オムレツというのは少し不思議な立ち位置の料理だ。
朝食の定番メニューで、材料と料理の手順はシンプル。卵アレルギーやビーガンでなければ、食べたことがないという人は少ないだろうし、ちょっと乱暴な言い方をしてしまえば、「みんな大好き」と言ってもそんなに無茶ではないだろう。
でも、ふんわりとしてナイフで切れば絶妙な火入れの卵がとろりと流れ出すような、そんなオムレツに出会うのは簡単ではない。
一泊何万もするようなホテルの朝食ならともかく、ビジネスホテルの朝食ビュッフェでも難しい。ホテルの朝食以外の外食では、なかなかメニューにない。
そこそこいいホテルに泊まって食べるか、誰かに作ってもらうか、自分で作るか。
しかもオムレツを作る難しさは、料理をする人なら誰もが知っている。ちょっと時間配分を間違えれば、卵はすぐに火が通りすぎてしまう。フレンチのシェフの採用試験ではオムレツを焼く試験があるとか、料理人はオムレツ専用のフライパンを持っているとか、本当かどうかわからないオムレツ神話はよく聞く。
自分で作ってしょんぼりオムレツになってしまった経験は誰にでもあるだろう。
つまり、シンプルな料理なのに、おいしいオムレツを食べるのには、いくつもハードルがあるのだ。
『こつこつ、オムレツ』の主人公、田城陶子はパティシエールである。
この名前に聞き覚えのある読者の方も多いのではないかと思う。そう、彼女は『ぐるぐる、和菓子』(ポプラ文庫)に出てくるタジマモリ製菓専門学校の生徒のひとりである。
専門学校を卒業した彼女は、有名ホテルの製菓部門で働き、動画配信などでも結果を残し、実績を積み上げつつある。
そんな彼女をある異変が襲う。急にポッシュ(生クリームなどの絞り袋)が使えなくなってしまうのだ。パティシエール、しかもデコレーションを得意としていた陶子にとっては、人生が変わってしまうような出来事だ。
休職した陶子は、仕事で出会ったライターの美咲の取材に同行することになる。美咲はいろんな人からオムレツについての話を聞き、記事を書いていた。
これが『こつこつ、オムレツ』のあらすじだ。突然の体調不良によって、彼女は自分の仕事も目標も失ってしまう。
陶子を襲った局所性ジストニアという病気の症状は、音楽家や漫画家などに発症者が多いらしい。小説の中でも言われているが、とても残酷だ。夢を追い、一生を捧げてきた仕事と距離を置くか、場合によっては諦めなければならない。
多くのフィクションは夢や目的に向かって突き進む人々を描く。諦めないこと、努力することの輝きが賞賛される。
だが、ある程度長く生きればわかってしまう。努力が必ず報われるわけではないし、たとえ夢が叶ったとしても、その先も人生は続いていく。転ぶこともあるし、寝込むこともある。どうやっても取り戻せない喪失だってある。
そんな残酷な現実を描いているのに、太田さんの筆はあくまでも優しい。
転んでも、失っても、取り戻せなくても、誰の人生も無価値ではないし、転んで握りしめた手に砂粒しか残らないように思えても、一皿のオムレツに力をもらってまた歩き出すことができる。
社会に必要な人間の形は決まっているように思えて、わたしなんかもしょっちゅう、自分のポンコツ具合にいやになってしまうけれど、そんなふうに思うことが間違っていて、たとえそんなふうにこちらを分別する人がいても、その土俵に上がる必要はなく、誰もが誇りを持って生きていいのだと、そう信じさせてくれる小説なのだ。
元気でなくても、自信を失っても、本を読むのが少ししんどいようなときでも、太田さんの小説は食欲のないときのふわふわオムレツみたいに、するりと喉を通って、読む人を元気にしてくれる。
なにより、小説に出てくるオムレツのおいしそうなことといったら!
この本を読みはじめるときは、絶対に卵を切らしてはいけない。わたしは卵のない状態で読んでしまい、翌朝、真っ先にスーパーに走って卵を買い、オムレツを作ることになってしまった。
人生はままならないことだらけだけど、一皿の料理や一冊の小説が歩き出す力をくれることだってあるのだ。
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■ 書籍情報
『こつこつ、オムレツ』 太田忠司
ある日突然、大切にしていることが奪われてしまったら―? 働き始めたばかりの若者の葛藤と成長を描く、心に沁みる再生の物語。
■ 評者プロフィール
近藤史恵(こんどう・ふみえ)
1969年大阪府生まれ。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞し、作家デビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞を受賞。著書に、「ビストロ・パ・マル」「旅に出るカフェ」などの各シリーズのほか、『アンハッピードッグズ』『インフルエンス』『わたしの本の空白は』『みかんとひよどり』『夜の向こうの蛹たち』『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』『ホテル・カイザリン』『山の上の家事学校』『風待荘へようこそ』など多数。最新作は『オーロラが見られなくても』。

