
来客があった日の夜、原田春乃はかならず部屋中を掃除する。
ドアノブや照明のスイッチといった触れやすい場所をすべて除菌し、ウェットシートをつけたワイパーで床を隅々まで磨く。トイレや洗面所はもちろん、日によっては壁や窓に範囲が及ぶこともある。そして気が済むか、疲れが限界まで来たら、着ていた服を丸ごと洗濯機に放り込み、そのまま風呂に入って全身を洗い流す。
廊下を滑らせていたワイパーが、かすかに引っかかる手応えがあった。
天井灯をつけていても、カーテンのない窓は外の夜の暗さを浸水のように床に拡げる。虫の死骸かもしれないと目を凝らすと、小さな白いものが垣間見えた。ワイパーで軽くつついてからはたと気がつき、屈んで確認する。案の定、それは八並青が日中に持ち帰ったはずの、模様のないジグゾーパズルの一片だった。
未完成のパズルを崩さず運ぶ方法は、石川さくらがAIで調べたらしい。らしいというのは彼女たちがいるあいだ、春乃は翻訳業の納期を理由に自室にいたからだ。3LDKのうちもっとも広い玄関側の一室が仕事部屋で、隣は寝室。二部屋は引き戸で繋がっており、生活はほぼその内部で完結するので、これまでも顔を出さないことは珍しくなかった。
「そんな……」
自分で会わないと決めたにもかかわらず、八並青の声の悲痛さに春乃は思わず手を止め、石川さくらが「聞こえちゃうから落ち着いて」と返すまで、様子を見に行くか少し迷った。
「もともと、理事会の内容を周知する義務はないって規約なの。住民間のトラブルや、管理費の滞納について話すこともあるし」
「原田さんはそんなことしてません!」
「ただの例だってば、私に怒らないで」
赤の他人を招き入れながら平然と目を離す家主を、当の来客たちは無防備だと心配していたらしい。春乃からすれば後ろめたくなる。マンション全体の特徴なのかはわからないが、少なくともこの403号室で聴覚的な壁はないに等しい。鉄筋コンクリート造の建物は案外音が響きやすいと知ってはいたが、八並青と石川さくらが訪れるようになって初めて春乃はそれを実感し、こればかりは蛍が誇張せずに話していたのだと感心した。
「あの男だって押しかけてきたのはあれきりなのに、なんでそんな大事になるんですか」
「住人の方が彼を見かけて気づいたの。よくロビーにいるおばあさん、わかるでしょ?」
短い沈黙の後、石川さくらは「いるの」と溜息を交えつつ続けた。
「彼女が、当時ここに出入りしていた子供の顔を覚えていて。あちこちに相談したみたい」
なるほど、と春乃は息を吐く。三ヶ月に一度、区分所有者のポストに投函されるはずの理事会の議事録をしばらく見ていない理由も、ロビーで住人に会釈して目を逸らされたり、エレベーターに同乗しようとしても先に行かれたりした理由がこれで腑に落ちた。
「何年も前の話でしょ? 勘違いかもしれないし。まともに取り合うとか信じらんない」
「だれもまともには取り合ってないでしょ。ただ、ちょっと引っかかるだけ。気持ち悪いからちょっと調べて、よけい不安になって、ちょっと人に話してそれを共有して、その相手がまた同じことをして、その繰り返し」
「……石川さんも共有されたんですか」
「ここには親切な方が多いから」
親切、と八並青が復唱する。らしくもない尖った声には、彼女自身もその刃を持て余すような痛々しさがあった。反対に石川さくらの口調は不自然に明るくなっていき、ほとんど歌うようでさえあった。
「ねえ、そんな顔しないでよ。あなたが彼女に嫌われたって泣きそうになるから、違うって言いたかっただけ。大丈夫、住人ひとり追い出すなんて簡単な話じゃないし、そもそも彼女、マイペースだから人目なんて気にしなさそうじゃない」
「でも、人って、だれからも望まれない場所にずっといられるものでしょうか?」
その問いに、石川さくらは答えなかった。
「出ていくまで村八分にしようって魂胆なんですよね、ここの人たちみんな」
「八並さん、言い方」
「だって本人の話も聞いてないのに」
「納得する? 未成年略取事件を起こした知人の部屋に引っ越してきたけど、深い意味はありませんって説明されたところで」
「だからそれも冤罪だって」
「友達ならそう信じたいでしょうね」
「石川さんっ」
いよいよ現実に壁を貫通するほど声が高くなり、止める頃合いだと春乃は立ち上がった。顔を見せずとも水を飲むなり手を洗うなり、気配さえ伝われば二人とも落ち着くだろう。
「石川さんはそれ、だれに聞いたんですか」
だれって、と石川さくらは言い淀んだが、無言で待つ八並青の様子がよほど鬼気迫っていたのか、観念したように口を開いた。
「五年前のことがあった当時、理事長だった方がいまの役員に相談されたそうなの。で、そこの奥様が先日うちにいらして――」
「その人、私に紹介してもらえませんか」
春乃でさえ耳を疑ったのだから、石川さくらが絶句した後「はあ?」とつぶやいたのも無理なからぬことだった。
「このままだと、ますます原田さんが誤解されます。私たち『北側』が遠巻きにされるのは、なにをしでかすかわからない、得体の知れない連中だからなんですよね? なら、こっちが歩み寄るしかないです。無謀なのはわかっていますけど、このまま黙っていられないし」
「黙っていられないのは、彼女じゃなくて自分のためでしょ。とりあえず行動すれば、少なくとも『なにもしなかった』という後悔はしなくて済むからね。でも、いてもたってもいられない、なんて闘牛の牛と一緒。関わりたくないってますます避けられるだけ。それに、あなたが味方したって彼女に得はない」
「若いからですか? 部屋を買って住んでないから? いま無職だから? それは――」
「あなたにとって彼女が特別だから」
廊下に出ようとしていた春乃の足は、その言葉で逆再生のようにまた椅子に後戻りした。
「だれかを特別に思うことは、相手を人質に差し出すことなの。握られた時点で負け。むきになるほどに敬遠されて、ほら見ろ、これだから、って言われて悪循環になる」
石川さくらの声からはいつしか抑揚が抜け落ち、春乃が常用する翻訳アプリの読み上げ機能さながらだった。
「みんな、わざわざ波風を立ててまで真実なんか知りたくない。なにもせず大事なものを守れるなら、それに越したことはないの」
「……やっぱり、変ですよ。たまたま周りのだれとも手を繋げなかったって、それだけの理由で、一回でも迷惑かけたら話すら聞いてもらえなくなるんですか?」
「どうしてそこまで必死になるの? そんなに肩入れしたところで、あの人、どうせあなたとも手を繋いでくれないわよ。死人のほうが大事なんだから」
春乃は引き出しからワイヤレスイヤホンを取って装着し、パソコンと接続した。それでも文書ソフトの読み上げ機能が起動する数秒を縫って、石川さくらの「追い出されているのは、私たちのほうだわ」という声は滑り込んできた。
「大丈夫。八並さんなら、次の居場所くらいすぐ見つかる。まだ若いし自由だもの」
春乃はイヤホンを両手で耳に押し込みながら、合成音声に集中した。目だけでは見つけにくい違和感をこうして確認するのは慣れた作業だが、あらためて機械音を追っていると、AIのようだと思った石川さくらの声が実際には強い感情を押し殺していたことに気がつかされた。比較するまでそこに考えが及ばなかった、自分の感受性の欠落にも。
――人って、だれからも望まれない場所にずっといられるものでしょうか?
