ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 小説連載一覧
  3. ダイナーⅡ
  4. ダイナーⅡ(第10回)
第10回

ダイナーⅡ(第10回)

 目覚めた時、パピとダフは先ほどの姿勢に戻って寝入っていた。
 九十九が焚き火の向こうからわたしを見つめていた。
「今、何時」
 九十九は腕時計を見た。そういえば全裸にもかかわらず彼は腕時計をしていたことを思い出した。
「十一時になるな、午後の」
 わたしはまだ重くボンヤリとした頭を巡らせた。
「あのひと。マルキリは?」
「まるきり??? あの女か? 出かけてるがじきに戻ってくる。奴なら大丈夫だ」
「お水」
 九十九が差しだした別の水筒を受け取ると、わたしは口をつけた。冷水が貼りついた喉を通り抜けた。
「飯ってのはすげぇもんだ。アンタを見てそう思った。ボンベロが殺し屋の帝王になったのもわかる気がするぜ」
 わたしは水筒を置くと、九十九をしっかりと見た。彼の中身が話す準備はできていると云っていた。
「あの後のことを教えて。てっきり死んだと思ってたわ」
「俺もさ。そうだな……」九十九は頷いた。「正直なところあまり詳しくはない。俺はあんたの云うとおり、あの時、あの世とこの世をヤジロベエしてただろ」
「そうね」
「目が覚めて病院の天井の白い壁を見たときには、てっきり天国だと思ったくらいだ」
「病院? どうやって、どうしてよ」
 九十九が〈落ち着け〉と手を上げ牽制した。
「まあまあ。とにかく俺は包帯でがんじがらめでね。看護婦はそういわれてるのか単にビビってるだけなのか、俺とはまともに口もききやがらない。三日目に医者らしい老いぼれがやってきたのさ。そいつの話じゃ、俺は五日も昏睡してたんだ。運びこんだのはボンベロさ。同じ部屋に並べられてたんだが、さっきも云ったように首も曲げられないから云われるまで気がつかなかった。その老いぼれ医者は昔、ボンベロに一生かかっても返しきれない恩を受けたと云っていたな。血塗れの奴はさらに血塗れの俺と菊千代を、やっとの思いでそこへ運びこんだ。下手に闇医者なんかに駆けこんでいたら今頃、お釈迦よ。組織が調べないはずはないからな。そこはちゃんとした表の医者だったんだ」
「それで」
「部屋の反対側に、もうひとつベッドがあって、そこにボンベロは寝かされていたんだが、奴も俺同様、包帯ぐるぐるのミイラでね。死んだように寝てた。実際あまりにウンともスンとも云いやがらねえから本当に死んでるんじゃないかと看護婦に訊いたぐらいよ」
 九十九はコッペパンを掴むとわたしにも投げ、自分は手にしたのを千切って口に運んだ。
「気前のおよろしいこと」
「こいつか? へへ、俺は奴らの補給係みたいなものでね。余禄だ」
「ボンベロはどうするっていってたの?」
 わたしの問いに九十九は肩をすくめた。
「なによ?」
「なにも。正確にはわからん」
「どういうこと」
「こっちがシャキっとする前に奴はふけちまった。つまり病院から抜け出して姿を消しちまったのさ」
「どうしてよ」
「俺にわかるはずがねえよ。とにかく奴は、俺はおろか菊千代だって放っぽってっちまったんだからな」
「菊千代を……」
「ああ、だから俺は傷がマシになったのを見計らって菊千代(やつ)を引き取りに行ったのさ。仲間とはいえ、流石に同じ病院ってわけにはいかなかったからな」
「じゃあ、ボンベロのことは全然わからないわけ? アンタ、何にも話さなかったの」
「ひと言もな。勘弁しろ。云ったろ、首も動かせなかったんだ」
 わたしは思わず溜息を吐いた。
「どうしちゃったんだろ……菊千代を置き去りにするなんて」
「それについちゃあ、俺は医者じゃないんでなんとも云えんがね。ただ妙だったんだぜ……奴」
「妙?」
「ああ。夜中になんかの気配でふと目が覚めたら、あいつが俺を覗き込んでやがったんだ。こう……顔をくっつけるようにしてよ。ゾッとするような冷たい目だった。思わず〈殺られる〉って息が止まったぐらいよ。でも俺が〈よう、ボンベロ……〉ってなんとか声を絞りだすと、不意に興味を失ったみたいにポッと離れて自分のベッドに戻りやがった」
 わたしにはよくわからなかった。
「それに、これもまた夜中だったんだが。野郎ずっと病室にかけてあった鏡の前で自分の手とツラを見てるのよ。包帯を解いちまって……剥きだしの、あちこち縫われた手と顔をさ。ジーっと。翌日だったな、奴がふけたのは」
