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第4回

第4話 訪問者 遠野瑞樹

 後ろめたいことがないなら堂々としていられるはずだ、なんて台詞で無責任に人を試す相手は信用できない。ましてやそれを真に受けて、自分に悪いところがあったのではないかと思い悩むほど無駄なことはない。そういう言葉を平気で使う連中は本当に問題を解決したいのではなく、すべての面倒事をだれかに押しつけて渦中かちゅうに叩き落とし、自分は安全な場所で手軽な全能感に浸りたいだけなのだから。
瑞樹みずき先生。江田えだくん、どうかしましたか」
「ああ、塾長。大丈夫です、べつに悪いことはしてないですよ」
 自分のろくでもない経験の中から、胸を張って子供に教えられることがあるとするならそれくらいだと遠野とおの瑞樹は思っている。ただ、もちろん実際はそんな余計な口出しはしない。ここでの自分の仕事はあくまで勉強を教えることで、他人の子供がどんな人生を送ろうと関係ない話だ。面接で提出した履歴書につづった殊勝しゅしょうな志望動機は、新卒で入った広告代理店で心にもない売り文句ばかり考えていた瑞樹からすれば、一ミリも本音でなくとも三十分足らずで完成させられる代物しろものだった。そんなものがあっさり受け入れられて採用の連絡が来たときには、安堵あんどする反面、どこか失望するような心地もした。
「いままでの講習で使ったレジュメが余分に欲しいと頼まれまして、理由をいたら学校で井上いのうえに渡したいと言っていたので。こっちで送っておくから心配ないと答えました」
「そう、あの子が授業終わりに質問なんて珍しいと思った。それにしても本当にたいしたことじゃないのね、そのわりには人の顔を見るなり逃げていったけど」
 その志望動機を受け入れた張本人である塾長は、目を細めながら江田が走り去っていった廊下のほうを振り向いた。うろんげな表情に傍で見ている瑞樹まで一瞬ひやりとしたが、彼女は「私、そんなに顔が怖い?」と首をひねりながら二階へ続く階段を上りだす。今年から勤めだして知ったことだが、心の底を見透かすようだと昔から生徒たちに恐れられていた視線は、本人いわく単に老眼のせいらしい。
「幽霊の正体見たり――」
「え?」
「なんでもありません。あれくらいの子供って、大人と目が合うと『やばい、怒られる!』と思い込んじゃうんですよ。ましてや日頃から怒られ慣れていると、本当になにもしていないときでも体が勝手に反応するんです」
 中学時代の恩師でもある彼女と肩を並べて歩くのは、いまだに不思議な心地がする。この塾は一階に生徒が出入りする教室や自習室が集中していて、二階は講師をはじめとする職員の空間になっている。月日が経ち、立場が変わって五か月が過ぎようとしているにもかかわらず、当たり前のような顔で大人と軽口を交わしながらここを上る自分にずっと慣れない。いつかはあのとき提出した履歴書を鼻先に突きつけられ、舐めるな、嘘をつくな、調子のいいことばかり言いやがってとののしられるのではないかと、つねに頭の片隅で想像してしまう。
 恐れているのではない。むしろ、願っている。このまま一生、嘘を見抜いてもらえずに生きていくなんて耐えられない。自分のような人間がうまくいくわけがない、いつかすべてを失うに違いない。だから、そのときが来るなら早くしてほしい。そして、いつまたそうなってもいいように、もう二度と、だれにも心を許してはいけない。
「すべてをそう悪く捉える必要はないのにね」
「頭ではわかるんです。それでますます『やっぱりなにかあるんだな』って問い詰められて、よけい挙動不審になる悪循環だって。ただ、そんなに簡単な話でもないので……あと江田、井上のことで探り入れてきたので、塾長が来て余計に驚いたのかもしれません」
「探り?」
「塾長はまだ涼太りょうたにキレてんのかって……あ、江田が言った表現ですよ。あいつ、井上が塾長に嫌われたからってだけで塾に来られなくなったって思ってるみたいで」
「やっぱり怖がられているんじゃないの。でもまあ、しかたないわね。夏休みの集中講習が終わるまで井上くんは出席停止ということで、双方のご家族も同意していますから」
「……ま、もちろん殴るのはダメですけど。有野ありののほうはあの後も普通に来て、なにもなかったみたいに幅きかせてたじゃないですか。井上は成績も態度も良かったし、進路も真面目に考えてるみたいでした。問題を起こしたのは一度だけ、しかも、受験生にとって大事な時期に巻き込み事故食らったみたいな感じで。それなのに、なんだか……」
 塾長は職員室に入ろうとしていた足を止め、瑞樹を目で促してから、隣にある塾長室へ歩みを進めた。このビルで塾の経営を始めた際に前の塾長が設けたという専用の小さな部屋だが、現塾長は他の職員との垣根を作ることを嫌い、内密の話があるときくらいしかそこを利用しない。後に続いた瑞樹が扉を閉めたのを確認して、塾長は権力者然としたデスクではなく応接用のソファに座りながら「九月からの中三の授業に使うテキストは『高瀬舟たかせぶね』でしたか」と対面を指し示した。急な話題転換に戸惑いつつ、瑞樹も向き合って座る。
「そうです」
「内容はもう読み込んでいますね」
「はい。あらためて気が滅入る話ですね」
「自由にこの作品の感想を述べよという記述問題に『貧乏人は淘汰とうたされて当然だから自業自得だ』と答える生徒がいたら、減点できる?」
 考えるまでもなく首を横に振った。採点のルール上、感想や意見を述べる問題の場合、テキストの内容を踏まえていれば生徒の自由意思が尊重される。
「人として同意できない見解でも、危険思想の持ち主か単なる若気の至りか、それだけで判断はできない。一度の失敗で決めるのは早計というのは有野くんにも当てはまります」
「でも……」
「それに、ルールを徹底することで守られるのは従った者はもちろん、破った者もなんです。厳密かつ適正に処罰が下されれば、だれにも彼を私的に責める権利はなくなりますから」
「……そうでしょうか」
 思わず声が暗くなったことに自分でも動揺し、指摘される前に急いで「有野なら、そんなことお構いなしに井上にちょっかいかけそうですけどね」と、いかにも「キャリアを捨て、教育者として生徒を指導することで古巣に恩返しする道を選んだ熱血講師」にふさわしい気遣わしげな口調を作ってみせる。塾長は「そうなったら今度こそ、我々が守ればいいんです。注意深く見守りましょう」と返しただけで、やはり瑞樹の嘘を見抜く気配はなかった。
「まあ、九月に入れば塾にいる時間も減るからね。有野くんもそれどころではなくなるでしょうけど。井上くんと親しい江田くんとも夏休み中、賑やかにやっていたみたいだし」
「それも、わかんないんですよ。江田って井上と仲良かったのに、あんなことがあっても平気で有野とつるんでて、無理してるふうでもなくて。かと思ったら今日見た感じ、井上を真剣に心配はしてるみたいだし。どっちの味方なんだろう」
「どっちでもないんじゃない? それはそれ、これはこれ、ということでしょう」
「はー……割り切ってるんだ。見かけによらず大人なんだな」
「逆でしょう。幼いから、人の痛みを背負う想像力と覚悟がないの。江田くんと有野くん、というより子供に限らず、意外とみんなそんなものですよ」
 それまで歯がゆいほど中立的だった塾長の突き放した物言いに、思わず息をんだ。
「悪いとは言っていませんからね」
「……そうなんですか?」
「自他境界を侵すほど過剰な想像力を野放しにするのも、それはそれで厄介ですから」
 今度こそ絶句した瑞樹に、塾長は「それに」と真顔で続ける。
「大人になるのが立派なわけでもありません。ただ、多少は生きやすくなるというだけの話。太宰だざいいわく『大人とは、裏切られた青年の姿である』そうだけど、裏切られないに越したことはないもの。そう思わない?」
 かろうじてうなずいてみせながら、先生、と瑞樹は思った。
 自然と心の底からき上がったそれが、目の前の相手に向けた問いかけではないことはわかっていた。大人から叱られ慣れた子供のときと同様、うつむいて膝の上に置いた両手に目を伏せる姿勢をとっているせいで、自分がもうとっくに二十歳を超え、しかも講師という立場の大人であって、中学生ではないことを忘れそうになる。
 先生。裏切られても大人になれなかったら、どうすれば生きやすくなれますか?
