プロローグ
生け垣に囲まれた小庭園は、すっかり夕焼け色に染まっている。
宮殿の裏手の、少し奥まったところにあるからか、この場所は滅多に人が通らない。
だから、ここにいるのは私と彼のふたりだけ。
真正面に夕日を望むベンチに、私たちはどちらからともなく並んで座った。
お互いの距離が、驚くほど近い。
今にも手が触れてしまいそうな緊張感に耐えられず、私は両手を自分の膝の上に重ねた。
「マリネット。手を、繫いでもいいだろうか」
隣に座る男が低い声で私に尋ねる。
「……そんなことを、真剣な顔で聞かないでください」
手を繫ごう、なんて。
呆れるような申し出だ。ため息が出る。
この男は出会って間もない、しかも我がザカリー伯爵家とは犬猿の仲の、ヴェルナー侯爵家の嫡男である。
(なぜ、こんなところで私が、宿敵と手を繫がなくちゃいけないのよ)
混乱と気恥ずかしさのあまり、私は下を向いた。
すると、ドレスを摑んだ手の甲に、大きくて温かい手がそっと添えられる。彼の指はそのまま私の指の間に滑り込み、優しく包み込むように握った。
心臓が早鐘を打ち、息をすることすら忘れてしまいそうだ。
思わず目を閉じる。呼吸が苦しい。緊張のせいで、全身が強張っているのが自分でも分かる。
「待ってください……心臓が口から飛び出てしまいそうなほど恥ずかしいです。ふたりきりで手を繫ぐなんて馬鹿げています」
「失礼なことを言うな。これは、国王陛下のご命令だ」
「こんなの、どう考えたっておかしいですよ! いくら国王陛下のご命令とはいえ、どうして手を繫ぐ練習なんか」
半分泣きそうになりながら、私は顔を上げ、男を軽く睨みつけた。
「仕方ないだろう。国王陛下からあんな風に命令されてしまっては、断ることは俺にはできない」
「それは私だって分かっています。でも……」
そう。仕方ないことだと、分かってはいるのだ。
私も、そして隣にいるラルフ・ヴェルナーも、決して国王陛下のご命令に背くことはできない。
私たちは手を繫いだまま、空を茜色に染める夕日に視線を向けた──。
第一章 国王陛下の教育係
「マリネット、マリネット! どこにいる!?」
扉の向こうから、廊下を走る足音と叫び声が聞こえてくる。
(お父様の声だわ。あんなに慌てて、何事かしら)
柔らかな春の日の光が差し込む、ザカリー伯爵家の書庫の一角。
いつものように本を片手に机に向かっていた私は、勉強の手を止めて立ち上がった。
棚の陰から顔を出して覗くと、ちょうど書庫の扉がバタンと音を立てて大きく開く。息を切らせながら駆け込んできたのは私の父──この家の主、ルーカス・ザカリーだった。
「……マリネット!!」
「はい、お父様。私ならここです」
「おお、やっぱり書庫にいたか。とりあえず、これを見てくれ!」
差し出された手の中には、握り締められてぐちゃぐちゃに丸まった手紙がある。父はそれを私に直接手渡すのではなく、側にあった小机の上に置いた。
「お父様、このしわくちゃな手紙は一体……?」
「すまない。あまりに驚いたものだから、つい手に力が入ってしまった。とにかく、開けて読んでみてくれ」
(もちろん、読みますけど)
私は小机から手紙を手に取り、中身が破れないよう慎重にしわを伸ばした。差出人を確かめるために封筒の裏を見ると、そこには意外な人の名が記されていた。
「メデル王国宰相、オットー・クライン? つまりこれは……」
「国からの手紙だ! 中身も早く読んでくれ」
「は、はい!」
期待と不安が入り交じり、封筒を持つ手が震える。
中に入っていた便箋の折り目を開くと、そこにはごく短い文章であっさりと用件が書かれていた。
「マリネット・ザカリーを、国王ジーク・メデルラント陛下の教育係に任命する……ですって? お父様、これは……本当に?」
「ああ。たった今、宰相クライン公爵の使いの方から、直々に受け取った手紙だ。摂政のヒルデ殿下のサインもある。間違いない。お前が国王陛下の教育係に内定したぞ!」
「お父様……!」
(いいの? 本当に私でいいの?)
嬉しさで胸がいっぱいになり、上手く言葉が出てこない。
ずっと夢見ていた。
書庫での引きこもり生活から飛び出して、外の世界で活躍できる日を。
ここメデル王国の国王、ジーク・メデルラント陛下は、先日五歳の誕生日を迎えたばかり。幼い国王にマナーや一般教養を教える教育係を募集していると聞いた私は、このチャンスを逃すまいと、すぐさまその仕事に応募した。
厳しい学科試験や論文提出などの選考会を終え、採用されるかどうかの結果を待って早一月。さすがにそろそろ諦めなければと考えていたところだ。
(それが、まさかの採用だなんて!)
