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第7回

ダイナーⅡ(第7回)

 警官が振り返る前にパピはその脇を通り過ぎ、テーブルにぶつかる勢いで椅子に座ると、猛然と皿のものを食べ始めた。
 呆気にとられたわたしは、自分でも意外なほど大声を出していた。
「ゆっくり食べなさい! 行儀の悪い!」
「ぽふぁい! ……ママ」
 口の周りをソースで汚したパピが、そう云ったと同時に派手なクシャミをしたおかげで、口の中のものが飛び散った。
「パピ! 汚い!」
 ダフが怒り、スプーンでパピの頭を叩いた。
 ウルマ夫妻がおろおろとティッシュを探して回り、パピはシャツの裾で口を拭く。
「よしなさい!」
 わたしはティッシュを受け取るとパピの顔に押しつけ、テーブルのあちこちに飛び散った破片を拭いた。
 見ると老夫婦も一緒になって片づけようとしていた。
「ごめんなさいは?」
 ダフがパピを叱りつけた。
 すると両手にスプーンとフォークを握ったままのパピが辺りを見回してから、深々と頭を下げた。
「かたじけない」
 一瞬の間があり、ウルマ氏が噴き出した。婦人が続き、見るとシジマ巡査までが相好を崩している。ホッとしたのか、わたしも頬を緩めているのに気づいた。
 笑いが一段落した時、ウルマ婦人がポツリと云った。嬉しさと哀しさが入り交じったような表情だった。
「わかるでしょ……この子たちのおかげで今日、ウチは特別な日になったの。あれ以来、本当に久しぶりのことなのよ。ミノル」
 シジマは沈黙していた。が、ポケットからハンカチを取り出すと帽子を脱ぎ、額の汗を拭った。「あるかい?」
「もちろん」
「じゃあ、ひとつ休憩させてもらおうか」
 シジマはテーブルに近づき、帽子をダフの横に置くと、いったん外に出てパトカーのエンジンを切ってきた。回転灯の灯が消えた。
 しばらくすると、ウルマ夫人が大きなマグカップとクッキーの皿を運んできた。
 シジマはマグカップに口をつけるとひと口啜り、唸った。
「ほお、今夜は豪華版だな」
「半分はこってり入ってるわよ」
「この珈琲にはコンデンスミルクがたっぷり入ってるんだ」
 わたしの視線に気づいたシジマがそう頷いた。
「こいつは糖尿でね。カミさんは絶対に甘い物をやらないんだ」ウルマ氏が継いだ。
「だから、ここに来てこいつをもらうのが何よりも楽しみでね。今夜も呼び出しを喰った時には、こいつを飲んで帰れると思って半ば楽しみにしてたんだ」
「わかるわ。わたしも疲れた時には甘い物が欲しくなるから」
 シジマは頷き、カップの縁に唇を押しつけつつ、じっとわたしを見ていた。
「この人は料理がとても上手なの。ウチにあった材料だけでこれだけのものを作ってしまったのよ。あなたも戴きなさい」
 ウルマ婦人がシジマにキャベツとコンビーフの炒め物をよそう。
「ご馳走になるよ」
「どうぞ」
 白い口髭をもぐもぐと動かしながらシジマは何度も頷く。
「これもどーぞう」
 ダフがスプーンですくったオムライスを差し出した。
「おお。すまんな、お嬢ちゃん」
 シジマは食べ、また頷いた。
 ウルマ夫人がクラムチャウダーを温め直し、運んできた。
「うまいなあ」
 シジマがわたしを見て、笑った。
「嬉しいわ」
「ひさしぶりでしょ。この店が……こんな風になるのは」
 ウルマ夫人が云い、夫とシジマが頷いた。
「本当だな、エリ。俺たち夫婦もおまえたちも、こんな感じは久しぶりだ」
「どうして、おじさん」パピが口を開いた。
「この辺りはすっかり年寄りの街になってしまっていてな。あんたらのような子どもを目にする機会が少なくなっちまったんだ。どうなるかわかるか?」
「ゆっくり眠れるんじゃない?」
 シジマは笑った。
「確かにな。だが坊主、年寄りは年寄りだけだと元気がなくなるんだ。若い者や子どもの声や姿が生きる水になってる。子どもは渓流と同じだ。のべつ音を立てているし、どっちに流れて、どうなるのかわからん。でも、見ているだけで晴れ晴れする。元気になる」
 シジマの言葉をウルマ夫妻が頷きながら聞いていた。
「わしの倅夫婦は遠くに行っちまった。いずれは逢えるが、簡単には逢えないところだ」
 シジマは微笑み、話を止めるとクラムチャウダーに移り、また頷いていた。
「さあ、あなたたちも早く食べてしまいなさい。明日も早いのよ」
 パピが〈はあいまま〉などと云い、ダフを促した。
「うまかった」皿を置いたシジマがクッキーを数枚つかんで立ち上がった。「すまんが、あんた。手を見せてくれんか」
 わたしは手をシジマに差し出した。
 彼は頷いた。
「料理人の手だ。間違いない。じゃあな、ウルマ」
 シジマは帽子を被り直した。
「いいの?」
 そう声を掛けると、シジマはウルマ夫妻を見て告げた。
「通報は取り消されていたんだ。俺が此処に来たときにはあんたは子どもと一緒にすでに就寝していた。わざわざ起こすような真似は要らんよ」
 ウルマ夫人がホッと溜め息を吐いた。
「また珈琲飲みにいらっしゃい。おまけするから」
「ああ」
 シジマはダフに敬礼をすると、見上げているパピの頭に手を載せた。
「かあさんを大切にな。男なら守ってやらなきゃ」
「わかってる」
 パピがちらりと、わたしを見た。
 わたしは口を曲げて応えた。
 パトカーが一度だけクラクションを鳴らして去ると、急に眠気が襲ってきた。パピもダフも満足したというので、わたしは夫妻に礼を云って引き上げることにした。

