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第8回

ダイナーⅡ(第8回)

 登山スタイルの女はわたしを見ていた。
「迷ったんですか?」彼女が口をきいた。
 わたしは頷いた。
「わたしもです」彼女は笑った。
 わたしは立ち上がろうとしたが、すぐには動けなかった。水を急に飲んだせいで躯の緊張が一気に解け、全身が〈休め〉の状態になってしまったようだった。わたしは彼女に頷くとその場で横になった。ゴツゴツした石が背中に噛みついてきたが気にならなかった。
 空は青かった。絵日記にでも出てきそうな雲が浮いていて、ゆっくりと移動していた。空の左右は森の緑が縁取っている。とりあえず水の不安からは解放された。パピを見失ってしまった以上、今の自分にできることはほとんどなかった。ハッキリしているのは、彼らにとってわたしはもう用済みだということであり、選択肢は店に戻ることしかなかった──わたしは体のいいロバ代わりだったということだ。
 躯を起こすと、登山服の女は同じ姿勢のままわたしを見ていた。しかも、目が合うとまた微笑んだ。
 立ち上がろうとすると、ふくらはぎと腰と背中と上腕の筋肉がギシギシと悲鳴を上げた。それでも歯を食いしばってなんとか足を踏んばると、比較的浅そうな場所を選んで向こう岸に渡ることにした。女は微笑んだままわたしを観察していた。
「どうするつもり?」
 挨拶も自己紹介もなし、わたしは単刀直入に彼女に訊いた。
「この先にバンガローがあるはずなんです。わたし、用を足している間にグループの人達から遅れてしまって、それを取り戻そうと藪をショートカットしたんです。そしたら……ぜんぜんわからなくなってしまって……」
 歳は二十代後半なのだろうが、全体の印象は薄い。それとスローな物言いが気になった。
「連絡は取れないの?」
「大事なものは腰のポシェットに入れてたんですけど。どこかで落としてしまったみたいで」
 見ればザックらしきものも持っていない。
「もう疲れちゃって……どうでも良くなってたところに」女はそこでわたしを見た。「良かったです。ひとりで死ぬのは怖いから」
 女の〈死ぬ〉という言葉が、わたしの中にあるどこかのボタンを押し込んだ。
「死ぬ? なに云ってんの、あなた」
「だって……こうなったら仕方ないじゃないですか」
「わたしは厭よ」
「元気なんですね」
「あなた、友達と来たんだったら絶対に捜してると思うけど?」
「どうかな……友達っていっても、そんなに友達じゃないんです。ただ登山口に向かうバスで一緒になっただけで……」
「職場や学校の知り合いじゃないの?」
 女は首を振った。「マルキリです」
「え?」
「あ。名前です、あたしの……マルキリ。おばさんは」
「カナコ」こんな時に苗字までいいたくはなかった。
「渓流に沿っていけば必ず下流に出られるわよ。あなた、頑張れない?」
 マルキリが自分の右腕に触れた。「転んだ時に折れてしまったみたいで」
 そういえば最前から右腕をかばうようにしていた。
「見殺しにしてってください」マルキリは横になった。
 わたしは岸辺を見回し、なるべく平たい使えそうな木の枝を拾った。
「これで固定すれば大丈夫だから」
「え? 面倒です。寝てたいです。動きたくない」
 わたしはマルキリの顔を真正面から見た。化粧っ気はないが狂っている様子はなかった。
「こんなとこにいたら死んでも食い荒らされてしまうわよ」
「死んでからなら良いです。どうせ痛くないから」
「莫迦! 生きながら喰われるのよ」今までの鬱憤を晴らすかのようにわたしは叫んでいた。
「おばさん、怖いですね。ヤクザみたい」マルキリは目を丸くした。
「黙って」
 わたしは自分のジャケットを裂き、折れたという右上腕に枝を当てて二か所縛ると、三角巾の要領で躰に固定した。
「おばさん、上手ですね」
「ガールスカウト。はるか昔」
 腕が固定されると安心したのか、マルキリは立ち上がった。
「行くわよ」
 予想では、渓流はわたしを民家の見える川下へと難なく案内してくれるはずだった。