いつか自分の身になると信じて、勉強にすべてをつぎ込んできた。その努力が報われたと、解釈してもいいだろうか。
教育係に選ばれたという実感がようやく湧いてきて、私は封筒を胸に当てて飛び上がった。
「やったわ! お父様、このマリネット・ザカリー、国王陛下に命を捧げて教育係として精進いたします!」
「はっはっは! 何を言うんだマリネット! お前の将来の夢は、手に職をつけて働き、豊かなおひとりさま老後を送ることだろう? 命を捧げてどうする。しわくちゃの婆さんになるまで生きなければ!」
父の言う通りだ。
私の目標は、安定した職を得て資金を貯め、おひとりさまで優雅な老後を過ごすこと。
仕事があれば、結婚なんかしなくたってひとりで生きていける。結婚相手の言動に一喜一憂して、心乱されることもない。
ジーク・メデルラント陛下は国王という位にはあるが、まだ五歳と幼い。今から三年ほど前、前さきの国王陛下ご夫妻が不幸にも馬車の事故で亡くなり、当時まだ二歳だったジーク陛下が王位を継いだ。
陛下と年の離れた姉であるヒルデ殿下が摂政として立っているし、政を補佐する有能な宰相もいる。だから、当面の国政には支障がない。
とはいえ、たった五歳の幼子が国王とあっては、国民の不安は拭えない。
だからこそ、国王を側で支える教育係という仕事は、大きな名誉であると同時に責任あるポジションなのだ。
(これ以上やりがいがあって安定した仕事、ほかにないわよね。お婆さんになるまでひとりでしぶとく生き抜くためにも、頑張らなければ!)
「お父様。教育係をお引き受けしますと返事を書きますね」
「そうしてくれ。ようやくお前の夢が叶って、私も嬉しいよ」
父の目にはうっすら涙が浮かんでいる。
伯爵家の娘でありながら、社交もせず何年も引きこもり生活を送る私を、誰よりも心配してくれていたのは父だ。
これで少しは親孝行ができるだろうか。もらい泣きしてしまいそうになった私の顔を見て、父は何かを思い出したようにハッと目を見開いた。
「マリネット。もしもお前が国王陛下に気に入られれば、我らが宿敵ヴェルナー侯爵家を、ギャフンと言わせてやれるな!」
「……え? お父様?」
「ああ、いやいや! もちろんお前の将来のことが一番大事だぞ。だが、あの高慢なヴェルナーのやつらは、何かにつけて我が家を馬鹿にしてくる。お前が立派に教育係を務めれば、あいつらの鼻をへし折ってやれるんじゃないか?」
「お父様……。うちがヴェルナー侯爵家に後れを取っているからといって、変に張り合うのは止めてくださいね」
「べ、別に張り合ってなど……!」
狼狽えてゴホンと咳払いした父の姿がおかしくて、私はつい噴き出してしまった。
私の名はマリネット・ザカリー。年は二十歳。
ここメデル王国に暮らすザカリー伯爵家の長女で、両親と三つ上の兄、そして年の離れた六歳の妹がいる。
ザカリー伯爵家は古くから続く名門貴族だ。代々の当主はメデル王国の要職を務め、政において大きな役割を担ってきた。
が、現当主である父はのんびりした性格で、本人曰く、出世欲もないらしい。
優秀な後進を育てるためだと言って早々に要職を退き、負担の少ない中間ポジションで国の仕事をしている。
領地からの税収入や、こまごまとした事業収入に頼ってやり繰りする暮らしは派手ではないが、家族との時間が増えて、父は大満足しているようだ。
そんな名ばかりの名門ザカリー伯爵家において、一番の問題児が私、マリネットである。
今から四年ほど前、私はとある出来事をきっかけに、引きこもり生活を送ることとなった。
──婚約者の浮気、そして先方からの一方的な婚約破棄が原因だった。
四年前、私が婚約した相手は、フランツ・シャドランという男性。
メデル王国の西側の国境近くを治める辺境伯の彼とは、王都での舞踏会の夜に初めて出会った。
当時十六歳だった私は、まだまだ恋に恋する少女に過ぎず、フランツ様の「愛している」という言葉を素直に信じ、プロポーズを承諾した。
辺境伯は、隣国との国境を守る重要な任務を担う。
軍事に長け、強く逞しい男性をイメージしていたのだが、フランツ様の第一印象はその真逆。線が細く、穏やかで優しい人だった。
私は彼の偽りの優しさにまんまと騙されたのだ。
婚約後、私は王都で、フランツ様は領地で暮らしており、会えない日がしばらく続いた。私が彼と正式に結婚する日を指折り数えて待っていたその間に、フランツ様は私を裏切っていた。
私が彼の裏切りを知ったのは、婚約から数か月後のこと。
フランツ様を訪ねて領地に赴いた際、彼はお腹が大きい女性──ジュリア・フリードル公爵令嬢を伴って私の前に現れた。
まるで夫婦のように寄り添い、微笑み合うふたりを見て、私は悟った。
フランツ様は私と婚約をしておきながら、その間にジュリア様と浮気をしていたのだ。ジュリア様のお腹の大きさを見れば、ふたりの関係が随分前から続いていることもすぐに分かった。
動揺する私に、彼は眼鏡の奥から冷たい視線を向けて責めるように言った。『せっかくザカリー伯爵家と手を組んで、ヴェルナー侯爵家を引きずり下ろそうと思ったのに、君にその気はなかったじゃないか』と。
そこで初めて気が付いた。
フランツ様が望んだのは、私との幸せな結婚生活などではない。ザカリー伯爵家の立場を利用してヴェルナー侯爵家を排し、政の場で力を握ることだったのだと。
私たちの関係が政略であることを理解せず、ただ彼との結婚生活に甘い夢を抱いた私は、愛想を尽かされたのだ。
フランツ様の不貞を、国に訴えることもできなくはなかった。
が、そんなことをしても彼の心は戻ってこない。それに、ジュリア様が産む子にはなんの罪もない。私が無理やりふたりの間に割って入って、その子を不幸にするのも嫌だった。
父は激怒したものの、伯爵家である我が家が公爵家に逆らえるわけもない。結局、私は涙を呑んで婚約破棄を受け入れた。
私の引きこもり生活が始まったのは、それからだ。
外の世界──特に男性と接することに恐怖を覚えるようになり、私は社交界から距離を置いて屋敷を一歩も出なくなった。
一言で表現するなら、ひどい男性恐怖症に陥ってしまったのだと思う。
父が気を遣い、フランツ様とジュリア様の話題が私の耳に入らないようにしてくれたので、彼らのその後はよく知らない。きっとそのまま結婚して、子供も生まれたのだろう。
私にはもう、関係のないことだけれど。
(それに、今の私にはもっとほかに考えるべきことがあるわ!)
