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第3回

スタンドプレイ  後編

 北口改札を出ると、女性はまっすぐともの家とは正反対の方面に向かった。
 周りには終電を降りた北口利用者がちらほらおり、智子は彼らに交じって彼女のあとをついていった。
 しばらく高架沿いの明るい居酒屋通りを歩いた。
 ほどなくして暗い横断歩道に辿り着き、渡ると、そこから周りの人間は次第に各自の帰宅ルートへと分かれていった。
 夜道は茶髪の女性と智子の二人だけになった。
 茶髪女は相変わらずスマホをいじりながらずんずんと歩いている。五メートルほど後ろを歩く智子には気づいていないようだ。静まり返った道には智子のハイヒールの靴音が鳴り響いている。この甲高い音は相手の耳にも聞こえているはずだが、スマホに集中していて意識には届いていないのかもしれないし、気づいたところで単に帰る方面が同じ女が同行していると思うだけだろう。
 すると女がポケットに片手を突っ込んだ。何かを取り出し硬い音が鳴る。彼女が吐き出した煙が智子のもとにも漂ってきて、歩きタバコを始めた女の背後で智子は、彼女が喫煙者であることに意外さと納得の両方を感じた。
 彼女が一本目を吸い終える頃だっただろうか。橋に差し掛かった。じょうりょくちょうの北側に流れる大川に架かる、渡りきるのに三分ほどを要する長めの橋である。
 タバコの吸い殻を地面に放って橋を渡り始めた彼女の後ろで、智子はそこで初めて、少々うんざりと正気に返りかけた。
 ──遠い。
 駅からあとをつけ始めて、もうすでに七、八分は経過している。まさかこの女の家がこんなに遠いとは思わなかった。貧乏学生か何かで、駅から離れた家賃の安いアパートにでも住んでいるのだろうか。もしくはへんな場所に位置する実家に暮らしているのか、または、本当はあの常緑町は最寄駅ではなかったが自分の路線の終電を逃して仕方なくあそこで降りたのだろうか?
 想像しながら智子はだんだんと、自分の行動が馬鹿らしく思え始めた。 
 寒い。十二月である。もう帰ろうかという考えが頭をもたげた。
 だが、自分の家に帰るとしてもすでに結構な距離がある。智子は橋のたもとで束の間迷ったあと、前に足を踏み出した。コンコルド効果という言葉が頭に浮かんだ。ここまで来たのだから、もはや手ぶらでは帰れない。
 智子は橋を歩いた。川からの風が吹きすさび、マフラーをしていない智子は凍えた。先ほどまでは頭に血が上っていてあまり感じなかったが、やや冷静になってみるとを上げたくなるほど寒い夜だった。ただでさえ痩せ形の智子の体からはすぐさま熱が奪われていき、あまりの寒さでますます目の前の背中についていくことしか考えられなくなる。雪中行軍をする兵士も、こんな気持ちで思考が狭窄していくのだろうか。
 ようやく橋を渡りきると、住宅街に入った。
 智子がすっかり凍えた一方、茶髪女は少しだけ寒そうに首をモッズコートに埋める姿勢を取るのみで、悠々とスマホを触りながら歩いている。
 彼女の上着のフードを縁取っている暖かそうなファーを羨ましく思いながら、智子は少し歩調を緩めた。さて──もうそろそろ慎重にならなくてはいけない頃合いだ。駅からも遠く離れた、こんな寂しい住宅街である。駅からずっと同じハイヒール音が自分の後ろをついてきていることを、相手が不審に思い始める頃だろう。智子は相手から距離を取り、道の右側を歩く彼女とは対角の左側を進んだ。相手が少しでもこちらを気にする様子を見せたら、すぐさま横道に折れたりなどしてすっとぼけられるように。
 しかし、と智子は遠目に茶髪女の背中を眺めた。
 彼女はスマホを見ながら新しいタバコに火をつけて歩いている。
 離れているとはいえ、住宅街には智子の靴音が響いていた。どうあってもこの音を消すことはできない。
 智子は自分の爪先を見つめた。
 この靴にこんな効果があるとは知らなかった、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 もうわかっている。同じ女性なのだ。その点において気持ちはよくわかる。
