あの家だって人手に渡りかけてる」
「そうなんですか?」
 秋津が驚愕の声を発した。
「うん。こっちも慈善事業じゃないから鑑定料は取るけど、そういう状態のお客に高額な物を売り付けてもね」
 扇子で生ぬるい風を顔に送っていると、秋津が突拍子もないことを言った。
「イリス先生は、正義の占い師なのですね」
 これ以上ないほどさんくさい二文字の言葉を使われ、閉口した。
「馬鹿言わないで。単に、寄生虫と宿主の理屈だよ」
「宿主を鳥に食べさせようと脳を操作する寄生虫もいるそうですよ」
「そんな循環は私らの商売にはないよ」
 扇子をハンカチに持ち替え、汗を拭きながら道を歩いた。坂東たち二人の横を、飼い主のリードに引かれる大きなボーダーコリーが通り過ぎた。
「にしてもあんたは時々、妙な方面に学があるね」
「子供の頃の愛読書は『地球のふしぎ』という百科事典でした」
「そう。じゃあ、物知りついでに、これからもうひとつ、お勉強しようか」
 住宅街を抜け、駅についた。どこへ行くのですかと問う秋津に、坂東は短く、自分たちがもと来た駅の名前を告げた。

 じょうりょくちょう駅で降りると、タクシーに乗った。
 冷房の効いた車で快適にツーメーターほどの距離を走り、長い橋を越えてしばらくしたところの、町の外れで降りた。
 まわりには、住宅街という意味では先ほどと同じだが、雰囲気はまるで違う庶民的な家が並んでいる。特段、何もない場所で、普通ならなぜここで降りるのかと疑問に思うことだろう。しかし秋津は今度もまた別の顧客の家を訪問するのだろうと解釈したようで、坂東の後ろを大人しく、引き締まった面持ちでついてきた。
 入り組んだ道を歩き、少し開けた場所に出たところで、坂東は足を止めた。
 真夏日にもかかわらず、涼しい風が二人の顔を撫でる。住宅街の中をさあさあと流れる、小川が目の前に現れたためだった。
 小さな川には、古ぼけた橋がかかっていた。
 欄干も何もない、渡るには少々危なっかしいアーチ状の橋だった。事実、橋のたもとには〈使用禁止〉の立て看板とともに、進入を防ぐロープが張られている。その隣には腰の位置ほどの高さのかげいしがあり、彫った字で、その橋に関する歴史的ないわれが書かれていた。その橋が実用物ではなく史跡であることが、石碑の文に示されていた。
 坂東はバッグを橋のたもとに置いた。
 直後に取った坂東の行動に、秋津が「えっ」と間抜けな声を上げた。
 橋のたもとの地面に手をつき、坂東がその下の川べりに降り立ったからだった。
「ほら」
 頭上の秋津に向けて顎をしゃくると、秋津が戸惑いの顔でためらいながらも、ややあってから恐る恐る、こちらと同じ方法で橋の下の河原に降りてきた。
「なんなんですか?」
 不器用な動作で、小石の積もった川べりに足を下ろした秋津が周りを見回す。そのあと、彼女は「あ」とある一点に目を留めた。
 また風が吹いた。
 秋津は無言で、橋の真下に位置する箇所を眺めている。坂東は彼女の背後で、その箇所を注視している秋津の後頭部を見つめた。
 橋の真下の、陰になった場所。そこにはまるで、人目から隠すようにして、あるものが据えられていた。
 斜面をくり抜く形で作られた横穴に、年季を感じる木でできた格子状の観音扉がしつらえられている。
 小さな、和風のほこらだった。
 秋津が、グウともムウともつかないいぶかしげな第一声を発して坂東のほうを振り返った。
「これは?」
「見ての通りだよ」
「と、言われましても」
 秋津が顎を指で掻き、あたりにきょろきょろと目をやった。
「何か、不思議な感じのする場所ですね。パワースポットか何かですか?」
 秋津が頭上の道を見上げる。隠し祠の奇妙さもさることながら、道なき河原に降りた自分たちが、誰かにとがめられやしないだろうかと気にしている様子だった。
 それにしても、と秋津がふたたび〈祠〉に視線を戻した。
「ずいぶん、変わったところにあるお(やしろ)ですね。お参りがしにくそう」