四年間の引きこもり生活に別れを告げて、私は辛い過去と決別する。
公職に就く以上、個人的な感情は後回しにすべきだ。これからは何よりも、国王陛下の教育が最優先。
私がこれまで学んできたことを、分かりやすく優しく、国王陛下に教えて差し上げたい。
勉強だけではない。幼い国王陛下にとっては、たくさん遊ぶことも大切だ。色んな遊びを通じて経験を広げ、豊かな人生を歩んでいただけるようお手伝いしよう。
(大丈夫。きっとできるわ)
決意を新たにした私は、書庫の窓を開いて、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
季節は春、満開の花。
引きこもり生活が長すぎて外の世界のことは忘れてしまったけれど、季節はいつも私のことなんかお構いなく巡ってくる。
花満開の春に、新たな一歩を踏み出せるなんて最高だ。
窓の外にある木からひらひらと舞い落ちてきた花びらを手の上で受け止め、私は新生活への期待に胸を膨らませた。
*
国王陛下の教育係を拝命した、その翌月。
私と父のふたりは、国王陛下にご挨拶をするために王宮を訪れた。
ザカリーの屋敷から王宮までは、馬車で一時間もかからないほどの遠くない距離だ。それでも、何年も引きこもっていた私にとっては、とてつもなく長い旅のように感じられた。
門を通って王宮内に入り馬車を降りると、そこには美しく整えられた花壇と噴水。そしてその奥に、壮麗な宮殿が建っていた。
久しぶりに見る外の世界は、想像していた以上に眩しい輝きに満ちている。
(王宮ってこんなに広かったかしら。人の行き来も多いわね)
辺りを少し見回しただけでも、たくさんの使用人たちが忙しなく働く姿が目に入る。
王宮で働く使用人は、私のような教育係だけでなく、侍女や騎士といった身分の者も皆、未婚の間は王宮に用意された部屋で生活をするのだという。
だから私も来月からは、この中に交じって王宮で暮らすことになる。
(当然だけど、王宮内には男性もたくさんいるわよね)
屋敷を出て独り立ちし、教育係としてやっていく覚悟を決めたはずだったのに、実際に王宮を目の前にすると、緊張で足が竦んだ。
「マリネット。王宮は我が屋敷とは比べものにならんほど広いし、人も多い。本当に大丈夫か?」
父が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「……はい、お父様。少し圧倒されてしまいましたが、引きこもり生活はもう止めにすると心に決めましたから。さあ、行きましょう」
「分かった。では行くか。マリネットの輝かしい未来のために!」
「お父様、ちょっと声が大きいです……!」
父は私よりもよっぽど緊張しているようだ。右手と右足を同時に出して、よろめきながら私の前を歩き始めた。
案内役の使用人から出迎えを受け、私たちふたりは宮殿内の廊下を歩く。
国王陛下の謁えつ見けんの間だという部屋に案内されて中に入ると、美しい天井画とシャンデリアが存在感を放っていた。圧倒されながら、視線を部屋の前方に向ける。既にそこには国王陛下を始め、お付きの使用人たちが待っていた。
私は案内に従って玉座の前に進み、深々とお辞儀をする。
「国王陛下、お会いできて光栄でございます」
私の隣では、緊張で体をガチガチに強張らせた父が、まるで棒のように立ち尽くしている。
(お父様ったら……)
小声で「お辞儀忘れてますよ」と声を掛けると、父もようやく頭を下げた。
仮にも伯爵家当主なのだからしっかりしてほしいところだが、こればかりは仕方がない。父はいわゆる下っ端官人。国王陛下に直接対面したことなど、これまで一度もなかったのだろう。
父の様子を気にしているうちに、私のほうはいつの間にか緊張がほぐれ、冷静さを取り戻していた。
お辞儀を終えて顔を上げる。
金細工が施された壁や柱を背景にして、床から一段高い壇上には立派な玉座が置かれている。そしてその真ん中にちょこんと座っていたのは、まるで絵画から飛び出してきた天使のように可愛らしい、小さな男の子だった。
(この方が、国王ジーク・メデルラント陛下……!)
