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「ねえ、あんたすごいね」
思い出すのはいつだって、パーテーションの上から顔を突き出してそう話しかけてきた時の彼女の顔だ。
狭い個人ブースの中でタロットカードを片付けながら、確か、こちらは彼女を睨んだと記憶している。大型ショッピングモールの片隅にある、簡素な板で仕切られただけの占いコーナー。それが当時の自分たちの職場だった。
客が途切れたそのタイミングで、彼女はなおもこちらを褒め続けた。占いの腕をいくら彼女に称賛されても、しらけた気持ちになるだけだった。複数名の占い師が詰めるこの占いコーナーで一番、売り上げているのは彼女で、嫌味や、優位性の誇示のために言われたのではないとはわかったが、その余裕がむしろ鼻についた。
だから、何と言ったかはもう覚えていないが、当たり障りのない言葉でそっけなく返した。彼女はパーテーションの上に手を乗せた格好で笑い、そのニタニタした表情と細い目と色素の薄い長い髪が、狐を連想させた。
彼女が言った。
「なんでそんなにお客さんのことがわかるの。どこで勉強したの。コツとかあるの」
無邪気に問われ、今度も口先ではそつなく返したが、心の中では思わず暴力的な空想をしていた。パーテーションの上からひとふさ垂れているその長い髪を掴み、私のよく知っているやり方で、二度と馴れ馴れしく話しかけてこられないようにヤキを入れてやりたい。私が人並み以上に人の考えていることがわかるのは、単純に、人の顔色を窺い続けないと生きてこられない環境で育ったからに過ぎない。
〈狐〉がパーテーションから頭を引っ込めた。彼女のブース前に客が並び始めたためだった。
「また喋ろうね」
仕切り板の繋ぎ目から〈狐〉がこちらに言った。
「あと、あんたちょっとガリガリすぎ。もう少し肉つけたほうがいいよ。占い師に必要なのは、体力だから」
誰よりも本人自体が痩せている〈狐〉に言われても、余計なお世話だとしか思えなかった。しかし説得力がないとは感じなかった。彼女は細く、均整の取れた体つきをしていて、その肉体にはマラソンランナーのような類の持久力が備わっているように見えた。
昼時を迎え、彼女のブースにはいつしか長蛇の列ができていた。こんなローカル商業施設の占いコーナーが繁盛しているのは、ひとえに彼女の力だった。よく当たる占い師が辺鄙なショッピングモールにいるという噂で界隈はもちきりで、彼女の名前は知らなくとも、地名と「占い」というワードを出せば誰もが「ああ」と頷くほどに、彼女は有名人だった。
彼女のブースから客との会話が聞こえてくる。彼女は四柱推命で相手を占うから、生年月日や生まれた時刻を尋ねている気配が伝わってくるが、その気配はすぐに、そんな表向きのスタイルを飛び越えた彼女の独壇場へ変わっていくのを坂東は感じ取った。
普段の〈狐〉とはまったく違う、無機質な声が聞こえてくる。
誰もいないブースで、彼女の側に面した二の腕の肌が粟立っていく。
隣で神憑りが起きている、といつも思う。
彼女は天才だ、と皆が言う。そして、これは彼女の才能に対する不敬になるから皆が発言をはばかりがちだが、おそらく大半の人間が、彼女の容姿をも美しいと感じている。
たったひとつの才能を与えられているだけでも稀なことなのに、ふたつも与えられているのは、一体どれほどの確率からくる出来事なのだろうか。
それとも、真に優れた者とは得てして、その容貌にもそれが表れるのだろうか。
ひとりきりのブースで、坂東は思った。
そんな存在は、とっとと神様に連れて行かれてしまえ。
だから、実際にその時が訪れた時も、特に何と思うことはなかった。
ある朝、彼女のブースに本人が現れず、数日が経ったのち催事コーナーの担当者から小さなお達しがあり、もう彼女がいないのだと知った時も、ただただ自然の摂理が起きたのだと感じただけだった。
