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第2回

僕らは祈ることにした

     1

 白い壁に囲まれた会議室のパイプ椅子に腰かけた瑠生るいは、口から漏れそうになったため息を呑み込んだ。
 改めてそこにいる面々に順繰りに視線を送る。
 内科医のはやしは、ニコニコと笑みは浮かべているが、大きな身体が揺れるほどに貧乏揺すりをしている。意外とせっかちなのは、前回の事案のときから察していた。だが、彼の態度はまだマシな方だ。
 大学の准教授であるもりは、興味がないことをアピールするかのように、腕組みをして俯いてしまっている。
 唯一、スクールカウンセラーの水音みおだけが、事案の重大性を噛み締めているような顔で、しゃんと背筋を伸ばして瑠生の方を見ている。
 真剣に考えてくれるのはありがたいが、正直、それが煩わしくもある。
 瑠生だって、根底は林や森と同じだ。やりたくて、やっているわけではない。宇佐美うさみに半ば強引に押し付けられた挙げ句、第三者委員会の委員長をやらされているだけだ。本音で言えば、適当に報告書を作成して終わりにしたい。
 だが、それが出来ないことも分かっている。
 今回の事案は、亡くなった敬斗けいとの母親が、SNSを通じて、学校を批判する発信をしたことで、炎上してしまっている。
 第三者委員会の調査が入ることで、一旦は沈静化しているが、火種が消えたわけではない。報告内容によっては、再び炎上する可能性を秘めている。そうなったときの火力は、何倍にも膨れ上がる。
 そのとき、最前線に立たされるのは、誰であろう瑠生自身なのだ。
「では、まず方針を固めたいと思います」
 瑠生は、軽く咳払いをして喉の調子を整えてから切り出した。
 宇佐美が事前に根回しを済ませてしまったせいで、第三者委員会の委員長は、瑠生が務めることになった。
 経験も浅いし、半ば無理やり押し付けられた仕事だ。他の人にやって欲しいと切実に思うが、それを主張すれば、ややこしいことになるのは分かっている。
「学校側は、いじめ事案に関するアンケートを取ってるんだよね?」
 軽く手を挙げて発言したのは、林だった。
「ええ。同じクラスの生徒たちに、いじめをしていたか、或いは、そういった行為を見かけたことがあるかというアンケートを取っています」
「だったら、そのアンケートを見せてもらった上で、内容を精査してもらって、それを基に報告書上げる感じでいいんじゃないかな?」
 林はにこやかに言ったが、「精査してもらって」という発言に、暗に「お前がやっておけ」という意図が汲み取れる。
「そうですね」
「林先生。それって、書類だけで判断するということですか?」
 水音が口を挟んだ。
 ――余計なことを言うな。
 内心で毒突いてみたが、それで、彼女の発言がなかったことにはならない。
 案の定、林の顔から笑みが消えた。
「誰もそんなことは言ってないでしょ。アンケートの内容を基に、いじめが確認出来た場合、該当の生徒から話は聞くよ。その上で、報告書を作成しようって言っているんだよ」
 林は怒鳴ったわけではないが、目には明らかに怒りが滲んでいた。
 娘ほど年の離れた水音に、揚げ足を取るような指摘をされたのだから当然だ。水音は意識が高く、正義感が強いのだろう。だが、この手のタイプは、自分の正義を主張する為に、極端な論調で、相手を非難する傾向がある。
「でも、それだけでは不十分だと思います」
 水音が真っ直ぐな目を林に向ける。
「どうしてだね?」
「スクールカウンセラーをやっているから分かるんです。生徒たちの中には、思ったことを口に出せずに、苦しんでいる子たちがたくさんいます」
「あんたは、その一人一人から、意見を吸い上げろと言っているのか?」
 反論を口にしたのは森だった。
 さっきまで、興味なしといった感じで、俯いていたのに、今は汚いものでも見るような目を水音に向けている。
「私は、そうすべきだと思います」
「スクールカウンセラーってのは、現場のことを何も知らずに、理想論だけ押し付ける」
「私は……」
「担任教師は、一人で三十人以上の生徒を受け持っているんだ」
「人数の問題では……」
