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第9回

午前三時のサイキック 4

  

「先生、先生」
 ヒールの音を鳴らしてあきが後をついてくる。朝のS駅地下街は通勤の人々で混雑していた。途中で「あっ」という声と共にパンプスが脱げる音が聞こえて、秋津の靴のかかとが溝か何かに嵌まったのを察したが、構わずばんどうは上りエスカレーターに乗った。ワンフロア上のB1に上がると、入り組んだ通路の両側に金券ショップやガレージキット屋が並ぶ雑多な空間が目の前に現れた。
 目的の店の前に辿り着き、坂東は足を止めた。
 レコード店の隣に位置するフロア最奥のその店は、煤けたサーモンピンクの内装で、ぱっと見は何かいかがわしいエステ店のように見える。しかし入り口には料金を書いた腰の高さの立て看板があり、そこと入り口上部の両方に、昔の少女漫画を思わせるレトロエレガントな書体で、
『占いの館 パールヴァティ』
 という店名が確かに記されていた。『パー』の長音符が『パ〜』と波線で書かれているところが、相変わらず、膝から力が抜けていきそうなダサさで坂東は目を閉じた。
「ここが、そうですか」
「文句あんの」
「いえ。すごくいかしてます」
 そう声を潜める秋津の顔が嘘偽りのない興奮で紅潮している。どうかしているセンスに顔をしかめながら坂東がカウンターの呼び鈴を鳴らすと、中から太った中年女が現れた。
「あらっ」
 開口一番、女は目を丸くして、坂東と秋津を交互に見比べた。
「まあまあ。坂東先生お久しぶり。お元気そうで良かったわあ」
 甲高い猫撫で声で微笑む目尻に、こってりとファンデーションの皺が寄っている。この女の「先生(センセ)」という呼び方が昔から気に入らない。坂東が通り一遍な挨拶を返すと、女はさらに目を糸のように細めて秋津に顔を向けた。
「まあ、可愛らしいお嬢さんね」
 秋津が口ごもり、そのままいつものカチコチの動作で「初めまして」と頭を下げかけたが、被せるようにして、女が「それにしても」と笑顔のまま坂東へふたたび向き直った。
「本当、お久しぶりで嬉しいわ。ずっと心配してたのよ」
 坂東が微笑みながら「何をですか?」と返すと、女は、
「やだ」
 と目を見開いて口を片手で覆い、もう片方の手で「やだもう」とこちらを払うような仕草をして笑った。
「別に何ってことはないですよ。やだわ。ねえ? お嬢さん」
 と、また秋津のほうを向く。
「そんな緊張しなくてもいいのよ。私は坂東先生と違って、しっかりしてませんから。人からよく、ちょっと抜けてるね、って言われるの」
「秋津」
 坂東は女の言葉を遮り、この女性の名と、彼女がここのオーナーであることを改めて秋津に説明した。今日から世話になる相手だと事前に秋津には伝えていた。女と秋津が挨拶を交わし、女は「立ち話もなんだから」と坂東たち二人を店の中へと誘った。
「さっそく秋津さんにはここでのお仕事のやり方を説明させてもらおうと思うんだけど、せっかくだから坂東先生も少し、お茶でも飲んでいってくださいよ。いろいろお喋りしたいわ」
 いえ、と坂東は固辞した。
「営業中にあまりお邪魔してもなんですし、私はこれで」
 女が笑って店内を見回した。
「何言ってるの。これが忙しそうに見える?」
「また改めて」
「いつもそう言ってその『改めて』がいつまで経っても来ないんだから。今日もこれからお仕事の予定?」
「はい」
「売れっ子ねえ」
 女が頭のてっぺんから出るような高い声で言った。
「あやかりたいわあ。触ってみたら、何かご利益があるかしら? えい」
 と言い、女がいきなり坂東の二の腕を掴んだ。直後に女が「まあ」と口に手を当てる。
「先生。ちょっと痩せられたんじゃなくて?」
「そんなことないですよ」
「心配だわ。本当に心配。私なんてほら、このように、でぶですから」
 言って女が髪を後ろに流し、フリルの襟に縁取られた色白で豊満な胸元を見せつけた。
「坂東先生のがっちりした健康的な体に憧れていますのよ。主人などはよく『もっと食べなさい』って言ってくるんだけど、ダイエットがままならなくて困っちゃうわ。いくら男性は筋肉質な女性よりぽっちゃりした女性を好むからって、ねえ? むかし先生と二人で歩いていた時も、男の人が私のほうばかりいやらしい目で見てきて、本当に嫌になりましたわよね。先生と比べると私はずいぶん、だらしない体をしていて、ああ、本当に嫌になりますわ」
 ねえ? と秋津に乳牛のような乳を見せている。水を向けられた秋津はつっかえながら「はい」という太鼓持ちじみた相槌を返したが、流石の秋津も少し微妙な空気を感じ取ったようで、愛想笑いを浮かべる顔の端には戸惑いのぎこちなさがあった。秋津の目にはがっちりした固太りのデブにぽっちゃりしたオペラ歌手風のデブが因縁をつけているというどんぐり相撲の画が映し出されているのだろう。
「すみません、そろそろ」
 そう坂東が腕時計に視線を落としてみせると、女はまた「まあ」と口に手をやり、
「ごめんなさい、私ったら。では、秋津さんは責任を持ってお預かりしますわね」
 と言い、
「そうそう、坂東先生にお渡ししたい頂き物があるの。ちょっと待ってて」
 と、慌ただしく店の奥へと消えていった。
 彼女がいなくなった店の入り口で、秋津が小声で坂東に尋ねた。
「お知り合いと伺ってましたが、もしかして仲悪いですか?」
「色々あって嫌われてる」
「一体、何をしたんですか」
 坂東は肩に鞄をかけ直し、そして、今度こそ本当に腕時計で時刻を確認した。
「それじゃ、私はこれで」
 え、と秋津が口を開けた。
「もう、行かれるんですか」
「頑張ってね」
 言うと、彼女は無言になった。こちらと会うのはこれで最後だとわかっているからか、あっさりとした別れにまごついている様子だった。
「あと、そうそう、これあげる」
 別れを惜しむ気持ちは毛頭なかったが、坂東は片手に提げていた紙袋から中身を取り出した。袋の中から出てきた物を見て秋津はまばたきをすると、訝しげな顔で言われるがままに、それを受け取った。
 手渡された大判の布を見つめて、秋津が言った。
「何ですか、これ。おばあちゃんの膝掛け?」
 失礼な物言いだったが、深緑の生地に房飾りの付いたこの織物は確かにそう見えなくもないだろう。ゴブラン織のストールだ。羽織ってみろと坂東が言うと、秋津は「羽織れ」と言われたにもかかわらずそれがストールだとわからなかったようでなぜか頭から被ろうとし、坂東は苛立ちながらストールを奪って、彼女の肩にかけた。
「ほら」
 両肩を掴んで、隣のレコード店のショーウィンドウに全身を映させる。
 ガラスには、深緑色の怪しげな布をまとった、胡散臭い姿の秋津が映っていた。
「あんたはさ、中身はあんななのに、なりだけはいつも妙にコンサバで、全然占い師っぽくないだろ。今日だって相変わらず会社員みたいな格好だしさ」
 坂東は考える。彼女のそうした服装は、見てくれだけはせめてまともな人間に見られたいという気持ちの表れではないだろうか。
「そういう格好の霊能者のほうが逆にホンモノっぽく見えることもあるんだろうけどさ、私に言わせりゃそんなのは怠慢だね。服装でも、香水でも、小道具でも何でもいいからどんどん使って、自分のかせを外しなよ。占いも魔法もあんたの能力も、すべては結局、ただの脳科学なんだからさ」
 ストールにしたのは、見た目とは別の意味もある。坂東は記憶の中にある〈狐〉の長い髪を思い浮かべた。ある種の能力を持った人間は得てして、長い物で身を覆うことを好むというのは坂東の経験則からくる偏見だが、そこには彼らなりの無意識的な意味があるのではないだろうかと感じている。自分にはわからない。きっと一生、わからないだろう。
 秋津の肩を叩いて、ショーウィンドウの彼女の顔に目をやった。そして、坂東は片眉を上げた。
 秋津がひどく呆けた顔で、ガラスに映る自分の姿を眺めていたからだった。
 口を薄く開き、目は、縫い止められたようにショーウィンドウの自分を凝視している。それはまるで魂が抜けたようなという表現がふさわしいありさまで、その反応の理由がわからず、坂東はわずかに戸惑った。にわかに占い師らしくなった自分の姿に見惚れていたり、または、贈り物をされた喜びからくるものだと解釈するのも無理がある、空っぽな表情だった。
 秋津の手がぎこちなく動き、ショーウィンドウに触れた。
──これが、私?
 仕草だけ見ればそんな台詞を思わせる動作だったが、秋津は無言だった。そのような姿を見ていると坂東は、職業柄、彼女の内側にある心の動きを把握したいという衝動に駆られたが、居心地の悪さを感じながらしばらく観察したあと、やがて、秋津に対してそのような興味を持ってももはや意味がないことに気付き、何も言わずに、彼女から離れた。
 自分の姿に見入っている秋津をその場に残して、坂東は背を向けた。
 歩き始めると、背後から我に返った秋津の「あ」という声が聞こえたような気がしたが、振り返らずに、坂東は地下街の角を曲がった。
 達者でな、というありふれた言葉が浮かんだ三秒後には、もう、この地下街の喫煙所はどこだったか、といったことだけを考えていた。

