早苗さんの出演するコンサートの会場は、古いビルの二階にあるカフェだった。
棚にはレコードが並び、オレンジ色に近い暖かい光の照明が店全体を包みこむ。奥行があり、表から見た印象よりも、広かった。店に入ると、左手がカウンターになっていて、右手にテーブル席が並び、一段高い奥がステージになっている。三十ほどの客席は埋まっている。わたしは、入口に近いテーブル席に座らせてもらった。出演者は早苗さん以外にも、女性がひとりと男性がふたりいて、それぞれのソロ演奏の他にセッションもする。お客さんは、店の常連さんと出演者の知り合いがほとんどのようだ。早苗さんと同世代くらいに見える方が多い。お茶やお酒を飲んで軽く食事をしながら、演奏を聴く。
演奏が終わると、拍手が鳴り響いて、店内の照明が少しだけ明るくなった。
楽器を置き、四人は並んで、頭を下げる。
お客さんは改めて拍手をする。
四人がステージの片づけをはじめたので、お客さんは感想を話したり、追加のお酒を注文したりする。ここからは、通常のカフェとしての営業になるみたいだ。
「もう一杯、何か飲む?」正面に座る北斗が聞いてくる。
最初は、璃子ちゃんを誘ったのだけれども、アプリで知り合った相手とデートだというから、北斗に来てもらった。
「飲む」
「どうする? 何がいい?」
「うーん」
一杯目はアイスティーにした。演奏中にフレンチフライや生ハムサラダやたこのやわらか煮をつまみつつ、お酒にした方がよかったかもと思いながら、飲み終えてしまった。
「お酒、ちょっと飲んでみようかな」
「大丈夫?」心配そうに、北斗は言う。
「大丈夫だよ。もともと弱いわけじゃないし。もし何かあっても、北斗がマンションまで送ってくれるでしょ」
「まあ、他の男や友達に迷惑かけるよりは、いいか」
「そう」
「どうすんの?」お酒のメニューをわたしに見えるように置く。
「白ワインにする。飲めなかったら、飲んで」
「わかった」
席を立ち、北斗はカウンターに飲み物の注文に行く。
直樹がいなくなってから、お酒を飲んでいない。意識して、飲まないようにしたわけではないけれど、精神的に不安定な時は飲もうとも思えなかった。働けるぐらいに回復してからも、危ない気がした。酔ったって、性格が少し陽気になるぐらいだ。そこまで飲むより前に、眠くなったり頭が痛くなったりすることがあった。なので、もともとたくさん飲んでいたわけではない。食事に合わせ、楽しむ程度だ。飲んでも、直樹を思い出して号泣したりしないとは思うが、自信がなかった。
そのことを北斗に話したわけではないけれども、親戚の法事でも献杯のビールに口を付けただけだったから、なんとなく気づいてはいたのだろう。
「どうだった?」片づけを終えた早苗さんがわたしの横に立ち、声をかけてくる。
「素敵でした!」
「本当に?」
「はい、とっても」
お世辞や社交辞令ではなくて、早苗さんの演奏は本当に素敵だった。特にソロ演奏は素晴らしくて、聴いているうちに胸の奥から湧き上がってくるものを感じた。技術的なことはわからないけれど、わたしの好きな演奏だった。
「一緒に来ているのは、彼氏?」早苗さんは、カウンターで飲み物を待っている北斗を見る。
「弟です」
「あら、仲いいのね」
「そうですね」
子供のころは、家族で出かけることも多くて、仲が良かった。でも、十代のころは思春期で異性という恥ずかしさや遠慮もあり、必要最低限にしか話さなかった。二十代になって、直樹と北斗が一緒に出かけるようになり、姉弟の距離も縮まった。
事故の後、直樹が女性といたことを悪く言った友達もいたし、父親も「裏切られた」と言ったことがあった。北斗が何も言わないでいてくれたことに救われた。
「ちょっと他の人たちにも挨拶しないといけないから、またデパートでね」
「はい」
「またね」小さく手を振りながら、早苗さんは席を離れて、他のテーブルにいる人たちにも挨拶してまわっていく。
右手に白ワイン、左手にハイボールを持って、北斗が席に戻ってくる。
「食べ物も、追加で頼んできた」
「ありがとう」グラスを受け取る。
「乾杯」
軽くグラスを合わせて、わたしは白ワインを少し飲む。
フルーティーで、爽やかだ。
飲みやすくても、ひと口ずつゆっくり飲むようにする。
「デパートには、他にも仲良くしてる人とかいるの?」北斗は、残っていたフレンチフライを食べる。
「店長や他のパートの人たちとは、店の外で会うことはないけど、仲いいよ。別のお店には、休憩室で一緒にお昼ごはん食べるような人もいる。先月、仕事の後にカレー食べにいった」
「男?」
「違うよ、女の子だよ。北斗と同い年じゃないかな」
「ふうん」
「本社の人やエリアマネージャーの男性は厳しいし、パートっていう働き方は不安定だとは思うけど、仕事は楽しい。だから、もうしばらくはつづけたい」
「そうか」
カウンターの奥に厨房があるようで、そこから出てきた女性が焼き飯と唐揚げを運んでくる。
カフェといっても、バーに近い雰囲気だ。
お酒の種類が豊富で、食べ物もお酒に合うものが揃っている。唐揚げを頼んだのであれば、わたしもハイボールにすればよかった。
「生活に困ったら、言って」唐揚げを食べて、北斗はハイボールを飲む。「実家に帰る引っ越しの手伝いぐらいはするから」
「わかった」