艶のあるブロンドの髪、絹のようにきめ細やかで柔らかそうな丸い頰。
碧色の瞳はまるで宝石のように輝いていて、目が合うだけで眩しく感じるほどだ。
「ねえ、マリネット先生っていうの?」
国王陛下が口を開いた。
透き通るような高く美しい声は、まるで教会で聴く賛美歌の調べ。あまりの可愛さに眩暈がしてきた。
「はい、国王陛下。私はマリネット・ザカリーと申します。これから一緒に楽しくお勉強いたしましょう」
「うん、いいよー。いっぱい絵本よんでくれる?」
「も、もちろんでございます! 面白い絵本をたくさん準備して参りますね」
「本当? やったぁ!」
陛下は玉座から立ち上がり、私に駆け寄ってくる。目線を合わせるために慌ててしゃがむと、陛下はにっこりと微笑んで私の両手をぎゅっと握った。
目の前に、天使の笑顔。
「ねえねえ、先生はいつからきてくれるの?」
「来月には王宮に参ります」
「じゃあ、僕楽しみにまってるね! 絵本をよんで、かくれんぼをして、それからマリネット先生といっしょにお菓子をたべたい!」
「はい、国王陛下! 私も楽しみです。心を尽くしてお仕えいたします」
精一杯の笑顔で応える。すると陛下は満足そうな顔をして、「じゃあまたね!」と言って、お付きの侍女とともに謁見の間を後にした。
扉が閉まる音を聞いた瞬間、体から一気に力が抜ける。
(初対面は成功……と言ってもいいかしら)
五歳になったばかりと聞いていたが、年相応の幼さが残る可愛らしい方だった。
我が家にいる六歳のやんちゃで生意気な妹、イリスとは大違いだ。
「お父様、私の挨拶に同席いただいてありがとうございました」
額の冷や汗を拭いながら隣の父を見る。
父はすっかり魂が抜けたように、放心状態で立ち尽くしていた。
国王陛下への挨拶を済ませたあと、私と父は陛下の侍女長だという方から、別室に案内された。来月から一緒に働く同僚を紹介してもらえるらしい。
「皆を呼んで参りますので、ここで少々お待ちください」
「はい、ありがとうございます」
侍女長が一礼して、部屋を後にする。私は椅子に座り、用意されたお茶を口にして、一息ついた。
隣でなかなかお茶に口を付けないお父様に目をやると、疲れ切った様子で呆然と黙り込んでいた。
「お父様、先ほどからちょっと緊張しすぎでは?」
「マリネットこそ、国王陛下を見て涎を垂らすなんて……恥ずかしい」
「えっ? 涎なんて垂らしていました?」
あまりの陛下の可愛らしさに、口元が緩んでしまったのだろうか。手鏡を出して確認しようとしたところで、先ほどこの部屋に案内してくれた侍女長が扉を開けて戻ってきた。
私は慌てて手鏡をしまい、椅子から立ち上がる。
「マリネット・ザカリー先生、国王陛下直属で働く同僚をご紹介いたしますね」
侍女長に続いて部屋に入ってきたのは、三人。
私よりも少し年上に見える落ち着いた雰囲気の女性と、そばかすが印象的で可愛らしい若い侍女。
そして最後に、騎士服に身を包んだ背の高い男性がひとり。彼は私と同年代か、少し上くらいだろうか。
女性ふたりがにこやかで親しみやすい印象なのに対し、騎士の男性のほうは目つきが鋭く、威圧感を放っている。
ただでさえ男性嫌いである私が、こんなに不機嫌そうな顔の相手と一緒に働くことになるなんて。早速気が重い。
「嫌ですね、お父様……って、お父様どうなさったのですか!?」
相手に聞かれぬよう口元を隠しながら隣に立つ父に視線を向けると、父は顔面蒼白、冷や汗をかき、手も足もガタガタと震えている。
(どうしたのかしら。もしかして、この不機嫌騎士のことが怖くて震えているの?)
父に話しかける間もなく、先ほどの同僚の女性のうちのひとりが私の前に立った。
「はじめまして。私は国王陛下の乳母、コーラ・モリスと申します。乳母としての役目は終わりましたが、引き続き陛下のお側で、簡単な読み書きなどを教えておりました。専門の先生が来てくださって嬉しいですわ。陛下のことで何かご相談があれば、気軽に声を掛けてください」
「コーラ様、どうぞよろしくお願いいたします。マリネット・ザカリーと申します」
お互いにお辞儀をして挨拶を交わす間も、父はその場を動かない。
体調を崩したのではないかとヒヤヒヤしながら、次の同僚に挨拶するため体を向けた。
「国王陛下付きの侍女、リズ・マイトナーです。同じ年だと聞いて、マリネット先生とお会いできるのを楽しみにしていました。私のことは、リズと呼んでくださいね!」
「同じ年なのですね! これからよろしくお願いいたします」
近くに同年代の女性がいるのは心強い。陛下に直接お仕えする使用人は、基本的に貴族の子女であるはずだ。恐らく、リズ・マイトナー様もどこかの貴族のご令嬢なのだろう。
(良かった。友人として仲良くなれそう)
女性ふたりへの挨拶を終え、いよいよ最後は、例の不機嫌騎士の番だ。
どう話しかけたらいいか分からず躊躇していると、侍女長が間に入って、私に騎士の紹介を始めた。
「マリネット先生。こちらが、国王陛下のもうひとりの教育係であり、護衛騎士として剣術や護身術などを教えております──」
「ラルフ・ヴェルナーと申します」
「あっ、はい。私はマリネット・ザカリーと申します。これからよろしくお願いいたします、ラルフ・ヴェルナー様。……ヴェルナーさま……? ヴェル……ナァッ!?」
裏返った自分の声に驚いて、慌てて両手で口を押さえる。
(噓でしょう?)
どこから見ても不機嫌顔で、感じの悪い護衛騎士。彼の名前はラルフ・ヴェルナーだという。
ヴェルナーと言えば、例のアレである。我がザカリー伯爵家の宿敵!
「……お父様っ!」
「マリネット、あいつは憎きヴェルナー侯爵家の孫息子だ」
小声でヒソヒソと言葉を交わす私と父に、宿敵ヴェルナー侯爵家の孫息子は、氷のように冷たい視線を向けたまま、大きくため息をついた。
「随分と失礼な挨拶だと思ったら……ザカリー伯爵家の方でしたか。これから国王陛下の教育係として協力せねばならないというのに、先が思いやられますね」
ヴェルナーの孫息子は偉そうに腕を組み、私たちから顔を逸らした。
(……言ってくれるじゃないの。両家の対立に興味なんてなかったけど、こうなったら話は別よ)
天使のような国王陛下に対しても、あの不機嫌顔で接しているのだろうか。そうだとしたら許せない。私が陛下をお守りする!