「坂東さん、お帰りは電車ですか」
「ええ。でも私はそこの角で煙草を吸ってから帰りますから、ここで」
「喫煙者なんだ。意外ですね」
「霊視のあとは必ず吸うことにしておりますの。受けた気を外に出さないと体が持ちませんから」
 夕方にアポを取っていた新規の客である五十代の男性と別れて帰宅すると、すでに夜だった。自宅マンションの集合ポストを開いて郵便物を取り出し、自室に帰ってまず、ノートパソコンの会計ソフトに今日の売り上げを入力した。
 夜の筋トレをして、風呂を済ませる。賑やかしにテレビを点けたが興味の持てる番組が見当たらず、夜のニュースを流しながらハードカバーのビジネス書を片手に、坂東はソファに体を投げ出した。
 いつしか、うつらうつらしていたのだろう。
 テレビから聞こえる番組の音が断片的に、夢うつつへ滑り込んできた。
──昨夜は中秋の名月でしたね。
──宅配ピザの日。千円オフ──。
──スマトラ島沖地震が──。
 地震、という文言に、ぼんやりとしたところから何かを連想しかけたあと、なぜ今ごろスマトラ大地震の話をされるのだろうと考えたのち、ああ、数年前の今日にあの地震が起きたからか、と思い至った。今日は三十日。九月最後の日だ。
 さっき風呂上がりに体重を量った際、『パールヴァティ』のオーナーの言う通り、少し体重が落ちているのを知った時のことを思い出した。どれほど鍛えても昔のようには体が大きくならない自分の老いと、満月の翌日で欠けていく時期に入った月を重ねて、どうして九月が自分にとっての福音なのかを考えた。
 良いことが起こるのはいつも九月だった。義父が死んだのも九月だったし、まだ痩せっぽっちだった頃の自分が、年齢を誤魔化して、似合わない貸衣装で飲み屋に勤めていた時に、客から「きみは凄いね。まるで超能力者だ」と言われたのも九月だった。
 だが結局、私は超能力者なんかではなかった。
 たったひとつの言葉を支えにして頑張れば頑張るほど、自分がただの凡人だと思い知らされることばかりだった。
──宅配ピザの日。千円オフ──。
 読みかけの本が手から滑り落ちた音で坂東は目を覚ました。頬に付いた寝痕をこすりながらテレビに目をやると、先ほどからしきりに流れているピザ屋のCMの中で、てんとう虫を模したイメージキャラクターが「今日は宅配ピザの日、千円オフ」と歌いながら飛び跳ねていた。「深夜0時まで!」てんとう虫がウインクする。
 ピザか。
 腹が減った。
 直後に、こんな夜更けにピザなどを食うことの不摂生さについて考えた。しかし、さっき見た体重計の数字が頭をよぎる。
 少々悩んだが、結局、落ちたぶんの体重を取り戻すことを名目に、坂東はスマホを手に取った。
 ピザ屋のホームページを開きかけて、ふと思い出す。さっき集合ポストから郵便物を回収した際、不要なチラシをポスト手前のゴミ箱へ捨てたが、ピザ屋のクーポン付きのチラシが交ざっていた気がする。
 のそのそとカーディガンを羽織り、坂東はマンションの一階へと降りた。

 エレベーターから出ると、夜中のエントランスは少し肌寒かった。
 両腕をさすりながら集合ポストへ向かい、手前のゴミ箱からチラシを拾おうと腰を屈めたところで、坂東はその体勢のまま、顔だけでふたたびポストのほうを見た。
 奥にある見慣れたポストの並びに、見慣れないものがかかっていたからだった。
 茶色い紙袋だった。
 ポストのダイヤル錠部分に引っかける形でぶら下がっている。
 さっき見た時は、なかったはずだ。不審というほどでもないが、若干、気色の悪い光景に眉をひそめたが、そのポストが自分の部屋のものだと気付いて、さらに眉間の皺が深まった。
 先日に続いて何なのだと思いながら、体から離した指でそっと紙袋の端をめくる。警戒しつつ中を覗いて、そこに、深緑の布地が見えた時、坂東はひったくるようにして両手で袋の口を開いた。
 中身は、秋津に譲った大判のストールだった。
 どういうことだと思う間もなく、袋の中に添えられた手紙を発見した。
 封筒も何もなくただ二つ折りにされた数枚の便箋だったが、折った裏面に「イリス先生へ」と汚い字で宛名が書かれている。
 秋津の字だ。
 手紙を取り出して内容を流し読みしたあと、坂東は顔を上げ、
「くそ」
 と天をあおいで悪態をついた。

