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さいわい住むと人のいう

 全身が心臓になったかのようだ。胸から腕、手首、腹部、そして足の付け根からつま先まで、身体のすべてが脈打っている。
 ベッドに横たわる私にはもう、縦横無尽に移動して不規則に脈打つ自分の心臓を、どうすることもできなかった。
 いつからここに寝ているのかも、さだかではない。
「なあに……百合ゆり
 呼ばれた気がして、返事をした。なにか聞こえるが、判然としない。
 妹の百合は、部屋の冷房を付けていったが私には寒すぎる。今はお彼岸ひがんの季節ではなかったか。百合が大きなおはぎを作る、秋。
 ああでも、百合にさやえんどうの筋を取ってと頼まれたんだった。だとすると、今は初夏か。
 もう、季節もわからない。
 なにもわからないということは、存外、楽だった。
 忘れて、手放して、失って、なにもかも持たない自分になると、すべて許されたような心地がする。年をとるのも悪くないわね、と思える。
 家の呼吸が聞こえる。大地のように、私とまさに息を合わせ、かぼそく鼓動を打っている。
 この家は、私そのものだ。
 見てくればかり大きくて、偉そうで、でも中に住んでいるのは老いた女が二人だけ。
 それでも他人は知らない。私たちが、何を積み上げてきたのか。この大きな家に守られるだけの力を得るために、どれほどの痛みを感じてきたのか。
 そしてそこに、どれほどの幸福があったのか、私たち以外、誰にもわからない。
 わかりっこないのよ。私たちだけのものなんだから。
 笑いたくなる気持ちを抑え、一つ、息を吐く。
 部屋の外で百合がなにか言っている。大方、夕飯の下準備でも手伝ってというのだろう。
 動かない身体で、はいはい、と答えた。

 

二〇二四年 青葉


 低いテーブルですねをしたたかにぶつけた。どうしてこの高さのテーブルに低いソファを合わせるのか。痛みを堪えてソファに腰を沈めると、スプリングの弱った座面がずぶりと沈んだ。
 隣に座った民生委員の松ヶ枝まつがえさんが、「こちら、自治会長の川島かわしまさん」と向かいに座った人物を紹介した。目が合うと、人の良さそうな笑みを浮かべた七〇代の男性がやや腰を浮かせて会釈した。
「どうも。川島です。ただの引退老人ですがね。一応ここの自治会長をやっとります」
「どうぞよろしくお願いいたします。地域福祉課の青葉あおばと申します」
 名刺を渡すと、自治会長は名刺をちらとも見ずにテーブルに置き、淹れたての茶を音を立ててすすった。
「そんで松ヶ枝さん、新町しんまちさんの家の話はどうなりました。あそこの息子さん、ちょっと難しい人でしょう」
「ああ、あの人ね……」
 腰を落ち着けた二人は、おれなどいないかのようにわからない話を始めた。こっそりネクタイを緩め、汗を拭く。
 民生委員の松ヶ枝さんには、新卒採用で配属された水道課から地域福祉課に異動になった今年の四月から二ヶ月あまり、お世話になっている。
 出不精の課長補佐の代わりに、市民の自宅訪問や苦情対応のための現地調査などの際、新米のおれを見かねてか松ヶ枝さんが同行してくれるようになった。
 六〇代半ばのふくよかな女性で、潑剌はつらつとしていて市内でも顔が広く、彼女とともに歩いていると数人に声をかけられることもしばしばだ。
 民生委員というものを地域福祉課に来るまでよく知らなかったが、高齢者や障がい者、母子家庭父子家庭など援助を必要とする市民の実態を調査して、相談に乗ったり市役所に報告して支援策を考えたりする人たちのことだ。市役所職員よりも市民に近い場所から、民生委員は彼らに手を差し伸べる。
 これまでに会った民生委員たちは、みな人生経験を積んだその土地の顔役といった人たちが多かった。松ヶ枝さんも、民生委員になる前はスクールカウンセラーとして中学校で働いており、その後市の教育委員会や社会福祉協議会で役員を務めたのち、退職して民生委員をしているそうだ。そのため、市の上役たちはだいたい松ヶ枝さんのことを知っている。
