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誰にでも訪れる「まさか」の事態からのリ・スタートに【書評:藤田香織】

 人生には、まさか自分が、と思うことが稀にある。
 本書『こつこつ、オムレツ』の主人公・しろとうは、ある日突然今まであたり前に出来ていた作業が困難になり、休職を余儀なくされた。いつものようにするだけだと自分に言い聞かせても手が動かない。整形外科へ行き、腕だけでなく肩や首のレントゲンも撮り、血液検査もした。異状はない。人間ドックでも検査し、脳のMRI検査まで受けたがやはり問題は見つからない。陶子の体は極めて健康だった。なぜ? どうして? 途方に暮れる日々のなか、あるきっかけで神経内科を受診し、一般的には<イップス>として知られている局所性ジストニアであると診断されてしまう。
 イップスといえば、極度の緊張や強いプレッシャーによる職業病というイメージで、スポーツ選手や音楽家の症例を見聞きすることが多い。
 本書は、この未だ原因は特定できず、確実な治療法もない病が大きな核になっているのだが、陶子はスポーツ選手でも音楽家でもない。
 小学四年生のときに初めてひとりでホットケーキを焼きお菓子作りの楽しさに目覚め、中学時代にテレビで観たフランスの一流ホテルパティシエの仕事に憧れを抱いて以来、一貫して将来の夢は「ケーキ屋さん」だと思い続けてきた。幼く淡い夢では終わらず、高校卒業後は製菓学校に進み、在学中にジャパン・スイーツ・コンテストのエコール(学生)部門で銀賞を獲得。老舗しにせのアリスタホテルに就職すると、育成プログラムの一環として二年間フランス研修も経験。帰国後、アントルメティエとしてデザートのデコレーションに携わり、現在はアリスタホテルの公式YouTubeチャンネルにも出演し、再生回数も評判も良かった。
 早くから明確に自分の目指す道を見つけ、着実に歩み続けて、努力を重ね、周囲の評価も得てきた。順風満帆、前途洋々だったはずなのに――。
 陶子に生じたのは、生クリームなどを入れ、ケーキやデザートを装飾するためのポッシュ(絞り袋)を動かせなくなるという症状だった。ケーキやデザートに華やかなデコレーションを施す業務上欠かせない作業だが、意思に反してどうしても手は動かなくなってしまった。
 物語は、そんな道半ばで思いがけず立ち止まることになった陶子が悩みながら迷いながら、再び歩き出すまでを描いていく。
 イップスの症状が出たのは、雑誌の取材で写真を撮影している際だったのだが、その場に居合わせたライターのさきが、陶子に寄り添うバディとなる。とはいえ、小瀬の陶子に対する「余計なお世話」の距離感は、近すぎず遠すぎず、押しつけがましくないのに心遣いが伝わる絶妙な塩梅で、何度となく巧いな、と唸らされる。
 陶子は小瀬が担当している雑誌の連載企画『オムレツと私』の取材に、オブザーバーとして同行させられることになり、本書のタイトルはそこへ繫がっていく。
 少年時代は素行が悪く大きな罪を犯した過去を持つ洋食屋のオーナーシェフが作るプレーンオムレツ。神社の宮司が高校時代の恩師から教わったというスパニッシュオムレツ。造園家の女性が忘れられない亡き祖母のふわふわオムレツ。さらには陶子自身もフランス修業時代に食べたモン・サン・ミシェルの名物オムレット・ド・ラ・メール・プラールを超えるオリジナルのスフレオムレツを作るように依頼される。
 それまで深く関わることのなかった人々に出会い、それぞれの過去と現在の話を聞くうちに、主人公の心が少しずつ動きだしていく。と書くと、所謂いわゆる人生迷い道小説の定石のようだが、それぞれに見逃せない謎が秘められていてスパイスのように効いている。陶子はその時々に、気付き、疑問を抱き、納得する。合点がいかないことがあっても、のみ込んでしまえば、なるほど、と思える場合もあるだろう。発見にもなる。刺激にもなる。
 陶子の変化だけではない。
 読み進めていくうちに、多様なジャンルのインタビューを手掛ける小瀬が、「音楽だけは対象外」と言っていた理由や、陶子のイップスに深く関わると思われていた、上司であり日本でも随一のシェフパティシエほしかわゆうの過去も明らかになっていく。本書は一昨年に刊行された『ぐるぐる、和菓子』(※)の姉妹作という位置づけでもあるが、卒業して約五年が経った陶子の母校タジマモリ製菓専門学校の仲間たちの動向も興味深い。
 特別な職業に就く特別な人の話ではない。「まさか」の事態に動けなくなり、不安に囚われることは誰にだって起こり得る。でも、それでも。大丈夫、また歩き出せるよと本書は語りかけてくる。
 急がずに、こつこつ、殻を破ることを恐れずに。  

  *
 

■ 書籍情報
『こつこつ、オムレツ』太田忠司
ある日突然、大切にしていることが奪われてしまったら―? 働き始めたばかりの若者の葛藤と成長を描く、心に沁みる再生の物語。

■ 著者プロフィール
藤田香織(ふじた・かをり)
書評家。1968年生まれ。音楽出版社勤務の傍らブックレビューを書き始め、98年にフリーライターに。著書に「だらしな日記」シリーズ、『ホンのお楽しみ』、杉江松恋さんとの共著に『東海道でしょう!』などがある。

※『ぐるぐる、和菓子』は2021年に刊行された『和菓子迷宮をぐるぐると』を改題し、文庫化したものです

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