働いていなかった間に、貯金はほとんど使ってしまった。直樹のお母さんからもらった百万円は、寝具一式に換わった。パートをはじめてからは、ほとんど貯金できていない。ただ、わたしには、結婚式をキャンセルして戻ってきたお金がまだある。これは、直樹ひとりではなくて、ふたりで貯めたお金だ。共用ではあっても、わたしの名前で口座を作っていた。相続について確認したところ、直樹の両親から「依里さんの好きにしていい」と言われた。怒りながら百万円渡してきたくらいなのだから、できるだけ揉めたくなかったのだろう。
婚約指輪は、どうすればいいのかわからないまま、クローゼットの棚の上に黄色いゴールデンレトリバーのぬいぐるみと一緒に置いてある。
そのお金を使ったり指輪を売ったりする気もないけれども、いざという時にはあれがあると、たまに考えはする。
SNSか何かで「婚約指輪が給料三ヵ月分というのは、夫が急に亡くなった場合に、妻がそれを売って暮らすため」と読んだことがあった。だが、はじまりは戦後の日本で婚約指輪の文化を広めるために、ダイヤモンドの会社が考えたプロモーションだったようだ。当時の月収とダイヤモンドの価格から「三ヵ月分」となっただけなのだろう。
「他は? 何か変わったことないの?」北斗が聞いてくる。
「特にないよ」生ハムを食べて、白ワインを飲む。
「前に動物園行った時、向こうの旦那さんが来たって話してたじゃん。その後、何もない?」
「ああ、ない、ない」わたしは首を横に振り、立てかけてあるメニューを取る。
高橋さんと会っていることは、両親にも北斗にも知らせない方がいい気がして、お正月に実家に帰った時も話さなかった。
「大丈夫そうだし、わたしもハイボール飲みたいな」
「白ワイン、残りもらおうか」
「お願い」ワイングラスを北斗に渡し、席を立つ。
今月のお店は、高橋さんが決めてくれた。
海沿いの通りから、住宅街を抜けて山の方へ入り、長い階段を上がっていった先にあるイタリアンレストランだ。ランチとディナーの間は、カフェとして営業している。テラス席が人気で、外でお茶を飲んでいるお客さんもいた。だが、ガスストーブが置いてあるとはいえ、風が強かったからお店の中の席にしてもらった。
手作りスイーツが人気ということだったので、わたしは固めのプリンとホットの紅茶、高橋さんはティラミスとホットコーヒーを頼んだ。
「甘いもの、お好きですか?」プリンを食べながら、高橋さんに聞く。
「はい」ティラミスを食べ、大きくうなずく。「妻は、甘いものよりもお酒が好きな人だったので、こういう店には一緒に来てくれませんでした。ここ、ドラマで見て、ずっと気になってたから、来られてよかったです」
「そのドラマ、わたしも見てたかもしれません。何かで見たことあるお店だなって思ったので」
「男だけだと、こういう店は来ないし」
「ここは、女性のグループかデート向けというところですよね」
黄色い壁に花柄のタイルが貼ってあり、イタリアの田舎をイメージしたというかわいらしい内装だ。今、高橋さんには、こういう店に誘う女性は、わたしの他にいないのだろうか。
「井上さんは、甘いものを食べる人でしたか?」
「うーん、積極的に食べる方ではなかったけれど、食事に行った時にデザートは頼んでました」
直樹が好きな食べものは、ごはんのかたさや味噌汁の具材からスイーツやお酒まで、全て把握していた。今でも、はっきり思い出せる。けれど、それらは記憶ではなくて、記録されたことでしかない気がしてきている。実感が伴わないのだ。日本史や世界史の年号と変わらない。
カップを取り、紅茶を少し飲む。
「高橋さんは、お酒は飲むんですか?」
「飲むし、強い方ではあるんですけど、仕事の商品という感じが強いので」
「商品?」
「飲料メーカーの営業なんです。言ってませんでした?」
「営業とは聞いてました」
食品メーカーの広報にいた直樹と近い業種ということは、どこかで聞いたかもしれない。だが、それが被害者遺族の会の時のことなのか、高橋さんから聞いたことなのか、思い出せなかった。営業の仕事であることは、デパートに来た理由として前に聞いた。
「スーパーをまわって、ビールや缶チューハイを売場担当者に営業する仕事をしています」
「そうなんですね」
「営業してまわるためには、飲まないといけないので。ハラスメントみたいになってしまうから、絶対に飲まないといけないわけではないんです。でも、人にすすめるには、ある程度は知っておいた方がいい」
「営業のコツみたいなことって、ありますか? 寝具店での販売の仕事も、営業のテクニックみたいなものが必要になるので」
「コツですか」高橋さんはスプーンを置き、コーヒーを飲む。
「男性のエリアマネージャーがいるんですけど、盛り上げてお客さんが断れない雰囲気を作ればいいっていう考えなんです。でも、それは、詐欺みたいになってしまう。わたしには、できないなって思って」
「うちの会社でも、そういうタイプの人はいます。盛り上げて、接待して、特別に優遇するってあっちでもこっちでも約束して、契約を取ってくるような人。入社したばかりのころは、そうするようにって教えてくる人もいました。けど、そういうご機嫌取りみたいな営業を嫌う人も、今は多いんですよね。僕も苦手だし、無理だなって思ってました」
「はい」
