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第2回

スタンドプレイ  前編

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 ようやく見つけたタクシーに乗り込み、コートの前をかき合わせながら西にし智子ともこは運転手へ行き先を告げた。
 終電の時刻はとうに過ぎ、駅からも離れたこんな人気ひとけのない住宅地で流しのタクシーを捕まえた自分は、運転手からすれば不審な乗客だったのだろう。無言の運転席からは、こちらを推し量ろうとしているような空気が伝わってくる。頼むから話しかけてくれるな、と智子はコートのえりに首を埋めて窓の外を見ていた。だが、願いもむなしく運転手は口を開いた。いつもそうだ。智子の願いが叶った例しはない。
「お姉さん、ここら辺の道、あまり知らない感じ?」
 智子はうつむいていたが、膝の上で小刻みに震え続けている手をもう片方の手で無理やりに押さえ込むと、一呼吸置いてから髪を耳にかけ、顔を上げた。
「そうなんです。駅のこっち側はあんまり来たことがなくて」
「だよね。普通、あんなところでタクシー拾おうとしないもん。こんな時間にあんなところで一体なにしてたの?」
「いや、それが」
 智子は無理やり笑った。
「妹の家に遊びに行ってたんです。そしたらつい遅くなってしまって。終電には間に合うから大丈夫って言って彼女の家を出たんですが、結局、駅への道がわからなくて迷子になっちゃったんですよね。大丈夫と言った手前、妹に電話して泊めてもらうのも格好がつかないので自力で帰ろうと歩いてたら、さらに迷ってしまって……タクシーが通りかかってくれてよかったです」
 智子に妹などいない。つらつらと嘘が出てくる自分を遠くに感じていると、運転手が「なるほどね」と笑った。智子の話を信じたというよりも、先ほどまでは得体の知れなかった女のキャラクターが多少は知れたことによる、安堵の笑みのようだった。車内には先ほどより気安いムードが流れ、運転手はその後も智子に話しかけ続けた。そのすべてに相槌を打ちながら、智子は座席の下で、破れたストッキングの足裏とハイヒールのインソールの間に挟まった砂利をひそかに払い落とした。
「本当に駅前でいいのね?」
 運転手が再確認する。
「はい」
「こんな時間に危ないよ。家まで送ってってあげるよ」
「大丈夫です。駅からすぐなので。だから」
 智子は再度、髪を耳にかけた。
じょうりょくちょう駅前で、お願いします」
 顔に貼り付けた笑顔の裏側で、車内の暖房が効いているにもかかわらず体の震えが止まらない。どれだけ正気を保とうとしても、足の裏に食い込んだ砂利の痛みが自分のしでかしたことを突きつけてくる。
 警察に通報されるのだろうか。いや、すでにされているのかもしれない。
 私の風体は警察へどのように伝えられるのだろう。
 黒いロングコートを着てハイヒールを履いた背の高い痩せたマスク姿の女?
 智子は笑った。まるきり怪人ではないか。笑いで震えた横隔膜の振動が体に伝わり、やがて全身が大きく震え始めた。
 本当に、どうしてこうなってしまったんだろう。
 きっかけは、仕事終わりに、いつもと同じ最終列車に乗ったことだった。

