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第9回

ダイナーⅡ(第9回)

 虚を突かれたわたしは、マルキリに胃の辺りを思いきり殴り上げられ、横倒しになった。
 立ち上がったマルキリは、鼻血を横殴りに拭いた。
「パピ、こいつは使えないよ……とっととどっかにやっちまいな」
 彼は駆け降り、わたしの前に立った──顔に戸惑いが貼りついていた。
「いったいなんなの、これは」
 パピは視線を逸らした。
「よしな。その子のせいじゃないんだ。あんたを仲間にって連絡してきたんでね。その資格があるのかどうか、こっちも小芝居を打ってテストしたのさ。結果、クソほども役に立たないことがわかったけどね」
「これもテストってわけ?」
 わたしは肩の傷を晒した。
「ふん。アタシは青大将とマムシの区別もつかないマヌケですって証拠だろ。パピ、このおばさんはナシ、失格。お疲れさん」
 そう吐き捨て、マルキリは歩きだした。
 パピはマルキリの背中とわたしとを交互に見やった。
「わたしはボンベロに逢いに来たのよ!」
 マルキリが振り返った。目を見開いていた。
「嘘だろ?」
「本当よ!」
「まさか……知り合いなのか? あいつと……あの男と……」
「ええ。あんたなんかよりずっとね」
 突然、わたしを睨むマルキリの顔がくしゃっと潰れ、笑いだした。
「あっははは。あんた、やっぱり変わり者(もん)だね。あんな変態のどこが良いのよ。あっはは!」
 おかしくて仕方がないという風にマルキリは躯を曲げ、膝を叩いた。
「パピ……こいつ本気(マジ)か。あっははは」
「そうさ。ボンベロが連れて来いって云ったんだ」パピが頷いた。
「あんたにどう思われようとかまわない。こっちはあんたと違って命がけなの」
 マルキリは木にすがりつき、なおも笑い続ける。
「ひゃっひゃっひゃっ。いのちがけだってぇ、ははは」
「パピ! これも全部、あんたが仕組んだわけ?」
 わたしはパピの肩を掴んで揺さぶった。
「黙っててごめん。でも、仲間になるための決まりなんだ」
「何が決まりよ! 冗談じゃないわよ。人をコケにして」
「でも、ボンベロが待ってるのは本当だよ」
「はあ。莫迦みたい。くだらない」マルキリが素顔に戻った。「やってらんないね、まったく」
「ボンベロはどこにいるの」わたしはパピに訊いた。
「この先のぼろ小屋。ダフと待ってる」
「連れてって」
「待ちなよ」マルキリが前を塞ぐようにした。「あんたは仲間じゃない」
「それは彼と逢って決める。あんたの指図は受けないわ。行こう、パピ」
 手を取るとパピは強く握り返してきた、今のわたしには、それだけがすべてだった。

