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蛍と月の真ん中で

 第一章 蛍の行方

 夏の夜の途中を、何もかもを失って歩いていた。
 左手に広がる田んぼから、五月蠅いほどに蛙の声がしている。両肩に食いこんだリュックには、カメラと交換レンズが数種類。あと数日分の着替え。側面のポケットには三脚が刺さっている。
 暑い。でも、蒸し暑くはなかった。大学のある東京とは違う。
 初めて来た長野県の辰野は、土地の名前だけは馴染みがあった。昔実家の玄関に、父がこの町で撮った大きな写真が飾られてあったからだ。草が生い茂った水辺に、信じられない数の蛍が舞っている、幻想的な写真。ここにいるのは、幼い頃からそれを見ていたという、ただそれだけの理由だった。
 自暴自棄だ、と言われても否定はできない。でも今の僕には他に行く場所がなかった。
 辰野駅の改札では、ICカードは使えないらしかった。駅員に現金で精算してくれと言われて、三千円払った。財布の中には千円札が、あと二枚。危機感は増すばかりだ。
 駅を出て、スマホのマップでほたる童謡公園までの道のりを検索する。徒歩十三分と表示された。時刻は二十一時少し前。
 駅から三分も歩くと、人の気配がしなくなった。さっき駅前の道で、一人のおじさんとすれ違ったきり。
 緩やかな坂を上り始めると、道は段々細くなっていく。街灯が減ってきて、足元さえも見え辛い。
 曇り空だから、星は期待していなかった。でも、蛍ならきっと──。
 自分で蛍を撮ったことは一度もなかったが、作例はいくつも見たことがあった。プロの写真家が撮ったものから、インスタグラムに投稿された無数の写真まで。そしてもちろん、父が撮ったあの写真も。いつかあんな写真を、自分で撮ってみたかった。
 曲がりくねった道をしばらく進むと、右側に公園全体がぼんやり見えた。真っ暗でも、そのりんかくはわかる。柵に囲まれた中心の大部分は草が茂り合っていて、人が入ることはできない。周りはぐるりと砂利道になっていて、そこを歩くことができる。
 さらに進むと、木で足場が造られた高台に出た。
 そこに立って、そうだよな、と思う。
 ほたる童謡公園。
 蛍は、一匹もいなかった。
 僕は目の前の柵に手をかけて、軽く体重を預ける。
 そりゃそうだ。何も調べずに来たわけだし。
 でも実は、少しだけ甘えた気持ちもあった。こんな僕のことを励ましてくれる装置が、何か一つくらい世界に働いているかもしれないと。
 僕はリュックを下ろして座り込んだ。足より、重さから解放された肩がかなり楽になった。そのまま、えいと寝転んでみる。頭がれて、ジャリっと砂の音が耳に響いた。視界に広がる夜空は、雲のせいで随分と低く感じる。蛍はもちろん、星空も撮れない。
 僕はここに、何をしに来たのだろう。
 背中に木のぬくもりが伝わってくる。剝き出しの草の匂いと、重なりあう虫の
 このまま寝てしまってもいいかもしれない。それで何かが解決する訳じゃなくても、今はただそうしたい気分だった。
 その時ふと視界の端に、一筋の光が走った。見ると、続く道の向こうで、弱い光が不規則な動きで漂っていた。
 蛍……?
 僕はすぐさま立ち上がって、リュックを担いだ。
 光は、角を曲がって視界から消える。追いかけると、その先に下り坂が続いていた。
 どこへ行った?