 ターミナル駅であるS駅から智子が終電に乗ったその時、車内はすでに乗客ですし詰め状態だった。
「電車の中ほどまでお進みください」というアナウンスに従って、乗客たちが奥へと詰める。ドアが閉まる直前に乗り込んだ智子は彼らが空けてくれたスペースに体を詰め込み、入り口付近に陣取った。
 十二月の終電だ。車内の空気はいつも以上に酒気を帯び、女性としては比較的高身長であるうえにヒールの高さが加わった智子の目線と同じ位置にはちょうど中年男性の後頭部があった。
 ゆっくりと電車が動き出し、揺れで周りの乗客たちと体が密着する。バランスを崩した中年男性の手が智子の胸に当たった。彼は即座に「すみません」と智子に謝ったが、その目が智子の顔を見てわずかにぎょっとし、すぐにらされた。不思議に思いながら智子は車窓に目をやったが、そこに映る自分の顔を見て静かに納得した。なるほど、ひどい顔をしている。マスクの上の両目にはくっきりとクマが浮き、ぎょろぎょろと異様な光をたたえていた。
 吐き気をこらえて目をつむると、こめかみが痛んだ。耳鳴りがする。普段は家に持ち帰っている仕事をネットカフェで済ませるようになって、もう何ヶ月だろうか。自宅に一人でいると、どうしても余計なことを考えてしまう。だからこうして、まるで学生の頃のように毎日外で数学の問題用紙と向き合っている。
 でも、それも今日で限界だ。
 とたんに、智子は大声で笑い出したくなった。自分が壊れてきているのがわかる。智子の頭に、今日、学校で起きたことが蘇った。するとますます笑い出しそうになったので、別の何かを考えることにした。思い出されたのは、小学生の頃に書いた作文の内容だった。『私の名前の由来』というタイトルの文である。

『わたしの名前のゆらい
                       西智子

 わたしの名前は、智子といいます。
 生まれたときのわたしのかおを見たお父さんとお母さんが、かしこそうな子だなあ、と思ったから、この名前になったそうです。
 みんなも知ってることだけど、わたしのお父さんとお母さんは、けい度のち的しょうがいがあります。お母さんがはたらいていたしせつで二人は出あって、けっこんしました。
 みんながどう思うかはわからないけど、うちのお父さんとお母さんは、ぜんぜん、ふつうです。ふつうにしょく事も作るし、はたらいてるし、ふうふげんかもします。そうじや、ほかのむずかしいことをするときは、おばあちゃんか、区やくしょの人が来ます。
 でもときどき、買いものでお金をはらうときとかに、レジでお母さんがお店の人に手つだってもらっているのを見ると、そういうときに、やっぱりほかの人とはちがうんだなとも思います。
 わたしはこの前、おもしろい本を読みました。
「アルジャーノンに花束を」という本です。
 この小せつは、ち的しょうがいのある主人交が、頭の手じゅつをして、だんだんかしこくなっていく話です。
 かしこくなるから、とちゅうで小せつの話しかたも変わります。と中からむずかしくなるから、わたしはと中までしか読んでいません。でも、とてもいい本だと思います。
 わたしのお父さんとお母さんも、アルジャーノンの手じゅつをうけて、なおったらいいのにと思います。でもその手じゅつは、げん実にはまだありません。
 だから、わたしのしょう来の夢は、お医者になることです。
 お医者になるにはどうしたらいいのと、松田先生にききました。
 先生は、「お医者さんは理けいだから算数をがんばらないといけない」と言いました。
 わたしは算数はとくいです。国語はあまり好きじゃなくて、だからアルジャーノンもと中までしか読まなかったんだと思うけど、国語が好きじゃないからよけいに算数にむいていると思います。
 お医者になるにはお金がかかるみたいです。
 でも松田先生が「勉強をがんばったらしょう学金で大学に行ける」と教えてくれました。
 だからわたしは勉強をがんばろうと思います。
 お父さんとお母さんに話したら二人ともとてもよろこびました。』

 結局、医学部へは行かなかった。
 智子の学力では医学部に入るだけの奨学金が受け取れず、理学部へ進んだ。そこで教職課程を取り、いたのが今の高校数学教師という職である。
 進路選択に悔いはなかった。「医者になりたい」というのは子供の頃の夢で、成長するにつれ、もともとは医者になるための手段であったはずの数学に興味がフォーカスしてゆき、いつしか松田先生のような教師になるのが夢に変わった。
 私に算数の楽しさを教えてくれた松田先生。 