                  *

「あそこ」
 斜面を登りきり、今度は堆積した枯葉に足を取られながらズルように下った先の川縁に、パピの云う小屋があった。
 昔の杣(そま)かマタギが避難に使っていた名残りだろう。その板壁にダフがもたれていた。
 わたしたちを見ても拗ねたように何の反応もない。
「ダフ」
 わたしがそう声を掛けると、彼女は顔を上げた、目が泣きはらしたように赤かった。
 小屋のなかには小さな焚火が熾きていた。
「ボンベロは?」
「あっち」ダフが川岸を指した。
 近づくと、川は轟々と音を立ていた。そこに人ひとり腰掛けられるほどの平たい岩があり、焦げた紙切れが並べてある──お札だった。
「ぽんぺろ。じゃぼーんって」
 わたしの問いにダフが目から泪をポロポロこぼした。
「なんだこりゃ」
 マルキリが地べたに落ちていた細長い布を拾いあげた。それもところどころが焦げていた。
「よくわかんないけど、ほんっとにどうしようもないね。あいつ」
 マルキリが首を振る。
「あ! あれ!」目を細めつつ流れを見つめていたパピが叫んだ。「人!」
 その言葉にわたしは胃が直に掴まれたように収縮し、苦い唾がわいた。
 確かに川に向かって出っぱった大岩の縁に淀みができていて、パピはそこを指していた。急流の三分の一ほどは大岩の根に向かって流れこみ、そこから出て行こうとする流れと新たに入りこむ流れとが互いに拮抗して渦のようなものができていた。そこに俯せになった人間が上着の背に葉っぱや、どこかしらで引っつけたビニール袋をのせて、岩に何度も頭突きをしていた。
〈ボンベロ……〉わたしは胸の中で反射的に発した言葉を打ち消したかった。それを云えばそのまま現実になってしまうような怖さがあったからだ。
 マルキリが何か叫んだが、わたしはそれを無視して大岩に向かって駆け出すと、手近にあった枝を伸ばし、浮かんでいる人間の躯に引っかけようとした。引き寄せられなくてもせめて仰向けにさえすれば、彼なら助かると信じていたからだ。
 手にした枝の先端はL字に曲がっていた。それを脱げかけたシャツの裾にでも絡められれば、なんとかできそうだった。垂れかかる立ち木の枝を握り、ギリギリまで腕を伸ばす。が、僅かに足りない。俯せの躯は莫迦にしているように近づいたかと思うと、またゆらりと身を離した。息を整えようとした途端、かかとが滑った。頭の先まで水中に埋まるのは一瞬だった。葉と藻と泥で濁った水に、目を開けることもできない。わたしは必死になって岸に這い上がろうとした。何度も手が滑ったが、岩の根元と岸の縁の一番狭まったところに両手を掛けると、どうにか躯を引き上げることができた。
「カナコ、もういいよ!」
 パピが怒鳴るのが聞こえた。が、わたしのなかの何かが止まるのを許さなかった。〈そうだ、俯せだから、いけないんだ。仰向けにすれば絶対に還ってくる〉わたしはまた枝を拾い、向かおうとした。すると腰のあたりにパピがしがみついた。
「よしなよ! カナコ!」
 わたしは躯を揺すってパピを振り払った。仰向けに叩きつけられたにもかかわらず、パピは猛然とまたしがみついてきた。
「いい加減にしな! もう死んでるよ!」
「うるさい!」
 すると後ろから暢気な声がした。