                    *

 わたしたちは二時間ほど進んだ。右腕を使えないマルキリはバランスが悪く、何度もよろけ、歩くスピードがまったく上がらなかった。
「日が暮れる。急ぎなさいよ」
「別にどうでもいい気持ちがあるからでしょうね」
 昨夜と違い水の心配はせずに済んだが、その分、空腹が酷かった。胃に食べ物を入れていないせいか、頻繁に筋肉が攣るようになっていた。
 高低差のあるところでは、わたしがいったん先行し、マルキリが安全に下りられるか確認し、手の置き場などを指示した。何度も躯を支えてやらなければ彼女は前進できなかった。
「疲れた。死にたい」マルキリは口癖のようにそういってはしゃがみこんだ。
「もう少しだから頑張りなさい」
「絶対助かるわけじゃないし。生きてても面白いことなんかないし」
「じゃあ、帰ったら死になさいな」
「おばさん、怖い。やっぱりヤクザみたい」
 空の様子から昼はとっくに過ぎていた。マルキリは時計もポシェットにしまっていたため、失くしていた。
 突然、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。と思った途端、土砂降りになった。
「雨ですね。死にたい」
 わたしは無視した。
 濡れ鼠になりながらも、とにかく歩き続けた。体温が奪われ、全身が寒さで震えだした。マルキリはパーカーのフードをすっぽりと被っていたが、彼女のためにジャケットをダメにしてしまったわたしは薄いTシャツと下着だけで耐える以外になかった。雨は激しく、数メートル先すら白い壁に阻まれて、何があるのかわからなかった。全身の筋肉がビーフジャーキーになったようにこわばり、意図した半分しか歩幅が伸びなくなっていた。それでも、わたしは流れに沿って歩くしかなかった。
 突然、今まで聞いたことのない地響きのようなものが前方から聞こえてきた。慎重に進むと、信じられないことに渓流は滝に変わっていた。自然石がいくつも重なり合っている間を、水が二十メートルほど下へ勢いよく落下していた。これを手探りで降りることは、わたしにも無理だった。
「滝だ。落ちたら確実に死ねますよね」見返すと、マルキリが笑った。
「ここから先へは行けないわ。山側に戻って土手(あそこ)を登るしかないわね」
 土手は樹木が増水のたびに削られたのだろう。土が剥き出しで手がかりとなるのは垂れ下がった蔓(つる)のみだった。見回したところ同じような土手が背後にまで伸びていた。
「あたし手が使えないんだけど……」
「なんとかするわよ」
 わたしは先の尖った石を探し、土手に足場用の穴を掘ることにした。
 激しい雨に顔を顰めたままのマルキリは、それを黙って見つめていた。
 穴をできる限りの高さにまで穿ったわたしは、しっかりした蔓を選ぶと、それをまとめて掴み、ふたり分を支えられるか引いてみた。充分に手応えがあった。
「あなたをおぶるわ」
「そんなの無理です。あたしのことは見殺しにしてください。厭になったら滝から飛び降りれば良いんだから」
「ちょっと!」わたしは叫んだ。「二度といったら承知しない!」
 わたしはマルキリに指を突きつけていた。
「あんたが今までどんな生き方をして、どんな親にどんなふうに育てられたのか知らないし興味もないけど。わたしの耳に負け犬の糞を流し込むことだけは許さない! それだけはもう絶対に許さない! だから黙って! 黙りなさい!」
「まけいぬのくそ……だって」
 呆然としているマルキリに背を向けた。
「早く」
 マルキリの濡れた躯が被さってきた。ずっしりと体重がかかると、肺に溜めていた空気が漏れ出てしまった。目眩を感じながらわたしは両ひざに手を当て、押し込むようにしてどうにか脚を伸ばした──予想外の重さだった。登る自信が不意に足元から流れ出ていく気がした。
「どうしたの、おばさん」
「なんでもないわ」
 なんとか蔓を引き寄せると、わたしは穴のひとつに右足を掛け、踏んばった。マルキリの腕が首元にかかり、息ができなくなった。何かをいおうとしたが声にならない。わたしは抗議するのを止め、一刻も早く登りきることに集中した。蔓は見た目は滑らかだったが表面に細かな棘をもっていた。それらが掌に食い込み、滑るたびに皮膚を削るのが感じられた。
