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第1回

今夜も、眠れない 第一話

 お客さまは、仰向けになってしばらく目をつぶった後、右へ左へと寝返りを繰り返す。
 起き上がり、枕全体を触っていく。
「形はいい気がするんですけど、もっと硬い素材のものって、ありますか?」
「はい、ございますよ。少々お待ちください」
 枕の並ぶ棚の前に行き、同じ形で中の素材が違うものを探す。
 形や中の素材や大きさの違う枕が二十種類以上並んでいる。ここに並ぶものだけではなくて、カタログや系列店に注文して取り寄せられるものもあるので、全てで何種類なのか、まだ把握できていない。
 棚から枕を取り、お客さまのいるベッドに戻る。
 急な連絡が入ったのか、ゲームでもしているのか、ほんの少しの時間でも手放せないのか、お客さまはスマホを見ていた。わたしと同世代、二十代後半ぐらいに見える女性で、首も身体も細い。首が頭を支えきれていなくて、スマホを見る時に頭に引っ張られるように全身が前に傾く。
「お待たせいたしました」枕を交換して、持ってきた方に不織布を一枚かける。
「あっ、ありがとうございます」お客さまは顔を上げ、ベッドの横のカゴにスマホを置く。
「どうぞ、寝てみてください」
「はい」
 さっきと同じように、仰向けになって目をつぶって寝返りを繰り返し、起き上がる。
「これでも、まだ柔らかいんですよね」枕を触る。
「今まで、どういった枕をお使いでしたか?」
「ビーズの入ったものです。ずっと使っていたら、なんか柔らかくなってきちゃって」
「何年ぐらい、お使いですか?」
「そんなに長く使ってないですよ。こっちに引っ越してきた時に買ったから、五年か六年くらい」
「どちらで買われたか、憶えていますか?」
「ショッピングモールです。駅と駅の間にあるところ。あそこにも、寝具店が入ってるでしょ」
「ああっ、はい、ありますね」エプロンのポケットからメモ帳を出し、お客さまの情報として、メモしておく。
「合わなくなってきたせいか、肩こりが酷くなって、頭痛がするようになったんですよね。もともと肩こりはあったんですけど、起きた瞬間にもう痛い」話しながら首をまわし、肩の辺りを触る。「そのせいか、睡眠も浅くて、よく眠れないんです」
「……そうですか」
「枕って、普通はどれくらいで買い替えるものなんですか?」
「枕の寿命は、三年と言われています」人差し指と中指と薬指を立てて、三と示す。「どんなに高価なものでも、三年が限度です。中の素材が何であっても、ほぼ毎日使うものなので、潰れてしまいます。すぐに潰れてしまうものや何年も潰れないものは、合っていない可能性が高いです」
「ええっ! 今の枕、少し前までは、全然問題なく使えてましたよ」
 だから、それは、合っていないからだ。
 首が細いから、中の素材は柔らかいものの方がいい。羽毛や綿は柔らかすぎるとしても、柔らかくて弾力のあるようなビーズの入ったものがオススメだ。顔も小さいので、硬いビーズだと、頭が沈みこむこともない。レンガブロックに頭を載せたような状態になる。枕に置いただけでしかない頭を首や肩で支えることになり、肩こりや頭痛が起こる。中のビーズにはほとんど力がかからないため、潰れることはない。柔らかくなったのであれば、経年によって劣化してきているだけだろう。
「これより、もう一段階、硬いものもありますよね?」
「お客さまには、最初に試していただいたものがオススメですよ」
「えっ! そうなんですか?」
「はい、もう一度寝てみてもらえますか?」
 最初に寝てもらった枕をまた置き、不織布をかける。
「これだと、やっぱり柔らかいんですよね」そう言いながら、お客さまは寝返りを打つ。
「交換しますね」起き上がってもらい、硬いものを置く。
「こっちの方がいいです」仰向けになる。「これでも、まだ柔らかい」
「そのままでいてくださいね」
 ベッドから少し離れて、寝姿勢を見る。
 首はまっすぐだし、悪くないように見えるが、肩が少しだけ浮いている。首から背中にかけて力を入れ、枕に姿勢を合わせている状態だ。
 一晩、この姿勢がつづけば、肩を痛めてしまう。
「もういいです」お客さまは起き上がり、髪を軽く整えてから、カゴに入れたバッグとスマホを持ち、立ち上がる。
「えっ?」
「前に買ったお店に行ってみます。向こうの店員さんは、わたしの欲しいものをすぐに出してくれたから」
「……あの、えっと」
「毎日使うものだから、デパートでいいものを買いたかったんですけど」
 そう言いながら、お客さまは店から出ていき、エスカレーターの方へ歩いていく。
「ありがとうございました」店の敷地内ギリギリのところに立ち、後ろ姿に向かって、頭を下げる。
 ベッドに戻り、忘れ物がないか確認して、試してもらった枕を棚に並べ直し、使った不織布をレジカウンターの奥に置いたゴミ箱に捨てる。
「売れなかったね」店長が横に立つ。
 店長はわたしより身長が十センチくらい低いため、見下ろす格好になる。
 ショートカットで、ほとんど化粧をしていなくて、子供みたいに見えるが、年齢は七歳上だ。高校一年生から小学校一年生まで、五人の子供がいる。
「すみませんでした」
「次、がんばって」
「はい」
 お客さまの希望通り、硬い枕を出していれば、売れたのかもしれない。
 しかし、それでは、眠れない夜がつづくだろう。

 デパートの営業時間は十時から二十時までで、遅番の日は帰りが二十一時近くなる。