「僕は、商品について勉強して、マメに店舗に顔を出して、売場の様子を見て担当者さんと話して、地道に契約を取る感じです。長い付き合いができるようにすることを心がけています。すぐに大きな結果が出なくても、少しずつ数字は積み上がっていくので」
「はい」
「ごめんなさい、参考になりませんね」わたしの顔を見て、高橋さんは恥ずかしそうに笑う。
笑うと、子供みたいな顔になる。
つられて、わたしも笑いそうになってしまった。
「いえ、参考になりました。寝具店、とにかく古いタイプの男性社員が多いんです」
「売場は、女性ばかりですよね?」
「たまに、本社や別店舗から男性が来て、偉そうにして店を荒らして帰っていくんです。自分の気に入らないパートとは、挨拶もしないような人もいます」
「沢村さんは、今のお店での仕事は長いんですか?」話しながら、高橋さんは食べ終えたお皿を端によける。
「いえ」わたしも、お皿をテーブルの端によけておく。「もうすぐ一年になります。事故の後、何もできなくなってしまったんです。それで、前の勤め先を辞めることになって、しばらくは何もせず部屋にいました」
「休職とかにしなかったんですか? 僕も、しんどい時期があったので、上司とも相談して、三ヵ月ほど休ませてもらいました」
「派遣だったので」
派遣社員が契約しているのは派遣会社であり、派遣されている先の会社の休職制度は利用できない。また、その会社の人員不足を理由に派遣を頼んでいるのだから、長期の休職をされると、意味がなくなってしまう。有給休暇はちゃんと取れたが、数日休むのが限界だった。
「大学卒業してからずっと派遣で、今はパートで、正社員になったことがないんです。今後のことを考えて、ちょっと迷ってます」
「今後のこと?」
「……ごめんなさい。なんか、事故のことと全然関係ない愚痴みたいになってしまいました」
事故のことも直樹のことも話せると考え、気持ちが楽になるせいか、緊張感がなくなっていた。高橋さんは、どんなことでも否定せずに興味を持って聞いてくれるため、話しすぎてしまう。
「いいですよ。なんでも話してもらって」
「いえいえ」
「デパート辞めてしまうんですか?」
「辞めたくはないんです」結局、話してしまう。「でも、これから先、ひとりで生きていくことを考えると、パートでは厳しいかな。正社員になれば安泰という世の中でもないんでしょうけど、やはり給料も待遇も違うので」
「寝具店で、正社員になることはできないんですか?」
「できなくはないです」
店長は、最初は福岡の店のパートだった。五人目を産んでからパートとして働きはじめ、正社員になった。産む直前まで働いて、産んだら仕事を探すということを繰り返していたらしい。育休と産休は、パートでも派遣社員でも契約社員でも、雇用形態を問わずに取れる決まりになっている。だが、たとえ法律がそうであっても、守ってくれる会社ばかりではない。
「大学生の時、就活はしたんですか?」高橋さんが聞いてくる。
「いえ、正社員になるつもりはなかったので。卒業して、今のマンションで井上と住むようになってから、派遣会社に登録しました」
「そうなんですね」
「本当は、就活するつもりだったんです。その前に、留学もする予定でした」
「留学?」
「高橋さんの奥さんは、海外でもお仕事をされていたし、勉強にも行かれてたんですよね」
「はい」
「そういう方と一緒にいた人からは、何もできなかったわたしは考えが甘く見えると思うので、恥ずかしいんですけど、ヨーロッパで語学や考古学に関する勉強がしたかったんです」
大学生になってから、考古学への興味は薄れていたけれども、海外で勉強してみたいという夢が完全に消えたわけではなかった。留学して、英語や他の言語を勉強して、博物館や史跡を見てまわりたかった。両親と相談して、大学を卒業したら一年間はイギリスに留学する予定だった。
「甘いなんて思わないですよ。なぜ、就職も留学もやめてしまったんですか?」
「井上に止められたんです」紅茶を飲むが、すでに冷めていた。「先月お会いした時、八年半ほど付き合っていたと話しましたが、大学三年生の終わりに一度別れているんです。卒業後のことが現実的になる中で、井上から留学しないでほしいと頼まれました。それまでは、一年くらい会えなくても平気って言ってたのに。現実として考えたら、耐えられなくなったみたいです。それで、わたしは別れることを選びました」
「そこから、なぜ?」
「別れてすぐに、サークルの後輩が井上を映画に誘ったんです。井上は断ったんですけど、これからこういうことがつづくんだと思ったら、わたしが耐えられなくなってしまった。すぐに縒りを戻しました。それで、わたしは就活も留学もやめて、派遣で働くことにしたんです。井上が転勤する可能性もあったため、正社員だとまた別れることになるかもしれない。両親には、結婚を考えていると話したら、そっちの方が嬉しかったみたいです。父はわたし以上に博物館や史跡が好きなので、留学中に遊びにいくと楽しみにしていたのですが、娘をひとりで海外に行かせることに不安もあったのでしょう」
「井上さんのこと、何よりも大事だったんですね」
「そうですね」
大学に入学して、最初に会った時から好きだった。
