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第1回

ルームナンバー203

 まただ。
 自室の扉を施錠し、一歩踏み出したところで野々森ののもりはじめは足を止めた。
 アパートの廊下には朝の光が満ち、安物のスーツを着た肩を肌寒さで竦めながら、野々森は隣室のドアノブにぶら下がったそれをじっと見つめた。
 黒い南京錠型のナンバーキー。
 不動産屋の錠前である。
 つまり、またここは空室になったのだ。
「203」と書かれた隣室の表札を見上げる。確か先週まではここに、大学生風の男が入居していた。ベランダでタバコでも吸いながら誰かと通話をしているのか、窓越しに時々、笑い声が聞こえてきたし、廊下で何度かすれ違ったこともある。
 その前に住んでいたのは、建築作業員風の若い男だった。そのさらに前は、会社員と思しき年配の女性。そのさらに前は──さすがに全員は覚えていない。隣人がどんな人物であるかをつとめて意識するようになったのは、ここ一年のことだからだ。
 野々森がこのアパートに越してきてから、三年が経つ。
 内覧の際、不動産屋に言われたことを覚えている。
「ここは本当にいいアパートなんですよ。築年数は古いけれど、中はリフォームされてますし、防音もしっかりしています。退去率の低さが、住み心地の良さの証拠です」
 不動産屋は笑顔でこう続けた。
「みなさん本当に、なかなか出て行かれないんですよ」
 確かに、彼の言葉も納得の物件だった。築二十年は越えているが、バス・トイレ別の水回りをはじめとする室内は完璧にリフォームされていて、ほぼ新品だ。駅近で家賃も安く、また、近所に大学があるからなのか、スーパーやコンビニ、そのほか一人暮らしに必要な施設も周辺に充実している。
 野々森は今でこそオフィス什器の会社に勤めているが、大学を出てすぐは、小さな不動産会社で働いていた。結局そこはブラック会社といって差し支えない職場だったうえに、投資用マンションとうたってろくでもない物件を年寄りに売りつける会社だったので耐えられなくなり早々に転職したわけであるが、そんな経験から、不動産に関することは多少、わかる。元・不動産屋の野々森から見ても、いま住んでいるこの「ハイツエバーグリーン」は良物件だった。家賃の安さも、あまりにも安ければなんらかの瑕疵を疑うが、あくまでも適正な範囲で安い。
 ──みなさん本当に、なかなか出て行かれないんですよ。
 その言葉が事実だということを、入居して三年が経った野々森は実感していた。何せ住み心地とコスパが良すぎる。他の住民も同様に感じているのだろう。三階建ての小さなアパートであるから、数年も住めば他の住民の顔ぶれもなんとなく把握するようになっていた。皆、ほとんどメンツが変わらない。なるほど不動産屋の言う通り、住民の退居率が低い。
 野々森の隣室である、この203号室を除いては。
 野々森はふたたび、その部屋のドアノブに下がったナンバーキーを見つめた。不動産屋の錠前がかかった鉄扉の奥に、もはや人の気配はない。
 どうしてこの部屋だけは、すぐに人が出ていくのだろう。
 野々森がここに越して三年。その間にこの203号室は、野々森が把握している限りで少なくとも五人は入居者が変わっている。皆、半年も経たずに引っ越していく。そのあとしばらく空室になり、また新たな住民が入る。そんなことを、もう何度も繰り返している。
 203号室の前でしばらく佇んだあと、小さくかぶりを振って野々森はその場を後にした。通勤電車の中で鞄を抱えながら、野々森はぼんやりと思いを巡らせた。
 本当に、なぜあの部屋だけ、あんなにも住民の入れ替わりが激しいのだろう。
 ここ一年の野々森の胸にたびたび去来する、ほんのささやかなミステリーだった。

「霊だよ」
 同僚の小田がこちらへ箸を突きつけた。会社帰りに立ち寄った居酒屋「きくや」は客で賑わっている。野々森は箸の先端から目を背け、生中を口に運びながら顔をしかめた。
「やめろよ」
「きっとその部屋はいわくつき物件なんだ。れいしょうだよ、霊障。それで皆すぐ出ていくんだ」
 心理的瑕疵物件。確かに、その線は考えたことがないでもなかった。幽霊など信じてはいないが、あの部屋は何かそうした、難のある物件なのではないかと。
「こう思うんだ」
 突き出しに視線を落として、野々森は言った。
「あの部屋は、あの部屋だけは何かきっと、特別な借り上げの契約になってるんだよ。どっかの会社が従業員用に借り上げてて、短期雇用なのかなんなのか知らないけど、それでしょっちゅう住民が入れ替わるんだ」
「でも、住んでた奴らがどう見ても全員、ジャンルばらばらだったんだろ? 大学生風とか、お局風とか、鳶職風とかさ」
「うん……じゃあ、これはどうだ。あの部屋には瑕疵があるんだよ。幽霊みたいな心理的なものじゃなくて、設備的な瑕疵が。水漏れとか、臭害とか、下水が逆流してくるとかさ」
「まあ、それが有り線だな。そんな状態の部屋、修理もせずに貸し続けるか? とは思うけどな」
 一応の現実的な推論が立ち、二人してジョッキに口をつけた。いわく付き物件か何だか知らないが、このように話のネタとして消費できるなら悪くない。思えば自分の、あの部屋に対する興味も、日常にトピックを求める気持ちから来ているのだろう。
 小田がブリの刺身に箸を伸ばした。
「てか、お前元・不動産屋じゃん。アレで見てみたら? ほら何だっけ、不動産屋のアレ」
「レインズ?」
 不動産業者だけが閲覧できる物件情報開示サイトのことだ。
「そうそれ」
「前の会社のID使うなんて無理だよ。大体、ID自体をもう忘れた」
 小田の言う通り、確かにレインズを使えば、隣室の情報が見られただろう。不動産業者専用のシステムであるから、そこには正確な物件情報が記されている。
 しかし仮にそれを見たとして、そこにはっきりと「心理的瑕疵あり」などと書かれていた場合、自分はどうすればいいのだ。
 幽霊の存在など信じてはいない。
 だが、隣室が事故物件だなんて、知って気持ちの良いことではない。
「とにかく、もう気にするのはやめるよ」
「そんなこと言うなよ」
 小田がずいっと身を乗り出した。
 野々森は瞬きをし、小田の顔を見つめた。その目に好奇心の光が灯っているのに気づいて、閉口する。そういえばこいつは、この手の話がかなり好きだった。学生時代は友人たちと東京近郊の心霊スポットを車であらかた制覇したと聞く。
 そして、小田は刺身を頬張りながら言った。
「お前、大山める、って知ってるか?」
ため息が出る。彼から目をらし、野々森は素っ気なく返した。
「知ってる」
「なら、それで今見てみようぜ」
「嫌だ」
 大山める。野々森は当然知っているし、今時は一般にも広く知られた不動産情報サイトのことである。レインズと違うのは、それが「大山める」という名の個人が運営するウェブサイトであり、かつ、いわゆる事故物件のみを専門に取り扱ったサイトといった点だ。
 PCやスマホで「大山める」を開けばそこには、日本全国の地図が載っている。見たい地域をクリックして拡大すれば、Google マップのような詳しい地図と共に、そこかしこの建物にぽつぽつと、赤い炎マークのアイコンが灯った光景が表示される。その炎マークのある場所が、過去に事件や事故、自殺といったひとにのあった事故物件というわけだ。ユーザーからの情報をもとに、運営側が裏を取り、日々、赤い炎のマークは更新され続けている。
 基本的には、引越し等を検討している人間が、当該物件や近隣の心理的安全性をチェックするためのものなのだろう。
 しかし実際は、目の前にいる小田のような興味本位の者が、俗な好奇心のために閲覧することが多いサイトだという印象を野々森は抱いていた。
「お前が見ないなら、俺がこの場で確かめてやる」