 部屋に戻ると、坂東は一目散にスマホを手に取った。
 秋津の番号を呼び出し、耳に当てる。数回のコールのあと、予想通り、留守番電話に切り替わるだけだった。
 通話終了ボタンを押し、スマホをソファに叩きつけた。ボスンと弾んでスマホが転がる。ありとあらゆることが腹立たしいが、坂東は苛々と歩き回りながら煙草に火を点けると、煙を鼻から吐き出して、
──知るか。
と内心で吐き捨てた。
『突然、このようなお手紙を差し上げることをご容赦ください』
 手紙はそんな一文から始まっていた。
『せっかくいただいたものをお返しして申し訳ありません。でも、あとで品物の裏地を見て、このストールがエルメスのものだと知り、大変高価なブランド品ですので、きちんと先生のお手元にお返しすることにいたしました。

 約一ヶ月という短い間でしたが、大変お世話になりました。
 先生には心から感謝しています。にもかかわらず、今日の別れ際はちゃんとしたご挨拶ができずに申し訳ありません。
『パールヴァティ』のオーナーは個性的な方で最初は驚きましたが、話してみるといい人でした。ご紹介いただき、ありがとうございます。オーナーは私にとても良くしてくださり、そして、本当なら、明日も明後日も、この先も、きっと親切にしてくれたのだろうと思います。

 妙な言い方ですみません。これを読んできっと、手紙の前で眉をひそめていらっしゃるでしょうね。
 ですが、ごめんなさい。これからさらに、先生が眉間にシワを寄せるような話をいたします。
 結論から言うと、私は本日で、『パールヴァティ』を辞めることにしました。
 おどろかれていますよね。辞めるも何も、初日ですから。正確にはバイト一日目でいきなりブッチするという形です。
 オーナーはまだ何も知りません。私が勝手にそう決めただけです。
 ご紹介いただいたのに、お顔を潰すことになって、本当に申し訳ありません。
 こうしてお詫びの手紙を差し上げる以上、なぜそうなったかという経緯もお伝えするべきかもしれませんが、ここから先はきっと先生にとって、不要な情報ですので、もし、一身上の都合という言葉でご理解くださるなら、この先はどうか、お読みにならないでください。
 ここでこの手紙を読むのをやめて、馬鹿な奴が馬鹿なことをして、恩を仇で返したという事実に対する私からのお詫びだけを受け取っていただけましたら幸いに存じます。
 そして、私のことは忘れてください。
 改めて、本当にありがとうございました。弟子入りという時代錯誤なお願いを承諾してくださり、多くのことを教えていただいたことに、厚くお礼申し上げます。
 イリス先生のますますのご活躍を、心からお祈りしております。

 では、ここからは蛇足になります。
 私がなぜ、せっかくご紹介してくださったお店を一日で辞めることになったかについてをお話しいたします。
 夢が叶ったからです。
 私の夢は、占い師になることでした。
 あのようにしてデビューさせていただいたおかげで、いみじくもその夢が本日、達成されたのです。
 何を馬鹿なことを、とお笑いになるでしょう。その通りです。初日という駆け出しも駆け出しの状態で、占い師になったなどと発言することが本当に、お笑い草だと重々承知しております。
 でも、先生からいただいたストールをはおった自分の姿を見たあの瞬間に、私の心は止まってしまいました。
 私はこれ以上頑張れません。
 もう解放されたいのです。
 私の夢は占い師になることでした。
 その気持ちだけで、ここまでやってまいりました。

 感謝を込めて。
 どうかお体にお気をつけください。』

 ふざけるなと呟いて、坂東は蒸気機関車のように煙草をふかしながらリビングを歩き回った。
 意味がわからないうえに行儀が悪すぎる。何がどうなったのかは知らないが、手前が紹介しろと言っておいて、人の顔に泥を塗るとはこのことだ。こちらが仮にお優しい人間だったらこのまるで自殺か失踪を仄めかすような文章に秋津ちゃんいったいどうしたのと気のひとつも揉んでやるのだろうが、残念ながらこんな自己完結の胸糞悪い手紙を寄越すくらいならいっそ黙って消えてくれとしか思えなかった。
 そして坂東はさらに不愉快な事象に思いを馳せ、沈痛の面持ちで目を閉じた。『パールヴァティ』のオーナーであるあの白豚女の顔が頭に浮かぶ。こちらが人材紹介で恩を売るならまだしも、あの女に対して恥をかくのはごめんだ。
 今ならまだ間に合うかもしれない。秋津の首根っこを掴んで──何ならあいつが突っ返してきたこのストールで首を締め上げて──引きずってでも『パールヴァティ』に出勤させれば、初日で飛ぶカスを紹介したという恥は少なくとも回避できる。
 だが、と坂東は目を閉じたまま、さらに眉根を寄せた。電話に出ない秋津をどうやって引きずり回せばいいのか。あいつの住所など知らない。『パールヴァティ』のオーナーなら雇用契約書等の関係で知っていると思われるが、当の相手に事が露見するのを避けたいのだから尋ねられるわけがない。
 苛々と頭を掻きむしって、灰皿に煙草をなすりつけたあと、坂東はなぜかベランダに出た。月を見上げる。九月最後の月が乳白色の光で坂東を照らし、坂東は頭の処理を終えたあと、部屋へ戻ってスマホを取った。ついでにノートパソコンで、とあるBGMを流すのも忘れなかった。
 0時近いにもかかわらず『パールヴァティ』のオーナーは数コールで電話に出た。
先生センセ()?』という第一声のうしろにおそらく『セックス・アンド・ザ・シティ』か『ギルモア・ガールズ』と思しき洋ドラの音声が小さく聞こえる。どうせ荻窪の家に夫をほったらかして江古田のマンションでアイスクリームでも食っているのだろう。
「夜分にすみません」
『構いませんよ。どうかなさって?』
「今ですね、歌舞伎町で、とある歌手志望の子と飲んでるんですが」
 YouTubeで流している雑踏のBGMを背後にそう言うと、坂東は、普段は滅多に出ない陽気な含み笑いの声を漏らした。
「すみませんね、こんな夜中に」
『いいえ。それで?』
「その子、大阪出身でこっちに出てきたばかりでして。夜、働ける店を探してるそうなんですが、私はその方面は疎いもんで。それで今日、オーナーとお会いしましたから、オーナーならご存じかと思い至りましてね」
『坂東先生、酔ってらっしゃるのね』
 こちらの脇甘(わきあま)な様子と、頼られたことの優位性にまんざらでもないものを感じているような呆れ声で相手が言った。
「すみません」
『いいのよ。その子、イケメン?』
 性別については何も言及していないのに、勝手に男子だと解釈している。
「美形ですね。派手顔で、夜臭強めな感じです」
『じゃあ、〈ディエゴ〉か〈サバービア〉がいいわね。ちょうどもうすぐ一部が終わる時間だし、今から連れて行ってあげたらどうかしら。私の紹介だとお伝えになって』
「助かります」
『構いませんわ。こちらこそ、今日は秋津さんを紹介してくれてありがとう。とてもいい子ですね。簡単な研修のあとにさっそく接客してもらったんですけど、年配のご婦人のお喋りに辛抱強く付き合ってくれて助かりましたわ。お年寄りの相手が上手みたい』
「ああ、よかったです。ちょっとそそっかしいところがあるので心配してたんですよ。ちなみにあの子、お店に何か、黒いポーチとか忘れてなかったですか?」
『え?』
 オーナーが考え込む様子をした。
『いいえ、見てないけれど』
 よかったと坂東は言い、ソファにあるバッグを持ち上げてわざとガサゴソと音を立てて中を探ったあと、「あ」と短く声を発した。
「すみません、私の鞄の中に入ってました。同じ無印のポーチだから取り違えちゃったみたい」
 あらそう、と酔っ払いの早合点を一方的に聞かされた相手が少し困惑した声で言った。
『あってよかった』
「困ったな。これ薬入れで、あの子、夜にこれがないと困るんですよね」
 そう言うと、電話の向こうでオーナーは少し黙ったあと、
『そうなのね』
 と彼女にしては思慮深い、思いやるような声で言った。
『届けてあげたらいかが?』
「家、知らないんですよ。今LINE見たんですけど、これたぶん、店に忘れたと思って諦めて寝てますね」
『沼袋の、えっと確か──そうこれ、コーポ筧の一○二です。行ってあげてください』
「どうも」
 電話を切った。何の薬かには立ち入らない慎重さを見せるあたり、雇い主として把握しておくべき基礎疾患ではなく、抗うつ剤かピルの類だと思っている感じがした。想像に任せよう。
 坂東はバッグを掴んで家を出た。