 目の前の彼女がいかに無神経で、周りが見えない性分で、無防備な気質だろうとも、この足音を意識が拾わないはずがない。女性というものは夜道で自分の後ろを歩く足音には敏感だ。彼女はとうに、こちらの存在に気づいている。にもかかわらず、その足音がハイヒールを履いた女性──つまり同性のものであるというその一点だけで、こちらを警戒の外に置いてしまっているのだ。
 その瞬間、智子は妙な愉悦に駆られた。
 思い出されたのは、相川高校に赴任した初めての授業の時、こちらの背中を一方的ににらんでいるあんどうの姿を書棚のガラスに発見した際のことだった。
 卑怯者。
 卑怯者、卑怯者──。
 もはやその言葉が安藤と自分自身のどちらに掛かっているかもわからないまま、智子は茶髪女の後ろを歩き続けた。あたりには戸建てが並んでいる。その中で智子はふいに、夜闇の中で街灯の光をほのかに受けて浮かび立つ、ある物を前方に発見した。
 橋だった。
 といってもそれは、先ほど渡った大川の橋のようなものではなく、住宅街の中をちょろちょろと流れる小川の上に架かったアーチ状の小さな橋だった。もともとは朱色に塗られていたと見受けられる木造のその橋は古ぼけていて、欄干もなく、実用性としては危なっかしい気がした。
 智子はポケットに手を入れて歩きながら、通り過ぎがてらにその橋を横目で眺めた。橋のたもとには、文字の刻まれた石碑があった。なるほど、これは一種の文化財らしい。石碑の文字は暗くてよく読めなかったが、さる上人が架けた橋であるという部分だけは読み取れた。
 こんなところに史跡があったのだなと思いながら智子は視線を前に戻した。すでに周辺はとっくの前から、同じ常緑町ではありながらも智子はまったく来たことがない場所となっていた。
 住宅街にある一軒家の角を茶髪女が曲がった。
 続いて智子もそうした。さて、そろそろだろうか。するとやはり、そのあたりから相手の様子がわずかに変わり始めた。
 こちらを振り返りこそはまだしていないが、スマホをもう見ていない。片手に持ってはいるが、画面からはすでに気が逸れた様子で背後を気にし出しているのがわかった。歩調もさっきまでのずかずかしたものではなくなっていて、警戒心が見て取れた。当然だろう。いくら背後にいるのが女とはいえ、ここまで右折と左折を繰り返してなお、誰かが付かず離れずついてくることをようやく妙だと感じ始めたに違いない。
 ここが限界だと智子は判断した。
 向こうがこちらを振り返る前に、智子は自然な動きで彼女とは別方向の横道を曲がった。そのままヒールの音を高く打ち鳴らしてその場から遠ざかる。智子の頭に、背後の曲がり角の向こうにいるであろう彼女の姿が想像された。きっと立ち止まって後ろを見ながら、もう誰も追跡者のいなくなった道を前に、なんだ、あの人はやはり近所に住む女性だったのだなと安堵の息をついているのだろう。
 智子は足を止めた。そして、その場でしばらくたたずんだ。夜の住宅街は耳が痛くなるほど静かだった。やがて智子は頭に手をやり、髪を縛っていたゴムをほどくと、上体を屈めてハイヒールを脱いだ。
 ストッキングの裸足をアスファルトに降ろすと、ひやりとした。だが、思っていたほど冷たくは感じなかった。足などとうに凍えていた。
 智子は脱いだハイヒールを右手に持つと、もう足音のしない足で来た道を戻った。曲がり角から道を覗く。するともはや数十メートルは離れた遠い背中となっていたが、まだ彼女の後ろ姿が道にあった。元の調子で歩いている。智子はふたたび彼女のあとを追った。ストッキングの足裏にアスファルトの砂利が食い込み、自分がいよいよ異常な境地に立ったと自覚した。だが、そうして自分をおとしめていることに智子の心はたかぶった。
 智子はひたひたと裸足で夜の住宅街を駆けた。

 ようやく辿り着いたそこは、小さな古いアパートだった。
 外造りの階段を茶髪の彼女がカンカンと上がっていく。そして彼女は二階の奥へと進み、最奥の部屋の中に消えた。
 その姿を塀の陰から見届けた智子は道に躍り出ると、アパートの真下で裸足のままその建物を見上げた。