「どう思う」
「え?」
「これ、なんだと思う」
 坂東の問いに、秋津は再度、え? と意味が飲み込めない様子で顔に(はてな)マークを浮かべた。しかしそのあと、彼女はふむと神妙な表情になると、人差し指と親指をV字にし、思案するふうに顎の下へ添えた。
「さては私、今、先生から何かの試練を与えられていますね」
「そうだよ。あんたは今、目の前にあるこの祠のいわれを何も知らない。あの扉の奥に何がまつられてるのかも知らない。でも、当然ながら祠には背景があるんだよ。人間と同じくね」
 坂東は秋津の左手にある畳まれた日傘を手に取ると、広げて、影の中から言った。
「そこから一歩も動かずに、その祠の中身と、背景を当ててごらん」
「イリス先生、以前にもお伝えしましたが、私の能力は──」
「自分の意思で使用不可なんでしょ。知ってるよ。勘が悪いね。私は、推理して創作しろと言ってるの」
 坂東はポケットから煙草を取り出した。
「あんたが考えた、その祠の物語を私に聞かせて。ただし、当てには行くんだよ。占い師に必要な能力だから」
 火をけた煙草の煙の向こうで秋津がようやく、意図を理解した様子で「なるほど」と宙にひとりごちていた。
「コールドリーディングの訓練というわけですね。これはこれは。ぜん、修業らしくなってきました」
 客の前に出る時はあんなに萎縮していたというのに、打って変わって何かテンションが上がっている様子である。秋津は「ふうむ」と挑戦的に呟き、祠を見据えたまま、まるで剣の達人が相手と対峙するように、ゆらりと一歩、間合いを保った状態で横に踏み出した。『そこから一歩も動かずに』という制約をさっそく忘れているので「動かない」と叱りつけると、秋津は「あっあっ」と慌てて足を引っ込めた。
「そうですね……」
 祠から三、四メートルほど離れた位置で、秋津が顎に拳を当てた。
「見た感じ、まあ普通にお社というか、祠ですよね。神道でしょうか、仏教でしょうか。恥ずかしながら不勉強で、宗教には疎いため、そのへんが私にはよくわかりません」
 ぶつぶつと思考を口にしている。
「掃除はされているようですが、祠自体はかなり、年代物に見えます。それにしてもなぜ、こんな場所にあるのでしょうか。掃除されてるということはお参りにくる人がいるんでしょうけど、上にあった石碑にも確か、ここにこんな物があるなんてことは記されてなかったような気がしますし、まるで隠してるみたい。もしや、怪しげなカルト宗教? うーん、でも」
 秋津が首をひねった。
「よくわからないので、とりあえず、まずは中身が何かを考えましょうかね。こういうのって中に御神体が入ってるんでしょうけれど、だいたい、お(ふだ)とか、お稲荷さんの像とか、お地蔵さんとかがあるイメージです。格子から中が覗けそう。イリス先生、もうちょっと、ほんの少しだけ、近づいてみても?」
「駄目」
「手厳しい。しかしこれが修業なのですね。修業。いい響きです」
 クックと秋津が気色の悪い含み笑いを漏らした。楽しそうなので放っておくことにして、坂東は川べりにあった大きめの石に尻を下ろした。
 そこからしばらく、秋津は話さなくなった。正確には口の中で小さくぶつぶつと、自分の考えを言葉にしている声がかすかに聞こえてくるのだが、内容は聞き取れない。
 石の上から、空を見上げた。夏雲の切れ間のずいぶん高いところに、カラスが飛んでいる。近くに鉄塔が見えるから、その上のほうにでも巣があるのかもしれない。
 煙草の煙が空に昇っていく光景に、少し、昔のことを思い出した。
 なぜ秋津に対して、こんな面倒なことをしているのだろうと考える。
 鞄持ちがいれば便利だからなど、自分自身に対していろいろ理由をこしらえはした。
 しかし実際は、適当に育てて、適当に仕上げて、さっさと駅ビルの占いコーナーにでも放り込んで、(しま)いにしてしまおうと思っている。
 なぜか?