顔が好きなタイプだったわけでもないのに、会った瞬間に「この人だ!」と感じた。アウトドアサークルに入ると聞き、知り合ったばかりの友達に「一緒に入って」とお願いした。話せるだけで嬉しくて、そばにいられることを奇跡のように思っていた。付き合いが長くなって、一緒に暮らしはじめてからも、直樹がわたしの人生の全てだった。
「なんだか、いつもわたしが話すばかりですね」
「いえ、沢村さんの話を聞くことで、僕も改めて妻のことを考えたりできてるので、大丈夫ですよ」
「それならば、良かったです」
「気を遣わないでください」高橋さんは、カップに残っていたコーヒーを飲む。
冷めているし、もう一杯何か飲むか聞こうかと思ったが、帰るタイミングだろう。今日ははじめてスイーツを頼んだけれど、いつもはドリンク一杯で、それを飲み終えるまで話すだけだ。
「そろそろ出ましょうか」
「そうですね」高橋さんは立ち上がり、椅子に置いていたコートを羽織る。「そういえば、スマホって、どうしました?」
「スマホ?」わたしも、コートを羽織る。
「井上さんのスマホって、見ましたか?」
「電源が切れたままで、見てないんです」
直樹のスマホは、仕事用のカバンに入れて、クローゼットの棚に黄色いゴールデンレトリバーのぬいぐるみと婚約指輪と一緒に並べている。
「そうですか」
「奥さんのスマホ、見たんですか?」
「いえ、事故の時に壊れてしまったんです。依存症じゃないかと心配になるくらい、常にスマホを見ていたので、事故の時も手に持っていたんだと思います。それが事故の衝撃で、窓の外まで飛ばされた。画面が割れて、電源も入らない状態でした。全体が潰れていて、データの復元も難しいようです」
「井上のスマホ、持ってきましょうか?」
「いいです、いいです」高橋さんは、首を横に振る。「沢村さんは、どうしたのかって、ちょっと気になっただけなので。実は、僕も知らないふたりのことを知っていたり」
「しません」わたしも、首を横に振る。
話しながらレジに向かい、別々で会計を済ませる。
年月が経って、直樹のことは、少しずつ思い出せなくなってきている。けれど、全て忘れることはない。記憶も気持ちも、ゼロにはならないのだ。
高橋さんも同じで、今でも奥さんのことをずっと考えつづけている。
マンションに帰って、直樹の写真に手を合わせて「プリンがおいしかった」とだけ報告してから、クローゼットを開ける。
棚の上からカバンを取る。
中には、スマホの他にお財布やワイヤレスイヤホンや仕事で使っていた手帳が入っている。スケジュールはスマホで管理していたため、手帳には会社の新商品や仕事で会った人に関するメモが書いてあるだけだ。その中に、高橋さんの奥さんや泊まった温泉旅館のことが書かれていないか見てしまったことがあるが、見つけられなかった。SNSは見るだけで何も書いていなかったし、日記をつけるような習慣もなかったので、いつ何があったかはスマホを見なければわからない。
一緒にいる時、直樹は言葉で「かわいい」とか「好き」とか言ってくれた。寝る時以外にも、抱きついてきたり甘えてくることがあった。みんなの前ではしっかりした人だったが、ふたりになると子供みたいになった。わたしからも直樹にくっついて、甘えていた。子供のころ、わたしは「お姉ちゃんは、ちゃんとしているから」と両親に言われ、期待に応えなくてはいけないという気持ちが強くなり、母親にも父親にもあまり甘えられなかった。その時間を取り戻した気持ちになった。手を繫いだり髪や身体に触ってきたりしながら、直樹は「依里、依里」と、すぐ隣にいるわたしのことを何度も呼んだ。直樹の呼ぶ「依里」は、特別だった。
けれど、スマホのメッセージに甘い言葉を書くことはなかった。
文字にするのは、恥ずかしかったようだ。
いつどこで会うかの確認とか帰る時間の連絡とか、業務連絡みたいでしかない。
だから、社会人になったばかりのころ、初めての出張の時に〈早く帰りたい。依里と会いたい〉と送ってきた時には、驚いてしまった。体調でも悪いのかと思って電話をかけてみたら、元気にしていたので、安心した。向こうも安心したみたいで「お土産買って、できるだけ早く帰る」と言っていた。メッセージを送り合うよりも電話をしていたし、出張の時にはビデオ通話もよく使っていた。全てを録音や録画しておけばよかったと後悔したこともあったが、そんなものが残っていたら、いつまで経っても思い出の中から抜け出せなくなってしまう。ラグに寝転がり、自分のスマホに残っていた直樹の写真や動画を削除しようか迷いながら、ずっと見ていた時期もあった。
スマホの電源を入れれば、直樹と高橋さんの奥さんのメッセージのやり取りは残っていると思う。浮気や不倫の証拠になるようなものを逐一消す人もいるらしい。だが、ふたりは、突然の事故で亡くなった。それまでのメッセージは消していたとしても、温泉旅行に関するやり取りは残っているだろう。何も消していなくて、メッセージどころか写真や動画が残っている可能性もある。直樹がわたしに対するのとは違う態度のメッセージを高橋さんの奥さんに送っていたら、自分がどうなってしまうのかわからない。
遺品の整理をした時、直樹のお母さんにカバンごと渡すことも考えた。
でも、いつか、もしも「見られる」と思える時が来たら、見たいという気持ちはあった。
