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第2回

今夜も、眠れない 第二話

 六十代半ば、女性、身長は百五十五センチくらい、体重は平均よりやや重いだろう。腰痛があり、右膝をずっと痛めている。
 条件に合わせ、枕とマットレスを用意する。
「どうぞ、こちらに仰向けで寝てみてください」
 あいているベッドに座っていたなえさんを案内する。
 早苗さんは、デパートが契約する設備管理を専門とした会社から派遣され、清掃の仕事をしている。バックヤードの清掃も担当していて、お手洗いや休憩室で顔を合わせて挨拶を交わすうちに、話すようになった。開店前から働き、十五時には退勤する。退勤後、特に予定がないというので、接客の練習に付き合ってもらえないかお願いした。
 身長やだいたいの体重を考え、どういうお客さまにどの寝具をオススメするのか、マニュアルみたいなものはある。だが、体形が似ていたとしても、頭の形や首のカーブや足腰の肉付きまで同じなわけではない。人によって、ミリ単位の細かい差がある。肩こりや腰痛、過去のケガなど、それぞれで痛むところも違う。より良い寝具をオススメできるように、数をこなさなければいけない。
 他にお客さまがいない時であれば、店のベッドを使って、練習していいことになっている。
「こうで、いいの?」早苗さんは、ベッドに横になる。
「もう少し上ですね。枕に首まで載せてください」
「首って、どこまで?」
「ここに少し出っ張っている骨がありますよね?」わたしは結んだ髪をよけ、自分の首に触って説明をする。
 首と背中の間に、出っ張っている骨があり、これが「第七けいつい」と呼ばれる。ここまでが首になるため、しっかり枕に載せた方がいい。第七頸椎が載っていない状態だと、首がまっすぐにならず、カーブを描いて反っているような状態になる。
「これくらい?」
「首元、この布の下から触っても大丈夫でしょうか?」
「どうぞ」
「失礼します」枕に敷いた不織布の下から、首に触らせてもらう。
 位置は合っているが、わたしの手が余裕で入る隙間があり、高さが足りない。
 首元の高さが高すぎると、首元を一晩中圧迫することになる。その圧迫を「ちょうどいい」と、好む方も多い。数分だけであればいいのだけれども、六時間から八時間つづくと、首を疲れさせる原因になってしまう。マッサージを一時間くらい受けるのは気持ちいいし、身体も楽になる。しかし、何時間もつづけて受けたら、身体は逆に疲れていく。それと似たようなことだ。
 だからと言って、低ければいいわけではない。高さが足りていないと、第七頸椎と後頭部の一番出っ張っている部分を支えに、橋をかけたような状態になる。ブリッジのポーズを首にさせることになり、これも首を疲れさせる原因になる。身体は繫がっているため、そこから肩こりや頭痛の他に、背中の張りを起こす方もいる。
「後頭部の方も、少しだけ触らせてもらいますね」
「はい」
「こちらは大丈夫そうですけど、違和感はありますか?」
 圧迫されているところも浮いているところもなくて、素材も合っている。
「大丈夫」
「寝返りを打って、わたしの方を向いてもらえますか?」
「こう?」早苗さんは、痛む右膝をかばいながら、身体を動かす。
 ケガをしたとかではなくて、長年清掃の仕事をしていて、しゃがむことが多いため、慢性的に痛めているようだ。
「足痛ければ、無理しないでください」
「大丈夫」
「横向きも少し低いですね」
 高さが合っていないため、首がななめに下がっている。
 この店で扱っている枕の多くは、真ん中が低くなっていて、首元と頭頂と左右が高くなっている。仰向けと横向き、それぞれの姿勢に高さを合わせられる。後頭部や首という硬い部分が当たる仰向けと頰という柔らかい部分が当たる横向きで、中の素材を変えているものもある。
「そうなの?」早苗さんが聞いてくる。「うちの枕、もう潰れちゃってるから、これだと高い感じするけど」
「そのまま寝ていてくださいね」枕の下に一センチの厚さの板を入れる。
「あっ、上がった」
「抜きますね」そっと板を抜く。
 首には、喉があるばかりではなくて、食道や気管が通り、脳と身体を繫ぐ様々な神経も通っている。繊細な場所なので、枕の高さを変える時には、お客さまに衝撃を与えないように気を付けなくてはいけない。
「下がった」
「もう一度、板を入れます」
「ああ、こっちの方が楽」
「今、この状態だと、首がまっすぐになっています。首が下がったり上がったりしていると、本来はまっすぐのものが曲がった状態がつづくため、寝違えを起こしたりします」
「なるほど」
「形や素材は合っているので、こちらの枕に少しビーズを足して、お使いいただくことがオススメです。交換用のビーズが一袋つくので、買い足す必要はありません」
「ちなみに、おいくら?」早苗さんは、両手で身体を支えながら起き上がる。
「消費税込みで一万六千五百円になります」
「やっぱり、高いのね」
 棚に並ぶ枕は、一番安いものでも六千六百円する。ネットやショッピングモールのプライベートブランドなどで探せば、もっと安い枕はたくさんある。それらが悪いわけではない。安くても、その人に合うものがあったら、それが一番いい。逆に、どんなに値段の高いものだとしても、合わない枕を使いつづけると、首や肩を痛めてしまうことはある。
 ここはデパートだし、安いものばかりを並べるわけにはいかない。また、寝具店には、それだけを専門とした研究と知識の積み重ねがあり、ネットやショッピングモールで売っている安価なものと似たように見えても、枕に使われている生地から違う。寝返りが打ちやすいように、縫い方までこだわって作られている。