 相川高校に赴任した時、最初の授業で男子生徒に卑猥な冗談で冷やかされたことを覚えている。
 初めは戸惑ったが、子供のすることなので軽くたしなめて終わった。唯一、気になるといえば気になったのは、黒板に向き直った時、真横にある書棚のガラスに教室全体が映っていて、その中にいる明るい色の髪をした一人の女子生徒が、こちらの背中を無表情としか言えない目つきで射るように見据えていたことだった。
 あれが始まったのはいつの頃だっただろうか。
 初めは、自分が授業をするたびに背後でくすくすと、とある単語が飛び交うようになったことだった。
 それは、ギリシャ文字でいう最後の文字で、また、電気抵抗の単位であるオームを表す三文字の言葉だった。
 生徒たちがなぜ自分を見てその単語を発するのかは意味不明だったが、文脈的になんとなく、彼らが自分という教師に付けた仇名あだなであるのは察した。生徒が教師にニックネームをつける。ありふれたことである。しかしながら、由来が謎だった。なぜ自分がその三文字で呼ばれるのかを智子が理解したのは、ある日の授業の最中だった。
「便所、別のところ使えよ」
 突然、背後でそんな台詞が上がった。発したのは初日に智子を睨みつけていた、明るい髪の安藤という女子生徒だった。
「てめえが入ったあと、臭えんだよ」
 笑い声が広がる。智子がチョークを持ったまま振り返ると、皆がさっと目を伏せた。意味が飲み込めずに智子は片眉を上げたが、気を取り直してふたたび黒板へと戻った。すると後ろで新たに含み笑いのさざめきが広がり、その中で、またしても智子を指すあの三文字の言葉が連呼された。
 その瞬間、智子は唐突に理解した。あまりに下品なので想像もつかなかったが、彼らのいう三文字の言葉は、文字の組み合わせからして、女性の下腹部の体臭を指す言葉であるということを。
 いわれのない悪口だった。智子にはパートナーがおらず、客観的に確認するすべはないが、その手の体臭を放っているような自覚症状はない。
「臭えんだよ、ヤリマン」
 安藤のあざける声だけが耳に残った。

「気にされることはないですよ」
 そう学年主任に言われたのは、先月のことだった。
 彼女との間にある机の上には一枚のコピー用紙があり、そこには、数行の文言と共に、複数の生徒たちによる手書きの署名が印刷されていた。
『教員・西智子の辞職を求める署名』
 名前を書いている子たちには注意しておきましたから、と学年主任が言う。
 コピー用紙の文言はこう続いていた。
『西先生の授業はわかりづらいという声が、私たち生徒の間で上がっています』
 智子は用紙を見つめたまま、主任に言った。
「もしこの意見が事実なら、大学受験を控えた彼らにとっては重大な問題です」
「何をおっしゃるんですか。先生が担当されてから成績が下降したような事実はありません。しかもこれに署名してる子らは、内申を気にしてない、進学しない組の一部の生徒たちだけですよ」
 主任が続ける。
「年頃の子たちですから、くだらないことが気にさわるんでしょう。西先生はこう、何と言いますか雰囲気もすらっとされていて──」
 言いかけて主任が口をつぐむ。同性とはいえ今時、はばかるべき発言だと気づいたのだろう。
「とにかく、気にされないことです。騒ぐと余計につけ上がりますから」
 主任はそう言って智子に茶を勧めた。喉が渇いていたが、口をつける気にはならなかった。先日、校内の駐輪場で自分の自転車に乗って帰ろうとした際に、ハンドルに覚えのないコンビニ袋がかかっているのを発見した時のことを思い出したからだった。口をゆわえたコンビニ袋の中には、茶色がかった水が入っていた。それは一見、たばこで染まった灰皿の水にも見えたが、半透明のビニール袋の中に浮いている物のシルエットが透けて見えた時、智子はその場で吐きそうになった。自分がそうした反応を示したことだけは覚えているのだが、あれが本当に何だったのかを思い描くことは脳がもう拒否している。汚物としか称したくない。その日以来、智子は通勤に自転車を使うのをやめた。