 マンションに帰ったら、手洗いうがいをして、なおの写真に手を合わせ、今日起きたことを報告する。
 遺影や位牌は、直樹の実家にある。
 婚約者でしかないわたしには、それらを持つ権利はなかった。代わりに、ふたりで大阪のテーマパークに旅行した時にわたしが撮った写真を印刷して、シンプルな木のフレームの写真立てに入れ、リビングの本棚の上に置いている。直樹ひとりの写真だけではなくて、ふたりで写っているものも並べようかと思ったが、あれもこれもと過去の写真を見るうちに何もできなくなり、一枚にしておいた。
 十月も後半なのに暑い日がつづいていること、休憩室で消費期限間近の和菓子が従業員価格で売られていたこと、職場には慣れたもののなかなか売れないこと。直樹に話したらどう返してくれるのか、想像しなくても聞こえてくる。どんな時でも「は無理しないでいいから、好きなことしていいんだよ」と、言ってくれた。
 バッグから、豆大福と草餅を出し、豆大福を「こっちがいいでしょ」と聞いて、直樹の写真の前に置く。
 ふたりで暮らしていたマンションに住みつづけているため、部屋は広くて、1LDKある。台所のガスコンロは三口で、前は平日は必ず料理をしていた。土日も、どこにも出かけない日は、朝昼夜と作っていた。ひとりだし、時間も遅いので、冷凍のごはんをレンジで温めて、スープの素を使った簡単雑炊で済ませてしまう。昨日作った根菜の煮物も温め直せば、充分だ。
 リビングのテーブルに並べ、テレビをつけ、配信されているドラマを見ながら食べる。
 いないとわかっていても、直樹が「ながら食べしないで、ダイニングで食べなよ」とか「ドラマ、おもしろい?」とか「充分じゃないよ、タンパク質足りないんじゃない」とか話しかけてくる声が聞こえてくる。一緒にいた時は、わたしの方がよく喋っていた。いなくなってから、直樹はうるさいくらいに喋るようになった。声のする方を向いたり、返事をしたりしてはいけない。そうした瞬間、全てが消えてしまう。
 食べ終えたお皿を片づけたら、お茶をれる。
 緑茶にしたかったが、ノンカフェインのコーン茶にした。
 テレビの前に戻り、ドラマのつづきを見て草餅を食べながら、ゆっくりとコーン茶を飲む。
 その間も、直樹の声は聞こえつづける。
 心の中で「豆大福は、明日のお昼に食べてね」とだけ返す。

 休憩室は、地下二階にある。
 だが、実際には、地下三階だ。地下一階の食料品売場と地下二階の休憩室の間に、限られた人しか入れないフロアがある。従業員エレベーターでも、その階のボタンには何も書かれていない。
 県の中心部にあるような大きなデパートだと、フロアごとに休憩室があったり、従業員専用の食堂があったりするらしい。この辺りは、田舎というほどではないが、都会とも言えない。JRの他に私鉄が二路線走り、駅前には大きなバスターミナルがある。中心部に働きに出る人たちのベッドタウンというところだ。もともと駅の周りにはいくつかのデパートがあったのだけれど、今は家電量販店や十代後半から二十代前半向けのファッションビルになった。ここも、デパートとして残っているものの、百円ショップやフードコートも入っている。
 お昼時の休憩室は混み合う。
 レストランフロアやフードコートで食べたり、外に出たりする人もいるのだけれど、ほとんどの従業員がここで休憩時間を過ごす。コンビニで買ってきたものや自分で作ってきたお弁当を食べている人が多い。
 昭和後期に建てられ、築五十年以上が経つ。全体的に天井が低いのだが、他のフロアよりさらに低い気がする。
 白い大きなテーブルと椅子が並び、壁沿いには飲み物や軽食を買える自動販売機が並んでいる。
 奥の席があいていたため、そこに座り、バッグからお弁当箱を出す。できるだけ、お弁当を作ってくるようにしている。二段のお弁当箱で、下にごはんを詰め、上に卵焼きと作り置きの煮物とメインになる肉か魚のおかずを詰める。自分で食べるだけだから、凝ったものにする必要はない。
 天井から吊るされたテレビでは、情報番組が放送されていた。秋の行楽シーズンに行きたい場所の特集をしている。
 この街からは海も山も近くて、電車で数駅で行ける。車だと、十分くらいだ。直樹がいたころは、土日ばかりではなくて、平日の夜に海沿いのレストランに夕ごはんを食べにいくこともあった。将来、子育てするにも環境がいいし、この辺りにずっと住みつづけようとよく話した。
「隣、いい?」
 声をかけられて顔を上げると、ちゃんがいた。
 璃子ちゃんは、二階にある宝飾ブランドに勤めている。化粧品売場の一階と有名ブランドの並ぶ二階は、昔ながらのデパートというか、百貨店の雰囲気が残っている。
「どうぞ」
「どこか行くの?」テレビの方を見ながら、璃子ちゃんはコンビニで買ってきたサンドイッチや野菜ジュースを袋から出していく。
「行かない」卵焼きを食べつつ、首を横に振る。
 子供のころは、甘い卵焼きが好きだった。直樹に「しょっぱい方がいい」と言われて変えてから、そのままだ。
「近くても、なかなか行かないよね」
「うん」
「お金もないし」
「コンビニで買うからだよ」
「いや、でも、自分でサンドイッチ作るとしたら、結構お金かかるでしょ。何種類も作れないし」
「常に自炊してたら、そうでもないよ」
「自炊だって、ひとり暮らしだと、食材あまったりしちゃうじゃん」
「大量に作ると、何日も同じもの食べることになるしね」
