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第13回

嘘から出た真実

十九 嘘から出た真実

 うちを傘下に。
「それは、完全に買収という形ですか」
 訊いたら、いやいや、って荒垣さん、秀一さんが笑みを見せながら右手を軽く横に振った。
「そんな強引なことは考えていません。もちろん、これから話し合い、合意した上で協議という話になりますが、ひとつの形としては、経営に関しては今まで通り宮下さんを社長とする〈ゲームパンチ〉さんで。そこに私たちのカラオケ〈Mスター〉が同居するという形でももちろん展開できると思うんです」
 つまり、傘下に入るといってもあくまでも〈ゲームパンチ〉として、共同経営にしていくという形か。
「うちの建物をそのまま改装して使うということで」
 そうです、って秀一さんが強く頷いた。
「もちろんこれも協議の上での話ですが、あちらのビルを建て直すとかは今のところは考えていません」
 もしも建て直すとなるととんでもない金額が掛かってしまうし、そこまでのものは考えていないんだろうなきっと。
「あれ? でも〈Mスター〉さんは、ありますよね?」
 五月が言うと、秀一さんがいいえ、って。
「カラオケ〈Mスター〉は、実はこの街にはないのですよ。居酒屋〈太公望〉はあるのですが」
「え、〈Mスター〉ってありませんでした? あ、そうか」
 ひとつ近くにあるけれど、あそこは住所としては隣町の駅前か。ここと隣町は本当にすぐ近くだから全然意識してなかったけどそうだったか。
「そうなんです。駅近をメインに展開している〈Mスター〉ですが、ここの駅近にはないんです。もちろんどこかにいい場所はないかと長いこと当たっていたんですが、なかなか見当たらずに」
「そうですね」
 五月が頷いた。
「駅近と言えば、確かにうちのビルも駅近ですもんね」
 うちの駅前はちょっとS字というか&字というか、どうしてこんな形に、と誰もが思うほど変な形の道路になっている。三叉路とも四叉路とも言えて、その中の一本を進んでいけば〈ゲームパンチ〉の前の通りになるんだ。
 まぁギリギリ駅近と言えないこともない。
「そうなんです。しかもこの辺には競合するカラオケ店もありません。そして〈花咲小路商店街〉の裏側で人通りもあり集客も見込めます」
 それはそうだ。〈花咲小路商店街〉が賑わっているからこそ、弱小の我が〈ゲームパンチ〉も何とか今までもっているようなもの。
「実は〈花咲小路商店街〉にあるいくつかのビルでの展開もいろいろと検討してみたのですが、どうも端から上手くいきませんでした。カラオケ店はここにそぐわないんじゃないかという話も多く聞きまして」
「嫌がる人もいますからね。パチンコ店とかカラオケ店、ゲームセンターもそうですけどそういうのが商店街に並んでしまうのを」
「はい。それはわかります。そういう意味では〈花咲小路商店街〉は理想的というか、パチンコ店もゲームセンターもちょうどその裏側にありますよね。以前から疑問だったのですがこの配置は単なる偶然だったのでしょうかね?」
 実は、偶然じゃないんだ。
「ここはかなり昔からの商店街なんですが、その昔にいろいろあって、変な人たちが出入りするようなものは商店街に含めないってなったことがあったようですね」
 以前は四丁目に遊技場みたいなものがあったらしいけど、火事で焼けてしまった。
 一緒に四丁目にあった飲み屋街みたいなものも全部なくなって、それ以来〈花咲小路商店街〉にはいわゆる遊技場みたいなものや、ただの居酒屋チェーンみたいなのも入っていない。むしろ、離れるようにしている。
〈パチンコダッシュ〉さんや、〈ゲームパンチ〉が直接には商店会に参加していないのもそれがあるからなんだ。
「うちは宇部家の関係で準加盟ということで入ってはいますけれど」
 なるほど、そうだったんですか、って秀一さんは頷く。
「それで、ここから先にお話を進めるには、まず〈ゲームパンチ〉さんに、今回の提案を受け入れる余地があるかどうか、可能性だけでもちょっと判断していただきたいんですが、いかがでしょうか?」
 そうだよね、ここから先の話はまずはうちに傘下に入るなり合併するなり、とにかくその気がないと、進めてもまったく無駄な時間になってしまう。
 五月と顔を見合わせた。
 これは、二人で話す時間を取らなくていいことだ。
 眼で了解し合った。
「お話をお聞かせください。充分に検討に値する、いや正直に言えばかなり積極的に話し合いたいです」