 ──そして、とうとう今日だ。
 四時限目の授業中のことだった。
 近頃めっきりつやのあせた髪をひとつにまとめた姿で、智子は黒板に接点tの立式りっしきを板書していた。背後では半数の生徒が授業を無視して騒いでいたが、残り半数の真面目に学んでいる生徒のために、智子は授業を続けていた。チョークを動かしながら、騒いでいる生徒たちを注意する。するととたんに、近頃ではもう耳慣れてしまった智子に対する侮蔑的なぞうごんが背後で飛び交いはじめた。智子はそれらも無視したが、彼らに見えない位置でそっと腹のあたりを押さえた。近頃、胃が痛い。痛みと同時に血圧が下がるような感じがやってきて、乗り物酔いのような嫌なあぶらあせが出る。若い彼らのには妙な切れ味があり、毅然とした態度をつとめても、メンタルがじわじわ消耗する。
 彼らはなおも背後で智子への侮辱を続けた。智子の容姿をおとしめる言葉。人間性を批判する台詞。能力をこき下ろす発言。内容にもはや興味はなかったが、そろそろ授業の邪魔になる。チョークを置き、智子は生徒たちに向き直った。
 そして、彼らへ言った。
「出て行きなさい」
 すると、一人の男子生徒が「は?」とお調子者風の声を上げた。
 智子は続けた。
斎藤さいとうさん、田村たむらくん、松浦まつうらさん、安藤さん。私語が多くて授業の邪魔です。出て行ってください」
「帰っていいなら帰るけど」
「どぞ」
 だってさ、と男子生徒の田村が肩をすくめて、名前を挙げられたメンバーを見回した。ガタガタと椅子が引かれ、メンバーたちは笑いながら通学バッグを持って帰り支度を始めた。智子は彼らに背を向けて授業を再開した。
 すると、バッグを肩に教室を出て行く彼らの最後尾で、安藤が急にこちらを振り返って、智子に言った。
「あのさ、感情的になるのやめてもらえますか?」
 猫撫で声のようでいて険のある、奇妙なトーンの発声だった。
「だから女の教師って嫌なんですよね。感情的で。数学を教わるなら男の先生がいいです。論理的だから」
 私がいつ感情的になっただろうかと思いながら、智子は背を向けたまま返した。
「感情的か論理的かは、性差ではなく個人差です」
「男子にちょっかいかけられて喜んでたくせに」
 話が噛み合っていないうえに、喜んだことなどない。何はともあれ心底くだらない難癖だと感じたので智子がもう無視を貫こうとチョークを手に黒板へ接線の図を描き始めた時だった。
 唐突に、安藤が笑った。
「先生の親って、障害者なんでしょ?」
 智子のチョークが止まった。しかし智子は一度止めた手の動きを再開し、描き下ろしたところでチョークを置くと、安藤のほうを向いて、静かに言った。
「今、なんと言いましたか」
「知的障害者なんでしょ、しかも両親とも。あんたの名前ググったら子供ん頃の作文出てきてさ。『私の夢はお医者さんです』とか書いてたけど、結局今じゃ教師なんだね」
 作文。すぐに思い至った。智子が小学生の時に書いたあの作文は、当時の自治体の目に留まり、道徳の冊子に掲載されたのだ。冊子自体は廃刊になったがいくつかの作品はデータベース化されており、智子の作文もそのひとつだった。ネットで西智子と検索すれば、その作文が出てくることは智子も知っていた。隠したことも恥じたこともない。しかし、こんな場で、このような形で、あげつらわれるとは思いもしなかった。