 自問して坂東は、頭上を見上げたまま日傘を傾け、空と自分を遮断した。
 ややあってからようやく、離れた位置で秋津の明るい声がした。
「整いました」
 得意げな声色だった。見ると、一仕事終えた顔で額の汗を拭っている。
「できましたよ。私の考えた、この祠の物語が」
「そう。どんな?」
「まずですね」
 秋津がフッと眉根を寄せて笑い、顔の横で手を翻す、すかしたポーズを取った。
「昔々、あるところに、偉いお殿様がおりました」
 言って秋津は手を後ろで組むと、その場をゆっくりと歩き回り始めた。
「ええ、お殿様です。この祠は年季が入っていますし、小さいとはいえ寺社の類ですから、建てたのはきっと、その時代の権力者でしょう。ちなみに私は彼のルックスをさとこうろうでイメージしています」
「続けて」
「殿には悩みがありました。それは、自分が治める領土の水害です。ひとたび大雨が降れば河川は氾濫し、田畠の作物は流され、殿様はたいそう頭を悩ませていました。土木工事でインフラを整える手も打ったのですが、そう試みたら試みたで建設業者と役人が癒着し、怪しい談合と接待が行われ、せいは乱れに乱れました。イリス先生」
 急に秋津がこちらを振り返った。
「どうですか、これ」
「どうって、まだ導入のようだけど」
「はい、これは『スター・ウォーズ』でいうところの最初の黄色い文字の部分です。しかしなんでしょうか、この作業、けっこう面白いですね。私には意外な才能があるのかもしれません。ちなみに私は、誕生日がミケランジェロと同じです」
「あんまり横道に逸れると殴るよ」
「殿様はこう考えました」
 秋津が慌てた様子で背中を向けた。
「〝もう、これは駄目じゃ。神様仏様にお願いするしかねえ。水神さまの祠を建てよう。しかしあんまり大っぴらに建てるとまた、宮大工と役人との間で政治とカネの問題が起きっから、人目につかねえところにこっそり建てっべ〟」
 しゃがれた声で演じて、後ろ姿のまま秋津が眼鏡を押し上げた。殿様という設定なのに口調が百姓なところに造形のブレを感じたが、秋津は続けた。
「そうしてできたのが、この祠というわけです」
 言って、秋津は証明を終了した数学者のように片手を優美に広げてみせた。
「そうした経緯で、この小川の目立たぬ場所にこれがあるのです。そして、これはイリス先生からすれば釈迦に説法でしょうが、水の神様というのはよく、蛇の姿に見立てられるのです。私が以前派遣で通っていたお弁当工場は、埋立地にあったのですが、近くには水の神様の怒りを鎮めるための、蛇を祀った神社がありました」
 ですから、と秋津が勢いよく、祠に向かって手を差し伸べた。
「私はこの中に、蛇の神様が祀られていると考えます」
「へえ、蛇」
 坂東の言葉に、秋津が不安げな顔をした。
「ハズレでしょうか?」
「どう思う?」
 そう問うと秋津は自信をなくした様子で目を泳がせ、両手の指を胸の前でひしがたにくっつけてそわそわと動かした。しかしそのあと彼女は意を決した表情で面を上げると、祠を示して言った。
「これは、水神である蛇を祀ったお社です。水害を収めるために建てられました。以上が、私の見立てです」
 ご清聴ありがとうございましたと言わんばかりに秋津が頭を下げた。企業のプレゼンテーションのような動作で、オフィスカジュアル風の秋津がそうするとまったく、格好だけ見ればつくづく会社員だった。秋津の雰囲気に倣って、坂東はパチパチと拍手をした。手を打つ音が河原に鳴り響き、秋津が頭の後ろに片手をやってはにかんだ。
「全然ハズレだよ」
 坂東の台詞に秋津が愕然と顎を落とした。
「でも、場所から治水を連想したのは、めちゃくちゃ普通だけど普通によかったね。蛇っていう発想に至ったのも、知識があってなかなかいいじゃない。悪くなかったよ」
「それはどうも」
 無理やり褒めてくれなくとも結構ですよとでも言いたげなねた顔をしている。
「それで、正解は?」
 秋津に訊かれ、坂東は石から腰を上げた。このクイズのねらいはパーツから物語を組み立てる力を養うことであるから、正解を教える必要はないのかもしれなかったが、坂東は自分の知っている事実を話すことにした。
「この祠の中に祀られてるのは、お地蔵さんだよ」
「お地蔵さん」
 秋津が顎に当てていた手を離し、復唱した。「そっちでしたか」と悔しそうに呟いている。