 デパートで働く従業員は、大きくふたつにわかれる。デパートに直接雇われている従業員と各店舗やブランドに雇われている従業員だ。直接雇われている人たちは、靴売場やバッグ売場という複数のブランドが集まる中で案内やレジ係をする他、インフォメーションに入ったり、デパートの裏側で事務や広報などの仕事をしている。以前は、直接雇われている人が多かったみたいだ。けれど、何度か改装するうちに、売場がブランドごとに細分化されていった。今は、各ブランドに雇われている人が多くなった。
 わたしは、四階の寝具店にパートとして雇われている。璃子ちゃんは、宝飾ブランドの契約社員だ。どの店舗も、正社員はひとりかふたりしかいない。パートや契約社員や派遣社員がほとんどで、女性ばかりだ。雇用形態は違っても、県の最低賃金程度の時給が基本で、給料はあまり変わらなかった。派遣社員は時給は高くても、交通費が出なかったりするらしい。三十代から四十代の主婦らしき人たち、五十代から六十代のベテランの人たち、あらゆる年齢層がいる中で、二十代は少ない。
 休憩室の隅でひとりで過ごしていたら、璃子ちゃんから話しかけてくれた。璃子ちゃんは、わたしよりも三歳下だけれども、ここでは同世代に入るだろう。
 話すようになって、まだ日が浅いため、会うたびに「お金、ないよね」とか「毎日、暑いね」とか、当たり障りのない会話を繰り返している。
 お弁当を食べ終えて、昨日買った豆大福を出す。
「今日、フィナンシェとかの洋菓子じゃなかった?」璃子ちゃんが聞いてくる。
 休憩室の入口の辺りでは、お昼の時間帯だけ、お弁当を売っている。その横で、日によって、食料品売場では出せなくなった和菓子や洋菓子が売られる。保険の勧誘や宝石のついたアクセサリーを売る人が立つこともあった。休憩時間に宝石を買う人なんていないと思うが、月に何度か来るようだ。
「昨日の。消費期限、今日の夜までだから」
「やせてるから、好きに食べれていいよね」
「璃子ちゃんの方がやせてるじゃん」
 宝飾ブランドの規則で、璃子ちゃんはヒールが五センチあるパンプスを履いている。脱げば、わたしと身長は同じくらいで、百六十センチあるかないかというところだろう。誰がどう見ても、璃子ちゃんの方が細い。
「そんなことないよ。もっとやせたい」
「ええっ、身体に良くないよ」
「だって、やっぱり、小さくて細くて、特技は料理みたいな子がもてるじゃん」
「璃子ちゃん、顔もキレイだし、もてるでしょ?」豆大福を食べる。
「顔は化粧だから。それに、もう二十代後半になっちゃったし、厳しいよ」
「……そうなの?」
「相手が誰でもいいっていうわけじゃないし」
「うーん」
「男女平等とかフェミニズムとか言われるけど、そんなのは都会の人たちだけの話っていう気がする。お金持ってる男の人と結婚できなかったら、ずっとデパートで働くことになるよ」
「そうなのかなあ」
さわむらさん、来年で三十歳になるんだから、ぼんやりしてない方がいいよ」
 お互いにタメ口で話しているけれども、わたしは「下の名前で呼ばれることが好きじゃない」と伝え、苗字で呼んでもらっている。
「ぼんやりしてるわけでもないけど……」
「彼氏いるの? とか、わたしからは聞かないけどねっ! マナーらしいからっ!」
野菜ジュースを飲み、璃子ちゃんが力強く言ったため、わたしは笑ってしまう。
クレームを避けるため、お客さまとの距離に気を付けるように、どの店舗も言われている。プレゼントを買いにきた方などの相談に乗る中で、思わず個人的なことを聞いてしまうことがある。デパートの本部からは、従業員同士でもお互いの個人的なことを話す時には注意するようにと言われた。こちらは、コンプライアンス対策でもあるらしい。
「せめて、健康的にやせるように、やっぱり自炊じゃない? モテにもつながるよ」
「大丈夫、料理しようと思えば、できるから」
「本当かな?」
「個人的なこと聞かないでください」そう言いながら、璃子ちゃんは目をらす。
「そうだね」
 ふたりで、笑い合う。
 テレビでは、情報番組の中の三分ぐらいのコーナーとして、ニュースが放送されている。
 高速で事故があり、渋滞が起きているらしい。
 急に寒くなった気がしたが、冷房の風が当たるからだろう。

 レジカウンターに入り、個人の引き出しからノートを出す。
 他の店舗よりも、カウンター内は少し広くなっている。売上や在庫や顧客のデータを管理するパソコンがあり、寝具のカタログが並び、包装紙や袋が棚に入っていて、作業台もある。パートそれぞれでお客さまの情報を管理するために、書類ケースの引き出しをひとり一段使えるようになっている。上から入社した順になっていて、まだ半年しか経っていないわたしは、一番下だ。
 作業台の前に立ち、メモ帳に書いておいた、休憩前に来たお客さまの情報をノートに清書する。
 購入してもらえなかったお客さまがまた来てくれることもあるし、枕を買ったお客さまが他の寝具も買いたいと来ることもある。その時に憶えておいた方がいい情報や見た目の特徴を書いておく。
 デパートは駅前にあり、平日の昼間でもお客さんはいる。混み合うというほどではないけれど、閑散とすることもない。年配の女性が多いが、百円ショップ以外にも、若い人向けの雑貨屋とかが入っているため、高校生や大学生くらいの人もいる。しかし、寝具店に入ってくるお客さんは、なかなかいない。入ってきたとしても、タオルやパジャマを少し見るだけで、出ていってしまう。
 あいた時間には、お客さまの情報を整理したり、寝具の勉強をしたりする。
「沢村さん、中学や高校の時に成績良かったでしょ」店長がノートをのぞきこんでくる。