「そんな親の子供だから、医者にもなれなかったし教えるのも下手なんだよ」
 安藤が続ける。
「てか、親もわかれよって話だよな。普通に考えて自分たちの間にロクな子供が生まれるかどうか。……あ、でも」
 安藤が手を打った。
「それがわからないから──」
 そして、安藤の唇がゆっくりと、とある単語を発した。
 実際は違ったのかもしれないが、少なくとも智子にはその時、彼女の口の動きがスローモーションに見えた。
 安藤の歪んだ唇が単語をつむぐ。
 それは奇しくも彼女らが智子につけた仇名と同じ三文字で、しかし、それとは比べることすらできないほど差別的な、ある用語だった。
 知的障害者を指す、許されざる単語だった。
 鬼畜の俗語だった。
「──なのか」
 その差別用語を言い終えて、安藤が笑った。
 次の瞬間、教室に大きな音が響いた。
 智子が教卓にファイルを叩きつけた音だった。
 教卓の両端に広げた手を置き、智子はしばらくうつむいていた。手が、震えていた。やがて智子は顔を上げると、乱れた髪が顔にかかるのも厭わないまま、髪の隙間から安藤に言った。
「恥を知りなさい」
「は? 何に?」
「ひとつは、重大な差別発言をしたこと。もうひとつは、他人の親を侮辱するという、人の心を著しく踏みにじる行為をしたことです」
「出たよ、そのロボットみたいな喋り方。やめてくんない?」
「あなたは」
 声が震える。怒りで脳裏が赤く染まっていた。智子は胃のあたりを手で押さえながら思った。いっそ安藤のもとに歩み寄ってビンタでもかましてやるのが正しい気がした。むろん体罰などあってはならないことだが、この場合はそれすら適切だと思えるほど安藤の発言は看過できないものだった。
 しかし、智子の中で抑制が生まれた。
 智子を抑えつけたのは、これまでの人生でつちかった、感情的になってはいけないという自分へのいましめだった。
 思い出されるのは大学の理学部にいた頃のことだ。そこは理工学部ほどではないにせよ女子比率が少なく、そして、理数的素養に性別が関係しないことは歴史が証明しているにもかかわらず、いまだに女性を下に見る傾向がはびこる空間だった。
 皆、表向きの分別があるので決して口にはしないが、こちらが少しでも感情的になると、男性同士で顔を見合わせて「だから女は」という表情で苦笑し合っていた。
 感情的になれば負ける。それが智子の身に染み付いたすべで、そして今はその戒めが、安藤を前にして智子を葛藤させていた。
「あなたは……」
 言葉が出てこない。視界がゆがんで、胃が痛む。言葉の出ない智子を前に安藤は嘲り笑いを浮かべ、他の生徒たちは好奇に満ちた目でことのなりゆきを観戦している。
 智子は内心で己を叱咤した。そして智子は深呼吸をしてから安藤をにらみつけると、彼女に向かって、口を開いた。
 しかし次の瞬間、智子は自分の口を手で押さえた。智子の内側から迫り上がってきたのは、言葉ではなかった。ぐっと胃がぜんどうし、えづき声の中で智子は口内に溢れるものを手で押さえて体をくの字に折りながら、皆の前で自分の尊厳が静かに破壊されてゆくのを感じた。