「やめろって」
 小田からスマホを奪おうとした野々森の手が空をき、小田がスマホを守りながら笑った。
「お前、さてはめちゃくちゃ怖がりだな?」
 からかう小田に、野々森は「ああ。そうだよ」とビールをあおった。小田の姿に、地元にいる兄のことを連想した。
 心霊などより怖いことは世の中にいくらでもある。上司、営業ノルマ、親の将来の介護問題、結婚相手どころか彼女すらできる気配が皆無なこと。わざわざホラー映画などを観る奴の気が知れない。よっぽど脳みそにゆとりがあるのだろう。とはいえ、かくいう自分も人のことはまったく言えない。隣室のことを気にしている暇があったら、休日を寝てばかりで過ごさずに資格の勉強でもしたほうがいいかもしれない。
 そんな風に一瞬は意識の高いことを考えながら「きくや」を出たものの、流れで小田ともう一軒飲みに行くことになった。野々森の住む常緑町じょうりょくちょう駅前にあるこの「山科ビル」の三階には「凡僧」という焼き鳥屋があり、美味うまいらしいと聞くが、まだ行ったことはない。結局いつも通りに、同ビルの四階にあるバー「セレス」でしめた。店名だけはオーセンティックだが、実際は臭いおしぼりが出てくる汚くて安いバーである。学生の多いこの町に、大人向けの洒落た店は少ない。
 店を出る頃には少し酔いが回っていた。明日は休みだ。最後にラーメン屋へ寄らなかっただけ偉いと考えることにして、野々森は白い息を吐きながら帰路についた。 

「お前、考えてみたら、次男やのに名前が『一』なんやな」
 記憶の中の兄がわらう。
「天才バカボンのハジメちゃんみたいやの」
 やーいバカボン、バカボン、と兄がはやし立てる。その理屈でいうと兄貴のお前のほうがバカボンになるが、こいつは本当にバカだなと思いながら幼少期をいつも過ごしていた。兄は本当にバカだった。幼い頃は、次男のくせに「一」という名を冠している自分のことを、実は兄とは血の繋がらない連れ子なのではないかと期待を込めて疑った時期もあるが、父に質問をぶつけると、彼は新聞を広げながら、
「お前、十月生まれやろ。逆算してみたら元旦やったんや。単にそれが由来よ」
 と言った。当時の自分は意味がわからず頭にはてなマークを浮かべていたが、今考えると兄に劣らず父も知的とは言えない。
「富士崎パークランド」に家族で行ったのは六歳の頃だっただろうか。
 絶叫マシンと、お化け屋敷のクオリティの高さが有名な遊園地だった。どちらも好まない両親は当時中学一年生だった長男に次男を任せてベンチでくつろぎ、兄は、嫌がるこちらを無理やり引っ張って、お化け屋敷の列に並んだ。列の途中で何度も逃げ出そうとしたが、兄に掴まれ、小突かれ、べそをかきながらお化け屋敷の入り口が眼前に現れた時の絶望感を今でも覚えている。廃病院を模した造形のアトラクションで、六歳の自分は震え上がり、兄にすがりついてその腹に顔を埋めた。今から起きる一切を目にしたくなかった。
「何がそんなに怖いねん。こんなん作り物やんけ」
 上から降ってくる兄の言葉に、このバカ、と彼を内心で呪った。作り物だからこそ怖いのである。現実なら、たとえば深夜にトイレで起きて、真っ暗な廊下を一人びくびくしながら便所へ向かったとしても、大抵の場合何も起こらず恐怖は杞憂で終わる。けれど作り物のお化け屋敷はこれが作り物のエンタメである以上百パーセント、必ず怖いことが起こるのだ。なぜその恐ろしさがわからない──。だが当時はその思いを言語化することはできず、兄の腹に顔を押し当てたまま、暗い廃病院の中へコアラのごとく引きずっていかれた。そこから先のことは、恐怖のあまり記憶が消失している。しかし兄いわく、幼い野々森があまりに脅えているのを見た幽霊役のスタッフたちが怖がらせに手心を加え、兄が言うには「ガキ向け」のぬるい接待を受けたらしく、お前のせいで面白くなかったと帰りに頭をはたかれ、自分はまた泣いた。
 その日から、自分は小一にもかかわらず、寝床で粗相をするようになった。
 夢の中には、いつも自宅のトイレが出てくる。暗い階段の下に、廊下に置かれた水槽の青い明かりを仄明るく照り返したトイレの扉がある。用を足したいが、暗い階段を一人で降りるのが怖くてたまらない。けれどこれまで何百回と夜中にトイレへ行って、そのうち一度も結局のところはオバケなど出なかったという経験則に背中を押され、階段を降りる。便所の扉にたどり着き、電灯のスイッチを押して、明るい光に包まれる。よかった、今日も何も起こらない。そうほっと息をついて便座を上げたところで、顔中が何か、柔らかいものに押し当てられる。
 布地の感触。
 呼吸のように上下している。
 鼻のあたりに、布越しの凹みがある。
 兄のへそだとぼんやり理解する。
 自分は今、あのお化け屋敷の時と同じように、兄の腹へ顔を埋めているのだ。
「だーれだ」
 頭上から兄が言う。顔を埋めたまま自分は「兄ちゃんやろ」とくぐもった声で返し、トイレがしたいから退いて欲しいなと思いながらも、兄の体温に少しだけ安心している。こちらを抱きしめる兄がちょんちょんと肩をつつく。後ろを振り返ってみろとでも言うようなジャスチャー。促されるままに振り向くと、さっき自分が降りてきた暗い階段の下に、兄が立っている。静かにこちらを見ている。寝ぼけた頭でぼうっと、あれ、では今自分が抱きついている相手は誰なんだろうと思った瞬間に、とてつもない恐怖が全身を駆け抜け、気づけば目を覚まし、布団が寝小便で濡れている。そんなことが小一の一年間ほど続いた。息子の夜尿症を治すために母は自分を小児はりへ連れて行き、鍼治療の効果かは不明でありつつも寝小便は治ったが、代わりに軽い先端恐怖症になった。大人になった今でも注射の際に針を直視できず、自分の名である「一」という漢数字でさえ、ときどき鋭利にすら見える。

 すべては想像力のなせる業だ。
 自分にあって兄にないものである。
 そんなことを考えながら目を覚ました。スマホの表示を見ると、一時だった。一瞬、休日とはいえ昼過ぎまで寝こけたのかと思ったが、よく考えなくてもそのデジタル表示の「1」は深夜の一時を意味していた。小田と飲んだから酒で眠りが浅くなったのだろう。
 手の甲を目に当て、暗い部屋の中で長い息を吐いたあと、野々森は台所で水を飲んだ。じか飲みのペットボトルを片手に、しょぼついた目で壁のポスターを眺める。The raptureのポスターで、絵の中ではカラフルなデザインに彩られた四人の男がこちらを見据えていた。好きなバンドのポスターを部屋に貼るという行為が、中学生じみていると我ながら思う。ポスターの四人から目線を外して、野々森は棚の上にあるフィギュアの頭をつついた。右側の、ベースを持った禿げ男のフィギュアはレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーで、その隣の長髪の男はレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジである。彼らの音楽が好きだ。聴くときはいつもヘッドホンをつけている。とはいえこのアパートの防音性の高さを考えると、よほど非常識な音量と時間帯でない限り、スピーカーから流したとて苦情は来ないと思われるが。
 窓の外側を数粒の水滴が滑っていくのが見えた。
 雨か、と腹を掻きながら寝床へ戻ろうとして、いや待て、と野々森はベッドへ潜り込む動作を中断した。ベランダのカーテンを開ける。すると、一人暮らしの怠惰で夜露も気にせず干しっぱなしだった洗濯物が、小雨で濡れていた。一瞬、もうどうせ濡れたのだからこのまま放置しようかという投げやりな考えが頭をもたげたが、ため息をついてベランダの窓を開けた。