訃報を聞いた占いコーナーの面々が、それぞれ、控えめに思いを口にした。皆、職業柄、坂東を含めて、基本的には自死というものを否定しない人種の集まりだった。仕事柄、息をするだけで毎秒が地獄という状態が人間に存在することを、皆が知っている。
同僚が言った。
──あれだけ人の心がわかっちゃう子だったんだ。生きていかれなくなるのも、無理はないよ。
その言葉で皆が沈鬱に首を横に振り、日々の業務へと戻っていった。
〈狐〉がいたブースの前で、訃報を知らない彼女の客たちが困惑の表情でうろつく日々が幾日か続いたが、やがてそれもなくなった。
〈狐〉のブースには、ワンスペース詰めるかたちで同僚のひとりが座ることになった。〈狐〉がいなくなったことで全体の客足は減ったが、それでも、かつて〈狐〉が抱えていた客たちがそのコーナーの他の占い師に多少は分散し、占い師たちの間でまた新たなヒエラルキーが形成された。
ある日、同僚のひとりが言った。
場所は、従業員用の控え室だった。坂東たち占い師は食事休憩を取る際、各自のブースか、そのショッピングモールの控え室を使う決まりだった。そんなバックヤードの中で、モール内のスーパーで買った弁当をつつきながらその占い師は言った。〈狐〉がいなくなったヒエラルキー内で、三角形の頂点とは言わずとも、それなりの位置を確保しつつある人物だった。
──結局、続けた者の勝ちだよね。
坂東は箸を止め、思わず聞き返した。
彼女は続けた。
──生きてる犬は死んだライオンに勝る、ってね。
坂東はしばらく黙って相手の顔を見つめたあと、言った。
「本当にそう思ってるんですか?」
相手は言った。
──うん。心の底から、確信してるよ。今。
坂東は視線を手元に落とし、無言で弁当の残りを食べた。食べ終えたプラ箱をビニール袋に入れて口を縛り、ゴミ箱に捨てて蓋を閉めたあとで、坂東は食事のテーブルに戻ると、その言葉を発した占い師に向かって前蹴りを入れた。
周りがざわめき、なおも追撃しようとする坂東を周囲の人間が二人がかりで止めた。非力な体を押さえられて、それ以上かかっていけなくなったが、羽交い締めにされている隙間から坂東は床に座り込んでいる相手に向かって唾を吐いた。
くたばれ。皆、坂東の怒りを理解できない様子だったが、坂東はよく理解していた。
くたばれ。自分で自分を騙せる大馬鹿者ども。
リビングの窓には、薄紫になった夕方の空が広がっていた。
ガラスは薄暗い室内を反射していて、ソファに腰掛ける坂東の肥った巨体を映し出していた。
キイ、と背後にある寝室のドアが開いて、ルームウェア姿でむくんだ顔をした秋津が現れた。坂東が貸した服なので、痩せっぽちの体をだぶだぶの服で包んだB-boyファッションのようになっていた。
「──先ほどは、申し訳ありませんでした」
タクシーで連れ帰ってからずっとぐったりしていたが、回復したらしい。
自分がどんなふうだったかを覚えているのか、と坂東は訊きかけて、やめた。秋津の表情を見ると記憶があるのは明白で、それもそうかと窓に映る秋津から視線を外した。これまでの話を聞くに、彼女はいつだって自分の霊視の結果を知覚しているのだから。
沈黙が流れた。
背後で秋津がこちらの顔色を窺っている。幼い子供のようにびくびくしたその姿と、そうさせている自分自身へ無性に苛立ちを覚えて、坂東は口を開いた。
「もう、こんなことはやめよう」
また静けさが訪れ、そのあと、秋津が聞き返した。
「こんなこと、とは」
「あんたが察した通り、私はあんたを潰そうとしてるんだよ」
そうなればいい、そうなるに違いないと思っていた。天性のものを持つ人間に凡人の技術を教え込めば、きっとある種の回路が駄目になるはずだ、と。
「ばれたことだし、終いにしよう。ただ、あんたの人生の時間を無駄にした詫びに、後のことはちゃんとしといてあげるよ。S駅に地下街があるでしょ。その中にタロットの館が入ってて、未経験可で占い師を募集してるから、そこなら私も、少しはツテが──」