「これは、いくらするの?」早苗さんは、マットレスに触る。「首より、とにかく腰と膝が痛いから、敷くものをどうにかしたいのよ。今は、綿の布団を敷いてるけど、それも潰れて薄くなっちゃってるから。五万円くらいだったら、出してもいいかな」
「こちら、二十二万円になります」
「……えっ!」驚いた声を上げながら、立ち上がる。
「サンプルなので気にせず、好きなだけ寝てください」
「買えないわ」そう言いながら座り直し、早苗さんはマットレスに触る。
「ですよね」うなずいてしまう。
 自分で売りながらも「高いな」と感じることはある。
 わたし自身、判断力がしっかりしている時であれば、買わなかったかもしれない。眠れるようになったし、いいものだとわかっているから後悔はないけれど、簡単に買う決断ができるような値段ではないのだ。

 早苗さんが帰っていくのと交代するように、母親と息子の親子連れが入ってくる。母親は、まだ夏がつづいているような白のジャケットと白のパンツで、サングラスをかけている。息子さんの方は、中学生か高校生か、白いオーバーサイズのロンTに黒のカーゴパンツを穿いていた。
「あっ、さわむらさん、いた!」母親の方がそう言い、サングラスを外す。
「ああっ! かわもとさま! いらっしゃいませ!」
 川本さまは、一ヵ月くらい前に来店して、ご主人の枕とお子さんたちの毛布やタオルを購入していった。その時に一緒に来ていたのは、小学校一年生の男の子と保育園に通う女の子だった。「もうひとり上にいて、そろそろ枕替えたいから、今度連れてくる」と話していた。長男は歳が離れていると言っていたので、この子がそうなのだろう。
「今日は、息子さんの枕ですか?」
「そう! あと、マットレスも見させてほしいの」
「マットレスも、息子さんのですか?」
「わたしは、チビたちと寝てるから。この前、話したでしょ」
「そうでしたね」
 長男がひとりで寝られるようになったころ、次男が産まれて、すぐに長女も産まれ、もう何年も落ち着いて寝られていない。夫婦の寝室では、川本さまと下のお子さんたちが一緒に寝ていて、ご主人は書斎のソファベッドで寝ている。小学生になった次男は、ひとりで寝るための練習をしているのだけれども、まだお母さんに甘えたいみたいで、夜中にベッドにもぐりこんできて、起こされる日も多いという話だった。
「こちら、どうぞ」奥のベッドに案内して、座ってもらう。
 ベッドに座るふたりの正面に、わたしは片膝を立ててひざまずく。寝具を試してもらう時、この姿勢でいる時間がつづくため、わたしも膝に気を付けた方がいいかもしれない。
「ほら、たい、欲しいマットレスがあるんでしょ」
「あの、これなんですけど」
 大我くんは、スマホの画面をわたしの方に向けてくる。
 そこには、メジャーリーグで活躍する日本人野球選手が愛用していると言われているマットレスが載っていた。
 国内最大手の寝具メーカーが出しているもので、うちの会社の商品ではないが、店での扱いはある。人間の身体の曲線に合うように研究がつづけられていて、何度かのリニューアルをしている。シリーズで、購入しやすい値段のものもあるが、大我くんが欲しがっているものは最高品質で、シングルサイズでも三十万円近くする。
「野球、お好きですか?」
「はい、野球部です」
 これくらいの年齢の子は、思春期と反抗期が入り混じり、親に連れられてきても、うまく話せない子も多い。けれど、大我くんは野球部で鍛えられているのか、ハキハキと話す。
「今、何年生?」
「中三です。だから、部活はもう引退したけど、高校でもつづけるので」
「身長は、まだ伸びてますか?」
 今の身長は、五センチヒールのパンプスを履いた川本さまよりも少し高くて、百七十センチあるかないかというところだ。なおと同じくらいだと思う。手も足も大きいから、もう少し伸びるだろう。
「夏休みに結構伸びたけど、まだ止まってないと思います」
「休み前まではね、わたしよりも小さかったんだから」川本さまが言う。「それが急に大きくなっちゃった」
「今、サンプルの商品をお持ちするので、少しお待ちください」
 ベッドから離れ、レジ前に野球選手の等身大パネルと共に飾られているサンプルを棚から取る。スマホには、ベッドマットタイプのものの画像が載っていたが、これは折りたためる敷き布団タイプのものだ。機能性としては、違いはない。
 一ヵ月くらい前に来た時、川本さまのご主人はブラックのクレジットカードを持っていた。それを見なくても、持ち物や話し方や態度から、お金に余裕があることは伝わってきた。家族全員が明るくて、子供たちの欲しがるものを躊躇ためらいなく買っていた。
 三十万円近いマットレスも、軽く買えるのだろうから、こちらも軽く売ってしまえばいい。
 しかし、大我くんに、このマットレスはオススメできない。
 野球選手やサッカー選手、フィギュアスケートの選手など、スポーツ選手が実際に愛用していて、広告にも出ている寝具はいくつかある。「同じものが欲しい」と、店に来るお客さまはいる。試しもせずに「これ、ください」と購入しようとする方もいた。そういったお客さまには、衛生用品だから使用後は返品や交換ができないことを何度も確認する。
 マットレス自体は、とてもいいものだ。
 わたしも、同じシリーズのものをムートンシーツの下に敷いている。それは、スポーツ選手が使っているものではなくて、自分の身体に合った、シリーズの中でも安価なものだ。メジャーリーグで活躍する選手に比べたら、大我くんの身体は一回り二回りどころか、三回りは小さい。まだ身長が伸びているのであれば、もう少し大きくなってから、考えた方がいい。男の子は、ほんの数ヵ月の間に、十センチ以上伸びることもある。「息子に買ってあげたばかりの枕がもう合わない」とクレームの電話がかかってきて、詳しく聞いてみたら、購入してから身長が急に伸びて体重も増えたということだった。