「人数の問題なんだよ。一人で、三十人の心のケアをしていたら、いったいどれほどの時間がかかると思っているんだ? 授業の準備をして、部活動に参加して、職員会議に出て、日報を書き、保護者の相手をしなきゃならないんだ。いったい、何処に三十人もの子どもの心のケアをする時間があるんだ?」
「それは……」
「学校の教師は、残業も多くブラック企業なみの労働を強いられているんだ。あんたは、彼らに過労死しろと言っているのか?」
「でも……」
「そもそも、心のケアは教師の仕事なのか? 最近は、何でもかんでも学校のせいにする連中がいる。中学生に限らず、私が通っている大学ですら、保護者が心のケアをしろと言い出す始末だ」
「それが必要なこともあると思います」
 水音は反論したものの、その声は震えていた。
「それは否定せんよ。目の前でいじめが起きていたなら、それを注意するくらいのことはするさ。だが、昨今は、やる気を引き出して欲しいだの、うちの子に合った授業をやれだの言ってくる。挙げ句の果てには、子どもが非行に走ったのは、学校の教育のせいだと騒ぎ立てる。子どもの人格については、家庭が責任を負うべき問題だ」
「…………」
「繰り返すが、学校は勉学を教える場なのに、そこに力が注げなくなっている教師が、山ほどいるんだ。あんたらみたいな理想論者が、無責任に何でもかんでも学校に責任を押し付けるからだ」
「まあまあ。森先生。それくらいでいいんじゃないですか? 彼女、萎縮しちゃってますよ」
 林が笑顔で森の肩をポンポンと叩いた。
 森は不服そうにしながらも、再び腕組みをして俯いた。
 言い方には問題があるし、極端なところもあるが、ある意味正しいとも思う。
 水音の理想は分かるが、現実問題として、教師にそれを全部押し付けたのでは、今度は教師が潰れてしまう。
 挨拶のときの発言から、森の教育者としてのモラルを疑ったが、考えを改めた方が良さそうだ。
 あれは、生徒側ではなく、教師側に立って物事を考えていたからこその発言だったのかもしれない。
「私は……」
 水音がまだ何か言おうとしたので、瑠生は慌ててそれを制した。
 彼女が、これ以上、余計なことを言えば、それこそ喧嘩になりかねない。森と水音とでは、立場が違うので、見えている景色が全く違う。決して、相容れることはない。
「ひとまず、学校に出向いて、アンケートを確認させてもらいましょう。そこで、校長や担任教師からヒアリングをして、その内容如何で、改めて方針を決めるというので、いかがでしょう?」
 瑠生は咳払いをしてから、落とし所となるであろう提案をした。
「それでいいんじゃない?」
 林が、真っ先に同意の返事をした。森も「任せる」と小声で応じた。
山岡やまおかさんも、それでよろしいですか?」
 黙っていた水音に訊ねると、彼女は「問題ありません」と答えたが、その声には不満が滲んでいた。
「アンケートの回収とヒアリングは、神原かんばら君が行ってくれるんだろ?」
 林が例の笑みを浮かべながら言った。
 細められた目の奥に圧を感じる。人当たりはいいが、自分では何もせず、責任も取らない。ある意味、森よりも厄介なタイプかもしれない。
「分かりました。学校は帰り道の途中にあるので、今日にでも顔を出すようにしてみます」
「よろしく頼むよ」
 林はご満悦の様子だ。それに腹は立ったが、口に出すのはやめた。
「今日は、これで解散でいいのかな?」
 森が立ち上がろうとしたので、瑠生は「あの」と大慌てでそれを止めた。
「次の会合なんですが、庁舎ではなく学校側に部屋を用意してもらい、そこで行おうと思っています」
「何で? 神原君が近いから?」
 林はからかうような調子で訊ねてきた。
「いえいえ。学校は川崎市の麻生区にあるんですよ。途中、小田急線への乗り換えもあるので、ここからだと一時間弱かかるんです」
 一口に川崎市といっても、かなり距離がある。川崎庁舎を拠点にした場合、学校への行き来だけで、相当な時間を取られることになる。それでは、あまりに効率が悪い。
 林は、不満そうだったが「まあ、仕方ないね」と応じた。森も「別にどっちでも」と曖昧ながらも、同意を示した。水音も「問題ありません」と返事をしたので、今度こそ解散ということになった。
 長い時間、拘束されていたわけでもないのに、肩が重くなった気がする。
 これからの調査に関してもだが、このメンバーを纏める自信がなかった。第三者委員会の方が、空中分解してしまいそうだ。