 達成した。
 突き止めた。
 息が上がっていた。小走りで駆けたせいだけではなかった。
 ざまあみろ。
 高揚感のままに内心で吐き捨てた。智子はアパート全体を見回したあと、なぜだか無性にそうしたくなって、スマホを取り出してその女のアパートに位置情報のピンを打った。これで今後は煮るも焼くも私次第だ。もっともこれ以上彼女に何かをする気はなかった。手の中のスマホに立てたピンが、この追跡で智子が得た唯一の報酬だった。
 それにしても、と智子は空を仰いだ。人のあとをつけるなど生まれて初めてだったが、存外これは、と智子は眉間に皺を寄せて笑った。陰湿な衝動に突き動かされてやったのは間違いない。しかし追跡の道中で見知った様々なことは、暗い歓びとはまた違う、知的好奇心の満足をも智子にもたらしていた。ハイヒールの靴音が同性相手には迷彩になるという知見。同じ町のあんなところに史跡があったという発見。ちょっとした冒険を終えたような気分で、智子はいつしか、自分の耳鳴りが止んでいることに気がついた。スマホ画面に視線を落としてピンを眺める。これは、私の小さな冒険の記念品だ。すっかり晴れやかな気持ちになり、体を屈めてハイヒールを履いた。かなり遠いところまで来てしまったが、頑張って帰ろう。そして自宅で温かいシャワーを浴びよう。そう考えて智子は顔を上げた。その時だった。
 アパートの二階から誰かがこちらを見下ろしているのに気がついた。
 あの茶髪の女だった。
 智子の喉奥でヒュッと音が鳴った。
 茶髪の女は廊下の柵に手をついて身を乗り出し、目を見開いて口を真一文字に結んだ表情で、夜道の真ん中に一人佇む智子の顔を、二階からまっすぐ見つめていた。
 智子は硬直した。
 茶髪の彼女はまばたきもせずに智子を見据えている。おそらく部屋には戻ったが追跡者の存在が気になり、確認のために部屋を出てきたのだろう。
 智子と女はしばらく見つめあった。ややあってから智子は静かにきびすを返すと、コツコツとアパートの前を立ち去った。背中に女の視線を感じる。角を曲がったところで、智子は少し足を速めた。土地勘はないが、さっきスマホでピンを打つ際に見た記憶では、右に進めば確か大通りだ。その次の角を右折し、智子はさらに歩調の速度を上げた。気づけば、智子は駆け出していた。全身を今までに感じたことのない恐怖感が襲っていて、先ほど見た茶髪女の両目が頭から離れなかった。見られた。一方的な優位が一瞬にしてくつがえるのが、これほどまでに恐ろしいことなのだと智子は初めて知った。見られた。見咎められた。智子は走り、辿り着いた大通りで震えながらしばらく彷徨さまよって、ようやく捕まえた流しのタクシーに乗った。車中でもずっと、体が震えていた。

 自宅アパートに着くと、智子は床にへたり込んだ。
 右手で自分の髪をわし掴む。私は、なんということをしてしまったのだろうか。
 今ごろあの子は警察に通報しているかもしれない。マスクをしているとはいえ姿を見られたし、タクシーにも乗ってしまった。警察に突き止められるだろうか。その場合、私はどんな罪になるのだろう。そして、あの子も警察も、私という不審者に対して今時分、どういった推測をしているのだろう。彼女の周りの男に恋愛感情を抱いて、彼女に害意を持ち近づいてきたストーカー? それとも、彼女本人を狙った同性のストーカー?
 しかしながら智子をもっとも打ちのめしていたのは、正気になってようやく自覚した、己の罪の悪質さだった。
 私は、あんな若い女の子になんということをしてしまったのだろう。
 私も女だ。夜道で人につけられるのが、どれほど怖いことかは知っている。彼女はどれだけ恐ろしい思いをしただろう。心の傷になってしまったのではないか。私は、あの子になんということを──。
 いや、と智子は顔を拭った。あの子はあまりにも無防備だった。相手が私だったからいいものの、あんなに無防備ではいずれ、痴漢やもっと酷い性被害に遭っただろう。彼女は今日を境に、夜道を警戒するようになるはずだ。今回のことは、かえって彼女のためになったのではないだろうか?