「普通ですよ」
「ノート、キレイにまとめてるじゃん」
「ノートをキレイにまとめられることと勉強ができることは、意外なほどに別問題です」
「そうかな?」
「本当にできる人は、ノートには必要最低限の情報だけしか書かないらしいです。細かく書かなくても、憶えられる」
 直樹は、そういうタイプだった。
 大学生の時、必死でノートを取っているわたしを横から見て、笑っていた。一緒に暮らすようになってからも、わたしが冷蔵庫に誰かに電話するとかクーポンの使用期限とかメモを貼っていると、「これくらい、憶えられるでしょ」と言って笑った。「忘れてしまうかもしれないから」と返した時、直樹はなんと言ったのだろう。思い出そうとしても、笑った顔がぼやけていくだけだった。
 ずっと憶えていられると思っていたのに、驚くほどの速さで、全ては過去になっていってしまう。部屋にいる時、常に話しかけられているように感じながらも、声はもう憶えていないのだ。動画で確かめてみても、それは知らない誰かのようだった。
「でも、これだけ、キレイに書いていれば、何年か経った後に見ても、思い出せるし」
「日記とか、細かくつけていれば、よかったんですかね」
「ん?」
 店長は、わたしの顔を見上げてくる。
 周りの空気がゆがみ、自分がどこに立っているのか、わからなくなる。
 寝具店でパート中と思い出し、大きく息を吸い、静かに吐く。
「大丈夫?」店長が聞いてくる。
「大丈夫です」
「無理しないでいいから」
「はい」
 面接よりも前、わたしは客として、ここに来て店長に接客してもらった。
 その時、眠れない理由として、直樹のことを話した。
 デパートで働く人の中で、店長だけがわたしの過去を知っている。
「あっ、お客さん。行ける?」
「はい」
 ノートを引き出しに戻し、レジカウンターから出る。
 店を正面から見て、右手に枕の並ぶ棚があり、その奥に枕や他の寝具を試せるベッドが三台並んでいる。壁一枚隔てた裏側は倉庫になっていて、枕の在庫の他に、従業員の私物用のロッカーと小さな冷蔵庫がある。掛け布団や敷き布団の在庫を置く倉庫は、デパートのバックヤードに借りている。左手は入口の辺りにタオルやパジャマなどが並び、羽毛布団や敷き寝具の見本が置いてあり、一番奥がレジカウンターになっている。
 お客さまは、年配のご夫婦で、枕を見ていた。
定年退職して、夫婦ふたりで老後を過ごしているというところだろう。決して派手ではないけれども、ふたりとも質の良い服を着ている。海や山の方まで行くと、高級住宅街と呼ばれる地域もあるので、その辺りに住んでいる方かもしれない。ご主人が「これがいいんじゃないか」といくつかの枕に触り、奥さまは迷っているような顔で首をかしげる。
「いらっしゃいませ」おふたりの視界に入るところに立ち、声をかける。「よろしければ、奥のベッドでお試しいただくこともできますよ」
「いや、どういうのがいいかなんて、触ればわかるから」ご主人が言う。「こういう硬いやつがいいんだよ。できれば、そば殻がいいんだけど、扱ってないの?」
「そば殻のものは、今は扱っているお店が減ってしまいましたね。当店でも、扱いはないんです。代わりに、似たような感触のビーズを使ったものがございます」
 高齢の方は、そば殻の枕を好むようで、聞かれることは多い。だが、そば殻の枕を扱うことは、今後も絶対にない。天然の素材なので、虫が湧くことがあるのだ。完璧に除去するのは難しいし、防虫加工をしても必ず防げるわけではない。在庫管理やクレームが出た場合の対応も大変なので、扱わない寝具店が増えてきている。あるとすれば、街中にあるような昔からの布団屋さんかネットかどちらかだ。
 この辺りだと、駅の反対側に布団屋さんがあるけれど、扱いがあるかはわからない。あったとしても、それを教えることはできなかった。オーダーメイドで枕が作れたり海外製品を扱っていたり、寝具を扱う会社はいくつかある。他社の商品についても勉強しているが、お客さまの前では知らないかのような顔をして、自社製品をすすめる。
「これじゃあ、違うんだよな。やっぱり、そば殻には、天然のものの良さがあるんだよ」
「そうですね」
「でも、この中だったら、これが一番硬いのかな」
「枕を使われるのは、ご主人さまですか?」
「いえ、私なんです」小さな声で、奥さまが言う。
「奥さまでしたら、柔らかい素材のものがオススメですよ」
「……そうなんですか?」少し驚いたような顔で、奥さまはわたしを見る。
「はい、たとえば、こちらなど」
 二層になっていて、上半分が綿で下半分に柔らかめのビーズが入っている枕を案内する。奥さまは、首が細くて、肩回りの肉も薄くなってきている。硬いものよりも柔らかい素材の枕の方が首への負担が少なくていい。綿の枕は、どうしても潰れやすいのだけれども、下半分がビーズになっているため、支える力もちゃんとある。綿やビーズの量を自分で調整して、高さを変更できるようになっている。潰れた場合、中の素材だけを購入することもできるので、長く使えるものだ。
「こんなん、駄目だよ」手を伸ばしてきて、奥さまよりも先にご主人が枕に触る。「枕はね、硬いものがいいの。それで、しっかり頭を支えて寝る。そういうもんなんだよ。あんた、まだ若いから、わかってないんだろ」
「……はい」
 どう返したらいいのかわからなくなり、小さな声で返事をして、うなずいてしまう。そんなことはないと言いたくても、お客さま相手に言い返してはいけない。