     2

 川崎市役所の南庁舎を出たところで、スマホにメッセージ着信を報せるタブが表示された。
 宇佐美が、終わる頃合いを見計らって探りを入れて来ているのだろうと、タップしてしまったのだが、表示された文字を見て後悔に襲われる。
 恋人の恵奈えなからだった。

 話したいことがあります
 今日、時間は取れますか?
 電話でもいいです

 敬語を使ってメッセージを送ってきていることから、話す内容がどういうものかは、考えるまでもなく分かった。
 半年以上前から、関係性は悪化していて、ほとんど顔を合わせることもなかった。いや、そもそも、彼女と良好な関係を築けていた期間など、ほとんどない。
 アプリで知り合い、条件に合うので、取り敢えずで交際を始めたのが失敗だった。
 趣味嗜好や金銭的な価値観が同じであったからといって、性格が合うとは限らないという当たり前のことを思い知らされた。
 恋人として、相手に求める距離感が違ったのだ。瑠生からしてみれば、大人なんだから、お互いに時間の合うときに、楽しめればいいくらいに思っていたが、恵奈はそうではなかった。
 彼女が欲していたのは、恋人ではなく、恋愛をしているという実感だったのだろう。それが瑠生には煩わしかった。
 話したいこととは、別れ話で確定なのだろう。だったら、いちいち断りを入れずに自然消滅でいいし、最悪、メッセージで伝えてくれればいい。だが、恵奈は自分主演のドラマのように、劇的な幕切れを演出しようとしているのだろう。
 周囲の視線に晒されながら、別れ話をするなんて、とてもではないが耐えられそうにない。
 瑠生は、ため息を吐きつつ画面をロックすると、スマホをポケットにしまった。
 他人との距離感が分からなくて悩むのは、何も思春期の子どもに限ったことではない。大人になったからといって、他人との絶妙な距離感が身についたりしない。
 瑠生は、他人からドライだと言われることが多々ある。感情が薄いとか、何を考えているのか分からないとか、それ系のことは一通り言われた。
 別に、自分では感情が薄いとは思わない。喜びも、怒りも、悲しみも、人並みにあるつもりだ。ただ、それを他人に伝えるのが、あまり得意ではない。むしろ、オーバーアクションで表現する人の方がどうかしている。
 ――本当にそうか?
 心の内で声がした。それは、瑠生自身の声だったような気もするし、別の誰かだったようにも思う。
 ただ、その声が何を指摘しているのかは分かる。
 瑠生は、昔からこうだったわけではない。いつからか、他人と距離を詰めるのが怖くなったのだ。
 適切な距離で、お互いを干渉しないようにしていれば、誰も傷付かないし、誰かを傷付けることもない。深く入り込んでしまうと、よかれと思っての言動が、何かのトリガーになってしまったりする。
 瑠生は、もうトリガーを引くのは嫌なのだ。
 思考を断ち切るようにして歩き始めたところで、「神原先生」と背後から声をかけられた。
 振り返る前から、それが誰なのか分かっていた。だからこそ、鬱陶しく感じる。
「先ほどは、どうも」
 瑠生は、笑みを浮かべながら駆け寄ってくる水音に会釈をした。
「これから、学校に行くんですよね? 私もご一緒します」
「いえ。一人で大丈夫です」
 やんわりと断ってから歩き始めると、水音が横に並んできた。
「でも、学校の様子も見ておきたいですし、ご一緒します」
 何とか断る口実を絞り出そうとしたが、これといって何も思い付かなかった。水音は、それを同意として受け取ったらしい。
 彼女に対する苦手意識が、どんどんと強くなっていく。
「さっきは、すみませんでした――」
 水音が歩きながら頭を下げた。
「さっき?」
「はい。出過ぎた真似をしてしまいました」
「ああ……」
 森との口論のことを言っているのだと思い至る。
 別に引き摺るようなことではないと思うが、根が真面目なのだろう。
「正直、森先生の言っていることは分かるんです。教師の方から、同じような批判を何度も受けました」
「そうなんですか?」
「はい。現場は疲弊しています。子どもの心のケアまでしている余裕はないんです。私たち、スクールカウンセラーも同じです」
「同じ?」
「ええ。人手不足なんです。一人で幾つもの学校を掛け持ちしています。常駐しているわけではないので、子どもたちの一人一人を把握出来ていないのが現状です」