八並青の声が耳に蘇る気がして、春乃は一度立ち上がって六畳間の引き戸を開けた。
ミルクパズル、ブランケット、小さな座椅子、湯たんぽ。見慣れ始めていたこまごまとしたものたちは一掃されている。学校があった井上涼太の私物は、石川さくらがいったん預かってくれた。おおむねがらんどうの空間でたったひとつ、深緑色のヨガマットだけが扉の開いた収納の床にぽつんと丸まっている。
何年も放置していたというのに、ここ数ヶ月、この上にはかならずだれかがいた。八並青、石川さくら、井上涼太。高宮玲々すら、変なのー、と毒づきながらも猫のように姿勢を崩した。他者を迎え入れる気のない空間で、そこだけが、本来の持ち主を象徴していた。
マットを片手で掴んで浴室に向かう。バスタブの底に苔色の長方形を拡げ、シャワーの出力を最大にした。近々処分するにせよ、やはり一度は洗っておかないと気が済まない。
幼いころ、春乃は「親の死に際に握られた手もそうやってしつこく洗うのか」と詰られた記憶がある。どういう状況だったかは覚えていない。重要なのは、春乃自身が内心「そのとおりだ」と認めたことだった。大事な相手が最期に分け与えた体温すら、私はひとりになれば消毒と殺菌に躍起になるだろう。そんな人間が、存在してはいけないとまでは言わないが、少なくとも人を押しのけてまで居場所を要求するのが適当とは思われなかった。
新卒で外資系の医療機器メーカーに勤めていたころから、夜型の生活には慣れていた。フリーの翻訳者として独立した後も、納期が厳しい上に海外の依頼主も多いので深夜急な連絡は珍しくない。にもかかわらず、転職後しばらくは着信音が響くたび勝手に動悸がした。ただ、蛍が愛用していたスカイプがサービスを終了した後は、どういうたぐいの連絡であれ無感情で応答できるようになったので、あの動揺も彼の残した痕跡で、寿命が尽きるようにまたひとつ死んだのだと思い至った。
『もしもーし。春乃さん、あれ届いた?』
蛍からの着信は決まって深夜、音声のみの通話だった。生来の不眠症で夜を持て余した末に料理に凝り出した彼はいつも、翌日の来客に振る舞うなにかをキッチンで仕込んでおり、換気扇や圧力鍋の音に負けないように声を出すせいで必要以上に元気そうに聞こえた。
「相変わらずのセンスだね、誕生日祝いがヨガマットって。貰ったって運動しないよ」
『堂々と言うなあ。心配だって、ベッドだとすぐ寝ちゃうからバスタブで仮眠するとか』
死ぬよ? という、いつもながらの軽い声に安堵した。人を寄せつけないよう注意を払い、ひとり暮らしの自宅すら仕事のためだけに完結させている自分の生活など、蛍にとっては砂に頭を突っ込むダチョウと同じ、珍しくも間抜けな動物の習性のように思えた。
『最低限は体を労わりなよ。長生きしたくないって言っても苦しむのは嫌でしょ』
着信を見越して淹れておいたコーヒーに息を吹きかけつつ「今日は何パン?」と訊く。図星ゆえの見え透いた逸らし方だったが、蛍は気にせず「米粉!」と楽しげに答えた。
『パンの香りで朝起きるの夢でさー、って、不眠症だけど。一生ものの買い物したわ』
通話中パン生地を何度も作業台に叩きつける蛍に、殴打音のようで不快なのでやめてほしいと春乃が伝えたのが彼のホームベーカリー購入のきっかけだった。時期的に、この「一生」はあと一ヶ月もてば御の字だろう。蛍はしょっちゅう買い物の相談を持ち掛けたが、どう答えたところで次に話すとたいていもう買っていた。贈り物をしたり人に奢ったりするのも好きで、クレジットカードが止まったこともあるらしい。最初こそ、体よく善意を利用されないようにとよけいな気を回して「なくても困らないと思う」「すぐ飽きそう」などと正論を返していたが、あるときからなにも言わなくなった。
『いまの彼女に言われたんだけど、おれの収集癖、依存って言われたかな、幼少期の愛情の欠如のせいなんだって。モノだけ与えられて心を満たされなかったから、それ以外に人と繋がったり寂しさを埋める手段を知らなくて、復讐のように破滅的に金を使うんだって』
彼の交友関係には、たまにそういう、春乃が排除してきた手合いが紛れ込んだ。配慮を装った底の浅い分析で他者を引き裂き、理解という名の檻に閉じ込めたがる連中。人形を解体するように切り刻まれた末に放置された心を、ひとりで継ぎ直す労力は知っていた。
「へー」
平板に答えると、蛍は小さく息を呑み、それからいつもの調子で「ねー?」と笑った。以来、春乃は彼と話す際、同じ温度の「へー」を喉の片隅に用意しておくようになった。ほとんど使わないが存在を忘れもしない、なにかあったらいつでも取り出せる場所に。
『そっちまでモーター音聞こえる? また下の階のばあさんから苦情言われっかな』
「周囲に響くほどではないと思うけど」
『その「ほどではない」を嘘みたいに拾う人だから。大変そうよな、みんなが気づかないものを自分だけ感じ取っちゃうって。いちゃいけない世界にいるような気がしそう』
まんざら皮肉でもなさそうな言葉に、本当に嘘という可能性は考えないのだろうかと訝りつつ春乃はコーヒーを口に運んだ。
物欲も人間関係も希薄な春乃にとって、蛍の賑やかな日常は異世界の物語だった。パーソナルスペースが狭い彼の自宅にはいつもだれかしらが出入りし、くだらない小さな事件を起こした。アパートの隣の住人の顔も知らない春乃は、よくまあそんなに変人が集うな、と聞くたびに呆れたものだ。ひとりでいるときまで下の住人が騒音を訴えて怒鳴り込んできた、という、春乃なら退去を検討する話すら、彼にかかると軽やかなエピソードトークになった。
