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子爵令嬢エリーゼの婚約 〜幼馴染で婚約者の英雄様に捨てられたので商人になります〜

プロローグ

「それで婚約についてなのですけれど、破棄はきしてほしくて」
 薔薇ばらが似合いそうな華やかな美女が、余裕たっぷりの笑みを浮かべてそう言った。
 気の強そうな青い瞳に太陽のように輝く金髪。身にまとうはその金髪に映える赤いドレス。見ただけで高価なものだと分かる装飾品をセンス良く身につけて、洗練された美しさを醸し出すこの女性は、なんとこのアステリア王国の王女だ。名をヴィクトリアという。歳は十八歳ほどと聞いたことがあるが、自信に満ちあふれたその振る舞い故か、大人っぽく映る。
 王女という立場でありながら、自ら騎士として戦争に身を投じた勇ましい姫騎士。国民の憧れだ。
 その王女が、何故か辺鄙へんぴな地に屋敷を構えるコーンエリス子爵ししゃく邸を訪れている。
 父から爵位を継ぎ、若くしてコーンエリス子爵となった兄コンベルとともに、子爵令嬢のエリーゼ=コーンエリスは、王女の訪れを応接間で迎え入れていた。
 そして、突然の婚約破棄。
「……こ、婚約破棄、ですか……?」
 エリーゼは戸惑いながら言葉を繰り返すと、兄のコンベルに目を向けた。
「お、お兄様、王女様と婚約していたのですか……!?」
 エリーゼがそう言うと、いつも冷静沈着な眼鏡の兄にしては珍しく、焦った様子で首を振った。
「王女様と婚約なんてするわけがないだろう。接点が全くないし、身分も不釣り合いだ」
「それはそうですよね……」
 兄と王女が婚約なんて身分的にもあるはずがないわけで。
 エリーゼは王女に改めて目を向ける。先ほどからずっと気になっていたが、王女のエリーゼを見る目が、あまりにも鋭いのだ。
 王女は戸惑うエリーゼの心を見透かすように、まっすぐ目を見つめながら口を開いた。
「コーンエリス子爵とのことではありません。エリーゼ嬢、あなたの婚約について言っているのです」
「私の、婚約……?」
 エリーゼは目を瞬かせる。
「そうです。あなたとアルベルト将軍との婚約を破棄してほしいのです」
 アルベルト将軍。そう言われて、エリーゼは一瞬誰の話だろうと目を丸くした。その『将軍』というたいそうな肩書きを持つアルベルトなるものが、エリーゼの婚約者で幼馴染の『アル』なのだと遅れて気づく。
 アルベルトはエリーゼの幼馴染で、婚約者。
 八年ほど前、隣国のデルエル帝国がアステリア王国に侵攻したのをきっかけに、騎士の一人として戦場に向かい、その武功で将軍へと成り上がっていた。
「えっと……どうして、アルとの……?」
 困惑するエリーゼに、王女はため息をついた。もの言いたげなため息からは、『物分かりが悪いわね』といったニュアンスの侮蔑ぶべつが込められている気がした。
 口にするのも億劫おっくうそうな王女に代わって、彼女の座っている長椅子の斜め後ろに立っていた執事姿の男が、一礼してから口を開く。
「失礼、私は王女付きの執事のセバスと申します」
 三十歳ほどの男が、少し鼻にかかったような声でそう名乗る。黒髪を後ろに撫でつけて、甘い笑みを浮かべていた。
「恐れながらエリーゼ嬢、どうして、などと。それなりに道理をお分かりであるならば、理由など自ずと見えてきましょう。アルベルト将軍は、此度こたびの戦の大英雄様でいらっしゃいます。戦争を勝利に導いたお方なのですよ。そのようなお方のお相手が……」
 そう言って、セバスはコーンエリス子爵邸の応接間をジロリと一通り眺めてから、視線をエリーゼに戻す。
「こんな田舎の子爵家の方では、不釣り合い、ということです」
 小馬鹿にするように笑いながら、セバスはそう言い切った。
 怒りか恥ずかしさか分からない感情で、エリーゼの顔は思わずカーッと赤くなる。
 アルベルトが、戦で活躍しているということは知っていた。
 それは直接アルベルトから手紙などで聞いたわけではなく、こんな田舎の地にまで届くぐらいに彼が活躍したからだ。
 常勝無敗の奇跡、一騎当千の戦士、勝利の戦神。
 アルベルトを指す二つ名は、戦うごとに増えていく。
 彼の活躍を聞くたびに、普段のただただ優しい彼を知っているからこそ、信じられない思いが湧き上がる。でも、嬉しくないわけではなかった。いや、嬉しいというよりもホッとしていた。それらの知らせは、彼が生きているということの証左だったから。