「そうですか……」
 これまで、スクールカウンセラーがどんな仕事なのか、興味を持っていなかったので、水音の説明は初耳だった。
「保護者の方からのクレームも凄いです。スクールカウンセラーと話せば、子どもの言動が劇的に変わると思っている方が多いんです。早く、うちの子をどうにかして欲しいという無茶な要望を受けたりもします」
 その光景を想像して、瑠生は思わず噴き出して笑ってしまった。
 保護者は、子どもの悩みをプログラムのバグくらいにしか認識していないのかもしれない。だから、専門家に依頼すれば、全てが劇的に改善すると勘違いしている。
 と、そこまで考えたところで、水音の視線に気付き、慌てて笑いを引っ込めて真顔を作った。
「すみません。笑い事ではなかったですね」
「いいえ。笑い事です」
 水音は首を横に振ってから話を続ける。
「実は、心が折れかけていたんです。理想を持って、この仕事を始めました。でも、現実は、そんなに甘くない。自分たちに、出来ることなんてほとんどない。スクールカウンセラーなんて、所詮は国が対策していますというパフォーマンスの為に、設置している制度に過ぎないんじゃないかって」
 森との口論を聞いていて、理想論者かと思っていたが、今の話を聞く限り、そうでもなさそうだ。
 だとすると、どうして、森にあんな風に突っかかったのかが分からない。
 瑠生が質問を投げかけようとしたが、それより先に、彼女はこちらの考えを察したのか、話を続けた。
「森先生の発言を聞いて、単純に腹が立ったのは事実です。でも、それは、森先生にというより、諦めて後ろ向きになっていた自分自身にだと思います」
「なるほど」
「でも、自分の中で、具体的な対策が何もないまま喋ってしまったので、感情論で話をしているみたいになってしまいました」
「そうだったんですね」
「何も出来ていないので、偉そうなことは言えません。でも、大人が諦めてしまったら。苦境に立たされた子どもは、それこそ行き場を失ってしまいますから――」
 水音に対して、好感が持てたわけではないが、彼女なりに色々と考えていることを理解して、少しだけ苦手意識は薄くなった。
「祈りですね」
 瑠生が言うと、水音が「はい?」と首を傾げて聞き返してきた。
 言うつもりがなかったのに、思わず出てしまった言葉なので、本当は説明したくないのだが、聞き返されてしまっては答えるしかなくなる。
「祈りって、宗教上は神に感謝や懺悔、願いを伝える行為だといわれています。それは、自分の限界を知り、自分の想いが誰かに届くと信じる意味もあるんです」
「そうなんですね」
「山岡さんのやろうとしていることは、祈りに似ていると思ったんです」
 瑠生の言葉に、水音は目をぱちくりさせたが、やがて合点がいったように明るい笑みを浮かべた。
「そうですね。私は祈っているのかもしれません。自分一人では、どうにもならないけれど、誰かに届いて欲しいって――」
 水音は感銘を受けているようだが、これは瑠生の考えではない。中学校のときのクラスメイトの受け売りだ。
 結局、彼の祈りは誰にも届かなかった。世界は残酷なのだ。
「神原先生は、どうして子どもの権利委員会に入ったんですか? 是非、考えを聞かせてもらいたいです」
 水音がチラッと横目で見ながら訊ねてきた。
 会議室で顔を合わせたときも、同じ質問をされた。あのときは、意識高い系の理想主義者が同胞を求めての発言だと思っていたが、今は意味合いが少し違って聞こえる。
 きっと彼女は、自分がスクールカウンセラーとして、どう歩んで行くべきなのか、その道を見失いかけている。
 だから、指標になるべきものを求めて、瑠生の意見を聞こうとしているのだ。
 事実で言えば、上司の宇佐美に半ば無理やりに――ということになるが、それを言うべきではないことくらいは分かる。
 だが、代わりとなる適当な嘘は、咄嗟に思い浮かばなかった。
 言葉に詰まっていたのだが、ちょうど、駅の改札に辿り着いた。ここが会話を終わらせるタイミングだ。
「では、ここで」
「あ、でも……」
「本当に、ぼく一人で大丈夫ですので」
 瑠生は会釈をすると、そのまま早歩きで駅の改札に入った。水音は、追いかけてくるようなことはなかった。
 ほっと胸を撫で下ろしつつ、駅のホームに立つ。
 頬に当たる風の温さが、自分の中にある迷いを消してくれる気がした。