「呼び名は通称、常緑地蔵」
「ほう。その名前は初耳です。えらくシンプルにここの地名を冠しているのですね」
「縁結びのご利益があると言われてる」
 へえ、と秋津が眉を上げた。
「そんなラブリーなご利益がある祠だとは。特色に対して、場所がさびれすぎている気がしますがね」
「このチョロチョロした小川はさておき、さっき通ってきた道に大きな川があったように、このあたりは昔から水の豊かな土地でね。そうした土地柄から、かつては養蚕がさかんだったんだよ。そこから、特産品である〈糸〉を〈縁〉に関連づけて、この土地でもともと信仰されていた道祖神が、縁結びのお地蔵さんに変化していったんだ」
 そう言って坂東は空中に指で文字を書いた。
「地蔵っていうものにはもともと、二十八のどくがあるとされていてね。衣食に満ち足りるって意味の『衣食豊足』とか、病気にかからないって意味の『疾疫不臨』とか。でもこの常緑地蔵はその成り立ちから、珍しいことに、たったひとつの功徳に特化しているとされてるんだよ。それが『集聖上因』──悟りの境地へ至る因縁が集まってくる、転じて、縁結びってわけ。『縁』と『緑』という字は似てるでしょ? この町はもともと、『常縁町』って名前だったんだよ」
 ホオー、と秋津が嘆息した。
「私、今、感動しています」
「何に?」
「先生がまるで学芸員さんのようなので。私、子供の頃、博物館にいた学芸員のお姉さんに憧れていたのです」
 子供、というワードに、坂東は頭上の橋を見上げた。
「子供といえば、地蔵というものは得てして、子供を守護する存在だとされてることはあんた知ってるかい」
「ええ。それは知っています。私の地元でも地蔵盆があり、お菓子をもらえるのとセットでそうしたいわれを聞かされていましたから」
「そう。それが、この祠がこんな風にして、橋の下にひっそり建ってる理由だよ」
 秋津が首を傾げた。
「どういうことでしょう」
「あんた、小さい頃に、親から『お前は橋の下で拾った子だ』って冗談を言われたことは?」
 言うと、秋津はしばらく黙ったあと、やや怨念のこもった声で、
「ええ、言われました」
 と答えた。
「お前は近くの陸橋の下で拾った子供だ、と、父に。幼い私はそれを鵜呑みにしてショックで泣き、父の悪ふざけに怒った祖母が彼をげんこつで制裁しましたが。まったく、悪趣味な冗談です」
「今時の子は言われないんだろうけどさ、ちょっと昔までは比較的ポピュラーな冗談だったよね。でもそれがじょうとうになってることからわかるのは、捨て子はだいたい橋の下、ってこと。子を捨てる親が、せめてもの親心で屋根のある場所に捨てていくから、そうなってるんだろうね」
 坂東は祠へ視線を移した。
「昔の時代は捨て子が多かった」
 言って、坂東は煙草に火を点けた。
「でも、子供を捨てる親だって、その子が自分の知らないところで元気に生きていけると思ったほうが罪悪感が少ない。そして、この常緑地蔵はさっき言った通り、地蔵本来の『子供を守護する』という属性と、『集聖上因』──『縁に恵まれる』って個性がミックスされてる。その結果、どんなタチの悪い現象が起きたかというと──この地蔵のところに、子を手放したい親が赤ん坊を捨てていく、という事象が頻発したんだ。このお地蔵さんのところに捨てればきっと悪いようにはならない、きっといい人が拾ってくださる、っていう言葉で自分の罪の意識を軽減させながらね」
 秋津が真顔になっているのが見えた。おそらく不快感は覚えているのだろうが、この手の話でいたずらに眉をひそめてみせないところに、坂東は初めて、秋津という人間へ愛嬌とは違う意味での好感を抱いた。
「もともと、この祠の上には橋なんてかかっちゃいなかった。広く開かれ、この養蚕の地に、商売の縁や縁談の縁やいろんな良縁を求めて他地方からも参拝客が訪れる、そこそこ有名な、それこそ今で言うパワースポットだったんだ。だけど、子捨てっていう嫌な出来事が続くようになったからさ、とある上人が、祠の上に橋をかけたんだよ。こんなことが起きるようなら祠はいっそ隠したほうがいいけれど、さりとて子捨てはなかなかなくならないし、かといって見張りを立てれば、追い詰められて血迷った親が子供を手にかけかねないし、だからせめて、捨てられた子が雨風に当たらないように、この橋をかけたんだ」