 今日は、市の一番北側、以前は問屋街として栄えていた区域の商工会長と自治会長への挨拶にやってきたのだが、先程会った商工会長も今目の前にいる自治会長も、松ヶ枝さんとの情報交換に忙しくおれには微塵みじんも興味を示さない。
 仕方がない、こっちだって興味を示されたところで困るのだ。鼻から少しずつため息を漏らしながらあくびを嚙み殺した。
「それじゃ青山さん、今後よろしくね」
 唐突に話題を振られ、あくびで緩んだ顔を隠す代わりに頭を下げた。
「青葉です。こちらこそお世話になります」
「いいね松ヶ枝さん、若い人と一緒で。もし彼女いなかったら、うちの娘、どう」
「川島さん、今はそういうのご法度はっとですよ。それに娘さん、独身だとしてももう四〇過ぎてるでしょ。青葉さんまだ二〇代よ」
 がははと笑う会長に笑い返していいものやらわからないまま、曖昧な笑みでやり過ごす。
 最近SNSで知り合った鉄オタ仲間の女の子と付き合い始めたばかりだが、そんなことを言っても仕方がない。
 土産に、と会長から煎茶の茶葉を一袋渡される。会長の家はお茶問屋らしい。
「新しい団地も増えたけど、問屋街の連中は昔気質むかしかたぎの人も多いからね、顔を売っておいて悪いことはないと思うよ」
 そうだ、と会長が玄関で靴を履くおれと松ヶ枝さんを呼び止めた。
香坂こうさかさんのところは連れて行った?」
「ああ、まだですね」
「行っておいた方がいいんじゃない。あの人もとんと表には出てこなくなったけど、何かあったとき頼れるからね」
 了解し合う二人の顔を交互に見る。
 香坂さん?
「香坂さんってね、この辺りで顔の広い人がいるのよ。時間が大丈夫でしたら、家もそう遠くないしご挨拶に伺いましょうかね」
 おれが運転席に座る公用車の助手席に乗り込んで、松ヶ枝さんは大きな身体を揺するようにしてシートに収めた。
 香坂さんの家はここから車で五分ほどらしい。出発してすぐ、松ヶ枝さんに尋ねる。
「何をされている方なんですか」
「今はもう無職よ。お歳も八〇を過ぎてるんじゃないかしら。大きな家に、二人で暮らしていらっしゃるの」
 地主かなにかだろうか。
「『歳だから』って、最近は相談に行っても断られることが増えたんだけどね。もしかすると今後お世話になることもあるかもしれないから、そうね、もっと早くご挨拶に伺っておけばよかった」
 信号待ちで車を停める。歩道を歩く老人が、助手席の松ヶ枝さんに目を留めて手を上げた。
「香坂さん、元教師なのよ。退職されてもう随分経つけど、退職後も生徒の進路相談なんかで相談に乗ってくださったの。確か、川島さんのお子さんも教え子だったはず」
「へえ」
 適当な相づちを打っているうちに、目的の家にたどり着いた。コインパーキングに停めた車を降りるとすぐ、巨大な家の横顔が見える。正面の門扉には警備会社のシール。市街から外れた、隣の市との境に位置するその大きな家は、まるで宮殿だった。
「でかいっすね……」
 日光を反射する正面の窓を見上げながら、馬鹿みたいな感想を呟く。元教師かつ、資産家の地主か。
 車から降りてきた松ヶ枝さんが、ためらいなくインターホンを押した。
「急にお邪魔して大丈夫でしたかね」
「どちらかはたいてい家にいらっしゃるはずだから、大丈夫でしょう」
 どちらかとは、と聞き返そうとしたとき、インターホンがぷつりと通じ、柔らかい老女の声が「はい」と応じた。

 家の中はまさに御殿だった。
 門扉の向こうは、庭師が入っているのであろう、季節の花々が咲いて整えられた庭、ポーチを抜けた先の玄関扉は大きな木製のもので、そこを開けると三和土たたきは広くまるでちょっとしたホテルのようだ。
 そして目の前には二階に続く螺旋らせん階段。
 社会人としての良識がなければ、ぽかりと口を開けて見入ってしまいそうな豪奢ごうしゃな内装だった。
 松ヶ枝さんの挨拶を聞いて玄関を開けたのは、背の低い老女だった。ぽっちりとした小さな目のきわに皺を刻み、頰はふっくらと丸く口元は柔らかく弧を描いている。童話に出てくるおばあさんのようだ。
「どうも、突然お邪魔しまして申し訳ありませんこと」
 松ヶ枝さんの詫びにも、老女は微笑んで「いいんですよ」とおれたちを中に招き入れた。
「どうせ家にいて、特に何もしていませんもの。姉も、二階におりますから。今呼んできますね」