 そこまで考えてがくぜんとした。犯罪者はこうして自分を正当化するのか。
 智子は丸くなって床に伏した。口からうめき声が漏れ、フローリングに涙が落ちた。
 長い間そうしていた。
 やがて、智子は自分のその格好が謝罪の姿に似ていることに気がついた。すると途端にそんな姿勢で許しを請うて泣いている自分の仰々しさが許せなくなり、ふらつきながら立ち上がると、洗面台に手をついた。鏡には濡れた顔が映っていた。
 そして、智子は決心した。
 やるべきことがある。
 少なくともこうして泣くことではない。それだけは確かだった。

 夜が明け、智子はあるところへ一本の電話をかけた。
 通話中、何度も保留音で「エリーゼのために」が流れた。
 用件を終えると智子は服を着替えて、時計の針がちょうど昼の一時を指したと同時に家を出た。
 目的の場所を目指して土曜の昼日中を歩く。昨日の寒さとは打って変わって、真冬にしては陽光が暖かかった。歩きながら智子は黒ぶちのメガネを指で押し上げた。運転用で普段はかけないものだが、泣き腫らした目を隠すのにちょうどよかった。

 ドアベルを押すと、初めは応答がなかった。
 もう一度押すと、中から何かに蹴つまずくような物音がしたあと扉が開かれた。扉の隙間から現れたのは、これ以上ないほど敵意を剥き出しにした安藤の顔だった。
「何しに来たんだよ。帰れ」
 住所録を見て尋ねた安藤の自宅は、公営団地の一室だった。
「お家の人はいますか?」
「帰れ」
「停学中の生徒宅に家庭訪問するのはこちらの義務です」
「知るか。土曜に来んな」
「何曜日ならいいですか? 時間帯は?」
「帰れっつってんだよ」
 玄関先でごちゃごちゃ応酬していると突然、家の奥から壁を殴るような音がした。その音に安藤は少し肩を跳ねさせたあと舌打ちをし、智子を、まるで近隣住民の目から隠すように家の中へと引き入れた。
 初めて足を踏み入れた安藤の家は、散らかっていた。というより物が多かった。安藤の部屋は奥にあるらしく彼女は床のかろうじてフローリングが露出している獣道を進み、そのあとについていきながら智子は途中の部屋から垣間見えたものに少し驚いた。わずかに隙間のあいたドアの向こうで、下着一丁の中年男性が背を向けて寝転がっていた。父親だろうか。さっき壁を殴ったのは彼だろう。
「じろじろ見るな。さっさと入れ」
 安藤の部屋に踏み入る。こちらは比較的片付いていたが、やはり物が多かった。
 閉めたドアにもたれて安藤が腕組みをした。
「で?」
「調子はどうですか。自宅学習ははかどっていますか」
「普通。はい終了。もう帰って」
「睡眠はとれてますか」
「うるせえな」
「まだあと五項目あります」
 安藤が床の雑誌束を蹴飛ばした。
「満足かよ」
 安藤が顎を上げる。
「人んち見て満足か。どうせこの家見て見下したこと考えてんだろ。一方的に人んち押しかけて楽しいかっつってんだよ。え?」
 智子が一方的に他人の家を見て楽しんでいたのは今ではなく昨晩だ。
「お前のそういう顔がほんと頭にくんだわ」
「だから教師いじめをしたんですか」
 智子の言葉に安藤が眉を上げた。
「それが本題ってわけだ」
「停学の理由ですからね」
「てか、いじめって何だよ。お前が生徒に嫌われてるだけだから」
「嫌いなら無視したらいいじゃないですか。どうしてわざわざ積極的な加害に出て、停学で出席日数を損なうという不利益を嫌いな人間のために自ら被るんですか」
「もう黙れよお前。もっと陰湿で賢いやり方がお好みなら、今後はそうするよ」
 そう言って安藤は再び腕組みの姿勢に戻った。もたれたドアに後頭部を押し付けて智子から目を背ける。部屋に沈黙が訪れた。
 やがて無言を破ったのは、智子のほうからだった。
「安藤さん」
 安藤は何も言わない。
「安藤さん」
 反抗を示すように天井を見ている。
「安藤さん、あのね」
 散らかった床には安藤の足の爪と同色の小さなマニキュアの瓶が転がっていた。
「私、ゆうべ犯罪をおかしたの」
 天井を見ていた安藤の視線がゆっくりと智子に向けられた。智子は床に座り、昨晩の一件を電車の部分からすべて安藤に話した。話の途中で安藤は腕組みを解き、にわかに関心を示しだした顔でタバコを吸い始めた。曲がりなりにも教師であるこちらの前で喫煙を始めたことはさておいて智子は話し続けた。全部を聞き終えたあと、安藤は、は、と興奮の面持ちで煙を吐き出した。