 一月の寒風が吹きすさび、野々森は身震いしながら外に足を下ろしてベランダ用のクロックスを履いた。物干し竿からピンチハンガーを外して部屋の中へ放り込み、続いてシャツ類を取り込もうとした時、ごうっと横殴りの風が吹いた。
「お……」
 手にしたハンガーからTシャツの首が抜け、風に大きく煽られた。野々森は慌てて左手を伸ばしたが、手は宙に舞う布を掴み損ねてしまい、あわや夜の空へとTシャツが飛んでいきかけたが──すんでのところで、それはベランダ左手の仕切り扉にぶつかった。
 音もなくシャツがコンクリ地面にずり落ちる。落ちたシャツへと歩み寄り、疲れた気持ちでそれを拾った。屈めた腰を起こそうとしたところで、野々森の目線がふと、上目遣いの形で止まった。
 気づけば野々森は、その仕切りの前で、目の前にあるものを凝視していた。
 それは、隣室である203号室との間を隔てるざかいへきだった。
 小雨が髪を濡らしてゆく。一刻も早く部屋に入りたいほど寒いのに、野々森の頭はなぜか急に、隣室への強い興味に囚われていた。
 この戸境壁の向こうに、隣室のベランダがある。
 今現在は空室だから、カーテンはかかっていないだろう。手すりから少し首を出して向こうを覗き込めば、きっと室内が見える。
 真っ暗で、無人の、空っぽな部屋。自分の部屋と全く同じ、いや、水回りの構造上、こちらと左右対象の造りになっているに違いない真隣の空室。
 野々森の頭に、奇妙なビジョンが到来した。
 暗い隣室の真ん中に、男がひとり背を向けて立っている。
 しかし、よく見ると彼は立っているのではない。首はうなだれ、爪先がフローリングの床から数センチ浮いている。
 うなじには固くゆわえられたロープのこぶがあり、天井へ向かって真っ直ぐ伸びている。
 足元の床には、彼の爪先から滴る汚物の染みがある。
 やがて、野々森は気付く。いつの間にか、彼の体が、先ほどよりもこちらを向いている。
 り合わされたロープが元に戻ろうとするような慣性を思わせる動きで、男の体がゆっくりとこちらを振り返り始めている。
 見てはいけない。
 そう思うのに、体が動かない。逃げ出した途端に良くないことが起こってしまいそうな予感で、全身が硬直している。
 男の顔が、そろそろ見えてしまう──。
 はっと現実に立ち返り、野々森は自分のベランダで洗濯物を片手に背筋を震わせた。己の空想から生じた滑稽な恐怖を両肩をさすって打ち消しながら、野々森は洗濯物を抱えて逃げるように自室の中へ戻った。
 窓を閉める。かっちりと施錠し、カーテンも必要以上にぴっちりと閉めた。
 こんな深夜に隣室を覗き込む勇気などあろうはずもなかった。覗いたところで、そこには何の変哲もない空室があるだけに決まっている。暗いイマジネーションでベタな怪談話めいた光景を想像した自分を笑いながら、野々森は洗濯物をカーテンレールに部屋干しして、眠りについた。 

 二月になった。
 関東地方には記録的な寒波が襲来し、テレビニュースやSNSでは気温が氷点下を下回ったことによるさまざまなトラブルが報告されていた。
 野々森も例に漏れなかった。室外に置いてある洗濯機の給水栓が留守中に凍結して、破裂したホースから水がしっちゃかめっちゃかに噴き散らかされているという報告が、会社にいる野々森の携帯に不動産管理会社から掛かってきたのである。
『近隣住民の方から苦情がありまして』
 管理業者が申し訳なさそうに言う。
 ”近隣住民”とは位置関係的におそらく真下の部屋である105号室の入居者だろうなと思いながら、野々森は電話越しにあせあせと平謝りした。
「すみません」
『ご不在とのことで、鍵を使って上がらせてもらってもよろしいでしょうか? 蛇口を閉めないことには水が止まりませんので』
「お手数ですが、よろしくお願いします。ご迷惑をおかけした相手の方には、こちらがお詫びを申しているとお伝えいただけましたら……」
 本来なら直接詫びを入れるのが筋かもしれないが、苦情を取り次いだ管理業者が「他の住民の方」と相手の特定ができない言い回しをしている以上、直に出向くのは避けたほうがいいだろう。
 しかし、と野々森は電話を切って頭を掻いた。苦情元と思われる真下の住民は、言葉こそ交わしたことはないが、確か二人暮らしの母子である。小さな子がいるのだからきっと就寝時間も早いだろうと、これまで夜分の足音にもそれなりに気を遣ってきたのだが、今回、思わぬ形で迷惑をかけてしまったことに申し訳ない気持ちになった。
 かくして、業者の手により野々森宅の水トラブルは収まった。会社から帰宅した野々森はホームセンターで買った新しい給水ホースを洗濯機に繋ぎ、あらかじめニュースで水道凍結の注意喚起がなされていたにもかかわらず元栓を閉めずに出掛けた自分のうかつさを反省した。
 大寒波は二日で去り、節分の朝には柔らかな雨が降って、ようやく平均的な冬の気温が訪れた。その日、野々森の自宅にとある来客があった。夕方の自宅でくつろぐ野々森の部屋のインターフォンを押したのは、贈答用の液体洗剤を手に携えた、二十代前半と思しき見知らぬ若い女性だった。
「お休みのところ申し訳ありません」
 部屋着で玄関ドアを開けた野々森に女性が頭を下げる。隣室であるあの203号室に新しく越してきたのだと言う。引っ越し挨拶の品である洗剤を受け取りながら野々森は、目の前にいる少しふくよかな女性に礼を述べながら、ふたつのことを思った。ひとつは、今時珍しいなということ。この手のアパートでしかも若い女性なら、防犯のために引っ越し挨拶は省く場合が多い。とはいえ隣室に越してきた住民がこうして挨拶に来るのは初めてのことではない。以前住んでいた建築作業員風の若い男性も、柄の悪そうな見た目に反して丁寧な入居の挨拶をしてきた。
 もうひとつは、眼前のこの女性も203号室の法則通り、きっとすぐに越してゆくのだろうなということ。
 女性が帰ったあと、野々森はプレイ中だったスマホゲームを再開し、缶ビールを飲みながらだらだらと休日の晩を堪能した。隣室に人が入居したとたん、何か、これこそが順当であると思えるような、平穏な無関心がやってくるのを感じた。空室であるから気になるのだ。誰かが住み始めたのなら、その瞬間にあの部屋は自分があれこれ詮索するべき存在ではなくなったような、不思議な手離れを野々森は感じた。
 コタツでスマホ画面を眺めながら、野々森はいつしか眠りに落ちていた。
 頬をコタツの天板にくっつけたままうたた寝から目覚めたのは、ちょうどテレビで夜のドラマが終わったころだった。
 はっと顔を起こして、手の甲でよだれをぬぐう。こんなところで寝たら風邪をひくのでベッドに行かなければとは思うのだが、ぬくいコタツからは離れ難い。野々森はそのまま、またしょぼしょぼと、今度は顔を反対側に向けて天板に頬を乗せた。何となくキッチンの方を見やる。流し台の上にさっき自分が空けたビール缶が放置されていた。ゆすがないと、と野々森は眉間を寄せてあくびをした。過去に、飲みさしのビール缶を放置した時、そこに一匹の大きなゴキブリがもぞもぞと潜り込もうとしているおぞましい光景を目撃したことがある。ゴキブリはビールが好きらしい。それ以来、酒缶は必ず洗ってから捨てるようにしている。
 そんなことを考えながら、まごまごとしている時だった。
 目線の先にあるキッチンの窓の外を、さっと何かが横切った。
 野々森は瞬きをした。その窓はアパートの廊下に面していて、野々森の部屋は廊下の端にある。昼間ならば時々、管理人が廊下全体を清掃するために窓の前を通ることもあるが、今は夜中だ。他の住民がそこを通るということも、構造上、普通ならばない。
 しかし、今のは明らかに人影だった。
 時間帯的に、やや不審なことだった。
 人影がふたたび横切る気配はない。
 だが、それはつまりその人物が廊下の突き当たりに行ったきり、その場でじっと留まっていることを示していた。
 こんな時間に、そこで何を?
