大人気の絵本作家・ヨシタケシンスケさんの最新刊が好評発売中! ということで、全3回にわたり、ロングインタビューをお届けいたします! 創作秘話から、海外版製作についてまで、お話をたくさん伺いました。
(ライティング:松井ゆかり 写真:帆刈一哉)
◆まっただ中にいるお父さんやお母さんへ
生まれてすぐの子育てのバタバタって、びっくりするくらいすぐ忘れちゃうんですよね。最近はもう、小さい子を見るとかわいくてしょうがない。こういう感じだったなあと。でもその子のお父さんやお母さんにとってみれば、いちばんイラッとする時期だったりするわけです。
はたから見ていて子どもが一番かわいい時期って、お父さんとお母さんには一番余裕のない時期で、子どものかわいさを楽しむ余裕がないことは、僕もよくわかるんですよね。でもその頃にあんなにバタバタしてすごくイライラしていたけれども、そういう姿を微笑ましく見ていてくれた人もいたんだなあっていうことも今ならわかるんですよね。同じように泣いていても、よそのお子さんだったら許せることもあるわけで、そういうところに大きな温度差があるということも、やっぱり10年たたないとわからないことだったりする。まさにその我が子に一番ストレスを感じてしまっているお父さんやお母さんに、どうにか「温かく見守っている人もいるよ」「自分の子だとカリカリしちゃうよね」ってことをやんわり伝えることはできないだろうかと思うんですね。何かうまいやり方を見つけられたらいいなあと。当時の自分がちょっとでも救われるような、ものの見方とか、気持ちの余裕の持ち直し方とか、そんな方法がひとつでもふたつでもあれば、乗り切れることもあると思うんです。
◆すべての家庭に応用できる解決法なんてない
僕が絵本で描いているのはあくまでひとつの具体例みたいなものなので、「こういうやり方があるんだったら、じゃあ私はこういう捉え方をしよう」と自分で考えるヒントにしてもらえたらいいなと思うんです。子育ての本を買えばつらさがすべてクリアになるかというと、それほど単純なものではないというところはみんなわかっているだろうし、すべての家庭に応用できる共通の解決法なんてものはないわけですよね。じゃあ、うちの場合は、私の場合は、自分のいる環境の中で何をすればちょっと楽になるか、家族全体のケアが向上するか…そういったことを考える余裕をどこかで見つけられればいいんですけど、「とはいえ難しいんだよねー」っていうところも含めて、「できたらいいよねー」っていうことなら言えると思ってるんですよね。
◆みんな誰かに育てられている
『あんなにあんなに』は”母と息子”の話なんですが、もちろん”父と娘”でも”母と娘”でも、もっと言うと家族ですらない様々な関係性があり得ると思っています。一緒に生活する者同士の大変さ、群れで暮らすことの苦労みたいなことですよね。だからうちの場合、それこそ、そのふだん一番よく目にするのが息子と母親のけんかでして(笑)、そういう意味で僕にとっていちばん身近なのが、”母と息子”だったわけなんです。うちは子どもが男子2人なので、娘との関係性はよくわからないから、男の子たちを育てていてわかることの中で、できることをやっていけたらいいなと思っていますね。
「親子」ということで言うと、誰しも誰かに育ててもらってきているわけですよね。
赤ちゃんのお世話なんかをしていると、大げさじゃなく、毎日命を救っているんだなって思うんですよ。ちょっと歩き出したら「おまえ死ぬ気か?」みたいなことを毎日するわけじゃないですか(笑)。そういうことを知って初めて、自分もこんなに毎日命を救ってもらっていたんだっていうことに、30年、40年たってやっと気づいたりする。でもそのことを自分の子どもが知るまでには、まださらに30年以上かかるんですよね。お互いにわかり合う、重ね合うところがなかなか存在しない。そういうものなんだということも、親の方はだんだんわかってくるというか。でもそれを今理解しろって子どもに言うのは乱暴な話だし、そこをどうにかしてヒントだけでも出せないものだろうか、というのも創作におけるひとつのテーマではあるんです。子育てにおいて、自分もすごく手間やコストをかけてもらっていたんだということがわかってきますからね。もっと言うと、お子さんがいらっしゃらなくても、パートナーの方がいらっしゃらなくても、生きている以上、どこかで誰かに育ててもらってきたわけです。いろんな境遇の方にとって、何かしらその共通の部分があってほしいなあと思います。
◆一対一の親と子
この絵本ではお父さんが1回も出てこないんですけど、お父さんはどこにいるのか、なぜいないのか、という説明は一切ないんです。最初から、それはしないようにしようと思ってたんです。一緒に暮らしていないのか、もうそもそもこの世にいないのか、僕自身もわからないんです。