「ラルフ・ヴェルナー様。大変失礼をいたしました。私は由緒あるザカリー伯爵家の一員として、心を尽くして国王陛下にお仕えするつもりです。どうかご心配なく」
「ろくに政にも関わっていないザカリー伯爵家の方が、どれだけ国王陛下の力になれるのかは知りませんが、陛下に恥をかかせることだけはなさらないようにお願いしたい。新人だからと甘えないように」
「重要なお仕事を任せていただき、光栄ですわ。それに陛下のお側にいるのがヴェルナー様だけでは、陛下の頭の中まで筋肉に変わってしまいそうですものね。教育係が二名体制になって、本当に良かったです」
「……ほう」
私と不機嫌騎士は互いに睨み合う。
春の陽気でぽかぽか温かかったはずの部屋に、冷たい猛吹雪が吹き荒れた。
信じられない。ヴェルナー侯爵家との対立に興味はなかったが、前言撤回だ。
ヴェルナー侯爵家は、ザカリー伯爵家の永遠の宿敵!
末代まで呪ってやる!
私がラルフ・ヴェルナーを睨みつけていると、彼は突然、片方の口の端を上げてふっと笑った。
「なんでしょう?」
「いや。昨今のご令嬢というのは、口元に涎の跡を付けるのが流行りなのですか?」
「……っ!?」
もう、こういう男は本当に本当に大嫌いだ。
私は必ずや国王陛下のお気に入りとなり、将来はこの男よりたくさん稼いで見返してやると決めた。
(今に見ていなさいよ!)
上手くいったと喜んでいた国王陛下との初対面の日は、このヴェルナー侯爵家の不機嫌騎士によって、最悪な思い出に塗り替えられてしまったのだった。
*
「旦那様! また今日もリーリエ・ヴェルナー様にこっそり話しかけたとか。お茶会でクライン公爵夫人から注意を受けましたわ」
「ターナ、誤解だ! 私はただ、昔の仲間として挨拶をしただけで……」
「ご挨拶をなさっただけでも、周りの方は勘違いなさるんです! 旦那様がリーリエ様にベタ惚れだったことは、社交界の方は皆さんご存じなんですからね!」
「ターナ……」
ザカリー家の屋敷のロビーで祖父母が夫婦喧嘩をしている声が、王宮に居を移す準備をしている私の部屋まで聞こえてくる。
国王陛下へのご挨拶のために王宮を訪れた日から何日か経ったというのに、ヴェルナーという名前の響きがなぜか妙に耳に付く。あのラルフ・ヴェルナーの不機嫌顔が頭の中にちらついて、私は深く息を吐いた。
来月からは、この屋敷を出て王宮で暮らすことになる。それなのに、あの男のことを考えるだけで準備の手が止まってしまう。
そもそも、ヴェルナーとザカリーの両家の対立のきっかけというのは、どうということもない、恋愛関係のもつれである。
メデル王国始まって以来の絶世の美女と名高いリーリエ様を巡って、祖父テオドール・ザカリーと先代ヴェルナー侯爵が対立したのだ。
リーリエ様というのは、ラルフ・ヴェルナーの祖母にあたる方。深窓の令嬢だった彼女を射止めるために、祖父と先代ヴェルナー侯爵は贈り物を手に、毎日のように彼女のもとに通い詰めた。
しかし、お恥ずかしながら祖父はその争いに完敗。リーリエ様はヴェルナー侯爵を選び、花嫁となった。
失恋した祖父は祖母ターナと結婚した後も、未練がましくヴェルナー侯爵家にちょっかいを出していたそうだ。なんなら数十年経った今でも、時々リーリエ様に会いに行っては、すげなく門前払いをされているのだとか。
(今日もまたお茶会でこっそりリーリエ様に話しかけて、お祖母様と喧嘩になったのね。想いは届かなかったのだから、お祖父様もすっぱり諦めればいいのに……)
恋愛に対する興味ゼロの私は、愛する妻がいながらほかの女性に目を向けるという祖父の思考回路を、一生理解できないだろう。
とにもかくにも、祖父と先代ヴェルナー侯爵との恋の諍いが原因で、ヴェルナー侯爵家と我がザカリー伯爵家は、いまだに犬猿の仲。
ヴェルナー侯爵一門は政の場で重要な役職に就いており、我がザカリー伯爵家とは比べ物にならないほど華やかな家系だ。そのせいでヴェルナー侯爵家は、我が家を完全に下に見ているとかいないとか。
(でも、まさか孫息子までが、あんな失礼な態度で接してくるとはね)
リーリエ様だって、自分の恋愛が原因で孫の代まで争いが続くとは、想像もしなかっただろう。
たかが恋愛、されど恋愛。
人の気持ちなんて曖昧なもの、移ろうもの。
私はそれを、身をもってよく知っている。
一度きりの人生を、恋愛などという不確実なものに左右されるなんて、私は絶対にお断りだ。
結婚なんかせず、おひとりさまで生きていく──四年前、フランツ・シャドラン辺境伯との婚約破棄があった時、そう心に決めた。
誰にも頼らずひとりで生きていくために、人知れず努力を続けてきた。
国王陛下の教育係という仕事は、私の理想とするおひとりさま生活への、大切な第一歩だ。