「集中講習のレジュメは、僕から井上に送っておきます。九月の授業が始まる前に済ませてほしい課題もあるので」
「お願いします。生徒の住所は事務室で管理しているから、そちらで確認してね」
 失礼します、と頭を下げてから塾長室を出るまで、走り出しそうになるのを抑えるのが精一杯だった。扉を閉めるやいなやなるべくゆっくり、その実いつもより大股で事務室に直行し、生徒名簿を借りる。古式ゆかしく紙で五十音順に保存された厚いバインダーの序盤に井上涼太の保護者が提出した入塾申込書はファイリングされていて、ペン習字の手本のような几帳面な字で、瑞樹にとってなじみ深い住所が綴られていた。
「メモとかしなくて大丈夫なんですか?」
 平静を装ってバインダーを返したつもりが、事務員の若い女性に気遣われてしまった。ああそっか、となかば上の空で答えると、瑞樹先生もうっかりすることあるんですね、と楽しげに笑われる。井上涼太が塾で暴力沙汰を起こし、かつ同級生の女子生徒を巻き込んで行方不明になるという事件を起こした直後、塾長に電話を取り次いだのもこの人だったことをふいに思い出した。
原田はらださんという方からお電話です。折り返しにしますか?」
 塾長と瑞樹を含む講師数名が、当日そこに居合わせた生徒たちから話を聞き、そのまま空き教室で対応の方針について話していたときだった。塾長は彼女の後に続いて事務室へ向かい、その場の空気はいったん途切れた。珍しい苗字じゃない、と自分に言い聞かせながらもトイレに行くふりをして廊下に出た瑞樹の耳に、長年つちかわれた明瞭な発音による「お久しぶりです、春乃はるの先生」という声ははっきりと届いた。
 わざわざ取ってもらった申込書のコピーを、瑞樹は事務室を出るなり四つ折りにしてパンツのポケットにねじ込んだ。自分の軽自動車に乗り込んだ後も、カーナビに住所を入力するために取り出す必要すらなかった。目隠しで世界の果てに放り出されても、そこにだけは辿り着けるのではないかと思うほど道筋は完璧に覚えていた。
 現に、ボワティエメゾン、という名前をふたたび目にしてからの記憶がすでに薄いにもかかわらず、気がつけば車をマンションの前に停めて外から眺めていた。
 ふと助手席を見ると、夏の集中講習で使ったレジュメや小テストをまとめたものがきちんと塾の封筒に入っていた。一人前に講師ぶっている自分の無意識に苦笑する。まさかこのまま井上の自宅に直接届けるわけにもいかないので、二台分ある駐車スペースに車を寄せ、ひとまずは手ぶらで降りた。エントランスのインターホンで部屋番号ではなく四ケタの暗証番号を押すと、住人のだれの答えもなくオートロックが解除される。
 ――おかしいと思ったら、様子見に来て。悪いことには使うなよ。
 前半は真剣に、後半は冗談めかして言いながら伝えられた緊急用の暗証番号の存在を、一度も使っていないにもかかわらず瑞樹はいまだに覚えていた。忘れてはいけないと思い、一時スマホのパスコードを同じ数字に設定していたせいかもしれない。ただ、実際に使うときが来るとは思わなかった。それも本当に必要だったタイミングではなく、彼が想定していたであろう「悪いこと」のために。
 エレベーターで四階に上がり、403号室の玄関チャイムを押すために指を伸ばしたとき、初めて手が震えているのを自覚した。ここまでしておきながら、なにも起こらないでほしいと願っていた。そのおびえは罪悪感ではなく、自分への不信感から来るものだった。
 だれも出てこなければ、何事もなかったように帰ればいい。見ず知らずの住人が現れても、たぶん、いつもみたいに適当なことを言ってごまかすことはできるだろう。ただ、もしあの女が、この部屋から現れたら。そのときはどんな自分が顔を出すかわからない。今度こそ殺してしまうかもしれない――
「……遠野くん」
 ほら、と思った。やっぱりだ。
 昔からこの女は、そうであってくれるな、とおれが願う選択ばかりする。期待に応えてくれたことなんか一度もない。そうやっていつも、おれの一番嫌いな、とっくにいなかったことにしていたはずのおれ自身を、強引に心の底に手を突っ込んで引きずり出す。
「お久しぶりです、春乃先生」
 原田春乃の表情は変わらない。石のように無表情で無口で、なにを考えているかわからないと生徒たちから言われていた昔のままだ。先生は処女ですか、と訊かれても平然としていたという噂もおそらく事実だろう。感情を出すのが苦手などというかわいいものではなく、生徒も含め他人のことなど、音を発する人形くらいにしか思っていないのが当時から透けて見えた。
「未亡人にでもなったつもりですか?」
 だから、多少ひどいことでも言わないと、目の前の相手が自分のせいでどれだけ傷ついているか、理解しようとさえしない。
「……瑞樹先生?」
 幼気いたいけな声は、想定より少しだけ遠くから、想定とは違う声で聞こえた。
 原田春乃が廊下のほうを振り向き、その体が動いたことで視界が開ける。リビングへと続く開け放たれた扉の向こう、廊下の角から、縦なりに頭が三つ、串刺しの団子みたいに並んでこちらを覗いている。上から中年女性、若い女、子供。声の主は団子の一番下で、膝立ちになっているらしい子供だった。
 その顔を認識した瞬間、反射的に、抑え込んでいた素の声が出た。
「井上?」
 上にいた二人は驚いたように目配せを交わし、唐突に闖入ちんにゅう者を呼び、相手から呼び返された子供を見下ろした。知り合い? と中年女性に訊かれた井上涼太が、塾のセンセイ、とシンプルに答える。また六つ、原田春乃のものも含めれば八つの目が物問いたげにこちらを向いた。この場で一番訊きたいことがあるのは、他ならぬ瑞樹だというのに。
「おまえ、なんでこの部屋にいんの?」
 後ろめたいことがないなら堂々としていられるはずだ、なんて言葉は信用できない。たとえ後ろめたいことがなくても、予期せぬ姿を予期せぬ相手に見られるのはいたたまれない。ましてや本当に後ろめたいことがあるなら、なおのこと。

「遠野って、意外と性格悪い?」
 初めて二人きりになったとき、彼は瑞樹に突然そう訊ねた。夏休みに提出した読書感想文が一年生ながらに学校代表で地方大会に提出されると決まり、添削を受けているときだった。
 大人に囲まれるのは苦手だと言って、彼は塾の授業の合間には二階の講師室ではなく、物置代わりの小さな面談室で時間を潰していた。自分も大人のくせにと当時は思ったが、いまならわかる。他の講師陣も悪い人たちではないが、理想の教育論や熱っぽい政治批判がカジュアルに飛び交い、すべてに一家言あってこそ大人とみなされるような空間で心休まる気がしない。それに、どう思いますか、と話を振られると、なんでおまえに教えないといけねえんだよ、と思ってしまう。口出すだけならタダだよな、なにもせずに参加した気になれてむしろ得かも。
「……だめなこと書いてましたか」
 もちろん、あの人は瑞樹とは違い、そういう話題にも溶け込める人だった。教室と横並びになった面談室を好んだのも、生徒と二人で話しやすいのが大きかったらしい。そういうフレンドリーさを売りにする教師は中学にもいたが、瑞樹自身は遠目に見ていた。膝を突き合わせて説教する必要があるような「問題児」に肩入れし子供と距離感を詰めたがる大人は、たいてい瑞樹のような手をかける隙のない、それでいて決して懐かない子供が大嫌いなのだ。
「いーや、完璧」
 だが、警戒する瑞樹に感想文を返しながら、彼は嬉しそうに笑っていた。
「ザ・大人の言ってほしいことって感想文を書ける子供は少なくないけど、マニュアル通りってわかるんだよね。だから抜きんでるには個性が見える感情や経験談が必要だけど、そうすると今度はやりすぎになる。いや鉛筆の作り方でそんな感動する? みたいな。わかるだろ」
「……はい」
「ただ、本当に感動していればいいわけでもない。自分語りに人は引くからね。ちょうどよく気持ちいい感動を提供できる子供は、いや、大人でもかなり少ない」
 ダメ出しをしているふうではなかった。瑞樹の感想文のみならず「マニュアル通り」も「嘘だよね」も「自分語り」も、おもちゃのように楽しんでいるらしい弾んだ声だった。
「だから思ったの。どうすれば喜ばれるか、この歳で学びきっちゃった子供の文章だって」
「……喜ばれる、じゃない」
 瑞樹がうつむいていたのは、反抗を示すためではなかった。
「怒られないか、だよ」
 そっか、と、相変わらず明るい、だけど柔らかい声で返事があった。その瞬間、堪えていた涙がぱたりと机の上の原稿用紙に落ちた。
 親も教師も、優等生でいるほどに上を求めてきた。感想文ひとつとっても当然のようにより良い成果を期待された。おまえならできる、期待している、という耳触りのいい言葉の中に、裏切ればどうなるかわかっているな、という呪いを込めて。
 大人が与えてくる褒め言葉は、もっと頑張れと強要するための餌でしかなかった。無理やり流し込まれつづけるそれによって、自分の心がすっかりぶくぶくに肥大していることにも気づいていた。生まれたときから喉の奥まで突っ込まれていたそのチューブがふいに外され、軽やかに内臓を覗かれたことで、初めて体の中に風が通った気がした。
 やっと見つけた、と思った。やっと、見抜いてくれる人が現れた。

「一度、外に出ましょうか」
「いいえ」
 玄関先に立ったまま原田春乃がしてきた提案を、瑞樹は即座に一蹴した。
「困ります。あんたに用があるんじゃなくて、この部屋に来たくて来たんですから」
「それは」
「こっちは聞かれて困ることなんかありません。先生のほうは、どうだか知りませんけど」
 急に水を向けられた三人が、団子状に顔を並べたまま、器用に首を傾けてお互いに顔を見合わせた。その妙に息の合った様子が鼻について、瑞樹はわざと声を張り上げた。
「やっぱり気まずいっすか? 自分が殺した男の部屋に平気で住んでるなんて新しいお友達に知られたら」
 一番上の中年女性が手で口をおおい、真ん中の若い女が体勢を崩したはずみで真下にいた井上涼太の頭に軽く顎をぶつけた。ごめんごめん、と手振りで示す相手に同じく手振りで答えながらも、井上涼太は目をらさずにこちらを見ている。そして、原田春乃も後ろで起こった動揺の気配に頓着とんちゃくせず、三人のほうを振り向いた。
「すみませんが、二人にしていただけますか」
「はい」と「いや……」がユニゾンで聞こえた。井上涼太を除く女性二人が、ぴったり同じタイミングで正反対の返事をしたらしい。中年のほうが「八並やなみさん、今日はおいとましましょう」と言ったので、前者はこちらが発したのだろう。帰宅を渋った若いほうは「でも」と躊躇ちゅうちょしたように視線をさまよわせた末に、ひとり団子から外れて近づいてくると、原田春乃の肩越しに瑞樹を睨み上げた。