 老女はおれたちを客間に案内すると、そう言って立ち去った。
「姉……?」
 玄関に現れた老女を見て、松ヶ枝さんの言う顔が広い『香坂さん』は、旦那さんの方なのだろうと咄嗟とっさに思ったのだが。
「お姉さんの、香坂桐子きりこさん。今の方が、妹の百合子ゆりこさん」
「二人暮らしって、夫婦じゃなくて姉妹ですか」
「ああ、そうそう」
「じゃあ元教師っていうのは」「桐子さんの方」
 そういうことか。合点がいった。おれは香坂さんが戻ってくるまで、立派な客間の中をきょろきょろと眺め回した。内装や作り付けの装飾は立派だが、物は少ない印象だった。
 香坂さんはなかなか戻ってこなかった。大丈夫だろうかと心配になった頃、客間の扉が開き、しゃんと背が伸びた老女が入ってきた。
 皺に囲まれた大きな目が、おれを見た。よどみない視線に突き刺され、どきりとする。
 松ヶ枝さんが立ち上がったので、おれも腰を上げた。
「香坂先生、ごぶさたしております。突然お邪魔しまして申し訳ありません。今日ね、四月から地域福祉課に来られた職員の方と自治会長さんのところにご挨拶に伺ってて。近くまで来たものですから先生にもぜひご挨拶させていただけたらと思いまして」
 流暢りゅうちょうにしゃべる松ヶ枝さんの声に尻を叩かれるようにして、おれは名刺を差し出し頭を下げた。
「初めまして、地域福祉課の青葉と申します。四月に異動したばかりでまだ不慣れですが、今後よろしくお願いいたします」
 おれの手からすっと名刺が引き抜かれた。手元の名刺にじっと目線を落としたあと、桐子さんはただ「はい」と言った。
「私ももうこんな歳ですからね。なんのお役にも立てませんけど」
「先生、お歳だなんて。井上さんの息子さんの件、井上さんが先生にいたくお礼を言ってましたよ」
 桐子さんが客間のソファに腰を下ろしたので、おれたちも向かいの席に座り直した。百合子さんが一人一人の前に紅茶を運ぶ。
 常に薄く微笑んでいるような柔和な顔の百合子さんと、にこりともしない桐子さんの様子は対照的だった。本当に姉妹だろうか。
 そもそも、こんな御殿に本当に姉妹二人だけで暮らしているのだろうか。お手伝いさんでも雇っているのかもしれない。あの大きな螺旋階段は、八〇歳の老人にはきつくないのだろうか。地域福祉課のサポートが必要なのは、どうかするとこの人たちなのでは……
「青葉さん。聞いてる?」
 松ヶ枝さんが咎めるようにおれの顔を覗き込んでいた。
「あっ、はい。いえ、すみません、なんでしたっけ」
「ご覧になりますか」
 桐子さんがおれを見て、無表情で言った。
「家の中、どうぞご覧になって」
「いえ、すみません。あまりに立派なお宅だったのでつい……」
 じろじろと室内を眺め回していたのを見咎められていたらしい。恐縮したが、桐子さんは促すように立ち上がった。
「ご案内しますよ」もはやおれの反応など意に介さずに、桐子さんは部屋を出ていく。つい助けを求めるように松ヶ枝さんを見ると、「いきなさい」というように頷いていたのでおれは座ったばかりのソファから飛び上がって桐子さんに続いた。
 艶のあるフローリングの廊下、広い居間には大きな窓があり、豊かなひだのカーテンがかかっていた。窓と接する壁にも、また大きな出窓がある。居間から続くキッチンは、広くはないが片付いていて、染み付いた複雑な食べ物の香りがした。桐子さんはその一室一室を、静かだがよく通る声で説明していく。一階を回り切ると、桐子さんは螺旋階段へ向かった。ゆっくりと手すりを摑んでのぼっていく桐子さんの後に続いて、螺旋階段をのぼって二階へ行く。手すりの彫刻は細く繊細で、さぞ高価だろうと思った。天井からは小ぶりなシャンデリアが吊り下がっている。
「二階はここの居間のほかは、寝室と書斎になります」
「はあ……素敵ですね、どうもありがとうございます」
「書斎はこちらです」
 桐子さんはためらわず居間を出て、歩いて行く。どうやら必ず見なければならないらしい。すごいことにはすごいが、興味のない美術館を見学しているような気分だ。執務時間中におれはいったい何を見せられているのだろう。
「どうぞ」
「失礼しま……うわ、すご」