「ちょっと待ってください」
秋津が眉をひそめた。
「何を言ってるんですか?」
「わかるだろ。終わりなんだよ」
背後の相手が息を呑む気配がした。無視して坂東は続けた。
「ま、でもさ」
坂東は微笑んだ。
「こうなって、むしろ良かったと思うよ。さっきのあんたのあれ、凄かった。私が考えてた以上に、あんたは才能があるんだと思う。もっとちゃんとした所で学んだほうがいいよ、本当に」
窓に映る、無表情でこちらを見つめる秋津の瞳の奥が、冷めている。今は〈天才〉モードではないのだろうが、平時の秋津でも、これがお為ごかしだとわかる程度の了見は持ち合わせているようだ。
秋津が呟いた。
「勝手すぎる」
坂東はますます目尻の笑い皺を深くした。
「期待を裏切って申し訳なかったけどさ、金は貰ってるんだ。文句はないだろ」
「──何てことを言うんですか」
「世の中にはこんな奴もいるんだって勉強になった上に、勉強代を支払うどころか給金まで受け取れて、それで良しとする引き際くらい身に付けなさいよ」
言って坂東はゆったりした動作でローテーブルの上にあるボトルを手に取り、ハンドクリームを手の甲に馴染ませた。
「私は、あんたを潰そうとしてたんだからさ」
すると秋津のいる方向から、強い口調で、意外な言葉が返ってきた。
「どうでもいいです、そんなことは」
秋津の口から初めて聞く、苛立ち混じりの、ばっさりと切り捨てるようなトーンだった。
「そんなことはどうでもいいから、今、やめてもらっては困ります」
少し、驚いた。
「そんなこと」。──彼女は今、そう言ったのか。
重大であろうことをあっさりと切り捨て、なおかつ妙な固執を見せる秋津に、ハンドクリームを塗り広げる坂東の手が違和感で止まった。
秋津が言った。
「お金で解決できると思ったら、先生、その考えは先生らしくもなく、甘いですよ。先生は私を育てると約束したんです。私の側に原因があっての関係解消なら仕方ありませんが、そうではないのなら、先生には引き受けたことを果たす義務があります」
そして彼女が、ふたたびはっきりした声で言った。
「先生は、私を占い師にしなければなりません」
思わず、あんぐりと口が開きそうになった。もちろん、実際にはそんな間抜けな反応は表に出さずに無表情を続けたが、こいつは本気の馬鹿か、もしくは何か思惑があるのだろうかと疑わずにはいられなかった。いったい何が、こうまで彼女を執着させるのだろう。占い師になりたいならなりたいで、貰った金を手に新たに出直せばいいのであって、この師弟関係に固執する必要はない。
別の指導者のもとで、新たに関係を構築するのが面倒なのだろうか。
坂東の思考を見透かしたように秋津が言った。
「でも、私は自分が占い師になれさえするなら、教師は誰でもいいんです。別にそれがイリス先生でなくても、誰でも」
まるで思い上がるなと言わんばかりの流れだったが、秋津の口調はあくまでも淡々としたものだった。
「この人なら、と思ってここへ来ましたが、こうなった以上、実際問題、私を占い師にしてくれるなら誰でもいいです」
なぜ、それほどまで占い師になりたいのだろう。むろん、唯一の特技を活かすために職業にしたいのだという彼女の動機は知っているが、それにしても、こだわりすぎている気がした。いや、もっと正しく表現するなら──焦っている、という印象だった。
「あんたさ、なんでそんなに占い師になりたいの」
尋ねると、秋津は爪を噛んだ。そのままうろうろと今いる場所を周り始める。
「だからその、なんでしたっけ、S駅の『タロットの館』だか何だか知りませんが、そこでもいいですよ、別に。ちゃんと口利きしてくれるんならね。こちらに対して、そのぐらいはしてくださるんですよね、確か?」
噛み合わない会話は、坂東の問いかけを無視した形だった。
「ああ」
坂東は答えた。