「ありがとうございます!」
「ただですね」
 たぶん、ある程度秀一さんの方でも調査して把握はしているだろうとは思うけれども。
「正直、〈ゲームパンチ〉は赤字経営です。今にも倒れそうな、とまではいきませんが、ギリギリ保っているという状況ではあります。その辺はもう把握されていますか?」
 秀一さんが頷いた。
「本当に、ある程度は。厳しい状況ではあるけれども、それでも右肩下がりになっているとかではなく、ちょっと言葉はあれですが、低空飛行であるけれどもギリギリ高度は保っておられるのではないかと」
 その通りだ。さすが大きな企業の経営者。ちゃんと調べはついているんだ。
「それでも、ですね?」
 大きく頷いた。
「それも含めて、のお話です」
「ありがとうございます」
 頭を下げる。
 まさかこんなことになるとは思ってもみなかったけど、めちゃくちゃありがたい話になってしまっている。 
「では、改めて話を進めますが、実は今までにも何度か〈ゲームパンチ〉さんに客としてお邪魔していました。それでわかりましたが、あのビルは元々は四階建てぐらいのものを想定して建てられたものですね?」
「その通りです」
 筐体が大きいゲームなんかのことも考えて、天井高のやたら高い二階建てにはなっているけれども。
「うちで展開している〈Mスター〉には部屋数が絞られてはいるけれど、多様性に富んだ使い方のできるものがあるんですが」
「知ってます。部屋でダンスレッスンとか、楽器の演奏練習とかもできるカラオケ店ですね?」
「その通りです。その形式のものにすると考えるならば、このビルは理想的だな、とずっと考えていたんです」
 そっちの方か。確かに〈Mスター〉のあの形式でいくなら、うちの大きさは理想的かもしれない。
 そして、ゲーセンと同居するっていうのもおもしろい。
 スタジオ的な利用で、たとえばバンドメンバー何人かで待ち合わせて、もしも誰かが早めについてもゲーセンで遊んで待っていられる。
 そうすればお互いに相乗効果になるし、部屋数は少なくてもスタジオとしての利用料金はカラオケよりも利益率が上がるはずだ。
 きっと秀一さんはうちの中身も全部見て、改装するのにもそんなに予算も掛からないって見込んでいたんだろう。うちの方で予めそういうふうに造っていたから。
「おそらく改装にもそれほど時間は掛からず、〈ゲームパンチ〉さんを一時的に閉める期間もそう長くはならないかと思うんですよね」
「確かに」
 長くて、三ヶ月かな。
 急いでもいいことはないから、長く見積もって四ヶ月もあれば全部の改装は終わると思う。移動とかゲームの選別、入れ替えの準備期間を含めても、新装開店まで半年あればたぶん大丈夫だし、それぐらいであれば休んでいる間の従業員の給料とかも何とかなる。
 もしも、改装次第で僕と五月の住居空間までもなくなってしまうようなら、その辺は宇部家と上手くやれば何とかなると思う。実際、五月からは宇部家、〈たいやき波平〉の家に住んでも全然いいんだよ、とは前から言われているし。
 まぁその辺の話もこれからだ。
「それで、真紀さんがうちにいるとわかっても、そちらの会社に来てもらうようなことはせずに」
 そうです、って秀一さんは頷く。
「いや、そんなふうに言ってしまうと、何か全てが計算ずくの黒幕みたいに聞こえてしまうでしょうけれども、実はまぁこちらでもいろいろありまして」
 真紀さんを見る。
「お聞き及びかと思いますが、真紀さんがそちらで働いているのも、息子の太一がそんなことになってしまっているのを聞いたのもごく最近のことでして」
 そうだった。
 真紀さんはそう言っていた。
「父たちともまぁいろいろありまして、新しい家を建ててどうこうというのも本当につい最近のことでしてね。そういうのが何か急に一緒くたになってやってきてしまいまして。ようやく落ちついていろいろ考えることができましてね。以前から考えていた〈ゲームパンチ〉さんへのお話も、真紀さんがいることでひょっとしたら上手く進められるのではないかと思っていたところにですね」
 お父さん、荒垣隆司さんを見た。
「真紀さんから、こちらの宇部禄朗さんと、うちの父の、そのかつての話を聞かされて、本当に父ともども驚きましてね。何というか、偶然というか奇縁というか」
「そうですね」
 どう表現していいかわからない偶然。合縁奇縁。
 かつてのアンパイアと、今のアンパイア。かつての球審と、選手。
 それがここで今、再び顔を合わせているんだ。