 薄暗い部屋の中は、壁一面が書棚で埋まっていた。大学生の頃の、教授の研究室を思い出す。ほこりと経年劣化した紙の匂い。書物だけでなく、自作のファイルが主なようだった。『市立第一中学校一九八二~一九九〇』、『学校法人宝樹会 ユノール学園一九九四~二〇〇〇』などというように、市内の中学校名と年代が示されている。
「これは……?」
「生徒の進路ですよ。進学先と、就職先」
「え、全部ですか!? 市内の中学生?」
「まさか、全部は把握できませんけどね。いろんな伝手つてや昔お世話になった学校から情報をもらって。今は昔ほど、簡単に教えてくれなくなったので最近のものはないですよ」
 個人名はないので見ても良いですよ、と言われたが、手に取ったら崩れそうなほど劣化しているものもあったので、怖くて触れることは控えた。
「これはその……なんのために」
「この市からも毎年毎年、子どもは大人になっていくでしょう。どこの高校に行ったらこういう進学先があるとか、就職先はどこが強いとか、相談されたときの資料ですよ」
「はあ……香坂さんはずっと、そういう相談役を」
「もうしないって、言っているんですけどね。こんな年寄りに偉そうに指南されたところで、信憑性に欠けるでしょう」
 桐子さんはすたすたと書斎から出ていく。おれも部屋を出ると、室内の空気がこもっていたためか、新鮮な空気にほっと胸が緩んだ。
 一階の客間に戻ると、松ヶ枝さんと百合子さんはのほほんとおしゃべりしながら紅茶を楽しんでいた。終わった? というように、松ヶ枝さんが顔を上げる。
「いやあ、すごかったです」
「ごめんなさい、お付き合いいただいて」
 百合子さんがわずかに眉を下げて言った。
「昔からよく、家を見せてほしいと言われると姉は喜んで見せて回ったの。最近は来てくださる方もほとんどないものだから、はりきったんでしょうね」
「香坂先生は?」
 松ヶ枝さんに尋ねられ、後ろを振り返るといない。一緒におりてきたものだとばかり思っていた。
「部屋に戻ったんでしょう。ちょっと様子を見てきましょうかね」
 百合子さんがゆったりとした足取りで部屋を出ていく。彼女の姿が消えてから、おれは人の家であるのを忘れて大きく息をついてソファに腰を下ろした。
「すんごいお宅ですね。昔、長野で泊まったペンションをさらに豪華にしたみたいだ」
「書斎も見せてもらった?」
「はい、あれ、全部香坂さんがご自分で作られた資料ですか?」
「そうですよ。民生委員になってからはあまり用がなくなったけれど、スクールカウンセラーをしていた頃は、進路に悩む生徒の相手をしたときなんか、よく香坂先生のあの資料にお世話になったの。資料だけじゃなくて、先生に相談すると、スルッといいアドバイスをくれたりしたのよ。この市や、ここの人のことをよくご存じでいらっしゃるから」
「でも、『もうしない』みたいなこと仰ってましたけど」
「そうなのよ。急に、もう自分には相談しないでみたいなことを仰られてねぇ……それでも頼る人が絶えないみたいよ」
 わざわざおれを挨拶させに来た松ヶ枝さんも、まだまだ頼る気まんまんではないか。
 腕時計に目を落とした松ヶ枝さんは、「百合子さんが戻ったらそろそろおいとましましょうか」と言って、ティーカップの紅茶を飲み干した。
 立派な人もいるもんだな、と雑な感想を思い浮かべ、おれも冷めた紅茶に口を付ける。
 しかしあの資料で埋め尽くされた書斎は、なにか執念に近いものを感じさせた。研究者でもなく、現在教育関係に身をおいているわけでもないのに、三〇年以上前の資料まで保管してあるとは。
 厳しい先生だったんだろうな……と、桐子さんのぴんと伸びた背筋や鋭い眼光を思い出し、知らず知らずこちらも背筋が伸びた。
「部屋で休んでましたよ。ご挨拶もなく、すみませんね。近頃姉もとんと疲れやすくなって」
 百合子さんが戻ってくると、松ヶ枝さんは再度急な来訪を詫び、いとまを告げた。
「よろしければまたお立ち寄りになって。年寄りの二人暮らしですから」
 ありがとうございます、と社交辞令に対し頭を下げたおれの横で、松ヶ枝さんが「そうだ」と両手を合わせた。
「何か、お困りのこととかありませんか? せっかく若い男手があるんだから」