「ごめんなさいね」奥さまがわたしに言う。「今日は、いいわ。また寄らせてもらいます」
「昔の寝具売場の店員だったら、こんな知識のない若い女の子なんて、いなかったんだけどな」店から出ようとしている奥さまを気にせず、ご主人は喋りつづける。「若い女の子はいたよ。高校卒業してデパートに就職して、みんながんばっていた。ここも、外商をなくしたり、安っぽくなる一方だ」
「あなた、もういいから、出ましょう」
 奥さまに背中を軽く押され、やっとご主人は黙る。
 そのまま店から出ていき、奥さまだけがこちらを振り返り、小さく頭を下げる。
「ありがとうございました」おふたりに向けて、頭を下げる。
 棚に並ぶ枕の位置を整えてから、レジカウンターに戻る。
「売れませんでした」言われる前に、自分から先に言う。
「大丈夫だよ」店長は、お客さまの帰っていった方を見ている。
 すでに、他の店に入ったのか別のフロアに行ったのか、後ろ姿は見えなくなっていた。
「いや、でも、クレームになるかもしれなくて……」
「まあ、ああいう人は、よくいるから」
「硬い枕神話って、なんなんでしょうね? 高齢の方ばかりではなくて若いお客さまでも、硬い枕がいいって信じてる人、多すぎません?」
「そば殻だろうね。若い人でも、子供のころに実家で使ってたとかおばあちゃんの家で使ってたとか」
「虫湧くかもしれないのに……」
「とりあえず、さっきのお客さまの情報はノートに残しておきなよ。記録があれば、もしもまた来た場合に沢村さんが休みの日でも、売上につけてあげるから」
「……はい」ご主人を怒らせてしまったし、また来てくださることはないだろう。
 それでも、一応、ノートに書いておく。
 売上に対して、給料とは別に報奨金が出る。
 ここで働くパートは、わたし以外は四十代や五十代のベテランのお姉さんばかりだ。店長が最年少だったところに、二十代のわたしが入った。お姉さんたちは、ちょっと見にきただけでしかなかったお客さまにも見事に売り、報奨金を稼いでいる。話を聞き、勉強するようにしているけれど、そのコツが全くわからない。
 報奨金を狙うよりも、まずは給料分の仕事ができるようにならなくてはいけない。

 パートは週五勤務が基本で、月に二十二日か二十三日働く。
 忙しい時期は、もう少し多めに働くけれど、休みはしっかり取れて、残業するようなこともほとんどない。
 家賃や光熱費を払い、どうにか生活していけるだけの給料はもらえている。
 しかし、できれば、もっと働きたい。
 お金の問題もあるけれど、それよりも何よりも、暇なのだ。
 休みがあっても、やることがない。
 洗濯をして、部屋の掃除をして、スーパーに買い物に行って、煮たり炒めたり漬けたりしたものを冷蔵庫や冷凍庫に入れ、ぼんやりテレビを見ながら、お昼ごはんを食べる。
そのまま、夕方まで、ソファに座って配信のドラマやアニメを見るうちに、一日が終わっていってしまう。
 少しだけ開けた窓から、冷たい風が吹いてくる。
 日が短くなってきていて、空はほんの数分のうちに紫から藍へと色を変えていく。
 長かった夏が終わり、やっと涼しくなってきた。
 テレビではドラマを流したままにして、テーブルに置いたスマホを取る。
 出かけようと思っても、友達とは休みが合わない。ひとりでどこか行くとしても、映画くらいだ。だが、もともと映画やドラマやアニメが好きなわけではない。他にやることがないから、見ているだけだ。サービスデーであっても、映画一本に千円以上払うことになる。お金に困ることはなくても、毎月どうにかなったと胸をでおろすような生活をしていて、余裕があるわけではない。もったいないとしか思えなくて、なかなか行く気にならなかった。
 単発のバイトでもしてみようかと思い、スマホで検索してみるものの、この辺りだと居酒屋のヘルプや倉庫内作業が多い。
 大学生の時は、書店でバイトをしていた他に、サークルの友達と一日だけのイベント設営とか夏休み期間だけの催事のスタッフとかもしたことがあった。卒業してからは、ずっと派遣で事務の仕事をしていた。直樹がいなくなり、しばらく休んだ後で、デパートの寝具店でパートをはじめた。
 友達と一緒だったし、まだ学生だったから、気軽に単発のバイトもできたけれど、今は難しい気がする。SNSで調べてみると、性別や年齢はあまり関係ないようだ。確かに、イベント設営や催事のスタッフをした時も、男女いて年齢層も幅広かった。仕事はたくさんあり、それぞれに合った場所に割り振られた。わたしが行っても、違和感はないだろう。けれど、知らない人ばかりのところにひとりで行ける気がしない。居酒屋のヘルプなんて経験もないし、迷惑をかけるだけだ。シール貼りとか、倉庫内の軽作業であれば大丈夫そうだ。でも、考えるうちに気が重くなっていく。
 スマホを裏返してテーブルに置き、テレビを消す。
 直樹が隣にいて「依里にはオレがいるから、大丈夫だよ」と言ってくれる声が聞こえてくるけれど、そこには誰もいない。
 寝室に行って、ベッドに横になる。
 少しだけ、眠ろう。
 ベッドフレームは、ずっと同じものを使っていて、サイズはセミダブルだ。焦げ茶色で、下に物が収納できるようになっている。ふたりで寝るには狭かったけれど、ダブルを置けるほどには部屋が広くないと考えていた。しかし、寝具店で働くようになり、セミダブルは大きめのシングルと考えた方がいいもので、ふたりで毎日寝るようなサイズではないことを知った。ダブルをすごく大きいと考えていたものの、セミダブルよりも二十センチ大きいだけだ。ベッドサイドの棚の位置を少しずらせば、充分に置けた。でも、たとえ二十センチ分広くなったとしても、窮屈なことに変わりはなかったかもしれない。