「ですので、大人しく婚約破棄をしてくださるかしら?」
 何でもないように、王女がセバスの後に続けてそう言った。
 エリーゼは拳をギュッと握り込む。おどおどとしてしまいそうになるのを堪えて、王女に負けない思いでまっすぐ見つめた。
「そんなことできません。第一、アルが許すわけがないです。戦が終わったら、結婚するって約束したのですから」
「あら、婚約破棄については、アルベルト将軍の許可は得ていますわ」
 思ってもみなかった言葉。エリーゼが「え……?」と戸惑う間に、王女は片手をあげた。
 するとセバスが一枚の折り畳まれた紙を取り出して王女に渡す。
 王女はその紙を開くと、テーブルに置いた。
 その紙は、婚約破棄に関する承諾書。
 エリーゼがその書面を目で追うと、最後にサインがあった。アルベルト=アルバスノットという彼の名が記されている。筆跡も、彼のものに似ている。
 つまりは、この書類上だけで見れば、婚約破棄をアルベルト自身も承知の上だということだ。
 エリーゼは一瞬ひるみそうになって、でもどうにか堪えた。
 アルベルトが婚約破棄を言い出すなんて、そんなのあり得ない。
 アルベルトとの思い出を一つ一つ心の中で数えてから、エリーゼは顔をあげる。
「……こんなの、信じません」
 エリーゼがそう言うと、王女は不快そうに眉根を寄せた。
 そしてセバスが呆れたように額に指を置くと、頭を横に振りながら口を開く。
「おやおやおや、なんともはや。もの分かりの悪い方のようですねえ。そういえばアルベルト将軍も、エリーはわがままだからそう簡単には応じないかもしれない、なんて言っておられましたよ」
 セバスの口から漏れた『エリー』という言葉に、エリーゼの心臓は嫌な音を立てた。
 アルベルトはいつも、エリーゼのことを『エリー』と愛称で呼んでいた。
 わがままだから応じないなどと、アルベルトは本当にそんなことを言ったのだろうか。
(ううん、アルが、そんなこと言うわけない。エリーゼといったらエリーが愛称になるなんて当たり前の話だし、噓を言っているのよ)
 エリーゼは浮かんだ疑惑を潰す。
 それを見て取ったのか、王女はまた口を開いた。
「そういえば先ほど、あちらの森にあるブルーベルの群生地に寄ってきたのよ。彼が、つまらない田舎だけどあの花畑だけはマシだったと言ってらしたから」
 王女の言葉にまたエリーゼの顔は強張こわばった。
 コカの森にあるブルーベルの群生地は、アルベルトとエリーゼの秘密の場所。
 春、ブルーベルの青紫の小さな花が咲き誇る時季は、二人でほとんど毎日のようにその花畑に出かけた。兄だって、父だって、屋敷にいる誰も知らない場所。そのはずで……。
「どう、して……ブルーベルの花畑のことを、知って……」
 気づけば、自分でも気づかぬうちにそんな弱々しい言葉が漏れていた。
 王女の言った言葉が、あまりにも信じられなかったのだ。
 エリーゼが弱ったと見たからか、王女は口角をあげた。
「だから言ったでしょう? 彼から聞いたのよ」
 王女の勝ち誇った顔を前にして、エリーゼはカッとなって口を開く。
「な、何かの間違いです。アルが、言うはずない……だって……! 二人だけの秘密の場所だって、アルがそう言って……」
 そう訴える声が震えた。
 口ではそう言っていても、実際王女は二人だけの秘密の場所を知っている。それはどういうことかといえば、アルベルトが話したからだろう。それ以外あり得ないのだ。
 そんなエリーゼを見て、くくくとおかしそうに笑う声はセバスのもの。
「おやおやおや、二人だけの秘密の場所? なんとも可愛らしいことをおっしゃる。もしかして、その秘密の花園でブルーベルの指輪をもらったという話も、お二人の秘密だったのでしょうか?」
 笑いを堪えきれないとでも言いたげに、セバスがそう言った。
 セバスの話を聞きながら、エリーゼは全身が凍りついたかのように身動きが取れなくなった。
 ブルーベルの指輪をもらったあの日のことは、エリーゼにとって特別な思い出。
 アルベルトが戦に出て、すでに八年。寂しい思いも、心細い思いもいくらでもした。でも待っていられたのは、あの日のアルベルトとの思い出があったからだ。あの日に感じた幸せを大事に大事に胸の中に抱えてきたから。
 アルベルトにとっても、きっとそうなのだろうと、疑いもせずに。
(アルは、その話まで、他の人にしてしまったの?)
