ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 小説連載一覧
  3. 手間暇かかった判りやすい見立て殺人③

手間暇かかった判りやすい見立て殺人③

     *

 とりあえず別荘内に戻った。

 紅林刑事と二人、階段をどんどん降りる。

 茫然としてばかりはいられない。白瀬くんを冤罪から救わなくてはならないのだ。

 このままでは熊谷警部達が、寄ってたかって白瀬くんを犯人に仕立て上げてしまう。何とかしなくては。その思いだけが木島を突き動かしていた。

 一度、殺人現場に戻ることにした。

 最下層の大浴場。

 現場百遍という刑事の心得を聞いたことがある。改めて現場を見れば、何か閃くことがあるかもしれない。木島はただの随伴官であり、探偵の技能など何も持ってはいない。しかし何かをせずにはいられなかった。白瀬くんを冤罪に落とすわけにはいかないのだ。

 狭い地底トンネルみたいな、急勾配の階段を降りる。大浴場に至るこの階段はちょっとしたアトラクションのようで、恐ろしいことこの上ない。長く、梯子段みたいな急斜面だ。うっかりしたら転げ落ちる。両側の手摺りを掴んで、恐る恐る下がった。律儀な紅林刑事も、黙ってついてきてくれる。

 長い階段が終わりかけ、大浴場の全貌が見渡せるようになってきた。そこで木島は仰天して、あやうく転がり落ちそうになる。

 湯気でもうもう々とした大浴場。その洗い場の黒い石の床。そこに人が倒れていたのだ。

 志我少年のさっきの言葉が頭に蘇る。

「第二第三の犠牲者が出るかもしれない」

 大変だ。また殺人だ。しかも同じ場所で。二人目の被害者が出た。

 また毒殺か、はたまた直接的な危害を加えられたのか。

 大慌ての木島は、被害者の許に駆け寄った。

 と思ったら、やにわに倒れている人物が起き上がった。

「うわあっ」

 突然のことに、思わず声を上げてしまう。驚いて尻餅をつきそうになる。後ろから来た紅林刑事が、背中を支えてくれた。

 死体が蘇った。というわけでは、もちろんない。別に死んでなどいなかっただけである。大浴場の床に立ち上がった人物は、木島も見知った男だった。

 すらりとスマートな長身。端整な顔立ち。ざっくりと羽織ったジャケット。二枚目ぶりを台無しにするぼさぼさの頭髪。見間違えようがない。

「勒恩寺さん」

 木島は思わず、彼の名を口にする。

 そう、床に寝そべっていたのは、自称名探偵、勒恩寺公親きみちかその人であった。

 勒恩寺は薄い唇に微笑を湛え、こちらに視線を向ける。

「おや、俺のことを知っているようだね。これはいよいよ名探偵としての名声が高まってきたということかな。失礼だが、どなたですか」

 また忘れている。木島はがっくりくる。毎度これだ。そんなに印象が薄いのか自分は、と若干気落ちしながらも、

「僕ですよ、木島です、随伴官の、警察庁の」

 そこまで云ってようやく勒恩寺は、

「ああ」

 と、驚いたように目を見張る。

「やあ、君だったか、奇遇だね、こんなところで」

 とんちんかんなことを云う。探偵と随伴官が事件現場で出会うのは奇遇でも何でもない。むしろ普通だ。

「君も来ていたんだね、ああ、また会えて嬉しいよ」

 さっきまで忘れていたくせに、しれっと勒恩寺は云う。

「勒恩寺さんこそ何をしていたんですか、床に寝転んで。死体かと思ってびっくりしましたよ」

「なあに、死体発見現場がここだと聞いてね、死者の視点がどんなものかと思って、試しに追体験してみていただけだ」

「何か判りましたか」

「いや、さっぱり判らん。死人の気持ちは掴めないものだね」

 要領を得ないことを云っている勒恩寺を、紅林刑事に紹介する。

「県警捜査一課の紅林です」

 変人の奇行に毒気を抜かれているだろうに、紅林はあくまでも生真面目に挨拶している。

 勒恩寺は陽気に、

「やあ、初めまして、俺が勒恩寺です、名探偵の。どうぞよろしく」

 脳天気に握手を求めている。やたらとフレンドリーだ。

 そういえば志我少年が、軽佻浮薄と評していた。このノリの軽さは、高校生にそう云われても仕方があるまい、と木島は思う。

 それで思い出した。

「そうそう、勒恩寺さん、さっきまで志我くんがここにいました」

「おお、少年探偵か。相変わらず小生意気だったかな。どこへ行ったんだ、姿が見えないけれど」

「それが、帰っちゃったんですよ、作馬さんの時と同じで」

 と、木島はさっき地上で交わしたやり取りを説明した。勒恩寺はおかしそうにくつくつと笑うと、

「少年はまだまだ青いねえ、若いから完璧主義に縛られる。もう少し融通を利かせることを覚えないと、つまらない大人になっちまうといつも忠告しているんだがね」

 面白い大人の代表格みたいな男は、そう少年探偵を評する。

「さて、木島くん、これからどうしたものだろうね」

 勒恩寺は他人事のように云う。視線はなぜだか、シャワーの隣に立てかけてあるデッキブラシのほうを向いている。

 そうだ、面倒くさい人だけれど、来てくれたのは助かった。探偵としての実力は、あの完璧主義の少年探偵も一目置いていた。頼もしいといえば頼もしい。

「事件の詳細をまだ知らないでしょう。説明しますよ」

 木島の提案に、勒恩寺は涼やかな笑顔で、

「オーケー、いつになくやる気だね、木島くん。しかし風呂場で突っ立ってミーティングというのも変だ。まずは落ち着けるところに移動しよう」

 変人が極めてまっとうなことを云った。

                  *

 梯子のような階段を上がってリビングに出た。

 そこのソファに三人で座った。

 勒恩寺と木島が向かい合わせで、紅林刑事は三角形の頂点の位置に腰を据える。

 ここで前回同様、木島のボイスレコーダーが役に立つこととなった。勒恩寺に事件の経緯を伝えるためだった。今日一日、あちこちで録音した音声を、探偵は三倍速で聞き、紅林刑事が補足としてタブレット端末の写真を見せた。

「というわけで、志我くんが帰ってしまって、今後の指針を見失っていたところなんです」

 木島は説明をそう締め括った。

「なるほどなるほど、よく判った」

 と、ソファの上で足を組んだ勒恩寺は、ふんぞり返った行儀の悪い姿勢で、何度かうなずいた。

「僕としては、やはり見立ての謎が気になっています。龍神湖の岸辺に切断した足を並べて脛斬り姫の伝説を再現するなんて、正気を失っていないのなら犯人は一体何のつもりなんでしょうか」

 木島が訴えかけると、自称名探偵はふんぞり返ったまま、見下すような目でこちらを見て、

「木島くんには判らないのかい」

「さっぱりですね」

「でも、志我くんは判ったと云ったんだろう。高校生に読み解けた謎を、大の大人の君が判らないなんて、おかしいじゃないか」

「別におかしくありませんよ。僕は探偵じゃないんだし」

「でも、警察庁のれっきとしたお役人様だろう。少年に負けて悔しくないのかい」

「いいえ、特には」

「つくづく自己評価の低い男だねえ、木島くんは。変なやつだなあ」

 と、勒恩寺は機嫌よさそうに、にんまりと笑って上体を起こすと、

「紅林くんといったね、一課の刑事の君の意見も聞きたい。どう思うかね、見立ての謎を」

 突然話を振られて、紅林刑事はちょっと慌てて、

「いえ、自分も五里霧中です」

「犯人の意図が判らないかい」

「ええ、まったく」

「雁首並べて情けないね、君達は。生意気盛りの高校生にも敵わないなんて」

 酷い言い草で勒恩寺は、それでもなぜか上機嫌で両掌を揉み合わせる。

 そこへ、ドアが開いて一人の男が入ってきた。門司清晴だ。貧相に痩せた体躯の清晴は、木島達三人がソファに座っているのを見て立ち止まった。

「門司さん、自室で待機を、と何度もお願いしたでしょう」

 生真面目な紅林刑事が早速苦言を呈する。

「いやあ、申し訳ない」

 こそこそしているのを見つかった清晴はバツが悪そうに、奥のキッチンまで行き冷蔵庫を開ける。

「こいつを取りにきただけですんで、どうかご勘弁を」

 と、コーラの缶を掲げてこちらに見せると、すぐにぷしゅっと開けている。よほどの好物らしい。

 木島は、志我少年が云っていたことを思い出す。犯人はすでに毒薬をどこかに仕込んでいるかもしれない。注意する前に清晴は、缶に口をつけてうまそうにごくごくと飲んでいる。まあ、缶入りだからめったなことはないか、と木島がその姿を見ていると、勒恩寺が視線の動きでそちらを示して、