 もともと敷いていたマットレスを店長と他のパートのお姉さんが別のベッドに移してくれたので、あいたところに持ってきたマットレスを敷く。大我くんに合っているであろう枕も置く。川本さまには、折り畳み椅子を出して、そこに座ってもらう。
「どうぞ、こちらに寝てみてください」
「ありがとうございます」
 好きな選手と同じものが欲しくて、楽しみにしていたのだろう。嬉しそうな顔をして、大我くんはベッドに横になる。
 だが、その表情がすぐに曇っていく。
 右へ左へと寝返りを打ち、さらに表情を曇らせる。
「どうですか?」ベッドの横に跪く。
「なんか、硬い」起き上がり、マットレスを手で押し込む。
 ウレタンでできていて、凹凸がある。手で押すと、ひとつひとつの出っ張りだけが沈む。意識して力をかけなければ、マットレス全体が潰れることはない。
 身体の向きを変え、わたしは川本さまの方を向く。
「ご主人が枕をご購入される時にも、少し説明させていただいたのですが、寝具には身体の大きさや体形によって、合うものと合わないものがあります。マットレスも、同じです。こちらのマットレスは、身長も体重もある方向けのもので、大我さんにはやはり合わないかと思います」
 売上は欲しいし、うまく言って気分良く買わせるのが販売の技術というものだろう。売れるか売れないか、レジカウンターにいる店長が気にしているのも、背後からの気配で伝わってくる。
 わかっていても、嘘をついて、買わせることはできなかった。
 まだ子供で、合わない寝具を選ぶことは、身体の成長にも影響するかもしれない。小さな子であれば、寝ている間に大きく動きまわるので、好きなキャラクターのものとか好きな感触のもので、充分だ。だが、成長期の子やスポーツをやっている子は、そういうわけにはいかない。
「今は、どういったマットレスをお使いですか?」
「五年くらい前に買ったものだよね?」川本さまは、大我くんに聞く。「それもウレタンので、これよりももっとポコポコしてる。小さな山がいっぱいあるみたいなの」
「どちらで、買われました?」
「ここで買ったのよ。その時の店員さん、辞めちゃったから、しばらく来てなかったの」
「少々お待ちください」
 レジカウンターに入り、パソコンで顧客情報を検索する。川本さまは、すでに辞めた店員が以前は担当していた。五年半前にマットレスを購入している。大我くんが小学校四年生になった時だ。先を考えたのか、四年生が使うものとしては、少し硬めのものを選んでいる。価格を考えても、もう使えないというほどではないだろう。マットレスは、すごく高いものや打ち直しができる綿布団など例外はあるけれども、価格がおおよその耐久年数になる。一万円で一年だ。
「お待たせしました」大我くんの前に、また跪く。「今のマットレスだと、使い心地が悪いですか?」
「悪くないです」首を横に振る。
「引退まで、部活をがんばったから、ご褒美っていうだけなのよ」川本さまが言う。
「そうであれば、高校入学の際に、お祝いにするのはいかがでしょうか? あと、四ヵ月半ほどですが、その間に身長も伸びるでしょう。高校でも野球をつづけるのであれば、体格も変わっていくと思います。その時、お身体に合わせて、枕と一緒にご購入されることをオススメいたします」
「どうする?」
 川本さまが聞くと、大我くんは「そうしたい」と言い、大きくうなずく。
「その際には、またご案内させていただきます」
「もちろん、お願いします」川本さまは、そう言って立ち上がり、大我くんも「お願いします」と言って、ベッドから立つ。
「ありがとうございました」 
 お見送りをして、使ったマットレスや別のベッドに移したマットレスを元の場所に戻す。
 怒られるかと思ったが、本社から店のスマホに電話がかかってきたみたいで、店長は裏の倉庫に入っていた。
 レジカウンターに入り、川本さまの顧客情報を改めて確認する。
 大我くんのマットレスの他に、ご主人のマットレスも購入していた。敷き布団タイプのものだから、ソファベッドに敷いているのだろう。子供たちのパジャマやタオルの購入履歴もあった。前担当者の時から、頻繁に来ていただいているようだ。
 しかし、川本さま自身の枕やマットレスやパジャマを買ったと思われる記録はなかった。
 顧客情報が家族で別になってしまっていることもあるので、検索にかけてみたけれど、そういうことでもないようだ。前に来た時には「奥さまも、いかがですか?」とオススメしてみたものの、「わたしは、いいから」と笑っていた。
 他の寝具店で買っているのだろうか。

 プレーリードッグがきなこもちのような身体をもちもちさせながら、両手で持った草を食べつづけている。
「プレーリードッグって、ねずみ? リス? 犬ではないよね」隣に立つ弟のほくが聞いてくる。
げっもくリス科」
「そもそも、ねずみもリスも齧歯目っていうこと?」
「そう」
「へえ、そうなんだ」
「だから、どちらかと言えば、リスだね」
 話しながらも、もちもちするプレーリードッグを見つづける。
 ここの動物園には、象や猿といった定番から、虎や白熊や南国の色鮮やかな鳥まで、何百種類もの動物がいる。多くの人は、パンダを目的に来ていて、お土産屋にもパンダのぬいぐるみが積まれていた。子供のころは、端から端まで見てまわったけれど、今日はプレーリードッグに集中したい気分だった。
「なんか、冷えてきた」北斗が言う。
「そろそろ出ようか?」
「出たところで、お茶でも飲んでいこう」
「そうしよう」 
 他の動物も少し見ながら、出口の方へ向かう。
 さっきまで遠足らしき子供たちがいて、目を輝かせてキリンを見上げたりしていた。もう帰ってしまったようだ。大学生ぐらいの子たちのグループやわたしよりも少し若そうな恋人同士や小さな子供のいる家族連れとすれ違う。