 秋津の(うち)は馬鹿のように車で入りにくい場所にあった。
 タクシーの運転手が「めっちゃ一方通行多いですね」と苦笑いをし、焦れて途中で降りた。糞面倒臭いと思いながら歩いて向かうと、「コーポ筧」と砂色の外壁に書かれた古いアパートに辿り着いた。
 一応、集合ポストの一○二号室部分にしっかり「秋津」と見覚えのある汚い字で表記があるのを確認してから部屋へ向かった。小窓の様子から見るに室内は暗く、ドアフォンを鳴らしても反応はない。頭上にある電力メーターを睨むと、検針盤は中の人間の不在か就寝中を示すわずかな振れ方をしていた。駄目押しにドアを拳で強くノックし、気配のなさからして前者だと坂東は判断した。
 渡された手紙の内容を思ってまさか夜逃げしたのではあるまいなと考えると同時に、もしかすると、もしかしかねない、とも思った。思い詰めた文面だったし、おかしなことをしようとしている可能性がある。坂東の頭に秋津がこの玄関ドア一枚を隔てた室内で天井からだらりとぶら下がっている光景が浮かんだ。と、同時に怒りが湧いた。死ぬなら迷惑をかけずに死ね。
 アパートの表に回り、一○二のベランダに乗り出して中を覗いた。秋津のくせにカーテンがぴっちり閉じているのが頭に来たが、秋津だしもしやと窓に触れると、カラカラと開いた。こんな防犯意識の奴は東京ではなく栃木か群馬に住めと思いながら遠慮なく部屋に入ると、中は無人だった。トイレや風呂場も見たが秋津の死体はない。というか、引くほど、部屋が汚い。見たことのあるコンサバなカットソーやボトムが部屋の隅にうずたかく積もり、風呂場には詰め替え用シャンプーの空になった袋がいくつもバスタブの中に放置されていた。捨てろ。気色悪い。こんな奴に家事を任せていたのだと思うとぞっとする。
 ともかく、どこかへ行ったようだ。
 他人の自殺の可能性を考えるにあたって坂東は、そいつがそんなことを実行できる奴かどうかという判断軸を持たない。死ぬ死ぬと言う奴は死なないといった説があるが、世間一般の言説通り黙って突然実行する奴もいれば、死ぬ死ぬと言って本当にトンッ、といってしまう奴もいる。
 秋津が実際は今どこにいて、何をしようとしているのかはわからない。
 だが唯一言えるのは、仮にそれをしようとしていて、こちらがそれを止めようとするならば、時間との勝負になるということだ。
 仮に今まさにどこかで睡眠薬でも飲んで昏倒しているとしたら、指で吐かせて明日も店に出勤させる。坂東は警察という二文字を思い浮かべた。だがすぐに無意味だと却下する。毎日何百件と寄せられるそんな通報にすぐ対応などなされない。
 止めたいなら、自分の頭で何とかするしかないのだ──。
 散らかった部屋の真ん中でしばらく佇み、そして、坂東はその姿勢のまま目を動かした。
 だらしない有様の部屋は膨大な情報をたたえていたが、やがて、坂東はある一点に目を留めた。フローリングに片膝をつき、床にあるそれを拾い上げる。
 一本の黒い充電ケーブルだった。
 秋津が使っているスマホと同メーカーの純正品ではなく、根本には、コンセントに接続するための四角いアダプターが繋がったままになっていた。改めて周辺を見ると、それぞれ種類は違うが、似たような家電用のケーブルが数本、同じ状態で、床の上に散らばっていた。
 坂東は周りに目を走らせ、近くの壁に、それらにとって肝心な、コンセントの穴がないことを確認した。一応チェックすると、もっとも近いコンセント穴は窓際にあるベッドの足元にあたる位置の壁に存在した。思った通り、普通に使用するには、床の上に散らばったケーブルだとどれも長さが足りない距離だった。
 坂東は玄関へと向かった。
 靴箱も何もない狭い玄関に数歩で辿り着くと、坂東はその場にしゃがんで三和土たたきを見た。
 三和土には、見慣れた踵の低い秋津のパンプスが数足、並んでいた。
 予想通りだった。ここにあるはずのものがない。
 秋津の所持している靴をすべて把握しているわけではないが、いつものパンプスだろうが、こちらが見たことのないスニーカーだろうが、どんな靴を履いて出て行ったとしても、ここには普通、あるものが残るはずである。
 突っかけだ。
 いくら踵が低かろうと、コンビニや郵便物を取りに行くのにパンプスを履いて出かける奴は、まあいない。ましてや秋津のヒールはいつも削れやスレがなく、綺麗だった。となるとちょっとした突っかけ用に使っているサンダルやらスニーカーやらが通常ならここに残されているはずで、それが見当たらないということは、近所用の靴を履いて秋津は出かけたということになる。
 突っかけ用に使っているのが、サンダルはサンダルでも作りがしっかりしたものや、スニーカーなら別に、どこまででも行けてしまうし、そもそも精神状態が普通ではない人間なのだから、便所サンダルで隣の県まで行ってもおかしくはない。
 しかし、坂東は三和土にある秋津のパンプスを眺め続けた。見覚えのある彼女の靴を眺めながら、秋津という人間の性格を思い描いていた。
 早まったことをしようとしている人間の選ぶ場所は、おおよそ四パターンだ。
 ひとつ、思い出の場所。ふたつ、当てつけの場所。みっつ、誰かに見つけてもらえる場所。そして最後は、その逆である。
 頭の中に地図を思い浮かべる。状況と秋津の性格を踏まえると、居場所はすでに二択だった。
 だが、最後の択一ができない。定まらない。両方をあたるには、おそらくもう時間がない。ないない尽くしで〈天地のそこひの(うら)に吾がごとく〉という歌の一節を思い出し、占い師とはよく言ったものだと息をついた。
 結局最後はバクチかよ。
 立ち上がると、ドアを蹴破るようにして坂東は今度は玄関扉から部屋の外へ出た。そのままさっき待っているように指示した四つ角のタクシーまで戻ると、ふざけたことにタクシーの姿はもうなかった。
 まあいい。
 ひとつ、大きくため息をついたあと──坂東は小走りに駆け出した。筋トレはしていても、走るのはゆうに十数年ぶりだった。夜道を歩くコンビニ帰りらしきスウェット姿の若いカップルが走る坂東の姿を見てぎょっと横に退き、最後に走った時と比べてやたらと膝にくるアスファルトの衝撃を感じながら坂東は、死ね、と全方位に対して思った。死ね。私にこんな労働を強いる奴は全員死ね。と同時に、本当にすでに死んでいたらあの白豚女にどう言い訳するかなと考えながら、坂東は腹肉を揺らして夜の町を駆けた。