 疑念に駆られ、野々森は少し逡巡したあと腰を上げた。玄関へ行き、ドアスコープに顔を近づける。魚眼レンズの視界に映ったのは、夜の暗い廊下だった。
 が、一見誰もいないと思った廊下の端に、黒いものがちらちらと映り込んでいることに気がついた。
 黒い。これは人の頭だろうか。
 黒くて長い髪だ。女性である。
 女が、廊下の突き当たりに佇んでいた。
 野々森の喉の奥で奇妙なうめきが漏れた。気づけば野々森はドアスコープから顔を離し、胸を片手で押さえていた。この女は何だ。こんな夜中に俺の部屋の近くで何をしている。隣に引っ越してきた女性ではない。髪の色が違う。
 もう一度ドアスコープを覗いてみようとしたところで、野々森はためらった。自分の部屋の付近で不可解な行動をしている人物の様子見をしたい気持ちはあるが、まともではない相手だったらどうしようという恐怖もあった。何かのサスペンスドラマで見た、ドアスコープを覗いた瞬間に穴からマイナスドライバーが突き出てくるという狂気のづらを思い出し、スコープ越しといえども目を晒すのを躊躇してしまう。
 十秒にも満たない葛藤ののち野々森が取ったのは、意を決してドアを即座に開け放つという行動だった。不意打ちで先制権を奪う制圧の手法である。SWATが扉を蹴破る時のような気持ちで、野々森は思い切ってドアを開けた。
「あっ」
 瞬間、野々森と相手は同時に声を上げた。
 いや、正しくは声を上げたのは野々森のほうだけだった。飛び出した廊下には、果たして、黒髪の女がいた。怪談話のようにドアを開けたとたんに消えるということもなく、女は長い黒髪に縁取られた目でぱちくりとこちらを見ていた。女の足元には、女と同様に目を丸くしてこちらを見上げる小さな女の子が立っている。
 真下に住む、二人暮らしの母子だった。
 二人とも、両手に持った黒い何かをくわえている。口いっぱいに頬張っているため声を出せないらしく、母親のほうが、ちょっと待ってとでも言うように野々森に向かって人差し指を立てて、もぐもぐと口の中のものを素早く咀嚼した。ワンテンポ遅れてから野々森は彼女らの食べているそれが寿司の太巻きであることに気づき、今日が節分であることを思い出した。
「すみません」
 口内のものをやっと飲み下し終えた母親が言った。
「今日、恵方巻の日だったので。今年の恵方が」
 母親が廊下の突き当たりから見える空を指差す。
「こっちの方角だったんですけど、一階からじゃ建物が邪魔で空が見えなくて。外に出ればよかったんですが、夜も遅いし横着してしまって、それで、ここで食べてたんです。 驚かせてすみません」
「あ、いや、こちらこそ」
 どぎまぎしながら野々森は頭を下げた。
 なんだ。
 理由はさりとて変わったことをする人たちだなと思いつつも一気に気が抜け、気まずくなった。母親の横にいる女の子のほうは野々森にぷいと背を向け、廊下から見える空を見つめながらせっせと一生懸命に恵方巻を食べる作業に戻っている。どうやら食べ終えるまでは所定の方角を見つめたまま言葉を発してはいけないという恵方巻のルールを守っているらしい。
 そらわらいと共にもう一度頭を下げてから、野々森はドアを閉めた。だが、鍵をかける前に思いとどまり、ふたたびドアを開けた。
「あの、先日はすみませんでした」
 凍結騒ぎで水の迷惑をかけてしまった相手はほぼ間違いなくこの親子だ。こうして出くわした以上、謝罪はするべきだろう。
 ああ、と母親のほうが、何を指しているのかすぐに思い当たった様子で肩をすくめた。
「大丈夫ですよ。そちらこそ大変でしたね」
「いえ。家具とか大丈夫でしたか?」
「水漏れはなかったんで問題ないですよ。ベランダの上からずっとバシャバシャ水が降ってたから大丈夫かな、って心配になって管理会社に電話しただけです」
 そう言って母親が笑う。野々森は恐縮して頭をかきながら、彼女の目の下に現れた柔和な涙袋の膨らみに少し、どきっとしてしまった。普段、アパートの下で見かける時はいつも髪を一本に縛っているのでやや老けた印象だったが、こうして髪を下ろした姿を正面に見ると、意外に美人だった。
 ようやく恵方巻を食べ終えたらしい娘が、母親の脚にまとわりついた。母親が娘の頭を撫でる。
「ちゃんとお願い事できた?」
「うん」
「そう」
 それじゃ、と母親が会釈して、娘の手を引き野々森の前を横切った。通り過ぎる際にシャンプーだかコンディショナーだかの良い香りがして、野々森は一瞬どぎまぎしたあと、いやいや、と内心で自分を律した。相手は子持ちでしかも真下の住民だ。すると、階段を降りる手前で、娘が言った。
「あっ、ここ、あたらしい人が来たんだね」
 娘の指は、小窓の明かりがついた隣室──203号室のドアを指していた。
 しっ、と母親が娘をいさめる。
 しかし、娘が言った。
「これでオバケ、いなくなるね!」
 ドアを閉めようとしていた野々森の手が止まった。
 野々森はドアの内側で、その格好のまま数秒間、ノブにかけた自分の手を見つめたあと、顔を上げた。閉じかけていたドアの隙間から、廊下にいる母子の姿が見えた。
 母親は娘の口を手で塞ぎ、不満げな声を上げる娘に困った顔をしていたが、野々森に気づいて、揺れる視線でこちらを見た。
 目があった瞬間、野々森は確信した。この203号室の不可解さを気にしているのは、自分だけではなかったのだ。
 203号室の奥からは、かすかにシャワーの音が聞こえている。新しく入ったあの住民は入浴中らしい。
 住民にこちらの会話が聞こえることはないだろう。
 そう判断して、野々森は低く落とした小声で母親に言った。
「……あの」
 母親は娘を抱き抱えたまま下を向いている。
「すみません。今のって……どういう意味でしょうか」
「別になんでもありません」
 被せるような早口でそう言ったあと、母親はさらに一段、トーンを抑えた声で、
「おばけ」
 と、ほとんど口パクのようなささやき声で言い、野々森を見た。
「って、いうのは……この子が勝手に言ってることです。ただの子供の空想です」
 でも、と母親が中腰の体勢から腰を上げて、娘の頭を撫でた。
「この部屋の入れ替わりが激しいのは以前から気になってました。それでうっかり『オバケでも出るのかな』と娘に軽口を叩いたら、この子の中でそういう設定になってしまったみたいで」