 陽が出ているうちは暖かかったけれど、雲が出てきて、肌寒くなってきた。
 デパートの売場には窓がなくて、どの店にも少し先の季節の商品が並んでいる。働いていると、季節がわからなくなってくる。この前まで夏だったのに、秋はもう終わりに近い。
 出てすぐのところにコーヒーショップがあったが、混んでいたため、正面にあるカフェに入る。
 わたしはホットのフレッシュハーブティーを頼み、北斗はコーヒーと抹茶シフォンケーキを頼んだ。
「食べないでいいの?」
「お腹すいてない」
「食欲ないの?」
「そういうことじゃない」首を横に振る。「今食べると、中途半端になるから」
 食べたい気持ちはあったけれど、シフォンケーキの他はパンケーキやブラウニーなど、それだけでお腹がいっぱいになりそうなスイーツしかなかった。四時を過ぎている。今食べてしまうと、夕ごはんが入らなくなる。
「最近は、ちゃんと食べてるよ」わたしから言う。
「だったら、いいけど」
「心配しないでいいから」
 直樹がいなくなった後もしばらくは、わたしはそれまで通りに働き、ごはんを食べて眠っていた。頭も心も、何が起きたのか理解することを全力で拒否していたのだと思う。住んでいるマンションやお金のこと、ひとりで考えて決めなくてはいけないこともあり、手続きや調べ物に集中した。しかし、目を逸らしつづけることはできず、眠れなくなり食べられなくなり、仕事に行けなくなった。
 マンションの部屋から出られないで、ぼんやり過ごすわたしに、両親は「帰ってくれば」と言ってくれた。実家は県内にあり、電車で三十分ほどの距離だ。父親が「車で迎えにいくから、荷物をまとめておきなさい」と、連絡してきた。そうした方がいいのだと思いながらも、できなかった。部屋を出てしまったら、もう戻ってこられなくなる気がした。
 両親は、ひとりでマンションにいつづけるわたしをどう扱っていいのか、わからなくなったのだろう。代わりに、北斗が連絡してくるようになった。北斗は、都内にある会社に勤め、ひとり暮らしをしている。東京までは一時間ぐらいで出られるが、用がなければ行くことはない。「行ったことないようなところで遊んだりすれば、息抜きになるんじゃない?」と言われても、無視しつづけた。それでも、定期的に連絡をくれた。姉が生きているのか、心配だったのだと思う。休みの日にマンションまで来て、ごはんを作ってくれたこともあった。直樹がいなくなって一年が経っても、眠れない日はつづいていた。けれど、心療内科に通ったり、近くのスーパーに行ったり、外に出られる時間は少しずつ長くなっていった。
 春になったころ、デパートに入っているフルーツパーラーで、季節限定のいちごがたくさん載ったパフェを北斗と一緒に食べた。パフェはとてもおいしくて、久しぶりに姉と弟で楽しく話せた。夕方から予定があると言い、北斗は先に帰っていった。わたしは、デパートを見ていくことにした。デパートは駅前にあって、マンションまで帰る時に横を通ることはあっても、数えるほどしか入ったことがなかった。洋服や靴やバッグ、食器や旅行用品を見るうちに、無意識に直樹のものを買おうとしていた。男性向けの下着や靴下が並ぶ店に入り、いつも通りのことのように「スーツの時用の靴下、買い足しておこう」と手に取った。棚に戻し、エスカレーターを下りたところに、寝具店があった。
 今は、働けているし、眠れない日も減った。帰りが遅かったり料理することが面倒くさかったりして、軽く済ませる日はあるが、食べられないことはない。もう大丈夫だからとどれだけ言っても、今も家族には心配をかけているのだろう。北斗から「土曜出勤の代わりに平日休み取れたから、どこか行かない?」と連絡があった。気を遣わなくてもいいのにと思ったけれど、誰かとどこかに行きたい気分ではあったので、「動物園がいい」とリクエストした。この辺りには、動物園の他に美術館や博物館もあり、子供のころに家族でよく来ていた。
「少しいる?」抹茶シフォンケーキを食べながら、北斗は聞いてくる。
「ひと口ちょうだい」
「どうぞ」
「ありがとう」フォークを借りて、ひと口もらう。
 軽い苦みがあり、抹茶の香りが口の中に広がる。生クリームとの相性もいい。抹茶味のスイーツは苦手なわけではないけれど、自分で頼むことはないから、久しぶりに食べた。
 直樹は、ふたりでごはんを食べた時に、いつもわたしの好きなスイーツを選ばせてくれた。「は、好きなものを二種類食べられるでしょ」と言っていた。わたしは、直樹の好きなものを考え、選ぶようにしていた。そのうちに、直樹の好きなものがわたしの好きなものになっていった。
「もっと食べてもいいよ」
「いい」フォークを返し、ハーブティーを飲む。
 透明なガラス製のポットに、生のままのハーブがたくさん入っている。ローズマリーの香りがして、気持ちが落ち着く。ローズマリーやラベンダーの香りにはリラックス効果があり、安眠を誘うとされている。
「仕事は? 慣れた?」
「半年以上経つからね。でも、なんか、いまいち」
「いまいちって?」
「売れないんだよね。全く売れないわけじゃないけど、高いものが売れない」
 川本さまが帰った時、店長は本社からの電話に出ていた。その電話は、売上に関することだったようだ。系列店の中で、売上は悪い方ではない。わたしは売れていなくても、他のパートのお姉さんたちはしっかり売っている。だが、充分ではなくて、「もっと売るように」と求められる。パート個人の売上も、本社は把握しているため、そろそろ怒られるかもしれない。
 うちの店の店長は女性だけれど、他の店の店長はほとんどが男性で、本社から来る人も男性ばかりだ。商品開発部の女性社員が現場を見たいと店に来ることもあったが、辞めてしまったらしい。男の人に怒られることは、考えただけで、しんどい。