「ひょっとしたら、彼が門司清晴氏かな」

 木島は答えて、

「そうです、被害者の弟さんの」

「やっぱりそうか、声が録音のものと同じだ」

 探偵が云うと、清晴はコーラの缶を持ったままこちらに寄って来て、

「私がどうかしましたか」

「いえ、ご挨拶しようと思っていたところです。お目にかかれてよかった」

 機嫌のよさそうな勒恩寺に、清晴は怪訝そうな目を向けて、紅林に尋ねる。

「こちらはどなたでしょう。あまり警察の人らしくは見えませんけど」

「そう、そんな野暮な連中と一緒にしてもらいたくはありませんね。俺は探偵、しかも名探偵、勒恩寺といいます。どうぞお見知りおきを」

 と、名刺を差し出す。

「これはご丁寧にどうも」

 受け取った清晴は、目をぱちくりさせている。それはそうだ。“名探偵 勒恩寺公親”としか印刷されていない名刺を渡されたら、誰でも面喰らう。

「時に清晴さん、ちょうどあなたに聞きたかったことがある。今、いいですね」

 十年来の知己ちきのごとく馴れ馴れしく勒恩寺は、

「まあ、とりあえず座って」

「はあ」

 と、コーラを片手に不得要領な顔つきの清晴は、ソファの空いている席に腰かける。

 勒恩寺は、馴れ馴れしい態度のままで、

「ひとつ質問に答えてください」

「ええ、私に答えられることなら」

「昨晩、バーベキュー会の席であなたはまめまめしくゲストの世話を焼いていたそうですね。後片付けにも積極的に参加して。どうしてですか」

「どうしてって、ホスト側の者としては当然でしょう」

 ちょっと困惑した様子の清晴に、勒恩寺は遠慮のない口調で、

「それだけの理由で、ですか」

「ええ、まあ」

「土日を潰してサービスを? 得心がいきませんねえ。あなたはお兄さんの会社とは全然関係ない立場ではないんですか。なのにどうして、ホスト側としてかいがいしく働かなくてはいけないんです?」

 と、勒恩寺は詰め寄る。厚かましさのパワーに気圧されたのか、ため息をついて清晴は、

「判りました、自白しますよ。どうせこれから警察に洗い出されて、すぐに明らかにされる事情でしょうから」

 と、ちらりと紅林刑事を見て、

「兄に頭が上がらない理由があるんです。実は借金をしていましてね、兄から。離婚の時、慰謝料をたんまり持っていかれたんです。私の有責だったから、向こうがいい弁護士を雇って。法外な額を毟り取られたものですよ。それで兄に泣きついた。その返済も、このところ滞りがちでね。そのせいで兄の云うことに逆らえなくなった。だからせっせとご機嫌取りに滅私奉公しているんです。会社の慰労会をやると云われれば、休日返上でへいへいと手伝いに来る。やもめ、、、暮らしで炊事はそこそこできるんで。それだけの話です」

「なるほど、そういう理由が。うん、よく判りました」

 と、納得顔の勒恩寺は両掌を摺り合わせて、

「では木島くん、関係者全員を集めてくれないか。警察の捜査陣も含めてね。一番広そうなのはここだな、このリビングでいい。すぐに集合させてくれたまえ。一人残らず、全員を」

「何をするんですか」

 疑義を呈した木島に、勒恩寺は、さも当然といわんばかりの顔つきで、

「決まっている、解決編さ。名探偵が全員を集めるように指示を出したんなら、それしかないだろう。名探偵による謎解きの名場面が始まるんだ」

「ということは、解決したんですか、事件を」

 ここで事情を聞いただけで解決なんてできるものだろうか、と木島が幾分驚きながら尋ねると、

「もちろんだ」

 勒恩寺は自信たっぷりにうなずく。そして、にんまりと笑うと、

「俺の論理がそう告げている」

                   *

 紅林刑事にも手伝ってもらって、全員に声をかけた。

 門司清晴は何が始まったのかときょろきょろしている。

 最初にリビングに入って来たのは門司真季子だった。不安そうな顔つきで、

「ここに集合するように云われたんですけど、何でしょうか」

 辺りを見回して少し怯えた様子だ。

 次に入って来たのは一谷英雄だ。

「突然の招集にはどんな意味があるのでしょうか。そろそろ帰してもらいたいのだが。社長があんなことになって会社での処理が色々あるから」

 と、明瞭な発音で淡々と云う。銀縁眼鏡の奥の目は、相変わらず冷静そのものである。

 そして最後に、白瀬直と熊谷警部がやって来た。

 警部はいきなりの呼集に不満そうだった。捜査責任者を差し置いての勝手な指示には、不機嫌になるのも当たり前のことだろう。

 白瀬直は、まだ困惑している様子だった。自分の置かれた理不尽な状況が呑み込めていない、という顔つきである。彼は両脇をがっちりと固められていた。例の黒豹と狼の両刑事が、腕を片方ずつ押さえているのだ。手錠こそ填められていないけれど、実質的に拘束されている。熊谷警部は彼の容疑が揺るぎないものと信じているらしい。これでは冤罪が生まれてしまう。

 木島は、勒恩寺の耳にそっと、

「問題の白瀬くんです」

 と、冤罪から救うべき人物であることを教える。

「判った」

 短く答える勒恩寺が、頼もしく感じられた。

 こうして関係者全員が揃った。

 ソファだけでは席が足りないので、ダイニングの椅子も動員する。それで皆が、ローテーブルを囲んで車座になった。

 木島はそっと見回して、集まった面々を確認する。

 門司清晴、門司真季子、一谷英雄、そして白瀬直。容疑者メモに記された四人である。それに加え、熊谷警部に紅林刑事。そして肉食獣系刑事の二人組。二人は白瀬の両脇を固めたままだ。絶対に逃がさないという強固な意志を感じさせた。

 勒恩寺が、すっくと立ち上がった。

 スマートな二枚目なので、その立ち姿は決まっている。ただし髪が乱れてぼさぼさだから、格好良さは若干割り引かれていた。

 勒恩寺はよく通る声で話し始める。

「皆さん、よく集まってくださいました。初めまして、私は勒恩寺公親、探偵です。いや、正確にいえば名探偵です。これから事件の解決編を始めようと思います」

 熊谷警部は、不満を隠そうともせずに、

「これは何の茶番ですかな。こんな権限が誰にあるというんですか」

 非難する口調で云った。木島は平身低頭で、

「すみませんすみません、しかし彼は警察庁嘱託しょくたくの正規の探偵です。どうかここは警察庁の立場に免じて、どうかお許しを。お願いします」

 それでどうにか、警部は黙った。権威側に立つ警部としては、警察庁という錦の御旗にだけは弱い。鼻を鳴らして、むっつりとした顔は変わらないけれど。

 門司清晴は、不思議そうに名探偵と名乗った男を見上げている。

 門司真季子は、不安そうに視線を左右に動かしている。

 一谷英雄は、冷静そのものの態度で落ち着き払っている。

 そして白瀬直は、途方に暮れたみたいに、やはり困惑顔のままだった。

 そんな関係者一同の様子を見渡してから、勒恩寺はどっかとソファに座った。

 その場にいる誰より大きな態度で、勒恩寺は口を開く。

「さて、今回の事件は、この別荘の持ち主でもある門司重晴氏が毒殺され、両足を切断された挙げ句、脛斬り姫の伝説に見立てられるというものでした。今からこの事件をすべて解決していきますので、ご静聴をお願いします」

 勒恩寺は、自信たっぷりに云う。

「ではまず、見立てについて考えてみましょうか。私の随伴官も大いに気にしている、脛斬り姫伝説の見立てです。これは確かに一見、見立てに見えます。遺体の足は脛の部分で切断され、それが龍神湖の湖岸に並べられていた。脛斬り姫伝承のラストシーンにそっくりです。印象的な場面ですからね。しかしこれは本当に見立てなのか。私は甚だ疑問に思うのです。ひょっとしてこの見立ては成立していないのではないか。そう思うのです」

 のっけから何を云い出すのか、この探偵は。誰がどう見ても見立てだろう。そんな木島の疑念をよそに、勒恩寺は云う。

「脛斬り姫伝説の眼目は、姫様が人身御供になった点にあります。自身の命と身を湖に投じて、龍神様の生け贄になった。重要なのは湖に身を投げ、命を捧げたところにあるはずなのです。献身的に民のためを思った姫様の行いこそが、重要なはずなのです。入水した事実がメインであって、湖畔に残された脚部の場面は、云ってみればつけたり、、、、でしかないのですよ。そして、今回の見立ては、この最も重要な要件を満たしていない。そう、成立していないのです。もし本当に脛斬り姫の見立てを構築したいのならば、脛から下の足を湖岸に残した上で、本体の胴体部分は湖に投じないといけない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。ここまでしてようやく、見立てとして完全になるはずでしょう。そうしないと未完成なのですから。しかし犯人はそうしなかった。どうしてでしょうか」

 勒恩寺に問いかけられた気がして、木島は思わず口を挟んで、

「最も印象的な場面を再現しただけなんじゃないでしょうか。だって胴体は重いし、湖まで運ぶのは大変ですよ」

 すると勒恩寺はにんまりと笑って、

「おお、いいことを云ったな、木島くん、今君は本質を突いたぞ。さすが俺の随伴官だ。しかし今はそれは置いておこう。とりあえず見立ての話を進めるぞ」

 と、一同のほうに改めて向き直って、

「象徴的な場面の再現ならば、尚のこと胴体は湖に投じなければならないのではないでしょうか。なぜならば、そこが脛斬り姫伝説のメインの部分だからです。難しいことではありません。殺害現場を湖畔にすればいいだけです。湖の近くまで被害者自身の足で歩いて来てもらって、そこで殺害する。そして脛をその場で切断して、胴体部分だけを引きずって湖にドボン。残った脚部は湖畔に並べておく。ほら、これで見立てはより完全な形になるでしょう。手間は大して変わらない。しかし、犯人はその手段は取りませんでした。なぜでしょうね」