『なんか面白そうだなあ。俺も手伝おっか……』
「ボンベロ!」とパピが破裂した。
 振り返ると全裸の男がいた。蓬髪、照れ笑いを浮かべている。
 咄嗟にまた岩へ目をやると、死体がようやく仰向けになっていた──ボンベロではなかった。それは単なる壊れかけのマネキンだったのだ。
「最近じゃ、こんな山奥にもあんなものを棄てる奴がいるんだな。けしからん話だ。まったく」
 ──わたしは自分の顎が落下する音を生まれて初めて聞いた。
「カナコ! ボンベロだよ! 良かったろ? ねえ? ねえったら!」パピがはしゃいだ。
「なんだよ。愛人(ラマン)の顔を忘れたのかよ。ちょっと傷心(ハートブレイク)」
 わたしは思わず飛びすさった。
「なっ。なんであんたがこんなところにいるのよ!」
「いやあ、小屋で濡れたまたぐら乾かしてたら、火がついてよ。中に入れてあったへそくりまで燃えだしたんで、まあ往生したぜぇ。火消しに慌てて川へ飛びこんで脱いでよ。そら、あそこに平らな石があったろ? そこに札並べて乾かしてたら今度は一枚、ふぅっ~って風で川に飛んでっちまったもんだから、もう俺は驚いたのなんのって……アハアハアハ」
「一体、何の話をしてんのよ!」
「だから、またぐらに火が……」
「莫迦! わたしが訊きたいのは……なんであんたなんかがボンベロかってことよ!」
 悲鳴のような声に、パピがポカンとなった。
「なんでって……そ、それはいわゆる、浮世の因果の成れの果てよ」
 九十九九(ツクモキュウ)は見覚えのある腹の古傷を撫でると、マルキリの手にあった布切れを奪って巻きだした──褌(ふんどし)だ。ウィンクしたので顔を背けることにした。
「呆れたわね……ボンベロを騙るなんて……信じらんない。このロクデナシの糞ッ垂れ。あんたなんかに、なんでわざわざ……」
「逢いに来てってか」
「そうよ!」
「そいつぁ、菊千代の奴が聞いたら、さぞ嘆くだろうなあ」
 九十九は蓬髪を後ろで丁髷(ちょんまげ)のように結んだ。
「そうだ! あんた、どうやって菊千代を盗んだのよ!」
「おいおい。人聞きの悪いことを云うなよ。正真正銘、俺はボンベロから奴を任されたんだぜ」
「ウソ! 絶対、嘘」
「ふふふ。まあ、その気持ちはわからんでもないが、事実は事実でね。実際、あのワン公と俺は、今では大親友(ダチのマブ)なんだぜ」
 自信たっぷりの顔が憎たらしい。
「ボンベロはどうしたのよ!」
 九十九は肩をすくめた、と同時に盛大なくしゃみをした。
「ぶっじゃあ! おお~寒い寒い。そいつに関してはいろいろ、事情(じょーじ)が混み入っていてな。ひと言じゃ説明しづらい。どうせ今夜はあの小屋で泊まりだ。そこで話す。ここじゃあ風邪ひいちまうよ。くわばらくわばら、うっほほのほ~いっと」
 九十九は身を縮め、ぴょんぴょん跳ねながら小屋へ戻っていく。
「最悪だわ……最悪でしかない……」
 わたしはその背中を睨みながら呟いた。
「あいつ、ボンベロじゃないんだ……やっぱな」パピが呟いた。「本物じゃないんだ」
「月とすっぽんどころか、太陽とピカピカのハゲ頭ぐらい違うわよ」
「大人って汚えな」
 パピは頬を膨らませた。
 その途端、大きなくしゃみが出た。思えばわたしも全身ズブ濡れだった。