 気づけば、目の前には便座があった。
 便器の中には胃から戻したものがあり、座り込んだ脚がトイレのタイルの上で冷たかった。トイレの個室の中で、吐いた物の臭いにつられて智子はまた吐いた。便器の中に伸びた胃液の糸が切れるのを見つめながら智子は、本格的な嘔吐をトイレまで持ちこたえられたことをせめてもの幸いに感じた。
 女子トイレの中に誰かが入ってくる足音がした。
 相手は智子の個室の前で足を止めると、戸の内側に語りかけた。
「彼女たちは今、職員室で指導を受けています」
 学年主任だった。
「他の子たちからも事情を聞いていますし、おそらく停学処分になるでしょう」
 停学か。垂れた前髪を耳にかけることもなく、便器の内側にはねた汚いものを眺めながら智子は言った。
「私の異動願いは、どうなってますか」
「……検討中とのことです」
 それはそうだろう。年度末もまだなのだ。ましてや受験生を受け持つ微妙な時期であるから、教育委員会が慎重になるのも当然のことだった。
 いっそ休職することも考えた。だが、休んで異動が通る時期まで待って、それでなんになるのだろうか。経緯からして何らかの補償は下りるだろうが、奨学金を返済している智子に金銭的余裕はない。住んでいる常緑町の部屋だって、教員の家賃補助を受けて借りている。
 主任が個室の戸へ静かに手を添える気配がした。
「西先生、今日は早退なさってください。あとの授業は私が代わります」
 そんなことをすればいくら引き継ぎをしたとしても授業内容が多少は前後し、生徒たちに迷惑がかかる。智子はトイレットペーパーで口を拭い、午後も自分が出ると伝えた。
 そして智子はその日の授業のすべてを終えると、改めて学年主任と面談をした。それらが済んで学校を出た頃には、夜の七時を回っていた。
 智子はそのまま歩きで行きつけのネットカフェに向かうと、個室ブースの中で持ち帰りの仕事をした。答案にペンを走らせながらも耳鳴りが止まず、時折トイレに立ってはなぜか用も足さずに鏡に映った自分をぼんやり眺めるという行為を何度か繰り返したが、とにかく余計なことを考えず目の前の仕事に没頭するようつとめた。気づけばふいにスマートフォンが振動し、見ると、終電に間に合うべく店を出ねばならない時刻だった。智子は書類をバッグに仕舞ってフロントで精算をし、駅へ向かった。そしてターミナル駅であるS駅から、最終電車に乗り込んだ。それがすべての始まりだった。