『あの人こないだ子供を叱ってて、つい庇っちゃったからよけい目の敵にされてるっぽい』
「子供って、同じマンションの?」
『うん。十歳くらい? ませてんの、高そうなデジカメ持って。うちの景色が自分ちと違うってビビりながら撮りたそうに……ばあさんに怒られたからだろうけど、トラウマになったらかわいそうじゃん。好きなだけ撮っていきなって言ったら窓際に座り込んで、夢中でシャッター切りまくってたから安心した』
「あなたの部屋で? ちゃんとその子の家族に許可はとったの」
『いや? わざわざ連絡するほうが心配かけるでしょ。一時間かそこらの話だし』
「あとからわかるほうが心配でしょう、知らない大人の部屋にいたなんて」
『男の子だったよ』
「感覚が古い。男の子だって事件に巻き込まれるし、なにかあったら一緒にいた大人の責任なんだよ」
『そっか。そうだね、気をつける』
この危ういバランスが人を惹きつけるのもわかる反面、一歩間違えれば果てしなく逸脱しそうな予感もあった。だが、それ以上は追及しなかった。この世界にいれば、正しさなどだれかが勝手に振りかざしてくる。
代わりに「最近はなにか買ったの」と訊くと、ガチャガチャ、と返事があった。そのばかげた響きに思わず乾いた笑いを漏らすと、がちゃがちゃ、と蛍もわざとばかっぽく繰り返した。
『カプセルの中身は自分で入れるんだけど、おみくじにしたらこれが評判よくてさ。来る奴みんな回してくの。春乃さんもどう?』
「そのうちね」
今度はとっておきの声ではなかった。否定しないが同意しない、議論もしないと暗に表明する、人生でもっとも使い慣れた音。蛍に誘われるたびに春乃はこれを返しつづけて、結局、一度も遊びには行かなかった。
『そういえば考えてくれた?』
「……なんだっけ」
『前に話した女子高生の件。春乃さんなら、いい相談相手になるんじゃないかって』
コーヒーの最後の一滴がカップから消え、飲み込むはずだった溜息が溢れた。
蛍の団体の支援対象であるその女子高生が、彼に抱く感情は聞くかぎり明白だった。恋愛ではなく気に入りの玩具への執着、というと陳腐だが、陳腐だから御しやすいわけではない。それどころか、陳腐な自分を受け入れられない人間ほど反証のためだけに暴徒化する。公正な蛍の話し方を以てしてもうんざりするのに、女など紹介すれば刺激するだけだ。
「私は聞き上手じゃないし、若い子に尊敬される人種でもないから役に立てないよ」
『そんなことない。春乃さんと話すと、真空のまま潰れかけた心に風が通る気がする。自分は無力な精神病者でも無神経な金持ちでもない、そうだとしてもべつに存在していいって楽になれるんだ。人の話をそういう聞き方ができるのは才能だと思う』
「……それは」
それは、私があなたの領域に入る気がないからだ。
無責任な場所にいるから、無責任に許せる。本気で人を助けようと願ってしまう以上、あなたは永遠に楽になれない。いくら人を救っても、生まれ持った罪の意識は償えないし償う必要もない。いいかげん魂を削る奉仕はやめて、私のように身を守ればいい。
『おれはね、実際に無力で無神経だけど、自分の関わる人みんなに、せめて一瞬くらいはそう感じてほしいよ。それくらいだったら、嘘じゃなく祈れる気がする』
現実には当然、そんなことは言えなかった。
「私は、そんなふうに思ったことないな。自分がこの世界に馴染むだけで精一杯だから。他人がどうなろうと、興味ない」
パソコンが省電力に切り替わり、暗転した画面に顔が映る。もともと自分に美を見出したことはないが、いまにも迸りかけた正論で引きつった口はまるで鬼女だった。そっか、と蛍がつぶやいてほどなく換気扇が回り始める音が聞こえたが、なにか煮込んでいるのか煙草を吸っているのか、どんな顔をしているかさえ音声だけでは見当がつかなかった。
『ま、それは抜きにしても今度遊びにおいでよ。平日の昼なら子供たちもいないこと多いし。ガチャガチャ回させてあげるからさ』
「予定が空いたら連絡する」
『しなくていいよ。春乃さん、約束すると直前に憂鬱になるタイプでしょ』
言葉に詰まると蛍は含み笑いを洩らし、わかるよ、おれもそうだから、と答えた。
『ダルいなって思われながら来られるのも癪だもん、気が向いたら、ふらっとおいで』
気が向いたらね。たしかに、そう答えた記憶があった。
「行かない。私はいつまでも理想に生きられるあなたとは違って、一生かけて静かに死ぬ準備をしないといけないの。死に物狂いで。あなたの夢物語を聴くだけならまだしも、そこに引っ張り込まないで。暗に助けを求めないで。私は人から認められないと生きる意義を見出せないあなたと違って、ずっと搾取する側でいたいんだから」
目を開けると、真っ黒な画面に映る青ざめた中年女が見えた。
ひどい顔には違いないが、鬼女というには力ない。緩んだ表情筋と乾いた髪も、さっきまで夢に見ていた当時からの加齢を告げている。机に伏せた上体を起こすと、気絶同然とはいえ数十分の仮眠で頭は幾分かリセットされていたので、あらためて夜通し修正したデータをざっと確認して送信した。八並青と石川さくらが最後に訪れたときから続けている仕事だが、これで何度目の変更かはもう数えていない。