 小屋では焚き火が盛大に熾されていた。小屋の中にダフはいたが、マルキリの姿はなかった。カーキ色の半袖シャツと迷彩パンツに着替えた九十九が奥に陣取り、裸足を火に向けながら、細い木切れで足指の間を擦っていた。
「あのな。そんな仏頂面しててもボンベロは来ねえんだ。早く服乾かせ」
「あんたがいるから厭よ。それに何やってんのよ、指の股をごしごしごしごし」
「これか? これは一種の職業病でね。塹壕足(ざんごうあし)ってんだ。要は闘う男の勲章だな。擦(や)るか?」
 九十九は木切れを火であぶり、わたしに向けた。
「その目に突っ込むわよ」
「元気元気。そうでなくっちゃな、俺のカナコは。ザックの中に毛布があるから使いな。軍用だからアンタぐらいなら髪から尻毛(けつげ)まで、ずっぽり隠れるはずだ」
 傍らの筒状の大型バッグを探ると、ゴワゴワしたものが手に触れた。黙ってそれを引き出すと、わたしは九十九の視線を避け、毛布にくるまった。
「濡れたモノはこっちに放れ。乾かす」
 わたしは九十九を睨みつけながら、パンツと上着を投げた。

 ──外を見るとすでに陽は落ち、辺りは急に肌寒くなっていた。
 毛布は油臭かったが、暖をとるには充分だった。濡れた服は燃えないよう小屋の上方に吊るされた。川原の石を円形に並べた中で、枝や炭が勢いよく炎を上げていた。
「こんな小屋でも暖をとるだけなら案外、使えるもんだな」
「ねえ。本当にあんたはこんなところで何をしてるの?」
 わたしの問いに答える代わりに、九十九が背後のザックから透明な袋を取りだした。中には串に刺さった太い腸詰め(ソーセージ)が入っている。
「ちょい待ち。あんたに今、必要なのは情報(ネタ)よりコイツだ。どのくらい喰ってないんだ? すっかり萎びちまって、十(とお)は老け散らかして見えらあ」
「放っといてよ。あんたのせいでしょ」
「ふふふ。まあそう云わず見てろって」
 彼はさらにレタスとチューブバター、マスタード、ケチャップ、コッペパンを取りだすと、腸詰めの串を先にして四本、熾きた炭の周りへ挿していく。
「こういうものには強火の遠火ってな。へへへ」
 ダフもパピも荷物を背に目をパチパチさせ炎を見ていたが、腸詰めがジュッジュッと音をさせ、香ばしい匂いが立ちこめると半身を起こした。
 わたしは目が合うたびに九十九を睨みつけていたが、腸詰めが熱で膨らみ、皮が弾けだすと、香辛料をまぶした挽肉の匂いに胃がずんっと重くなった。と同時に、きゅーんきゅーんとお腹が鳴りだしたので、いろいろと座る体勢を変えてみたりしたのだが、困ったことにどうやっても止まらない。
「あらら? どこかに迷子の仔犬がいるぞ」
「カナコのおなかだよ。かわいいねえ」
 ダフがくすくす笑った。
 九十九はコッペパンを縦に裂くとバターを塗りつけ、レタスを敷いた。そこへ熱で皮が弾け、透明な脂をこぼしている腸詰めをのせ、すっと串を抜く。腸詰めの上にケチャップでジグザグを二本、真ん中に黄色いマスタードをちょんと引くと、「だあれのだ?」と手を高く上げた。
「はぁい! はぁい! はぁい!」
 ダフが壊れたゼンマイのように何度もジャンプし、最初のホットドックを獲得する。次の一本はパピだ。わたしは下唇が自然と突きだし、なおも九十九を睨もうと頑張ったが、口の中の唾を呑むのが忙しく、それどころではなくなっていた。
 三本目。
「だぁれだ」
 ひときわ大きく声をあげた九十九が、目の端でわたしを見た。それが大人の分であることはマスタードの線が太く引かれたことからも確かだった。
「あれ? 誰もいないんだ。じゃあ」九十九が口を開けた。
「いるわよ!」
 勝手に躯が動き、ホットドッグを引ったくると元の場所に戻っていた。
 三人が唖然としてわたしを見ていた。
「カナコ、すげぇ速っ……」
 パピが云い、ダフと九十九が笑い声を上げた。
〈うるさい〉わたしは胸の内でそう怒鳴った。口は食べるのに忙しかったからだ。
 腸詰めは息が詰まるほどおいしかった。唇に触れたパンの風味と柔らかさ、ケチャップの甘みとマスタードの酸っぱさ、レタスのシャキシャキ感、それらすべてを奥にある熱々の腸詰めが吹き飛ばし、その皮を噛み破った途端、濃厚なスパイスの旨味が舌の上に溢れた。が、気がつくともうそれらは消えてしまっていた。そのことが悲しく、我に返ると九十九がもうひとつ差しだしていた。わたしはそれも奪って口に入れた、途端にむせた。一ミリも吐きだしてなるものかと唇を閉じると咳が喉で爆発し、耳がキーンと鳴った。それでも吐きださなかったことが嬉しかった。ジーンと頭が痺れ、てっぺんから爪先までおいしさに浸かった。
 奇妙なことに、九十九への忌ま忌ましさが先ほどの尖ったものから変化していた。
「はい」
 肩を突かれ、パピが細い水筒を渡してくれた。ひと口飲んだ途端、眉間がパッと開いた──冷えたオレンジジュースだった。
 それを飲み、ホットドッグを食べながら、無意識のうちに頷いている自分に気づいた。なぜ頷いているのかまったくわからなかったが、甘く冷たい液体が喉を通るたび、塩気と香味の強い挽肉が喉を通るたび、頭は〈うんうん〉と上下に揺れる。
『おい。もう少し落ち着いて食え。まるで犬コロだ』
 どこかで九十九の声が聞こえた時にはわたしはすべてを噛み下し、咀嚼し、しっかりと誰にも盗まれない胃の中に閉じ込めていた。
『大丈夫よ。ほっといて』
 そう返事したつもりだったが口はモゴついたままだったし、胃が膨らんだ途端、躯が充分、焚き火で温まったことを爪先が脳に伝えた。自分の躯がどすんと横倒しになるのにまったく抗うことができず、眠りという重力に心地良く引きずり込まれていた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * 



Profile

平山夢明

1961年、神奈川県川崎市生まれ。1994年にノンフィクション『異常快楽殺人』を発表、注目を集め、1996年に『SINKER──沈むもの』で小説家としてもデビュー。2006年には短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞を受賞。2007年、同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた。2010年『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞をダブル受賞。2017年より「週刊ヤングジャンプ」にてコミック化され、大人気連載中。

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