「それで、今回のこのお話、〈ゲームパンチ〉さんと〈Mスター〉の話は、本来うちの父も真紀さんも、それに禄朗さんも直接には関係ないのですが」
 隆司さんが、そっと手を上げて秀一さんを制した。
「ここからは、私の方から」
 今まで黙って話を聞いていた隆司さんが居住まいを正した。ゆっくりと、頭を下げた。
「まずは、宮下さん。これから会社同士の話し合いを進めていただくことになると思いますが、決して宮下さんの不利益になるようなことには致しません。会長として保証させていただきますので、よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
 お互いに頭を下げる。そうだった、忘れそうになっていたけど、あくまでもこの人は会長さんだったんだ。
「この先の話をする前に、私の方から、宇部禄朗さんに」
 禄朗くんの方を向く。
「宇部禄朗さん」
「はい」
「そのお名前を、忘れたことはありませんでした」
 そう言って、少し息を吐いた。
「私を、恨んでいることでしょう。あれから二十年経った今でも」
 禄朗くんが、唇を少し動かしてから、口を開いた。
「恨みとか、そういうものは最初からありません。あのとき感じたのは疑問と怒り。怒りは」
 一度言葉を切って、隆司さんを見て少し微笑んだ。
「甲子園に行けなかった、というのがその怒りの元です。その後に、三年生になって出場を決めたことであっさり消えています。消えて、疑問だけが残りました。何故なのか、という疑問。それも、長い年月の間でただの苦い思い出のようになっています。もしも、こうして会うのではなくばったりどこかで会ったとしても、いきなり殴りかかったりもしませんし、むしろお久しぶりですとこちらから挨拶したかもしれません」
 たぶん、本音だろうな。二十年は長いし、禄朗くんはそんな狭量な男じゃない。
 隆司さんが、小さく頭を下げた。
「疑問というのは、あのときに私に問いかけた言葉ですね。『何故、嘘をついたのか。何故ストライクなのにボールと言ったんだ』という」
「そうです」
 小さく頷き、そしてまた息を吐いた。
「仰ったように、宇部禄朗さんの高校、〈代嶋第一高校〉は三年後に見事に甲子園出場を決めました。私は、ずっと見ていました。身勝手な言い分ですが、ほっとしました。心のトゲがわずかに抜けたようにも思いました。私がいたせいで甲子園に行けなかったであろう選手も甲子園への切符を手にしたのですから」
 私がいたせいで。
 ということは。
「口を挟むようですが、そのように仰るということは、禄朗くんがあなたを殴ってしまった原因になったあの一球は、やはり」
 言うと、隆司さんは小さく頷いた。
「ストライクでした」
 ストライク。
 禄朗くんも、ユイちゃんも、五月ももちろん僕も思わず身体を動かしてしまった。
「ストライクなのに、ボールと言ってしまいました。ですから、禄朗さんがあの試合の後に、私に詰め寄って言った言葉に間違いはなかったのです。『何故、嘘をついたのか』と。その通りでした。私は、嘘をついたのです」
 禄朗くんの判断は、正解だったんだ。
 隆司さんは、あの球をストライクと判断したのにボールと言ったんだ。
「自分のやったことは、許されざること。そう思い、あの試合の後に私は審判員を辞めました。経営していた会社も、息子である秀一に譲り、半ば隠居同然でボランティアなどを始めました」
 そうだったのか。禄朗くんも軽く眼を大きくさせたから、審判員を辞めたことは知らなかったんだな。
 隆司さんは、ただ、って言って少し笑みを浮かべた。
「野球からは、離れられませんでした。子供たちに野球を、野球の楽しさを教えることもずっとやってきました。贖罪、などと大げさにするつもりはなく、ただただ野球が好きだという思いだけは、どんなことをしても捨てられなかったものですから」
 わかるな。それは本当にわかる。
 本当に好きなものは、生きていく意味にもなってしまっているものなんだ。それを捨て去ることなんかできやしないんだ。
「何故だったのでしょう」
 禄朗くんだ。