 暗闇の中、僕は足元を確かめながら坂を下りていった。
 頭上で生い茂った木々の葉が、一層深い闇を作り出している。こんなに遠くまで飛んだのだろうか。
 足を早め、深い木々のトンネルを抜ける。その瞬間、突然頭上から眩い光が差し込んできて、思わず足が止まった。
 満月だった。
 さっきまで雲に隠れていた月が、その姿を見せていた。暗闇に慣れた目では眩しいほどに、冴え渡った丸い月。
 その月が、草木の茂る水路をこうこうと照らしていた。
「ん?」
 声が、月の下から聞こえた。
 視線を落とすと、水路で影が動いた。人が立っている。
 こんな時間に誰かがいることに驚いた。白いTシャツを着た女性が、振り返る姿勢でこちらを見ている。肩の下まで伸びた長い髪が、シルエットで見えた。
「あの……すみません」
 久しぶりに声を出したから、かすれた声が出た。
「この辺りで、蛍を見かけませんでしたか?」
 僕は尋ねた。
「蛍?」
 げんというより、不思議そうに彼女は訊き返した。透明なガラス玉のような声だった。
「ここにはもう、蛍なんていないよ」
 そう言いながら、彼女は体をこちらに向けた。月の逆光で、顔ははっきり見えない。光を浴びて、彼女の体の輪郭が、微かに光を放っているようにも見えた。
「……そうなんですね」
 蛍は、環境の変化に敏感なはずだ。ここ数年で減ってきているという話も聞いたことがある。もうこの公園にはいなくなってしまったのかもしれない。
 そう思っていると、なぜか彼女は笑った。
「この季節に、って意味ね。時期は過ぎたよ。ここの蛍は、夏の始まりだけ」
 僕は納得と同時に、何も調べずに来た自分の愚かさが急に恥ずかしくなった。
「……ですよね。帰ります。失礼しました」
 バツが悪くなって、すぐにここを離れようとリュックを担ぎ直した。
「君、カメラマン?」
 彼女はすかさず言った。
「あの、趣味で」
 趣味。そう言わなければいけないレベルの自分に、胸が痛む。こういうところも含め、僕はつくづく写真に向いていない。
「車で来た?」
「いえ、電車で来ました」
「じゃあ泊まるの? 辰野に」
「わからないです」
「え、わからないって、そんなことある?」
 くくく、と堪えるように彼女は笑った。
「それなら泊まっていったら? 駅前にゲストハウスあるよ」
「そんな……大丈夫です」
 そんな……お金ないです、とは言わなかった。なのに彼女は、まるでそこまでわ
かっているかのように続けた。
「私が言ったら安くしてもらえるはず。電話してあげるよ。最悪ダメなら、誰かの家に泊めてもらったらいいんじゃないかな。かなくんとか、泊めてくれそう。きよちゃんの店も」
「はぁ」
 それが誰かもわからない。こちらがあっけにとられているうちに、彼女はポケットから携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけ始めた。スマホじゃなくて、今時珍しいガラケーだった。
「はい、今から。そうなんですよ。男一人」
「ちょっ……」
 止めようとした僕に、「待て」と言わんばかりに、彼女は手のひらを突きつけた。
「はい、はい、遅くにすみません。よろしくお願いしまーす。……ってことだから、今から行って」
「はい?」
 あっけにとられる早さで、物事が進んでいた。
「あの、でもさっき蛍を一匹だけ見たんです。きっとまだこの辺にいるから、探したくて」
「季節外れの蛍かな? 一匹だけだと、もう見つけられないと思うよ。ほら、よしさんが待ってるから早く行かないと」
 彼女は急かすように、僕の後ろの方角を指さす。
「佳恵さん?」
「ゆいまーるの佳恵さん。駅前に看板が立ってるから、行けばわかるよ」
 駅前。来た道を戻ればいいということだ。しかし。
「あなたは帰らないんですか?」
 蛍もいない、こんな暗い公園に、女性が一人でいるのもおかしい。
「大丈夫……」
 そう言いながら、彼女はゆっくりと月の方角を見た。月の光が当たって、ようやくその表情が見えた。
 それは、なんだか寂しそうで、切なくて。そして、僕がこれまで見たことのないくらい、とても美しい横顔だった。
「私ももうすぐ、〝月〟に帰るよ」

 考え事をしている時、僕はよく首を右側に傾けている、らしい。大学の友達に指摘されて知ったことだ。