「原田さんとは、どういうご関係ですか」
 あからさまに敵意を向けられてもひるまなかったのは、相手が小柄な女性だからではなく、瑞樹自身にも覚えがあるからだった。こういう目を、自分も人に向けたことがある。まさにこの部屋の玄関で。たとえば苦情を申し立てに来たマンションの住人とか、どうにかして紛れ込んだ押し売りとか、我が子を彼に「奪われた」と主張する生徒の保護者とか、平穏をおびやかす闖入者が訪れたときに。
「あんたこそ。先生の何なの?」
「……先生って原田さんのことですか」
「あー、そんなことも教えてもらってないんだ。それくらいの付き合いなんですね」
 役に立っているつもりでいた。いざとなれば牙をいて、吠え立てて、守ってあげられると信じ込んでいた。実際にはそう思っているのは自分だけで、頼りないどころか、そもそも頼る相手とすら見なされず、肝心なことはなにひとつ教えてもらえなかった。
 かわいそうに。きっと、目の前の彼女もそうなのだ。
「頑張って吠えてるけどさ、喧嘩とか慣れてないでしょ。見るからに打たれ弱そうだもんね。こんな時間から子供やおばさんとつるんで、ほかに行くとこないの?」
「……そんなこと、いま関係ないじゃないですか」
「図星? もしかしなくても友達いないんだ。社会で浮いちゃって居場所ないところに人畜無害そうな相手に親切にされて、お手軽に承認欲求満たされて、自分は繊細だからあんな連中になじめなくてもしかたなかったのねーなんて特別意識で気持ちよくなって、そのまま現実逃避が癖になっちゃったパターン?」
 当てずっぽうの指摘は思わぬ刺さり方をしたらしく、若い女はあからさまに顔を青ざめさせ、ポイですくわれた金魚のように唇を震わせた。このまま地面に叩きつけるか水槽に戻すか、決めかねたまま瑞樹がまた口を開いたところでようやく原田春乃が割って入ってきた。
「この人たちは関係ありません。同じマンションに住んでいて、行きがかり上ここにいるだけです。失礼な態度をとらないで」
「じゃあ『関係ない人』を巻き込まないためにもさっさと入れてください。ね、先生」
 真っ先に動いたのは、廊下の奥に留まっていた中年女性だった。
 犬に走る合図を出すように井上涼太の肩をぽんと叩き、自然な様子で近づいてきて、硬直している若い女の手を取って靴を履くよう促した。三和土たたきで彼女に「お邪魔しました。今度うちにも遊びに来てね。大豆だいずも、あと、主人も待っていますから」と言われた原田春乃は怪訝けげんそうに眉をひそめたが、妙にじっと見つめる相手の眼差しに押されるようにしてうなずいた。
「井上くんも行きましょう」
 瑞樹に軽く会釈しつつ、若い女を連れて玄関を出た中年女性が声をかけると、井上涼太も素直に従った。女性が彼の母親ではないことはわかっていたが、呼び方からして親戚というわけでもないらしい。靴を履き、入れ違いに玄関から出るあいだも、ずっと井上から物問いたげに見られていることはわかっていたが、あえて無視してリビングへ上がり込んだ。いま彼に「瑞樹先生」として声をかけたら、せっかく原田春乃に合わせてチューニングしてきた感情が狂ってしまうと思った。
「先生はいつ、この部屋に引っ越してきたんですか」
 扉が閉まる音がリビングに響いた後も、それだけの言葉を口にする前に、ポケットに入れた手を開閉しながら小さく深呼吸をしなくてはいけなかった。
 家具も家電もないがらんとした空間に、当時の記憶を上書きするような目立つ要素はない。にもかかわらず、瑞樹はそこに入ったとき、カーテンの柄すら思い出すことができなかった。ソファの色も、テーブルの天板の材質も、床に散らばるクッションの模様と数も。
 住んどいてなんも残してねえのかよ。
 様変わりしていることは予想していた。それでもこんなふうに、徹底的に前の住人の痕跡を取り払う必要はなかったはずだ。せめてひとつでも当時の物が残っていれば、記憶をたぐる糸口になったかもしれない。そう考えると、なにをするでもなく後ろに立っている原田春乃への怒りがまた募った。
「そろそろ三年になります」
 瑞樹が事前に予想していたより、ずっと長い時間だった。
 三年前といえば、瑞樹が大学卒業後、親の意向のまま就職した大企業の社風になじめず退職したころだ。心身ともにぼろぼろで転職活動もままならず、家族からも落伍者らくごしゃとして白い目で見られ、世界に自分の居場所などもう残っていないような気がすると、決まって車でこのマンションの前に来ていた。そのまま通過することもあれば、今日と同じ駐車スペースに車を停めて束の間ぼんやりすることもあった。
 自分が決して戻れない場所に焦がれ、地獄の底から蜘蛛くもの糸を見上げるような気持ちでこの部屋の窓を探して見上げているあいだにも、その視線の先にはずっとこの女がいた。そう自覚した瞬間、衝撃で視界がぐらついた。どうにかそれにすがって立っていた三年分の心の支えを、後から根こそぎ横取りされた気分だった。
「それにしては物が少ないですね。なんですか、ここで死ぬんですか?」
 我ながら理不尽なのは承知しているが、だからといって自制する気にはならない。二人だけの空間で、元教え子とはいえ成人男性からとげとげしく責められているにもかかわらず、原田春乃は表向きは怯える様子もなく「いいえ。当面、その予定はありません」と答える。
「あの人たち、あんたがなんでここにいるか知ってるんですか?」
「いいえ」
「じゃ、ますます残念でしたね、変なとこ見られて。どうせならおれが死んでれば、いまさらこんな思いしなくて済んだのにって思ってるでしょう」
「私は、あなたも含めてだれにも、死んでほしいと思ったことはありません」
「それは嘘でしょー。いまさらきれいごと言ったって説得力ないですよ。あんたはほたる先生とは違う。おれらのこと、心配してくれたことなんか一度もなかったくせに」
 烙印らくいんを押すようにその名前を告げると、初めて原田春乃の表情が揺れた。
 わずかに溜飲りゅういんが下がった反面、そんなやり方でしか彼を呼ぶことができなくなった自分に嫌気がさした。その自己嫌悪をさらなる泥に紛れさせるように、勝手に悪い言葉が溢れてくる。
「どうせこの部屋で蛍先生の真似事をして、過去の償いでもしているつもりなんでしょうけど。そんなことしたって無駄ですからね。あんたを許せるのは蛍先生だけだし、その蛍先生はもう、いないんだから」
「わかっています」
 五年も会っていなかったにもかかわらず、少しも変わらない面白みのない即答だった。先生は処女ですかと生徒に訊かれても顔色ひとつ変えず「いいえ」と答えたという、そのときもこんな口調だったに違いない。なんの心も動かさず、ただ目の前の事実に反応して出ただけの声。この女にとって、あの人がもういないことを認めるのはなんでもないことなのだ。眠くなればあくびが出たり満腹になればげっぷが出たりするのと同じ。
「わかってねえよ」
 時間がすべて解決する、なんて嘘だ。
 むしろ逆で、時間が流れるほどにこじれていく気がする。忘れたくないことは忘れてしまうのに、本当の怒りや悲しみは凍りついたまま心の奥にしまわれ、ふとしたはずみでこうして鮮烈によみがえる。薄れていく記憶の中、よりどころをなくした感情だけが、忘れるな、と迷子のように泣き声を上げる。それなのに、迎えに行こうと手を伸ばしてもなにも掴めない。だから、ただ途方に暮れてあてどなく探しつづけるしかない。
 まるで自分ひとりだけが、きのう彼を失ったばかりの世界をさまよっているみたいに。
「わかるわけねえだろうが!」
 足を踏み鳴らすと同時に、待ちかねていたように玄関が開く音がした。
 三和土に現れたのは、帰ったはずの井上涼太だった。律儀に靴を揃えて脱ぎ、自分でもどうすべきかわからないような顔をしつつも、足取りだけは迷いなくまっすぐこちらへ向かってくる。他の二人の姿は室内からは見えないが、代わりに「もしもし?」という、電話口の中年女性特有の妙に高く柔らかい、しかしどこか緊迫した声が漏れ聞こえた。
「そちらで管理されている、ボワティエメゾンに住んでいる者です。すみませんがすぐ来ていただけます? 403号室に不審な男性が訪ねてきて、住人と揉めているんです。しかも家主の許可なく入ったらしいの。どういう関係か知らないけど不法侵入ですよね?」
 従順に帰ったふりをして、聞き耳を立てて様子をうかがっていたらしい。小賢しいおばさんの考えそうなことだ。舌打ちをしながら身をひるがえすと、井上涼太がリビングの入口で立ち止まり、困惑したように瑞樹を見上げる。瑞樹もやっと立ち止まって目を合わせた。
「あの……」
「言っていいよ、親にも塾にも」
 本心だった。呆然と立ち尽くしている原田春乃に、自分はおまえとは違う、と聞かせてやりたい気持ちも大きい。ただ、半分は教え子に対する心配でもある。おそらく井上は、だれにも言うなと言われれば守ろうとするだろう。教え子ひとりひとりに目配りする愛情など持ってはいないが、少なくとも彼に関しては夏休みの騒動からして性格が明らかだ。だからこそこれ以上、本人の責任ではない秘密に加担させたくなかった。
 車に乗り込み、運転席でシートベルトを締めようとするがなかなかうまく嵌まらない。そこでようやく、さっきの比にならないほど両手が激しく震えていることに気がついた。これでは運転がままならない。くそっ、と毒づきながらその手で無理やり拳を作り、ハンドルの上のほうを叩くと、泣きたくなるほど気の抜けた手応えが返ってきた。

 瑞樹が大学を卒業したときには、もう若者の車離れという言葉が当たり前にメディアで取り沙汰されていた。不景気の象徴としていまの政治や社会を攻撃する材料に利用されるそれのせいで、車を持ちたがるほうが時代に逆らう愚か者のように白い目で見られることさえある。たしかに、五年落ちの軽とはいえ二十歳になったばかりで買うには安くなかったし、いまだって固定費の大半を占める維持費は決してばかにならない。ただそれでも、節約のために車を手放すことは、瑞樹にとって体重を減らすために足を切れと言われるのに等しかった。