私は他人に左右されることはない。
私は私の意志で、自分の生き方を決めていく。
「だからもう二度と、男の人と恋なんてしないわ」
誰もいない自室でそう呟いて、私は屋敷を出るための準備を続けた。
*
いよいよ、教育係として王宮に出仕する日がやってきた。
今日は父の付き添いはない。家族に出発の挨拶を終えた私は、ザカリー伯爵家の屋敷を出て、ひとりで馬車に乗って王宮に向かった。
以前来た時と同じように宮門を過ぎたところで馬車を降りたが、私が案内されたのは、前回とは別の建物。宮殿の裏に建つ離宮の一部が、私のような住み込みの使用人たちの部屋として使われているらしく、そちらに向かう。
これから過ごすことになる私の部屋は、離宮の階段を上って、三階の一番奥にあった。
扉を開けると、壁沿いにベッドがひとつ置かれていた。手前には勉強に使えそうなデスクや、大きな書棚もある。これならたくさん本を置いても問題なさそうだ。
「思ったより広いのね。快適に過ごせそうだわ」
持ってきたトランクを床に置き、宮殿裏に面した窓を大きく開ける。
窓のすぐ下には広々とした庭園や池、花壇などがよく見えた。咲き誇る春の花々の香りが部屋の中まで届いてくるように感じて、胸が高鳴る。
「失礼します。マリネット先生、ようこそ!」
「あっ、リズ様……でしたよね?」
開いたままにしてあった部屋の扉から、先日挨拶をした国王付き侍女のリズ・マイトナー様が入ってきた。先日顔合わせをした同僚の女性ふたりのうち、明るい性格と可愛いそばかすが印象的だった方だ。私が今日から王宮に住むと聞いて、顔を出してくれたのだろう。
「リズ、と呼び捨てでいいわ。私もマリネットと呼んでもいい?」
「ええ、もちろんよ。同じ年だったわよね。これからよろしく」
「こちらこそ! 早速だけど、マリネットを呼びにきたの。陛下の授業は来週からでしょう? 時間があるうちに、王宮の中を案内してくれるんですって。ラルフ様が」
「ん? ラルフ……様?」
国王陛下の護衛騎士、ラルフ・ヴェルナー。
王宮に到着して、まだ一時間も経っていないというのに、あの不機嫌騎士の名前を早速耳にすることになろうとは。先が思いやられる。
リズによると、ラルフ・ヴェルナーは国王陛下から、私の案内役を命じられているらしい。指定された待ち合わせ場所である噴水前に到着したが、彼はまだその場に来ていなかった。
「わあ、いい香り」
近くにあった花壇から、ジャスミンの濃厚な香りがふんわりと漂ってくる。王宮内はどこを見ても春の花でいっぱいだ。
私は花壇の側にしゃがみ込み、咲いている花々を間近で観察する。
(これは、国王陛下のお勉強の素材になりそうね)
国王陛下には机上の勉強だけではなく、外の世界に目を向けてたくさん知識を吸収してほしいと思っている。
花ひとつ取っても、名称や香り、いつの季節に咲く花なのかなど、学べることはたくさんある。花言葉の意味なんかを調べても楽しいかもしれない。
「ほわあぁ……楽しみだわ」
目を閉じて可愛らしい国王陛下の顔を思い浮かべる私の背後から、嫌味たっぷりの咳払いが「ゴホン」と聞こえてきた。
「おい、間抜けな声を出すな。王宮の中だぞ」
「あっ、ヴェルナー様!」
私は立ち上がり、ドレスの裾に付いた土を慌てて払った。
「本日から、どうぞよろしくお願いいたします」
「ああ、よろしく。それと、俺のことは名前で呼んでくれて構わない。王宮内を案内するとリズから聞いただろう。早く行くぞ」
「はい、では……ラルフ様。お願いします」
私が返事をし終わる前に、ラルフ様はさっさと背中を向けて歩き始める。
前回顔を合わせた時よりも、更に不機嫌さが増しているような気がする。国王陛下のご命令でなければ、わざわざザカリー伯爵家の娘の案内役などやりたくなかったはずだ。彼の背中にちゃんと書いてある。「宿敵の相手をするのは不本意です」って。
「あの、ラルフ様。お忙しいと思いますので、無理に王宮内をご案内いただかなくても、私ひとりで見て回りますが」
「いや、俺が案内する。得体の知れない者に、仕事と関係のない場所まで勝手に歩き回られては困るからな」
「得体の知れない者……と言うのは、失礼ではないですか? 私はザカリー伯爵家の者だとご存じのはずです」
「そう言えば、お茶会で俺の祖母にこっそり声を掛けた不届き者がいたそうだな。確かそいつの名前はテオドール・ザカ……」
「うわぁっ! なんですかね、その話! 話を戻しましょう。確かにラルフ様の仰る通り、王宮に来たばかりの私がひとりで勝手に歩き回るのはよくないですね。差し支えない範囲で構いませんので、さっさとご案内いただけますか?」
(もうっ! お祖父様のせいで、ヴェルナーにギャフンと言わせるどころか、完全に手玉に取られてしまっているじゃないの!)