 呆然としたまま、王女を見た。
 余裕の表情で、エリーゼを見下ろしている王女は、恐ろしいほどに美しく、若かった。
 アルベルトを待っている間に、エリーゼは二十三歳になっていた。貴族の社交界では立派ないき遅れと言われる年齢だ。
 一方、王女の若さのまぶしいこと。それもそのはず、まだ十八歳だ。とはいえしっかり身体は成熟しており、身体の線はエリーゼよりも女性らしいラインを描いている。
 魅力的な人だと、女性のエリーゼすらそう思った。加えて、地位も名誉もある。男爵だんしゃく家の三男であるアルベルトが、王女の夫になるとなれば前代未聞の大出世と言えるだろう。
 エリーゼは、今自分が踏みしめていた地面がいきなりもろく崩れていくような感覚に囚われて、必死になってアルベルトとの思い出を探した。
 悲しい時、辛い時、いつも側にいてくれた優しいアルベルト。
 昔から身体が丈夫で頭も良くてなんでもできた。剣を持てば大人相手だって負けなしで、でもその強さにおごることなく努力を続けられる真摯さがあった。
 でも完璧というわけではなく、抜けているところもあって、ぼーっとしたりすることもあるし、犬の糞をふんだりしたこともあるし、誰かにひどい言葉を言われてもやり返したりできなくて、その優しさがエリーゼには少し不満で、でも何を言われても何をされても、別に大したことないとゆったり構えられるアルベルトを尊敬もしていて、けれどもそんなアルベルトはエリーゼの悪口については一つも容赦しなくて……。
 アルベルトはすごい人だけど、エリーゼはアルベルトのすごいところ以外の部分だって愛しかった。
 かつての思い出が、冷たくなったエリーゼの身体に再び熱をともす。
「アルはどこに? アルの口から直接聞くまでは、納得できません。アルはこんな大事な話を人任せにするような人ではありません」
 エリーゼがそう言うと王女は鬱陶うっとうしそうに片眉をあげてから口を開く。
「アルベルト様の気持ちも分かって差し上げて。アルベルト様はとてもお優しい方。あなたに直接、もう気持ちがないなんてひどいこと言えるわけがないでしょう? だからこうして、わたくしが参ったのです」
「……アルは優しいけれど、そんな意気地なしではありません」
 頑なに訴えるエリーゼに、王女が重いため息をついた。
「本当に、アルベルト将軍の言う通り、頭の固い方なのね。けれど、ようく考えてみて? わたくしはね、彼が戦地で辛い思いを抱えて戦っている間、ずっと一緒にいたの」
 王女の言葉に、ハッと顔をあげた。あげてしまった。
「エリーゼ嬢? 私がお仕えするヴィクトリア王女殿下が、戦争に随行されたことはご存じでしょうか?」
 鼻にかかった声ともったいぶった口調でセバスがそう尋ねてきた。
 もちろん、知っている。有名な話だ。
 薔薇の王女、国のために戦地へ。そういう見出しの新聞を何度も見た。
 王女は言わば、戦の広告塔のような存在。王女様が戦うのに、俺達が戦わないわけにはいかないと、国の若者達の多くが戦へ向かう決意をした。
「国の存続に関わる大きな戦、王族であるわたくしも誇りを持って戦いました。側にはいつもアルベルト将軍。幾度となく彼とともに戦場を駆け抜けました。傷ついた彼の身体の傷の治療だって何度も。お互いがお互いを守り合い、いつ死ぬかもしれない恐怖の中、側にいて支え続けていたのです」
 王女の言葉に、ギュッと心臓を握りしめられたかのような痛みが走る。
 自分のいない間に、アルベルトが誰かと心を通わせていた。想像したくない。想像したくないのに……。
 セバスがバッと腕を広げた。大仰な動作で、夢見心地な顔で、口を開く。
「国を憂える美しき王女。そして国を守りし英雄閣下! そんな若く麗しい男女が側にいれば、特別な感情が芽吹く……当然のこととは思いませんかぁ?」