クライアントから恐ろしい速さで今度こそ承認の返信があり、やっと立ち上がって伸びをすると、固まった肩や背中が鈍く軋んだ。そのままベッドに入ると悪夢に逆戻りしそうで、玄関に向かい、昨夜のうちにまとめておいた古い本の束とゴミ袋を持って廊下へ出た。
ゴミを捨てるのは収集日の早朝と決めている。人気が少ない時間帯なので、他者に興味の薄い春乃でも、たまに遭遇する決まった顔触れは自然と記憶していった。犬の散歩にきちんとスカートを穿いていく中年の主婦、控えめな風貌に反してランニングシューズの足元だけがカラフルな若い女性。ごくまれに、集合ポストにこっそり手紙を投函する老婦人。
「……原田さん?」
振り向くと、長袖の制服を着た井上涼太が立っていた。
手にしたものをとっさに隠そうとしたはずみで、数日見ないうちにポストに溜まっていたチラシが床にばら撒かれる。それらを拾い集めてダストボックスに入れ、ようやく「おはようございます」と返したときには、もう彼の目は春乃の手元に向けられていた。殴り書きの字が羅列されたルーズリーフがなにを示すかは、詳しく読まなくてもあきらかだろう。
「そういうの、よく入ってるの」
「よく、ではないですけど」
「おれらのせい?」
いいえ、と春乃は即答する。おれ「ら」がだれを想定していようが、聞くまでもない。
「こんな時間しか出てこないのも、そういうことされるから?」
「もともと夜型だし、とくに納期前は一段落するのがこの時間なんです。井上くんは」
「文化祭の準備」
「……ああ。もうそんな時期」
エレベーターホールから駆動音が聞こえた。井上涼太がはっと息を呑み、視線が天井の監視カメラに一瞬向けられる。では、と立ち去ろうとした春乃を彼は「ちょっといい」と呼び止め、答えを待たずにエントランスから出た。
行きがかり上、春乃も後に続いた。何歩か距離を空けたままマンションを離れ、道なりに歩く。コンビニの前を過ぎ、大通りに出る直前まで来て人目が気にならなくなったところで、井上涼太が足を止めて振り向いた。
「高宮のことだけど」
「元気ですか、彼女」
「文化祭で踊るんだって。ダンス部の舞台」
「そうなんですね」
「出なくていいって顧問に言われたみたいだけど、本人が希望したって。写真部の部室で展示の準備してるとき、廊下でダンス部が話してた。本番直前にフォーメーション変更とか最悪、センターまで奪われてまじうざいって」
「嫌なことを耳にしましたね」
「よく平気だよねって。普通は死にたくなるのにそんなに目立ちたいのかな、やっぱあの子、うちらとは違うよね、って……おれ、なんも言わなかった。聞こえないふりした」
「それが、彼女のためにも正解ではないでしょうか」
「めんどくさいって思ったんだ」
内容に反して淡々と話していた井上涼太の表情が、突如、握り潰されたように歪んだ。
「推薦で受験するならもう目立てないし、てか、最初から巻き込まれただけだし。ただでさえ塾でも学校でも微妙な顔されて、なんでまた嫌な思いしないといけないの、せめておれのいない場所で話せよ、めんどいな、なかったことにしようって。そんなこと思ったくせに、汚いことなんか知らないみたいにおれ、文化祭であいつの写真撮ろうとしてんの。味方みたいに。まじでキモいのにだれも気づいてくんないの。でも本人に許してもらおうとかずるいし、だからすごいずっとキモくて、おれが、おれを」
いつのまにかスポーツバッグの陰で、井上涼太の握った右手がズボンの腿を捻り上げていた。動きは小さいが執拗に続くそれを、春乃はとっさに彼の手首を掴んで止めた。
「どう思う?」
「……どう、とは」
「いきなり変なことに巻き込まれて、悪いとこばっか探されて、だれも話聞いてくれなくて、でも知った顔されたって惨めなだけで、そういうとき、原田さんならどうされたい?」
素直に考えてしまったのは、まっすぐな視線に反して彼が春乃を見ていないのがわかったからだ。これが八並青のように純粋に春乃のために同情的だったら、きっと取り合わなかった。
「あくまで、個人の例ですが」
「うん」
「ただ、眺めていてほしいです。そういうときはたぶん、自分がいてはいけない世界にいるような気がします。ただ、片隅にいさせてもらえればいい。それだけのことがひどく難しく感じられるんです。だから、私は奇妙な動物かもしれないけれど、存在してはいけないというほどではない、そう思わせてくれる人が遠くにいるだけで、潰れかけた心に風が通る気がします」
「……それ、『蛍先生』の話?」
感電したように井上涼太から離れた自分の指先を、驚いているな、と春乃は冷静に眺める。いつからか、自分の体の反応をこうして他人事として観察する癖がついた。
「遠野くんから聞きましたか」
「どんな人だったの」
今度は答えに躊躇する。遠野瑞樹がどう説明したか知らないが、これ以上、蛍に不幸な被害者のイメージを植え付けたくなかった。蛍ではなく、目の前の男の子のために。
「デリカシーがなくて、浪費家で、凝り性なくせにだらしがなくて」
きょとんと彼の目が開かれる。蛍の話した「同じマンションのませた子供」の面影がその顔に重なり、初めて確信した。この子だ。彼は紛れもなく蛍が救おうとしたひとりで、中でも稀少な、彼の死に傷を負わず、救われたまま生き延びた子供だ。