「湖に沈んだら、胴体のほうは発見されない恐れがあります。それを警戒したんではないでしょうか」

「それはないんだよ、木島くん。そうでしょう、警部殿、脛から切断された人体の脚部が湖畔に並んでいたら、そして胴体部分が見つからなかったら、警察はどう動きますか」

 問いかけられて、仏頂面のままで熊谷警部は、

「もちろん、浚う。殺人と死体遺棄の可能性が高い。足が岸辺にあるのなら、胴体は湖の中にあるかもしれないと推定する。どこの警察でもそう考えるはずだ。船を出して湖の底を棒で浚い、潜水チームも潜らせて水中を捜索する。捜査とはそうした地道なものだ」

「大捜索になるでしょうね」

「無論だ」

 不機嫌そうな警部の答えに、勒恩寺は満足げにうなずき、

「万一警察の大捜索で見つからなくても、そのうち腐敗ガスで膨らんで死体は浮かんでくることでしょう。それほど巨大な湖というわけでもありません。胴体が発見されないということはないはずです。だから、もし犯人が見立てを万全に成立させるつもりだったのなら、胴体を湖に投じないはずがないのです。ところが犯人はそうしなかった。従ってこれは見立てなどではないと、私は判断します。少なくとも犯人にとって、脛斬り姫の伝説を再現するのが第一義ではなかった。それは確実といえるでしょう。つまり、足を切断した理由も、見立ての場面を作るのが目的ではなかったことになる」

「では、何のためにわざわざ脛を切断したというんですか。目的が判りませんよ。脛を切るのだって結構な大仕事でしょうに」

「おお、また木島くんが本質を突いたぞ。君はまったく随伴官向きだな。うん、脛を切るのは大仕事。これは後で重要なファクターになるから、皆さんよく覚えておいてくださいよ」

 と、教え諭すように云って勒恩寺は、両掌を揉み合わせながら、

「そう、木島くんの云うように犯人はわざわざ脛を切断した。しかしそれは見立てを成立させるためではない。では何のためでしょう。今回の事件ではこれが最大の謎になります。殺害するのだけが目的ならば、脛を切る必要などなかった。水筒にヒ素を投入すれば、後は自動的に目的は達せられるはずです。しかし犯人は、手間暇かけて切断した。わざわざ皆さんが寝静まった夜中に、大浴場まで降りて作業している。見立てを作るのが目的ではないのに、どうして両膝を切断したのか。これが本件での一番不可解な点です。この大きな謎を解くために、まずはいくつかの小さな謎を考察する必要があると、私は考えます」

 そう云って勒恩寺は、聴衆を見渡した。そして、

「まず、小さな謎のひとつ目。犯人は水筒に毒物を混入しました。大浴場で被害者がスポーツドリンクを飲みながら筋トレをする習慣を利用して、服毒するよう仕掛けました。そして深夜になってから、自らも死体のある大浴場に降りて行って、足を切断した。しかし、大浴場は他の人が来る可能性がゼロではありません。確かに皆さんは、大浴場を重晴氏専用スペースと認識していました。他の人は遠慮して、あまり行かないとの証言も出ています。けれど同時に、重晴氏の不在の時には大浴場を使わせてもらうこともある、との証言もありました。清晴さん、そうですね」

「ああ、確かにそう云いましたね。実際、兄が使わない時は私や真季子さんも、たまに温泉に浸かりに行ったりしていたし」

 そう清晴が肯定すると、勒恩寺は満足げに、

「そう、特に重晴氏の筋トレが終わって、本人が疲れて寝てしまった深夜など、この時間帯ならば誰かが気まぐれを起こして、たまたま入浴しに来ないとも限らない。深夜の大浴場は、誰かがいきなり現れるかもしれない、犯人にとっては危険な場所なのです。そんな場所で悠長に足を切断などしていたら、見つかってしまう恐れがある」

 と、勒恩寺は、ぼさぼさの頭髪をざっと片手で掻き上げて、

「確かに浴場は、血液などを流してくれて、証拠をすべて洗い流してくれるメリットがある。だから凄惨な作業をするには、もってこいの環境なのかもしれません。しかし、あくまでもベターでしかありません。ベストの場所ならば他にあります。いうまでもなく被害者の自室です。重晴氏の泊まっているあの部屋ならば、誰かが気まぐれを起こしてふらりと入浴に来る危険はない。何より鍵がかかります」

 勒恩寺の言葉で、木島は重晴の部屋にあったドアノブのロック機構を思い出していた。

「誰かが何か用事があって重晴氏を訪ねて来たとしても、鍵がかかっていれば、突然ドアを開かれる恐れはありません。鍵をかけておけば、ああもう寝てしまったんだなと、諦めて立ち去ってくれるでしょう。ロックしていれば誰にも邪魔されず、そして切断現場を目撃されることなく、ゆっくり作業に没頭できるはずです。どうです? これがベストでしょう。布団などで覆って切断すれば、返り血もある程度防げるし、周囲が血塗れになるのも抑えられるでしょう。各部屋にバストイレ付きなので、犯人の手についた血痕はバスルームで洗い落とせるはずです」

 と、ちょっと血生臭いことを云ってから勒恩寺は、

「どのみち死体は次の朝には発見されるのです。それは大浴場でも被害者の私室でも同じことです。どうせ発見されるのだから、部屋の中が血で汚れていても構うことはないでしょう。深夜、訪ねて行って、撲殺などの手口で殺害してもいいし、どうしても毒殺にこだわるのなら、何か飲み物を差し入れてもいい。ドアのロックの指紋から、被害者は鍵をかけて眠る習慣はなかったようなので、寝込みを襲うのもありですね。そして殺害後、中から鍵をかけて、ゆっくり切断に取りかかれるというわけです。どう考えてもこれがベストでしょう。被害者の部屋というベストの場所があるにもかかわらず、犯人は大浴場を切断場所に選んだ。さあ、これはどうしてでしょうか。作業の途中でひょっこりと第三者が顔を出すかもしれない、ベターでしかない場所を選んでいるのです。これが謎のひとつ目。①犯人はなぜ大浴場を現場に選んだのか」

 勒恩寺はそう云って、全員の顔を見回した。誰も何も答えなかった。この疑問に解答できないのだろう。もちろん木島も、うまい答えを思いつかなかった。

「次に、小さな謎のふたつ目です。道具小屋で血痕が見つかっていますね。地上に建っている木造の小屋だ。紅林くんが見せてくれた画像にあった。血痕が残っていたのがどこか、覚えているね」

 勒恩寺に問われ、紅林刑事は少し固くなって、

「はい、鉈の柄の部分に付着していました」

「そう、部位はどの辺だったかな」

「柄の横の部分でした。刃に近いところです」

 紅林は若干緊張しつつも、テンポよく答えている。

「その鉈はどんな状態で置いてあった?」

「他の道具に混じって、横に積み重なっていました」

「結構。それで、その血痕は誰のものだった?」

「被害者のものと推定されています。血液型が一致していますから」

「よろしい。皆さん、聞きましたね。紅林刑事の報告で、道具小屋の鉈に被害者の血液が付着していたと判明しました。脛を切断したノコギリも、この小屋から持ち出されたものでしたね、警部殿」

 熊谷警部は眉をひそめたまま、

「ああ、そうだな」

「では、警部殿。この血痕が発見されたことから捜査に何か進展がありましたか」

「いや、特にない」

「誰か特定の一人の容疑が濃くなったとかは?」

「そんな事実はない」

「では、この血痕の付着が犯人の偽装だと私が主張したら、警部殿はどう思いますか」

「バカバカしい、と一笑に付すだろうな」

 と、実際に苦笑して熊谷警部は、

「そんなくだらん偽装があるものか。そもそも血痕は非常に薄かった。鑑識の綿密で地道な捜索でやっと見つかったものだ。偽装だったら、もっとはっきり判る形で残すはずだろう。べったりと血をつけた状態で。その上、鉈に血痕が付着していたからといって、我々の捜査方針に何か影響があったわけでもない。何の変換点ももたらさない偽装など、まるっきり意味がないだろう」

「だったら警部殿は、血痕は偽装ではないとおっしゃるんですね」

「無論だな」

「よかった、私と同意見です。そう、私も警部殿と一緒で、鉈の血痕は偽装などではないと思っているのです。つまり、犯人がわざと残したものではない、ということですね。そして、死体発見者の一谷さんの手や着衣に付着していたものが、偶然なすり付けられたのでもない。そうですね、一谷さん、あなたは死体発見後、道具小屋には行っていませんね」

「ええ、もちろん」

 と、突然の指名にもかかわらず、一谷は顔色ひとつ変えず、冷静な口調で、

「道具小屋に用事などありませんから。だいいち警察から自室待機を要請されていた。地上に出ることなどできません」

 その答えが期待していたものだったようで、勒恩寺は楽しそうに両掌を揉み合わせて、

「発見者の一谷さんが付着させたのではない、そして犯人が故意に残したものではないことも警部殿の推測で判っています。となると当然、犯人の意図とは別に付着してしまった、と考える他はありませんね。つまり、この鉈の血痕は犯人がうっかり残してしまったものだ、と断定しても構わないでしょう。そうすると今度は、いつ如何なる状況で血痕が付着したかが問題になります。そこでふたつ目の謎です。②鉈の血痕はなぜ付着したのか」