 実に楽しそうなセバスの言葉を聞きながら、エリーゼは確かにと思ってしまう。
 幼い頃のエリーゼが辛くて悲しい時、アルベルトはいつも側にいてくれた。
 それなのにアルベルトが戦争で辛い思いをしている時、エリーゼは側にいられなかった。代わりに側にいてくれたのは、目の前の王女。魅力的な女性。
「エリーゼ嬢、人というのは心変わりするものです。あまり責めないで差し上げてね」
 王女が小さな子供に優しく言い聞かせるようにそう言った。
 心変わり。確かにそうだ。人は変わる。エリーゼだって、八年前と同じかと問われれば全てが同じというわけではない。
 アルベルトもそうだろう。そもそも、エリーゼの知っている、虫一匹殺すことですら躊躇ちゅうちょするようなアルベルトが、戦で活躍すること自体信じられないことだ。
「アルベルト将軍が戦で疲弊していた時、あなたは何をしていたの? 安全な家の中で、のほほんと刺繍ししゅうでも刺していらっしゃった?」
 項垂うなだれるエリーゼに追い打ちをかけるかのようにそう言うと、王女はハンカチを持ち上げた。
 そしてそのハンカチの刺繡を見て、エリーゼはハッと息をんだ。
「それは……」
「これ、彼がいらないと言って捨てようとしていたの。でもたまにはこんな素朴なデザインも悪くないかと思って、いただいたんです」
 そう自慢げに語る王女の手にあったのは、ブルーベルが刺繡されたハンカチ。
 見たことがある。あれは……。
 アルベルトが戦に行ってから五年ほどは手紙のやり取りがあったのに、突然パタリと連絡が来なくなった。
 何かあったのだろうかと心配で手紙とブルーベルを刺繡したハンカチを贈った。それでもアルベルトからの返事は来なかったので、いよいよ何かあったのかもしれないと覚悟を決めた頃、アルが若くして将軍職に上り詰めたという知らせが国から届いた。アルの無事に涙を流して安堵した。きっと忙しくて手紙の返事をする余裕がないのだと、そう思って……。
 王女が持っているハンカチは、その時、アルに贈ったはずのハンカチだ。間違いない。自分でデザインをして刺した。間違うわけがなかった。
「つまり王女様、あなたが仰せになりたいのは、アルベルト将軍は王女様と結婚したいので、うちのエリーゼとの婚約を破棄したいと言っている、そういうことで間違いないですか?」
 身動きができないエリーゼに代わって、隣に座る兄がそう言った。
 改めてその事実を突きつけられたような気がして、エリーゼはさーっと血の気が引いていく。
 王女は鷹揚おうように頷いた。
「おっしゃる通りです。エリーゼ嬢、お分かりいただけましたでしょうか」
 なにも分からない。身体が理解するのを拒否していて、エリーゼは王女が持っているハンカチから目が離せない。
 アルベルトが戦争に行っている間、彼の負傷を心配して、生きて帰ってきてくれたらそれだけでいいとそう願っていた。
 アルベルトがエリーゼ以外の人に心を寄せて、エリーゼとの婚約を破棄したいと思うなんて、考えてもいなかった。
「あ、そうそう、そうでした!」
 妙に明るい声でそう言ったのはセバス。先ほどからずっと彼は楽しげだ。笑顔のまま話を続ける。
「アルベルト将軍がこちらのハンカチを王女殿下にお譲りされた際に、こうも言っておりましたよ?」
 エリーゼの思い出の中の優しいアルベルトが砕け散って、まだ見たことのない『将軍のアルベルト』が顔を出す。
「自分が大変な時に呑気に刺繡している婚約者の愚かさが腹立たしい、と」
 セバスの言葉は、エリーゼの頭の中で作られた『将軍のアルベルト』の口からそのまま告げられ、もう何も言えなくなってしまった。


第1章

 アルベルトと初めて出会ったのは、エリーゼが五歳の時。