「今でも、全部はっきり覚えています。九回裏ツーアウト満塁で、得点は六対五。僕たち〈代嶋第一高校〉が〈翌二高校〉を一点リードしていました。打者は六番の大久保くん。スリーボール・ツーストライクになりました。次の一球がストライクで見逃したり、打っても凡退したりしたら僕たちの勝ち。フォアボールになったら押し出し同点でした。確かに、ボールならそのまま〈翌二高校〉がサヨナラ勝ちする確率がかなり高くなりますが、必ず勝つとは限らない状況でした。粘って延長戦に持ち込んで僕らが勝つかもしれない。負けるかもしれない。誰にもわからない状況だったんです。もっとギリギリのところで確実に〈翌二高校〉に勝ちを拾わせる嘘をついたのなら、八百長とも考えられました。けれども、あの一球の判定は、〈翌二高校〉に確実な勝ちを拾わせる判定ではなかったんです」
 そうだ。それは僕もよく覚えている。
 禄朗くんが言葉を一度切った。
「それまでの荒垣さんの判定は、完璧でした。一ミリの迷いも曖昧さもなかったんです。個人的に低めの判定がちょっと甘いとは思いましたが、そこにも曖昧さだけはなかった。この低さならボール、ここならストライク。しっかり線引きがされていた。キャッチャーとしては確実な判断を重ねられて、とてもいい試合ができていたんです。だからこそ、僕は」
 また言葉を切って、息を吐いた。
「あの一球の判定が信じられなかった。確かにボールともストライクとも取れるコースでした。けれどもあのコースは試合中全部ストライクでした。あの一球だけが、ボールだったんです。どうしてなんだと。怒りよりも、疑問でしかなかった。突然どこか体調が悪くなったんじゃないかと思ってしまったぐらいです。今日、ここに来られたということは、そしてこの話を自らしていただいているということは、その理由をお話ししていただけるんですか」
 禄朗くんの言葉に、ゆっくりと、隆司さんは頷いた。
「今回のこの偶然を、ご縁を真紀さんから、そして秀一から聞かされたときに、これは神様が与えてくれた機会なのではないかと思いました。謝罪とか贖罪とか、そんな言葉では言い表せないほどの大きな機会。自分の人生の締めくくりに訪れた僥倖。そんなふうに、考えました」
 禄朗くんを見る。
「今から六十年ほど前の話です。二十年前のあの試合の日からすると、四十年ほども前になります。私が高校生の頃の、甲子園出場を決める県大会。優勝して県代表になった高校のナインだったのが、私と、禄朗さんのいた〈代嶋第一高校〉の松木監督でした」
「えっ」
 思わず声が出てしまった。
 禄朗くんも一緒だ。
「松木監督と?」
 禄朗くんがいた当時の監督が。
 隆司さんもまた、高校球児だったのか。
 甲子園に行った。
「私は、当時は三塁手。そして松木はキャッチャーでした。二人ともレギュラーです。出場を決めたのは私たちが三年生のときでした。それは、この話とは別に本当に、良き思い出です。ただ」
 表情を曇らせる。
「私には、どうしても松木を許せない思いがありました。その当時からです」
 許せない?
「松木が今どうしているかを、禄朗さんはご存じですか?」
「いいえ」
 禄朗くんが、首を横に振った。
「松木監督がいたのは、僕らが一年生のときまでです。二年生になったときには監督が交代して、野田監督になりました。僕らが甲子園に行ったときは、その野田監督だったんです」
 そうだ、それも覚えている。監督が替わったことで野球が少し変わっていい方向に行ったんじゃないかって当時思ったことも、僕は覚えている。
「その後松木監督がどうされているかは、まったく知りません」
 そうですか、って隆司さんが続ける。
「これも、そういうことになったのも、何かしらの兆しというべきものだったんでしょうか。松木は、つい半年ほど前に病で亡くなりました」
「そうでしたか」
 隆司さんは七十八歳になるはずだから、松木監督もそうだろう。
 まだ早いのにと言えば、早いかもしれないし、ご病気を持っていたのなら致し方ない年齢か。
「それがなければ、もしもまだ松木が健在であれば、これも明らかにすることは、こうして話すことはできなかったかもしれません。それでも、全てを詳らかに話すことは避けます。当時、松木は付き合っていた女の子を妊娠させて子供を堕ろさせていたのです。その後、彼女は自殺しました」
 皆が、いやたぶん話を全部知っている秀一さん以外の皆が、少し驚いて眼を丸くした。身体を動かした。
 そんな話になるのか。
 隆司さんは、小さく首を横に振って続けた。
「その彼女は、私たち野球部のマネージャーの子でした。自殺したのは私たちが甲子園に出た後の話になりますが、それら全てを知っていたのは同じ野球部だった者の中でもほんの数人でした。私たちの間では松木を人でなしだとしていました。何かしらの反省の情でも見せていればまた違ったかもしれませんが、そういうものの欠片もあいつは示していませんでした。当然ですが、卒業後あいつと親しく会ったことはありません。同窓会など致し方ない場合でも、同じ甲子園に出たナインであっても、話すことなどありませんでした。それが」