 辿り着いたのは夜の公園だった。
 秋津の家の近くの森林公園である。響きは良いが、歩道に沿って植えられた木々の奥は鬱蒼としていて見通しが悪く、草むらには痴漢注意の立て札が刺さっていた。走るのに良さそうな円周があるが、深夜なのでジョガーの姿もない。確か昔はこの木々のゾーンにいくつものブルーシートの住まいがあり、東京オリンピックの開催にあたって一斉撤去されたと聞く。そんな、東京でいくつもある公園のひとつだった。
 秋津の家付近であるここをA公園とするなら、B公園との二択だった。B公園は坂東のマンションの近くにあり、秋津が坂東のポストにストールを届けた足で向かったとするなら、導線としてはBのほうが自然だろう。
 しかし、大半の人間が最後の場所に自宅を選ぶ中で、そうしない者というのは、往々にして、頭の中に妙な気遣いを発生させている。自死というそれだけで他人へ多大な迷惑をかける行為を企んでいるにもかかわらず、自宅を事故物件にして大家等に損害を与えることや、家族が遺体の第一発見者になるのを防ごうと気を遣っている。秋津がどちらのパターンなのかは知らないが、何にせよ、そんなおかしな気の回し方をする奴は、ない知恵を絞って場所だけでも他人の迷惑にならないところを選ぼうとする。だが、そんな場所などこの世に存在しない。海や山に身を投じても捜索の費用や手間が発生するし、すべての土地は誰かの所有物だ。坂東はこれまでの人生で出会った、自分で自分の人生に幕を下ろした人間たちのことを思い浮かべた。彼らは絶望した頭で頑張って考えたあげく、最終的に、もっとも、個人の顔が見えないという点で迷惑をかけても罪悪感がうすらぼんやりする相手を選ぶ。国だ。
 坂東は外灯のわずかな明かりを頼りに、公園の草むらへ分け入った。
 秋津の思い出の場所など知らない。当て付けたい相手がいるのかどうかもわからない。ただ言えるのは、きっと秋津はこちらの家の近くという坂東に対する当てこすりじみた場所は選ばないだろうし、誰かに見つけてもらって、阻止してほしいと考えてもいないだろう。おそらくあのストールは、朝になってからこちらが発見する目算だったのだ。すべてが終わって、もう誰の手も及ばない場所へ自分が行ってしまったあとに。
 そうして坂東は、歩みを進めた林の奥で、相手の姿を発見した。
 周りのこずえに紛れてしまいそうなほど細い体が、木の枝の真下にあった。こちらに背中を向けていて、地表からほんの少し高いところにある足は、灰色のスニーカーを履いていた。
 うなじからは、タコ足配線の太いコードが頭上の枝に向かってまっすぐ伸びていた。
 坂東は見慣れた体が初めて見る靴を履いているその後ろ姿をしばらく眺めたあと、彼女の靴に視線を落として、また顔を上げ、自分自身で予想していた通りの、無感動な声で言った。
「エルメスじゃないよ」
 鞄の中にある、ストールの裏地に書かれた刺繍文字のことを思う。そこにある〈EMETH〉という文字はヘブライ語で「真理」を意味し、伝承では魔術師の操り人形であるゴーレムの胸に書かれ、頭文字の「E」を消された瞬間に人形はその命を失うとされている。占い師になって、人間の瞳の虹彩を指すイリスという名を自分につけた時、自分のたったひとつの能力である観察眼、(eye)を失ってはならないといった志をこめて、ストールに刻んだ文字だった。
「エルメスだったらお前にくれてやるわけないだろ。いったいどこをどう読めばそんなことになるんだ、いつもいつも」
 言うと、タコ足のコードがゆっくりよじれ、相手の顔がこちらを向いた。地面から露出した太い木の根の上に立ち、首の輪に手をかけていた秋津が、夜の森で幽霊にでも出会ったような顔をして、こちらを見つめた。
「どうして、ここにいるんですか」
「死ぬならせめて、あの店に一ヶ月は出勤してから死ね」
「なぜ、ここが?」
「それならまだ私の顔も立つ」
「なんで、ここにいるんです」
「歩くのも馬鹿らしいからタクシー使ったよ。あとで請求するからな」
「すみません、止めても無駄です」
 秋津が輪に手をかけたままふたたび背を向けた。
「帰ってください。イリス先生に迷惑はかけません」
「かかるし、かかってんだよ。頭沸いてんのか」
「帰ってください!」
 秋津が叫んだ。悲痛な涙声ではなく、荒々しい怒声だった。
「申し訳ないとは思っています。でももう、無理なんです。お願いですから、帰ってください。場所を変える気力もありませんので」
 感情を抑えているような激しく波打つ声色で秋津が言った。
「秋津」
 だんだん本格的に腹が立ってきたので、小馬鹿にする口調で坂東は言った。
「秋津、秋津ちゃん。大天才の秋津ちゃん。どうしてそんなに死にたいの。いろんなことに鋭敏すぎて、もう生きていくのが嫌になっちゃった?」
「最低ですね、先生」
 秋津が苦々しく蔑む顔をした。
「無責任さのそしりは受けますが──」
「そしり? どうやって受けんだよ。受けるもクソも自分がいなくなった後の世界で、どうやって受けんのか言ってみろ。え?」
 秋津が口をつぐみ、そのあと、言葉を落とした。
「私は、罪人(つみびと)なんです」
「罪人」
 そんなつもりはなかったが、大仰な言葉を復唱した声が、からかいの響きを伴ってしまったのだろうか。秋津が、自嘲するように空虚な声で返した。
「どうぞ笑ってください。滑稽ついでに当てっこをしますか? 私の罪が何なのか、言い当ててみてくださいよ。先生は占い師なのだから」
「さあね。人でも殺したの」
 舐めた発言に冷たく返すと、秋津は意外にも「さすが」と苦笑めいた声を上げた。
「ええ、そうです」
 秋津が顔を上げ、頭上の枝葉の間から覗く欠け始めの月を見上げた。
「私は人を殺しました」

「先生は、ドラえもんの映画を観たことがありますか」
 それが、告白を始めた秋津の第一声だった。
「けっこう泣けるんですよ、大人が観ても。中でも評価が高いのが『おばあちゃんの思い出』という一編でして。のび太と、のび太の亡くなったおばあちゃんとの思い出を描いた作品でしてね。かく言う私も幼い頃にその映画を観て、のび太みたいに私も大好きなおばあちゃんを亡くしてしまったらどんなに悲しいだろうかと、祖母が死ぬ未来のことを想像しては、怯えていました。私ものび太と同じで、とてもおばあちゃんっ子だったんですよ。