 駅前まで戻って来た僕は、首に微かな痛みを感じていた。それは重いリュックを背負ってきたからだけではなく、多分、ずっと首を傾げていたからだと思う。
 それもそうだ。狐につままれたような感覚だった。
 狐。僕は歩きながら、さっきの女性について思った。暗闇の公園に女性が一人。あの雰囲気。そして、月に帰る、と。
 もしかすると人間じゃなかった可能性もある。例えば、この土地に言い伝えられている、夜に現れる女性のかいのような。もしくは、人生に行き詰まった人にだけ見える、幽霊だったり。僕はふと、昔読んだ怪異たんにあったおどろおどろしい挿画を思い出した。急に少し怖くなって、別のことを考えるようにする。
 さっき通った時には気づかなかったが、駅前の道には教えられた通りにゲストハウスの看板があった。
 看板の指示通りに民家の横を歩いて行くと、古い日本家屋にたどり着いた。暗闇の中、長方形の飛び石の先に、木造二階建ての家が建っている。剝き出しの木の柱と三角のトタン屋根。縁側の障子から、電球色の明かりが漏れている。玄関の扉の前には【古民家ゲストハウス ゆいまーる】という文字が書かれてあった。
 どうしたものか、と僕がその前で突っ立っていると、ガラガラ、と入り口の引き戸が開いた。
「ああ、来た来た。こっち、入って」
 パタパタとつっかけの音を鳴らしながら出てきたのは、人の良さそうな四十代くらいの女性だった。紺色のTシャツに動きやすそうな紫の綿のパンツ。首には深緑のストールを巻いている。
 少し戸惑っている僕に、こっち、と手を動かして急かす。
「失礼します、お邪魔します」
 僕は手招きされるまま、敷居を跨いで家の中に入った。広い三和土たたきだった。
あかちゃんから聞いたよ。公園にいたんだよね?」
「明里ちゃん」
「さっき会ったでしょ?」
「あの、公園にいた女性ですか?」
「そうそう。急にここを勧められたんだよね? 大丈夫だった?」
「大丈夫というか……逆にこんな時間にすみません。ご迷惑でしたよね」
「ううん。ちょうど今日、お客さんいなかったし。昼に大掃除してたから、布団も干しててちょっと散らかってるけどごめんね。ほら、あがって」
 靴を脱いで、右手の居間へ案内される。
 ついて行きながら、僕は何をしてるんだろうと思う。お金もないのだから、泊まれるはずがない。厚意は嬉しいが、早く断らなければ。一方で、今夜どう過ごすのかという別の案もないのだけれど。
 居間に入ると、ほんのり木の匂いがした。その匂いで、一瞬脳裏に実家の景色が浮かんだ。幼い頃の、遠い昔の記憶。
 外観の古い印象とは違い、ゆいまーるの中の様子は洗練された雰囲気があった。居間に置いてある低いウッドテーブルなどの調度品や、高さのある天井に取り付けられた大きなサーキュレーターには、今風のセンスがある。
 言っていた通り、窓際には布団が干してあった。敷かれた座布団に促されて、僕はリュックを横に置いて座る。座布団に座るということが、とても久しぶりな気がした。
「外暑かった?」
「それほどじゃなかったです」
「そう。なんか飲む?」
「大丈夫です」
 と言いながら、僕は他に大丈夫ではない事情を打ち明ける。
「あの」
「ん?」
「今、手持ちのお金がないんです」
 言葉にしてみると、思ったよりも情けない気持ちになった。それで付け加える。
「近くにATMありますか? もしあれば……」
 下ろせばないこともない。確か今の残高は、十万円弱。バイト代が入る前とはいえ、この前桁数が一つ減って、一気に焦りが生まれた。
「ああ、大丈夫。言い値でいいよ。どうせお客さんいないから」
「普通はいくらなんですか?」
「素泊まりで三千八百円」
 リュックから財布を取り出して、中を確認した。増えているはずもない。
「今二千円あります」
「じゃあその半分の千円でいいよ」
「そんなわけには」
「いや、ほんとに。もう夜遅いし、部屋も散らかってる。何より明里ちゃんの紹介だ。とりあえず、この家のこと説明するね。あ、私は佳恵。よろしく」
 佳恵さんは滑舌よく、早口で言った。よろしくお願いします、とつられて僕も早口で返す。
 彼女は壁に掛けられた小さなボードを外して、僕に見せるように持った。そこには家族の名前がイラスト付きで書かれてあった。