機種変更をしてから一年半ぐらい経っていたが、古いというほどではないし、見た感じとしては劣化もしていない。しかし、直樹が亡くなった後に出た機種とは、充電器が違う。わたしが使っているスマホも、まだ以前のタイプだし、ネットでも家電量販店でも充電器は買える。けれど、いつか、何年も経ったら、充電器が壊れても買えなくなり、電源を入れられなくなるかもしれない。それまでには、どうにかしたい。
マメに開け閉めして、風の通るところに置いた方がいいと思い、直樹の遺品をクローゼットの棚にまとめて並べている。
コートやバッグを取ったりしまったりするたびに目に入り、出してしまう。
大きな段ボール箱か衣装ケースにまとめて入れて、もっと視界に入りにくいところに置いた方がいいのかもしれない。だが、遺品はこれだけではない。クローゼットの左側には直樹のスーツやコートをかけたままだし、タンスには直樹のTシャツや靴下やパンツが入っているし、本棚には直樹の好きだった漫画が並んでいる。台所には、ふたり分の食器が揃っている。
「もう捨ててもいい?」と聞くと、直樹は悲しそうな目でわたしを見る。
首を横に振りながら、何も言わずに抱きついてくる。
その頭を撫でてあげることは、二度とできない。
二月の後半になり、まだまだ寒い日がつづいているが、デパートには春夏物が並びはじめている。
寝具店には、季節先取りで買い物に来る方は、あまりいない。寒いから一枚重ねる毛布が欲しいとか、暑くなってきたから子供のタオルケットが欲しいとか、週末にお客さんが来るから来客用の布団セットを探しているとか、今日明日に必要なものを買いにくる方がほとんどだ。
なので、商品は冬の終わりから春向けのものを並べつつ、春っぽさを感じられるピンクや黄色の毛布やタオルをお客さまの目に留まりやすいところに出していく。
去年、わたしがこの店に来た時も、こういう感じだった。
あの時は、回復しつつあったものの、元気に働ける日なんて一生戻ってこないと思っていた。
商品の位置を変えながら、棚の掃除もしていく。
タオルがほつれたりしているわけでもないし、見本以外の毛布や羽毛布団はカバーに入っているのに、糸くずや綿ぼこりが棚の奥や床の隅っこにすぐ溜まる。開店前に掃除機をかけ、営業中もお客さまのいない隙に、こまめに掃除をしている。
店長やパートのお姉さんたちから勉強して、お客さまと話し、こまごまと動きまわるという仕事に就けたことも、精神的に良かったのだろう。派遣の時みたいに黙ってパソコンに向かいつづけるような事務をしていたら、仕事中に余計なことを思い出してしまい、また落ち込んでいたかもしれない。
掃除に使ったハンディモップをレジカウンターに戻し、ウェットティッシュで手を拭く。
「山崎さま、来てる」店長が隣に立ち、わたしの肩を叩く。
「えっ?」
店の前に山崎さまがいて、不安そうな顔でこちらを見ていた。
ウェットティッシュを捨て、レジカウンターから出る。
デパートのルールで、売場として決められた範囲から出て、お客さまに声をかけることは禁止されている。
なので、敷地内ギリギリのところに立つ。
「いらっしゃいませ」
「この前の男の人、いない?」山崎さまが聞いてくる。
「大丈夫です。今日は、来ませんので」
天野マネージャーは、今日は自分の店でムートンの催事をしている。明日の日曜日までで、目標売上は二千万円だ。なので、他店舗を気にしている余裕はない。
「布団、見させてもらっていいですか?」安心したように言い、山崎さまは店内に入ってくる。
「もちろんです。先日は、失礼いたしました」
過剰に謝ると気を遣わせてしまうので、最低限にしておく。
クレームが入った場合も、謝るよりとにかく相手の話を聞いて肯定することが大事になる。そうしているうちに、相手の怒りは収まり、何か買っていってくれたりする。
「こちらのベッドに、おかけください」一番奥のベッドに山崎さまを案内して、荷物用のカゴを置く。
アンケートに書いてもらったことは頭に入っているので、わたしはそのままベッドの横に跪く。
「実は、ショッピングモールや他のデパートの寝具店にも行ったんです。オーダー枕が作れるようなところとか。でも、どこも、商売のにおいがするというか。高いものだから、当然なんだろうけど。でも、若い女だから金ないだろって見られているのか、わたしがいいと思った商品より、安くて性能の低いものをすすめられたりもしました。確実に買えそうな値段のもの。ここは、この前の男の人は嫌だったけれど、親身になってもらえるって思えたから」
「ありがとうございます」
「自分でも少し調べてみたんですけど、まずはマットレスと枕を新しいものにしたいと考えています。今使ってるマットレス、合ってない気がするので」
「そうですね。たしか、硬いものを使っていると、最初にいらっしゃった時に話していましたよね」
「そう」山崎さまは、うなずく。「買った時は、高校卒業したばかりで、腰痛も肩こりもなかったから、なんでも良かったんです。ひとり暮らしをはじめるための予算を考えて買っただけで、軽くしか試さなかった。今は、もう駄目。朝起きたら、夜よりも身体が痛くなってる」
「ああ、それは、身体に合ってないですね。こちら、寝てみてもらっていいですか?」
ベッドに敷いてあるのは、ウレタンのもので、平らな硬めのマットレスだ。枕にも、硬めのビーズが入っている。