 勒恩寺はここでまた、一同を見渡す。誰も言葉を発しないのを確認してから、再び口を開いて、

「そして、次の疑問点。その三です。皆さんはご存じでしょうか。被害者のスーツケースがなくなっていたことを。他にも色々なくなっていたそうですね、奥さん」

 いきなり名指しされて、真季子夫人はぎくりとしたようだったが、一度大きく息をついてから、

「ええ、なくなっていましたね」

「具体的には、何です?」

「スーツケースの他には、着替え、シェーバー、歯ブラシセット、整髪料、スマホの充電ケーブル」

「日用品ばかりですね。まるでご主人が旅支度をしたようだ、と奥さんはおっしゃった」

「ええ、そう見えました」

 真季子夫人はうなずく。そこで勒恩寺は熊谷警部のほうへ視線を向けて、

「そして警察の報告には、スーツケースが別荘内のどこかで見つかった、というものはありませんでした。スーツケースと被害者の身の回りの物は、別荘の外へ持ち出されたと考えるしかないようです。さあ、これが三つ目の謎です。③スーツケースはなぜなくなっていたのか」

 と、聴衆を見回す。皆、固唾を呑んで探偵の話に聞き入っている。その様子に満足したように、勒恩寺は不敵な笑みを浮かべて、

「さて、三つの謎が並びました。これをひとつずつクリアにしていきましょうか。まず『③スーツケースはなぜなくなっていたのか』。一応聞きます、どなたか重晴氏のスーツケースを見ていませんか。身の回りの物がどこへいったのか、ご存じのかたはいらっしゃいませんか」

 全員が、互いに顔を見合わせる。一様に怪訝そうな表情になっていた。誰も答える者はいないようである。

「この際、盗みの罪は問わないことにしましょう。警部殿もお目こぼししてくれることでしょう。お心当たりのあるかたは、今名乗り出ないとマズいことになりますよ。ここで申し出ないと捜査妨害になって、犯人隠避の罪に問われる可能性が出てきます。警部殿もそこまでは大目に見てはくれないでしょうね。もし自分が盗ったというかたは、今すぐ白状してしまってください。今ならまだ間に合います」

 しかしやはり、皆、顔を見合わせるだけだった。門司清晴がおずおずと、

「いないようです。兄のスーツケースなど盗んだところで使い道はないですし、誰も盗ったりはしないと思いますよ」

「そうですか。だったら被害者本人か、もしくは犯人が持ち出した、ということになりますね。さて、どちらでしょう」

 と、勒恩寺は両手を広げて見せて、

「状況としては一見、被害者本人が旅行にでも出かける準備をしていたふうにも見えます。着替えなどの日用品を一式詰めて、次の朝に出発するから車のトランクに積んだか、駅のロッカーにでも預けたか。それでスーツケースがなくなっていた、というように見えるのです。昨日の夜、重晴氏はいつものように大浴場での筋トレに勤しんでいますから、荷造りをしたのは昼間のうち、だと推定される。しかし、それだと一点、納得のいかない品が混じっているのですよ。旅行の何時間も前には、まだ荷物に入れないだろうという物です。判りますか。それは、スマホの充電ケーブルです。普通、長い旅に出るのならば、携帯電話は出発の直前まで充電しておくことのほうが多いでしょう。前もって荷物に充電ケーブルを入れるようなことをするとは、ちょっと考えにくい。他の品は、昼間の内にスーツケースに詰めて準備を調えたとしても整合性が取れます。しかし充電ケーブルだけはいただけません。早朝に出立するのなら、就寝時に充電する。夜中に旅立つのなら、出かける直前まで充電ケーブルに挿しておく。たいてい誰もがそうするでしょう。長旅に出るのなら、携帯はその前にフル充電にしておきたくなるのが人情ですから。充電ケーブルは出発の直前まで使っていて、最後に手回り品としてポケットやバッグにでも入れるものです。前もってスーツケースに詰めたりなどしない。さあ、これで判りましたね。スーツケースは被害者本人が持ち出したものではないのです。充電ケーブルがなくなっているのが、持ち主当人が荷造りしたのではないことの何よりの証左となるのです」

 と、勒恩寺は乱れた髪を、ざっくりと片手で掻き上げて、

「そして、皆さんの中にもスーツケースを持ち出した人はいませんでした。となると、残りは犯人だけなのです。犯人が前もって持ち出したと考えるしかない。死体が発見された後で、持って出たとは思えませんね。警察がやって来て、刑事さん達が大勢、別荘内を闊歩している最中に、大きなスーツケースをごろごろ引きずって歩くわけにはいきませんので。犯人は、事件発覚前にスーツケースを別荘の外へ持ち出しているのです。恐らく、死体の足を切断する前でしょう。後だと、切った脚部の処理と重なって煩雑になるでしょうから。皆さんが就寝のために解散した直後かもしれませんね。持ち出した後の処理はさほど難しくないでしょう。重りを詰めて龍神湖に沈めてしまうのもいいでしょう。昼間の内に買い出しという口実を作って駅まで行って、東京行きの特急列車の網棚にでも載せてしまうのもいいかもしれない。東京駅には毎日大量の遺失物が集まりますからね。日用品の詰まったスーツケースのひとつぐらい、その遺失物の山の中に混じっても、駅員さんもそれが犯罪に関わる品だとは、夢にも思わないことでしょう。『③スーツケースはなぜなくなっていたのか』。その解答は『犯人が持ち出したから』。それしかあり得ません。犯人が何の理由でそうしたのかは、後ほどはっきりさせましょう」

 別にもったいぶるふうでもなく、勒恩寺はそう云う。そして続けて、

「次は『②鉈の血痕はなぜ付着したのか』。この謎を突き詰めてみます。まず、どのタイミングで血がついたのか。昨夜の犯人の行動を追ってみましょう。まず犯人は、バーベキューの後片付けの混乱に乗じて、水筒に三酸化二ヒ素を混入しました。これで殺人の準備は終わりです。そして、関係者の皆さんが寝静まるのを待ち、被害者が確実に毒入りドリンクを飲んだ頃合いを見計らって、行動開始です。まずは地上に出て道具小屋に行きます。ノコギリを持って行かなくては切断作業ができませんからね。道具小屋の鍵は、玄関の内側の壁にぶら下がっています。内部にいた人ならば、誰でも使うことができます。そして、ノコギリを手にして大浴場へと降りて行く。被害者が毒で死んでいるのを確認してから、ノコギリで両足を切断します。ノコギリの指紋を拭ってその場に置くと、今度は切り取った両足を抱えて階段を上り、外へ出ます。闇の中を湖畔まで歩くと、岸辺に両足をセット。見立ての場面を作ります。この時は、懐中電灯か何か使っていたのかもしれませんね、外はまっ暗だったでしょうし。それから別荘に戻って、自分に割り当てられた部屋に戻ります。そして朝になったら他の皆さんと合流し、後は大浴場の死体が見つかるのを待つだけです。おや、これはおかしいですね、鉈に血痕が付着する機会がないじゃないですか」

 と、勒恩寺は芝居がかりに、自分の言葉に驚いた振りをすると、

「血痕が付着したのはいつでしょうか。犯人が最初に、ノコギリを取りに道具小屋に入った時でしょうか。いや、それはありませんね。この時はまだ、犯人が大浴場に降りる前です。被害者の死体に触れもしていないのですから、ここで血痕が残るはずがないのです。よしんば一旦大浴場に行って死亡を確かめてからノコギリを取りにいったとしても、この時はまだ切断の前なのですから、血が出ているはずもない。ですからやはり、この時に血痕が付着したわけではないことになります」

 と、勒恩寺は続ける。

「では切断した後でしょうか。この時ならば犯人の手か衣服に血液がついていて、その血が鉈になすり付けられた、とも考えられます。しかし犯人には、切断した後、道具小屋に立ち寄る用事などないはずなのです。切断に使用したノコギリは大浴場に残しています。道具小屋に返しにいったわけではない。両足を龍神湖の湖畔に置きに行く前に、道具小屋に寄る必要があるとも思えません。犯人が道具小屋に入る用事があるのは、ノコギリを取りに行った最初の一度きりのはずなのです。そう考えると、鉈に血痕が付着するタイミングなど、そもそもどこにもない道理になってしまいます。これは変です、どこかが間違っているのです。はて、どこが間違っているのでしょうか」

 と、再び芝居がかって首を傾げて見せると、勒恩寺は、

「血痕のついた鉈が道具小屋で発見されている。これは取りも直さず、脚部切断後に犯人が道具小屋に立ち寄ったことを意味しています。被害者の死因は毒殺で、切られた脛以外には外傷はないのですから、鉈に付着した血痕の出所は、この部位と考える他はありません。では、何のために立ち寄ったのでしょうか。意味もなく立ち寄るはずもない。殺人という重大事件の最中です、犯人にはよほどやむを得ない理由があったのでしょうね。さきほど警部殿が云ったように偽装工作などではない以上、何か絶対に道具小屋に立ち寄らなければならない事情が、犯人にはあったに違いないのです」