「おばさん、がんばって! がんばっておばさん!」
 マルキリが背中の上で身を躍らせる。
 ──動かないで! と叫んだが声にはならなかった。
 一歩、また一歩と文字通り刻むようにして登る。あと数歩だと感じたとき、ドンッと滝とは別の地響きがした。見ると、泥水で変色した奔流が川を消し去っていた。土砂とともに蛇行する水の流れは見る見るうちに幅と高さを増し、連結された快速電車が通過していくようだった。石を拾った場所はすでに跡形もない。
 蔓を放したら終わりだ。わたしは手に力を込めた。頂上の縁に足をかけ、躯を持ち上げようとした瞬間、背中のマルキリが伸び上がり、その足が勢いよくわたしの胸を蹴った。マルキリはそうして自身を土手に上げた。蹴られたわたしは反動でずるずると蔓を掴んだまま濁流に落ちてしまった。膝から下を硬いものが殴りつけるように流れていったので思わず悲鳴をあげた。蔓は掴んではいるものの躯を持っていこうとする力は凄まじく、腕の間で強烈な渦が生じると、わたしは土手から引き剥がされそうになった。見上げるとマルキリの姿はなかった。叫ぶこともできず、洗濯機に投げ込まれたようなわたしは何とか胸から上を引き上げた。そのとき鈍い音がして、折れた幹がわたしの真横に一度突き刺さると、そこから離れて滝に呑まれていった。
 ゾッとしたわたしは死に物狂いで土手を蹴り、躯を引き上げた。登りきるまでずっと誰かが叫んでいた──自分だった。
 土手を上った途端、わたしが居た場所に岩が当たった。それは巨大なサイコロのようにゆっくりと回転しながら滝へと移動していく。
 前方に目をやると、マルキリがこちらに背中を向けていた。
「ねえ!」
 そういうとマルキリが振り返った。口を動かしていた。手に棒状のヌガーの包みを持っている。
「なに?」
「あんた、人が死にかけてるのになにやってんの」
「死んだと思ったから……チョコ食べてた」
「はあ?」
「だって、別に何もできないし。お腹減ったし。あたし、死ぬのは良いんだけどお腹が空くのは勘弁な人だから」
 わたしは近づくと無言でマルキリの手のものを奪い取った。が、中身はすでに空だった。
「でも、助かって良かった。あたし、神様にどうかおばさんを助けてくださいってお願いしてたんだよ。できることは、ちゃんとやってたんだから」
「あなた、食べ物はまだ持ってるの」
「ない。もう食べちゃった」
 わたしはマルキリを無視して歩きだした。
 それから日没までわたしとマルキリは話らしい話はしなかった。もうマルキリを助けようとはしなかった。彼女は黙ってただわたしの後をついてきた。しかし、渓流という目当てを失ったわたしは、自分がどこをどう歩いているのかまったくわからず、今や目的地と呼べるものすら思い浮かべることができなかった──躯は冷えきり、心も疲弊しきっていた。
 転んでも手を出すのが遅れるようになっていた。ちょっとしたこぶのようなものにでも簡単によろけ、倒れた。マルキリは手を出すこともなく、わたしが自分で立ち上がるのを離れた場所から眺めていた。
 その顔に妙なものが浮かんでいた。こんな状況下ではあり得ないもののように見えた。マルキリの口角が上がっていた。
「あなた、笑ってるんじゃないでしょうね」
「まさか。でもおばさん、頑張るなあと思って」
 わたしは相手を正面から見つめた、いや、睨んだ。
「ねえ。自分が最低だって感じない? 人に助けてもらって自分だけチョコ食べて、相手が倒れたのを見て他人事みたいに……」
「だって、あたし頼んだわけじゃないし。おばさんが勝手に助けたんでしょ? 自己満なのに恩着せがましくないかな。チョコだって欲しければ欲しいって頼めば、少しは残してあげたかもだし。おばさんがなに考えてるかとか、感じてるかとか、そんなことわかるわけないし。超能力とか期待されてもね……あはは」
 わたしは近くの枝を踏みつけようとして、よろけ、尻餅をついた。
 またマルキリが噴き出した。
「気をつけなきゃ。おばさん」
 手をついた泥から変な感触が返ってきた──獣の糞だった。
 わたしはマルキリに悟られないよう土で指先を拭うと、立ち上がった。
 自分の奥歯がぎしぎし鳴るのが骨伝いに聴こえてきた。