 と、まるで自分が力になるかのような口ぶりで言った。おいおい、と思ったが、聞く前から「できません」と断るわけにもいかない。水道課にいたときも、「ちょっと水道の調子が悪いんだけど」と修理業者のように扱われることがあったのを思い出す。
「まぁまぁ、お気遣いいただいて……実は、廊下のシャンデリアの電球が一つ切れているの」
 ぺろりと舌でも出しそうな茶目っ気のある表情で、百合子さんは口元に手を当てて言った。可愛らしい表情に、おれも素で笑ってしまった。
「お取り替え、しましょうか」
「甘えてもよろしいかしら」
 階段の踊り場から脚立に登り、シャンデリアを手繰り寄せて電球を取り替えるというわざは八〇歳の女性には無理だろう。おれは、高さに目をくらませながらもなんとか電球を取り替えた。薄く埃を被った古い電球を、階段の下に立って作業の様子を見上げていた百合子さんに手渡す。
「助かりました。一つ切れているだけで、随分暗く感じるものだから」
 煌々とすべての明かりがついたシャンデリアを見上げて、百合子さんが嬉しげな顔をするので、まぁ役に立てたのならよかった、とおれも満ち足りた気持ちになった。
「少しお待ちくださいね。お礼になにか……」
「あぁ、お気遣いなく」
 今度こそ帰ろうとしたおれたちに、百合子さんはこちらの制止を聞かず家の奥へと引っ込んでいった。
 松ヶ枝さんは「百合子さんが私にまで気を回すといけないから、先に車に戻っていますね」と言ってさっさと庭を抜けて出ていく。
 玄関先に取り残されたおれは、輝くシャンデリアを見上げながら、所在なく百合子さんを待った。
「お帰りになるの?」
 降ってきた平坦な声に、弾かれたように顔を上げた。二階の階段のそばから、桐子さんがこちらを見下ろしている。
「ああ、はい、お邪魔いたしました。また市の関係でお世話になるかと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「青葉さん」
「はい」
 驚いた。名前を覚えてもらっているとは思わなかった。桐子さんは、慎重に手すりを摑み、階段をおりてくる。スリッパを履いた足元がぐらつきやしないかと、ヒヤヒヤしながら見守った。
「家をご案内しましょうか」
「え? 先程……」
 桐子さんは、おれの顔をじっと見つめたまま動きを止めた。「Loading……」の文字が頭に浮かぶ。
「お庭はご覧になった?」
 ロードが終了したらしい。
「いえ……あの、でも、お花や木の剪定せんていなんか、素敵ですね」
「ご案内しますよ。どうぞ」
 桐子さんは迷いなく三和土におりると、履物を引っ掛けて玄関を出ていく。
 またか。また、宮殿見学に行かなければならないのか。
 おれはなかなか戻ってこない百合子さんが消えた方を振り返りつつ、桐子さんを行かせっぱなしにすることもできなくて、靴を履いて外へと出た。
 玄関ポーチの両脇に咲いた花はこぼれんばかりに咲き誇っていたが、ポーチから離れ、玄関からは見えない横庭の植物は、生け垣と立派な桜の木以外どこか元気がなかった。
 廃れているとか、散らかっているというわけではないが、南側に家があるせいか、影が落ちて寂しい雰囲気がした。梅雨前のためか、ややじめじめしている。
 庭師が整えているのは、生け垣だけのようだ。立派な桜の木が植わっていたが、地面に落ちた桜の葉は掃かれておらず、茶色く変色している。ガーデニングや庭いじりを楽しんでいる様子ではなかった。
 桐子さんが桜の木を見上げて言った。
「この家を建てたとき、こんな大きな木なんて手入れに困るでしょうって言ったんですけどね。教え子が……植木屋をしてて、新築祝いにって」
「ははあ、立派ですね。もう何年くらい経つんですか?」
 桐子さんはおれに視線を戻し、質問には答えなかった。聞こえなかったのかと思ったが、しばらくしてから「建てたのが……平成一四年だから」と答えが返ってきた。
「じゃあ、今年で二二年ですね」
 一瞬長いように感じたが、同時にざらつくような違和感もあった。
 二二年前なら、この人はすでに六〇前後だったはずだ。そんな頃にこの家を建てたのか。姉妹で暮らすために?
 なぜ?