 私の家が裕福でなかったことは、前にお話ししましたね。
 理由は単純に、年金暮らしの祖母と二人きりの家庭だったからです。元はいわゆる父子家庭でしたが父が早死にし、祖母と私だけになりました。よくある話なので、それ自体に何ら思うところはありません。祖母は私のことをとても愛してくれていましたし、私は愛をって育てられた、恵まれた人間であると自負しています。

 暗い子供でしたよ、私は。
 家ではおしゃべりになる内弁慶でしたが、学校では友達の一人もいなかったですね。
 いっぽうで、祖母は明るい人でした。フランス映画が好きでね、近くの古本屋で買った『フランスマダムのおしゃれ術』みたいな本を後生大事に愛読していて、いつもマダムを気取って首に安物のスカーフを巻いていました。フランスという国に漠然とした憧れを持ち、死ぬまでにいつか、自分の足でフランスの地を踏むことを人生の夢としていました。
『何かひとつ、夢を叶えてから死ななくちゃ』
 それが祖母のモットーでした。

 言ってみたことがあるんですよ。
『私が大人になったらお金を稼いで、おばあちゃんをフランス旅行に行かせてあげる』って。
 すると、言われましたね。
『あんたが大人になる頃には、私はもう生きてない』。
 可愛くないですよね。割と愛嬌のある人だったんですけれど、やはり昔の人間で厳しい時代を生き抜いてきているからなのか、時々そういうシビアなことをサバッと言う面がありました。腹が立ったので私はそっぽを向き、彼女と同様にそっけない声で、
『いや、生きるよ』
 と強く返しました。
 希望的観測じゃありません。ドラえもんの映画を観ては、いつか必ず訪れる祖母の死に怯えたりする気持ちはありましたが、私には少なくとも、自分が成人するまで祖母は生きるだろう、という、心の底からの確信があったのです。
 祖母は『ふうん』みたいなことを言って、今度は素直な声で続けました。
『あんたの言うことは当たるからね』。
 私たちの間で、私の予言が当たるというのは、魔法でも何でもない、当たり前の共通認識だったんですよ。
 本当に当たり前の、ただそこに存在する事実だったんです。

 予言ですか?
 もちろん、当たりましたよ。
 祖母は私が二十歳になってもぴんぴんしていました。
 ただ、言葉通りの意味とは少し違いましたけどね。

 初めに気づいたのは、祖母が、傷んだ食べ物を口にするようになったときでした。
 物の少ない時代に生まれた人ですから、もともと、賞味期限が多少──いえ、そこそこ過ぎたものでも気にせず食べようとする人ではありました。
 でも、私がうっかり古くしてしまって捨てたコンビニのおにぎりを、ゴミ箱から拾って頬張っているところを見て仰天した私が祖母の手からおにぎりを取り上げると、彼女は怒って暴れました。そんな祖母の姿を前にした時、私は彼女が認知症であることに気づきました。

 当時の私たちは、祖母が受け取る微々たる額の年金と、成人した私が外に働きに出て得た給料で、生活していました。
 ご存じの通り、私は何をやらせてもロクに務まりませんでしたから、職を転々とする日々でしたが、こんな私でも一応、一家の大黒柱だった時期があるのですよ。
 働きながら自宅で祖母の介護をする日々は、正直、つらかったです。介護のヘルパーさんが来てくれることは来てくれるのですが、祖母の介護度は要支援2と低いものだったので、あまり手厚いサポートは受けられませんでした。手が回らなくなっている事実があるのだから、介護度が上がってしかるべきなのですが、祖母はなぜか、審査をしに調査員さんが訪ねてくる日に限って、普段よりも明瞭さを取り戻すのです。
 あとから知ったのですが、それって、認知症あるあるらしいですね。そういう場合の上手いやり方も世の中にはあったようなのですが、その時の私は、無知でした。
 私は疲弊していきました。
 介護で一番つらかったのは、汚い話で恐縮ですが、やはり排泄物にまつわることですね。
 なぜ、私はそれを心の底から嫌悪するほど、汚いと思うのでしょうね。身内のものなのに。自分も赤ちゃんの頃、祖母にさんざん、おしめを取り替えてもらったというのに。 

 ある昼下がりでした。
 祖母が急に、散歩に行きたいと言ったんです。
 外を見ると、うららかという言葉の似合う、小春日和でした。
 これは非常にあるまじき話ではあるのですが、実のところ、当時の祖母がそう言い出した時は、彼女を一人で散歩に行かせることが、よくありました。もちろん、本当なら私や誰かが付き添わなくてはいけません。
 けれど──疲れていたから、と言っても何の言い訳にもなりませんが──私はそういう場合、まず祖母のその日の頭の冴え具合を見て、外の天気や時間帯などから判断し、大丈夫そうだと思った時は、彼女の衣服に交通事故防止用の蛍光バンドを取り付けて、一人で行かせることが、たびたびありました。そうすると祖母はいつも、近所の平坦な散歩コースをぐるっと周って、道端で摘んだか何かした野花の束を手に、きちんと一人で帰ってくるのです。
 当時のうちの近くには、見通しの悪い車道や、川や池や歩道橋といった危なそうな場所は、これといって存在しませんでした。
 私は窓の外を見て、携帯で天気予報を確認して、また窓の外に視線を戻しました。それは特に意味のない、ただただぼんやりしていただけの、うつろな行動でした。
 けれどその瞬間、私の頭に、澄んだ世界が広がりました。
 私は祖母の衣服にいつも通り蛍光バンドを取り付け、彼女を送り出しました。行ってらっしゃい、とも、気をつけてね、とも言いませんでした。祖母は玄関を出て行く際、こちらを振り返りこそしませんでしたが、私の横を通り過ぎるときに小さな声で、『ああ』と嬉しそうに呟きました。
『いい天気だ』。

 祖母はそのまま、帰ってきませんでした。
 夕方になり、警察から連絡が来て、祖母が二駅ほど離れた隣町の神社の石段から足を滑らせ、亡くなったことを知らされました。
 知らされた、なんて卑怯な言い方ですね。祖母が家を出る前、窓を見て頭の中に未来が『来た』時から、私はその日の祖母がもう帰ってこないとわかっていたんです。
 わかって送り出したんです。