 自宅近くの月極駐車場のいつものスペースに車を停めた後も、しばらく降りずに過ごすことが多い。運転席のリクライニングを平行にならない程度に倒し、シートを下げて足元のスペースを空け、オンともオフともつかない状態でスマホをいじる時間が少しずつ長くなっている。夫婦喧嘩した駄目な親父みてえ、と自嘲じちょうしながらもやめられない。物件より駐車場を優先して探したアパートは古く手狭だし、音漏れもひどく、共有部にはしょっちゅう吸いがらが捨てられている。帰るたびリラックスどころかどっと気力が削がれ、ただ泥のように寝転がる以外なにもしたくなくなってしまう。スピリチュアルに傾倒するつもりはないが、占い師だか風水師だかに「気の流れが悪い」と言われたらいまなら信じるかもしれない。
 SNSでは、あまりアニメを見ない瑞樹でも記憶にある女性声優の名前がトレンドワードになっていた。その表記のされ方に違和感を覚え、なにげなくタップすると案の定、闘病の末に亡くなっていたらしい。訃報ふほうを伝えるネットニュースや出演作品の公式アカウントによる追悼ついとうメッセージをなんとなくスクロールしていると、ほどなく一枚のファンアートらしき絵が表示された。雲の中を思わせるパステルカラーをバックに、複数のキャラクターが描かれている。人も動物もマスコットも入り交じっており、同じ声優が声を当てた別作品の登場人物らしい。彼女たちは一様に目に涙を浮かべつつ、悲しみを気丈に堪えるような微笑みを浮かべてあらぬ方向へ手を差し伸べていた。
 思わず眉をひそめたその矢先、常時マナーモードのスマートフォンが、手の中で断末魔の虫のように小さく振動した。
 LINEのポップアップが通話着信を告げる。事前の確認なしでこうして電話をかけてくるのは家族か学生時代の友人か、たいてい瑞樹が苦手とする人種だ。いつもなら無視するのに、今日は確認もしないうちに繋げてしまった。
『あ、やっと出た! ねー同窓会の出欠連絡返した?』
 疲れた頭で聞くには周波数の大きい声に、とっさにスマホの音量を下げる。中学と高校の同級生だった女子で、いま瑞樹が勤めている塾にも同じ時期に生徒として通い、卒業後もあのマンションに何度か顔を見せた。年上の男性と交際し「同級生とは話が合わない」と主張していたが、実際は性体験の有無が人間の成熟度という、いかにも子供じみた価値観を公にするせいで浮いていたに過ぎない。蛍先生の「年齢差だけならまだしも未成年に手を出す時点でろくな大人じゃない」という真っ当なアドバイスをふくれた顔で聞き流して以来あの部屋には来なくなったが、いまや嬉々として同窓会の幹事を務める程度には「話が合わない」はずだった同級生たちに溶け込んでいるらしい。
『今年は来るよね? こっち戻ってるんだったら久しぶりに語ろうよー』
「……この歳で、語るほど懐かしむことないだろ」
 いま思えば、彼女はどこでもよかったのだろう。自分は他の子供とは違うという特別感を保った上で、適当に孤独をなぐさめられる場所であれば。あそこに来ていたのも他の女子に付き添うような形で、心底助けを必要としているわけでもなさそうだった。それでもあの人は教え子の扱いを変えず、ひとしく丁寧に扱っていた。
『いや十年経てばみんな変わるって! あたしだってこの歳でママになると思わなかったし』
「あ、そう。子供産んだの」
『もー、クラスのグループLINEで報告したじゃん! で、そっちはどうなの。元気? なんか変わったこととかあった?』
 べつに、と頭では答えるつもりだったし、口もその準備をしていた。それなのに、いざ滑り出てきたのはまったく想定外の言葉だった。
「原田春乃に会った」
『原田……て……あ、春乃先生? へー、久しぶり。元気だった?』
 明るいが単調な物言いから、礼儀として訊いているだけであることがわかった。最初に口ごもったのも名前と顔がとっさに結びつかなかったか、存在自体を思い出せなかったかだろう。彼女を含む大半の生徒にとっての原田春乃は、一年ほどあの塾で教わった地味でつまらない英語の先生、それだけの存在にすぎない。
「さあ」
『さあって……会ったんでしょ。いまなにしてるんだっけ、あの人』
「知らない」
『瑞樹って、なーんか昔から春乃先生のこと嫌いだよねえ。見逃してあげなよ、あの人があそこで塾講やってたの大学生のときでしょ? いまのうちらより若いじゃん。あたしもさ、自分が子供産んで初めて当時の大人の気持ちっていうか、目下の相手に接する難しさがわかったようなとこあるんだよね。べつに産んだから偉いってわけじゃないけど、自分が歳とって立場が変わらないと、見えないこともあるっていうか』
「蛍先生は歳とれないけどね」
 今度の沈黙は、さっきとは異なる種類のものだった。瑞樹も黙ったままそれを味わう。封印していたのだろう不都合な記憶が蘇る時間は、実際のところ五秒にも満たなかった。
 やがて小さな溜息とともに、瑞樹、とあきれた声で呼ばれた。
『蛍先生に懐いてたのはわかるけどさあ。そうやってずっとうじうじしてたって、先生が喜ぶわけないと思わない?』
「喜ぼうったって無理でしょ、いないんだから」
『そういうこと言ってないじゃん。もう子供じゃないんだから、いいかげん前向きになりなよって話。それが先生の願いでもあるんじゃないの?』
 こういう流れになったら黙って聞いておかないと、話が余計に長くなる。それを知っていたから「だから願おうったって無理だろ」と吐き捨てそうになる生理的な衝動を堪え、吐瀉としゃ物にも似た生臭く苦いものを懸命に唇を噛みしめて飲み込んだ。
『前の会社で大変だったことは聞いてるし、こんなこと言いたくないけど、不幸なのは自分だけだって思ってない? あれから五年経ってるんだよ。忘れられないんじゃなくて単なる現実逃避に見える。うちらだって、いろいろあっても前を向いてやってるんだからさ。瑞樹もそろそろ現実を見ないと。ずっとそうやって過去に捉われたまま、ひとりで死んでいくつもり?』
 沈黙を、論破できた証と捉えたらしい。たまには気分転換しなよーと同窓会への出席を念押しした上で、じゃあ寝かしつけがあるからと一方的に通話は切られた。型落ちのスマホを助手席に放り出し、少し窓を開ける。車内にこもった熱気を逃がさないと、スマホも自分の頭も膨張してショートしてしまいそうだった。
 よく、ドラマや漫画で似たような台詞を見かける。大切な人を奪われ、恨みや憎しみに支配された犯人を追い詰めながら刑事や探偵が説得するのだ。復讐はなにも生まない。つらい過去を忘れ、幸せになることこそが恩返し。子供のころから、そういう場面を見るたびに疑問を抱いていた。死んだ人が復讐を望んでいないなんて、当事者の苦しみを知りもしない赤の他人になぜ断言できるんだろう? お願いだから自分を不幸にした奴をだれか殺してくれと、最後の力を振り絞って呪いながら死んだかもしれないのに。そしてそういう場面のとき、気持ちよさそうに説教する探偵役はたいてい同意してくれる助手役を背後に従えているが、追い詰められる犯人はいつもひとりだ。
 少しぬるくなったスマホを手に取ると、開きっぱなしだったSNSのタイムラインと、いわゆる「追悼イラスト」がまた表示される。この声優の訃報が流れてからおそらく一日経っていない。いたずらに描き殴った出来ではないし、仮にもショックを受けるほど思い入れのある相手の死を知った瞬間から創作を始めたことになる。この手の作品に肯定的な人々は、絵描きにとって創作は泣くことに等しい自然な行為で、なにかをしていないと壊れそうな心を守ろうと必死で手を動かしているのだと主張する。そういう衝動があること自体は否定しない。だが、それを恥ずかしげもなく全世界に公開して自己顕示欲を満たそうとする背後には、どうしても単なるグリーフワーク以上のうすら寒い妄執もうしゅうを感じてしまう。
 悲しみを忘れるために死体でオナニーしたって公言するのとなにが違うの?
 そんなことを言葉にすれば、きっと自分のほうが異物として白い目で見られ、その場から静かに排斥はいせきされるのだろう。せめて蛍先生を知る相手と思い出を共有しようと、同級生の前でその名を出したときと同じように。
 けっきょく井上涼太に渡さず持ち帰ったテキスト入りの封筒は、助手席でひっそりと横たわっている。その上にテイクアウトした牛丼の袋を置いていたことに気づき、慌ててどけて汚れがないか確かめた。蛍先生だったらこんな迂闊うかつなことはしないのに、と思い、この期に及んで彼を基準にしないと善悪を判断できない、親にお伺いを立てないとなにもできない子供のような自分自身に失笑した。

「以上ですが、なにか質問ある人」
「瑞樹先生、𠮷野家でなに買ってたの?」
 わざわざ挙手までしてみせる姿は、かわいいと思ってやらないといけないんだろうか。座ったまま含み笑いでこちらを見つめる有野は、たしかに意地悪というには無邪気すぎるかもしれない。大人の思わぬ姿を目撃したことが嬉しくてたまらないらしい姿は、テーマパークで着ぐるみを指さして「あれって人間でしょ」と叫ぶ子供を彷彿ほうふつとさせた。
「アタマの大盛」
 だから何だ、というそぶりを崩さず真顔で答える。しんとした教室に有野ひとりの笑い声が響き、後に続く者がいないのですぐ尻すぼみになった。こっちまで滑らされるのは割に合わない。チャイムが鳴ると同時に教室を出て、先に授業が終わった生徒たちの挨拶に答えながら廊下を歩いていると、背後から声がかけられた。
「瑞樹先生!」
 講師を単に「先生」ではなく下の名前と一緒に呼ぶのが、昔からこの塾の方針だ。ただ勉強を教わる存在としてのみならず人として相手を認識し、その上で敬意を持つことを学ぶべきという理屈らしい。立派だとは思うが、そのせいで名指しされると無視できない。
「井上、どうかした?」
「あ……えっと、その……」
 自分から声をかけておきながらへにゃんと眉尻を下げた井上涼太の困惑顔は、あの日、ボワティエメゾンの403号室で見たものと同じ表情だった。
「なんか質問? なら職員室で聞くけど」
 他人が聞けば自然な台詞でも、井上からすれば意地悪でしかないだろう。他の講師や生徒、塾長も出入りする場所で話したがっているとも思えない。井上はしばらくまごついていたが、やがて下がっていた眉尻をきゅっと上げて「二人で話したい」と口にした。
「そこでいい?」
 瑞樹が指さしたのは、普段はほとんど使われない小さな面談室だった。狭いせいでやたらと距離が近く圧迫感のある雰囲気から、昔から生徒のあいだでは取調室と呼ばれている。廊下を向いた窓もないので、ドアノブにかけられたプレートを「使用中」に裏返せば中でなにが行われていてもわからない。
 井上はそんなことも頓着せず先に部屋に入り、小さな机越しに対面に置かれた椅子の片側に座った。入口に立ったままの瑞樹を不思議そうに見返す目に、緊張の色はあるが怯えや嫌悪は見られない。その様子に、むしろ瑞樹のほうが扉を閉めるのを一瞬ためらった。