 疑問は、桐子さんが葉を踏んださくりという音に断ち切られた。
「春だけですけどね、桜が咲くと二階の窓からよく見えて、それは綺麗なの」
「いいですね、家で花見ができるなんて贅沢で」
 家で花見、という自分の言葉に、ふと既視感を覚えた。
 十字の格子がついた二階の窓から、咲いた桜の木を見下ろす視界が脳裏によぎった。
 思わず、今いる場所から二階の窓を見上げた。想像した通りの十字の格子がついた窓があり、中はカーテンが閉まっていた。
「あの部屋……」
 口に出しかけて、思いとどまる。違う。見上げた景色に見覚えはない。
「あの部屋は、書斎ですよ」
 桐子さんがおれの目線の先を追って、言った。
 桜、窓、二階。息苦しいほど狭い空間で、かつて、おれはどこかに膝をついて立ち、桜を見ていた。浮かされたように、口を開く。
「……昔、母とどこかの家の中から花見をしたことがあったんです。ちょうどあの部屋みたいな、洋風の窓から……それこそもう、二〇年以上前の話ですけど。あそこはさっき見せていただいた書斎の窓ですか」
「ええ。今はもう、書棚で窓を半分塞いでしまったので見えませんけどね」
 桐子さんは目を細めて、桜の木に視線を戻した。おれが記憶をたぐりよせようと躍起になっていたためか、桐子さんも、何か記憶をたどっているように見えた。
「大きな家が欲しかったの」
 子どもがねだるような口調だった。自分よりはるかに年上の女性であることを忘れ、おれは続きを促すように頷いた。
「この辺りは、立派な家が多いでしょう。嫁入り道具、祭り道具、祝菓子なんかの問屋がたくさんあって、どこも景気が良かった。私がお世話になった家も小間物問屋をしていて、部屋は何室もあったしどこよりも早くテレビが観られた。私が居候の分際で大学にまで行けたのも、その家のおかげだった」
「はぁ、じゃあ先生のこのお宅もそちらの家が?」
 話の調子を合わせたに過ぎなかったのだが、強くぜるような視線が飛んできて、口をつぐんだ。一瞬だが、破裂するような怒りを感じた。
 息を吞むおれに、桐子さんは静かに「いいえ」と言った。
「この家は、すべて私が働いて貯めたお金で建てたの。土地も、家も。家の間取りも、庭の構図も、すべて私たちが考えたの」
 私たち。
「こちらにいらっしゃいましたか」
 玄関と庭をつなぐ小道に、百合子さんが立っていた。目を細めておれたちを見ている。おれは一気に現世まで引き戻されたような感覚がし、何度か瞬きをして百合子さんに焦点を合わせた。
「すみません、お庭を見せていただいていました」
 ありがとうございました、と桐子さんに頭を下げて、おれは逃げるように百合子さんのもとへと歩み寄った。
 百合子さんは、両手に白いビニール袋をぶら下げていた。
「こんなものしかなくて……よければお持ちになって」
「いやいや、本当に結構ですよ、お気遣いいただかなくて」
 片方のビニール袋に目をやる。うっすらと、メロンの網目が見えた。
「職場で𠮟られるかしら?」
「あ、そうですね……こういったものをいただくのは」
「じゃあ」
 そう言って百合子さんはもう片方の手に持っていたビニール袋をおれに差し出した。
「お昼にどうぞ。パックに詰めたから、食べた後は捨ててもらえれば」
 ばれないんじゃないかしら。百合子さんは、また茶目っ気のある表情で含み笑いをした。
 ふんと、甘じょっぱい砂糖醬油の香りに鼻の穴が広がった。そろそろ昼時で、実は腹が減っていた。
「いなりずし。ちょうど今朝作ったばかりだから。お嫌いじゃなければ」
 めまいがするほどうまそうな香りだった。
 近頃とやかく言われることが多くなった公務員倫理が頭をよぎったが、本能的な欲望に負けて、おれはへらりと笑って「じゃあ、お言葉に甘えて」とビニール袋を受け取っていた。
「姉が、ご迷惑をおかけしませんでしたか」
「え」
 百合子さんの言葉に、つい後ろを振り返る。いつの間にか、桐子さんの姿がない。
「無理やり、こちらまでご案内したのでしょう」
「いえ、無理になどでは……あの、このお宅にとても思い入れがあるというお話をお聞きしていました」
 恐縮するおれに、百合子さんは微笑んだ。
「姉の矜持きょうじなの。この家を、自分の力で手に入れたということが」