 勒恩寺は、熱の籠もった瞳で一同を見回してから、

「そこで、血痕の位置に注目してみましょう。さっき紅林刑事が説明してくれたように、血痕は鉈の柄の横の部分、刃との境目に近い箇所に付着していました。そして、他の道具類に混じって積み重なっていた。これは普通に考えて、犯人の手や衣服についた血が、うっかりこすれて付く位置ではありませんね。道具類は横になって積み重なっていたのですから、もしこすれて付いたのならば、柄の底面に付着するはずです。こちらを向いているのは、柄の底の部分だけなのですから。持ち手の、刃に近い部分に血痕があったということは、それが付着した時は鉈は積み重なった状態ではなく、棚から外に出ていたことを示しています。積み重なった柄の横っ腹に付着していたのですから、血が付いた時はそこではない他のところに出ていたと考えるしかないのです。どこに出ていたのでしょうか。道具小屋の床? いやいや、それはないでしょうね。犯人がノコギリ以外の道具を取り出す必要はないのですから。では、鉈はどこに出ていたのか? 床などよりもっと相応しい場所があります。そう、大浴場、すなわち切断現場です。血痕はそこで付着したと見るのが最も自然ではないでしょうか。道具小屋にやって来た犯人の着衣に付いていた血が、こすれて付いたとはちょっと考えにくい。なぜならば、鉈は他の道具類の下敷きになっていたからです。そんな場所にあった柄の部分に、偶然なすって付けてしまった、ということは起こり得ないことです。そう考えるよりも、血塗れの切断現場で直接、犯人がうっかりこすってしまったと考えるほうが、はるかにありそうな話です」

 勒恩寺は続けて云う。

「そう考えると、犯人が何のために道具小屋に立ち寄ったのかも説明がつきます。もちろん、他ならぬ鉈を戻しに行ったわけです。犯人は、鉈に血痕が付着していたことに気がついていなかったはずです。もし気がついていたのなら、きれいに洗い流しているか、鉈そのものを湖にでも放り込んで処分してしまっていたことでしょう。犯人の心情として、血痕などの証拠になりそうな物は、できるだけ処理してしまいたいはずですからね。道具小屋に戻したことから、犯人が血痕の付着に気づいていなかったことが判るのです。犯人は、鉈にほんの少し血痕がこすれてしまったことを知らずに、道具小屋に戻した。そして、その血痕が付着した場所は、大浴場だった可能性が極めて高い。そう、犯人が大浴場に持ち込んだ道具は、ノコギリだけではなかったのです。ノコギリの他に鉈も持ち込んだ。そう考えれば、血痕の問題はすべてすっきり解消するのです。そして鉈だけではありません。道具小屋で、鉈の上に積み重なっていた物は何でしょう。はい、紅林くん」

 小学校の教師のように、勒恩寺は紅林刑事を指さす。いきなり名指しされて紅林は動揺しつつも、

「小型の手斧、糸ノコ、片刃のノコギリ、そういった物が載っていました」

「そう、鉈の上には他の刃物が載っかっていたんですね」

 大変よくできました、と云わんばりの口調で勒恩寺は、

「犯人は鉈を棚に戻したわけですが、しかし他の物が上に載っているのは変だとは思いませんか。もし普通に戻すのならば、一番上にひょいっと載っければいいはずです。下のほうに突っ込む必要はまったくないのです。犯人は鉈に血痕が付着していることに気づいていなかったのですから、一番上に置くことに何の抵抗もなかったはずなのです。ところが実際には、鉈の上には他の道具類が積み重なっていた。その理由を考えるに、その上に載っていた道具、それらもまた犯人が持ち出していたと考えるのが最も自然です。戻す時、ごちゃっとひとまとめに置いたので、それで鉈が他の道具類の下敷きになってしまったわけです。つまり、手斧、糸ノコ、片刃のノコギリ、そして鉈に、実際使用した両刃のノコギリ、この少なくとも五種類の刃物を、犯人は持ち出した。無論、その中の鉈とノコギリのふたつだけを大浴場に持ち込んだと考えるのは不自然ですね。全部持っていったと推定するのが、最もあり得そうな話なのです」

 そう云って勒恩寺は、一同の顔を見渡した。

「鉈の血痕の位置、そして積み重なった他の道具類の状況、それらを総合的に考えると、そう結論づける他はないのです。これで②の疑問点は解消しましたね。『②鉈の血痕はなぜ付着したのか』。答えは『犯人が鉈を始めとした複数の刃物を切断現場に持ち込んだから』。こうとしか考えられません」

 勒恩寺はそこで一拍、間を置いて、皆が理解しているかどうか顔色を窺ってから、

「さて、これで核心に近づいてきました。犯人は多数の刃物を携えて大浴場に降りて行った。そこにはヒ素入りドリンクを飲んで死亡した遺体がひとつ。多数の刃物にひとつの死体、です。犯人が何をしようとしていたのか、これで想像がつきますね。複数の刃物に遺体がひとつ。可能性はひとつしか考えられない。ノコギリで足を切断して、ノコギリが血脂の付着と刃こぼれで使えなくなったら、糸ノコに持ち替えて今度は腕を切断する。糸ノコがダメになったら鉈で首を切り落とし、手斧で胴体の背骨を断ち切る。犯人は複数の刃物でそうしようとしていたのではないでしょうか。刃物を多数持ち込んだ理由としては、それしか考えられません」

 木島はその言葉に仰天して、

「ちょっと待ってください、勒恩寺さん、それってバラバラ殺人じゃないですか、、、、、、、、、、、、、

 すると、勒恩寺はにんまりと人の悪そうな微笑みで、

「その通り。今回の事件は、、、、、、バラバラ死体になりそこなった死体が発見された事件、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、だったのですよ。さあ、一番大きな謎はこれで解明できました。木島くん、ここでひとつ質問だ。バラバラ殺人のメリットは何だと思う?」

「もちろん、死体を運びやすくする、そして隠しやすくする、この二点ですね」

 木島が答えると、勒恩寺は満足げにうなずき、

「そう、被害者は筋トレマニアで大柄、体格もがっちりしている。当然、体重もある。そのままでは大浴場の急勾配の階段を引きずり上げるのは到底不可能、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、だ。だから犯人は死体を小分けに分割して運び、、、、、、、、、、、、、やすいようにした、、、、、、、、。これが今回の事件の全貌だよ」

 勒恩寺の言葉に、木島はあの大浴場に至る梯子段みたいな階段を思い出していた。両側の手摺りを掴んでいないと転がり落ちそうになる、恐ろしい角度の階段だ。しかもそれが、2フロア分くらいの長さがある。確かにあの滑り台じみた階段で、重い物を引き上げるのは無理があるだろう。

「さっき木島くんは、胴体は重くて湖まで運ぶのは大変だ、と発言しただろう。それが本質を突いていたのだよ。重くて運ぶのが困難な死体は、バラバラにして運ぶしかない。さあ、木島くん、ここでもうひとつ質問だ。バラバラに死体を切断するとしたら、君だったらどこから切る?」

 そんな恐ろしいこと、僕はしないよ、と思いながらも、木島はつい律儀に考えてしまう。

 首は切り落とすのはエグいよな、顔が近いし、これは後回しにしたいな、慣れてからのほうがよさそうだ。胴体もないな、色々と気色悪いものがでろでろと出てくるだろうし、これも後回しだ。腕も、顔が近いから嫌だな、死に顔を近くで見るのはなるべく後にしておきたいし。とすると、やっぱり最初に切断するとしたら――

「足、でしょうかね」

 と、木島は答える。勒恩寺は我が意を得たりとばかりに、

「そう、その通り、足だ、それが一番いい。もちろん犯人もそうしたことだろう。まず脛の部分を切断した。そこでさっき木島くんが本質を突いた、もうひとつの発言が意味を持ってくる」

 そう云われてもピンと来ない。はて、何か云ったっけ、僕は。と、木島が考え込むと、

「忘れてもらっては困るな。君はこう云ったんだよ。『脛を切るのだって結構な大仕事だ』と。犯人にとっても予想外の大仕事だったんだろうね。脂で刃が滑る、筋が引っかかる、筋肉の繊維が刃先に絡みつく、骨も想像していたより数段硬い。両方の脛を切ったところで犯人は悟った。これは全部切るのは到底無理だと。多分、思っていたのより遙かにキツい作業で、くたびれ果てたんだろうね。木島くんの言葉通り、結構な大仕事だから。足の切断面から、解剖の知識のある者の手による仕事ではなさそうだ、というのが監察医の意見だったはず。犯人は素人なのだろう。恐らく、報道などでバラバラ殺人のニュースを見て、あれだけ世間で多く起きている事件なんだから、そんなに難しくはないと想像していたのかもしれない。しかし、いざ自分でやってみると予想以上の重労働だ。さらに時間も限られている。朝になったら、誰か起きてくる。それまでにはすべてを片付けておかないといけない。タイムリミットに間に合わないと判断したのだろうね。両脛を切ったところで断念せざるを得なかった。死体を隠すのを諦めたんだ。胴体は重くて、勾配の大きい階段を引きずり上げることは不可能だからね。大浴場の、外向きに開いている壁のないところから落としても、下は森や茂みが繁茂していて、人が近づけない状態だ。藪がひどくて、後で猫車などを使って回収に来ることもできそうにない」