次に会った時には、二度とリーリエ様にちょっかいを出さないように、祖父に念押ししておこうと決めた。
「ここが、使用人用の控え室だ。国王陛下は昼食後に午睡の時間を取っているから、その間、君はここで休むといい。食事も出るし、お茶を飲んでも構わない」
「なるほど」
「こっちは書庫だ。出入りは自由だが、本を持ち出す時は必ず、貸出簿に記入する決まりになっている」
「はい、承知しました」
「この階段を上ったところに、国王陛下の私室がある。授業に向かう時は使用人部屋のある離宮から、西回廊を通ってくるのが近道だ。宮殿の西側の扉から入って、真っすぐ進むと──」
「は、はい。西側、真っすぐ……と」
教えてもらったことを忘れないように必死でノートに書き記していると、ラルフ様が振り返って言葉を止めた。
「……少し休むか」
「え? いいのですか?」
意外だった。面倒な案内役などさっさと終わらせたいだろうと思っていたのに、休憩時間を取ってくれるなんて。
慣れない場所での緊張のせいで私が疲れていることに、なぜ気付いたのだろう。
(ムキになって色々と言い返したりして、悪かったかしら)
ほんの少しの罪悪感を覚えながら、私はラルフ様に案内されたテラスのテーブルに着いた。
ほどなくして、ふたり分のお茶が運ばれてくる。初めからここで休憩することを見越して、手配してくれていたのかもしれない。
ラルフ様は黙ってお茶を口にした。
さすが、ヴェルナー侯爵家のご令息。彼を誉めるのは悔しいのだが、所作がとても綺麗だ。騎士道だけではなく貴族としてのマナーも、完璧に身に付けているらしい。
数多いる騎士の中でも、とびきり優秀な者にしか道が開かれないという、国王陛下の護衛騎士に抜擢されたのも納得だ。
(悪い人じゃ、ないのかも)
初めて会った日の不機嫌で失礼な態度を見て、ラルフ様とはなるべく関わるまいと思っていた。ザカリー伯爵家の娘という立場を考えれば、ヴェルナー侯爵家とは距離を置いたほうが得策だと思った。
しかし本を正せば私は、祖父母の代からの無益な争いに振り回されるのはまっぴらごめんだった。祖父と父はまだしも、私はヴェルナー侯爵家の人とは面識すらなかったのだ。相手に対する恨みや憎しみは、微塵も持ち合わせていない。
確かに、ラルフ様の失礼な振る舞いに一度は腹を立てた。でも、本当の彼は悪い人ではなさそうだ。
一時的な怒りの感情は、自分の中だけに収めておこう。
そうすれば、表面上だけでも彼と上手くやっていける。
(態度はいけ好かないけど、同じ主君に仕える同僚だものね)
私は大きく息を吸い、ラルフ様の顔をじっと見つめた。
「……俺の顔に何か?」
「あ、いえ。あの」
「何もないなら、今日はここまでにしよう。君も疲れているだろうからな。ほかに聞きたいことがあれば、明日以降改めて」
ラルフ様はそう言うと、私を置いて先に立ち上がる。
私も慌ててカップをテーブルに置き、彼が立ち去る前に声を掛けて引き留めた。
「お待ちください、ひとつご相談があるのです!」
ラルフ様は立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた。綺麗に整った眉がピクリと動く。
「相談……とは?」
「はい。ラルフ様もよくご存じの通り、我がザカリー伯爵家とヴェルナー侯爵家は長い間対立関係にあります。だからと言って、ラルフ様と私まで、それに振り回される必要はないのではないでしょうか」
「どういうことだ?」
「私に対して、不機嫌な顔で接するのは止めていただきたいのです。国王陛下の前でも、そんな顔をなさるおつもりですか?」
陛下の話題を出したからか、ラルフ様の表情が少し和らいだ。
(ふふっ。ラルフ様もきっと、あの可愛い陛下には甘いのね)
私はここぞとばかりに言葉を続ける。
「別に仲良くしようとは言いません。ただ、陛下にお仕えする者が大人気なく敵意をむき出しにするなんて、教育上良くないと思いませんか? ですから、お互いに気に入らないことがあれば、まずは話し合いましょう!」
「話し合う……か」
「はい。私に対して腹が立つことがあれば、表情ではなく言葉に出して仰ってください。一緒に働くんですもの、お互いに、どうしても腹が立つことはあると思うんです。でも、それを毎度きちんと言葉にして伝え合うのです」
(長い付き合いになる相手だからこそ、腹を割って接するべきよね。私、良い提案をしたと思うわ!)
私の提案に対してどう答えてくれるのか、彼の顔をじっと見て待つ。しばしの沈黙の後、ラルフ様はふっと意地悪そうに笑った。
「なるほど」
「良かった、分かっていただけたのですね! それでは、これからは──」
「……残念ながら」
ラルフ様は腕を組む。
「君は、お互いに腹が立つことがあるだろうと言ったが、俺は君に対して腹を立てたことなどないし、これからもそのつもりはない」
「へっ……?」
面喰らった私の心中をよそに、ラルフ様はさも面倒くさそうな顔でテーブルに寄りかかった。
「だって、ラルフ様はこの前からずっと不機嫌顔ですし、私を事あるごとに睨んでくるじゃないですか!」
「人の顔を見て勝手に不機嫌だと決めつけるとは、君こそ失礼ではないのか?」
「うっ、それはそうですが……」
この男は、何を言っているのだろう。
どこからどう見ても不機嫌な顔をしているというのに。
私がなかなか言い返せないのを見て、ラルフ様は組んでいた腕を解き、私に一歩近寄ってくる。
ラルフ様の顔が目の前に迫り、私は思わず体を仰け反らせた。
「ラルフ……様?」
「君のように、陛下のことを何ひとつ知らない新人に腹を立ててどうなる。それに俺は両家の対立にも興味はない。故に、君に対してなんの感情もない」
「じゃあ、どうしてそんな顔を」
「君は俺のことを不機嫌だと言うが、俺の顔は元々こうなんだ。別に君を睨んでいるわけじゃない。残念だったな」
吐き捨てるようにそう言うと、ラルフ様は私を置いてその場から立ち去った。
騎士服を着た彼の背中が見えなくなるまで、私はその場にぼんやりと立ち尽くす。
……開いた口が塞がらない。
しばらくして我に返ると、頭の先から足の先まで怒りのせいでプルプルと震え始めた。
表面上だけでも上手くやろうと思って歩み寄ったけれど、とんだ返り討ちにあった。もう彼とはできるだけ関わらない。打ち解けようなんて思わない。
(やっぱり、あんなやつ大っ嫌いよ!!)