「まず私は佳恵、旦那が幸こ う一い ち郎ろ う、中一と小五の息子が二人。みんなもう、母屋の方で寝てる」
 母屋。この建物の裏に別の家屋があったが、それのことだろう。
「あと、猫のミーヤ。この子も多分母屋にいると思う。じゃあ、家の説明するね」
 立ち上がって、佳恵さんは家の全体を案内してくれた。あっちが寝室で、あそこがキッチン。この冷蔵庫使っていいから。お風呂も、今お湯溜めてるところだから使ってね。二階もあるけど、今はただの物置。誰もいないから好きに探検していいよ。ただ玄関の横の部屋は、今日昼にバルサンしたから、あんまり入らない方がいいかも。
 そんな説明を一通りして、元の座布団のところに戻ってきた。
「で、君は?」
 佳恵さんが尋ねて、僕はまだ名前さえ言ってなかったことを思い出した。
「僕は、おおたくです」
「匠海くん。学生? どこから来たの?」
「大学生です。東京から来ました」
 大学生、と言いながら、後ろめたい気持ちになる。
「へぇー、東京! リュックはあれ、カメラ?」
「はい」
 横に刺さっている三脚を見て思ったのだろう。そういう宿泊客も多いのかもしれない。
「この辺は自然が豊かだから、綺麗な景色も多いよ。色々撮れると思う」
「蛍もいるんですよね?」
「そうだね。でももう終わっちゃったかな。六月には辰野ほたる祭りってのがあって、その頃がこの辺りはピーク。蛍も、観光客も」
 今は、七月末。やっぱり蛍は季節はずれらしい。
「大学生なら学校は? あ、今は夏休みか」
「そうですね。……でも大学は、休学してしまいまして」
 さっき後ろめたかったのは、これが理由だった。
「だから……」
 と、続けて事情を説明しようと思ったが、どこから話せばいいのかわからなくなる。言葉を探して少し黙ると、佳恵さんが察したように話を進めた。
「ま、色々あるわよねぇ。学生なんて、迷うことばっかり。私もそうだった」
 佳恵さんは大げさに、肩をすくめる。
「じゃあ、これから実家に帰ったりするの?」
 佳恵さんはわずかに首を傾けて言った。
 それも、説明し辛かった。帰るつもりではあった。でも、帰れない。物理的には帰れないこともないけど、帰りたくない。今の状況を、なんと言えばいいんだろう。
 僕はなんとか否定のつもりで「いえ……」と言って小さく首を横に振る。続く言葉に困っていると、やはりまた佳恵さんが先に口を開いた。
「まぁ今日くらい、何も気にせず泊まっていけばいいよ。ほら、お湯溜まってるから、お風呂でさっぱりして、布団でぐっすり寝て」
 鍵のかかった箱は、むりやり開かない。佳恵さんはまるでそう決めているように、優しく微笑んだ。
「もし何かあったら呼んで。電話番号あそこに書いてあるからね」
 佳恵さんは、さっきの壁に掛けられたボードを指さす。
「じゃあ、また明日」
 佳恵さんはそう言って、あっさりと母屋の方へと戻っていった。

 僕は知らない広い家の中で一人になった。辺りに人の気配はなく、近くの草むらから虫の声だけが、まるで波の音のように寄せては返していた。
 まだ心は、暗闇の公園を彷徨さまよっている感覚だった。僕は自分で何をしているのかわからないまま、言われた通り風呂に浸かり、リュックに入れてきた服に着替え、寝支度をして畳に敷かれた布団に入った。
 目を閉じるとまぶたの裏に浮かぶのは、暗闇の公園でも、蛍の写真の景色でもなく、騒がしい東京の街並みだった。

 人がたくさんいる。
 初めてそこに来た日の感想は、それに尽きた。
 渋谷。
 行き交う人間の群れ。大きな画面に、次々と映し出される広告。スクランブル交差点を渡ると、まるで自分がテレビの中の世界に入ったような感覚だった。
 大学生になった僕は上京した。地元を出て、初めての一人暮らし。それも東京で。
 世界はキラキラして見えた。ここでなら、自分が学びたかったことを学べる。写真の勉強が、できる。
 僕の実家は、昔写真館を営んでいた。額に入った大小様々な写真、シャッターやストロボの音、現像液の匂い。幼い頃から日常はそうしたもので溢れていた。父にとっては仕事道具かもしれないが、幼い頃の僕には全てが遊び道具だった。カメラや交換レンズ、並んだフィルムや現像された写真など、今思えば子どもに触られたくないものもあったはずだが、父は僕を邪険に扱わなかった。それどころか、進んでその機能の一つ一つを教えた。まるで自分の持っている宝物を自慢するみたいに。