「あの時、本当はどうしようと思ったのよ」
 ダフを寝かしつけたわたしは、ベッドで横になっているパピに訊いた。
「どうするとは?」
「おまわりさんによ。一瞬、襲いかかるのかと思ってドキドキしたわ」
 パピが鼻を鳴らした。「ふん。俺はこう見えても善人だぜ。あんな爺さんに乱暴なんかするかよ。暴力ってのは生きるために使うんだ。奪ったり毟ったりするために使うもんじゃねえよ」
「誰の言葉?」
「ニーチェ」
「嘘」
「寝る」
 目を閉じてウトウトしたと思った瞬間、パピに起こされた。
「出るぞ」
 時計を確認すると五時になろうとするところだった。
「まだフロントは開いてないわよ」
「ベッドに置いておけばいい。昨日、連絡が取れたんだ。約束の地点に迎えが来る。明日中には接触したい」
 わたしは身支度をし、グズるダフを着替えさせた。
 部屋のドアを開けると、ジープのサイドミラーに布袋が掛かっていた。なかには焼きたてのクッキーとサンドイッチにオレンジジュースの入った水筒が入っていた。
〈ありがとう〉わたしは心の中で呟き、枕の下に充分だと思えるだけの代金を入れた。鍵は部屋のなかに残し、ロックをする。
 エンジンを掛け、車廻しを過ぎると、フロントの前でパジャマ姿のウルマ夫妻が立っているのが見えた。
 道に出てしばらくすると、クッキーをかじっていたパピが紙を差し出した。
「メモ。あのおばさんから。子どもは死んでいないんだってさ。昨日は楽しかったって」
「そう」
「帰りにまた寄ってくれって、さ。気楽なもんだよな」
「寄るわ」
「え」
「寄るわよ」
 わたしが睨むと、パピは溜め息を吐いた。
「素人はこれだからねえ……やだやだ」

                    *

 午後、ジョーを捜すときに使っていたタブレットを弄っていたパピが突然、「停まって」と云った。辺りは鬱蒼とした林で、ジープは山道を小一時間ばかり登っていた。
「どうするの?」
「ここから歩く」
「え。こんな山の中よ」
 パピは無視し、さっさとリュックを背負い、ダフを連れて藪の中へ分け入った。
「ちょっと待ちなさいよ」
 慌てて追ったのだが、堆積した枯葉や剥き出しの土に足を取られたり、滑ったりでなかなか追いつくことができない。
『樹に傷をつけておく、見失ったらそれを頼りに来い』
 斜面の上からそう声が降ってきた。パピはまだしもダフまでが圧倒的な速さで進んで行くのが信じられなかった。
「ちょっと待ちなさいよ! わたしは何も持ってないのよ!」
『だったら死に物狂いで追いつけ!』
 不意にパピの声が間遠になっていくことに気づき、わたしはゾッとした。
 周囲はすでに同じように見える樹ばかりが立ちふさがり、自分がどこからやってきたのかすら定かではなくなっていた。
「待ちなさいよ!」
 何かに遮られてしまったのか、今度の返事は聞き取れるか取れないかというほどの微かなものだった。
「パピ! ダフ!」
 その時、わたしは必死になって樹の傷を見つけようとしていた。けど、どこかで見落として間違えた道を進んでしまったのか、それとも単にこの場所にはないのか、見つからなかった。わたしはパピを呼んだ。
 返事がなかった。
「なんなのよ!」
 焦れて叫んだが声はなかった。
 わたしは斜面を少し下った。傷のあった樹を見つけ、そこからまた正しい樹を探してみようと思ったのだ。
 地面の様子はどこもかしこも同じに見えた。生えている樹もそうだ。
 わたしは何度も叫んだ。そして、叫び続けた末に自分がへとへとなのに気づいた。足元がズルリと滑り、バランスを崩したわたしは、伸びた枝をつかんだ。軽快な音とともに枝が根元から折れ、わたしは斜面を勢いよく転がり落ち、枯葉に埋まっていた岩に衝突した。激痛が脇腹を抉り、身体中の酸素が一気に吐き出され、声も出せず、痙攣した。