 どういうことだかわからなかった。癖になった曖昧な相づちを打つと、百合子さんは「お気をつけて」と言っておれを見送った。
 車に戻り、松ヶ枝さんを自宅まで送ると、おれはまっすぐ市役所へと戻った。ちょうど昼休みに入った頃で、受付カウンターでは一人、客の対応が続いていたものの、地域福祉課の数人は昼飯をとっていた。
 百合子さんにもらったビニール袋からプラスチックパックを取り出す。子どもの拳サイズはありそうな巨大ないなりずしが六つ、並んでいた。かぐわしい香りを放つ割に、よく冷えていた。
「ん、うま」
 一口かぶりついて思わず声が漏れた。隣に座る係長が横目で視線を走らせたのがわかり、すぐ口をつぐんで咀嚼そしゃくに集中した。酢飯は優しく酢が効いていて、刻まれたにんじんやしいたけなんかがまざっている。この野菜たちも、味付けがしてあるようだ。
 なにより、あげがうまい。滴りそうなほど出汁と甘辛い醬油が染みていて、嚙むと口の中でじゅくっと音がした。頰張った唇がてかてかとしてくる。
 夢中で一気に平らげた。平らげてから、満腹になったことに気付いた。
「青葉くん、おいしそうなの食べてたね」
 いつも仕事中に雑談をふっかけてくる係長が、案の定興味深げにこちらに首を伸ばしてきたので、「はい、うまかったです」と手短に答えてパックをビニール袋にしまった。
 給湯室のゴミ箱にビニール袋を捨てながら、巨大ないなりずしをせっせと仕込む百合子さんの姿を想像した。同時に、切実な顔で桜の木を見上げる桐子さんを思い出した。百合子さんを思い出すと不思議と懐かしいような素朴な気持ちになるのに、桐子さんを思うと、自分が何か大切なものを忘れているような胸のひっかかりを覚えるのだった。 

 一時間ほど残業して帰宅すると、ソファで母が伸びていた。リビングのテーブルには仕事の資料が散乱している。いつものことだ。おれは声もかけず冷蔵庫に向かう。作り置きの炭酸水を喉を鳴らして飲んだ。
 冷蔵庫の開け閉めの音で母が気付いたらしい。「おかえり」としなびた声で言う。
「ただいま。飯は?」
「まだ」
「『はならん』で炒飯買ってきたから」
「ありがと~」
 ハウスデザイン会社で働く母は、納期とやらが近づくと大体朝も昼も夜もなく働き、仕事が一段落するとこうして家の至る所でしかばねと化す。五〇を過ぎてその働き方は身体を壊すと何度言っても聞く耳を持たない。仕事が好きなのだ。
 四年前、未曽有みぞうの感染症が日本のみならず世界を席巻して母の仕事は完全テレワークに移行した。市役所への入庁が内定していたおれは、四月から始まる新社会人としての生活がどうなるのか不安で仕方がなかったが、市役所の仕事は出勤しないことには始まらない。大勢でひとところに集まる新人研修などがすべてすっとばされ、毎日出勤した。のんびりと(しているように見えた)自宅で仕事をする母を恨めしく見やりながら。
 温め直した炒飯と青菜炒めと餃子をつつきながら、互いに話すこともなくもくもくと食事をとる。
 母が、おれの顔色を窺うように視線を上げた。
「……ビール、飲んでいい? 火曜だけど」
「いいよ」
「あんたは?」
「飲む」
 半分こね、と言って母はロング缶の発泡酒を二つのグラスに分けた。
「母さん、仕事終わったならリビングの資料片付けてよ。失くすぞ」
「ごめんごめん。いやぁ、やっと終わったわ。クライアントが納期ぎりぎりに修正って」
 母の愚痴を聞き流しながら、ふと、今日の出来事を思い出した。生き生きと愚痴をこぼす母の話を遮って訊く。
「なぁ、子どもの頃、どこかで花見したことあったっけ」
「花見? そりゃあ、幼稚園のお花見遠足とか、小学生のときも河津桜かわづざくら見に行ったじゃない」
「そういうのじゃなくて、どこかの家の中から桜見ながら、飯食ったりしたことなかったっけ。小学生とかじゃないと思う。もっと小さい頃」
「家?」
 母はしばらく考えていたが、思いつかなかったようで「どうしたの、急に」と尋ねた。
「いや、思い出して。絶対、どこかで見たんだけどな……」
 記憶の欠片を掘り出すように、指先がテーブルを削る。食卓のテーブルに敷いたナイロン製の透明のシートの下には、幼稚園の頃のおれが貼ったのであろう、鉄道の写真やシールが色褪せたまま貼り付いている。そう、ちょうど電車がたまらなく好きになり始めた、幼稚園の頃の記憶だと思う。シートの上からドクターイエローのシールをなぞりながら「うーん」と唸った。思い出せない。