「そんながんばらないで、適当でいいんじゃないの? パートでしかないんだから」
「そういうわけにもいかないよ」
「ずっと働く気でもないんだろ?」
「うーん、そうだね」
 パートをはじめた時は、働けると思えるようになったら別の仕事を探すつもりで、とりあえずという気持ちだった。売上や報奨金のことは、あまり考えていなかった。暇そうだし、楽な仕事だと思っていた。けれど、勉強しなくてはいけないことはたくさんあり、売上に追われ、ぼんやりしている時間なんて、全くない。すぐにでも辞めたいと思う日もあるが、辞めてしまうのは「もったいない」と感じることもあった。
「やりたいこととかないの?」
「……やりたいこと?」
「中学生や高校生のころは、ミステリーハンターって言ってたじゃん」
「部活しかしてなかったからね」
 中高一貫の学校で、中一から高三まで考古学部だった。夏の合宿では、日本各地の文化史跡や遺跡を見にいき、秋の文化祭までに研究結果をまとめて、冊子を作った。それ以外にも、県内にある歴史的建造物をみんなで見にいった。海外にも見にいきたくて、高校二年生の夏休みには、学校の国際交流プログラムに申し込み、イギリスに二週間の短期留学をした。
 十代の多くの時間を費やして、大学も考古学の勉強ができる学部を選んだ。日本より海外の遺跡に強い興味があったため、英語や他の語学を学べる授業も取っていた。だが、視野を広げるために他のこともしてみたいと思い、アウトドアサークルに入って友達と遊び、アルバイトをして、直樹と付き合ううちに、興味が薄れていった。
 もともと父親が歴史が好きで、子供のころからそういう番組ばかりテレビで見ていた。図鑑や歴史に関する本は、子供向けのものから専門的なものまで、本棚に並んでいた。わたしが「ミステリーハンターになって、世界中を見てまわりたい!」と言ったら、父親は喜んでいた。
 ミステリーハンターと呼ばれるリポーターがクイズを出す番組も、もう終わってしまったし、考古学関係のことがしたいという気持ちは、十年も前に失っている。
「今は、やりたいことないの?」
「焼肉が食べたいかな」
「何、それ?」
「お姉ちゃん、パートだから、牛肉なんて食べられないんだよ」
「母ちゃんか親父に言えよ。腹いっぱい食べさせてくれるから」
「東京のおしゃな焼肉屋さんに行きたいな」
「……わかったよ」
 テーブルに置いていたスマホを取り、北斗は店を検索する。
「あっ、そういえばさ、向こうの旦那さんが店に来たんだよ」
「誰?」
「直樹と一緒に亡くなった人の旦那さん」
「なんで?」検索していた手を止めて顔を上げ、眉間にしわを寄せる。
「偶然って言ってた」
「大丈夫なの? たかられたりすんじゃないの? 気を付けた方がいいよ」
「すぐに帰ったし、もう来ないよ。でも、仕事で近くに来ることがあるみたい。どこかでまた会ったりしないように気を付ける」
「向こうも、会いたくないだろ」
「そうだよね」気持ちを落ち着けるために、ハーブティーを飲む。
 しかし、引っ掛かる感じがして、うまく飲みこめなかった。
 陽が沈み、窓の外は藍色に染まっていく。

 来ないと思っていたのに、たかはしさんはまた来た。
 日曜日なので、スーツではなかった。グレーのスウェットとデニム、三十代の男性がデパートに来る服装としては、カジュアルすぎる気がする。事故の時は、都内の芸能人とかも住むような地域に住んでいたはずだ。直樹のお父さんが「ずいぶん、いいところだな」と、ひとりごとのように言っていた。仕事か何かの関係で、この辺りに引っ越してきたのだろうか。それとも、軽く見せて、高いスウェットとかなのだろうか。
「あの、枕を試させてもらえますか?」高橋さんはわたしに聞いてくる。
 誰かに替わってほしいけれど、店は混んでいて、店長しか手があいていない。うちの店は、店長が監督でパートが選手みたいな形式になっている。選手であるパートがお客さまに声をかけ、積極的に枕や他の寝具をすすめていく。店長はレジカウンターの辺りに立ってその様子を見て、高額商品を買いそうなお客さまがいたら、サポートに入る。
 理由を言えば替わってもらえそうだが、仕事に個人的な感情を持ち込むわけにはいかない。
「こちらに、どうぞ」あいているベッドに、高橋さんを案内する。
「はい」高橋さんはうなずき、ベッドに座る。
「本日は、枕のお試しがご希望ということで、よろしいですか?」
 いつも通りに接客すればいいと思っても、話し方がかたくなっていく。
「ずっと眠れていないんです。それで、枕を合うものにしたら、いいのかなって思って」
「少しお待ちください」
 レジカウンターに行き、バインダーに挟まれたアンケート用紙を取る。
 そこには、睡眠に関するアンケートが並んでいる。
 本社の社員から、購入しそうにないお客さまにも、できるだけ答えてもらうようにと言われているものだ。アンケート自体より、名前や住所などを書いてもらい、顧客情報を増やすことを目的としている。その目的には疑問を覚えるけれど、お客さまの睡眠の状況がわかりやすくなるため、必要と感じた時には使うようにしている。
「お待たせいたしました」高橋さんの前に跪く。「いくつか、質問をさせてもらってもよろしいですか?」
「はい」
「今、どのような枕をお使いですか?」できるだけ高橋さんの顔を見ないように、アンケート用紙を見ながら質問をする。
「海外の寝具メーカーのものです。僕が自分で買ったわけではないので、どこのかはちょっとわかりません」
「何年ぐらい、お使いですか?」
「五年ぐらいだと思います」
 五年前、結婚した時に奥さんが買ってきたのだろうか。いつ結婚したかまで知らないが、新婚というほどではないけれど、子供はいなかったと聞いた。
「素材は、わかりますか?」