「してあげるよ、もちろん」
ただし、と坂東はゆっくり首を回して、背後の秋津を振り返った。
「その口の利き方が、ちょっと気に入らないね。急にずいぶんとずけずけし始めたじゃない。こっちが下手に出てりゃあ、つけ上がりやがって」
え? と坂東はソファの背に肘を置いた格好で秋津を見た。
「馬鹿で馬鹿丁寧な奴だと思ってたけど、そっちが地?」
「わかりません。でも育ちが悪いんでしょうね。イリス先生と同じで」
坂東は無言で立ち上がり、リビングの入り口にいる秋津の前に立った。
「おい」
「はい」
「外しな」
「何を」
「眼鏡」
「なぜ」
「怪我したくないだろ」
言うと、秋津がじっと坂東の顔を見つめた。たった今、明確に暴力をほのめかされたとは理解している顔で、にもかかわらず至近距離でも目を逸らさない。意外と根性が据わっていると評価するところだろうが、しかし坂東は、彼女のその威勢がせいぜい、もって数秒だろうと踏んだ。静まり返った部屋の隅でウォーターサーバーがごぼりと音を立てて気泡を吐き、やがて坂東の予想通り、秋津は、敗北の顔で目を伏せた。
「──着替えてきます」
坂東から顔を背けて、足元の床を見ながら弱々しく秋津が言った。
「自分の服に着替えて──それでもう、二度とここには来ません」
それだけ告げて秋津は背を向け、寝室へと消えた。着替える音が聞こえてくる。坂東は鼻から長い息をつくと、これではまるで男女の破局シーンではないかと思いながら窓の向こうに目をやった。ややあって秋津が、リビングではないもう一方のドアから廊下に出る音がして、玄関を出て行ったのが、気配でわかった。疲れた気持ちで坂東は外の景色を眺めて、キッチンカウンターの上にある煙草の箱を手に取った。感触から残り本数が少ないとわかったが、蓋を開いてみると中にあったのは最後の一本で、さらに、取り出すとその一本が途中で折れてしまっていることが判明し、舌打ちをしながら寝室にあるストックを取りに行こうと窓から背を向けた。その時だった。
秋津が去っていった玄関ドアが、ふたたび開く音がした。
玄関のほうから小さく、秋津の声が聞こえた。
「イリス先生」
坂東は怪訝に眉を寄せた。さっきの今で秋津が戻ってきたからではない。玄関から聞こえたその声が、妙に口早で、緊迫したものだったからだった。
廊下に出ると、三和土で青ざめた顔をしている秋津の姿が目に飛び込んだ。
「イリス先生」
そう繰り返す秋津の声が震えている。坂東は尋ねた。
「何」
問うと、秋津はなぜか背後の玄関ドアを振り返り、そしてふたたび坂東のほうを見ると、言った。
目が、怯えを押し殺すように鋭く光っていた。
「──玄関先に、おかしなものが」
坂東は素早く、秋津の後ろにある玄関ドアの内鍵部分に目をやった。そこが秋津の手によりしっかりと施錠済みであることを確認すると、坂東は言った。
「おかしなものって、何」
「わかりません」
被せるような早さで、秋津が奇妙な表現をした。
だが、その奇妙さがなぜか、この場においてはとても正確な表現であるように思えた。坂東は黙って秋津を脇に押しやると、ドアスコープから外を覗いた。
スコープには、誰もいない外廊下が映っていた。取り立てておかしなものは見当たらないが、角度的に玄関前の下方を確認することはできない。
「誰かいた?」
「いいえ」
「そう」
言うと、坂東は鍵を解錠し、そのまま迷いなく玄関ドアを開いた。その躊躇いのなさに秋津が隣であっと非難するような声を上げる。構わず、突っ掛けを履いた足で外廊下に歩み出ると、坂東は周囲に視線を走らせた。そして、玄関ドアが並ぶ手前側の壁に顔を向けたところで、目を止めた。
そこは、坂東の住む部屋と隣室の間に位置する場所だった。