「塾講師として働いていたころ、職員室の席が隣だったんです。休憩中に突然『食べる?』と手作りのおにぎりを差し出されて、潔癖症だからと断っても、ラップ越しに握ったから平気だと言って聞かなくて。それで、わざと『自分の唾液や手垢が付着しているかもしれないものを、よく人に勧められますね』と答えました。卑怯な言い様ですよね? そうしたら彼、怒るでもなく『隣の席にいるとあなたの腹の音が気になって仮眠できない。自分は不眠症だから授業前に少しでも寝たい。でもそれは自分の都合だから、あなたに食事してから出勤しろと強制するのは違う気がした』って説明するんです。真顔で、懇切丁寧に」
井上涼太が今度は口も開けたので、春乃はあらためて苦笑した。一般にこの年頃の男子は、デリカシーの対極にある存在のはずだ。
「呆れるでしょう。でも、毒気を抜かれてしまって。責められたり同情されたり、こんな人間になった理由を探られたりすることには慣れていたけど、そんな適当な反応をされたことはなかった。そう思うと勝手に毛を逆立てていた自分がばからしいというか、ずっと気にしていた問題なんて小さいことだと感じられました。陳腐な言い方ですけど」
難しいね、と井上涼太が眉根を寄せる。
「だからって、わざといいかげんにするのは違うもん」
この子は賢いなと春乃は思った。こういう、救いがいのある子供だけが蛍を慕っていたらよかったのに。現実にはむろん、そんな忖度をしないのが彼の善性だった。救いがたい存在にほど、手を差し伸べねばならないと信じていた。
蛍の不幸は、せっかく特別な存在として生まれておきながら、それ自体を負い目に感じていたことだ。たまたま光る体を持つゆえに愛される蛍という虫が、害虫に混ざろうとしたところでだれも救われない。ましてや、害虫が蛍になりたいと夢見るほど不毛なことはない。
「おれも、最初からそういう人ならよかった」
井上涼太は眉尻を下げ、諦めた大人のようにひっそりと笑った。蛍に救われたまま健やかに育ったはずの彼に、こんな顔をさせたのは私だ、と春乃は思った。
井上涼太を見送り、マンションの前に帰り着くと、エントランス脇の粗大ごみ集積所に置かれた青い塊が目についた。それは灰色がかった小さなソファで、自治体に指定された申込番号、品目、料金の書かれた紙がテープで貼ってある。
その几帳面な筆跡には見覚えがあった。きちんと目を通したかは別として、このマンションの住人はほぼ全員が、同じ字で書かれた謝罪文を受け取っているはずだった。
いつからか、四十までは死ぬ気で稼ぐと決めていた。心身の無理がきくうちに貯金し、あとはそれを食い潰して死のうと思った。ただ、そのつもりで入った会社を三十代のうちに辞めたのは、資産額の目標を達成したからでも体を壊したからでもない。蛍の死後もしばらくは普通に働いていたが、自分でもよくわからないタイミングで突然、もう無理だ、と糸が切れた。
会社を辞めると、立地だけで選んだ部屋に住む理由はなくなった。かといって故郷に戻るつもりもなく、いつか行きたいと夢見るような見知らぬ土地も存在しなかった。人と情報に飽和した東京は、ひとりで生きて、ひとりで死ぬことがもっとも簡単な場所だ。とはいえ、なんの理由もないままひとつの場所に留まっていると、そのまま現実の圧力に押し流されて存在ごと消えてしまう気がした。物件サイトに曖昧な条件ばかり入力する中、頭をよぎりつづけたのが、自分では聞き流していたつもりだった蛍の四方山話の数々だった。
転居後しばらくはたびたび近所を歩き回って、彼の話に実際に出てきた場所を辿った。悼むためではなく、新たな場所に馴染む手がかりを掴むためだ。ただ、彼の声で語られると童話の舞台のように思えたそれは、春乃が目にしたところで他と変わらず、息苦しい世界の断片にすぎなかった。なんだこの程度か、と軽く失望するたびに、自分のほうが本来ここにいるべきではないのだという実感だけが深まった。
唯一それが薄れたのは、高宮玲々が井上涼太を強引に連れてきた日だ。いまにも叱られるのではないかと大人の顔色に怯える瞳を見た瞬間、空想の物語と現実が繋がり、微弱な電気が流れる感覚があった。その振動の中からなにかが蘇る気もしたが、幻に終わった。
ましてやそれが自分のせいなら、煩雑さを気にしている場合ではない。青いソファを粗大ゴミ置き場で目にした後、春乃はそのまま403号室を退出する準備を始めた。仕事に一段落つける時期を空け、古本回収の業者を手配し、引っ越しに必要な予算を割り出す。もともと来客を遠ざけるために闇雲に案件を受けていたにすぎず、荷造りの心配も少ない。ただ、厄介なのは今回も、新たな行き場を探すことだった。前回と同じように夜な夜な物件情報を巡りつつ、どこにも居場所はないと思っていながら、どこでもいいとは割り切れない自分に辟易した。
明け方、気分転換に顔を洗おうと薄暗い洗面台の前に立つと、乱れた毛先や影の落ちた目元のせいで普段以上に荒んだ顔と目が合った。いかにも世を拗ねた危険人物だ、と納得する。噂の件がなくとも、こんな人間とエレベーターに同乗するのは抵抗があるだろう。せめて身綺麗にすべきだと思い立ち、同じ町内の美容院を見つけてその日の昼に予約を入れた。
「お客さんは、パーマかけてもたぶん無駄ですよ」
セットが簡単になるようパーマを検討している、という春乃の申し出を一蹴したのは、短い金髪を逆立てた若い女性の美容師だった。
「額の生え癖がすごいし、右耳と左耳の角度が違うんですよね。そもそも髪のコシが強いからパーマくらいで言うこと聞かないだろうし、楽にきちんと見せるなら逆効果かなー」
歯に衣着せぬ言い様に春乃はしばらく黙った後、ただ「そうですか」と返した。
「お仕事できちんと見せたい感じですか」