 いいのかよ、信用できない大人と密室で二人になって。裏切られても知らないよ。
「なあ、あのばあさんってまだ生きてんの」
 ドアノブを握ったまま訊くと、え、と戸惑った声が背後から聞こえた。
「もう死んだ? いたんだよ、ちっこいばあさん。あんなにちっこいのにすげー声でかくてさ、一回ロビーで何人かでだべってたら、いきなり『うるさい!』って怒鳴られたことある。その声のほうがよっぽどうるさいんだよね。管理人が止めても話通じないし」
「あ……え、それ」
「おれね、大人になってから、あのばあさんに一回追っ払われたことあんの。まだ前の会社にいたころで、こっちはスーツ着て髪型も違ったのに、一目でわかったみたい。笑って挨拶してスルーしようとしたらいきなり『あなた、昔うちのロビーで騒いでた不良じゃないのっ』なんて金切り声上げてさ。何年前の話だと思ってんだよ」
 だれにも話したことがない、いわゆる黒歴史だ。駆けつけた他の住人や管理人たちが呆気にとられる中、瑞樹は一言も返せずに停めていた車に戻って逃げ出した。以来、あの場所に行っても車の中から眺めるだけになった。当時は惨めだったが、振り返れば笑えてくる。
「あの人の頭の中って、巨大なタンスがあるんだろうね。そこに昔の嫌な記憶がきれいに保存されてて、引き出しを開ければ取り出せるようになってる。それが大半を占めるから、新しい記憶を入れる隙がない……すごい人生だよね、なにが楽しくて生きてんだろ? おれも、ああなる前に死んだほうがいいのかなあ」
「……瑞樹先生。前にもうちのマンション、来たことあるの」
「おれに訊くなよ。春乃先生に聞いてるだろ?」
「聞いてない」
 ドアノブから手を離して振り返る。視線を受けた井上は目を逸らし、机の上で組まれた自分の手元を見ながら、ひとつひとつを拾い上げるように訥々とつとつとした口調で話し出した。
「あの後、管理会社の人? を石川いしかわさんが連れて来て、原田さんに、いろいろ聞いてた。おれは、そこにいたらよくないって言われて。八並さんと一緒に、石川さんの部屋で待ってた。その後みんなであそこに戻って、二人がいろいろ訊いたけど、原田さん、迷惑かけてすみませんとか心配いりませんとか、そんなんばっかで……そしたら、八並さんが、泣いた」
「ヤナミって、おばさんのほう? 若いほう?」
「先生に喧嘩売られたほう」
「……ふーん、言うじゃん」
「私たちは心配もさせてもらえないんですか、って。石川さんも八並さんの味方だった。少なくとも八並さんには実害があったから無関係じゃないし、せめて、言えない理由だけでも教えるべきだって」
「実害ねえ」
「八並さんも石川さんも、最後のほう、なんかイライラしちゃって。変な空気になって、帰ってった。原田さん、瑞樹先生のこと訊いてくるかなって思ったけど、それもなくて。ごめんなさいって謝られただけで、なんにも教えてもらえなかった」
「言わないんじゃない、言えないんだよ」
 自分の指をいじっていた井上が、はっと顔を上げて瑞樹のほうを見た。
「あの人はあそこでなにがあったか、だれにも言えない。約束だからね」
「……だれとの?」
 瑞樹が自分の顔を指さすと、井上は目を見開き、そこで初めて、閉じ込められた場所に動揺したように視線をさまよわせた。瑞樹がわざとゆっくり歩み寄ってみせると怪物から逃れるように身じろぎ、その拍子に机の角に思いきりひじをぶつける。ごづっという骨まで響く鈍い音に瑞樹のほうが眉をひそめ、井上は「い……って!」とらしからぬ野太い悲鳴を上げて座ったまま背を丸めた。
 痛ましい様子に苦笑する。夏休みに妙な一件があってから、この子は自分のせいでもないのに損をしてばかりだ。かわいそうと言っていいのかわからないが、運が悪いのは間違いない。
「昔のドラマの、再放送で見た台詞なんだけどさ。人が一生のうちに経験できる運の分量は、あらかじめ決まってるらしいよ。だから、自分はついてないと思ってもくじけちゃいけないんだって。それが本当だったら、おれならついてるときに『後で埋め合わせがあるんだ』って喜べなくなりそうだけど」
 井上は肘をさすりながら、涙を浮かべて不思議そうに瑞樹のほうを見上げる。
「ただ、本当についてない奴もいるんだって。それが、運の順番が来る前に人生が終わっちゃう人。井上はそうじゃないといいな」
「……瑞樹先生、そういう人知ってるの」
「さあ、どうだろ」
「原田さんの前にそこに住んでた人?」
「おまえ質問下手だね、勉強できるのに。いや、できるから訊く必要ないのかな」
「その人ってあの部屋で死んだの。どんな人だったの? 男の人? 女の人?」
「……なんでそんなこと知りたいわけ」
「なんでって……」
「自分の住んでるマンションが事故物件だと怖い? そんなこと、気にしてたらどっこも行けねえよ。こんだけ狭い国でさ、一度も人が死んでない場所なんかもうないって」
 ここだって、と瑞樹が床を踏み鳴らすと、その音に井上はびくっと肩を震わせた。
 人の機嫌を敏感に察知して萎縮する様子は、瑞樹自身にも既視感があるものだった。そしてそう気がついた瞬間、他ならぬ自分が顔色をうかがわれているという事実に無性に苛立った。なまじ頭が回るせいで大人に期待され、それを裏切って我が道を行くほどの度胸もなく、束の間の息抜きで憂さを晴らすことしかできない小賢しい子供。
「それともなに、心霊写真でも撮りたいわけ?」
 吐き捨てたとたん、井上の顔色がさっと変わった。
 下がっていた目と眉がぎゅっと鋭くつり上がり、縮こまっていた肩がぶわりと開いた。これまでおどおどするばかりだった彼の予期せぬ豹変ひょうへんに戸惑っていると、弱っちい外見にそぐわない低い声が「そんなんじゃない!」と吐き捨てた。さっきの本能的な悲鳴とは違う。縄張りを荒らすものを許さない、小さくても紛うことなき獣の威嚇いかく
 井上が写真部に所属していて、写真部の活動が盛んな高校を目指していることは講師のあいだで周知の事実だ。有野に手を出したのも、カメラの入ったバッグを強引に奪われかけたせいだと江田を含む複数の生徒が証言している。証明写真ですら直視したくない瑞樹からすれば未知の領域だが、彼にとって写真は大事なものらしい。その気持ちはわからなくても、大事なものをからかい半分に汚される怒りと屈辱なら、よく知っている。
 ふーっと溜息をつき、井上の対面の椅子を引いて腰を下ろす。井上は毛を逆立てた猫のような機敏きびんな動作でこちらに向き直ったが、瑞樹が「ごめん」とつぶやくと虚をつかれたらしく殺気がふわりと収まった。
「春乃先生ね、昔ここの講師だったの。あの部屋に住んでたのは、その同僚だった人」
 おおかた予想はついていたのかもしれない。井上は唐突な種明かしに驚いたようだったが、その事実自体には動揺を見せなかった。
「その同僚っていうのが、変わってて。様子がおかしい生徒がいると声かけずにいられないの。塾講なんて成績さえ上げりゃいいって連中だと思ってたから、最初はなにがしたいのか、よくわかんなくて怖かった。熱血とか、空気読めない感じでもないんだよね。なんか飄々ひょうひょうとして、気づいたら懐に入ってる、不思議な人だった」
「瑞樹先生とだいぶ違うね」
「案外はっきり言うのな。だってさ、ほっとけないって思う生徒がいると自分ちに連れて帰って、飯とか食わせるんだぜ。ひいきとかじゃなくて、目についたみんなに。信じられないだろ? いまのおれより若かったけど、親戚が買ったっていうマンションにひとりで住んでて、それがあの部屋。車も持っててさ、よく生徒を助手席に乗せて家まで送ってくれた」
「……お金持ちだったんだ」
「そう。ボンボンだってよく自虐してたよ。でもね、たぶんそんな自分が好きじゃなかったんだろうね。実家が太いってだけで苦労せずに生活できる負い目があったみたい。だからこそ、縁もゆかりもない子供でもほっとけなかったんじゃないかな。運が悪ければ、自分がそうなってたかもしれないから」
「優しい、のかな」
 疑問符をつけられたことに、気分を害するどころか安心した。それはまさしく恩恵を受けていた瑞樹から見ても、単純な賛辞で済ませるには危うい動機に思えた。
「だからこそ、そこを突かれると弱かったんだろうね。世の中みんなが幸せになりたがってるとは限らない。むしろ自分の不幸を盾に、だれかを引きずり落とすことにしか生きがいを見出せない奴だっているのに」
「……その人、どうして出てったの」
 結末をぼんやり予感したのか、先を促す井上の声が重くなった。ぐずぐずしていると言葉が出なくなりそうで、瑞樹はわざと明るい口調で続ける。
「あそこを溜まり場にしていた連中の何人かが、知り合いを連れて来るようになってさ。その中に厄介なのが紛れ込んでた。メンヘラ女子っていうの? そいつが先生に惚れて、気を引くためにしょっちゅう問題を起こすようになった。大人の優しさに慣れなくて、独占欲を愛情と勘違いしたみたい。それ自体はよくある、ゆくゆく目が覚めて黒歴史として背負っていくあれね。でもたまに、目が覚める前に勝ち逃げをする奴もいる。さっきのツキの話じゃないけど、いちばん得するのは恥を知る前に奪えるだけ奪って、そのまま勢いで死ねる人間だよ」
「それって……」
「たぶん、自分がいなくなった後もあそこでみんなが幸せに過ごしつづけるとこを想像したら許せなかったんだろ。その想像力もっと別で使えって思うけど。自分はあの部屋で先生に手を出された、他の子供たちも被害に遭ってるって、嘘の投稿まで残してた。あとはわかるだろ。先生はいわゆる社会的抹殺ってのに遭って、その後、本当に――」
 そこまで話したとき、井上の目尻から一筋の涙が伝った。
 瑞樹は驚いて口をつぐむ。まだ肘痛いの、と我ながら頭の悪い質問をすると小さく首を振られ、怖いの、と訊くとより激しく振られた。わかんない、と小声で答え、井上は何度か瞬きをして、ふいに流れた涙を目から追い払った。
「……おまえ、すごいね。知らない大人のために泣くんだ」
 思わずそう口にしたのは、揶揄やゆではなかった。あの人のために泣いた奴なら何人も、もしかしたら彼の家族より知っている。その中でもっとも淡白で、人の目を意識しない泣き方だった。
「気をつけたほうがいいよ。想像力豊かすぎてもさ、苦労するから」
 なにを言われたのかわからない様子の井上をよそに、瑞樹は早口で話を続けた。