                    *

 日が暮れる頃、有り難いことに雨が止んだ。濡れていない場所はどこにもなかったけれど、枯葉をかき集めてその上に座ると、わたしは眠り込んでしまった。
 目が醒めると、辺りは白く光っていた。見上げると月が皓々(こうこう)と森を照らしているのがわかった。痛いほど腹が減っていた。目が醒めた理由の一つがそれだと気づいた。もうひとつは、小さな悲鳴のせいだとわかった。近くにいたはずのマルキリの姿がなかった。立ち上がってみると、また声がした。
「おばさん……」囁くような声がした。
 行くと少し離れたところに凹みがあり、真ん中にマルキリが屈むような格好でいた。
「どうしたの?」
「来て」
「なによ」
 そういって一歩踏み出した途端、上から降ってきたものがあった。それは冷たくヌルヌルしていて、わたしの肩口に噛みつくと足元に落下し、それからマルキリのいる凹みへ逃げた。
「マムシ! 蝮だ!」マルキリは凹みから飛び出た。
 蛇は一瞬、身構えるようにとぐろを巻いたが、わたしたちに攻撃する気がないと感じたのか、ゆっくりと茂みの中に消えていった。
 噛まれた部分が酷く痛んだ。見ると右肩辺りに穴がふたつ並んでいた。出血はわずかだったが、ぽっかりと口を開けた様が逆に不気味だった。
「毒を出さないと、おばさん死んじゃうよ」
「吸い出すものなんかないわ。自分じゃ口が届かないし……」
 わたしの言葉にマルキリは身を離した。
「あ。それじゃあね」
 彼女はそう云うと、元いた場所へ戻った。
「どういうこと?」
「え」マルキリは座っていた。「なにが」
「仕方ないって。そう云ったでしょ」
「うん」
「ここにはわたし以外にも口を持っている人がいるわよ」
 わたしの言葉にマルキリはまた噴き出した。
「なんですか、それ」
「あなたよ。今度はあなたがわたしを助ける番。そうすれば貸し借りなしになるわよ」
 マルキリはうつむき、手を振った。
「あ、そういうのイイです。興味ないんで……」
「どういうこと?」
「なんかそういう……バディ感の押し売りみたいなやつ。ジャンプ。そうでしょ! おばさん、アレ愛読書でしょ!」
「わからないわ。いったいなにを考えてるの、あなた」そう口に出している間にも噛まれた傷口から時折、刺すような痛みが走る。
「なんかめんどくさい~」
「あなた、ひとりじゃ死ぬわよ。絶対にここから出られないから」
「わたし、虫歯があるんです。だから毒素がゲットインするから……ごめんなさい」
「そう」
 わたしは自分の場所に戻った。背中越しに<そういうヒーローみたいなこと莫迦みたいだもん>と、マルキリの声が聞こえた。
 肩の痛みは徐々に酷くなってきていた。熱も上がっているのだろう、悪寒が酷かった。
 手で触れると傷口が熱い。息が荒く、関節が痛んだ。躯を動かすたびに、圧迫されている血の管がそこかしこでドクドクと脈打つ。全身が腫れ上がったリンパ節のようだったけど、わたしは月をぼんやり見上げる以外、できることはなかった。
 こんなところでこんな終わりになるとは予想だにしなかった。けれども死は誰にでも平等に訪れることだけはわかっていた。その物差しは冷酷なほど狂いなく、〈来たるべき刻(とき)〉が来れば、どんな善人でも悪人でも老若男女問わず、死神は魂を根こそいでいく──それが、わたしがキャンティーンで学んだことのひとつでもあった。
 わたしは何度も寝ては醒めるをくり返したため、時間の経過が感じられなくなっていた。
 見ると手の先が震えていた。毒のせいか、単なる寒気なのかわからない。不意に目が冴え、耳が冴えた。森の音が迫ってきた。虫が、葉が、ざわついていた。
 不意に甘やかな香りがした。こちらに向かって体育座りしているマルキリの足がのぞいていた。顔の部分は影に隠れている。顔に寄せた左手が動いている。
〈……何か食べてるのね〉そう云ったが声がかすれていた。
 マルキリから返事の代わりにゲップが聞こえてきた。
 と不意に暗い声がした──。
「おばさん、死ぬんでしょ。死にそう? いまどんな気持ち?」
 返事をしなかった。
「即死はつまらないわ。やっぱり一度しか経験できないんだもの。ゆっくり味わわなくっちゃ。昔、知り合いで電気自殺に失敗した子がいたの。電源コード剥き出しにして躯に巻いて睡眠薬のんでタイマーセットしておいたのね。ぐっすり寝入ったところで通電するようにって。そしたら途中でブレーカーが落ちちゃったかなんかで失敗。躯が生焼けになって助かっちゃったの。でも、もう目も灼けちゃって、耳もダメで。手足も電気が通ったところは中身が腐っていて、後から後から壊死してくるから刻むように切断していくの。わたし、お見舞い行くたびにワクワクしてた。あ、もう指がこんなになくなってる。あ、今度は足首から先がないんだって。その子、あたしよりずっと大きかったんだけど。死んだときにはベビーバスに入っちゃうぐらいの大きさにまで短縮してて……なんだか面白いなあって思った」