 四つ上の兄、コンベルのために、アルベルトの父であるアルバスノット男爵を剣術指南役として招いたことがきっかけだった。
「は、はじめまして。ア、アルベルト、です」
 身体のほとんどを自身の父親であるアルバスノット男爵の後ろに隠しながら、たどたどしくアルベルトは名乗った。琥珀色の癖のある髪に、長いまつげ。エリーゼよりわずかに背も小さく、可愛らしい人形のような男の子。
「挨拶ぐらいちゃんとせんか。まったく……」
 とアルバスノット男爵が、息子の挨拶に苦言をこぼしてから、エリーゼの父であるコーンエリス子爵に頭を下げる。
「申し訳ありません。この子は、上の二人の兄と違ってどうも気が小さくて。歳の近い子と遊んだら少しはこの引っ込み思案が直るんじゃないかと思って連れてきてみたんですがね」
 と、男爵が困ったように言う。
「ほう。しかしうちのエリーゼの話し相手にちょうどいい。うちの娘は、コンベルが剣術の稽古を始めると言ったら、兄と遊べなくなると駄々をこねてしまって」
 父がそのようなことを言うものだから、エリーゼは顔を赤くして目を尖らせる。
「べ、別に駄々なんてこねてないわ! ちょっと寂しいって言っただけ!」
 まるでわがままな子供扱いをされて、たまらずエリーゼは声をあげた。
「分かった分かった。ほら、エリーゼ、アルベルト君に挨拶をなさい。立派なレディならできるだろう?」
 何を言っても子供扱いをしてくる父に物申したい気持ちはあったが、エリーゼはぐっと堪えてアルベルトの方に向き直る。
「私はエリーゼ=コーンエリスよ。このあたりのことだったら、なんでも知っているから気軽に聞いて。よろしくね」
 アルベルトのその見た目からてっきり年下なのだと勘違いしたエリーゼは、お姉さん風を吹かして手を差し出す。
 驚いたように目を見開いたアルベルトが、エリーゼをじっと見た。綺麗な深い青の瞳がきらきらと瞬いている。あまりにも美しくて、エリーゼは目が離せない。しばらくすると、アルベルトはおずおずと前に出て、エリーゼの手を握り返した。
「よ、よろしく……お願いします」
 顔を赤くしながらアルベルトはそう言葉を返す。
 それを見た男爵は目を見開いた。
「おお、これは驚いた。アルベルトが初対面で握手するなんて……初めてだ」
 男爵のその言葉を聞いたエリーゼは、何とも言えない優越感を抱いた。
 まるで誰にもなつかない野生の獣を手なずけたような、そんな感覚。
 エリーゼはこの時、この可愛い獣を弟だと思ってこれから先ずっと守ってあげようと思った。
 そして幼い時に抱いたその思いは、アルベルトを知るごとに変化していく。
 その変化のきっかけが何だったのかは分からない。アルベルトがエリーゼをかばって毒蛇に嚙まれた時かもしれないし、エリーゼが作ったへたくそな料理をおいしいと言って何度もお代わりしてくれた時かもしれない。エリーゼがちょっと怪我をするだけでこの世の終わりのような顔で心配してくれたからかもしれないし、エリーゼが風邪を引くたびに貴重な薬草を一人で摘んできてくれたからかもしれない。
 何がきっかけというわけではなく、きっとそれら全ての積み重ねのおかげなのか、十三歳になったエリーゼの中で、アルベルトへの守りたいという漠然とした気持ちは恋に変わった。弟と思っていた彼は、友達という段階を経てから好きな人になった。
「泣かないで、エリー」
 ある日、仕事に行ってしまった父を見送って、部屋でしくしくと泣いていたエリーゼに、アルベルトが優しくそう声をかけてくれた。
 二人は十三歳。最初に出会った時は、エリーゼの方がわずかに背が高かったが、もうすっかりアルベルトに追い越されてしまっていた。
「でも、お父様、また行ってしまった……」
 コーンエリス子爵であるエリーゼの父は、所領を持つ伯爵家の補佐役。伯爵家の城に勤める文官でもあった。一度、そちらの仕事に出れば数か月は会えない。それが、エリーゼにはたまらなく悲しかった。