壁には、一枚のウォールアートが設えられている。尖った鉄製の資材を立体的に組み合わせた現代アートで、このマンションの所有者たちから成る管理組合の理事会にて、共益費から予算を投入し、設置されたものだと聞いている。モダンではあるのだろうが、踏み潰されたウニにも見えるそれは坂東の趣味ではなく、こんなものに予算を割くくらいなら気の利いた観葉植物でも置けばいいのにと思っていた代物だが、今はそのアートの尖った先端に、見慣れない一枚の白い紙が刺さっていた。
「外に出ないほうが」
後ろから忠告する秋津を無視して、坂東はウォールアートの前に歩み寄った。
先端に刺さっているその紙は、罫線付きのA4ノートを引きちぎったものだった。しかし何より注目すべきは、その、まるでモズの速贄を連想させる突き立てられ方で串刺しにされたその紙の真ん中に、黒い乱雑な字で、大きく、
『坂東イリス』
と書かれていたことだった。
坂東は目をすがめた。
どこのどいつか知らないが、暇なことをするものだ。過去に、何か機嫌をそこねた客の仕業だろうか。同業者の嫌がらせだろうか。住まいを知られていることには特に疑問や危機感は抱かなかった。誰にでもできるし、望ましくはないが、どうでもいいことだ。坂東はアートの先端から片手で乱雑に紙をむしり取った。ともかくこれは私に対する何かしらのメッセージで、裏におそらく、何か書かれているのだろう。死ねだの殺すだの詐欺師だの、その手の言葉を予想して、坂東は鼻で笑う準備をしながら手にある紙を裏返した。
そして、言葉を失った。
『坂東イリス』と書かれた紙の裏には、これまた黒い、乱雑な字で、大きく、
『うんこ』
と書かれていた。
「何これ」
思わず声が出た。
「くだらない。ねえ秋津、あんたこれ、こんなものにビビって、あんた本当に──」
馬鹿みたい、と言いかけて、坂東は口をつぐんだ。
紙を手に振り返ったその先に、外廊下で佇む秋津がいる。
その顔が、にっこりと微笑んでいた。
──やられた。
自分が廊下に誘い出されたのだと坂東が気づいたと同時に、秋津が口へメガホンのように両手を添え、外廊下の天井を仰いで、いきなり──大声で叫んだ。
「助けてー!」
ビリビリと外廊下中に秋津の叫びが響き渡った。
「助けてー! 誰か助けてー!」
「な……」
「ゴリラみたいな中年女性に殺されるー! 霊感ビジネスを営む女に契約不履行に対する不服を訴えたら、急に態度が豹変し、密室で暴力をちらつかせてきたー! 殺されるー! 1305号室に住む自称占い師の女に殺されるー!」
この野郎。坂東のまぶたが痙攣した。思わず手が出そうになった気持ちをこらえて秋津に詰め寄り、胸ぐらを掴む。
「何のつもりよ」
「私を占い師にしてください」
「ふざけんな。はっ倒すぞ」
「殺されるー!」
小声で素早くなされた交渉が決裂した瞬間に秋津がまた、マンション全体に向けて叫び散らした。声色だけでなく表情までしっかりと被害者の顔を作っているのが腹立たしい。しまいには「火事だ!」と叫び始めた秋津の悲鳴を受けて、次第に同じフロアの玄関扉が、チェーンをつけたまま次々と小さく開かれ始めた。ドアの隙間から恐々と坂東たち二人の様子を窺っている住民たちの顔が見え隠れする。
本気で張り倒して部屋に引きずり戻すことも考えたが、しかし、と坂東はこらえた。他の住民たちの目の前で暴力を振るうとまずいからではない。ここで屈しては秋津の思う壺だからである。テロリストの要求を飲んではいけないという国際常識を胸に、坂東は首を横に振って秋津を廊下に放置し、部屋に戻ろうとした。するとその姿を見た秋津が、壁の現代アートに近づき、そこから飛び出ている一本の鉄材を出し抜けに手で掴んだ。
「ああ! こんなところに抵抗するのにちょうど良い棒がある! 我が身を守るために、これを使ってゴリラ女に立ち向かわねば!」
そう声を張り上げ、あろうことか力を込めてメキメキとその棒をへし折ろうとしはじめた。貧弱な腕だが、放射状に根本が固定されている形のアートはてこの原理で秋津の力でもめりめりと形が歪み始め、坂東の背中でにわかに冷たい汗が湧いた。共益費、賠償、という言葉がデジタルサイネージのように頭を通過する。分譲賃貸である坂東の部屋のオーナーは中国人で、坂東の職業には寛容だが、金銭トラブルに対しては冷徹だ。