 作文の思い出から現実に立ち返り、智子は揺れる満員電車の中で、胃の痛みをこらえながらバッグを抱え直した。乗客の隙間からわずかに覗く車窓を流れる夜の景色の速度が次第に緩やかになっていき、駅で停車した。智子の降りる駅はまだ先で、開いたドアからはただでさえ混雑している車内にまた新たな乗客が幾人も乗り込んできた。
『電車の中ほどまでお進みください』
 ふたたび先ほどと同じアナウンスが発せられた。智子はバッグをさらに小さく抱えて奥へと詰めたが、次々と乗ってくる客に押されてさらに奥へ後退した。乗客同士の密着率が高まり、押しつぶされそうになる。しかし、人波の侵攻が止まらないのでなおも奥のほうへ後ずさろうとすると、その時、智子の背中の下あたりに何か硬いものが突き刺さった。
「(──え?)」
 驚いて、智子は後ろを振り返った。
 するとそこには、一人の小柄な若い女性がいた。根本の黒い地毛が伸びた茶髪で、ずんぐりむっくりした体形をしていて、カーキ色のモッズコートにリュックサックというカジュアルな服装から、バイト帰りの女子大生というような印象を受ける女子だった。彼女は奥に詰めたい智子の真後ろにいるにもかかわらず、一心不乱にスマートフォンを見て画面に高速で指を走らせている。彼女の背後には人がまだ何人も入れるようなたっぷりとした空間があって、彼女が『電車の中ほど』まで進んでくれさえすればスムーズにことが運ぶのだが、彼女は微動だにする気配がない。
 智子の正面にいる乗客たちが、さらに智子を背中で押した。その圧に押しやられて智子がさらに後ずさり、茶髪のその女子を背中で押してしまうかたちになった。すると女子はなおもスマホ画面に夢中で何かしらの文章を打ち込みながら、あろうことか、スマホから目を離さぬまま苛立ったように智子の背中をひじで思い切り突いた。智子はぜんとした。さっき背中に突き刺さったのは、この子の肘鉄だったのだ。
 電車のドアが閉まり、車両が次の駅に向かって動き出した。しかしながら車内ではまだ押し合いへしあいが続いており、不可抗力で奥へ詰めざるを得ない智子が後退するたびに、その女子はスマホから目を離さぬまま迷惑そうに智子の背中を肘で攻撃した。
 ──ちょ、ちょっと。
 智子は戸惑った。痛いというほどではなかったが、驚くあまり、思わず相手を観察した。彼女はさっきから口をへの字に曲げてスマホに文章を打ち込んでいる。周りが一切見えていない、といった様子の過集中ぶりだ。智子は考えた。こうまで非常識な行動をするぐらいだから、彼女はスマホで何か、非常にのっぴきならないやりとりでもしているのだろうか。例えば、恋人とLINEで別れ話をしているとか、仕事でトラブルが起きて対応しているとか──。きっと何か事情があるのだろうと智子は考えた。そして電車が次の駅に着き、また同じ現象が起きて、智子の背中に今度も肘の攻撃が入った。意を決して、智子は背後に首を回し、茶髪の彼女へ言った。
「あの。ちょっと詰めてもらえませんか」
 車両のきしむ音が聞こえる。返ってきたのは、完全なる無視だった。彼女の後ろにはまだ十分にゆとりのあるスペースが存在しており、他の乗客にも智子の声は聞こえたはずだが、皆、疲れていて関わり合いになりたくないのか、茶髪の彼女をいさめる人間はいなかった。茶髪の彼女は相変わらず不機嫌な顔でスマホへ夢中になっている。
 その瞬間、智子の中で何かが切れた。
 智子は静かに彼女から顔を背け、車窓を見つめた。電車が智子の住む駅に近づくにつれ、今度は停車のたびに少しずつ乗客が減ってゆき、いつしか車内は、座席に座れるほどのゆとりはなくとも、乗客同士が十分に距離を取って吊革につかまれる程度の余裕がある空間となっていた。智子は吊革につかまり、もう背後を振り返ることもなく、ただただ頭の中で、殺そう、と思った。
 殺そう。みんな殺そう。
 それはいわば漠然とした悪態で、別に、背後にいる茶髪の彼女を具体的にどうこうしてやろうと思ったわけではない。みんな殺そう。安藤も殺そう。いま後ろにいるあの女子も殺そう。車窓には真顔の自分が映っていた。智子はその自分自身に向かって、お前も死ね、と唱えた。悪意の増幅でそんなむちゃくちゃなことを考えながらも、どこか冷静な部分で智子は、同じ路線の最終電車に乗る人間はメンツがだいたい決まっているなと考え始めていた。つまり背後にいる茶髪の女子とは、この最終電車に乗る限り、また会う可能性があるということだ。そこまで考えて、自分がなぜそんなことを考えるのか、また、そうなったとしてその時に自分は一体何をするつもりなのかと智子は自分に問いかけた。人の悪意など瞬間的なもので、そう長くは保つはずがない。だからこの黒い衝動も、電車を降りてしまえば日にち薬でうんさんしょうするはずだ。そう考えて智子はまぶたを閉じた。やがて自宅のある駅の名を告げるアナウンスが聞こえ、電車が止まった。油圧音を立てながらドアが開くとともに目を開けると、智子は息をつき、常緑町駅のホームへようやく降り立った。その瞬間だった。
 智子の真横を、プリン頭の茶髪がさっと通り過ぎていった。
 智子は思わず、まばたきをした。ホームに降りた智子の目の前には、さっき自分に肘鉄を食らわせたあの女子の後ろ姿があった。相変わらずスマホを見ながら改札に向かってずんずんと歩いている。同じ下車駅だったのか、と智子はふたたび目をしばたいた。確かにこの常緑町には大学があるため学生が多く、彼女のような雰囲気の女子が歩いている姿に違和感はない。
 彼女は北口の改札に向かって歩いていた。智子の自宅は、真逆の南口方面にある。
 この時の自分の行動を、もし智子が後から語る機会があったならば、きっとこう供述しただろう。
──私はきっと、逸脱したかったのだと思います。
──自分が異常な行動をとることによって、私はこうまで追い詰められている、傷ついている、そしてそうさせたのはお前らだと知らしめたいがための、子供じみた当て付けの心だったのでしょう。
 智子の両足はホームの真ん中でしばし止まったあと、やがて、本来の降り口とは反対の北口改札に向かってコツコツと歩き始めた。目線の先には、茶髪の女子の背中があった。本当に、何かをどうこうしてやろうという気はなかった。
──家を、知ってやろうと思ったんです。
──それだけです。
 そうして智子はコートの前を掻き合わせ、彼女のあとをつけ始めた。

後編につづく)

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