「大丈夫だよ、僕がいる。来て。二人の秘密の場所へ行こう」
 そう言って差し出してくれたアルベルトの手を、エリーゼは握り返す。
 二人の秘密の場所というのは、屋敷から少し離れた小さな森の中にある、ブルーベルの花畑のことだ。春先の今なら、青紫の小さな花を鈴なりに咲かせているはず。親も、使用人も、誰も知らない。エリーゼとアルベルトの隠れ場所。
 早朝の柔らかな日差しの中、大好きなアルベルトの少し汗ばんだ手に引かれて歩き出す。
 目的の花畑に着いた頃には、エリーゼの涙はもうすっかり乾いていた。
 アルベルトがエリーゼを元気づけようとしてくれている気持ちが嬉しい。それだけでもう満たされてしまったのだ。
「わあ……!」
 予想通り綺麗な青紫の花が咲き始めているブルーベルの花畑を前にして、エリーゼは感嘆の声を漏らした。
 今はまだまばらだが、近いうちにあたり一面青紫に染まるはずだ。
「エリー、こっちを向いて」
 アルベルトの少しのんびりとした甘い声に応えてエリーゼは振り返る。すると、青みがかった紫の花が目の前いっぱいに広がった。ブルーベルの花束だ。
 エリーゼにそれを捧げた人は、頰を赤く染めて照れくさそうな笑みを浮かべた。
「元気を出して」
 地面に片膝をついて、物語に出てくる王子様のように花束をエリーゼに捧げる。
 風で揺れる癖のある琥珀色の髪、少し日に焼けた肌、湖面の色を思わせる深い青色の瞳がまっすぐエリーゼを見ていた。
 それがあまりにも素敵で、エリーゼが思わず言葉に詰まっていると、アルベルトは不安そうに瞳を揺らした。
「こんな、野花だけでごめん。大人になったら、百本の薔薇の花束を贈れるような男になるから」
 エリーゼが呆然としていたのは、野花の花束に不満があったからだと思ったらしい。しょぼくれたようにそう言うアルベルトがあまりにも愛しくて、エリーゼは笑みを浮かべた。
 花束ごと、アルベルトの頭を抱きしめた。
「もう。私が喜んでないと思ったの? アルが贈ってくれたものは全部、私の特別大好きなものになるのよ」
 顔をあげて冗談めかしてそう言えば、アルベルトの顔がほころんだ。
 照れたように「エリー」と名を呼んで、鼻をかく。そして少しして意を決したようにまた口を開いた。
「今朝、旅立つ前の子爵様と少し話をしたんだ」
 突然、まじめくさって言うものだからエリーゼは少し戸惑った。
「話……?」
「うん。エリーと婚約しても良いって、許可をいただけた」
 その言葉にエリーゼは目を丸くさせる。
「本当に!? お父様に……? 許可をもらえたの?」
 エリーゼはとっくの昔にアルベルトへの恋心を自覚していたし、アルベルトがエリーゼを大切に思ってくれていることも、分かっていた。けれども貴族の結婚は気持ちだけで成り立つものではない。
 エリーゼは子爵令嬢で、アルベルトは男爵家の三男。アステリア王国の男爵は一代貴族。そうでなくても三男であるアルベルトが爵位を継げるものではない。
 エリーゼの身分では、どこかの伯爵令息やら子爵令息とかの、将来の爵位が約束されているような男性と婚約することが良いとされている。実際に、エリーゼのもとにやってくる婚約話はそんなものばかり。
 父は今まで、アルベルトと一緒になることを認めてくれなかった。
「うん。というか……エリーが、婚約話を全部蹴るから、それに子爵様が参っていらっしゃったところもあって、僕だけの手柄というわけではないのだけど」
 そう言って頭をかいてから、改まった様子でアルベルトがポケットから何かを取り出した。
「エリー、僕と一緒にいてくれる? ……今はこんなものしか用意できないけど」
 そう言って、アルベルトはブルーベルの花を編んで作った指輪を見せた。