 みんなの前での直樹は、明るくてリーダーシップがあり、しっかりした強い人に見えた。わたしとふたりだけの時も、その印象が大きく変わったわけではない。けれど、弱いところもある人で、寂しがり屋だった。実家にいたころは、幼稚園の時にお母さんからプレゼントしてもらった黄色いゴールデンレトリバーのぬいぐるみを抱きしめて寝ていたらしい。大人になってからは、わたしに抱きついて寝ていた。夏でも、ぴったりくっついていた。身長は百七十センチに数ミリ足りなくて、太っていたわけではないし、日本人男性の平均より少し小柄というくらいだった。それでも、代謝がいいのか、直樹はよく汗をかいた。寒いほどに冷房をつけるため、くっついてくれて、わたしはちょうどよかった。
 ひとりでセミダブルのベッドは、広い。
 その広さになかなか慣れず、端っこの方で丸くなり、眠れない日々を過ごした。
 心療内科で処方してもらった睡眠導入剤は効かず、頭がぼうっとするばかりだった。睡眠の環境を変えたいと考えていたわけでもなかったが、何かに引っ張られるようにして、デパートの寝具店に入った。
 そこで、店長に話を聞き、自分に合った枕ばかりではなくて、身体に合ったマットレスから羊の毛皮でできたムートンシーツまで、一式買ってしまった。ローンも使えると言われたけれど、一括で払った。ずっと使っていたスプリングの入った硬めのマットレスは、新しいものを持ってきた業者さんが回収していった。寝心地は最高に良くて、眠れるようになった。
 そして、貯金が一気に減ってしまい、落ち込んでいる場合ではないと、目を覚ました。
 働こうと決めて、求人サイトを見たところ、一式買った寝具店でパートを募集していた。
 マンションの部屋は四階で、駅から離れた住宅街にあり、周りに高い建物はない。窓の外は、すっかり暗くなって、部屋の中まで夜に包まれていく。眠るにはまだ時間が早いため、横になっていても、なかなか眠りに落ちることはない。
 それでも、ムートンの上にいると、少しずつ気持ちが落ち着いていく。

 平日のデパートは、朝の開店時間と同時に、最初のピークを迎える。
 急ぎの用がある方ばかりではなくて、デパートには開店と同時に入るとルールのようになっている方も少なくはないようだ。一階の正面口かJRの駅の改札から通路で繫がっている二階入口から入ってきたお客さまは、エスカレーターやエレベーターを使い、目的のフロアへと向かっていく。年配の女性ばかりで、派手にならない程度のお洒落をしていた。開店から三分間はデパート全体に小さな音で音楽が流れている。その間、従業員は各店舗や売場の前に立って「いらっしゃいませ」と頭を下げ、お客さまを迎え入れる。音楽が消えたら、それぞれの持ち場へと戻っていい。
 朝一に寝具店に来るお客さまはあまりいない。レジ回りの準備や掃除は開店前に終わっているので、タオルやパジャマなどのレイアウトを変えたり、倉庫の在庫を確認したり、入荷した商品の整理をしたり、忙しい時にはできないことを終えていく。
「いらっしゃいませ」パソコンで、商品の発注をしていた店長が声を上げる。
「いらっしゃいませ」わたしもタオルを並べ替えていた手を止めて、枕の棚の方を見る。
 そこには、先日の奥さまがひとりで立ち、店内を見回していた。
「いらっしゃいませ」もう一度言い、タオルを置いて、奥さまの正面に立つ。
「ああ、この前の店員さん、いらっしゃった」奥さまは、安心したような顔で、わたしを見る。
「今日は、おひとりですか?」
「そうなの。今日、主人は昔の知り合いと朝から会っていて、そのすきにひとりで来ちゃった」いたずらをした子供のように、笑いながら話す。
 前に来た時は、静かにご主人の後ろに隠れている印象だったけれども、今日はひとりでいることを楽しんでいるのか、明るい空気に包まれているように見えた。
「枕をね、試させてもらいたいの」
「あっ、はい」
「この前、わたしには柔らかいものの方がいいって、おっしゃっていたでしょ。ずっと主人に言われるまま、硬い枕を使っていたけれど、どうも合わない気がして。若いうちは、良かったのよ。でもね、この年になると、それが本当に辛くて」
「どうぞ、奥さま、こちらにおかけください」奥のベッドにご案内する。
「今日はひとりだから、奥さまなんて呼ばないで」
「すみません、失礼いたしました」
じまです。あなたは?」
「沢村と申します」胸の名札を田島さまに見えるようにする。
「沢村さんね、よろしく」
「よろしくお願いします」頭を下げる。「今、いくつか枕をお持ちしますので、こちらでお待ちください」
「はい、お願いします」田島さまは、カゴにバッグを置き、そっとベッドに座る。
 足腰はしっかりしているし、喋り方もはっきりしている。まだお年寄りというほどではない。七十代の半ばから後半くらいだろう。平均寿命は、男女ともに八十歳を超えている。九十歳や百歳まで生きる方も、たくさんいる。身体を痛めず、健康に長く生きるためにも、寝具は大事になる。
 枕の棚の前に立ち、前に来た時にオススメした綿とビーズのものの他に、綿だけのものと柔らかいビーズだけのものを持ち、ベッドに戻る。素材だけではなくて、形も違い、値段も違う。
「お待たせしました」隣のあいているベッドに枕を置き、田島さまの前にひざまずく。「まずは、こちらの枕で寝てみてください」