 そんな環境で育った僕にとって、写真の道に進むのはとても自然なことだった。
 選んだ大学は、写真学科のある大学だった。場所は東京。地元には写真学科なんてなかったし、早く実家を出たかったのも理由だった。
 自由になった、という感覚はあった。真新しい未来。期待に胸が膨らんだ。でも、実際の暮らしが始まれば、肉体的な自由はほとんどなかった。
 年間百五十万円以上の学費と、家賃を含む生活費。わかってはいたけれど、授業とバイトで自由な時間なんてほとんどなかった。
 そんな環境でも、大学生活には充実感を覚えていた。これまでの中学や高校と違って、そこにいる明確な目的があったからだと思う。
 履修できる授業の種類は多岐にわたった。写真史や写真光学といった理論の学習。学校内のスタジオでの撮影の実習。現代的なデジタル写真の授業から、銀塩写真までの幅広い授業を、僕は時間の許す限り履修した。デジタル全盛の時代に、フィルムの技術から学べるのは嬉しかった。
 暗室でフィルムの現像を実習する機会もあった。ほとんどの学生が初めてやる作業の中、僕だけは馴染みのある内容だった。実家で当たり前のようにやっていたことなので、周りの学生たちよりもずっと手際良くできた。プリントのうまさを先生に褒められた時、昔父にも同じように褒められたことを思い出した。
 そして現代の撮影では欠かせない、フォトショップでのレタッチを学ぶ講義もあった。大学に入る前から好きでやっていたことだけど、プロの写真家がやっている手順を間近で見られるのはとても刺激的だった。個性の大切さ。デジタルでもアナログでも、写真は撮るだけではなく、現像までを含めてその人の個性になる。
 写真学科には、同学年に百人の学生がいた。同じ学科の中でも、学生のモチベーションには差があったし、モチベーションの矛先も違っていた。一言で写真と言っても、風景を撮る人、人物を撮る人、ジャーナリズムを求める人、様々いる。
 自分が撮ってきた写真を見返して気がついたのは、僕は風景の写真を撮るのが好きということだった。無意識に一番多く枚数を費やしてきただけでなく、自分が撮ったものとして誰かに見せたくなるのは、いつも風景写真だった。自然の景色にレンズを向けている時は、完成を想像して心が勝手にワクワクする。そして特にその中でも、僕は星の写真が好きだった。
 せいけい写真家、という言葉を大学で初めて聞いた。星とともに、夜の自然の風景を撮る写真家。これだ、と思った。昔から「将来の夢」という項目を埋められずにいた僕が、人生で初めて、なりたいと思う職業が見つかった。
 ネイチャーゼミを履修すると、名の知れた星景写真家から直接授業を受けることができた。写真の構図、撮影条件、星景写真のレタッチの仕方。学びたいことが詰まった授業は心が弾んだ。
 大学で楽しかったのは勉強だけではなかった。僕には友達ができた。名前はさいかずという。彼も僕と同じネイチャーゼミを受けていた、風景写真が大好きな男だった。
 斉木と出会った頃を思い出すと、僕はまだ胸が締め付けられたように痛くなる。悲しみとも後悔とも言えない感情に縛られ、動けなくなる。あの頃の僕らは純粋に写真が好きで、いくつもの未来の夢を語り合っていた。
 だけど、もうあの頃には戻れない。そして僕には結局、何も残らなかった。自分の居場所さえも。

  *

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■ 著者プロフィール
河邉 徹 (かわべ・とおる)
1988年兵庫県生まれ。関西学院大学文学部卒。バンド・WEAVERのドラマーとして2009年にメジャーデビュー。バンドでは作詞を担当。
2018年に『夢工場ラムレス』で小説家としてデビュー。2作目『流星コーリング』が、第10回広島本大賞(小説部門)を受賞。『蛍と月の真ん中』は、読書感想画中央コンクールの課題作に選ばれる。その他の著書に『アルヒのシンギュラリティ』『僕らは風に吹かれて』『言葉のいらないラブソング』などがある。

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