 また息を吐き、禄朗くんを見る。
「四十年経って、高校の、〈代嶋第一高校〉の野球部の監督になっていたのです。私は審判員になっていました。あんな男が高校野球の世界にまた来たなどと、私は許せませんでした。ましてや甲子園出場監督になるなど、もっての外だと、ずっとその思いが頭にありました。頭から離れませんでした」
 誰も声を上げられなかった。
 ただ黙って、隆司さんの話を聞いている。
「しかし、もちろん、勝負の世界です。私は、アンパイアです。どんな感情だろうとそれが判断に影響するようなことがあってはならない。そう考えていました。もっと言えば、仮にそういう感情が影響したとしても、それまで自分のそういう感情で、判断で、〈翌二高校〉に勝ちを持ってこられるような場面は一切ありませんでした。それはたぶん、禄朗さんもお分かりになるでしょう」
 禄朗くんが、小さく頷いた。
 いい試合だったんだ。お互いに五点六点を取り合うという展開ではあったけれども、決してピッチャーが悪かったわけでもなく、野手がエラーをし合うということでもなく、実力と実力の戦い。
 白熱した試合が展開されていたんだ。
 はっきりと覚えている。
「しかし、そういう試合展開の中で、あそこで」
 隆司さんが、言葉を切った。
 禄朗くんが、口を開いた。
「勝敗を左右するかもしれない瞬間が、あそこで来たんですね。直接の勝ち負けではないけれども、少なくとも大きく松木監督のいる、僕がキャッチャーをしていた〈代嶋第一高校〉の天秤の皿を敗者側へと傾ける重りが、あったんですね」
 隆司さんが、息を吐いて、頷いた。
「その通りです」
 一度下を向き、それから顔を上げた。
「あのとき、あの球を受けたとき、そして私が『ボール!』と告げた瞬間、禄朗さんが、一瞬私に向かって反応しようとしたのがわかりました。すぐに、これは私が嘘をついたのがわかったんだろう、と思いました」
「わかったんですか? 禄朗くんの反応が?」
 思わず訊いてしまった。
 隆司さんが、頷く。
「勝負の世界で、野球の試合の中で、そういうことはよくあります。非常に優れた選手が、集中力をギリギリまで高めて真剣に勝負をしている場なのです。まるで超能力のように相手の思考が手に取るようにわかるとか、ピッチャーの投げる球の軌道が見えるとか、そういうのは、あるのです。禄朗さんはとても優れた選手でした。試合をやっていて心底思っていました。この選手はひょっとしたらプロに行ける逸材かもしれないとも、思っていたのです。これは、本当です。ですから、あの瞬間も、そう感じたのです」
 禄朗くんは、少し顔を顰めた。
 禄朗くんは、あのときに隆司さんが、荒垣球審がストライクと判断したのに、ボールと嘘をついたと、感じたんだなきっと。
「確かに、私があのときストライクと言えばそこで試合終了でした。ゲームセットでした。禄朗さんたちの〈代嶋第一高校〉が甲子園に行っていたのです。申し訳なかったという思いがずっとありました。しかし同時に、松木を甲子園に行かせなかったというような思いがあったのも事実です」
 疲れたように、隆司さんはまた小さく息を吐いた。
「その後、禄朗さんたち〈代嶋第一高校〉のナインが、三年生になり甲子園に出場したときは、本当に勝手な言い草ですが、安堵しました。これも勝手ですが、松木のいない〈代嶋第一高校〉をずっと応援していました」
 ふいに、隆司さんは何かを思い出したような表情をして、禄朗くんを見た。
「直接関係はないと思いますが、私はてっきり宇部禄朗という選手はプロとまではいかなくとも、大学や社会人の世界で素晴らしい選手になると思っていたのですが、野球をやめられましたね? それが何故かは、知るよしもなかったのですが」
 あぁ、と、禄朗くんが少し笑みを見せた。
「甲子園が終わった後です。これも本当にまったく関係のない話で、交通事故にあったんです」
「事故に?」
「バイクに引っかけられるというもので、命には別状のない怪我だったんですけれど、転んだ拍子とバイクに乗っかられるという不運が重なって肩の骨をやってしまいまして」
 そうなんだ。複雑骨折してしまった。お医者様が言うにはまるで逆の奇跡のような不運な事故だったって話だ。