「ウレタンです。頭の形に合わせて、沈むみたいなやつです」
「夏と冬で硬さが変わりませんか?」
「あっ! そうなんです」
「基本的に寝具は、その土地の気候や環境まで考えて作られています。日本は四季があり、夏と冬で気温も湿度も変わります。海外で作られたウレタンのものだと、季節によって硬さが変わってしまう場合があるんです。体格にも差があるため、海外メーカーの寝具の中には、日本人には合わないものもあります」
「へえ、そうなんですね」高橋さんは、心の底から感心したかのような声を上げる。
 ただのいい人で何も考えていないのか、何か企んでいるのか、判断ができない。
「年月も経っているので、ウレタン自体が劣化しているのかもしれません」
「そっかあ」
「ベッドですか? お布団を敷かれていますか?」
「ベッドです」
「サイズはわかりますか?」
「シングルです。引っ越してきた時に、マットレスと合わせて買いました。だから、まだ半年くらい」
「……引っ越し」顔を上げて、高橋さんを見る。
「……はい」小さくうなずく。「その時に、ここでまとめて買えばよかったんですよね」
「そうですね」視線をアンケート用紙に戻す。
 半年前であれば、わたしはここで働きはじめたばかりで、まだ研修中だった。その時だったら、他の人が高橋さんの担当をしてくれていたかもしれない。
「マットレス、どういったものですか?」
「スプリングの入ったものです。ちょっと硬めですかね」
「腰痛とか肩こりは、ありますか?」
「多少はありますけど、気になるほどではないです」
「多少ですね」アンケート用紙にメモをする。
 前に来た時に営業の仕事をしていると話していたし、歩きまわったりして、身体は動かしているのだろう。せている方でも、首が太いので、鍛えているのかもしれない。体幹が強いのか、姿勢がいい。ベッドに座って話していると、首から背中が丸くなっていく人がいるが、まっすぐに保てている。枕は五年使っていて、気候にも合っていなそうだから、替えた方がいい。マットレスも気にはなるけれど、買ったばかりだし身体の痛みもそれほどないのであれば、そのままでもいい。
 ただ、眠れない理由は、寝具ではないのではないかと思う。
 はっきり言ってしまいたいけれど、それは個人情報であり、高橋さんから言わない以上、こちらも口に出すべきではない。
「枕、何かご希望はありますか?」
「特にないです。オススメのもので、お願いします」
「少しお待ちください」
 立ち上がった瞬間、眩暈めまいがした。
 ずっと跪いていたせいで、立ちくらみが起きただけだ。軽く息を吐き、枕の棚の方に行く。
 首の太さを考えると、硬めの素材のものの方がいい。柔らかいものだと、首を支えきれない。しかし、顔は小さい。首に合わせた硬さにすると、後頭部が沈み込まないで、浮いてしまう。硬すぎないビーズのもので、形の違うものを三種類選んで、ベッドに持っていく。
「まず、こちらで、仰向けに寝てください」ベッドに枕を置き、不織布をかける。
「こうでいいですか?」高橋さんは、ベッドに横になる。
「この布の下から触ってもよろしいですか?」
「大丈夫です」
「失礼します」
 第七頸椎まで載っていることを確かめる。首元に少しだけ隙間はあるけれど、ちょうどいいくらいだ。マットレスによって、身体の沈み具合が変わり、枕の高さも変わる。家に帰って合わない場合、ビーズを足したり抜いたりすれば、調整できる。後頭部の方を触ってみるが、やはり少し浮いている。形よりも、硬さが合っていないのだと思う。
 触りながら考えるうちに、また眩暈がする。
 視界に影がかかり、暗くなっていく。
「沢村さんっ!」声を上げ、高橋さんはわたしの腕をつかむ。
 後ろに倒れそうになったところを支えてくれたようだ。
「あっ、ごめんなさい」
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさい」手をはなしてもらい、片膝ではなくて、両膝を立てて座り直す。
「すみません」気まずそうに、手を見る。
「……いえ」
「今度、外で会ってもらえませんか?」周りを気にしたのか、高橋さんは小さな声で聞いてくる。
 会いたくない。
 もう二度と来ないでほしい。 
 でも、わたしに断る権利はないのだ。
 
 去年の二月、とても寒い日に、雪山でバス事故に遭って、直樹は死んだ。
 吹雪ふぶきで見通しの悪い中を走り、バスはガードレールを倒し、崖から転落した。他のバス会社が運行を休止する中、そのバスだけが駅へ向かった。急いで帰る人たちで、半分くらいは席が埋まっていたようだ。助かった人もいたが、運転手と乗客の合わせて十二名が亡くなった。
 その日、直樹は大阪に出張に行っているはずだった。
 直樹は、食料品メーカーで広報の仕事をしていた。県の中心部にある本社に勤めていたけれど、キャンペーンの手伝いで大阪や福岡の支社に出張することは、年に何回かあった。
 新卒で入社して、五年くらいは転勤の可能性もあるため、仕事が落ち着いたら結婚しようと話していた。大学一年生の夏から付き合っていて、卒業してから一緒に暮らしはじめた。けんかしたことは何度かあり、大学三年生の終わりに一度別れた。けれど、話し合いをして、二週間ほどでりを戻した。それからは、別れるなんて考えたこともない。できるだけ早く子供がほしいという気持ちはあったが、妊娠や出産と転勤が重なったら、大変になる。結婚することは決まっているのだし、二十代のうちにひとり目を産めればいいと考えていた。ふたりでいられる時間も、楽しみたかった。お互いの両親には、何度も会っている。直樹と北斗は、わたしの知らないうちに連絡先を交換し合い、ふたりで野球を観にいったりもしていた。直樹はひとりっ子だから、弟ができたと喜んでいた。