 だからこの祠はこんなひなびた立地にあるんだよ。
 そう言って坂東は祠にまつわる解説を締めた。
 これらはすべて、占い師としての箔をつけるためにこの町の図書館で得た知識だ。
 しかし、ときどき坂東は思う。この地の人々がかつて糸を生産し、それを縁に見立てていたのならば、その糸で織られた織物は、一体どういう図柄を紡ぐのだろうか、と。
 私も、その糸の一本であるのだろうか。
 この祠を見るたびによぎってしまうそんな物思いにふけり始めた自分を内心で一蹴し、坂東は顔を上げた。
 秋津を見る。彼女はしばらく、切なそうな顔で祠を見つめていたあと、何を思ったか祠に向かって手を合わせ、拝み始めた。本人は大真面目なのだろうが、河原で合掌する秋津を見ていると何か笑えてきて、その滑稽さを噛み殺しながら坂東は携帯灰皿に吸い殻を捨てた。
「さ、そろそろ帰るよ」
 促すと、秋津は手を合わせて目を閉じたまま何かごにゃごにゃと言って、祠へ軽く頭を下げ、仏壇の前よろしく合掌の手のひらをすり合わせた。祈りが長い奴。概念ではなく文章で届けるタイプなのだろう。何を念じているのかは知らないが、いい加減長いので軽く秋津の肩を小突く。しかし、秋津は祈祷の姿勢を崩さなかった。
 坂東は片眉を寄せた。基本的にマイペースだが従順でもある彼女が、こちらを無視するのは初めてのことだった。
「ちょっと」
 そう言ってふたたび肩を叩いた時だった。
 坂東は異変に気が付いた。
 手を合わせ、頭を垂れる秋津の頭がどんどん下がっていく。まるで強い悔悟の念に陥っているか、睡魔に襲われている人間のように背中を丸めて深く深く頭を下げていくのだが、それでも何かを呟きながら手をすり合わせるのをやめない。
 真っ先に頭に浮かんだのは、トランス状態に入っている霊媒の姿だった。
 即座に坂東は右手を振り上げた。霊的なものなど信じてはいないが、何かに()てられている人間への対処法なら熟知している。秋津の背中へ思い切り平手を入れようとさらに大きく右手を振りかぶった時、急に秋津がぐるんと首を回し、こちらを見た。
 そして、言った。
 ピアノで音階の高いところの鍵盤を打ち鳴らしたような、ひどく澄んだ声だった。
「だから、そんなに太ってるんだ」
 坂東の手が止まった。
「彼女はあの世で、先生はこの世。翼がないから、腕を生やしてる」
 言って、秋津がこちらを見つめたまま口だけでクスクスと笑った。油分で曇った眼鏡のレンズ越しにもわかったのは──彼女の両目が左右で違うほうを向き、それぞれ、てんでばらばらにぐるぐると動いているということだった。秋津の裸眼を間近ではっきりと見たことはなかったが、生来の斜視でないことぐらいは知っている。
 秋津の左目が坂東を見つめ、右目だけがゆっくりと円運動する。
 そしてふたたび、彼女は両目を正面に戻して言った。
「先生、私を潰すつもりなんでしょう」
 それを最後に、秋津は糸が切れたように河原へ両膝をついた。前に倒れそうになる彼女を受け止める。
 上空ではカラスがカアカアと鳴き、坂東は秋津を抱き止めた格好のまま、数十秒ほど無言で、ただただ空を眺めていた。
 そしてようやく、
 ──なるほどな。
 と内心でひとこと呟いた。
 こいつ、こうなるのか。
 あのカフェで話を聞いた時からずっと、見てみたいと思っていた場面が、きっと今まさにこの瞬間だった。実際に目の当たりにすると、へえ、こんな風なのだな、というのが率直な感想だった。
 坂東はあえて、そのシンプルな感想だけをはんすうすることにした。
 防波堤の外側で立っている激しい感情の波から目を背けるほど若くはなかったが、今はそれに飲まれてしまうわけにはいかなかった。
 秋津はすっかりき物が落ちたように、眼鏡がずれた間抜けな顔で坂東の肩に寄りかかってぐったりしている。配車アプリでタクシーを呼んで自宅に帰ろうと考えながら、坂東はさっき自分たちが降りてきた河原の斜面を見上げ、白目を剥いて脱力しているこいつを抱えた状態で、いったい、あそこを、
「どうやって登るんだよ」
 と、ため息をついた。

「3」へ続く)

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す