「それでその子のあと付いてったわけ? やべえ! あんた、あぶねーな」
「私は思ったんです」
 智子は言った。
「私は、してはならないことをした。いくらストレスが溜まっていたからと言って許される話じゃない。というより、向ける先が間違ってる。あんな見ず知らずの女の子ではなく、原因に働きかけるのがこの場合は健全だと思いました。だからあなたに会いに来たの」
 智子は安藤を見上げた。
「安藤さん。私はあなたに謝って欲しい」
 安藤のくわえているたばこの先端が赤くなる。深々と煙を吸い込んで吐き出すと、目を細めて彼女は言った。
「犯罪者が何言ってんだ」
「あなたは絶対に許されない言葉で私の親を侮辱した。謝ってください。あれは、あなた自身の品性をも地に落とす発言でしたよ」
「謝ってください、って……」
 安藤が煙を天井に吐く。滞留する煙をしばらく眺めたあと、安藤は灰皿でたばこの火を消した。
「ともかく、面白い話ありがと。明日になったらあんたのその犯罪の件、さっそく学校に報告するわ。で、これで私とあんたはお互い様。私は差別用語で先生の親をディスったクソガキ。あんたは夜道で若い女の子をつけまわした変態犯罪者。チャラだね」
「チャラ? ゼロという意味ですか」
「まあね。タイっていうか」
「タイ。同等という意味ですね」
 智子はメガネのつるに手をやった。
「安藤さん。数学、いえ、算数の授業をしましょう」
「あ?」
「あなたは私に悪いことをひとつした」
 智子は人差し指を一本立てた。
「対して、私はあなたに何かしたでしょうか。ゼロです」
 もう片方の手をグーにする。
「この両手の指の本数を、あなたが言う『ゼロ』もしくは『同等』にするにはどうすればいいと思いますか?」
「知るかよ。ていうかいきなり何。きもいな」
「もう一度聞きます」
 智子は両手の形をそのままに言った。
「謝る気はないんですね」
「ねえな」
「そう。ではこれが答えです」
 智子は立ち上がり、安藤の頬をグーのほうの手で殴った。拳の中にさっき床で見つけたマニキュアの瓶を握り込んでいるからだろうか、体育会系とはほど遠い智子のパンチで安藤はもんどりうち、灰皿の吸い殻が部屋に散らばった。
 智子はバッグを持つと安藤の部屋を出た。リビングを通って玄関へ向かう。後ろで安藤がわめき倒す怒声が聞こえた。ふざけんな、や、学校に言う、等の台詞が聞こえる。
「何を言ってるか全然わかりません」
 言いながら智子は靴を履き、黒ぶちメガネを押し上げた。
「私、国語は苦手なの」

 公営住宅を出ると、智子は団地前の公園で電話をかけた。
 相手が出る。あくまでも緊急の用ではないことを伝えてから名乗ると、朝と同じく「エリーゼのために」の保留音が流れた。
 ややあってから、担当者が出た。朝方に電話をした時と同じ、四十代前後と思しき声の警察官だった。

 安藤宅を訪問する五時間前の早朝、智子が電話をかけていた先は110番だった。
 ワンコールも鳴らずに緊急通報の担当者が出た。智子は火急の用件ではないことを前置いたあと、言った。
「自首のご相談でお電話いたしました」
 担当者に先ほどとは別種の緊張が走ったのがわかった。相手はどういった内容かを智子に問い、智子が、
「私は昨夜、悪事を働きました。しかし自分の罪が何罪に該当するのかがわからないのです」
 と伝えると、智子の住所を聞き、最寄りの警察署へと通話を転送した。転送先で電話口に出た警察官に、智子は自分のしたことを伝えた。
『電車で背中を肘で突かれた、と』
「ええ」
『それでその女性の家までついていった……』
「はい。今考えるとなんということをしてしまったのかと罪悪感に駆られまして、お電話差し上げた次第です」
 そのあとは何度も「エリーゼのために」の保留音が挟まり、四度目ぐらいで別の担当者が出た。四十代前後の声をしたその男性警察官は智子の氏名・住所・生年月日を尋ね、智子はそれらを開示した。
『相手の方の自宅の場所は?』
「それが──もうわからないんです」
 事実だった。智子は昨晩自宅に帰った時点で、後悔から戦利品であるGPSの位置情報ピンを削除してしまっていた。常緑町の北方面であるということしか警察官に伝えられなかった。あの曲がりくねった経路を独力で思い出すのは、不可能だった。