 出張はたまにあっても、転勤はしばらくなさそうだからと話し、一昨年おととしの夏の付き合い始めた記念日に、改めてプロポーズしてもらった。付き合うよりも前、初めてふたりだけで行った大学の近くのイタリアンレストランだった。断るはずもないのに、わたしが返事をすると、直樹は安心したような顔で笑った。
 去年の七月に、結婚式をするはずだった。
 式場を見学して、誰を呼ぶのか相談して、ドレスの試着にも行った。どれを着ても、直樹は「かわいい、かわいい」と何度も言ってくれた。実際にどれを着るかは、当日までの楽しみとして秘密にすることにした。直樹の方のタキシードは見せてもらい、合うものを選んだ。ちょっと痩せた方がキレイに着られそうだから、エステに通ってもいいか直樹に聞いたら、「そのままでも、充分にかわいいけどな」と言いながらも、許可してくれた。
 照れないで「かわいい」とか「好き」とか、言ってくれる人だった。それは、わたしだけに向けられる言葉だと思っていた。大学のころからの友達の多くは、わたしとも直樹とも仲がいい。みんなが「浮気とか、少しも心配してないでしょ」と言っていた。中学生や高校生の時、男の子とふたりで会ったことはあった。映画や博物館に行っただけで、ちゃんと付き合ったことはない。直樹は高校生の時に半年間だけ、年上の人と付き合っていたらしい。付き合い始めたころは、そのことが気になっていたけれど、いつからかどうでもよくなった。周りに言われなくても、大事にしてもらえている自信があった。
 大阪出張と言われ、何も疑わなかった。
 後になって、いつもと違ったのかもしれないと思い出したことはある。出張の前日、寝ようとしてベッドに入ったら、直樹はぴったりくっついてきた。ここまでは、いつもと同じだ。その後で「帰ってきたら、子供のこと考えよう」と言われた。結婚式まで半年近くある。それより前に、妊娠はできない。そのことをわかっているはずなので、急にどうしたのだろう? と疑問は覚えた。でも、特に気にせず、セックスしたいのかなとだけ考えていた。付き合って長くなっても、全くしなくなるということはなかった。大学生のころや同棲しはじめたころに比べれば回数は減っていたが、少ないとか足りないとか感じたことはない。「帰ってきたらね」とだけ返し、わたしは眠った。朝、玄関で見送る時、直樹は眠そうにしていた。
 次の日のお昼過ぎ、わたしはその時に勤めていた会社で、パソコンに向かって仕事をしていた。直樹のお母さんからスマホに電話がかかってきたが、すぐには出られなかった。何度もかかってきたため、隣の席の先輩に許可を取り、廊下に出た。
 事故のことを聞かされ、何かの間違いだと思った。
 大阪に行った人が東北の雪山にいるはずがない。直樹のお母さんにもそう言ったが、すでに持ち物から身元の確認は済んでいるということだった。自分の席に戻り、先輩に「婚約者が事故に巻き込まれた」と、話した。頭が回らず、わたしはそのまま仕事をつづけようとした。先輩に「早く帰りなよっ!」と驚かれ、早退することになった。そのまま直樹の実家に向かった。直樹の両親と一緒に病院に着いたのは、その日の夜遅くだった。直樹は、すでに亡くなっていた。事故の衝撃で、即死だったらしい。
 そこで、一緒にいた女性も亡くなったと聞かされた。
 近くの温泉旅館にふたりで泊まり、帰るところだった。

 高橋さんが指定したのは、市役所の近くにある古い喫茶店だった。
 前を通ったことはあるけれど、入ったことはない。
 遅れてはいけないと思って、約束の時間より十分ほど早めに来たのに、すでに高橋さんは来ていた。
 大きな窓があり、奥の席で入口に背を向けて座っているのが外から見えた。平日のランチタイムは、市役所で働く人で混み合うのだろう。今日は日曜日で、ランチの時間も少し過ぎているため、お客さんは少なかった。ガラス扉を開け、待ち合わせであることを店員さんに伝え、奥の席に行く。
「すみません、遅れました」視界に入るところまで行き、声をかける。
「あっ、こんにちは」立ち上がり、高橋さんは頭を下げる。「どうぞ、座ってください」
「失礼します」
 わたしが上座になってしまうが、座り直してもらうのも、面倒くさいだろう。
「今日、お仕事は?」
「ちょうどお休みだったので、大丈夫です」
 デパートは土日祝日は忙しくなるため、世間が休みの時に休むことは難しい。けれど、全員出勤する必要もないので、交替で月に何度か土日祝日も休みが取れる。
 お水を持ってきた店員さんに、高橋さんはホットコーヒーを頼み、わたしも同じものをお願いする。
 作り置きみたいで、すぐに運ばれてきた。
 何か高橋さんから話したいことがあるのだろうと思ったのに、何も言ってこないので、わたしから話す。
「あの、ご存じだとは思いますが、わたしは結婚していたわけではありません。なので、法律的には、何も関係がないんです。事故に関することは、全てを向こうの両親に任せています」
「はい」
「それでも、奥さまには、申し訳ないことをしたと思っています」座ったままで、頭を下げる。
 立って謝るべきかと思ったけれど、他にお客さんもいるし、やめておいた方がいい。おおなパフォーマンスをして、許してもらおうとしているみたいになりそうだ。
「顔、上げてください。沢村さんが謝ることではないから」
「いや、でも、ああいうことは男性に責任があるので」顔を上げさせてもらい、まっすぐに座り直す。 
 ふたりの関係がいつからはじまったのか、詳しいことをわたしは知らない。直樹のスマホは、事故の時から電源が切れたままだ。パスワードは知っているけれど、見る覚悟ができなかった。