コートと靴を脱いでから、山崎さまは横になる。
「お使いのマットレス、これよりも硬いですか?」
「うーん、素材が違うからわかんないけど、同じくらいかな」そう言いながら、何度か寝返りを打つ。
どの体勢をしても収まりが悪かったようで、上を向いて膝を三角に立てた状態で止まる。
「足、まっすぐにすると、違和感がありますか?」
「そうですね」曲げていた足を伸ばす。
「肩と腰と膝と足首に隙間ができているの、わかります?」
「えっ? あっ、はい」腰や肩回りを自分で触っていく。
身体が細くて、マットレスに全く沈まないため、へこみの大きな部分が浮いてしまっている。
一晩中、この状態で眠ると、マットレスに接している背中やお尻やふくらはぎなどの出っ張っている部分で、浮いているところを支えようと力が入るため、朝起きた時に肩や背中や腰に痛みを覚えることがある。
浮いたままでは痛みを感じるため、腰痛で悩んでいる方は合っていないマットレスで眠ると、無意識で膝を立てて腰を沈めようとする。
「寝返りを打って、わたしの方を向いてもらっていいですか?」
「こうですか?」山崎さまは、身体を横向きにする。
マットレスが助けになっていなくて、自分で自分の身体を意識的に動かし、寝返りを打っている。これでは、寝ている間に自然な寝返りは打てないので、動こうとするたびに目が覚めてしまう。
「寝る時って、横を向いていますか? 上を向いていますか?」
「上向いて寝はじめて、なんか落ち着かなくて、右向いたり左向いたりして、時間が経ってしまうというところです。最終的には、左向きで寝てることが多いです」
「今と同じ体勢ですか?」
「もうちょっとうつ伏せに近いです」そう言って、身体を少し動かす。
「横を向いた時も、上を向いた時と同じで、腰や足首に隙間ができるんですね。それで、身体を捻ることで、どうにかその隙間を埋めようとするので、うつ伏せに近くなっていくんです」
「たしかに、ねじれています」
まっすぐ横になった時にできる隙間を埋めるため、首がねじれ、腰から下も大きく捻っている。合わないマットレスに対し、無理に合わせようとする。この体勢が癖になると、身体が歪む原因にもなりかねない。
「山崎さまの場合は、身体の出っ張っている部分がもう少し沈むような、柔らかめのマットレスがオススメです。枕も、柔らかいものの方が合っていると思います。柔らかすぎると、逆に腰が大きく沈んでしまって、それも腰痛の原因になることがあります。ただ、山崎さまは、お身体が細いので、一番柔らかいタイプのものでもいいと思います」
また、説明が長くなってしまった。
璃子ちゃんに「かたい」と言われたこと、天野マネージャーに怒られたことを急に思い出す。今日、来ないとしても、店長から天野マネージャーに今日の営業について、報告はする。また売れなかったら、次に来た時に怒鳴られるのかもしれない。
でも、山崎さまは、以前のことから信頼して来てくれたのだ。
営業のコツは、盛り上げるばかりではなくて、高橋さんみたいに地道に積み上げていく方法だってある。
「柔らかいタイプ、試させてもらえますか?」起き上がり、山崎さまは髪を軽く整える。
「はい、お待ちください」
レジカウンターに行き、店長にマットレスと枕を購入希望であることを伝え、柔らかいタイプのもので商品を指定して、用意してもらえるように頼む。
別のベッドに店長とパートのお姉さんが用意してくれている間、わたしは山崎さまの前に戻る。
「すぐに用意できますので、もう少しお待ちください」
「ありがとうございます」
「今日は、お仕事はお休みなんですか?」
「カレンダー通りで、土日出勤になることはないので。前の会社では、休み扱いなのに、土曜も出勤するように言われることがありました。金曜日の遅くまで飲んで、土曜日の昼前には会社に行かなくてはいけない」
「それは、身体がもちませんよ」
「そのころは、ベッドに入って、すぐ寝られたんです。疲れすぎてたんですよね」
「以前の睡眠時間って、何時間ぐらいでした?」
「五時間とかですね」
「睡眠時間が六時間以下だと、ベッドに入って数秒で寝られるようになる方が多いんです。そのことを自慢するみたいに、寝つきがいいと話す方がいます。眠りが深くて、朝まで夢も見ない。でも、それは、睡眠時間が足りていなくて、気絶しているようなものなんです。スマホの充電切れみたいに、ベッドに入った瞬間にゼロになってしまう」
「まさに、そういう感じでした」
「今、眠れないのは、毛布を捨ててしまったことやマットレスが合っていないこと以外に、しっかり休みを取れて、生活に余裕が出てきたからかもしれません。布団に入って、目をつぶってから眠りにつくまで、五分から二十分くらいかかるものなんです。その間は、できるだけ何も考えずに、身体の力を抜く。そこで、眠れないと考えると目が冴えて、眠れなくなってしまいます。人間の脳って、意外なほど単純で暗示に弱いんです。ベッドに入って、眠れないと考えると、そこを眠れない場所だと認識してしまう」
「そうかもしれません!」山崎さまは、目を輝かせる。
「あっ!」
ここで納得されたら、買わないと言われてしまう。わたしの仕事は、快眠アドバイザーとかではなくて、寝具店の店員であり、売ることを第一に考えなくてはいけない。