 気がつくと、辺りは真っ暗になっていた。空を見上げたが月の姿はなかった。真の闇は初めてだった。腕時計はあるけれど、点灯機能がないので役に立たない。
 わたしは何とか立ち上がると、手探りで歩き出した。すぐに足元を取られ、再び転んだ。まぶたの真横を細い枝が薙(な)いだ。あと数ミリずれていたら眼球を貫いていた。立ち上がることをあきらめ、わたしはゆっくりと腹這いになって進んだ。手がさまざまなモノに触れるが、それが樹なのか岩なのかすらきちんとわからない。目の前が墨を塗ったように暗黒なのだ。
 そのうちにわたしは、水平感覚が狂っているのに気づいた。前進しようとすると左右に揺れているような気がする。さらに怖ろしいことに、自分がまったく前進していないのではないかと考えた途端、それが現実になるような気がした。枯葉の上をただいたずらに掻き混ぜているだけの自分の姿が脳裏に浮かぶと、消すことができなくなった。
 叫んだが、それは耳慣れた自分の声ではなく、誰かが真似をしているように聞こえた。
 水が欲しかった──喉が貼りつき、咳をすると痛んだ。顔が粘ついている。それが土なのか、知らずに叩き潰してしまった昆虫の体液なのかもわからない。時折、唇がゾッとするような味になった。何かが付着したのを舐め取ってしまったのだ。
 地面が揺れる感覚が強まり、しっかり土を握り締めていないと回転してしまいそうになる。地面が多いかぶさってきたら窒息するじゃないかと思うと心臓が破裂しそうになる。大きく鼻から息を吸い込んだが、肺が一杯にならない。息が入っているという確信、ちゃんと鼻を通っている、充分に満たされているという安心が感じられなくなり、わたしは闇の中で悲鳴を上げた。
 それでも落ち着かなければならない。状況にただ身を預けていても何にもならないことをわたしは経験で知っていた。
 わたしは自分でできること、没頭できること、これだけは確かだと自分に告げられることを始めた。手で穴を掘ったのだ。穴があればそこは地面であり、それをつかんでいれば引きずり回されることはない。また蒸しタオルで全身をくるまれているような山の熱気を、土の冷たさは少し減らしてくれるかもしれない。
 わたしは土を掻いた。そして、そのうちに眠りとも失神ともいえない状態に陥った。

 目を覚ますと、周囲は明るくなっていた。爪が割れ、土が詰まっていた。わたしは立ち上がると耳を澄ませ、勝手に歩き始めた。もう頭のなかにパピたちのことはなかった。今、わたしを支配しているのは〈水〉だった。何も聞こえなかったが、わたしは〈下る〉ことにした。下れば必ず水はあると、根拠のまったくない意見を頭の中の誰かが云っていた。
 水は見当たらなかった。もう額の汗を手で拭うことも億劫だった。歩きながら悪態をついた。足を動かすこと、バランスを崩して転がったら立ち上がること、また足を動かすこと、そのすべてが悪態をつくことで可能になっていた。
 すると、何かが鳴っているのが聞こえた。〈水の流れ〉だと気づくのにしばらくかかった。
 水がある!
 そう思ったわたしは駆け出そうとした。が、足はぬるぬるとしか動かなかった。ジャケットがはだけるのもそのままに、わたしは下った。そしてついに渓流を見つけた。
 獣のような悲鳴を上げ、わたしは水を呑んだ。恥ずかしい話だけれど、呑んで呑んで呑みまくっているとオシッコがしたくなった。なのにその時のわたしは顔を水に浸けて呑みながらしてしまっていた。
 充分に呑んでから顔を洗った。そして〈莫迦!〉と叫んだ。
 すると、反対側にわたしより少し若い女性がうずくまっているのに気づいた。ちゃんとした登山スタイルの彼女は、うつむいたままわたしを見ていた。
「迷ったんですか?」相手が口をきいた。
 わたしは頷いた。
「わたしもです」彼女は溜め息を吐いた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


Profile

平山夢明

1961年、神奈川県川崎市生まれ。1994年にノンフィクション『異常快楽殺人』を発表、注目を集め、1996年に『SINKER──沈むもの』で小説家としてもデビュー。2006年には短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞を受賞。2007年、同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた。2010年『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞をダブル受賞。2017年より「週刊ヤングジャンプ」にてコミック化され、大人気連載中。

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