 前にオススメした枕をベッドに置き、不織布をかける。
「こうで、いいのかしら?」靴を脱いでベッドに上がり、田島さまはゆっくりと横になる。
「もう少し上ですね、枕に首まで載せるようにしてください」
「あら、そうなの?」
「枕は頭を載せるものとお考えの方がいらっしゃるのですが、大事なのは首になります。頭って、すごく重くて、ボウリング球くらいあるんです。寝ている間は、それを一日中支えていた首を枕で休ませてあげてください」
「私の頭なんて、何も入っていなくて空っぽなのにね。よく主人にからかわれるのよ」笑いながら言い、首の位置を枕に合わせる。「こうで、いいのかしら?」
「はい、大丈夫です。そのままでいてくださいね」
 少し離れて、寝姿勢を見る。
 横から見た感じとして、顎が上がっている。ビーズを抜いて首元を少し低くした方がよさそうだ。沈み具合はいいので、中の素材は問題ない。しかし、これは、思ったよりも合っていないだろう。枕の形が、田島さまの頭の形に合っていない。縫い目が入っていて、頭の形がしっかりと決まっているものだから、合う人には合うのだけれど、合わない人には合わない。田島さまは頭が小さいので、その縫い目に頭が載り切らなくて、後頭部が浮いてしまっている。
「寝心地、いかがですか?」本人にも確認をする。
「柔らかさはいいです。とても楽。でも、ちょっと落ち着かない感じがするわね。慣れてないからかしら」
「一度、起き上がってもらえますか? 枕を交換しますね」
 田島さまに身体を起こしてもらい、ビーズだけのものと交換して、不織布をかける。こちらは中に仕切りはあるものの、最初のものほど頭の形がはっきりとは決まっていない。
「どうぞ、寝てみてください」
「あら、こっちの方がいいかも」田島さまは寝てみて、すぐに言う。
「そうですね。先ほどのものよりも、こちらの方が田島さまの頭の形に合っています。この布の下から、頭を触らせてもらっても、よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「さっきの枕だと、この辺りが浮いてしまうんですね」耳の後ろ辺りを触る。「そうすると、後頭部の一番出っ張っているところで、頭を支えることになります。寝ている間、その一点に力がかかるため、頭痛や肩こりを起こす方もいらっしゃいます」
「寝具で肩こりや頭痛が治るのかしら? 若いころからずっとで、はりやマッサージに行っても、良くならないのよ」
「頭痛も肩こりも、理由は様々ですが、寝具を替えることで楽になったという方はいらっしゃいます」
 医者ではないため「治る」とは言ってはいけない。これは、法律で決まっていることだ。医師法第十七条に「医師でなければ、医業をなしてはならない」と定められている。寝具にできることは、あくまでもお客さまの睡眠環境を快適にする程度のことであり、病気を治したり姿勢を正したりすることはできない。
「結婚してから五十年、主人に言われるままで、寝具が自分に合うか合わないかなんて、考えたこともなかったの。未だにね、夫婦で一緒に寝ているのだけど、マットレスも合っていないのかしら。これ、すごく楽」
 起き上がって、田島さまはマットレスに触り、柔らかさを確かめる。
 三台のベッドには、硬さの違うマットレスが置かれていて、これは一番柔らかいものだ。
「枕と同じで、マットレスもお身体に合うものと合わないものがあります」
「そうなのね」
「よろしければ、他のマットレスもお試しになられますか?」
「いいわ」田島さまは、首を横に振る。「マットレスは、さすがにこっそり買えないから、やめておく。他を試したら、欲しくなっちゃう。今日は、枕だけ、いただいていきます。これがいいかしらね?」
「もうひとつ、素材のさらに柔らかいものと比較させてもらっても、よろしいでしょうか?」
 用意していたものから、綿だけのものを置き、寝てもらう。
 しかし、綿だけだと、やはり柔らかすぎるようだ。頭も首も沈みきってしまう。二番目のビーズだけのものに決め、高さの調整方法やお手入れ方法やビーズだけを買い足せることなどを説明して、最後に「衛生用品なので、返品や交換はできません」とお伝えして、購入の意思を確かめる。
「こちらで、お願いします」わたしの目を見て、田島さまは言う。
「ありがとうございます。ただいま、新しいものを準備いたしますので、お待ちください」
 倉庫から、新しいものを持ってくる。専用の袋に入っているため、中身を田島さまに確認してもらい、レジにご案内する。
 田島さまは、デパートの特別な会員の方だけのカードをお持ちだったので、そちらから会計を済ませる。
 枕の入った袋を持って、店の入口までお送りする。
「子供のものも、あるのね」田島さまは、商品の飾られた棚を見上げる。
 赤ちゃんでも安心して使える素材の毛布や小学校に上がる前の子供向けの枕も扱っている。夏は、キャラクターものの肌掛けがよく売れた。
「今度、孫のものを買いにきます」
「ぜひ、またいらっしゃってください。枕のことも、高さが合わないとかあれば、ご相談ください」
「よろしくお願いします」
「ありがとうございました」枕をお渡しして、頭を下げる。
 わたしに向かって微笑み、小さく手を振ってから、田島さまはエレベーターの方へ歩いていく。
 後ろ姿が見えなくなるまで見送る。