「どうしました?」
「いえ、ご用意できましたので、こちらにどうぞ。スリッパ、お使いください」
ベッドの横にスリッパを出して、山崎さまを枕とマットレスの用意ができた隣のベッドにご案内する。
考えすぎだったようで、山崎さまは嬉しそうにして、隣のベッドに移って横になる。
柔らかいものなので、身体の出っ張っている部分が適度に沈む。それによって、へこんでいる部分にもマットレスが当たり、しっかりと支えられている。ウレタンの凹凸があるタイプのマットレスだから、力が一点に集中せず、体圧も分散される。
「これが前に来た時に話してくださった、体圧を分散させるマットレスですね。さっきのと全然違って、すごい楽」
楽しそうに言い、山崎さまは寝返りを何度か打つ。
ウレタンだから、スプリングのマットレスほど、寝返りを助ける機能はない。だが、この商品は、高反発で、寝返りを計算したスリットも入っているため、身体の動きに合わせてマットレスが形状を変えていき、寝返りもしやすい。細い方は、これくらい緩やかなサポートの方が身体も楽だろう。
「これにします!」身体を起こし、山崎さまはわたしを見る。
山崎さまの購入したマットレスの発注を済ませてから、休憩室に行ってお弁当を食べる。
念のため、別のマットレスも試してもらい、寝姿勢や寝返りの確認をしてみた。だが、先に用意したものの方が合っていそうだったので、それに決まった。枕も合わせての購入だ。他の寝具店では「若い女だから金ないだろって見られて」と話していたから、金額は気にせずに山崎さまに合っているものをオススメした。
そして、わたしの中にも、お客さまの予算を推測する時に「男性だから、女性だから」という考えがあったことに気づかされた。
稼いでいる女性もいるとわかっていながら、それでも男性以下の収入でしかないと決めつけていた。
「お疲れさま」早苗さんが来て、隣に座る。
「お疲れさまです」
「この前、来てくれてありがとうね」
「なかなか行く機会のない場所だから、楽しかったです」
「二ヵ月に一回くらいのペースで、ああいうコンサートをやっているから、また来て」
話しながら、早苗さんは小さなバッグから、サンドイッチの入ったお弁当箱を出す。
定番のたまごやハムの他に、エビカツもある。
早苗さんは、いつも凝ったお弁当を作ってくる。挨拶をするぐらいの関係から話すようになったのも、お弁当がきっかけだった。去年、暑くなりはじめたばかりのころ、早苗さんはお弁当箱に茹でた中華麺を入れて、ラップに細切りにしたきゅうりや薄焼きたまごやハムを包み、スープジャーに甘酸っぱい醤油だれを入れて持ってきて、休憩室で冷やし中華を仕上げていた。それがとてもおいしそうで、思わず見てしまった。
「お弁当って、ご家族の分とかと一緒に作るんですか?」わたしから聞く。
「ううん、ひとり暮らしだから」
「あっ、そうなんですね」
「離婚してるの」
「それは、失礼しました」
「何年も前のことだから」笑顔で言い、早苗さんはたまごサラダのサンドイッチを食べる。「もう三十年以上経つわね。高校卒業して、化粧品販売の仕事をしていたんだけど、二十代になってすぐに結婚した。専業主婦になって、娘を産んだ。娘が二歳になったころに、夫の不倫がわかったの。そういう時代だったっていうのもおかしな話だけど、不倫は男の甲斐性みたいな考えがまだ残っているころだった。家にお金は入れてくれているし、軽い遊びでしかないのであれば、いいのかなって考えた。でもね、そのうちに、私や娘に暴力を振るうようになった」
「えっ?」
お弁当を食べながら、わたしは思わず顔を顰めてしまう。
「ストレスだったんだと思うのよ」早苗さんは、水筒を開ける。
「ストレスでも、暴力は駄目ですよ」
「そうなのよね。でも、日本の景気が良くなっていく中、寝ずに働いて遊んで、みんながおかしくなってたのよ。今みたいに、違和感を覚えたら心療内科に行くみたいなこともなかった。夫も、躁と鬱を行ったり来たりして、精神的にコントロールできなくなったんでしょうね。私はほとんど社会を知らなくて、どうしたらいいのかわからなかった」
「うーん」
わたしが生まれるよりも十年くらい前のころのことだろう。
子供のころから、よく「昔は」とか「バブルのころは」とか聞くことはあったが、作り話のようで実感ができなかった。
そのころの女性は、男性をごはんを奢ってくれるとか送り迎えをしてくれるとか使い分けていたらしい。逆に、男性から見れば、お金を払ったら、普通に歩いているだけの女性がついてくると思える時代だったのだろう。派手に遊ぶ人たちもいる中、早苗さんのように専業主婦になり、家で耐えるばかりだった人もいたのだ。
「自分が殴られたりするだけであれば、がまんしつづけてしまったと思うの。でもね、娘のことは守りたかった。それで、まだ小学生にもなっていない娘を連れて、家を出た。仕事はあるだろうと思ったのに、一気に不景気」
「崩壊したわけですね、バブルが」
「そう」大きくうなずき、水筒の中身を飲む。
ホットコーヒーが入っているのか、微かに香りがした。
飲めないけれど、コーヒーの香りは好きで、気持ちが落ち着く。
「娘とふたりで狭いアパートに暮らして、デパートで販売のパートをしてたの。化粧品とか宝石とか洋服とか。でも、どこも、給料が安いでしょ」