 ああ、思い出した。覗き魔の心配をした時、下の森は誰も入り込めそうもないと、木島も思ったのだった。

 勒恩寺は、聴衆を見渡して言葉遣いを改めると、

「犯人ははやむなく、死体を大浴場に放置することにしました。下の藪に落としても、すぐに発見されることには変わりはありません。切断に使ったノコギリも、指紋を拭うだけで置いておくことにした。これだけ隠しても意味がないですからね。ただし、バラバラにする計画だったことは隠しておきたかった。そこで使わなかった鉈や手斧などの刃物は、道具小屋に戻しておいたわけです。戻さずに現場に残しておいたら、多数の刃物イコールバラバラ死体という、今の私の連想と同じ筋道を辿って、捜査陣に元の計画を気取られてしまう危険があります。使わなかった刃物は、道具小屋に戻しておくのが一番安全です。しかし実際は、うっかり鉈に血痕を残してしまいましたが、慌てていた犯人はそれに気付くゆとりはなかったのでしょう。そしてさらには、切断した両足の処理にも困った。その場に胴体と一緒に置いておけば、やはりバラバラ計画に気付かれる恐れがあります。困った挙げ句、苦し紛れに思いついたのが脛斬り姫の伝説だったのです。関係者は皆、話し好きの五十畑老夫婦に聞かされて、あの伝説を知っています。それを利用して、湖の岸辺に両足を並べておけば、あたかも見立てのように見える。そう思いついた犯人は、まるで見立ての場面を作るのがメインの目的で、そのために足を切断したかのように装ったわけです。ただ、最初に申し上げたようにこの見立ては不完全です。胴体を湖に投じなければ、見立ては完成しない。しかし、追い込まれた結果の破れかぶれの選択です。不測の事態なのだから、不完全なのには目をつぶるしかなかったのでしょうね。時間に追われていた犯人には、何とか誤魔化して見立てもどきにするのが精一杯だったのでしょう。まあ、そんなその場しのぎで安易な思いつきの工作なのに、それを手間暇かけてわざわざ作った凝った見立てだと勘違いしてしまったそそっかしい者が捜査陣の中にいたようですが」

 と、勒恩寺は、少し皮肉めいた顔でにやりと笑って、こちらに流し目を送ると、

「こうして朝になり、湖には見立ての如き両足が置かれ、大浴場ではバラバラ死体になり損ねた死体が発見されるという事態になったのです」

 勒恩寺の言葉に、木島は疑問点を述べて、

「しかし、さっきから勒恩寺さんは、犯人がバラバラ計画を隠したがっていたと何度も云っていますけど、どうして犯人はその計略を知られたくなかったのでしょうか。そんな苦しい見立てもどきの場面なんか作らなくっても、両足も大浴場に置いておいても構わなかったんじゃないですか」

 自分が見立てにすっかり目を晦まされ、犯人の偽装に引っかかっていたことを棚上げにして、木島は尋ねる。すると勒恩寺は、ちょっと強く首を振って、

「いやいや、バラバラにする計画がバレたら、犯人の正体がすぐに露見してしまうだろう」

「えっ、なぜですか。そんなことで犯人が判明したりするんですか」

 少し驚いた木島を、勒恩寺は手で制して、

「まあまあ、木島くん、焦らずに。それはこれから説明するよ。その前に、犯人の計画について話しておこうか。犯人はバラバラにして運びやすくした死体をどうするつもりだったのでしょうか。恐らく当初の計画では、小分けにした死体は、道具小屋にあった麻袋にでも詰めて、ひとつずつ地道に、地上階まで担ぎ上げるつもりだったのでしょう。そうやって外に運び出し、重りを括り付けて湖にでも沈める予定だったのか、はたまた森の中へひっそりと埋めてしまう算段を立てていたのか、いずれにせよバラバラにして各パーツを小さくしたほうが隠匿が容易で、処理するにも都合がよかったのでしょうね。埋めるにしても、ひとつひとつの穴は小さくて済みますから」

 と、一同を見渡し、勒恩寺は云う。

「そしてここで謎①の解答が導き出されるわけです。『①犯人はなぜ大浴場を現場に選んだのか』。もうお判りですね。大浴場はお湯がふんだんに使えます。ベストのはずの被害者の個室では、バラバラにするのは難しいでしょう。痕跡が残りすぎてしまいます。血液や体液、細かい肉片、その他諸々を、普通の部屋できれいに後始末をするのは困難を極めます。その点大浴場ならば、お湯を使い放題です。汲めども尽きぬ温泉が湧いていますからね。犯人としてはバラバラにした痕跡を、きれいさっぱり洗い流したかったのでしょう。バラバラにした死体を全部処分してしまえば、殺人事件のあった痕跡も消してしまうことができる。これが大浴場を殺害現場に選んだ理由です。床に肉片や内臓の欠片などが散らばったとしても、デッキブラシでかき集めて、壁のないところからまとめて落としてしまえばいい。崖の下に落ちたブツは、森の中の野生動物達がおいしく始末してくれることでしょう。デッキブラシで床を磨いておけば、何の痕跡も残らない。無論、殺害だけは被害者の個室で行うという選択もあったでしょうが、それでは後の処理に困ります。あの部屋は遺体を外に運び出すのに向いていません。廊下に無駄なアップダウンがあるからです」

 云われて、被害者の部屋に向かった時に下がって上がった階段を思い出した。廊下の途中にあった、アスレチックみたいな急角度の階段だ。筋トレマニアの主人が大腿筋などを鍛えるボーナスステージと考えていたと覚しい、あの階段。

「重い死体を引きずってあの急階段を上がり下がりするのは、大変難しいでしょう。だからといって、部屋でバラバラにできないことは先程述べた通りです。もちろん野外で殺害すれば、こんな苦労はすることもないのでしょうが、ここは別荘地です。都会と違って夜はまっ暗になることでしょう。そんなところに被害者を呼び出すのも不自然ですし、闇の中では殺害も、死体の処理も困難です。発電機で灯りをつけたりしたら、他の別荘に泊まっている人に見られる恐れがある。何より返り血や死体から流れる血を、洗い流すことができません。やはり大浴場で、たっぷりのお湯を使いながら切断するのが効率がいい、と犯人も考えたのでしょう」

 と、ここで勒恩寺はぼさぼさの髪を片手で掻き上げ、ちょっと間を取り、

「死体を大浴場で切断してすべてを無くしてしまう。刃物類もきれいに洗って道具小屋に戻しておく。毒殺に使用した水筒も洗ってヒ素の痕跡を消し、キッチンにでも置いておく。そしてもちろん、被害者の遺留品のバスローブやスマホの処分も忘れない。さあ、どうでしょう。こうすれば事件など何も起きていないも同然に見えます。そこで謎の③が活きてきます。『③スーツケースはなぜなくなっていたのか』。夜が明け、泊まっていた皆さんが起き出すと、門司重晴氏の姿が見えない。別荘の中のどこにもいない。大浴場は洗い清められているから何の痕跡もない。個室にもいない。しかしよく調べてみると、スーツケースが見当たりません。重晴氏の身の回りの品々もなくなっている。これはどう見ても、重晴氏が自分の意志で姿をくらませたとしか思えないではないですか」

 と、一同に問いかけるように勒恩寺は云う。そして、

「スーツケースはそのための、犯人の手による仕込みだったのですよ。重晴氏が自ら出かけたように見せかける仕掛けだったわけです。ひょっとしたら『探さないでください』などと書かれたメッセージのダミーも用意していたのかもしれません。重晴氏は姿を消して、そのまま戻って来ない。もちろん死んでいるのだから帰らないのは当然なのですが、そんな事情を知らないご家族はどう思うだろうね、木島くん」

 いきなりの名指しの質問に面喰らいながらも、木島は、

「えーと、失踪した、としか考えないでしょうね」

「そう。全国には年間、数十万人の失踪者がいます。重晴氏もその一人だと思われることでしょう。そういえば動機もある。見当がつくでしょう、ねえ、一谷さん」

 と、こちらは指名されてもやはり変わらず冷静なままの一谷は、銀縁眼鏡をくいっと指先で押し上げて、

「それは、会社の資金繰りが厳しい、という状況を示唆しているのでしょうか」

「そうです、社長さんにとっては経営の行き詰まりは、何より大きなストレスでしょうからね。表面上はけろっとした楽天的な態度でいても、内心ではひどく思い悩んでいたのかもしれない。失踪を知った周囲の人達は、きっとそう思うことでしょう。何もかも捨てて消えてしまおうと決意するほど落ち込んでいたのだな、と勝手に信じ込んでくれるわけです。さあ、それで警部殿、失踪の相談を受けたら県警は捜査をしてくれますか。草の根分けても失踪者を探してくれるでしょうか」

「いや、子供の失踪ならばともかく、成人男性が蒸発しただけではそこまではしないな」

 答えた熊谷警部の態度は、明らかにこれまでより軟化していた。語気も顔つきも、穏やかなものになっている。勒恩寺の謎の解明が、捜査に貢献しているのを認め始めているのだろう。

「捜索はしてくれないのですね」

 勒恩寺の問いかけに、熊谷警部はうなずいて、

「まあ、そうだな」

「大浴場のルミノール反応を調べたりはしませんね」

「ああ、無論だ。事件性があるのならともかく、ただの失踪では我々は動けない。そう決まっているんだ。事件とも呼べない出来事に割ける人員もいないからな。残念ながら、それが現状なんだ」