使った枕は、他のパートのお姉さんたちが片づけてくれていたので、レジに入る。カードの控えを引き出しの中の決められた場所へ入れていく。会員のカードを持っている方は、たまにしか来ないため、会計に間違いがなかったかも確かめておく。今でも、都内にあるこのデパートの本店には外商がいるのだけれど、支店では何年か前に廃止されたらしい。代わりというわけではないが、お得意さまは特別な会員として扱われるようになった。前に来た時、ご主人が外商について話していたし、田島さまの家には、以前は外商が出向いていたのかもしれない。
「売れたね」店長が横に立つ。
「はい! 売れました!」
「マットレスもいけたよね!」
「……ああ、はい」一気に気分が下がる。
 断られても、「試すだけでも、どうですか?」という図太さがなければ、販売の仕事はやっていけない。本社からは「枕を買ったお客さまには、必ずマットレスを試してもらい、ムートンまで寝てもらうように」としつこく言われている。
「次のお客さま、がんばって」
「はい!」

 遅番の人が出勤してきたら、早番は交替で休憩に行く。わたしはまだお腹がすいていなかったので、店長と他の人に先に行ってもらった。
 開店のピークが過ぎた後、少しだけ落ち着く時間があり、お昼ごろからまたお客さんが来る。駅の反対側の市役所や周辺の会社に勤める人たちがランチのついでに買い物に来たりもするため、慌ただしい雰囲気になる。
 グレーのスーツを着た男性が棚の前に立ち、枕を見る。
 すぐに声をかけると出ていってしまうことがあるので、レジカウンターで作業しつつ、少し様子を見る。
 棚の上に貼られた枕の説明が書かれたポスターを見上げたりパンフレットを手に取ったりしているので、ランチの後の暇つぶしではなくて、興味を持って入ってきたのだろう。
 レジカウンターから出て、お客さまの斜め後ろに立ち、お声がけする。声をかける時には、必ずお客さまの視界に入るようにする。見えないところからだと、恐怖を与えてしまう。
「いらっしゃいませ、枕をお探しですか?」
「はい、ずっと眠れなくて」そう言って、お客さまはわたしの方を見る。 
 目が合った瞬間、ふたりとも凍り付いたように黙り、動かなくなる。
 知っている人だった。
 たった一度会って、挨拶をしただけだ。
 友達ではないし、知り合いと言っていいのかも迷う。
 顔もよく憶えていないと思っていた。けれど、人間の記憶は複雑で、憶えていたいことを思い出せなくなるのに、忘れたいことは簡単に忘れさせてくれない。顔を見たら、記憶の引き出しが乱暴に開かれた。
「お久しぶりです」相手の方が先に言う。
「……」返そうと思っても、声が出なかった。
「あの、たかはしです。憶えていませんか?」
「……憶えています。お久しぶりです」どうにか出した声は、とても小さかった。
「えっと、沢村エリさんですよね?」
「エリじゃないです、ヨリって読みます」
「あっ、そうなんですね、すみません」高橋さんは、頭を下げる。
 嫌味みたいなことで、わざと間違えたのかと思ったが、そういう人ではないだろう。
 年齢は、わたしよりも二歳か三歳は上だったと思う。三十歳を過ぎているけれど、そうは見えない。色が白くて、背が高くて、爽やかな印象の人だ。見た目では性格なんてわからない。でも、前に会った時、他の人が泣いたり怒鳴ったりする中で、彼だけは何も言わずに座っていた。強い人だと感じた。誰よりも、泣いて怒鳴りたかったのは、彼のはずだ。ただ、あの時は、そんな気力もなかったのかもしれない。
「あの、偶然です」慌てたように、高橋さんは言う。「営業で、今月から、この辺りの担当になって。この近くの店舗に挨拶に行った帰りで。だから、沢村さんがここにいるって知ってたわけじゃないんです」
「大丈夫です、わざとなんて思ってません」
「……そうですよね」
「……はい」
「お元気でしたか?」落ち着いた口調になり、高橋さんはわたしを見る。
 目が合わないように、わたしは少しだけ下を向く。
「はい、なんとか。そちらは?」
「基本的には。ただ、眠れなくて、困っています」
「そうですか……」
 この人は、わたしがいることを知っても、ここで枕を見る気なのだろうか。わたしからここを出ていくことはできないから、適当に出ていってほしい。「偶然」と言いながら、本当はわたしを探し出して、ここへ来たのかと疑ってしまう。
 去年の冬、直樹は、バス事故で死んだ。
 その時、一緒に亡くなったのが高橋さんの奥さんだ。
 被害者遺族の会で会った時に挨拶だけして、今後の慰謝料などに関する連絡は、弁護士を通すことになった。個人で連絡を取り合わないように言われた。わたしは法律上、直樹とは関係がない。そのため、全ては直樹の両親が話を進め、その後どうなったのか聞いていなかった。結婚していた高橋さんは、わたしとはわけが違う。
 高橋さんのスーツのポケットで、スマホが鳴る。
「あっ、すいません。また来ます」スマホを見ながら、慌てて店から出ていく。
「……ありがとうございました」後ろ姿に向かって、頭を下げる。
 

 
■ 著者プロフィール
畑野智美(はたの・ともみ)
1979年東京都生まれ。2010年「国道沿いのファミレス」で第23回小説すばる新人賞を受賞。13年『海の見える街』、14年『南部芸能事務所』で吉川英治文学新人賞の候補となる。著書に『夏のバスプール』『タイムマシンでは、行けない明日』『ふたつの星とタイムマシン』『消えない月』『大人になったら、』『水槽の中』『神さまを待っている』『若葉荘の暮らし』『ヨルノヒカリ』など多数。

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