心の折れる音がした。
殺意すら覚える敗北感の中で、坂東は廊下に立ち尽くしぐるぐると逡巡すると、やがて何もかも諦めた気持ちでふっと肩を落とし、秋津に向かって、静かに言った。
「──私が悪かった」
全身に向けられている他の住民の視線をたっぷり意識しながら、坂東は柔らかく微笑み、その場の全員に聞こえるような声で言った。
「私が悪かったわ、アキちゃん」
現代アートを折ろうとしていた秋津の手が止まる。こちらに顔を向けた秋津の顔には、ひどく、怪訝な表情が浮かんでいた。
坂東は続けた。
「アキちゃんを悲しませるようなことは、もうしない。あの女の子にも、二度と会わない」
そう真摯な口調で言ってみせると、こちらを見る秋津の顔がますます困惑と、得体の知れない薄気味の悪さを感じている色で染まった。勘の悪さに内心で舌打ちをしながら、坂東はうつむき加減になりつつ、口パクで秋津に意図を伝えた。何度目かの口パクで秋津がようやくこちらの狙いを理解したようで、彼女はしばらくじっと坂東の腹のあたりを見つめたあと、顔を上げた。
そして、どこから出ているのかと疑問になるほどハイトーンな声で、ペットショップのチワワのような顔をして、言った。
「本当? イリスお姉さま……」
坂東の両腕にざっと鳥肌が立った。
「ええ。誓うわ」
「信じてもいいの? お姉さま」
「うん。アキちゃん。愛してる」
「お姉さま」
「アキちゃん」
「また裏切ったら、ぴえんだよ」
「信じて。私は絶対、アキちゃんをぴえんにはさせない」
言いながら歩み寄り、近づいたところで、お互いに右手と左手の手のひらを合わせた。なりゆきを見つめているマンション住民たちから困惑の気配が漂ってくる。抱きしめるとさすがにゲロを吐きそうなので、坂東は秋津と手と手を合わせた格好のまま周りを見回すと、チェーンの隙間からこちらを窺っている他のマンション住民たちに向かって、
「と、いうわけなんです」
と真顔で釈明した。
「何が『と、いうわけなんです』だよ」
「多様性の時代です。問題はないでしょう」
「そんなことはどうでもいい。お前とあんなやりとりをしたことに吐きそう」
もつれるようにして逃げ戻った自室で、坂東はぐったりとソファに両足を投げ出し、両手の甲をまぶたに当てて言った。秋津が後ろ手でリビングの扉を閉めて、ソファの端に腰掛ける。平然としながらも顔がどこか得意気だ。先ほどの芝居を自画自賛でもしているのだろう。その姿にまた怒りが湧いたが、出力する気力は残っていなかった。
疲弊した頭で、認めることにした。
厄介な女だ。
表で騒がれようが悪い噂を吹聴して回られようが、今さらそんなことで右往左往するような面の皮はしていないが、経緯からしてこちらに多少の落ち度があるためタチが悪い。
まぶたに乗せた手の甲をずらし、坂東はちらりと卓上カレンダーへ目をやった。そしてまた手を目に戻して、きっぱりと言った。
「六日だ」
ニヤニヤとうぬぼれに浸っていた秋津が、「え?」とその顔のまま坂東を見た。
「今日から六日間、お前に徹底的にタロットの基礎を叩き込む。潰すつもりじゃない。今度は本気よ。おかしなことは教えない。ただただ基礎だけをやる」
スパルタでいくから覚悟しろ、と坂東は言った。
「六日後、お前をS駅の『タロットの館』に放り込んで、デビューさせる。それで今度こそ本当に、サヨナラだ」
秋津がわずかに驚いた顔で、二、三度、瞬きをした。
「それはそれは、こちらとしても願ったり叶ったりで、ありがたいですが。しかし」
秋津が顎に指を添える。
「なぜ六日間なんです?」
「文句あんの」
「いいえ。ただ、一週間とはしないキリの悪さが気になって。イリス先生か、もしくは先方に、何かスケジュール的な都合があるのでしょうか」