「みんなが先生を責めた。どんな理由でも、よその子供を連れ帰るなんてまともな大人のすることじゃない。なにがあっても責任とれないし、現に事故があった。冤罪えんざいでも疑われるようなことはするべきじゃないし、そもそも最初からだれかに相談すべきだった。本当にそうだよ、仰るとおり。あの人は間違ってた。でも、間違ったことしたくない、巻き込まれたくないって見て見ぬ振りしてただけの奴らがなにしてくれた? 自分まで傷つくかもしれないって苦しみながら、それでも覚悟決めて死に物狂いで手を伸ばしてくれた人を、ただ安全な場所にいただけの奴らがなんの権利で偉そうに否定してんの?」
 泣くときでさえ無表情だった井上の顔が、なぜかその瞬間、大きくいびつに歪んだ。
「子供を守るため? 違うよね。だって本当に苦しいときはいなかったし、なにもされてないって言ったって聞いてくれなかったんだから。ただ一回、運悪く間違えただけの相手をいつまでも攻撃して気持ちよくなりたいだけの連中が、そいつらが束になってもかなわない価値のあった人を奪っていった。で、自分は関係ないような顔して言うんだ。本当に後ろめたいことがないなら、逃げずに胸を張っていればよかったのにって」
「原田さんも? 原田さんも言ったの」
「……いや。わかるだろ、春乃先生はだれかを責めない。そんな面倒なことしないよ。巻き込まれる前に見切りをつけて、助けを求められる前に逃げ出した。本人がもう駄目って自覚するより先に、難破船でも見捨てるみたいに」
 いつのまにか、握った拳で太腿を叩いていた。子供のころからどうやっても直せない癖で、肌が黄色くれるまで続けてしまうこともある。手首を切ったり髪を掻きむしったりすれば目に見えるが、机に向かっているときであればほとんど気づかれることはない。
「だからおれ、春乃先生に頼んだの。この先、あの人のことはだれとも話さないでくれって。肝心なときにいなかったあなたに、わかったような顔する権利なんてないんだから。あの人が死んだのは自分のせいだってこと、一生ひとりで背負いつづけてくださいねって」
 乾いた笑いが漏れたが、返ってきたのはまっさらな沈黙だった。自分が軽く見ていたはずの「誘い笑い」をしていたことに気がついて、瑞樹はいたたまれない気持ちを潰すように腿の上に拳を置いて握り直した。
 ストレスを発散するためにいつしか身についたこの癖に、気がついてくれたのもひとりだけだった。てのひらを滑り込ませて瑞樹の手首をひねり上げたことも一度ならずある。叱ったり心を痛めたりするふうではなかったが、決まって「かわいそうだろうが」と言っていた。いつから再発したのか、もはや瑞樹自身も覚えていない。
「都合よくきれいな思い出にしたり、なんの事情も知らない相手に懺悔してすっきりしたり、そんなこと、許せないって思った。春乃先生が幸せになろうが不幸になろうが知ったこっちゃないけど、どこへ行って、なにを手に入れたとしても、全部あの人を見捨てて得たものだってことだけは、せめて忘れないでほしかった」
「……だからって、なんで、そんな」
「律儀に守るとは思わなかった。だって春乃先生、蛍先生が死んだって知ってもあの調子で、ちっとも悲しんでるように見えなかったから……いま思えば、泣かれたって難癖つけただろうけどね。あのころは、だれがなにしても気に入らなくて」
 電話口で先生を忘れろと諭してきたあの同級生が、いまもSNSの自己紹介欄に「HSP」と書いているのを瑞樹は知っている。男に感化されて純文学に傾倒していた彼女は、中学時代からブログに「みずみずしい感性」から来る葛藤や繊細さゆえの「生きづらさ」を綴っていた。そのブログは五年前に久しぶりに更新され、そこには案の定、大切な人を喪った痛みがエモーショナルなひらがなや三点リーダーを多用した長文でしたためられていた。
『あなたはどうして戦うことを諦めたの?』
 それを読んだ後、瑞樹はブックマークから彼の死について言及した知人のSNSやブログをすべて削除し、三十分ほどトイレに膝を突いて胃の中身を戻した。密造酒時代の粗悪な酒でも短時間で大量に飲まされたように、全身の悪寒が止まらなかった。
 泣き疲れて眠った夜、ふと窓を揺らした風の音に目を覚ますと枕元に彼の笑顔があったと主張する者もいれば、文豪が未完のまま遺した難解な文学作品の引用を駆使して世界に対する絶望を綴り、次に「運命に見放される」のは自分であると予告する者もいた。そのすべてが、瑞樹には盛大な大喜利のように見えた。本人の気持ちを置いてけぼりにして、自分の悲しみをいかにドラマティックに打ち上げられるかを競い合う祭りのように。
 自分の悲しみを晴らすために、平気な顔で人の墓を掘り返せる連中が恐ろしかった。とても仲間には入れない。それを善とするのが多数派なら、たぶん自分のほうが存在してはいけないのだと思った。そして、恐ろしいのは理解が及ばないからではなく、少しでも気を抜けば、次は自分がそこに堕ちるのを知っていたからだった。
 なにかひとつ言葉を吐けば、自分の喪った悲しみを癒すために、彼の死そのものを安っぽい「自己表現」に利用してしまう。それくらいなら、ひとりで全身が干からびるまで便器に顔を突っ込んでいるほうがましだった。
「おまえになにがわかるって、世界中のみんなに対して思ってた。一番わかってないのはおれなのに。迷惑なメンヘラ女のこと笑えないよ。春乃先生は巻き込まれただけ。あの人と同じ、バカなガキのヒステリーに人生狂わされたかわいそうな大人」
 精神疾患から来る生理的な反応である自殺衝動を「諦め」と表現し、彼を弱者のように断じた同級生は、とうに黒歴史から脱して子供まで産み、自分の城の主になった。どんな手段であろうと早めに毒を出しきって忘れてしまうほうが、その後の人生をかんがみれば正しかったことは疑いようがない。現に瑞樹は就職先になじめず、家族とも疎遠なまま、心のよりどころにしていたはずの場所さえ自分の手で台無しにして逃げ帰った。
 いや、とっくに台無しだった。原田春乃があの部屋に現れるよりずっと前から。ただ、それを確かめたのがいまだったに過ぎない。自分以外の全員が、過去を養分にして新しい居場所と役割を手に入れ、新しい人生を生きている。それが正しいのだと受け入れるまでに、自分だけが、取り返しがつかないほど多くの犠牲を払ってきた。
「たいして真面目な先生でもなかったのに、なんでそこだけ律儀なんだろうな。おれがなにか言ったところで聞く義務なんかないのに。あの人の家族でも、友達でも、同僚ですらない。最後まで、信用もされてなかった。たまたま出合い頭にぶつかって、困ってそうだから手を伸ばして、なんとなく見放すタイミングを逃しただけの赤の他人。出会えてよかったなんてのんきに思ってるのは、おれだけだったよ」
「瑞樹先生」
 そんなことはない、とも、そうだ、とも、井上は答えなかった。
「なんで、それ、おれに話してくれたの」
「なんでって……」
「もしかしてだけど、その人、真中まなかさんって名前?」
 その瞬間、ぬるい水の中から急激に引っ張り上げられた心地がした。
 全身が汗でべたつき、心臓が早鐘を打つ。喉が渇き、背中に寒気が走り、自分の呼吸の音が妙に耳につく。まるでその名前を合図に、すべての器官が一斉に「生きている!」と主張を始めたようだった。
「おれ、たぶん、その人のこと知ってる」
 体のコントロールがきかず硬直するしかない瑞樹に向かい、井上はそう言った。
「昔、あのマンションで写真撮ってて工藤くどうさん……あのおばあさんに怒られたことがあって。たまたま通りがかった男の人が助けてくれたの。おれが震えててなにもしゃべれずにいたら、自分ちに連れて帰ってお菓子くれて……次の日には工藤さんがうちに怒鳴り込んできて、そっちが印象凄くて忘れてたんだけどさ。夏休みに古い写真の整理してたら、そのとき撮ったのが何枚か出てきたから、思い出した」
「待って。井上、あの部屋で写真撮ったの?」
「……うん。データはもうないけど、現像したのがあるよ。いつか渡そうって思って、実際に部屋の前まで行った。でも表札がなくなってたから、不安になって逃げちゃって、それっきりあの人のことは見掛けなくなって、だから忘れて、そのまま」
 自分の部屋でなにをしても許してくれた蛍先生が、唯一生徒に禁じたのがそこで写真を撮ることだった。なんらかの事情で家族の監視を逃れている子供もいる中、居場所が特定されるおそれのある写真を残してはいけないというのがその理由だった。そして、理由を正直に伝えたら子供たちを怯えさせるという理由で、カメラ向けられると魂吸われる気がしちゃうんだよ、と笑っていた。瑞樹でさえ、その真意に気づかせてもらえたのはずいぶん経った後だった。
「欲しい?」
生徒にそう訊かれて子供のようにうなずく姿は、傍から見ればどちらが生徒かわからなかったかもしれない。ここまで恥を晒しておいて、いまさら躊躇など、少しもなかった。

 いくらあの人が自由でも、しょっちゅう自分の部屋に生徒をかくまうわけにはいかなかったらしい。瑞樹自身も、彼の自宅に頻繁に行くようになったのは中学卒業後だ。子供を預かっているのはあくまで塾長で、トラブルが起これば勤務先に迷惑がかかる。だから苦肉の策として考えついたのは、個別指導で遅くなったという名目で生徒を車で家まで送る方法だった。いまとなってはそれすら通用しないだろうが、当時は「熱心な先生」という体裁で保護者のお目こぼしを得られたらしい。口には出さなくても、生徒が帰りたくなさそうなときはわざと遠回りしながら時間を稼ぎ、他愛ない話を聞いてくれた。そのあいだに少しでも心のおりを吐き出して呼吸を整えれば、また、しばらくは息苦しい日常をやり過ごすことができた。
「蛍先生、春乃先生と付き合ってんの」
 コンビニの駐車場に車を停め、助手席で缶のカフェオレを飲みながら瑞樹がそう訊くと、隣で同じブランドの無糖を飲んでいた彼が小さく咳き込んだ。
「はあ? いや、ないでしょ」
「だってやたらちょっかいかけるじゃん。あの人ろくに反応しないのに」
「歳も近いからねえ。いま、大学生のバイトっておれとあの人だけだし」
「春乃先生に蛍先生が弁当あげてたって女子が騒いでた。職員室で見たって」
「あの人すげーまずそうにメシ食うの。見たことある? 食材がかわいそうになる。でも残したり捨てたりはできないらしくてさ、なんかもう逆におもろくて」
「好きなの?」
 じっとりと見上げると「ませてんなー」と髪を掻き回されたが、心外だった。同級生の女子のような、くだらない恋愛話で背伸びをしたかったわけではない。無言の圧に気づいたのか、彼は瑞樹の頭を撫でていた手を引っ込め、笑顔のままはっきり「違うよ」と否定した。
「あの人とおれ、似てるんだよね」
 思わず「はあ?」と言ってしまった。子供がどうなろうと知ったことじゃないという態度を隠そうともしない、ろくに目も合わせない、あんなつまらない大人と、蛍先生が似ている?