 そう話す母親の横で娘が不服そうに口を尖らせる。だってママがそう言ったんじゃん、とでも言いたそうだ。
 野々森は少し思案したあと、「まあ確かに」と前置きをしてから、言った。
「激しいですよね、入れ替わり」
「そうでしょう。私たち一階だからベランダの前に引越しトラックが止まるんで、目につくんですよ。客観的に考えても、かなり暮らしやすい部類のアパートだと思うのに」
「この部屋だけ何か、欠陥があるんじゃないでしょうか。隙間風がすごいとか」
 そうなのかな、と母親が顎に手を当てる。気づけば井戸端会議じみてきていて、人の部屋の前でそこの噂話をするという、到底、上品とは言えない行為を野々森たちは続行した。
「それか、ここだけ社宅になってるんじゃないでしょうか」
「それは私も考えました。でもそれにしては住む人が老若男女バラバラじゃないですか」
 彼女もこちらと同じ思考の推移を経てきたようだ。
「そうですね」
「だけど、社宅は社宅でも、こう考えたら住民の多様性に納得がいくかもです」
「というと?」
 野々森の問いに、母親が口に片手を添える小声のポーズをとった。そして彼女は、またもや口パクで言った。
「『シュウキョウ』」
「えっ」
「だから、借り上げは借り上げでも、ここは何らかの宗教団体が借りてる部屋なんじゃないかな、と。信者を一定期間ここに住まわせて、よくわからないけど彼らが何かしらのステップに進んだらまた別の新しい信者を住まわせるとか。宗教なら、住民が老若男女なことの説明もつくでしょ」
 話がにわかにカルトじみてきた。野々森はさらに声を落として、口早に言った。
「宗教法人に大家が部屋を貸すかな」
「そこはあれですよ、別名義を使ってるとか」
「うーん、宗教っていうのはちょっと突飛なんじゃ」
「オバケのほうが突飛でしょ」
「僕は別にそんなふうに考えてませんよ」
「あなたさっき娘が『オバケ』って言った時すごい顔したじゃない。『どういう意味でしょうか』なんて真剣な顔で言っちゃって」
 いつの間にか二人、いや娘を含めた三人して野々森の部屋の前で立ち、ああでもないこうでもないと議論していた。やがて娘が退屈したのかふあっと大きなあくびをし、そこで野々森たちは自分らの妙な白熱ぶりに気づいて、我に帰った。お互いに少し距離を取る。母親はばつが悪そうに目をあさっての方向へやると、しばらく沈黙したあと、ぽつりと言った。
「……私、怖いんですよね」
 伏せられたその目線の先には、203号室の扉があった。
「……少し、わかります」
 野々森は言った。
「怖いとまで思ってるわけじゃ、正直、ないけど……気にはなりますよね、その部屋」
 こちらの言葉に母親は、203号室に視線を固定したまま言った。
「この部屋」
 独り言のような響きだった。
「って、いうよりも……」
 うん? と野々森は内心で首を傾げた。母親からの続く言葉はない。しばしの静けさの後に野々森が何か言おうと口を開きかけたとき、母親がはっと自分に立ち返った様子で、娘を引き寄せた。
「ごめんなさい、つい話し込んじゃって」
「いえ、こちらこそ」
「とにかく、オバケ云々はこの子の単なる空想ですから。でも私としては、実は事故物件でオバケが出るから人が出ていくんだ、って真相のほうがいいけどね」
「えっ、なんでですか?」
 カルト宗教説のほうが怖いということなのだろうか。
「だって、面白いじゃない。私、わりとそういうの好きなの」
 母親の足元から娘が野々森を見上げて言った。
「ママはアクシュミなの」
「何言ってんの。イギリスじゃ幽霊が出るお家のほうがみんな住みたがるんだから」
 はいはい、と娘が母親をあしらう。二人のやりとりを前に野々森は、なんだ、と息をついた。所詮、この女性も203号室の不可解さをエンタメとして消費したい部類だったのだ。始めは何事かと思ったが、蓋を開けてみれば自分の通う学校に七不思議を見出したがっている小学生と同じだった。
 それじゃあ、と頭を下げて階下へ去っていく二人の後ろ姿を見届けたあと、野々森は自分の気持ちが軽くなっていることに気がついた。隣室に対する疑念が結局は単なる、自分を含めた暇人たちのさかななのだと気づいたからではない。純粋に、ちょっとばかり楽しかったのだ。身近にある共通の謎を議題に近所の住民とああだこうだ推論するのは、ミステリーハンター的な面白さがあった。この愉しさはもしかして情報交換が生死の要だった原始時代の名残からくる本能なのだろうか、と考えたあと、しかし同僚の小田とこの話をしたときはそこまで楽しくなかったことを思い出し、これは本能は本能でもまた別の本能なのかもしれないと思った。すなわち、あの母親が美人だったからである。性格は少し変わっているが。
 部屋に戻った野々森はコタツでふたたびぼんやりしたあと、風呂に入り、風呂上りにベッドへ寝転んでまたぼうっとしてから、おもむろにスマートフォンを取り出した。
 開いたのは、これまで頑なにアクセスを避けていたウェブサイトだった。
「大山める」だ。
 このサイトで調べれば隣室が事故物件かどうかがわかる。載っていなかった場合が百パーセント、シロだとは言えないが、載っていればほぼクロである。
 後者だった場合、知って気持ちの良いことなどひとつもないから、今までは見ようともしなかった。だがこのサイトを見ることで隣室の情報を得られたら、あの母親とまた話すきっかけができるのではないだろうか。
 野々森は夢想した。
──こんにちは。
──あら、こんにちは。先日はどうも。
──あの部屋のことですが、ひとつ、わかりましたよ。
──えっ。何、教えてください。
──やっぱり、事故物件だったみたいです。過去にあの部屋で、亡くなった住民がいたみたいですよ。
──キャー、やだ、こわい。
──わああ、こわいよママ。
──落ち着いて二人とも。とにかく真相がわかりましたね。幽霊が出る部屋だったんですよあそこは。でもお嬢ちゃん、怖がらなくて大丈夫。世界中のいろんなところで毎日人が亡くなってるんだ。普通のことなんだよ。もし幽霊が出るんだとしても、あの部屋だけのことだし、お嬢ちゃんが良い子にしてたら幽霊は怖いことなんてひとつもしやしないよ。
──けれどどうやってあの部屋のそんな情報を?