「じゃあ、今もどこにいるのかは」
「神のみぞ知る(かみのみそしる)ってやつだな」
 わたしは全身の力が抜ける思いだった。やっとの思いで辿りついた果ての結果が、これだ。もうこのまま地面に吸い込まれてしまいたかった。
「ただ医者が云うには、奴が見せた意識の混濁なんかは、ああした強烈な体験の後には、まま起こるそうなんだ。ただ俺が見たボンベロの様子は、奴の精神力と回復力からすると、単純な失見当識(しっけんとうしき)が原因とは考えにくいらしい。俺も同感だ」
「あんたが彼について知ってるのは、それだけなのね」
「いや、あとひとつ」九十九の表情が曇った。「無礼図が死んだ。入院先の病室で腕っこきのボディガードで固めていたにもかかわらず、瞬殺されたらしい。殺ったのは奴だと思う」
 思わず長い溜息が漏れた。
 わたしは黙って焚火を見つめていた。頭のどこかで厭な予感が棘となって唸りを上げてきた。病院を脱出したのも、無礼図を殺したことも、九十九を置き去りにしたことも納得できた。だけど、菊千代は違う。ボンベロが心を許せる唯一の相手。何よりも大切なもの。それが彼だったはずなのに……。
 わたしは棘を口にすることにした。
「ねえ」
「なんだ」
「ボンベロは無礼図を始末した後、ひとりで死ぬつもりだったのかしら」
「だからあえて菊千代を残していった……そういうことか?」
 わたしは答えたくなかった。
「半分は当たってるが、半分はハズレだな」九十九は丸めた紙屑を投げてきた。「俺が退院する時、ボンベロがいたベッド周りを探ってみたのさ。奴らしく、手がかりになりそうなものは何ひとつ残しちゃいなかった。だが、枕頭台に病院で使うメモ帳があってな」
 わたしはくしゃくしゃに丸められた紙を広げた。
「奴が何か書きつけていないかと思って、鉛筆で薄く跡を擦ってみたのよ。そしたらそいつさ」
 強い筆圧で書かれたのだろう、跡はしっかりと浮かび上がっていた。
〈バカなガキ〉〈おろかながき〉〈オロカナコドモ〉〈ばかなこども〉などの文字で埋め尽くされていた。
「……これは」
「その文字列から推測するに、ひとつだけ欠けている言葉があるとは思わないか」
「大馬鹿な子……オオバカナコ」
 九十九が頷いた。
「でも、どうしてこれを書き殴っていたの?」
「そりゃ本人から直接、聞くしかない。が、俺があんたの前に奴が必ず現れると確信したのは、それを見つけたからなんだ。あんたを捜すのにゃ骨が折れた。なにしろ三年近くかかっちまったんだからな」
「……そう」
「そもそも組織の記録では、あんたはあのディーディーとかいう女の一味として処理されてたのさ。さらにあんたを拉致した奴らも、実に雑でね。あんたに直接つながるようなネタは何にも引き出してないし、あのジャンキーどもも、それらしいものは何も残していなかった。あんたの親は失踪人届すら出してない。だから実質、手がかりはゼロ」
 わたしは立てた膝に顔を埋めていた。
「まさか懲りずにまた定食屋(ダイナー)をやってるなんてたまげたぜ。保健所だの、税金だのは一体どうやって誤魔化したんだよ。店だってタダじゃ開かないだろ」
「公式な所は、ちょっとお金を払えば偽名のまま代理で済ませてくれるサービスがあるのよ。免許は更新してないし、本籍も住民票も移してない。開店資金は彼の匿名口座から引き出せたわ。ダイナーをやることはボンベロとの約束だったの」
「なるほどね。それでメモの意味が少しわかった気がする」
「でも彼は来なかった……待ってたのに」
「たぶん奴も苦労してるんだ。俺があんたを見つけたのだって、まったくの偶然だったんだからな」
「どういう意味?」
「こう見えて俺は人望が厚くてね。高い銭さえ払えばネットを二十四時間監視してくれるのがいるんだ。そいつらを定期的に巡回させてたのよ。そしたらある時、豪勢なリブステーキの写真がアップされてて、そこに〈ボンベロズバック大きいぃ〉ってキャプションがあったのさ」
「はあ」わたしはまた溜息を吐いた。料理や店内で写メを撮るのは厳禁にしていた。料理が冷めてしまうし、そもそも撮るほどの店でもない。きっとどこかのトラッカーが引きずり込んだ女がやったんだ。
「なかなか身を隠すってのも難しいものね」