そもそも、「お母さんと息子」という一対一の関係においては、お父さんがいようがいまいが変わらないんですよね。ふたりがやりとりをしているその瞬間は、お互いしかいないわけです。”お父さん・お母さん・子ども”が全部揃っていないと家族じゃないわけでは全然ないですし、一般的なイメージとしての家族の姿を全部揃える必要もないというのも、絵本を作るときに僕が考えることのひとつです。だから「お父さんなんで出てこないんだろうなあ」って自分で思いながら、どうとでもとれるようにしておきたいなっていうのはなんとなく思っていました。
望むと望まざるとにかかわらず、家族というのはいろんな形が存在します。それがどんな形であれ、自分と生活をともにしている人が嬉しそうにしていれば自分だって嬉しいし、その逆だったら自分もおもしろくない。人間として生きている以上、時代とか、文化とか、立場とかを超えて共通する部分というのは我々が思ってる以上にたくさんあるはずなんですよね。何が嬉しくて何が悲しいか、何がさみしいかというようなものは、実はそんなにバリエーションがないはずで。そういった基本的な要素を丁寧に拾うことで、どこの家庭の話のようにも見えるけれど、どこの家庭の話にも見えないような、そういう絵本が作れたらいいなあというのは思うんですよね。どんな国のどんな時代の人でも、背中がかゆければ届かなくて焦ったり、すねをぶつけると痛くてうずくまる。おなかがすくとしょんぼりするし、好きな人にほめられたら嬉しいんですよね。そういうところで、おもしろがれるようなことはまだまだたくさんあるなって思うんです。
◆見ていることさえ意識しないような景色の中で
実は最初『あんなにあんなに』は32ページの絵本にしようと考えていて、いまより少ないボリュームで考えていたんですね。でも32ページだとちょっとせせこましく感じてしまうところがありました。ラフを提出しようと思っていた前日くらいに編集の方から、「もうちょっと長めでもいいかもしれないですね」っていうメールをいただいて。「ああ、そうだな」と思って、それまでわりとぎゅうぎゅうに詰めていたのを見直してみたんです。ページ数を増やすと物語の流れに余裕が出てきて、場面転換というか時間経過みたいな部分がちゃんと入れられたので、「ああ、このページ数にしてよかったな」って思っています。
見開きページ3つ分で描いた風景のシーンは、単純にその時間の経過を表しているんですが、この風景のページがなかったらバタバタバタっとしてしまっていたところを、ある意味での息抜き的な箇所を3か所入れられたのは、本の構造としてとてもよかったなと思います。その何でもない、ふだん自分がそこを見ていることも意識していないような景色ってどんなものだろうっていうのを考えながら描きました。特に何にも意識しないような景色の中で、確かに生きているというような表現になればいいなあと思って。
◆創作は発見の連続である
僕の家はすごく平均的な、正しい言い方かどうかわからないですけど、すごくふつうの家なんですよね。だからそのふつうの家庭から何が見えるのかをテーマにできるというのも、ありがたいことではあります。大きな事件とか際立った特徴とかっていうのは、我が家はいまのところは特に縁がない。それぞれのご家庭がそれぞれの条件の中で生きている中で、うちはわりとたくさんの方と共通点の多い環境にいるはずなんです。
僕としては、平均的なところから見えるものは何か、多数派の人たちはどういう考え方をするのかという部分にすごく興味があって。世の中の仕組みみたいなものって、だいたい多数派の人たちに合わせて動いていきますよね。やっぱり群れで生きる生き物としては、多数派の動きに合わせることになる部分は多いわけです。そこで、その多数派の人たちはどういう欲を持っているのか、どういう弱さを持っているのか、それらをどうやって無いものとして日々過ごしているのかみたいなことにはすごく興味があります。平均的とみなされる生活をしているはずの自分にとって世の中がどう見えているのか、みんなはどう見ようとしているのかみたいなことはやっぱり気になりますね。
(第三回につづく!)
ヨシタケシンスケ
1973年神奈川県生まれ。筑波大学大学院芸術研究科総合造形コース修了。日常のさりげないひとコマを独特の角度で切り取ったスケッチ集や、児童書の挿絵、装画、イラストエッセイなど多岐にわたり作品を発表。絵本デビュー作『りんごかもしれない』で第6回MOE絵本屋さん大賞第1位、第61回産経児童出版文化賞美術賞、第8回「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」を、『もうぬげない』でボローニャ・ラガッツィ賞特別賞を受賞。『つまんないつまんない』で2019年ニューヨーク・タイムズ最優秀絵本賞に選出。近著に『あるかしら書店』『もしものせかい』などがある。2児の父。