「もちろん趣味とかは全然合わないけどさ。なんか、根っこの部分がね」
 瑞樹の無礼きわまる態度にも、あの人は吹き出すだけで怒る気配すらなかった。その淡白な反応は、たしかに「付き合っている」わけではないと納得させるものがあった。
「……好きなわけじゃ、ないんだ」
「いやー、ないない。あっちも眼中にないだろ。そうだったとしても、一緒に住んだところでお互いキレるの目に見えてるって。あの人メシに興味ないのに整理整頓には異様に細かくて、おれとは真逆なんだもん。一日掃除しなくても死なないっつの、なあ?」
「はあ……」
「まったく違うし、理解もできない。だからこそ、意識するんだよね。おれがこういうことしたら、あの人はどう思うのかなって。お互いに全然違う場所で、全然違うことをしていても、存在がどっか底のほうにある」
「心の支え、みたいなこと……?」
「そんなほっこりしたもんじゃないよ。もっとピリピリしてるっていうか、緊張感あるかな。あの人から見放されたら、おれはそのときこそ終わりだなって」
「おれもそういうの、たまに思うけど。親とか」
「家族や友達は、なんつーか、身内じゃん。利害関係者っていうの? あの人はおれがどこでどうなろうがなんの影響もないし、おれだって、あの人がなにしようが知ったこっちゃない。そういう人がね、ときどき、どうしようもなく必要になるの」
「……全然わかんない」
 空になったカフェオレの缶を唇にくわえながら、瑞樹は膨れそうになる頬をごまかした。
 くだらない恋愛話のほうが、わかりやすいぶんまだましだ。友達でもないと言い、恋人や夫婦に発展するわけでもない。職場の同僚、ではあるが、春乃先生は大学卒業と同時に就職して塾をやめることが決まっている。それでもおそらく、この二人は、お互いの存在を船のいかりのように「どっか底のほう」に沈めて、意識し合っていくの生きていくらしい。
 関係とも言えない関係をこんなに大事そうに語られたら、本当に、口を挟む余地がない。
 横から伸びてきた手がひょいと瑞樹の口から缶を取り上げ、あきれたように「くちびる切れんだろ」とたしなめた。

「瑞樹先生。井上くん、なんの用事でしたか」
「あー……夏休み中の授業のことで」
「そう」
 塾長はいつも、最後のひとりになるまで職員室に残っている。他の講師や生徒がいなくなった空間に、遅くまで熱心ね、という何気ないはずのつぶやきが妙に響いた気がした。
「面談室のエアコンまだ動いた?」
「あ、はい」
「よかった。あそこ、もうずっとまともに使っていなくて、何年もただの物置扱いだから点検も怠っているの。ほら、窓もないし、扉を閉めたら完全に密室になるでしょ。大声でも出されないかぎり、中でなにかあっても外からはわからないから」
「ああ、いまの子供はそういうの警戒しますよね」
「もちろん子供もだけど、どちらかというと、大人がね。密室で生徒と二人きりになるのを避ける傾向が強いの。たとえあらぬ疑いをかけられても、無実を証明できないし」
「はあ……」
「居心地のいい場所でもないしね。好んで使っていたのは蛍先生くらいじゃない?」
 日報を書く手を止めないように気をつけながら、そうですか、と答えた。
 ここに勤めるようになってから、その名前を聞いたのは久しぶりだ。ましてやこのタイミングで。中でなにがあっても外からはわからないというのであれば、扉の外で聞き耳を立てられていても、中からはわからない。
「……おれ、蛍先生と違って熱血じゃないんで。井上からは悩みもとくに聞いていないし、深い話も、熱い話もしてません」
 子供を教える仕事をしている人々は、基本的に声が大きい。威圧的に怒鳴らなくても端的に主張を伝えてくる。それに比べて自分の声は、口にするそばから二人分のタイピングの音にさえ紛れていくのがわかった。
 子供のころの瑞樹は、いま以上に自己主張が苦手だった。もっと大きな声ではっきり言え、と叱られつづけ、そのたびにますます喉が締まって音が出なくなった。一部の教師からそれを理由に「成績がよくても反抗的で社会性がない」と揚げ足をとられたこともある。
 成長するにつれて「これは役割だ」と自分に言い聞かせ、スイッチを入れる方法を覚えてきた。ただ、本質的な部分は変わっていない。虚勢を張っているだけで、ふいに昔のことを持ち出されれば身がすくむし、たとえなにもしていなくても「怒られる」と怯えつづけている。
「そうですか」
 塾長が当然のように答えたのも、単に不明瞭な子供の話に慣れているからだろう。
「はい。塾長には悪いですけど、生徒に愛情とかありませんし。塾講になったのも学校と違って勉強教えるだけって思ったからで、正直あてが外れたなって思いました。自分がガキのころ大人をバカにしてたせいで、自分が大人になっても生意気な生徒は好きじゃないし、反対に妙に物分かりがよくても信用できない。どんな奴が紛れ込んでるかわからないのに平気で『子供が好き』とか言う他の先生たちのことも、うさんくさいなって思ってます」
 タイピングの音が途切れた。仮にも職場のトップの前であり、長年教育に携わってきた相手に吐き捨てることではない。わかってはいても、一度せきを切った言葉は止まらない。
「生徒からちょっといじられただけで、ウザくなってわざと滑らせちゃうし。年齢近いってだけで懐かれても嬉しいより面倒が勝つし。嫌われたらやりにくいからそれなりに愛想よくするけど、個人的に仲良くなって恋バナしたり悩みを聞いたり、心のよりどころになるっていうんですか? そういうの、全然興味が持てないです」
「現代的な感覚だと思います」
「……怒らないんですね」
「全員を無条件に好きになるのは無理でしょう。与えられる結果が公平であれば、みんなに平等に接する必要はないです」
「おれは蛍先生とは違うし、ああいうふうになる気もないんで」
「個性というものがありますからね」
「なりたくても、なれないし」
 同じ場所で、同じ仕事に就いても、同じ人間にはなれない。いなくなった人間の場所を埋めることはできない。その人の不在によってひらいた空間からは日々、れるのを待つ泉のように頼りなく、静かに、だけど確実に、記憶や思い出が流れ落ちては乾いていく。どうしようもない現実をただ、確かめただけの五年間だった。
「塾長は、なんでおれを雇ったんですか」
「うちの採用基準の話?」
「いや……」
「昔の教え子たちが、講師や職員として戻ってくるのは珍しくないですから。どんな形であれ教え子の役に立てるなら、教育者としてこれ以上の喜びはありません」
「……日報、メールで送信したので確認お願いします」
「ありがとう。あとのことは明日でいいから、気をつけて帰ってね」
 あくまで中立的な意見に肩すかしを受ける反面、どこか安堵もあった。パソコンからログアウトして電源を落とし、個人情報が出たままにならないように机上を片付けて荷物をまとめ、帰りの挨拶をしようと立ち上がったとき、事務連絡と変わらないトーンの声が「年寄りの妄想として聞き流してほしいのだけど」と続けた。
「あなたに限らず、なんらかの理由でここに戻ってきた生徒たち全員に対して一度は考えますよ。この子は、私を殺しに帰ってきたのかもしれないって」
 予想外の物騒な台詞に、その日初めて塾長のほうを振り返る。いつも話す相手をまっすぐ見る癖があるはずの彼女は、珍しくパソコンの画面に視線を落としたままだった。聞き間違いかもしれない、と思って遠慮がちに「ころ……」とつぶやいてみると、明瞭な声があっさりと「ころされる」と、音節まで区切って復唱した。
「え、いや、マジでなんでですか?」
「子供の教育に携わるのは、それくらい繊細で重大なことですから。生きている時間が短いぶん、その中で受ける経験ひとつひとつの重みが大人と比較にならない。こちらが些末さまつなことだと思っていても、その子にとっては生涯残る傷かもしれない。ましてや教育現場の基準自体、一年もあれば一変しますから。去年のやり方がいまは非常識だったということは、当たり前にありえます」
「塾長でも、恨まれるような心当たりがあるんですか」
「ありません。そう心がけています。だからこそ恐ろしいんです。心当たりを訊ねられてすぐ思い当たるような人間なら、その時点で半分償っているも同然じゃない?」
 硬直する瑞樹を気に留めず、塾長はあっさり投げ出すように「お疲れさま。運転、気をつけてね」と言った。一礼して職員室を出て、タイムカードを押し、塾の裏手にある駐車場に向かいながら、瑞樹が考えていたのは井上涼太のことだった。
「一個、お願いを聞いてほしいんだ」
 自分が撮った写真を渡すことを承諾した後、井上は少し首を傾げてそう切り出した。
「八並さんに謝ってほしい」
 提示された内容は、お願い、と言われて瑞樹が予想したものとは異った。だからといって「なんのこと?」と訊き返す必要も、記憶を掘り起こす時間も必要なかった。あの部屋で自分が初対面の相手に吐いた八つ当たりじみた暴言のことは、いまだに一言一句思い出すことができる。ただ、心当たりがあることと、疑問がこぼれるのは別だ。
「……え、なんで?」
「なんでって……」
「いや、わかるよ。わかるけどさ。わざわざ要求すんのがそれなの。自分で言うのも嫌だけど、いまならそこそこの条件飲んでもらえると思わなかった?」
「なんか買ってもらったりとか、そういうのは後々問題になりそうだし」
「それにしてもさあ……え、好きなの?」
 自分がなりたくなかった大人に、ふいになってしまう瞬間がある。なんでも色恋沙汰に結び付けるのはその典型だ。井上はそれを訊かれたとたん、いままで大人に見せたこともない半眼の呆れ顔になって強く首を横に振った。ただそれはそれで失礼だと思ったのか、横に振る動作を小さくひねる動作に変え、うーん……と考えながら説明を始めた。
「あれからさ、八並さん、あの部屋に来ないの。それまでは、ほとんど毎日みたいに来てたっぽいのに。石川さんはね、あんなふうに言われたから、遊びに来ること自体が恥ずかしくなっちゃったんだろうねって。だってあれ八つ当たりじゃん、先生とは初対面なんでしょっておれが言ったら、そういう問題じゃないって」
「じゃあなおさら、ヤナミさんはおれに会いたくないだろ。おまえらで慰めろよ」
「おれたちだと、だめなんだって。相手のためを思う言葉は、いろんなことを考えて選ぶから切れ味がどんどん悪くなる。でも、なにも知らない相手が無責任に放つ言葉は残酷だからこそ、的を射ているように聞こえちゃう。だからいい言葉より悪い言葉のほうが心に残るし、たとえ偶然でも痛い部分に刺さってしまうと呪いみたいに抜けないのよって」
 責めるでも怒るでもない訥々とした口調で説明されるからこそ、八つ当たり、呪い、という言葉ひとつひとつの意味そのものが重くのしかかってきた。
「でも、そう言う石川さんもおれの前では大人ぶってるけど、つまんなそうっていうか。とくに原田さんと話してるとき機嫌悪くてさ、居心地悪いんだよね。それに、八並さんの荷物がどかないとおれ、暗室作りができないし」
「暗室?」
「あの部屋の物置に、暗室を作らせてもらう約束してんの。一回だけね。そこで現像した写真、見せてやりたい奴がいて。それが、文化祭より前にできないと困るんで。だから、先生、さっさと八並さんに謝って、あの部屋を前みたいに戻して」
「……意外と勝手な理由だな」
 口では呆れたように返しながらも、井上がただのなりゆきからくる自己犠牲や同情ではない理由でその要望を口にしたこと、きちんと自分だけのわがままを言えたことに、どこか安心するような、気が晴れるような心地がした。
「春乃先生には謝んなくていいの」
 そう訊くのは、どこかずるい気持ちもあったかもしれない。それじゃあ、という提案を予想、というより半ば期待した質問に、返されたのはきっぱりとした否定だった。