「当節は特にな。それでもそこからだって、ひと苦労ふた苦労でね。写真データを分析し、地域を絞り、それらしい店を調査しなくちゃならなかった……。だが無礼図が生きていたら、あんたが無事には済まなかったことだけは確かだ。奴が頓死しちまったおかげで一気に求心力を失ったあの組織は、後を誰が継ぐかで上を下への大騒ぎ。あんたのことは笊(ざる)の目からすっぽり抜け落ちちまったのよ」
「またボンベロに救われたってわけね」
「奴は今でも、しっかり抹殺リストのトップに上がってるがね」
「彼がもう死んでいる可能性は?」
「ゼロではないが、リストにはまだ名がある。自死するか、裏稼業とはまったく関係のないことで殺され、遺体は海中投棄か洞窟の割れ目に投げ込んだということでなければ、生きているはずだがね」
 木が大きくはぜた。
「で、なんであなたは、わざわざわたしを穿(ほじく)り出してまでボンベロを捜すのよ」
「ふん。〈命を救ってもらった恩がある〉なんて気はさらさらないがね。たったひとつ云えることは、俺にはあいつが要る。そして、あいつも地獄から抜け出すには俺が必要だってことだ」
 わたしは九十九を見た。でも、その目は何も語ってはいなかった。
「ぜんぜんわかんない。それ日本語なの」
「まあな」
 その時、寝返りを打ったパピが〈ううん〉と声を上げた。目を覚ましたわけではない。悪い夢を見ているのかもしれなかった。
「残りは……そいつらのことだな?」
 視線を戻すと九十九が見ていた。
「そうね。ボンベロを捜してるはずのあんたが何故、この子たちといるのか。パピを使ってわたしをおびき寄せたのは何故か? それと……」わたしはそこで言葉を切ると暫し黙り、また始めた。「少なくともこの子たちは普通じゃない」
「その通り、普通じゃない。こいつらの首には一千万ドルの懸賞金がかかってる」
「え?」
「円なら十一億強ってとこだ。普通ならたちまち、殺されてるところだが、〈ボディーガードチーム〉が安全な場所まで移送してる。俺はそのお手伝い」
『そこまでだ……ボンベロ』
 炎が揺れ、低い声が冷たい風とともに入ってきた。戸口にマルキリと、ひとまわり大きな短髪の男が立っていた。サイドを跳ね上げたカーキ色のサファリハット、腕に革帯を巻きつけ、足元は編み上げブーツ。九十九同様、迷彩に身を包んでいたが、はち切れんばかりの筋肉が詰まっているのがはっきりとわかる。左頬から顎にかけてナイフでつけられた派手な切り傷があるが、にもかかわらず端正な顔の印象は棄損されていない。
 男が小屋に踏み込むと、ブンッと音を立てるような緊張した気配が一気に充満した。先の曲がった大きなナイフが腰の真ん中で鞘に収まっている。鞘をそんなところに付けている人は初めて見た。
 キャンティーンで見た殺し屋の誰にも似ていないけれど、やはり仕事で人を殺す類だと脳が警告していた。
 九十九の緊張も微かに伝わってきた。莫迦みたいだけれど、無邪気に寝入っているダフを一瞬だけ羨ましく感じている自分がいた。
「部外者には口外無用。女は現時点をもって放棄する」
 焚火の前に立つ男は、光が反射しているせいか眼光の強さが異様だった。
「ちょっと待てよ。その人は部外者じゃないぜ。少なくとも俺にとってはな」
「云ったろ。そのおばさんは使えないよ」マルキリが声を上げた。
 九十九とマルキリが睨み合い、その気配でふたりの子どもたちも目を覚ました。
「女はここで放棄だ」男が呟いた。
「本気か」九十九がゆらりと立ち上がった。前腕の毛が逆立っている。「放棄ってのはどういう意味だ? 具体的にお聞きしたいものだね」
 男は応えなかった。
「前にも説明したとおり、この人がいれば最強の男が味方になる。決して損な話じゃない」
「あてにする気はないと云ったはずだ」
「冷静になれ。あんたがやろうとしてるのは遠足じゃない。仲間は多い方が良い」
「要らん」
 九十九と男の間で火花が散るようだった、が、次の瞬間、九十九が〈はあ〉と奇妙な声を上げ、どすんと尻餅をついた。
「勝手にしろ! 莫迦野郎。その代わり、俺も降りるぜ」
「なんだと」
「けっ。当たり前だ! たかだか百万ちょぼちょぼの目腐れ銭で躯(がら)張ってんのは、こっちにゃこっちの思惑があってのことだ。てめえの都合ばかり振りかざすんなら、好きなようにやってくたばっちまえ! 莫迦野郎!」
「戦線離脱は認めん」