「そうでしょう、失踪者が出ても警察は動いてはくれません。せいぜい失踪人リストに名前と特徴を一人分、加えることくらいしかできない。行旅死亡人こうりょしぼうにんの身元を照会するためのリストですね。それが普通です。誰かがいなくなった程度では、公的機関は何もできないのです。そしてこれが犯人の企ての眼目なのだろうと、私は思います。殺人そのものを最初からなかったこととして、警察を介入させない。殺人者にとっては、これが最善の結末だとは思いませんか。死体をバラバラにして処分することで、殺人事件をただの失踪事件にスケールダウンしてしまう。犯人にとってこれ以上の成果はないでしょう。ただし計画は頓挫し、結果的に両足を切断された死体が残ってしまいました。そして犯人は苦し紛れの知恵を絞って、見立てをデッチ上げるのに奔走することになったわけです」

 と、再び皮肉っぽい笑みで、薄い唇を歪めた勒恩寺は、すぐに真顔に戻ると、

「では、最後の謎を解き明かしていきましょう。犯人は誰なのか。これが残った謎です。捜査陣は、内部に犯人がいると想定しているようですね。被害者が水筒を持って大浴場に降りる習慣であることを熟知していて、水筒にヒ素を混入する機会があったのもまた、内部にいる人間だけです。外部の者がこっそり別荘内に忍び入り、毒を盛ったり、大浴場に足を切断しに自由に行き来したと考えるのは無理がある。ごもっともです。私もこの警察の見解を支持します。内部犯の犯行と考えて差し支えないでしょう。犯人はこの中にいるのです」

 勒恩寺はついに断言した。その言葉に、門司清晴は驚いたように目を瞬かせ、真季子夫人は唇を一文字に引き締める。一谷は相変わらずクールなポーカーフェイスで、何の反応も示さなかった。

 そんな各人の顔を見渡して、勒恩寺は、

「犯人は毒殺という手法を使いました。メリットが多い手口ですね。今回のように、被害者が体格に優れている場合は、特に有効です。撲殺や絞殺を狙っても、筋トレマニアの激しい抵抗に遭えば、遂行は困難を極めるでしょう。ヘタをすればマッチョに返り討ちにされてしまう。その点、毒殺は殺害時に近づかなくてもいい、しかもアリバイも無関係。水筒に毒が混入されたのは、バーベキューの後片付けで皆が忙しなく立ち働いていた時です。機会は等しく、誰にでもありました。犯人一人が疑われる危険もありません」

 と、勒恩寺は云う。

「ただし、デメリットもあります。毒物は入手が難しい。これは大きな難点です。人間を即死させるような劇薬ともなれば、入手経路を辿られたら、たちどころに犯人に行き着いてしまいかねない。今回使われた三酸化二ヒ素は、東京の白瀬くんの引き出しの奥から盗まれたものです。これも犯人が内部にいることの傍証になりますね。外部の者には、白瀬くんの自室に隠してあった薬品を掠め取るのは困難ですから」

 と、勒恩寺はもう一度、容疑者候補達の顔を見回した。

「犯人の元々の計画では、今回の一件はただの失踪事件として片付けられる予定だった。となると、デメリットがひとつ消えることになりますね。そう、警察に毒物の入手経路を調べられる恐れがなくなるのです。失踪事件では警察は動かない。当然、毒物の出所も調べられない。犯人はそのつもりでした。ただ、考えてもみてください。門司重晴氏が失踪したのと同時に、隠しておいた三酸化二ヒ素が減っているのに白瀬くんが気付いたらどうでしょう。いや、気付かないはずはないでしょうね。ほんの少量でも致死性のある猛毒です。薬学部の白瀬くんが、慎重に保管していないはずがないのです。もちろん分量も、ミリグラム単位で正確に把握していたことでしょう」

 と、勒恩寺は続ける。

「重晴氏の失踪が警察に届けられる。それと同時に、白瀬くんが三酸化二ヒ素が減っていると警察に申告したら、どうなるでしょうか。どちらも同じ門司家で起こった出来事です。勘のいい刑事ならば、失踪事件と毒物の盗難を結びつけて、ピンとくることでしょうね。紛失した毒物は、ひょっとしたら失踪した重晴氏に使われたのかもしれない、と。犯人がこの危険性を考慮しないはずがあると思いますか」

 そう問いかける勒恩寺の言葉を遮って、木島はちょっと片手を上げて発言する。

「いえ、でも白瀬くんは、三酸化二ヒ素を大学の薬品庫からこっそりくすねています。白瀬くん自身にも後ろ暗いところがあるんですから、もしかしたら毒物の紛失も申し出ないかもしれません。自分の悪事も告白しなければならないんですから。犯人はその可能性に賭けた、ということはないでしょうか」

 しかし勒恩寺は、ゆっくりと首を振って、

「それはないんだ、木島くん。なぜならば、犯人は、白瀬くんがこっそり内緒で三酸化二ヒ素を持ち出したと、知っているはずがないからだ。薬学部の院生である白瀬くんが、合法的な、正規のルートで三酸化二ヒ素を入手しただけ、という可能性を犯人は必ず考慮するだろう。机の奥に保管してあるのは、誰かが間違って猛毒に触れたりしないよう配慮しているだけで、入手方法は何ら後ろめたい事情などないのかもしれない。犯人だってそう考えるはずだ。もし正規のルートで入手した毒薬だったら、それを盗んで使うのは犯人にとってあまりにも危険だ。後で白瀬くんが申告して、警察に知られるかもしれない。その可能性がある限り、三酸化二ヒ素はヘタに使うわけにはいかない。そんな足のつきやすい手段を取るくらいなら、いっそ大浴場に刃物でも持ち込んで刺殺を狙ったほうが、まだマシというものだろう。裸だから、水筒にナイフを隠し持ったりしてね。どうせならば古典に敬意を表して、氷で作ったナイフを使うなんていうのもいいかもしれない」

 余計な脱線をして、勒恩寺は喜んでいる。

 ふざけている場合ではないと思う。

「犯人の当初の目論見では、重晴氏の失踪はただの蒸発として片付けられ、警察の出動もない予定でした。だから当然、死因が毒殺だと露見しないつもりだった。バラバラ死体を処分してしまえば、司法解剖などされるはずもない道理ですからね。ところが計画通りに事は運ばず、死因がヒ素中毒だとバレてしまった。さっき私は、バラバラにする計画を隠さないと犯人がすぐに判ってしまう、と云いましたね。それはすなわち、犯人は事件が発覚などしない前提で行動していたから、遠慮なく自分の得意な毒殺という手口を選んだ、という意味なのです。逆に云えば、三酸化二ヒ素を使ったと露見すれば、その持ち主がまっ先に疑われるという意味でもあります。だからこそ犯人は、バラバラにする計画を悟られないように、必死の悪足掻きを見せたわけなのです。脛斬り姫の伝説を無理やり引っぱり出してきて、見立てのごとく見えるようにして誤魔化そうとしたのも、すべてはそのためです。バラバラにしようとしていたことが判明すると、犯人が一発で判ってしまう。ほら、これで犯人が判りましたね。さて、それで動機は何だったのかな、どうして重晴氏を殺害したのか、聞かせてくれるか、白瀬くん、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 おかしなことを云いだした勒恩寺に、木島は慌てて、

「ちょっ、ちょっと待ってください、何ですかそれは。それじゃまるで白瀬くんが犯人みたいじゃないですか」

「まるで、ではないよ、木島くん。白瀬くんが犯人だ、、、、、、、、と俺は云っている。今云ったように、白瀬くん以外の人物は毒殺という手段を取れない。そこで自動的に、唯一その条件から外れている白瀬くんが犯人だと断定できる道理だ。ただ、動機だけはいくら考えても推定できなかった。これじゃ少年探偵のことをとやかく云えないね。しかし、そこは志我くんとは違って、俺は完璧主義者ではない。判らないのなら本人に聞くのが一番手っ取り早いと思っただけだ」

 涼しい顔で、勒恩寺は云う。

 えっ? と、木島は後ろから膝をカックンとされた気分になる。

 白瀬くんが犯人?