「だって、原田さんがそうしてほしいかわかんないもん」
 もしも蛍先生だったら、と、瑞樹は思う。お願いね、と念を押して出て行くあの背中に声をかけ、危ないから送ってやる、と引き留め、塾長との話ももう少し早く切り上げて、いまごろ、井上をこの車に乗せていたかもしれない。そう長く連れ回すことはできないにせよ、ラジオでも流しながら少しだけ遠回りの道を選び、途中でコンビニに寄ってペットボトルの飲み物くらいは買ってやって、対面でできない話も聞いてやれたかもしれない。
 本当に自分がそうしたかったのか、それともいつもの「できない」という自傷に近い妄想か、瑞樹自身にも判断はつかなかった。ただ、この車を購入してから荷物置きとしてしか使ったことのない助手席が、初めて見晴らしがよすぎて心もとなく思えた。

 鍵がなくてもオートロックを解除できたからといって、いつも勝手に突破していたわけではない。現に毎日のようにここを訪ねていたときは、きちんと403号室を呼び出し、中から開けてもらっていた。その部屋にいまは原田春乃が住んでいるのかもしれない、と気がついて、考えもないまま押しかけていったあの日も、直前まではそうするつもりでいた。
 その指が止まったのは、呼び出してもいないのに、声が聞こえた気がしたからだった。はーい、どうぞー、という、塾では絶対に出さない気だるげな声。毎回同じトーン、同じ台詞だったせいで、刷り込みのように耳に焼きついている。死にゆく人間に最後まで残るのは聴覚だというが、いちばんしぶとい記憶は声なのかもしれない。いつも変わらず自分を迎え入れてくれたその場所から、違う声が聞こえたらと、想像したら耐えられなかった。
 4、0、3、呼出。慣れ親しんだ手順を踏む指先が震えていることには、視界に入る前から気がついていた。思わず唇を噛んだが、予想に反し、家主が呼出口に出たことを示す小さな機械音のほかに、なんの音もなくオートロックの自動ドアは静かに開いた。
 エントランスホールの掲示板には「不審者に注意してください!」という張り紙が貼られている。前からあったものか、瑞樹のせいで新しく貼られたのかはわからない。エレベーターで四階に上がり、廊下を歩くあいだも、持参したデパートの紙袋が自分の足にぶつかって立てるがさがさという音を聞くともなく聞いていた。玄関チャイムを鳴らすと、やはり無言のままドアが開く。現れたのは原田春乃でも井上涼太でもなく、彼が「謝ってほしい」と名指しした、ヤナミという若い女だった。
「……どうも」
 先にそう言ったのは、瑞樹のほうだった。
「先日はすみませんでした。これ、お詫びなんで」
 二度と会わないと思って暴言を吐いた相手と、こうしてまた顔を合わせるのは死ぬほど気まずい。ただ、約束は約束だ。おそらく玄関から先へは上げないという意思表示なのだと思い、一礼して菓子折りを片手で突きつけても、相手は青い顔のまま微動だにしない。
「あの……」
「暇ですよ」
 急に口走られたので、一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「暇ですよ、無職ですから。友達も彼氏もいないし、趣味もないし、だからってひとりで知らない場所に出かける勇気もないし。必死になって追いかけるほどの夢も才能もない。転職活動はうまくいかないし、貯金は減るし、人生どこで間違えたのかなーって思ってたところを知らない人にちょっと優しくされて、気持ちよくなっちゃったパターンですよ。あなたの言ったこと間違ってません」
「あー……いや、あれは、単なる八つ当たりっつか」
「家族とも、なんか気まずくて実家に帰りづらいし」
 おれのことなんで、と続けようとした言葉は、破れかぶれのような独白に掻き消された。瑞樹と視線を合わせず、床のなにもないはずの一点を見つめているはずのその目の色は、重い前髪に隠れて瑞樹からは見えない。
「だからって心配はかけてるから、構わないでとか反抗期みたいなこと言うのもダサいし。てか、地元に帰ったところでやることもないんです。同窓会とか絶対行けない。同級生が結婚だの昇進だのどんどん変わっていく中で、ひとりで足踏みどころか後退してんの耐えられないもん。それだけならまだしも、この子たちと私のなにが違うの、絶対に私のほうが十代のときいろいろ考えて努力してたのにって、いまだに過去の栄光に縋って人を見下してることに気づかされるんです。何年経ってると思ってんの? なじめなくて寂しいって顔しながら内心では周りをバカにしてるんだから、そりゃあこんな奴とだれも友達になりたくありませんよね」
「おれそこまで言った? 言ってないよね?」
「男女混合で遊べばいつのまにか私以外みんなカップルだし、しかも私だけそれ知らなくて、行ってない結婚式の話題とか出てやっと気づくし。たまーに会いたいって言ってくる同級生はたいていマルチか宗教の勧誘だし。仕事でも真面目にやれば暗いって引かれて、頑張って明るくすれば空気読めないって引かれて、いやもうそれって存在自体がダメなんじゃんって。美容師さんは私以外のお客さんとは話が弾むけど私には髪のことしか言わなくて、それも腫れ物みたいにされてるのわかって、そんなに触るな危険オーラ出してます? せめて人様の迷惑にならないように暮らそうって思ったら火災報知器とか鳴らしちゃうし、たまにいいとこ見せて子供を守ろうって背伸びしたら空回って余計なお世話しちゃうし、こないだみたいに痛いとこつかれたら頭が真っ白になって守るどころか守られちゃって、年齢以外まったく大人になれない、なんにもロクにできないんだなって思い知らされるだけで」
「だからさあ……」
「久しぶりにできた友達は絶対困ってるのに全然信用してくれないし、だから口挟む権利も与えてもらえないし、私がすっごい大事だと思ってる相手は私をなんとも思ってない、この人のそばにいるとありのままでいられるなーとか安心してたの私だけだったんだって思い知ったら恥ずかしくて情けなくてもうやだ自分やめたいほんっっっとしんどい!!」
 そこでヤナミが顔を覆って座り込んだので、玄関から続く廊下へ視界が開けた。
 あの日と同じように、廊下の角から縦なりの頭が覗いている。違いといえば、今日は団子が三つではなく二つで、上の一個が原田春乃の顔になっていることだった。団子の下にいる井上涼太がトンボのように目を見開き、やや引いたような顔をしている。おいおまえなんとかしろよ、と瑞樹が目線を送ると、上を向いて視線をそのまま受け流した。受けた原田春乃は無表情には変わりないが、きょとんとした様子でこちらを見守っている。
「でもしょうがないんです」
 顔を覆ったままヤナミは肩で息をしながらも、さっきよりは幾分落ち着いた声で続ける。
「ここでっ、もう自分を嫌いになりたくないからってまた逃げたら。きっと私、今度こそ生きていけないくらい自分を嫌になっちゃうからっ。もうどう転んでも自分がダサすぎてまた嫌になるの確定だけど、こんなダサい私を黙って助けてくれたの、この人だけだったんだもん。今度は私がっ、どんなダサいやり方でもっ、手を伸ばさないと駄目なんです!」
 ひと息に言い切った後、ヤナミは決意したように顔から両手を外し、瑞樹から表情が見える前に深々と頭を下げた。
「だからっ、この人を解放してください。なにがあったか知らないけど、どうしても許せないなら、せめて助けを求めることくらいは認めてあげてください。しゃくだけど、それ言うの私じゃ意味ないみたいなんで!」
「八並さん」
 井上涼太が一歩踏み出したのを制止して、ゆっくりと、原田春乃が廊下を渡って瑞樹たちのほうに近づいてきた。部屋履きのまま三和土に下り、膝を折って相手の肩を抱く。
「ありがとう。でも、あなたが傷つく必要はありません。私の問題ですから」
「またそういうこと言う……」
「私は八並さんが思うほど、優しい人間じゃありません。初めてあなたを招いたときだって、自分勝手な動機でした。あの日、振り返った先に偶然いたあなたの顔が、私に見えたんです。すぐそこにいるのに中に入れず、かといって逃げることもできず、そのことをだれにも言えなくて途方に暮れているように――失礼な話です、あなたと私はまったく違うのに。自分が楽になるために、困っているあなたを利用しました」
 わふ、と廊下の向こうから、妙に鮮明に犬の声がした。
 思わず横目で見ると、一番奥の玄関の扉が薄く開いていた。隙間から犬の鼻先らしきものがちょこんとはみ出ている。たしなめるような「だいちゃん」というささやきが漏れ聞こえて、すぐに元気な鳴き声は遠ざかっていった。いつからか聞き耳を立てていた飼い主が、犬を抱き上げて部屋の中に入れたのだろう。
「だから庇ってもらう資格はありません。それにね、私は、彼に感謝しているんです」
 ふいに視線を向けられて、思わず瑞樹は子供に戻ったように体を強張らせた。
「私はあの人の恋人でも、家族でもない。友達と名乗れるかもわかりません。死んだことさえずいぶん経ってから知りました。葬式どころかお墓の場所も知りません。知っていてもたぶん行かないでしょう。私よりずっと悲しんで、心を癒されるべき人はたくさんいますから」
 淡々としたそれは、瑞樹がいままで吐いたどんな罵倒の言葉にも似ていなかった。静かで、穏やかで、だれにも理解を押しつけない。だからこそ、本当の呪いとはこういうものなのだと思い知らされる気がした。
「もしかしたら、罪悪感を覚えることさえおこがましいのかもしれません。でもたしかに、私は彼を裏切ったんです。利用するだけして、余裕がなくなったら思い出しもしなかった。肝心なときには逃げ出した。そのことをだれも見抜いてくれなかったら、きっと私のような卑怯な人間は、いまごろ彼を忘れていたと思います。一番大事な存在を失った世界で、最初からそんな人はいなかったみたいな顔をして生きていないといけなかった」
 がさっ、と耳障りな音を立てて、菓子折りの袋が床に落ちた。
「だから、ありがとう。いまもあなたが私を憎んでいるとわかって、嬉しかった」
 それが合図だったように、うずくまっていた若い女が押し殺した声で泣き出した。井上涼太が駆け寄ってきて、戸惑いながらもそっとその肩に手を当てる。廊下の奥で開いたままだった扉が音もなく閉まり、ほどなくして飼い主を出迎えるように元気な犬の声が壁越しにも伝わってきた。だれもがふたたび動き出す中で、瑞樹と原田春乃だけが、絡まるように見つめ合ったまま取り残される。
「……ばかじゃないの」
 ようやくこぼれ出た言葉は、小さく震えていた。
 あんた、頭おかしいよ。いつまでおれみたいなガキの八つ当たり真に受けてんの? おれだって、自分の頭がおかしいことくらいわかってる。ずっとおかしいままでいられるほど強くないってことも。前にこの部屋に入ったとき、あの人がどこになにを置いていたか思い出せなかった。もう何年も経ってるんだもん、普通忘れるだろ。そうじゃなかったら生きていけない。だからさ、あんたも悲劇のヒロインぶるのやめろよ。あの人がいなくたって、あんたには捨て身でダサい姿晒してくれる友達も、聞き耳立てて心配してる近所のおばさんも、あんたのそばでは素になって楽そうにしてるガキもいるじゃん。
 だからさ、もう、いいって。
 その一言を、瑞樹は口にできなかった。解呪のはずのその言葉は、まるで最後の一発だと確定したロシアンルーレットの弾丸のように、なかなか外へ出ていかずに喉の中で震えていた。それを解き放った瞬間に世界が様変わりすることも、なにも変わらないままでいることも、等しく恐ろしかった。まるで物語にピリオドを打つように、自分と同じ景色を見ていたたったひとりからそれを奪うことが、たとえ正しいと知っていても、どうしてもできなかった。

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