──まあ、前職の伝手つてで、ちょっとね。
──凄いのね。
──お兄ちゃん、すごい。
 空想にふけって野々森はふっと笑ったが、空想を終えた直後に一転して恥じ入り、顔を両手で覆った。自分は馬鹿なのだろうか。いくらあの母親が真相に興味を持っていたとはいえ、あの部屋が現実に事故物件だったという事実をいきなり突きつけてくる真上の住民の独身男など怖すぎる。あの母子を脅かす存在になりたくないという気持ちから野々森はしばらくそのまま顔を手で包んでいたが、やがてその手を外すと、スマホでやはり「大山める」を使って隣室を調べることにした。彼女に真相を伝えるかどうかは別として、もしまたひょんな機会で言葉を交わすことがあったときに、使うも使わないも自由に取っておける持ちネタが欲しかった。
 野々森はまだためらいの残る指で「大山める」の検索バーに自宅アパートのある町名を打ち込むと、意を決して検索ボタンをタップした。しばしのローディングののち、画面が切り替わって、見覚えのあるこの町の地図が表示された。それを目にしたとたん、野々森は思わずあっと声を上げた。まだズームして自宅アパートを調べたわけではないが、自宅周辺の広域を映したその地図上にはすでに、事故物件の存在を示す赤い炎のアイコンがいくつも点在していたからだった。野々森は唾を飲み込み、なんのことはない、と自分に言い聞かせた。よほどの僻地でない以上、どの町にも必ず事故物件はある。自殺現場だったり、殺人現場だったり、または孤独死した人間が畳の上で腐敗して近隣で異臭騒ぎになったりなど内容はいろいろだが、問題はそれがこのアパートの、自分の隣の203号室かどうかである。
 まぶたを閉じる。呼吸を整えてから野々森は目を開き、二本の指を使ってこの「ハイツエバーグリーン」がある箇所を拡大した。
 窓の外では二匹の猫が鳴いていた。低い声の応酬が続き、次第に一触即発の甲高いハーモニーと化していくそのさまは明らかに野良猫同士の喧嘩で、普段の野々森ならカーテンをめくって軽く覗いただろうが、その時ばかりは野々森宅のカーテンが開かれることはなかった。野良猫同士の牽制の鳴き声がぷつりと途絶え、ついに火蓋が切られた様子でギャーッと取っ組み合いの声が始まった。窓の外から猫の激しい声が聞こえてくる一方で、野々森の部屋の中では、スマホ画面を凝視したまま固まった野々森の
「……え?」
 という小さな声だけが、誰の耳にも届くことなく響き渡った。

 野々森が彼女と再会したのは、それから一月ひとつき後のことだった。
 カレンダーは三月に入っていた。まだ肌寒いながらも、街では冬用のコートを着た人間はほとんど見かけなくなり、うっかり冬物の上着を羽織って出てきてしまった人たちは、三寒四温の読めなさに汗を拭っていた。
 そんな三月の、土曜日の昼下がりだった。
 野々森は近所にある「みどりプラザ」という名の小さなショッピングモールの入り口をくぐると、真っ先にベンチを目指した。フードコートの横に空いた席を見つけて、そこへ腰かけ、うなだれた。ウールのコートを着た首筋には汗が浮いていたが、それは季節外れの厚着のせいだけではなかった。
 つい先ほど、近くにあるクリニックで花粉症の症状を抑える注射を受けてきたからだった。
 過去に夜尿症の治療で無理やり鍼治療を受け先端恐怖症になって以来、注射は大の苦手だ。とはいえ、日常を送るうえで避けては通れないことでもある。会社の健康診断でも必ず採血はあるし、きつい花粉症持ちの自分は、この時期の予防接種も欠かせない。市販の飲み薬で抑えられないこともないが、副作用の眠気が大変にきついので観念して毎年注射を打っている。
 注射の際は毎度、袖をめくる時からすでに目を固くつむっている。本当に重度の先端恐怖症を持つ人間ならそれでも耐えられずショック状態に陥るのだろうが、自分は幸い、気合と慣れでまだなんとかなるほうだ。しかしそれでも、注射の前はいつも胸がギュッとふさがるような気分になる。頭が真っ白になり、真っ白なまま、気づけば注射は終わっている。だが、そのあとでいつも気分が悪くなってしまう。今日もそうだ。吐き気がして、手足が冷たい。
 しんをこらえて腕の注射痕に貼られた絆創膏のあたりを揉みながら、野々森は目の前のフードコートを眺めた。フードコートの横には遊具の置かれたキッズスペースがあり、子供たちが遊んでいる。色鮮やかな区画を貧血気味の頭でなんとなく見やっていると、ふと、その中に見覚えのある背格好の人物を見つけた。
 キッズスペースの腰掛け椅子に、子供たちを見守るような位置で、野々森の真下に住むあの105号室の母親が座っていた。
 彼女の目線の先を見ると、彼女の娘であるあの小さな女の子が、同い年くらいの男児と一緒にキッズスペースにあるレゴブロックで遊んでいる姿が目に留まった。狭い町だな、と野々森が思うと同時に、母親がぱっと顔を上げ、こちらと目があった。その目には一瞬、自分の子供に向けられている他人の目線を鋭敏に察知したような警戒の色があったので野々森はややたじろいだ。が、こちらが遠目に会釈をすると、向こうも相手が野々森だと気づいた様子で警戒を解き、会釈を返してきた。そのあと彼女はまた娘を見守る体勢に戻ったので、野々森もふたたび目を閉じて休息を続けた。とはいえ、このままここでこうしているのも少し気まずくなった。まだ気分が悪いがそろそろ帰ろうかと野々森が立ち上がろうと目を開けた時、頭上から声がした。
「大丈夫ですか?」
 あの母親だった。
「顔色、悪いですよ」
 こちらの様子を見とめて、キッズスペースから歩いてきたらしい。野々森が慌てて「大丈夫です」と返すと、母親は肩掛けのトートバッグからペットボトルを取り出して、野々森に渡してきた。
「まだ封、開けてないから」
 緑茶だった。野々森は恐縮して断ったが、「いいから」と半ば押し付けられる形になり、最終的には受け取った。礼を言っておずおずとペットボトルに口をつける野々森の隣のベンチに、母親が腰掛けた。目線は変わらず、キッズスペースの娘のほうを向いている。緑茶で口を潤わせて野々森は息をつくと、彼女へ言った。
「すみません。ありがとうございます」
「風邪ですか?」
「いえ、ちょっと貧血で」
「そうなんだ。よく、なるんですか?」
 いえ、と返し、束の間逡巡したあと、野々森は正直に自分の注射嫌いを打ち明けた。なぜこんなことを他人に話しているのだろうと思ったが、下手に病弱だと思われるより、単に注射が苦手なのだという他愛もないことだと伝わるほうが、気が楽だった。
 理由を聞き終えて、母親が笑った。
「あ、ごめんなさいね、笑って。本人にとっては深刻なことかもしれないのに」
「いえ、いいんです」
「しかし、鍼治療で先端恐怖症か。子供ってひょんなことで後引いちゃうんですね。私も気を付けないと」
 そう言ってキッズスペースのほうを見つめている。
 数秒ほど、沈黙が流れた。
「ところで」
 やおらに母親が言った。
「隣の人、近頃どうですか?」
 203号室のことである。少し考えたあと、野々森は言った。
「わかりません。別にそんな逐一、観察してるわけじゃないし」
 事実だった。
「でも、今回はまだ引っ越してませんよね」
「そりゃあ、そうでしょう。今回の人、越してこられてからまだ一月ひとつきくらいしか経ってないですよ」
「前から思ってたんだけど」
 母親が少し前屈みになり、組んだ両手を自分の膝に乗せた。
「あなた、耳立てたりしないの?」
「耳?」
「だって、私と違って隣に住んでるわけでしょう。こう……」
 母親が何かを耳につけるようなジェスチャーをした。
「コップをこう、隣の壁につけたりして。そしたら中の様子が、少なくとも物音は盗み聞けるじゃない。あの部屋のこと、あなたも気になってるんでしょ」