第二章 初めてのご命令
「国王陛下、今日から頑張ってお勉強いたしましょう」
「はーい!」
私が王宮に居を移した翌週──いよいよ教育係としての最初の授業の日がやってきた。
陛下のにこやかなお出迎えのおかげで、私もつい笑顔になる。
陛下の私室は二部屋続きになっている。扉を一枚隔てて、隣の寝室と繫がっているようだ。
そして私たちが今いる勉強部屋には、中央に大きなテーブルが置かれており、本や学習道具をたくさん置いてもまだ余裕がある。
壁際には背の低い書棚があって、絵本がたくさん揃えられていた。背表紙が少し汚れているのを見るに、きっと何度も読み返したのだろう。陛下は本を読むのがお好きなのかもしれない。
(お勉強をするには最高の環境だわ)
私の受け持つ授業は主に午前中に行うことになる。陛下が朝食や身支度を済ませ、大聖堂から聞こえてくる朝の鐘が鳴る頃に、授業スタートだ。
日によって多少スケジュールは変わるが、外出予定のない日は、午前中の勉強を終えた後に昼食の時間となる。そのまま陛下は午睡に入るので、午後は私の手が空くことが多い。次の日の授業の準備をしたり書庫で勉強したり、自由に過ごして構わないそうだ。
私が陛下に教えるのは読み書きなどの基礎知識や、一般常識の類。それに、王族として身に付けるべきマナーやメデル王国の歴史など。
加えて午睡の後には、ラルフ様たち騎士による剣術などの授業もあるらしい。
五歳の子供とは思えないハードスケジュールだ。
(先週提出した教育計画も通ったし、これからは私の裁量で決められるところも多い。時々外出の予定も入れながら、上手く気分転換をしていただきたいわ)
国王陛下と並んでテーブルに着くと、陛下は体を私のほうに向けて、目を輝かせながら言った。
「マリネット先生! お父様とお母様は僕のことジークってよんでたから、先生もそうよんで!」
「よろしいのですか……? それではこれから、私も国王陛下のことを『ジーク様』とお呼びいたしますね」
私の返答に、ジーク様は照れくさそうに笑った。
(本当に可愛らしいのね)
初っ端からジーク様の無邪気な笑顔にハートを撃ち抜かれ、既に瀕死状態なんですけど。大丈夫ですか、私。
「先生、この絵本よんでください!」
ジーク様は書棚から一冊の本を取り出して私に手渡した。
「この絵本がお好きなのですか?」
「うん! 新しくかってもらったんだ。絵がきれいだから気にいってるの」
ジーク様はそう言うと、私の膝の上によじ登って座った。
五歳にしてはしっかりお喋りのできるジーク様だけど、時々こうして子供らしい言葉遣いや仕草が出てくるのが愛らしい。
小さな顔の横から絵本を覗き込むようにして読み聞かせをしていると、柔らかい金色の髪が私の頰に触れた。
ジーク様は足をぶらぶらと揺らしながら、夢中で絵本に見入っている。その姿を見ていると、絵本なんて投げ出して後ろからジーク様をぎゅっと抱き締めてしまいたいような気持ちになってくる。
先ほど、事故で亡くなった前国王夫妻のことを口にされた時には、ジーク様の心の傷を一瞬心配したけれど、私の取り越し苦労だったようだ。
「ねえ、先生。この色んな色の壁はなあに?」
ジーク様が、絵本に描かれた挿絵を指差した。
「これは、ステンドグラスと言います。色ガラスを使って絵や模様を作るんですよ。メデル大聖堂に、王国で一番大きなステンドグラスがあります」
「僕もキラキラのガラス、みてみたい。大聖堂に連れていってください!」
振り返ったジーク様が、期待に満ちた目で私におねだりする。こんなに可愛いおねだりを、断れる人がいるわけがない。
私は絵本を一度パタンと閉じて、膝の上のジーク様を抱き直した。
「ジーク様、早速手配いたしますね。メデル大聖堂の司教様にステンドグラスを見せていただけるようにお願いしてみましょう」
「ありがとう、マリネット先生!」
(きゅんっ……!)
*
「……ということで、ジーク様と一緒にメデル大聖堂に視察に行くことになりました。当日の護衛をよろしくお願いします」
できるだけ感情を見せないようにして、私はラルフ様に丁重に頭を下げた。
ここは騎士団の訓練場の裏にある厩舎。今日の午後はジーク様の剣術の授業がお休みで、ラルフ様たち護衛騎士も空き時間になっている。
外出時の護衛を頼もうとラルフ様を捜していると、リズが「厩舎に行けば会える」と教えてくれたのだ。
愛馬の毛並みを手入れしながら、ラルフ様はこちらを振り向きもせずに言った。
「教育係に着任したと思ったら、早速外出か。許可は取ったのか?」
「もちろんです。来週の外出予定を今週に早めただけですから、許可はすぐに下りました。大聖堂側も問題ないそうです」
「初めから張り切り過ぎて、早々に息切れするなよ」
「はいはい、言われなくても万事心得ております」
「はいは一回でいいのでは?」
この男は、口を開けば嫌味しか言えないのだろうか。護衛を断られたわけではないし、一応彼の同意は得たことにしよう。
*
続きは6月4日ごろ発売の『この愛は、国王陛下のご命令じゃない 〜おひとりさま希望の令嬢ですが、不仲な騎士が離してくれません!〜』で、ぜひお楽しみください!

■ 著者プロフィール
秦朱音(はた・あかね)
2023年12月、『こちら、地味系人事部です。」(アルファポリス文庫)でデビュー。他の著書に、『花鈿の後宮妃〜皇帝を守るため、お毒見係になりました〜』『砂漠の国の最恐姫』シリーズなど。
カバーイラスト 双葉アヤカ