     3

 川崎市立春山中学校は、駅から徒歩五分の場所にあった――。
 二十年ほど前に駅が新設され、住宅地として開発された地域で、昔ながらの商店街のようなものはなく、駅前にコンビニと大型のドラッグストア兼スーパーがある。
 似たような造りの家が整然と並んでいて、いかにも閑静な住宅街といった感じだ。
 瑠生は、桜の樹が立ち並ぶ小道を抜け、中学校の正面玄関まで足を運んだ。夕方の五時を過ぎていることもあり、門は閉じられていた。
 門の脇にある警備室に顔を出すと、六十過ぎの男性が応じてくれた。
「宇佐美法律事務所の神原といいます」
 瑠生が名乗ると、話が通っているらしく、すぐに首から下げるタイプの入館証を渡され、門を通してくれた。
 昇降口で靴を脱ぎ、来賓用のスリッパを借りて廊下を進む。パタパタとスリッパの鳴る音が、何だか懐かしく聞こえた。
 二階の職員室まで足を運び、ノックしてから戸を開ける。
 まだ、教員の多くは職員室に残っていた。事件があったせいか、みな疲弊していて、生気がないように見える。
「宇佐美法律事務所の神原です。大貫先生はいらっしゃいますか?」
 瑠生が声をかけると、一番奥の島にいたジャージの男性が手を挙げた。彼が、大貫のようだ。
 すぐに、こちらに来てくれるものと思っていたが、大貫は電話中らしく、瑠生の方に視線を送りながらも、受話器を握って謝罪の言葉を繰り返しながら、ペコペコと頭を下げている。
 急かすのも悪いので、瑠生は黙って待つことにした。
 そうしている間に、電話が鳴った。出入り口近くにいた若い男性が、ふうっとため息を吐いたあと、電話に出て学校名を名乗る。
 彼は、「いや。それは」、「はあ。ちょっと分かり兼ねます」と曖昧な返事をしながら、電話に応対している。
 そうこうしているうちに、また電話が鳴った。今度は、三十代くらいの女性が電話に出る。
 ここだけ切り取ると、学校の職員室というよりコールセンターのようだ。
「すみません。お待たせしてしまいました」
 大貫は電話応対が終わったらしく、声をかけてきた。
「いえ。大丈夫です。こちらこそ、急にすみません」
「いえいえ。とんでもありません。第三者委員会には、全面的に協力するように、岸本きしもと校長から言われていますので。生徒に取った、いじめに関するアンケートの件ですよね」
「はい」
「こちらにどうぞ」
 大貫が職員室を出て廊下を歩き始めたので、瑠生はその後に続いた。
 彼は肉付きもよく、大柄な体格なのだが、その背中は酷く頼りなく見えてしまった。彼だけでなく、他の職員の疲弊度合いも相当に大きいように見える。
「普段から電話は多いんですか?」
 瑠生は、それとなく話題を振ってみた。
「いや。まあ、保護者から、色々と連絡があるので、それなりではあるんですけど、今は、例の件で色々あったので特に……」
 大貫は、頭を掻きながら濁した言い方をしたが、それで大凡おおよそ見当がついた。
「事件のことに対する問い合わせですか?」
「それだったらいいんですけど、まあ、ほとんどが罵倒ですよ。『お前の学校はどうなってんだ』とか『校長を出せ』とか、酷いのになると『殺すぞ』なんて脅しもあります」