 母はおれの顔をじっと見つめていたかと思うと、「それって、ここに引っ越すより前のこと?」と訊いた。
「いや、わからない。そもそも、東京でのことはほとんど覚えてないし」
「そっか」
 心なしか、母はほっとしたように見えた。
 母は、母曰く恥知らずの最低クズ男だった父と離婚して、幼いおれを連れて東京からこの地に引っ越してきた。建築デザイナーという手に職があったので、ほどなく仕事と住む場所が安定し、以来ずっと、二人で暮らしている。
 幼い頃は、明るく優しく働き者の母だったが、自分が大人になるにつれ、仕事が終わると飲んだくれるし寝汚いぎたないし仕事の資料は片付けないし、母の至らないところが見えるようになってきた。もしかすると、母が隠さなくなったのかもしれないが。
 おれが子どもの頃は、母は父の悪口などけして言わなかった。おれが成人し、初めて一緒に酒を飲み交わしたその日、今まで抑え込んできた鬱憤うっぷんを晴らすかのように父への罵詈雑言ばりぞうごんをぶちまけた。
 男女のことだから深くはわからない。だが、身内から見て特に人として問題がない母が離婚した男など、ろくでもないのだろうとは想像していた。とはいえその男の血が自分にも半分は流れている。耳が痛かった。
 父の記憶はあるにはあるが、そういう人がいたかも程度で、ほとんど覚えていない。花見の記憶も、きっと、東京ではなくこの地に引っ越してきてからのはずだ。
「家って、どんな家? 花見をした場所」
「いや、それもよく思い出せないんだよな」
 しいていえば、今日訪れた香坂さんの家がかなり近いような気がする。狭く、埃っぽい空間で、窓には十字の格子がついていてそこから見下ろすように桜が見えた─
「なぁ、東京から引っ越してからずっと、高倉たかくら市内だったよな?」
「え、うん。そうよ」
 高倉市に住むことを決めたのは、ちょうど市営住宅に空きがあったから、と聞いている。転校の多かった母は子どもの頃近くに住んでいたこともあるようだ。近隣の市町村に比べ、当時ではいち早く高校生まで医療費が無料だったり中学校まで給食があったりと、子育てにも手厚かったそうだ。おれが小学二年生に上がる年からさらに広い今のマンションに引っ越した。
 おれが勤める市役所も、香坂さんの家も、高倉市の隣の市だ。すぐ隣とは言え、おれが子どもの頃に香坂家に出入りしたことがあるとは考えられない。やはり別の場所だろう。
「なにをそんなに思い出したがってるの?」
 母は早々になくなったビールグラスを、名残惜しげに傾けた。おれの方はと言うと、記憶をたどるのに必死であまり進んでいない。ぬるくなりつつあるビールを口に含んで、母の問いに首をひねった。
 なぜだろう。なぜか、思い出せもしないあの花見の瞬間が、とても大事な時間だった気がする。
「あ、明日お弁当作ろうか。たまには」
「いい。適当に買うから」
「いつも何食べてるの? ちゃんと食べてる?」
「食ってるよ。庁舎の前に弁当屋が売りに来てる。激安。二八〇円」
「この値上げの時代に? おかしなもん入ってんじゃないの」
 話しながら、昼に食べた百合子さんのいなりずしの、甘いあげの味を思い出した。炒飯で腹がいっぱいだというのに口内に唾液が溜まった。
 また何かの折に会うことができたら、うまかったですと伝えたい。あわよくば、もう一度食べたい。
 母との話を適当に切り上げ、皿洗いを押し付け合う。毎日朝食の皿洗いを任せていることを持ち出され、渋々おれが洗うことになった。
 このときは、香坂家の二人ともう会うことができないなど、思いもしなかった。

※続きは発売中のさいわい住むと人のいうでぜひお楽しみください。

■ 著者プロフィール
菰野江名(こもの・えな)
1993年生まれ。三重県出身、東京都在住。裁判所書記官として働きながら『つぎはぐ、さんかく』(応募時の「つぎはぐ△」を改題)で第11回ポプラ社小説新人賞を受賞し、デビュー。

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