「いいえ。子供じみていますが、なんというか、手っ取り早く別人になりたい気がして」
「指名手配でもされたんですか」
肯定したらどうなるのだろう。やや興味を惹かれたが、けっきょく「お任せしてもいいですか。どうなっても平気ですから」と言うに留めた。
「じゃ、思い切ってブリーチはどうです?」
時間はかかるけど、初回クーポンが一番割引されるので高い施術のほうが得ですよ。最近の薬剤は傷みにくいし、ケアもパーマよりは楽だと思います。その説明にセールストーク特有の熱量が希薄なことに逆に信頼感を覚え、春乃は黙考の後、そうします、とうなずいた。
ブリーチ用の薬剤を塗られるあいだ、タブレットに表示された女性ファッション誌を目で追いながらも、春乃の頭には「指名手配でもされたんですか」という質問がよぎりつづけていた。蛍ならどう答えただろう。単純に「違います」とは言わなかった気がする。
彼は生前、ここに通っていたのだろうか。マンションからほど近い住宅街の中の小さな店で、カット用の椅子は壁際に並びで三脚、天井奥に掲げられたテレビでは地上波のワイドショーがそのまま流れている。美容院というより個人経営の居酒屋のような佇まいだ。春乃にはやや親密すぎるこういう距離感も、蛍なら気に入りそうな気がする。
美容院絡みの彼の話で印象深いのは、初めて行く店では仕事を訊かれるたびに嘘をつき、どこまで話題が拡がるか試していたという傍迷惑なエピソードだ。それも「プロ雀士」だの「畳専門店」だの、一般的とは言い難い仕事をあえて選ぶらしい。
「不思議でさ、下手に本当のこと言うより、めっちゃ嘘ついた相手のほうが話が弾むの。相手も妙に深い話してくれて意気投合したり。でもなんせこっちはめっちゃ嘘ついてるから、仲良くなるほどもう行けないのよね」
お陰で腕のいい人も二度と指名できない、と半分笑いながら嘆いていた。癖は強いが妙な風通しのよさもあるこの美容師は、むしろ彼の世界の住人にふさわしい気がする。
金髪か、私が。蛍は面白がるだろうな。
タブレットに表示された「恋も仕事もグローバルに! 外資系キャリアウーマンの着回しテクニック」という雑誌の特集に軽く眩暈を覚えて顔を上げ、テレビの報道番組を見るともなく眺めていると、店長らしき年配の女性美容師がその下の椅子を「どうぞ」と回した。タオルとケープでてるてる坊主のようになった、さらに年配の女性客が座りしなにテレビを一瞥して「いやだ」とつぶやく。
「インバウンドで増えましたね、外国の人」
「おかげでどこも混んでいて嫌になるわ」
春乃の髪に薬剤を塗り終えた若い美容師が、タイマーをセットして離れてゆき、手際よくドライヤーを持って店長の補助についた。
「こないだSNSで人気のパン屋に行ったんですけど、列が事前予約の列とそうじゃない列に分かれてたんですよ。私が事前予約のほうに並んでたら、どう考えても予約してない外国人が普通に入ってきて。止めようと思ったけどうまく説明できずに行かれちゃったんです。やっぱりいまどき、英語ができないと駄目ですね」
「そもそもあの人たち、どうして日本に来てまで英語しか話そうとしないのかしら。少しは現地の言葉を学んでから来ればいいのに」
「でも気持ちはわかりますねー。私、旅行のとき言葉どころか事前になんも調べないです」
二台のドライヤーの音に負けじと声を張り上げたのは、春乃を担当していた若い美容師だった。年配のほうが「この子、年一で海外に行くんです。それもスリランカとかラオスとかベネズエラとか、ちょっと観光向けっぽくないところばっかり」と補足する
「名所も、名物も調べずに? それじゃあ、なにを楽しみにして行くの」
「楽しみっていうか……修行? たまにそういう、未知の経験しないと落ち着かなくて」
「私なら絶対無理だわー。ほんとミキちゃん胆据わってるよね、度胸あるっていうか」
「そのたびにつくづく、日本人って優しいというか、奥ゆかしいなと思いますよー。あっちの人って、トラブルがあっても謝るイコール損って刷り込まれてて自分が間違ってることを認めないし、客商売でもそれで押し切ってくるんで。足元見られたら最後って思ってるっぽくて。日本人も少しくらい見習わなきゃですよねー、あの押しの強さ」
「まあ、ただでさえいま、そういう人たちがどんどん日本に来てるわけだもんねえ」
「政府もだらしないわね。ルールが守れない連中なんか、さっさと追い出せばいいのに。同じ場所で真面目に長年生きているほうが馬鹿みたい」
雲行きの怪しさを覚えたが、ケープにくるまれた状態では耳を塞ぐ手立てもない。
「いやーでも、勇気もらえますよね。これくらい強気でいいんだって。いま、美容師もなんかあるとすぐSNSで晒されるじゃないですか。後から『失敗された……』とか一方的に被害者ぶられたり。気に入らないならその場で言えよと思いません?」
「そりゃあ、それは嫌だけど。みんながミキちゃんみたいに気が強いわけじゃないから」
「気が強いっていうか、不思議なんですよ。なんでみんな思ったことすぐ言わないし、目の前の相手とコミュニケーションとらないで、遠回しなやり方しかできないんだろーって」
「それはあなた、傲慢よ」
妙に凛とした声で割り込んだのは、二人がかりで髪を乾かされている女性客だった。
「自分は世界の中心にいる、自分の言葉はだれにでも通じて当然だと信じているから、そんなふうに言えるのよ」