 いやいや、いくら何でも、そんな安直な、と思いつつ、

「いや、だってそもそも、ヒ素が使われたから白瀬くんは犯人ではないって話だったんじゃないんですか。毒物を入手しやすいのは薬学部に通う白瀬くんだから、そんな露骨に自分が犯人だって証拠を残すわけがないって、そういうことじゃないんですか」

 木島の抗弁を、さらりと受け流して勒恩寺は、

「だからそれは、死体が発見されたから白瀬くん自身がそう主張したってだけの話だ。当初の計画では、三酸化二ヒ素を使ったことはバレない予定だった。このことはさっきから何度も云っているだろう。最初はただの失踪で終わらせるつもりだったんだって。しかしその計略を放棄せざるを得なくなって、白瀬くんは苦しい言い訳をするしかなくなったんだ。ヒ素が使われたから薬学部の自分が犯人だなんて、そんな身も蓋もないバレバレの殺人があるはずがないでしょう。と、そう開き直るしか手がなかったわけだ。実際は、毒物を入手しやすい白瀬くんが犯人である可能性が誰よりも高いんだが」

「それじゃそのまんま、、、、、じゃないですか」

 木島は呆れ返って叫ぶのが精一杯だった。何なんだ、それは。

 最初は、ヒ素が使われたことで白瀬くんが筆頭容疑者と目された。薬学部の院生だからで、熊谷警部もそう目星をつけていた。だが、本人がそれは違うと主張した。そんな、あまりにも露骨に怪しまれる犯行を自分がするなんてあり得ないだろう、と反論したのだ。

 木島はそれを信じた。

 確かにそんな安直な事件などあるはずがない、と。

 ところが、その安直が正解だと勒恩寺は云う。360度回って、結局元のところへ戻ってしまったわけだ。

 ああ、そういえば、この仕事に着任した時、上司の刑事局次長にも云われたっけ。世の中の大抵の事件はそのまんまだと。今回もそうだったわけか。見た通り、素直にそのまんまだったのだ。

 口をあんぐりさせながら、木島は、

「解決編って、捻らなくてもいいんですね」

「捻る必要がどこにある。これは探偵小説ではないんだよ、木島くん。ただの現実の殺人事件だ」

 勒恩寺は、しれっとした顔で、そう云った。

 その開き直りとも取れる態度を見ながら、もしこれが探偵小説ならば、これも意外な犯人ということになるのかなあ、などと木島は考えていた。

 捻りも工夫もなく、身も蓋もないそのまんまの犯人。意外性はここにあるのだろうか。読者に怒られるんじゃなかろうか。

 そんな木島の想いとは関係なく、勒恩寺は、

「犯人は三酸化二ヒ素を使った。それを持っているのは白瀬くんだけ。よって犯人は白瀬くんである。以上、証明終了。QEDだ。探偵の出る幕なんてなかったかな」

「本当にそのまんまなんですね」

「何か不都合でも?」

「いえ、ありませんけど」

 と、木島は口ごもる。やっぱり怒られるんじゃないかなあ、と心配になったからだった。

「でも、それじゃ引き出しの中に保管してあった三酸化二ヒ素が盗まれたかもしれない、という可能性は? 志我くんがそう推測していましたけど」

 おずおずと尋ねる木島に、勒恩寺はあっさりと、

「ないだろうね。あれは志我くんの思いつきだ。根拠のない、ただの想像上の仮定にすぎない。というか、口から出任せといったほうがいいかな。あの少年探偵、時たま嘘八百のもっともらしい理屈をデッチ上げて、大人を混乱させて楽しむ悪癖があるから」

 と、さらに脱力させることを云う。

「ちなみに、白瀬くんが大学の薬品庫からヒ素をくすねたのも、元々事件は失踪で終わる計画だから、バレるはずはないと踏んだんだろう。スポーツジム経営者が一人ひっそりと失踪した小事件など、大学関係者の耳に入る恐れはないはずだ。実際、刑事に呼び出されて確認させられるまで、教授も三酸化二ヒ素が減っていることに気づきもしなかったわけだからね。管理が杜撰だと、白瀬くんはよく知っていたんだろう」

 と、勒恩寺は、白瀬に顔を向けると、

「さあ、もう誤魔化しきれないよ、白瀬くん。君が犯人と判ったからには、警部殿達は君の周辺を虱潰しに捜索するだろうからね。滞在している部屋に、君の着衣に、血痕の一滴も残っていないと断言できるかい。あのスーツケースは完全に処理できたかな。湖を浚っても出てこないという確証はあるかい。そこに自分の指紋がひとつとして残っていないと云い切れるかな。見立てもどきを作る時に森の中を往復するのに使った懐中電灯。まさか自分の部屋に隠していないだろうね。毒の容器はどう処理した? 森の中へ投げ込んだとしても、警察犬が見つけ出すかもしれないよ。容器の指紋はちゃんと拭き取ったかな。死体を埋めるために、あらかじめ森に穴なんか掘っていないよね。そんなのが残っていたら証拠になるかもしれないよ。穴を掘った道具はしっかり始末したかな。道具小屋のスコップに君の指紋が残っていたりしないよね。さてさて、もう逃げられないよ。どうせなら洗い浚い喋ってくれないかな。動機は何だい。どうして殺した?」

 詰め寄るというふうでもなく、勒恩寺は穏やかに話しかける。

 すると、ずっと顔を伏せていた白瀬が、ゆるゆると勒恩寺のほうに向き直る。それで顔が見えるようになった。長い睫毛と憂鬱そうな瞳の色をしている。表情の抜けた虚ろな目つきで探偵の顔を見ると、低く抑揚に乏しい声で語り始める。

「あなたは不愉快な人ですね、何もかも見通しているみたいで。でも、そんなあなたにも見抜けないものがありますよ。僕の心の中が、どれほど冷たく煮えたぎっているか。憎悪の炎がどんなに冴え冴えと燃え盛っているのか。教えて上げますよ、あの悪魔の所行を。いいですか。僕の父は車の事故で死にました。自損事故として処理されましたが、実質的にはあの男のせいなんです。あいつは恒常的に父をさいなんでいました。ビジネスパートナーなんてとんでもない。ただのサンドバッグです。遊び半分で嗜虐性の犠牲にして、いたぶり続けてこき使っていた。父が事故を起こしたのも、あの悪魔に虐められ無理な仕事を押しつけられたせいで、慢性的な睡眠不足だったからだ。時間的にほぼ不可能な日程を組まされて、急いでいたせいもある。最近、父の当時の同僚だった人に偶然会って、そんな話を聞くことができました。その後、あいつは僕を引き取った。今度は責め苛む相手を息子の僕に代えるためにね。それからの日々がどれほど屈辱と恥辱にまみれていたか、あなたには想像もつかないでしょうね。知らないでしょう。筋肉ダルマに性的に陵辱されて、男としての尊厳を踏みにじられる苦痛を。人としての誇りも矜恃も奪われて、一方的に嬲られる怒りを。知らないでしょうね。中学生の頃からずっと、そんな地獄が続いたんです。大学院に進むのを強要したのも、お気に入りのオモチャをずっと手放したくなかったからです。だから僕はあいつを排除することにした。いけませんか。取り憑いて離れない悪魔を、僕の人生から取り除くことが。そんなに悪いことでしょうか。さあ、どうですか、何でも見抜ける探偵さん。僕の苦しみを見抜けましたか。いいや、誰にも判るはずがないでしょうね、僕の憎しみと怨嗟の深さを。判るはずがないんだ」

 虚ろな目で勒恩寺を見つめながら、感情を失ったかのように淡々とした調子で訴える白瀬。その両腕を、黒豹と狼の両刑事が取り押さえた。熊谷警部が顎をしゃくって合図を送る。二人の肉食獣系刑事は、白瀬を引っ立ててドアの向こうに姿を消した。熊谷警部もその後を追う。こちらを一度も振り向かなかった。紅林刑事が慌てて立ち上がり、木島達に大きく一礼すると彼もドアへ小走りに向かって、出て行った。立ち去る前の白瀬の、表情を欠いた、やけに青白い横顔が木島の胸に刺さった。

 取り残された関係者達、門司清晴、真季子夫人、一谷の三人は、気まずそうに目を伏せ、沈黙するばかりだった。

                   *

 外へ出ると、もう薄暗がりが広がっていた。

 曇り空のせいで、沈んだ太陽の名残も見えない。

 陽が落ちたためか、残暑が随分落ち着いている。

 勒恩寺は、玄関のコンクリートの小屋から離れながら、不平そうに、

「やれやれ、見立て殺人だと思ったのに、幕引きはとんだ愁嘆場だったな。せっかく面白い見立て事件の謎を暴けると思ったのに、これじゃ無駄足だ」

「そんな不謹慎な。殺人事件に面白いも何もないでしょう」

 木島が諫めても、勒恩寺はどこ吹く風で、歩を進めながら、

「しかし、ここのところ三連続でスカを引いてるぜ。どれもこれも中途半端な事件ばかりだ。出来損ないの密室に、カラ振りの予告状。そして今日はまた、見かけ倒しの見立てだ。つまらんことこの上なしだな。全部、随伴官が木島くんに代わってからのことだぞ。木島くん、君はあれか、疫病神か何かか」

「いや、僕のせいにしないでくださいよ」

「だったら君は何だ」

「ただの随伴官です」

 木島が云うと、勒恩寺はにんまりと笑って、

「ほほう、君も自覚が出てきたじゃないか、感心感心。早速メモに追記しておこうか」

「やめてくださいよ、変なメモ作るのは。あと、それを探偵の間で回覧するのも」

 木島が愚痴っぽく云うのを、きっぱりと無視して勒恩寺は、

「あのね、木島くん。俺はただ、純粋な完全犯罪に出会いたいだけなんだ。狡知に満ちた犯人の手による、超絶技巧のトリックを駆使した究極の犯罪。暗黒に輝く美の極致にあるような、神の悪知恵だけで構築されたみたいな究極の犯罪だ。この世のものとは思えない、完璧な数式さながらに美しく、詩的な。そんな完全犯罪の謎に対峙する時がきたら、どんなに幸せだろうね。だから俺は夢見ているんだよ、そんな日がくるのを」

 そう云って、勒恩寺は曇天の空を見上げる。そこに星の灯りを探すかのように。

 まったく名探偵というのは面倒くさい、因果なものだ、とその端整な横顔を見ながら、木島は思うのだった。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す