 野々森は仰天した。
「そんなことしませんよ!」
「私だったらする」
「いや、良くないでしょ。普通に考えて」
「こうやってあれこれ詮索してる時点で、私たちは十分に下世話だと思うけど」
「それとこれとは違うでしょう。それに今住んでるのは若い女の子なんですよ。その部屋を盗み聞きするなんて」
「モラリストなのね」
「前から思ってましたけど、あなた、ちょっと突飛ですよ。宗教とか言い出したり……」
「林原です」
「え?」
「私の名前。林原」
 野々森は一瞬虚を突かれたあと、「はあ」と曖昧に返した。
「そうですか……僕は野々森です」
「野々森さん」
 母親が下を向いたまま言った。
「下世話だと思われてもいい。でもね、私は近所のことが、気になるんです」
 その言葉に野々森は口ごもり、手元のペットボトルを見つめた。
 この人の言うことは、確かに突飛だ。下世話で、些細なことに入れ込みすぎているような気もする。
 でもそれは、ひとえに、小さい子供がいるからなのかもしれない。
 幼い子供を持つ親にとって、住環境というのは真剣な関心ごとだろう。ましてやこの林原という女性は、見る限り一人で子供を育てている。
 うちのアパートは家賃が安い。林原親子は金銭事情から、仮に何かがあったとしても引っ越すのが容易ではなく、安心して今の「ハイツエバーグリーン」に住み続けるために、こうしてあの部屋の正体に過敏になっているのかもしれない。
 それに対して、自分は一体なんなのだろう。あの部屋への関心ははじめ、ただの好奇心だった。その次は、ちょっと美人なこの林原とまた話すきっかけができたらという俗な下心だった。
 野々森は自分を恥じた。
 そして、野々森は心を決めて、口を開いた。
「実は、あの部屋についてわかったことがあるんです」
 その言葉を発した途端、隣で空気がピンと張り詰めるのを感じた。林原のほうを見ると、膝に肘をついて、組んだ両手の親指を顎に当てている彼女と視線が交差した。真剣な顔で、彼女は言った。
「何ですか」
「林原さん、大山めるって知ってますか?」
 訊くと、彼女は耳慣れない人名でも聞いたような顔で首を横に振った。野々森は林原に大山めるの概要を説明した。すると彼女はにわかに色めきだった表情になり、そのあと一転して、悔しそうな声で指をふたたび顎に当てた。
「そんなサイトがあったなんて」
「結構有名ですよ」
「ともかく、野々森さんはそのサイトであの部屋を検索してみたわけね」
「はい。結論を言うと」
 野々森は目の前に広がるキッズスペースを眺めた。林原の娘は相変わらず男の子とレゴで遊んでいて、色とりどりのブロックを積み重ね、何か、城と、その城下町のような建造物を作っていた。
 野々森は言った。
「あの部屋のことは、何も書かれてませんでした」
 キッズスペースでは遊具の滑り台から滑り落ちた子供がキャーとはしゃいだ声を上げ、その母親らしき若い女性が、心配した様子で我が子を抱き起こしていた。
 しばしの間ののち、片眉を上げて林原が言った。
「話が違うわね。あの部屋について、何かわかったって言ったじゃないですか」
「少なくとも事故物件ではないということが、わかりました」
「何それ。しかも、そのサイトに載ってなかったからといって、必ずしも事故物件じゃないとは言い切れないでしょ。まだ掲載されてないだけかもしれない」
「それはまあ、そうなんですけど」
「なんだ……」
 林原が組んだ両手を向こう側に返し、伸びをした。
「じゃあ結局、あの部屋のことは何もわからないままってことね」
 野々森は肯定した。本当は、続けて言いたいことがあるのだが、ここからは完全に蛇足だ。続けるべきかどうか迷ったが、野々森は言った。
「でも、その代わりにちょっと変なことを知ったんです」
 林原が伸びの動作を止めた。
「気になりますか?」
「もったいぶらないで」
「いえ、もったいぶってるとかじゃなく、くだらないので」
「早く言ってください」
「林原さん、うちの近くの山科ビルってわかりますか?」
「ええ」
「あそこが事故物件でした」
 言いながら、野々森は一月前にスマホで見た大山めるの検索画像を思い浮かべた。居酒屋やバーなど飲食店のたなが複数入居していて、野々森自身も同僚との飲みによく利用する、自宅アパート近くの雑居ビル。その山科ビルに、事故物件であることを示す赤い炎のアイコンが灯っていた、その光景を。
「サイトに書かれてたんですが、五年ほど前に火災があったそうなんです。出火元は三階で、比較的早くに火が消し止められたから、今はリフォームされて新しい飲食店が入ってますが」
「ちょっと待って」
 林原が手で制止した。
「これ、なんの話ですか。それに、その大山ナントカってサイトに載ってるってことは、その火災で誰かが亡くなったのよね」
「はい」
「ごめんなさい、人が亡くなってるのに、こう言うとすごく不謹慎なんだけど……それってそう珍しいことじゃないわ。どこの町にも、過去に火事のひとつやふたつはある」
「ただの火事じゃなくて、自殺なんです」
「え?」
「つまり、焼身自殺です」
 林原がぎょっとする様子を見せた。が、野々森は「なんでも」と続けた。
「その三階の店の、従業員かオーナーかはわかりませんが、自分に火を点けて、自死されたそうです」
 その自死の際に、詳しくはどういう手段が用いられたのかはわからない。可燃性の液体でもかぶって火を点けたのか──大山めるには「焼身自殺」と記載されているのみだった。
 林原を見る。彼女は何もないところを見つめて、小さな声で「しょうしんじさつ」と虚ろに復唱したあと、言った。
「それは……また随分と辛い方法を取ったものね。自殺の中でも一番、苦痛度の高い手段なんじゃない」
「ですよね……」
 想像しただけであんたんたる気持ちになる。
「近所でそんなハードなことがあったなんて知らなかった。五年前だったら、私と娘が越してくるより前ですから」
 林原はそう言って首を左右に振ったあと、「でも」と、またしても手のひらをこちらに向けた。
「ごめんなさい。それだって、気になるかって言われたら、別に、って感じ。だって他所のビルで、しかも過去のことなんでしょ。私はよく娘に悪趣味だって言われるけど、野々森さんの隣の部屋について詮索したのは、それが自分の住むひとつ屋根の下のことだからです。自分に関係ない場所の人死にを突っつくような趣味は、あいにくだけど持ち合わせてないの」
「林原さん」
 野々森は手を組み替えた。
「その焼身自殺があったのは、山科ビルの三階です。そこに今現在、何のお店が入ってるか、知ってますか」
「え?」
 林原が人差し指を唇に当てた。
「いえ……」
「看板とかで見覚えありませんか? 『凡僧』って名前の……」
 一呼吸おいて、野々森は告げた。
「焼き鳥屋なんです」
 土曜のショッピングモールの喧騒が、遠くに聞こえた。
 やがて、林原が口を開いた。
 は、という笑い混じりの声だった。
「何、それ。人が丸焼きになったあとの場所で焼き鳥屋をやるなんて、ブラックユーモアっぽいとでも言いたいの?」
「違います」
 野々森は手を顔の前で振って、「N O」の仕草をした。
「僕が気になってるのは、名前です」
「名前?」
「はい。その焼き鳥屋の名前、凡僧って言うんですよ」
「ぼんぞ」
「ええ、ボンゾ」
「それの何が気になるの。単にお店の人が、ツェッペリンのファンなんじゃないですか」
 へえ、と野々森は目を見開いた。その愛称を知っているほど、彼女もレッド・ツェッペリンが好きだとは少し嬉しい。ツェッペリンのドラマーであるジョン・ボーナムのことを、ファンたちは親愛を込めて「ボンゾ」と呼ぶ。
「それも考えられるんですが」
 と野々森は頭を掻いた。