「勝手にしろ」九十九は男に背を向けると腕組みをし、目を閉じた。
 男が背中のナイフに手を伸ばす。
「あたし、カナコといたい!」それまで黙っていたダフが云った。「だってカナコ、いいにおいだもん」
「そうさ。カナコの店はすっごく旨いんだぜ」パピがパスタを巻いて食べる素振りをした。
 マルキリが困った顔で男を見ている。
 首を捻った九十九が、口を尖らせたまま男を睨む。
「どうすんだい!」
 男は一度うつむき、顔を上げた。
「足手まといにならんという保証が貴様にできるのか?」
「ああ。この人は見かけよりずっとタフなんだ」
「無駄口は要らん。貴様が保証するのか否かのみを問うている」
 九十九は頷いた。「無論だ。するぜ」
 男がわたしを見た──目が唸りを上げているようだった。
「覚悟はあるのか?」
「え」
「我々はおまえが想像もつかない過酷な状況下を進んでいる。命の保証はない、見返りもない。引き返すならこの時点だぞ」
 男の視線をまともに浴びた途端、〈これは本当のことだ〉と脳が沸騰した。キャンティーンでのこと、腕の中で九十九が死にかけたこと、スキンが死んだこと、炎眉が泣いていたこと、拷問されるぐらいなら自殺しようと思ったこと、キッドが菊千代に頭を噛み砕かれていたこと……それ以外にも次々と浮かび上がってくる、強烈な想い出とも云えないさまざまな恐怖とトラウマが、たったつひとつの出口を目指して殺到し、爆発し、わたしは混乱し、血の気が引くと目眩がした。
 しばらく耳鳴りのようなものに包まれて──我に返るとまた元の静かな小屋にいた。
 九十九より、ダフとパピの顔に浮かんだ表情が、わたしの背中を蹴りこんだ。
「やってみる」
「正気?」マルキリが声を上げた。
 男はわたしの目の中を探っていた。
「人生を棒に振ることになるぞ。大人しく飯屋の主人でいる方が賢くはないか?」
 わたしは唇を噛んだ。そうしなければ次の言葉が出てこなかった。
「飯屋じゃない。ダイナーよ。わたしには逢わなきゃならない人がいる。ここにいれば逢えるんでしょ?」
 九十九が黙って頷いた。
「振るわ……人生。大振りしてみせる」
 その瞬間、雲がほんの少しだけ形を変えるように男の目に和らいだものが浮かんだ。
「あいつを信じるのか?」
「違う。後悔しない方に賭けただけ」
「じゃあ、決まりだな」九十九が断言するように告げた。
 男が手を出したので、わたしも握り返した。ゴツゴツしたものを予想していたのに、意外にも柔らかく、しなやかだった。
「ザディコ。〈箱船〉へようこそ」
「わたしはオオバカナコ。はこぶね?」
「それについてはボンベロから聴くと良い」
 男が微笑み、子どもの元に寄ると、代わってマルキリが手を出してきた。
「アンセム」
「あなたマルキリでしょ」
「偽名に決まってるじゃん。どこの馬の骨ともわからない奴なんか、まともに相手にしてらんないでしょ。莫迦じゃないんだから」


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


『ダイナーⅡ』をより楽しむために、未読の方はぜひ『ダイナー』から!
〈主演〉藤原竜也×〈監督〉蜷川実花のタッグが話題の映画『Diner ダイナー』(2019年7月5日公開)の原作本はこちらです↓


bunkoDINER_S.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像

Profile

平山夢明

1961年、神奈川県川崎市生まれ。1994年にノンフィクション『異常快楽殺人』を発表、注目を集め、1996年に『SINKER──沈むもの』で小説家としてもデビュー。2006年には短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞を受賞。2007年、同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた。2010年『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞をダブル受賞。2017年より「週刊ヤングジャンプ」にてコミック化され、大人気連載中。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す