「それで、二度と以前のような投球はできなくなって、野球は断念しました。その代わりに、右で投げることはできるようにして、アンパイアに」
 その前に警察官にもなっているんだけどね。
「そうだったのですか。惜しいことでしたね」
 隆司さんが、また話し出した。
「許してほしいなどとは言えません。私の勝手な思いです。また殴られても構わないとも思っていますがこの歳になるとそうも言えません。殴られてコロッと逝ってしまってはとんでもない迷惑になりますので」
「それはそうですね」
 つい言ってしまった。
 禄朗くんだって、そんなこと望んでいない。むしろ、全部話してもらえたことで、望みが叶ったというか、疑問が解消されて嬉しいと思う。
「もういいんだよな?」
 禄朗くんに言うと、頷いた。
「人生で最大だった疑問は、なくなりました。そういうのもおかしな話ですが、はっきりとした理由を聞かされていたら、殴らなくても済んだなって思っていたんです。もちろん、アンパイアの一人としては決して許していいことではありませんが、もう済んだ話です。この先、どうこうはありません。わざわざお越しいただき、話していただいてありがとうございます」
 本当に、この不思議な縁がなかったら、これはやってこなかったんだ。おもしろいな人生って。
「それで、です」
 秀一さんだ。
「実は私も、このことを間接的に知っていたのです」
「知っていたとは?」
「父が、あの試合の後に突然アンパイアを辞めて、会社も私に全部任せて引退すると言い出したからです。一体何故、というのに父は何も答えませんでしたが、とにかく自分は人としてあるまじきことをした、と。その罰だと。そういうからには、あの試合で何かあったのだろうと思っていました。そして、高校当時の仲間である松木監督があの試合にいたからには、何か関係しているのだろうな、と。そこまで推察はしていたんです」
 商才のある人だから、きっとすぐにわかったんだろうな。
「そして、真紀さんの話を聞いたときに、今禄朗さんに話した顛末を、全部私にも話してくれました。なるほどそういうことだったのかと。私も、二十年越しに大きな疑問が解消されたというわけです」
 人生いろいろある、っていうのは真紀さんの話を聞いたときにも思ったけれど、こちらでもあちらでもいろいろあるんだ。
「そして、父に頼まれました。いえ、会長命令とも言えますね」
「会長命令?」
「多大なる迷惑を掛けた謝罪をしたい、と。向こうが、つまり禄朗さんたちがそれを望まずとも、何かをしたいと。私が〈ゲームパンチ〉さんとの提携を考えていたことももちろん知っていましたから、禄朗さんのお姉さんがいるのであれば、宇部家への謝罪にもなるのではないかと。いかがでしょうか」
 それは。
「傘下に入る、あるいは合併に関してこちらに大きなメリットになる提案をしていただけるとか、ですか?」
「そういうことも含めてのお話です。たとえば、具体的に言えばビルの改装費は全部こちらで持つとか、非常にいやらしい話になりますが金銭的なことも含めて、です」
 禄朗くんを見る。
「父は、消えるものではない罪を犯したと、私も思います。それが消えるなどとは父も、私ももちろん思うことはありません。けれども、お願いしたいと思っています。〈たいやき波平〉のご主人としてでも、あるいは宇部家の主としての立場でも、禄朗さん個人の思いでも何でも構いません。父と私〈ARGホームラン〉として、何か贖罪のためにご提供できるものはありませんでしょうか」
 そういう話か。
 それで、全員を揃えて話をしたかったと。
 禄朗くんは、じっと隆司さんを見ている。
「正直、何もいらないし、謝ってもらう必要もないとは思っています。さっきも言いましたが過去のことです。怒りも悔いも何もかも消えて、疑問もたった今解消されました。この先、良き隣人として過ごさせてくださいと言われれば、構いませんと答えます。同じアンパイア同士、話をして良い時間が過ごせるかもしれません。ただ」
「ただ?」
 隆司さんが、少し身を乗り出した。
「皆が言うように、こんな不思議な縁というか、何かで繋がってしまいました。それならば、お願いしたいことがあります。まさしく、今回のことにぴったりなんです」
 今回のことに?
「ぴったりとは? なに?」
 訊いたら、禄朗くんは少し笑みを見せた。
「ピアノを、用意してほしいのです。グランドピアノを」

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