「でも、ボンゾっていうのは英語圏ではもともと、別の意味を持つスラングなんです」
「どういうこと?」
「bonzoというのは、焼身自殺を指す俗語です」
 林原が目を見開いた。
「おれ、ロックが好きで。むかし買った洋楽のアルバムタイトルが、その言葉だったんです。買った当時はもちろんその言葉の意味なんて知らなかったんですけど、CDジャケットに、燃え盛ってる男の姿がデザインされてて、それがおっかなかったんで変に記憶に残って。大人になってから懐かしくてググったら、ネットでその言葉の意味を知ったんです」
 当時のことを思い出しながら、野々森は続けた。
「さっき林原さんも言った通り、焼身自殺って最も苦しい自死の手段のひとつですよね。だからその自殺方法は歴史的に、個人的な自殺というよりも、政治・宗教的な訴えとして用いられることが多かったみたいなんです。お坊さんの死に方って意味で、英語圏の人が日本語の『凡僧』から取って、bonzoって言葉が生まれたらしいんですよ」
 林原は口をつぐんだままだ。目線は宙にあり、その瞳は思案するように揺れていた。
 やがて、彼女が口を開いた。
「焼身自殺があった場所に、そんな名前を付けるなんて」
「ええ」
「でも、偶然じゃないの? その焼き鳥屋のオーナーは今あなたが言ったような豆知識なんて知らずに、ただただ好きな言葉を店名に選んだだけかも。その結果、ちょっぴりブラックな符号が生まれた」
「そうですね。けれど、おれはこう思うんです」
 野々森は前を向いた。
「悪意のない偶然にしても、その巡り合わせは気味が悪い。そして、仮に悪意があってその屋号を付けたんだとしたら、そんなサイコパスな感性を持った人間が近所にいるなんて怖い。おれが怖いのは──」
 言葉を切って、野々森は言った。
「どっちに転んでも、ちょっと怖いってことなんです」
 気づけば、野々森たちは二人してベンチの背もたれに体を預け、黙り込んでいた。
 キッズコートの子供たちはいつしかメンバーが入れ替わり、林原の娘の遊び相手をしていた男の子はもういない。林原の娘は一人でレゴの建物を作り続けていて、その創造物に興味を示した一回り小さい三歳ぐらいの女の子が、指をしゃぶりながら林原・娘の横で彼女の遊びを見つめていた。
「……私ね」
 野々森の隣で、林原がつぶやくように言った。
「ずっと気になってたのよ。あなたの隣の203号室のことが」
「すみません。結局、あの部屋のことは何もわからずじまいで」
「違う」
 林原がかぶりを振る。意味が掴めず、野々森は彼女の様子をうかがった。林原はしばらくうつむいていたが、やがて顔を上げると、フードコート全体を眺めているような表情で、妙なことを言った。
「野々森さん。あなた、あのアパートに越してきてどのくらいになる?」
「え……」
 なぜそんなことを聞かれるのか掴めなかったが、野々森は指折り数えた。
「三年弱……になりますかね」
「その前は?」
「O市でした。当時はそこに勤め先がありましたから」
 そう、と林原は言い、着ているカットソーの袖先をいじった。
「私たち親子が越してきたのは、あなたより少し先くらい。その前は、F駅に住んでました」
 ここから電車で二十分ほどの地域だ。
「そうなんですか」
「その前は、E駅。その前は、T市。そのさらに前は、名古屋」
「ずいぶん引っ越しされてきたんですね」
「元夫との間の事情で、ちょっとね」
 野々森は口をつぐんだあと、無言で続きを促した。複雑な内情があるようだ。
「私たち親子は本当に、いろんな町を転々としてきたの。だから、わかるのよ」
「何が」
「私はあの203号室の不可解さが気になってた。でもそれは、大きなことの、ほんの一端。私が本当に気になるのは──」
 そう言葉を切ると、林原はショッピングモールのフロアに向かって顎を上げた。
「この町よ」
「え?」
「ええ。この町全体。この町、何か変よ」
 言いながら林原はショッピングモールの中空を睨んでいる。しかしその目は敵意というよりも、果敢さで光っているように見えた。
 野々森はあっけに取られたあと、訊いた。
「変って、この常緑町が?」
 それはここの町名であり、最寄駅の名であり、この狭い地域全体を指す名称だ。野々森たちの入居物件である「ハイツエバーグリーン」も、その町名を横文字にしただけに過ぎない。
「変って、どこが、どんなふうに」
「わからない。町っていうか、人っていうか、……磁場っていうか」
 磁場? と野々森は思わず内心で素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと、そんなスピリチュアルの人を見るような目で見ないでくれる」
 林原がこちらを睨む。
「林原さんはそういう《磁場》とか感じる人なんですか?」
「馬鹿にして。変な言い方しなきゃよかったわ。ちなみに私に霊感はありません。幽霊とか超能力も、存在したら面白いとは思うけど信じてない。ともかく」
 林原がベンチに置いていたトートバックを手に持った。
「それでも私、しばらくはこの町に住み続けるから。引っ越し貧乏はもうこりごりだし、あのアパート自体は気に入ってるの」
 そう言って彼女は立ち上がると、片手を口元に添え、キッズスペースに向かって、
「いつき」
 と娘の名らしきものを呼んだ。手首の腕時計を指でさしながら林原が言う。
「そろそろ行くよ」
 呼ばれた娘は顔を上げ、手にあるレゴのひとかけらを作りかけの建造物の天辺にちょこんと積んでから、大人しくこちらへ歩いてきた。近づいてきた娘が野々森の姿を見て「あ」とでも言いたげな顔をした。こないだの奴じゃんとは気づいた様子だったが、娘はすぐに目を逸らすと、猫が飼い主に体をすりつけるような仕草で林原の背後に隠れた。前も思ったが、人見知りの気があるらしい。
「それじゃ」
 林原が肩越しに手を振った。これから歯医者なのだという。野々森は身の置き所がない気持ちで手を振り返して、遠ざかっていく林原親子の後ろ姿を眺めた。
 ベンチにひとり取り残され、野々森は林原にもらった緑茶のペットボトルを手でもてあそんだ。貧血はすでにおさまっていた。
 野々森は思った。
 町が、変。
 彼女は一体何を言っているのだろう。自分も大概、変なことを言ったが、変と言うならあの母親が一番変である。磁場――林原は、いわゆる電波系なのだろうか。あまり関わらないほうがいいのかもしれない。以前は綺麗な人だと浮かれていたが、いまや彼女が美人だろうとなんだろうとどうでもよくなっていた。
 野々森は眉間を揉むと、ショッピングモールを後にするため席を立った。飲みかけのペットボトルを片手に出口へと向かう。キッズスペースを横切る途中で、先ほど林原・娘が作っていたレゴの建物の姿が目に留まった。なかなかどうして力作だったので、野々森は思わず足を止め、その作品を鑑賞した。直径一メートルほどの円状に、大小さまざまな建物が並んでいる。これは、町なのだろうか。
 キッズスペースには子供たちの楽しげな声があふれ、フードコートは、ソースの匂いとクレープの香りと人々の会話で満ちていた。どこか遊園地を思わせる情報の中で、レゴの町を眺めながら、野々森は自分に言い聞かせた。
 大丈夫、何も起きない。だってここは、現実なのだから。
 ショッピングモールを出ると、早咲きの梅の香りがした。その香りの流れを追うようにして、野々森は立ち止まり、後ろを振り返った。なぜそうしたのかは、自分でもわからなかった。目の前に変わったものはひとつもなく、ただただ、みどりプラザの入り口がアーチの上に「ようこそ」という文字を掲げているのみだった。         

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