「くそったれ」
「あたし、いまワクついてる。マジで、おばさんが死ぬとこが見たくなってる。だからものすごく見苦しくしてほしい。死にたくない死にたくないって駄々っ子みたいに喚き散らしてほしい。ウンチもオシッコも漏らして。頭がおかしくなったみたいに無様に死んでほしい。そのほうが人間だもの。かっこいいよ。で、その後、もし魂があるとしたら、わたしに教えて。そうね……拍手して。パンパンッて。そしたら魂があることがわかるでしょ」
「狂ってる……あんた、狂ってるわよ」
「それからそれからわたしを幸せにして! 簡単よ。超セレブのイケメンと結婚したい!それで世界中のパリピと仲良くなって……自分のブランドを作って、誰もが顎を落として羨むような生活がしたい!」
「いったい何の話をしてるの?」
 語気を強めると、マルキリがのっそりと暗がりから顔を出した。
「だってもし幽霊だったら、この世の科学を超えた存在でしょ。そしたらなんでもできるじゃん。やってよ! どうせ死ぬなら、それぐらいしなさいよ。でないと犬死だよ。もし、してくれたらスガモに記念碑立ててあげるからさぁ」
「もしできるとしても……死んでもしたくないってのはこのことね」
「おばさん……」
「なによ」
 マルキリの目が据わっていた。
「あんまり舐めたこと云わない方がいいよ。今はあたしの方が強いんだし。あたしみたいに生きることに執着のない人間は逆に人を殺すことなんか何でもないんだから……。自殺者(じさつもの)が他殺者(たさつもの)に変わるなんて簡単なのよ」
 わたしは鼻で嗤った。
「できるわけないでしょ。人に助けてもらってばかりの根性なしに……できっこない」
「試す? 試してもいいの?」マルキリが立ち上がった。その姿が空を背にシルエットになった──もう夜が明けるんだ。
 不思議なことに頭が冴え渡っていた。痛みも以前よりは治まっていた。
……もしかしたら、毒に勝てるかもしれない。
 すると、マルキリが左手で掴んだ缶切りを振り下ろしてきた。刃先が胸に押し込まれる激痛に、わたしは反射的にマルキリの腹を蹴り上げた。
 全力のつもりだったが、マルキリはくの字に躯を曲げただけだった。
 わたしは駆け出した。
 が、背後からタックルされ顔面が地面に叩きつけられた。
 仰向けになると、マルキリは右手でナイフを振り上げている。
「泣き喚きな! おばさん!」
「なんなのよ!」
 怒りが全身を貫き、振り下ろされたナイフを避け、マルキリの顔に頭突きを入れた。上下の歯がガチッと頭の中で鳴った。
 のけぞったマルキリを引き倒し、逆に馬乗りになると、その手からナイフを毟りとった。
「腕なんか! 腕なんか……折れてなかったじゃないよ!」
「ふん。確かめもしないで信じたあんたが莫迦なんだよ。マヌケ」
 開き直ったマルキリが血反吐をわたしにかけた。頭の中で何かがカッと破裂し、反射的にナイフを振り上げた。が、振り下ろすことはできなかった。その姿勢のまま凍ったようにわたしは停止していた。 
「どうぞ殺(や)んな」鼻血で顔を染めたマルキリが二ヤリと嗤った。「殺らなきゃ、あたしがあんたを殺るよ。お・ば・さ・ん」
「ストップ!」
 木に掴まったパピが、山の斜面からわたしとマルキリを見つめていた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


Profile

平山夢明

1961年、神奈川県川崎市生まれ。1994年にノンフィクション『異常快楽殺人』を発表、注目を集め、1996年に『SINKER──沈むもの』で小説家としてもデビュー。2006年には短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞を受賞。2007年、同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた。2010年『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞をダブル受賞。2017年より「週刊ヤングジャンプ」にてコミック化され、大人気連載中。

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