「語部さんは学生さんのころ、きっとバレンタインデーにたくさんチョコレートを受け取られたんでしょうね」
ついそんなことを口にして、糖花は頰を染めた。
閉店後の暗い店内、そこだけ灯りのついた厨房には、チョコレートの甘い、甘い、香りが立ち込めている。
バレンタインデーに向けて、洋菓子店『月と私』のシェフである糖花は、執事の制服に身を包んだ語部と、今日も二人で時間を忘れて、あれこれ語りあっていた。
パートさんたちに試食してもらったボンボンの感想をもとに、三個入りの半月のガナッシュボックスとプラリネボックスを作り、ガナッシュはジャスミン、バニラ、レモンで、プラリネはミルク、ビター、ブロンドと決まった。
悩ましいのは十五個入りの満月のボックスで──あれもこれも入れたくて困ってしまう。
「パートさんたちに好評だったピスタチオと、アールグレイと、ラムレーズンは確定で……ビターなものも入れたいです。えっと……わたしの希望はアマゾンカカオの百パーセントで」
「ああ、それはカカオの力強さがダイレクトに感じられて素晴らしかったですね。個人的にはこのチュアオの七十パーセントもあざやかな酸味となんともいえないまろやかさが印象的でした。南米ベネズエラの小さな村で他種のカカオと交配せずに育った希少なカカオから作られた至極の一粒は、チョコレート通のかたにも喜ばれるのではないでしょうか」
「そうですね! チュアオ、入れましょう! そうすると……バランス的にもう少しミルクチョコを増やしたほうが……あ、キャラメルも欲しいです。とろ〜っとしたキャラメルが流れ出てくるタイプで、柚子とあわせたものを。キャラメルは柑橘と相性がいいんです。ああ、それならオレンジもレモンも作りたいですし、いいえ、そうしたら今度はキャラメルばかりになってしまいます。ああ、もうもう、いっそ五十個入りのボンボンボックスとか作りたいです」
十五粒に絞りきれず満月のボックスに試作のボンボンを入れたり出したりしながら、もだもだする糖花を、語部が目と口元をゆるめて見ている。
子供っぽいと思われているのではないかと、糖花は急に恥ずかしくなって、ぽそぽそと言い訳してしまった。
「その、わたし……バレンタインデーに家族以外にチョコレートをあげたことがなくて……だから、はじめてバレンタインに参加できるのが嬉しくて、浮かれているのかも……しれません」
これまでどれだけ地味で面白みのない人生を歩んできたか告白しているようで、ますます顔が熱くなり、つい余計なことを言ってしまったのだった。
わたしと違って、語部さんは学生さんのころ、たくさんチョコレートを受け取られたんでしょうね、なんて……。
プライベートなことを気安く尋ねたりして、語部さんが気を悪くしたらどうしましょう。
顔を赤くしてもじもじしていたら、語部はゆったりと微笑んで、艶やかな声で語った。
「そうでもありません。私は中学から男子校でしたし大学は海外でしたので。社会人になってからは、おつきあいでいただくこともありましたが。みなさん、素敵なチョコレートをくださいましたよ。華やかなパッケージの中に宝石のようなチョコレートが並んでいる様子は、それだけでときめくものでした。たとえ恋人からの贈り物でなくても。バレンタインデーのチョコレートには気持ちを浮き立たせる魔法がつまっているのでしょう」
そ、それは、本命チョコレートだったのでは……。
やっぱりモテていたのでは……。
そうですよね、語部さんがバレンタインデーにチョコレートをもらわないはずがありません……。
きっと男子校にいたときだって、他校の女子からチョコレートを渡されていたんですよね。
もし、わたしが語部さんと同じ年ごろで、男子校に通う語部さんに恋をしていたら、語部さんにチョコレートを渡していたかもしれません。
そんな想像をしてしまう。
実際は、たとえそうしたシチュエーションであっても、髪を無造作にひとつに結んで眼鏡をかけ背中を丸めた糖花は、名門高校の制服を品良く着こなした語部を建物のかげからこっそり見ていることが精一杯だっただろうけど……。
バレンタインデーに一念発起して手作りのチョコレートを作っても、けっきょく渡せず、肩を落としてとぼとぼ家に帰り、自分の部屋で暗〜くチョコレートを食べている姿が目に浮かぶようだ。
いいえ、今のわたしは高校生ではなく一人前のパティシエで、語部さんともお仕事で繫がっているのだから。
眼鏡を外してコンタクトレンズを入れて、髪も語部の知人のお店で綺麗にしてもらい、耳には語部からもらった三日月の形のシルキーピンクのピアスもはめている。
それでもやっぱりまだ自信が持てなくて、
「わたしのチョコレートも……ときめいていただけるでしょうか」
小さな声で尋ねると、
「もちろんですとも」
語部がうんと優しい目をして断言した。
「半月のボックスも、満月のボックスも、お客さまは箱を開けたとたんにときめきであふれ、シェフの魔法がかかったボンボンを口にすれば、心までとろけてしまうでしょう」
深みのある艶やかな声で真摯に告げられると、糖花の胸も甘い気持ちでいっぱいになって、とろけてしまいそうになる。
心臓がドキドキと高鳴っている。
「わたしも、バレンタインデーでみなさんに、心がとろとろにとろけるようなチョコレートをめしあがっていただきたいです」
語部がうなずき、それから良いことを思いついたというように口を開いた。
「どうでしょう? 満月のボックスに、赤いハートの形のボンボンをひとつ忍ばせてみては? 満月、半月、三日月のボンボン・ショコラをそれぞれ五個ずつ、そこにハートの形のボンボンをひとつ加えて十六個入りにするのです。『月と私』は月の形のお菓子というコンセプトですが、バレンタインデーだけの特別な一粒ということで。つめかたを工夫すればぎりぎり十六粒、入りそうですよ」
「素敵です」
丸い満月のボックスにぐるりと並ぶ、満月、半月、三日月のボンボン・ショコラ、そこに一粒だけ赤いハートのチョコレートがきらめいている様子を想像して、糖花はうっとりした。
「えっと、赤いチョコレートなら、やっぱり定番のフランボワーズでしょうか。あ、キャラメルタイプにしましょう。フランボワーズのキャラメルで!」
「とろりと流れ出てくるやつですね」
「はい」
「キャラメルの幸福な甘さと、フランボワーズの優雅な甘酸っぱさ……とろけるチョコレート……」
語部が目を閉じ、口元をゆっくりとほころばせる。
そうして目を開いて、艶やかな声で言った。
「C’est si bon. でございます」
それは素敵だ。
糖花の胸が、またとろける。
どうか、わたしのチョコレートをめしあがったお客さまの心も、チョコレートと一緒に甘くとろけてくれますように。
神聖な気持ちでそう願いながら、語部さんもわたしのチョコレートでとろけてくれたらいいのに……と考えて、また顔を赤らめたのだった。
*
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■ 著者プロフィール
野村美月(のむら・みづき)
福島県出身。『赤城山卓球場に歌声は響く』で、第3回えんため大賞小説部門最優秀賞を受賞。著書に、「“文学少女”」「ヒカルが地球にいたころ……」「むすぶと本。」「世々と海くんの図書館デート」「三途の川のおらんだ書房」の各シリーズのほか、『記憶書店うたかた堂の淡々』『ビストロ・ベーテへようこそ 幸せのキッシュロレーヌ』など多数。子供のころからスイーツが大好きで、Instagram(ID:harunoasitaha)で情報発信している。