 驚くエリーゼの手を丁寧に優しく取って、嬉しくて震えそうになる指にブルーベルの指輪をはめる。
「アル……」
 感極まって、エリーゼの瞳がまた潤む。
「それで、十六歳になったら、結婚しよう」
 立ち上がったアルベルトがそう言った。
 もう目がにじむどころの話ではなかった。あふれた涙をこぼしてそれを隠すようにアルベルトの胸の中に顔を預けた。アルベルトがぎこちなく、優しくエリーゼを抱きしめる。
 ブルーベルの花の香りと、アルベルトのぬくもりに包まれて、エリーゼは人生で今日以上に幸せな日はないのかもしれないと、そんなふうに思った。
 ─けれど、エリーゼとアルベルトとの間に交わしたその幸せな約束は、守られることはなかった。
 結婚できる年齢である十六歳を前にして、隣国デルエル帝国との戦が始まりアルベルトは戦場へ行ってしまったのだ。
 本心を言えば、戦に行くことにエリーゼは大反対だった。しかしアルベルトは思いとどまらなかった。
 戦で功をあげれば爵位を得られる可能性がある。
 無爵の状態で、子爵令嬢であるエリーゼを妻にすることに、引け目のようなものを感じているようだった。
 エリーゼは、一緒にいられるのなら貴族でなくてもいいと何度も言った。でもアルベルトの気持ちは変わらなかった。
 婚約という約束だけを残して、戦争に行ってしまった。
 そしてそれから八年が経過し、エリーゼもアルベルトも二十三歳となった頃、ようやく戦が終わった。当初の予想に反して、エリーゼ達の国であるアステリア王国の勝利という結果。
 戦が終わり、続々と戦士達が帰郷している。
 アルベルトともうすぐ会えると、そう思っていた春の日にエリーゼは婚約破棄を突き付けられたのだ。
 婚約破棄を突き付けてきた王女は、せめてものお詫びと言いながら、エリーゼに別の縁談を用意して去っていった。
 伯爵はくしゃく家嫡男との婚姻だ。田舎の子爵家にとっては破格の縁談。
 とはいえ、それでアルベルトをあきらめろと言われても、気持ちがそう簡単に消え去るわけもなく……エリーゼは今、馬車に揺られていた。
 王女の話が本当なのかどうか、やはり本人の口から聞くまではどうしても納得がいかない。
 アルベルトに会って直接話を聞きたい。
 王女が帰ってすぐにエリーゼはアルバスノット男爵邸に向かった。戦場に行っていた王女が戻ってきているということは、アルベルトももう戻っているかもしれない。
 アルベルトの家まではエリーゼの家から馬車で一時間ほど。
 それほど遠い距離ではないが、特別近いわけでもない。この距離を、昔のアルベルトは易々と通ってくれていた。
 そんな小さな思い出の、一つ一つを糧に心を強くする。
(王女様の権力に負けて渋々私との婚約を破棄せざるを得なかったという可能性だってある。アルベルトの気持ちを確認したら、このまま連れ去って駆け落ちすればいいわ)
 アルベルトの家に着く頃にはそんな覚悟すら持って、エリーゼは屋敷のベルを鳴らす。
 すると最初に使用人が出て、エリーゼだと気づくと中に案内してくれた。
 アルベルトに会えると思って椅子に座って待っていたが、部屋に入ってきたのはアルベルトの母であるアルバスノット男爵夫人、セレナ=アルバスノットだった。
「ごめんなさいね、エリーゼさん」
 伏目がちにセレナはそう言って、頭を下げた。
 彼女も、婚約破棄の話を聞いたのかもしれない。
「顔をあげてください。私は、あんな話、信じていません。相手は王女様ですから、きっと無理やり……だってアルに限って、心変わりなんて」
 あり得ません、と続けようとしていたのだが、セレナは目を丸くさせて驚いているので、最後まで口にできなかった。
 何をそんなに驚くのだろうと、ここで初めてエリーゼは嫌な予感がした。