 高橋さんの奥さんは、フリーランスで空間デザイナーという仕事をしていた。主に商業施設のエントランスや売場のデザインをしていて、都内の有名デパートのリニューアルにも関わっている。展示会など、短期のイベントの際に、会場のデザインをすることもあった。事故の半年ほど前にあった新商品のお披露目イベントの際、知り合ったのではないかということは、お通夜の後で直樹の同僚から聞いた。イベント会場のデザインを高橋さんの奥さんが手掛けたのだけれど、そこに直樹は設営と当日の手伝いに行っただけだ。だから、準備段階では会っていないため、長くても半年程度のことになる。
 半年間、ふたりはどのようにして近づき、どうして雪山の奥深くにある温泉旅館に泊まりにいくことになったのか。
 知りたい気持ちは、今もある。
 その半年間は、わたしと直樹が結婚に向けて、準備を進めていた日々と重なる。
「僕は、結婚していました。それでも、沢村さんと同じように、事故に関することは、向こうの両親に任せています。夫として、僕がしなければいけない手続きはしましたが、被害者遺族の会みたいなものには一度出ただけです」
「そうなんですね」
 暖房が入っていて、すごく喉が渇いていたけれど、水を飲むタイミングではない。
「引っ越しをして、仕事の担当地域も変わり、気分を一新しようと思っていたんです。けど、そういうわけにもいきませんでした」
「……はい」
「家族も友達も、会社の人たちも、事故のことや妻のことを知っている。仕事は転職することは可能ですが、家族や友達と縁を切ることはできません。今の会社が嫌なわけではないから、転職したいわけでもない」
「なんとなく、わかります」
 わたしは、前の仕事が派遣社員だったため、働けなくなってしまってすぐに派遣の契約も切れた。働いていた時は、その会社にいた派遣社員の先輩や正社員の人と仲良くしていたが、辞めた後は連絡を取らなくなった。急に辞めてしまったことは、申し訳なく思ったけれど、すぐに違う誰かが派遣されてきたようだ。デパートで働く人は、店長以外、わたしが過去に婚約していたことも知らなくて、職場で息苦しさを覚えることはない。だからといって、どんなことも気軽に話せるわけではなかった。「彼氏、浮気相手と事故で死んじゃったんだよね」とか、お弁当を食べながらちゃんに話したりはできない。秘密にしていることがあるため、いつも噓をついているような気分がしている。
 家族や親戚や友達は、みんなが直樹のことを知っている。
 休みが合わないとか遊びにいくお金がないとか、理由を並べているが、本当はできるだけ会いたくないのだ。前と同じように振る舞ってくれていても、同情されて気を遣われている空気は、伝わってくる。北斗であれば、わがままも言える相手で楽に過ごせるかと思ったけれど、そうでもなかった。
「向こうの家族に任せていても、どうでもいいわけではないし、自分なりに考えていることはたくさんあります。でも、友達や同僚には話せない」
「わかります」
「そういうことを誰かに話せないか考えていた時、沢村さんのことを思い出したんです。被害者遺族の会でお会いした時、周りが泣いたり怒鳴ったりする中、沢村さんは静かに前を向いていた。話せるとしたら、あの人しかいないのだと思った。でも、連絡先は知らないし、個人的に連絡を取ったりしないように弁護士の先生にも言われている。無理だろうと思っていたら、デパートの寝具店にいた。あの日、会ったのは、本当に偶然です」
「もう疑っていないので、大丈夫です」
 感情的にならず、淡々と話しつづける高橋さんの中には、まだ誰も手を触れることのできない悲しみが眠っている。それは、わたしも同じだった。
「少しだけでも、お話しできないかと思ったのですが、ご迷惑でしかないですよね?」
「いえ、そんなことないです」首を横に振る。
 わたしも、誰かと話したかった。
 ひとりで向き合えるようなことではないのだ。
「お時間ある時でいいので、また会ってもらえますか?」
「はい」まっすぐに高橋さんの顔を見てから、うなずく。
「良かったです」
 安心したのか、こわっていた表情が柔らかくなっていった。
「ただ、わたし、土日や祝日の休みは月に数回しかないので、いつでもというわけではないんです。希望も出しにくいから、合わせてもらうことになってしまう」
「問題ないです。僕は、たまに土曜出勤がありますが、日曜日は休みです。特に予定もない。沢村さんが日曜休みで、他に予定がない時に、また会いましょう」
「それで、お願いします」
「冷めてしまうので、飲んでください」高橋さんは、わたしの前に置かれたカップを手で指し示す。
「……ごめんなさい、コーヒー飲めないんです」
「えっ?」
「カフェインが苦手で、お茶は平気なんですけど、コーヒーは頭が痛くなってしまう」
「じゃあ、なぜ、頼んだんですか?」
「謝罪しなくてはいけないと思っていて、そういう席で自分の好きなものを頼むべきではないから」
「そうですか」手で口を押さえ、高橋さんは笑いをこらえる。
「すみません」
「いえ、いいんです」顔の前で、小さく手を振る。「実は、僕も、コーヒーが飲みたかったわけではないので。クリームソーダやチョコレートパフェを頼む席じゃないよなと思って、コーヒーにしました」
「そうだったんですね」
 思わず、わたしが笑ってしまったら、高橋さんも笑った。
 

 
■ 著者プロフィール
畑野智美(はたの・ともみ)

1979年東京都生まれ。2010年「国道沿いのファミレス」で第23回小説すばる新人賞を受賞。13年『海の見える街』、14年『南部芸能事務所』で吉川英治文学新人賞の候補となる。著書に『夏のバスプール』『タイムマシンでは、行けない明日』『ふたつの星とタイムマシン』『消えない月』『大人になったら、』『水槽の中』『神さまを待っている』『若葉荘の暮らし』『ヨルノヒカリ』など多数。最新刊は『世界のすべて』。

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