 高齢で認知症の祖母がなぜ、その日に限って隣町まで歩いて行ったのかはわかりません。
 わかるのは、私が、この世でただひとり私の身に起きた良いことも悪いこともすべて自分のことのように喜んだり悲しんだりしてくれた身内を、私を愛してくれた家族を、その人がただただあるがままに認めてくれた私の能力を使って、私が殺したということだけです。
 もう、生きていかれないと思いました。ひとり残った家の中で、何度も、こう──」
 そこで秋津は言葉を切り、自分の首を括るジェスチャーをした。
「──しようと思いました。でもね、怖かったんです。祖母を殺しておきながら、自分を自分で殺すのは、怖かったんです。怖がりの私は、体のいい先延ばしの言い訳を見つけ出しました。『何かひとつ、夢を叶えてから死ななくちゃ』──祖母のモットーですよ。よりにもよって自分が殺した祖母の信条を使って、私は少しだけ自分を延命することにしたんです」
 秋津が背を向けた。
「私は報いを受けなくてはいけません。鏡に映った自分の姿を見て確信しました。今日がその時です」
 坂東は何も言わなかった。秋津がこちらに向き直り、
「この一ヶ月間、本当にありがとうございました。個人的なことに付き合わせてしまい、申し訳ありませんでした」
 と、頭を下げた。
 坂東は口を開いた。
「ずいぶんな奴だと思ってたけど、昔からだったんだな。手前勝手なのは」
「──」
 言葉もなく、秋津がふたたび頭を下げた。
 二人とも、しばらく無言だった。林の中を通り抜ける夜風が吹き、木々の枝葉と坂東たち二人の髪を揺らした。あたりには、これまでこちらの気配に息を潜めていたらしき虫たちの声が、おずおずと遠慮がちに満ちはじめていた。
 やがて坂東は、足を前に一歩、踏み出した。
「え──」
 秋津が顔を上げた。落ち葉を踏み締める音と共に坂東は一歩一歩、秋津に近づき、秋津が戸惑いの顔で、
「何ですか。来ないでください」
 と片足を後ろに引いた。そのとたん彼女の靴が足元の木の根にぶつかり、よろけてうつむいた秋津が再度、顔を上げた時、すでに坂東は秋津の真正面に立っていた。
「どいつもこいつも」
 言って、坂東は手を振り上げた。秋津は瞬時に身を固くしたが、すぐさま、甘んじて受け止めるように両目をぎゅっと閉じた。
 それから、秋津は虚をつかれた様子で、静かになった。
 坂東の腕の中には、秋津の痩せた体があった。
 包み込むように、坂東は秋津を抱きしめていた。
 痩せた体は、しばらく動かなかった。しかし、やがて小刻みに震えはじめ、そのあと、息を吸うために大きく膨らんだ。
「何なんですか、一体」
 しゃくりあげながら秋津が言う。
「もう、やめてください。手紙なんて書いたこと、謝ります。先生がここを突き止める材料なんて残さなければよかった。こんなふうに止めてほしかったわけじゃないんです。本当です」
 秋津の肩がいよいよ大きく上下しだす。
「迷惑かけて、ごめんなさい。本当に本当に全部、ごめんなさい。全部謝りますから、もう許してください。私をもう、行かせてください」
 言葉と裏腹に、秋津が坂東の背中にすがりついた。
「私は、のび太です。馬鹿なのび太ですよ。でも、先生は私を占い師にしてくれた。先生は、私にとってのドラえもんです」
 坂東の肩が秋津の涙と鼻水で湿った。
「先生」
 ぐしゃぐしゃの声で秋津が鼻をすすった。
「もしかして、もしかしてですけど──もしかして、私──生きてていいんですかね? いや、そんなわけない。そんな安い許し、あるわけない」
「秋津」
 坂東ははっきりと、力強い口調で言った。
「私が一番好きなカードが何か、知ってるか」
 秋津が鼻を鳴らし、首を横に振った。
「〈吊られた男〉だよ。今のお前なら、その絵柄の意味を知ってるだろう」
 言うと彼女は黙り込んだが、少ししてから涙を飲み込む喉の音のあとに、小さな声が発せられた。
「『報われる努力』」
「逆位置なら?」
「『徒労』」
 言ったあと、秋津は唇を結んで、もうひとつ言葉を落とした。
「──『無意味な自罰』」
「そうだ。よくできたじゃないか」
 坂東は秋津の頭を軽く叩いた。
「あのカードは、木の枝から男がぶら下がってる。奇しくも今、お前がやろうとしてることと同じだよ。でも、正位置のあの男は足から吊られて、逆さ吊りになっている。そういう意味だと、首吊りをしようとしてるお前の姿は、むしろ逆位置的とも言える。正位置と逆位置で、意味は反転する。でもね、忘れちゃいけないのは、カードは自分の意志でひっくり返せるってことだ」
 坂東は秋津を抱きしめたまま、彼女の後頭部の髪をわし掴みにした。
「自分が許せないなら、それでいい。耐えられないからおさらばするのでも、罪や痛みと共に生きていくのでも、好きなほうを選べばいい。でもな、死んで何になるんだ。お前が罪人だっていうなら、償うために生きる道もあるんじゃないのか。え? 秋津」
 坂東は秋津の鼻をつまんだ。
「お前には、誰かのために使うことのできる命があるんだからさ」
 鼻をつままれても秋津は無抵抗だった。そのままツマミを回すように左右へ軽くひねってやると、秋津は急に堪えられなくなった様子で湿ったえつを上げ、ずるずると坂東の足元に崩れ落ちた。
「答えは出たな」
 坂東は地面にしゃがみ、秋津と視線の高さを合わせると、ポケットから一枚のカードを取り出した。
 そして坂東はカードを自分の顔の横にかざし、言った。
「秋津。私と契約しろ」
 膝に手をついてうなだれている秋津が「……え?」とこちらを見上げた。
「お前は今、ここで死んだ。お前が本当に罪人かどうかは神でも裁判官でもない私にはジャッジできないが、救われたいなら、今後の命を他人のために使え」
「それは、どういう──」
「このカードにサインしろ」
 重ねるように言うと、意味が飲み込めない様子の秋津が坂東のかざしているカードを目で追った。坂東はそれを制し、片方の手で秋津の眼鏡をそっと外した。
「何を──」
「見る必要はない」
 秋津の眼鏡を折りたたんで自分の胸ポケットに入れ、代わりにそこから取り出した安物のボールペンを秋津に握らせた。
「お前は今後、自分のその目で何も見る必要はない。目を使うのは私、坂東イリスの役割だ。いいか、これは悪魔の契約だ。魂に刻みつけるつもりで、そこに自分の名を記せ」
 物々しく、オカルティックな言い回しに、秋津がたじろぐ表情をした。眼鏡のない姿を初めて見たその顔が、暗闇の中で困惑に目を泳がせていた。
「秋津!」
 坂東は怒鳴った。跳び上がる勢いで肩を跳ねさせた秋津がこちらを見る。
「私が信じられないのか! どうなんだ!」
 怒声を浴びせると、秋津はしばらく目を白黒させていた。
 しかし彼女は、やがてぐっと唇を引き結ぶと、「ええい」とやけくそ気味の声でペンを片手に坂東の手にあるカードへ向き合った。
「恫喝して、よくわからないものにサインさせて。これじゃまったく、ヤクザの手口ですよ」
 文句を言う声に少しだけ普段の調子が戻っている。眼鏡を取られた秋津が、夜の林の暗闇の中、顔の至近距離にあるカードを前に目を細める。どうやら相当に視力が悪いようだ。