「そんなとこだよ」
坂東は嘘をついた。
六日後は、ちょうど九月の最終日だ。九月が終わってしまう前に、カタを付けたかった。
いいことはだいたい九月に起こる。
坂東だけのくだらないジンクスだが、九月が終わってしまう前に、秋津を新しい場所へ送り出す義務が自分にはあると感じた。罪悪感の軽減、という、あの祠にまつわるいわれを思い出す。やろうとしていることが、あの祠に子供を捨てていく親と同じである点を皮肉に感じたあと、すぐさま、アホか、と自分の考えを修正した。秋津は赤の他人である。
「覚悟しな。今夜から、朝も夜もないよ」
そう告げると、秋津が笑った。
「望むところです。私は天才ですから」
彼女が眼鏡を押し上げる。その奥にある目が、決意と闘志で光っていた。
「もし音を上げたら、近所を裸で百周してやりますよ」
全裸の後ろ姿が、朝のリビングに立っている。
別に直視はしたくないので坂東は顔を背けていたが、視界の端でも、朝日がさんさんと降り注ぐ窓際で、正確には裸に眼鏡だけをかけた姿のまま仁王立ちで窓の外を見つめる秋津の肩が、屈辱で震えているのが見えた。
「どうした」
若干いたたまれない気持ちを抱きながら、坂東は片手に持っている革ベルトをもう一方の手のひらに打ち付けた。
「裸で百周するんだろ」
「ええ、やりますとも」
頑とした声でありつつも、語尾が震えている。
「首に『私は昨晩のうちに覚えるよう命じられた大・小アルカナを、半分も覚えられなかったうえに、その事実を隠蔽するためにテストでカンニングをしたウジ虫です』とでも書いた札を提げて走ればいいですか?」
「当てつけがましい言い方すんな。お前が自分で決めたんだろ。あんたの全裸マラソンなんて私は見たくも何ともない」
グウウ、と秋津が涙まじりの呻きを漏らした。
「冷静に考えたら、そんなことをすれば普通に捕まってしまう」
「関係ないよ。行け」
「どうなっても知りませんからね」
「こっちの台詞だよ」
結果としては、その日の秋津が自身の誓いを実行することはなかった。代わりにその革ベルトで罰を与えてくれと言われたが、坂東は、革ベルトを手のひらで打ち鳴らしながら、自分で決めたことすら実行できないうえに、別の罰で帳尻を合わせようとしている秋津を蔑みのまなざしで見るのみにとどめた。
秋津は唇を噛んで机に向かい、坂東が仕事で外出して夜に戻ってきた時には、大・小アルカナの種類を八割がたは答えられるようになっていた。
目標を定めることにした。日本占い師協会が認定している、タロットカード士の資格試験をパスできる水準に達することだ。
難しい資格ではない。真面目にやれば、六日間と言わず、それ以下の学習時間で大半の人間が試験に合格するだろう。
しかし、過去問を解かせてみてわかったのは──秋津が想像以上に、勉強というものが不得意であるということだった。
意外だった。これまでの言動や、マンションの廊下でこちらを欺いた一件からして、案外、地頭は悪くないのではと思い始めていた頃だったからだ。
彼女はとにかく、とりあえず覚える、ということができないようだった。覚えてから後で理解を深めればいいものを、先に意味を理解しようとして、そのキャパシティがないからこんがらがる。そんなことの繰り返しだった。
坂東側の教える能力に問題があるのかもしれない。しかし、まだ雇われだった頃に何度か後輩への指導は経験したことがあり、秋津は今まで教えた中で最も、覚えが悪かった。
ペンを持つ秋津の手汗でノートが湿っていく。背中を丸めて、子供でも解けるような問題と必死に格闘している彼女の姿を見て、坂東は思った。
ああ、彼女には本当に、他のものが何もないのだ。
これほどまでに占い師になりたがるのは、たったひとつだけ与えられたギフトを、彼女なりに磨き抜こうとしているからなのだろうか。
痩せた肩甲骨がTシャツの上に浮き出ている背中の後ろで、坂東はその姿を眺め続けた。
(「4」へ続く)