そんなことないですけどねー、と明るい声が答えた矢先、店内に着信音が響いた。ここぞとばかりに年配の美容師が「どこでも話が通じない人っていますよねー」と、当たり障りなく主語を拡大する。若い美容師が受付の電話を取りに行き、思わず春乃のほうが詰めていた息をついた、その合間にも話は続いた。
「えー、その人ヤバくないですか。お住まいのマンション、大型犬禁止なんですよね?」
「最初から危ないと思っていたの、犬は想像以上に大きくなるから。なのに、まだ小犬のうちに強引に飼育許可をとって、成犬したらコーギーは中型犬だから違反じゃないって。最初からそれが狙いだったのね。管理人に言っても聞いてもらえないの。どうもそこの嫁が、お偉方に取り入っているみたい」
「いますねーそういう世渡り上手な人」
「私、昔からそういうことが多いの。みんなに気に入られるのが上手なものが、どうしても好きになれなくて、そのせいで周りから孤立する。人生ずっとその繰り返し」
「それって、工藤さんが本質を見抜いちゃう人だからじゃないですか? おつらいですねぇ」
「ええ。でも、私が嫌と思ったものはみんな、後々かならずメッキが剥げていくから」
ドライヤーが止まった店内に、その言葉は予言のように重々しく響いた。
次いでキッチンタイマーの音が鳴り、電話を終えた美容師が春乃の後ろに来て髪色の抜け方を確認する。身じろぎもできず前を向いたまま、春乃は彼女の言葉を半身に浴びた。
「最近もひとり、若い住人が出て行ったみたいだし」
「ああ、リノベーションして独身用の部屋ができたんでしたっけ」
「反対したのよ、私は。その日暮らしの連中は、多様性だかなんだかを盾にして非常識を平気で押し通すから。そしたら案の定、その辺りからトラブルが続くようになってね。形ばかり整えたところで、中身が伴わなければ割を食うのはこっちだってさんざん言ったのに」
「大変ですねえ。前もありませんでしたっけ? 工藤さんだけが事前に見抜くパターン」
「そうね、そんなことばかりだから」
「そうだ、あのときですよ。マンションの若い男の様子がおかしい、絶対よからぬことしてるってずっとおっしゃっていて、そしたら本当に事件になって、マスコミまで来て。びっくりしました。うちに取材が来たら、絶対そのことを言おうって思ったんですけどねー」
「ああ、あれね。見抜くもなにも、顔に書いてあったもの。わかるの、どこに行っても周囲を不幸にする人間は。世間を油断させようとどんなに愛想よくしても、まともなふうを装っても、目の奥に影がある。隠せないのよ。自分のことしか考えない冷たさが、顔に滲み出ている」
「そういう、やばい人を見抜くコツってあるんですか」
「そりゃあなた、直感よ」
「みんながみんな、工藤さんみたいに見る目があるわけじゃないですよー」
「違うわよ。いい人に見られたいとか、嫌われるのが怖いとか、つまらない見栄で鈍っているだけ。大切なものを守りたければ、そんなもの気にしては駄目。おかしいと思った瞬間に遠ざけて、全力で排除する。そういう連中は、ためらった一瞬の隙に付け込んでくるんだから。私もね、若いころは逃げるしかありませんでした。でも、なんで居場所を失うのが私なの? 大切なものを手放してまで逃げないといけないの? 放っておけば、また別の人が犠牲になるだけ。負の連鎖はここで食い止めないと。どうせ私には、失うものなんかないんですから」
じゃあ原田さん一度流しますねー、と、耳元で明るい声が響いた。
ケープが外され、椅子が回される。悪酔いのように視界が狭まっていたが、努めて正面だけを見て歩いた。シャワー台に横たわり、死体のようにされるがまま頭を洗われて席に戻ると、もう奥の椅子に人の姿はなかった。タオルを取った髪はアニメのキャラクターのようなオレンジがかった黄色に染まっていたが、店に来たときから続いていた、それを蛍に話したいという気持ちはもう消えていた。
工藤さんは私に気がついただろうか、と春乃は思う。そうだとして、またこの美容院に足を運ぶ気になるだろうか。つねに居場所を脅かされていると感じてきた彼女にとって、ここはおそらく貴重な、自分の話にまともにとりあってもらえる場所だったに違いない。言葉が正しく作用する場所、自分の存在は世界のバグではないと、信じさせてくれる場所。
どんなに孤独を覚悟しても、世間に背を向けてみせても、それが完全に断たれてしまえば人はかならず壊れる。蛍からの連絡がなくなった後、私がまっとうな人間として擬態しつづける気力を失ったように。あの部屋ですべてを失って実家に戻った後、蛍がもともと脆かった精神を希死念慮にあっけなく明け渡したように。
押し潰されそうな心に風を通す場所。だれかのそれを気まぐれで奪う人間は、たしかに「どこに行っても周囲を不幸にする人間」に違いなかった。鏡の中の自分の目に影とやらを見つけてしまう気がして、春乃は残りの施術のあいだずっと目を閉じていた。
二度のブリーチとカラーリングを終え、完成した髪色を披露されたときには窓の外は暗くなりかけていた。通り一遍に感嘆の反応をしてみたものの、上手くはいかなかったらしい。その証拠に帰り際、担当美容師は「直したくなったら連絡ください」とLINEのIDが記載された個人の名刺を渡してきたし、会計を終えた彼女が春乃の上着を取りに行った隙に、さっと近づいてきた店長がヘアケア用品のサンプルを詰め合わせた袋を春乃の手に押しつけた。
「すみません。彼女、うちの専属じゃなくてヘルプに来てるんですが、ちょっと強引で」