「GPSの移動履歴を参照すればわかるかもしれませんが──」
『ああ、いい、いい。もういらんことしないでください。相手の家の場所も忘れること。いいですか、もう二度とこんなことしちゃ駄目ですよ』
 智子は眉間を寄せた。どうやら不問に付されるらしい。釈然としないものを感じたが、どうにかして相手に詫びたい旨を伝えると、そんなことをされても相手の女性が怖がるだけだから絶対に接触しないよう強く言い含められた。
「そうですか。では、もしそのような内容で通報がありましたら、犯人は私です。西にし智子です」
『はい、はい。わかりました。とにかくもう二度としないこと!』
 そう言って通話は切れた。この回線を懺悔室にするなとでも言わんばかりの応対だった。
 そして、智子は今ふたたび、同じ警察署に電話をかけている。

『またあなたですか』
 智子が名乗ると男性警察官は疲れた声で言った。
「ひとつ、追加がありまして」
『何か新しく思い出されたことがあるんですか?』
 いえ、と智子は言い、公園から公営住宅を見上げた。
「別件です」
『別件?』
「ついさっき、生徒を殴りました」
 電話の向こうが押し黙り、また「エリーゼのために」が流れた。
『あなた教師? それとも塾の先生か何か?』
 やっと通話が再開され同じ警察官が言う。
「学校教員です。相川高校に勤めております」
『そう。それじゃその件はまず学校側で審議してください。生徒さん本人から被害届など提出がありましたらその時にこちらは対応しますから』
 わかりましたと通話を終えかけた時、『ところで』と警察官が言った。
『今回はなんでそんなことしたの』
 智子は答えなかった。話すにはあまりにも消費カロリーの大きいことだった。
『とにかく、それももう二度としないね?』
「いいえ」
 きっぱりと智子は言った。
「この件に関しては、何度生まれ変わって何度同じシチュエーションに立とうと、同じことをします」
『あんたふざけんじゃないよ。人を殴ったら駄目でしょうが』
 もっともである。いい方法が他にあったに違いない。智子は通話を切った。ため息をつきながら公園の遊具に腰を下ろし、先ほど安藤に言った「わざわざ加害に出て嫌いな人間のために自ら不利益を被る」ことについて考えた。
 かくして智子の逸脱は終わった。
 その後の智子が辿った流れは智子自身、別段、特筆する内容ではないと考えている。相応の処分と人事があった。安藤を殴ったことはもちろん、彼女が学校に告発した夜道でのストーキング行為を智子が事実であると認めたためだった。
 智子は今でも時々最終電車に乗る。職場は変わったが住まいは変わらず、今も常緑町駅に住んでいる。
 あれ以来、プリン頭の彼女を見かけたことはない。
 いつもそれとなく車内で姿を探すのだが、いない。やはりあの日の彼女はたまたま、イレギュラーでこの電車に乗っていたと考えるのが自然なようだ。あの日の彼女のスマホへの集中ぶりを考えると、きっと彼女もあの日はたぶん、何かがよっぽどな夜だったのだろう。
 先日、智子は車内でモッズコートの若者を目にした。
 あの彼女ではない。男性だった。モッズコート自体も薄手の春物で、彼は友人らしき相手と扉付近でだべっていた。
『次は常緑町、常緑町』
 アナウンスが流れ、車両がスピードを落とす。電車が駅に進入し、ホームにぶら下がる「常緑町」という駅名標が窓の外に現れた時、モッズコートの若者が友人に言った。
「なあ、知ってるか」
 友人がスマホに目をやりながら「おん?」と返す。
 そこで電車は停止し、智子は下車した。電車の扉からホームに踏み出す瞬間、モッズコートの若者が発する言葉が耳に入った。
「この町、口裂け女が出るんだって」
「古っ」
「まじだって。先輩の妹の後輩が会ったらしい。マスクして黒いコート着て、背え高くて髪長くて、なんか一見スレンダーで美人な感じの女が、ハイヒール履いてアパートの下にじっと立ってるんだって」
 背後で扉が閉まりゆく。
 でな、とコートのほうが口に手を添えた。
「目が合ったら、時速40キロで逃げてくらしいよ!」
「無害じゃねえか」
 智子は笑った。噂が一人歩きしている。
 一人歩きという言葉を噛みしめながら、智子はコツコツとその場を後にした。

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