「酷いですね……。警察に相談するとか、電話の応対をストップすることは出来ないんですか?」
 瑠生が言うと、大貫は振り返って泣き笑いのような顔をした。
「私たちも、そうしたいですよ。でも、校長が誠意を持って対応しろという方針なんですよ」
「校長はバカなんですか?」
 思わず声が出てしまった。
 そもそも、ここまで炎上したのは、校長である岸本の誠意のない対応が原因の一端だ。そのとばっちりを受けている教師たちに、誠意のある対応をしろなんて、冗談としか思えない。
 とはいえ、校長をバカ呼ばわりするのは、口が過ぎたと反省したのだが、意外にも大貫は目を細めて笑ってくれた。
「いや。私らは、何も言えないんです。神原先生が、そう言ってくれるだけで、少しは溜飲が下がりますよ」
 大貫の気の抜けたような笑い顔を見て、職員室に渦巻く淀んだ空気の正体が分かった気がする。
「どうぞ」
 廊下の突き当たりにある応接室まで来たところで、大貫が中に入るように促す。
 瑠生は「失礼します」と告げてから応接室に入る。
 四人掛けのソファーセットが置かれていて、テーブルの上に小さいサイズの段ボール箱とファイルが置かれていた。
「そこにあるファイルが、先日実施した、いじめに関するアンケートの結果を纏めたもので、段ボールの中に原本が入っています。自由に見て頂いて構いません」
「ありがとうございます」
 瑠生はファイルを手に取り、それにざっと目を通す。
 アンケートの結果を集計したものだが、それは信じ難い結果が記されていた。中学二年生、百四十名の中で、いじめ事案を目撃したことがあるという人数が、0と記されていた。
「ちょっと待って下さい」
 瑠生は、応接室を出て行こうとした大貫を呼び止めた。
「何でしょう?」
「この集計結果は、本当に合っていますか?」
集計結果は合っています、、、、、、、、、、、
 大貫は苦笑いとともに、含みのある返答をした。
「集計結果は――というのは、どういうことですか?」
「そのアンケート、記名式なんですよ」
「は?」
 信じ難い回答に、瑠生は自分でも笑ってしまうくらい、素っ頓狂な声を出してしまった。
「岸本校長の意向で、アンケートは記名式になっているんです。無記名の回答に関しては、集計データに入れるなと……」
「どうして、そんなバカげたことを」
 疑問が口を突いて出たが、すぐにその答えは見つかった。
 記名式にすることで、生徒たちの口封じを行い、いじめ事案は発生していなかったことにしたかったのだろう。
 想像していた以上の闇の深さに、瑠生は息をするのも忘れていた――。

 

◇Profile◇
神永学(かみなが・まなぶ)
1974年、山梨県生まれ。2004年『心霊探偵八雲 赤い瞳は知っている』でプロデビュー。「心霊探偵八雲」シリーズとして人気を集める。他の著書に「天命探偵」「怪盜探偵山猫」「確率搜查官 御子柴岳人」「殺生伝」「革命のリベリオン」「浮雲心霊奇譚」の各シリーズ、『イノセントブルー 記憶の旅人』『ラザロの迷宮』『マガツキ』『青龍中学校 オカルト探偵部』などがある。

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