「エリーゼさん、ああ、なんてことを……! うちの息子のせいで、本当にごめんなさい」
 またセレナは謝罪を口にした。一体何に対しての謝罪なのか、エリーゼには分からない。いや、分かりたくない。
 呆然と固まったエリーゼの肩に、セレナは手を置いた。
 今にも泣き出しそうな顔でエリーゼを見る。
 セレナは、いつも優しかった。エリーゼが遊びに来ると、『私もこんな女の子が欲しかったのよ。うちは男の子ばっかりだから』なんて言われて、よく可愛がってもらった。
 エリーゼと会う時、いつも穏やかな笑顔を湛える彼女が、今、見たこともないような悲痛な表情を浮かべている。
「不実なあの子を許してちょうだい」
 消え入りそうな声でセレナがそう言った。
「不実……」
 不実という単語の意味がここにきてよく分からなくなった。さっきから彼女は何を言っているのだろう。
 そう思った時に、『エリーの愚かさが腹立たしい』そう言って嘲笑う、アルベルトとヴィクトリア王女の姿が脳裏をよぎって、思わずエリーゼは一歩下がった。
「アルは、本当に、私との婚約破棄を望んで……?」
 うわ言のように呟いたその言葉に、セレナは痛ましげな顔をして瞳を閉じた。
 否定をしない。つまりは肯定ということ。
 あり得ない。昔のアルベルトを必死でエリーゼは思い出した。
 二人だけの思い出、二人だけの場所、二人だけの秘密。
「納得できません。アルベルトに会わせてもらえませんか」
 力なくそう言うと、セレナはしばらくしてから頷いた。
「……声をかけてみましょう」
 セレナは力強くそう言って部屋を出た。エリーゼもその後に続く。
 アルベルトの部屋は屋敷の二階の角だ。
 セレナはそのアルベルトの部屋の前に立つと、ノックをした。
「アルベルト、エリーゼさんが来ていらっしゃるわ。入ってもいいわね」
 セレナがそう言うと「ダメだ!」と部屋の向こうから声が返ってきた。
 昔聞いたアルベルトの声とは少し違う。低くて、大人の声。でも確かに、アルベルトの面影がある。声変わりしたのだ。八年。八年もエリーゼは一緒にいられなかった。大人になる彼の側にいられなかった。そんな当たり前のことを改めて思い知った。
「アル……」
 思わず名を呼んだ。
「もう帰ってくれ。君とは会いたくない。婚約だって、破棄しただろう」
 はっきりとした、拒絶の言葉。
「アルベルト! 何を言うの! ちゃんとエリーゼさんに説明をしなさい!」
 何も言えないエリーゼの代わりに、セレナが声を荒らげる。
 しかし、扉の向こうのアルベルトは、何も答えなかった。
 王女に無理やり結婚を迫られて困っているアルベルト。
 それは、現実を認めたくないエリーゼのただの妄想だったのだ。それが分かった。
「……もう、いいです。分かりました」
 エリーゼは絞り出すようにしてそう声を落とした。
 今にも倒れてしまいそうな身体にどうにか力を入れて、来た道を戻るために足を動かす。
(もう、ここにはいたくない)
 弱々しく歩くエリーゼの背中に「エリーゼさん!」とセレナの声がかかる。
 しかし、アルベルトは、最後まで引き止めることはなかった。



続きは2月5日に発売予定『子爵令嬢エリーゼの婚約 〜幼馴染で婚約者の英雄様に捨てられたので商人になります〜』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
唐澤和希(からさわ・かずき)
作家、漫画原作者。「小説家になろう」で連載していた『転生少女の履歴書』で書籍化しデビュー。他の著作に「後宮茶妃伝」シリーズ(KADOKAWA)、「五神山物語」シリーズ(スターツ出版文庫)など多数。

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