「……はい」
デパートで、非正規雇用で働く女性たちの時給が最低賃金程度であるのは、昔も今も変わらないのだろう。
「夫は、バブルのころほど羽振りが良かったわけじゃないけど、大きな会社に勤めてたから、それなりの額の給料はもらえていた。不倫や暴力に対する反省もあったのか、娘の学費だけは出してくれた」
「父親として、当然ですよ」
「離婚して、養育費を出さない父親って、すごく多いのよ」
「それは、なんとなく知ってます」
「今は、娘も結婚して孫もいるし、クラシックギターの趣味仲間もいるし、幸せよ。狭いアパートでの地味な暮らしでも、好きなものに囲まれる生活が私には合っているみたい。派手な生活や喧噪は苦手だった」
「わたしも、バブルのころに生まれていたら、生き抜けなかったかもしれません」
「合わなそうね」わたしの顔を見て、早苗さんは笑う。「沢村さんは、何か趣味はないの?」
「うーん、何かあるといいなとは思うんですけど」
趣味を持っているといいかもしれないと考えたものの、何も見つからないままだ。
また考古学の勉強をしてみようかと思ったが、違うという気がした。博物館に行くぐらいはしても、本格的に勉強しようという気持ちには戻れそうにない。大学生の時、留学をやめると決めたところで、終わったのだ。
料理は好きだけれど、食べてくれる人がいないと、作りがいがない。直樹とふたりで住んでいる間、料理の他に掃除や洗濯も、ほとんどわたしがしていた。分担するか話したこともあったけれど、担当を決めて守っていく方が面倒くさく感じた。たまに、手伝ってもらえれば、充分だった。体調が悪かったり気分が乗らなかったりする時には、直樹がごはんを作ってくれた。SNSで話題になっている簡単レシピを楽しそうに試していた。わたしがすることを当たり前としないで直樹は「ありがとう」と言ってくれた。まだ結婚していなかったからか、義務ではなくて、趣味のように楽しめた。
考古学は、父親の趣味であり、わたしが自分で選んだものではなかった。勉強していることを話すと、父親が喜んでくれたから、それが嬉しかっただけだ。直樹のことは、わたしが見つけて、自分から好きになった。だから、人生の全てを懸けることに、躊躇いはなかった。
「楽器は?」早苗さんが聞いてくる。
「小学生のころにピアノを少し」
「また弾いてみれば」
「もともと子供の習い事程度で、大して弾けるわけでもなかったので」話しながら、食べ終えたお弁当箱を片づける。
「もし楽器弾きたくなったら、教えられる知り合い紹介するから」
「考えてみます。戻りますね」
休憩時間が残り少なくなってきたので、お弁当箱を入れたバッグを持って、席を立つ。
早苗さんに軽く手を振り、休憩室から出る。
エレベーターが地下一階と地下二階の間で止まっていて、動かない。
そこには、何も書かれていなくても、何かあるのだろう。
もう一台の方は、屋上で止まっている。
休憩時間が終わってしまうから、どうしようか迷っていたら、奥にある階段から璃子ちゃんが下りてきた。
「あっ、お疲れさま」手を振りながら、わたしの方に来る。
「お疲れさま」
「エレベーター、動かないよね」
「階段で上がろうかな」
「ねえ、ねえ、それよりさ、改装の話って聞いた?」璃子ちゃんはわたしの腕を引っ張り、階段の方に戻る。
「改装?」
「夏までに、デパート全体を改装するんだって」聞かれない方がいい話なのか、端に寄って声を潜める。「十代の子や二十代から三十代のファミリー向けの店を増やして、ショッピングモールみたいにしていくらしい」
「へえ」
「沢村さんのところ、残れるの?」
「……聞いてない」
「確かめておいた方がいいよ」
「璃子ちゃんのところは?」
「うちはなくなるわけじゃないけど、店が狭くなる。だから、何人か辞めさせられるかも」
「そうなんだ……」
バッグに入れていたスマホが鳴る。
メッセージや電話ではなくて、休憩時間の終わる三分前でセットしているアラームだ。
「時間?」
「戻るね。また話そう」
璃子ちゃんに手を振って、そのまま階段を駆け上がる。
四階まで上がって、店に戻る。
倉庫にバッグを置いたら、すぐにレジに入って店長の横に立つ。
「お帰りなさい」店長が言う。
「ただいまです」
「前髪、乱れてる」
「急いで、階段を上ってきたので」手で軽く直す。
「そうなんだ」
「あの、改装の話って、うちの店も関係ありますか?」
「……えっ!」
わかりやすく、店長は気まずそうな顔をする。
「関係あるんですか?」
「まだ諸々が決まってないから、パートのみなさんには話せなかったんだけど、五月末で閉店します」
「五月末……」
レジカウンターの隅に置いてあるカレンダーを見る。
あと三ヵ月と少ししかない。

■ 著者プロフィール
畑野智美(はたの・ともみ)
1979年東京都生まれ。2010年「国道沿いのファミレス」で第23回小説すばる新人賞を受賞。13年『海の見える街』、14年『南部芸能事務所』で吉川英治文学新人賞の候補となる。著書に『夏のバスプール』『タイムマシンでは、行けない明日』『ふたつの星とタイムマシン』『消えない月』『大人になったら、』『水槽の中』『神さまを待っている』『若葉荘の暮らし』『ヨルノヒカリ』など多数。最新刊は『世界のすべて』。