 秋津のペンが乱雑に走った。最後の字を書き終えたカードを坂東は翻し、汚い字でそこに書かれた彼女の本名を見て、坂東はにっこりとカードを顔の横で表に向けた。
「契約完了だ」
 坂東は死者を歓待する悪魔のように両腕を大きく広げた。
「さあ秋津、もう一度、感動的なハグといこうじゃないか。誓いの抱擁だ。イリス先生の胸に飛び込んできてごらん」
「何を言ってるんですか。気持ちが悪い」
「いいや、気持ちいいさ」
 言って、坂東は、憎まれ口を叩きながらもその場を動こうとはしない秋津を自分から抱きしめた。
「きっと」
 秋津の背中に回した両手を、彼女の腰の位置に下ろす。
「すっごくね」
 そして坂東は自分の手首を掴んで腰を落とし、万力のような力で秋津を上に持ち上げた。
「え?」
 頭上から声が降った。その声が発せられた時、秋津の体はすでに地表から数十センチ高い場所にあった。
 首には、先ほど秋津が自分で輪っかにしてぶら下げていたタコ足コードがかかっていた。
 フックにコートを掛ける要領で首縄に引っ掛けられた秋津が、
「え?」
 と再度、当惑の声を発した。
「え?」
「長々話してもらったのに悪いけどさ、すまん、途中からほとんど聞いてなかったわ」
 秋津を持ち上げた格好のまま、白けた気持ちをもはや隠さない真顔で坂東は言った。
「眠たい話をぐだぐだぐだぐだ聞かせやがって。何が罪人だ。てめえのバアちゃんに詫びるより先に、はた迷惑さをどうにかしろよ。と言いたいところだけど、もういい。望み通り、お前は死ね」
「何を言ってるんですか、ちょっと」
 ゆるく顎下にかかったコードの輪を両手で掴み、空中で秋津が上体をよじった。
「何動いてんだ。まさかお前抵抗してんのか」
 いや、いやいやと秋津が口早に呟きを放った。声色には、にわかな焦りと、現状をまだ認識できていない様子の、冗談を諌めるようなふしがあった。
「ちょっと、どういうことなんですかこれ。ど、」
 秋津はそこでなぜか、引きつったような空笑い声で噴き、坂東の頭に唾がかかった。
「どういうことなんですか、これ、ちょっと」
 坂東は無言で一瞬だけ腕の力を解いた。秋津の体が自重で一気に下に落ち、首に軽くコードがかかるかたちで寸止めされた秋津が「だああっ」と恐慌の叫び声を上げた。
「おや、おかしいねえ。叫び声が聞こえたよ。空耳かな」
「何のつもりなんですか、先生!」
「罪を償いたいんだろ?」
 言って坂東は、秋津の腿裏を左腕でがっちりとホールドしたまま、先ほどサインがなされたカードを、頭上の彼女の眼前に掲げた。
 秋津の自宅に残されていた、領収書だかレシートだかでぱんぱんになった財布から抜き取ってきた、彼女の国民健康保険証だった。
 裏面にある臓器提供の意思表示の欄には、しっかりと、先ほどなされた彼女の署名があった。
「お前が自殺の手段に首吊りを選んでよかったよ」
 冷めた声で坂東は言った。
「飛び降りとかだったら、あとに残せるものは何もないからな。喜べ。首吊りならワンチャン、脳死判定で他人様に臓器を献上できるぞ。お前のバアさんだかジイさんだか知らんが、人ひとりぶっ殺した罪を償いたいんだろ? 角膜やら腎臓やらを大盤振る舞いして、複数名の命を救えば、清算どころか還付が来るよ。良かったな」
 秋津は言葉を失ったあと、両手で首のコードを握ったまま、坂東の腕から逃れるようにビチビチと暴れた。首にコードが少々食い込んでいるせいで掠れて聞き取りにくいが、坂東には耳慣れない言葉で悪態らしきものが聞こえた。西の地方の訛りがあった。やたらと堅苦しい敬語で喋ろうとするので察しはついていたが、もともと訛りがあるようだ。
「死にたいんだろ?」
「こんなのはおかしい!」
 坂東による拘束を解こうと秋津がもがく。
「あのまま行かせてくれたらよかったんです! あたかも希望があるように人を乗せてから、突き落とすなんて! 私をいたぶってるんですか!」
「あんた本当に目が悪いんだね。話の流れの先入観で、あのカードがタロットに見えでもしたのかい」
「わかった、わかりました、いったん降ろしましょう。いったん地面に降ろしてもらって、仕切り直させていただいて、そしたら私が私自身のタイミングで、改めてアレしますから」
「いい眺めだ。つくづく私は、あのカードの絵柄が好きみたいだよ。吊られた男。意味は、『報われる努力』。こんな夜更けにはるばる駆けつけた甲斐があったね。人がくたばる瞬間なんて、この私でもそうそう見られるもんじゃない」
「この人殺し!」
 じわじわと鬱血しつつある顔で秋津が怒鳴った。
「こんなことしたら、あなたも殺人罪ですよ!」
「誰が見てる? 朝にでもならなきゃ人目につかない場所をお前が選んだんだろ? もしこの大騒ぎで誰かに見られてたとしても、あんな遺書めいた手紙まで残ってるんだ。心当たりの場所に駆けつけて止めようとしたけど間に合わなかった、って涙ながらに言い訳でもするさ」
「ふざけるな!」
 かきむしる秋津の爪が坂東の二の腕に食い込んだ。
「ええ加減にせえよ、この筋肉ダルマ! そんなんやってみい、怨んだるからな。一生恨んだる」
「何て? 関西訛りは聞き取りにくくてかなわんどす。そんなことより、『パールヴァティ』のあの白豚にどう言い訳するかを考えてくれよ」
「……インチキデブが……!」
「えらい上品やね」
「……その気色悪い関西弁を、やめろ……!」
「気持ちいいらしいぞ、首吊りは」
「ヤダーッ!!」
 秋津が天を仰いで絶叫し、坂東はひとしきり爆笑したあと、顔から笑みを消して言った。
「ま。真面目な話、〈吊られた男〉ってカードは、タロットナンバーの十二番。そのひとつ前には、十一番の〈正義〉がある。正義によって罰を受けるか否かの判断が行われたあとに、吊るしという名の刑罰があるんだ。そして並びとしてそのあとに待つのは、十三番の〈死神〉。つまり〈吊られた男〉ってカードは、ジャッジと死のあいだに挟まれた臨死体験によって、道を得ることを示してるんだ」
 秋津を見上げながら、坂東は続けた。
「お前がこの行為によって、どうなるかはわからないよ。十中八九死ぬだろうけど、神に愛されていれば、」
 いや、と坂東は言葉を切った。
「──嫌われていれば、万にひとつ、縄が切れるかもしれないね。安心しな。サインをもらった臓器提供意思欄の、イエスの箇所には私がマルを付けといてやるよ」
「イリス先生」
 死刑が確定したかのように上空を見上げて泣いていた秋津が、汚れた顔で坂東を見下ろし、言った。
「ごめんなさい」
 何を最後に殊勝になっているのだか。
「さあ」
 坂東は腕に力を込め、弾みをつけるために秋津をもう一度高く持ち上げた。
「いい夜だ」
 そして坂東は、天高く彼女を持ち上げた腕を、一気に離した。
「それじゃ元気に、行ってこい!」
 夜の林に、低く鈍い音が鳴り響いた。

「5」へ続く)

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