でもお似合いです、と愛想笑いを浮かべる表情と単なる初回サービスにしては豪勢な手土産から察するに、だから店には文句をつけてくれるな、と釘を刺しているらしい。自分の拙い反応のせいだと頭では理解しつつも、その日和見な態度になぜか、靄がかかったような不快感と座りっぱなしの全身の怠さがいや増した。
ヘルプだろうと雇ったのは自分なのだから、本当に「お似合い」だと思うならもっと堂々とすればいい。こそこそと切り捨てるような真似をせず、うちの店員になにか不満でも、という態度で守るのが上に立つ者の義務だろう。そう言ってサンプルを突き返したい衝動を堪える一方で、なぜ自分がここまで苛立ちに駆られているのかがわからなかった。
足早にマンションまで辿り着くと、粗大ゴミ置き場の青いソファはまだ回収されていなかった。それを目にしてふと歩行のペースが緩んだタイミングで、ふいに耳鳴りのような甲高い音が辺りに響き渡った。
夕方の防災無線は苦手だが、いつもなら耐えられないほどではない。外出中などに意図せず耳にすることはあるし、奇異な目で見られない程度に人前で衝動を飼い慣らす手段を身につけたのと同様、やり過ごす術は心得ていた。湧き上がる嫌悪感をただの体の反応として俯瞰し、数秒耐えればあとは何事もなく過ごせる。その程度のもののはずだった。
にもかかわらず、電子音の向こうからあらゆる音が耳鳴りと混ざって一斉に蘇ってきた。パトカーだか救急車だかのサイレン。遠巻きにエントランスを囲む人々の喧騒。雨の降る音。見慣れた景色が一気に消え、春乃はその場で立ち竦んだままで五年前の景色を見た。
横づけされた救急車に担架が運び込まれ、制服を着た少年が警官になにかを必死な形相で説明している。ちょうどソファのある粗大ごみ集積所の前には、赤いランプのついたパトカーが停車していた。血の気の引く音と雨音の混ざったノイズの奥から、無線に向かって救急隊員が叫んだ「オーバードーズ」という言葉だけがはっきり聞き取れた。周囲のざわめきが増した。
蛍だ、と思った。運ばれるのは彼だ。そう直感した、次の瞬間には踵を返した。
実際に緊急搬送されたのは蛍ではなく、彼が目を離した隙に彼の私室を漁り、隠していた精神安定剤や眠剤を勝手に見つけた女子高生だった。蛍が救急車ではなく、そばに停車していたパトカーに押し込められて職務質問を受けていたことも後から知った。どうして彼を見捨てて逃げたのかと遠野瑞樹に詰問されたとき、春乃はなにも答えなかった。
あの日は珍しく仕事で人間関係のトラブルが続き、精神的に疲弊していた。独立性を理由に選んだ仕事だったが、それでもコミュニケーションをゼロにすることは不可能だ。こんなつまらないことでリソースを割きたくない、どうでもいいしがらみの外にいる存在に触れたい、言葉の通じる場所に行きたい。そう思って、彼のマンションを初めて訪れたのがその日だった。
判断能力も低下していた。自分が名乗り出ていたずらに混乱させるより、一刻も早く病院に出発してもらうべきだ、とも思った気がする。ただ、すべては言い訳に過ぎなかった。きっとあのとき、事実を瞬時に理解していたとしても、自分は同じように黙って背を向けただろう。対話を試みることも現実を直視することもなく、ただ、責任から免れるために逃げ出しただろう。それ以外の行動は想像できなかった。
罰が当たった、と思った。ああ見えてめったに人に頼らない彼からの、遠回しな信号を拒否しておきながら、自分が限界を迎えたときだけのうのうと救いを求めた罰が当たった。しかも自分ならまだしも、蛍が身代わりになるという最悪の形で。
防災無線の余韻が完全に消えたとき、春乃の意識は五年前の雨の夕方から戻り、青いソファの前に棒立ちになっていることを自覚した。あの日ここに停まっていたパトカーの窓を叩き、蛍のために戦う自分を想像してみようとしたが、少しも思い浮かべられなかった。
その場に崩れそうな足を懸命に前に動かした。耳を塞ぎつつエレベーターのボタンを何度も叩く様を、他の住人に見られたらと考える余裕もなかった。震える手で鍵を開けて玄関に帰り着いたが、ベッドに横になろうにも三和土から体が動かなかった。持ち物をすべて消毒し、上着をスプレーで除菌し、手を洗い、洋服を着替え、全身を清める。そうやって外の情報を「穢れ」としてすべて落とさないと、生きることもままならない。
親が金を出したカウンセリングも薬物療法も無駄にした。臨終の肉親を前にしてすら、この衝動を抑えることはできなかった。思春期には正常な生命体に近づこうと狂気に駆られ、異性と接触したこともあるが、その程度の誘惑に釣られる男たちとの思い出などまともなはずもなく、ただでさえ欠陥だらけの体に別種の穢れだけがべったりとまとわりついて終わった。成人後は自分の金でセラピーにも通ったが、春乃と同じ強迫性障害を名乗り、世界への違和感と生きづらさを抱える同志として連帯を求めてきた「友人」たちは、時が来れば平然と番を作り、群れに紛れ込み、多数派に則った側から春乃に助言や許容を与えるようになった。いつか、理解してくれる大切な人が現れますよ。いずれ、そのままの自分を許せるといいですね。
そのたびに、要らない、と思った。
大切な人など要らない。だれからも、自分にさえ許されたくない。得た瞬間に過去の痛みを忘れ、反逆してきたはずの世界に平然と寝返るような醜態を晒すなら。それでいて、自分だけは弱者も強者も行き来できる特権を得たという顔で、双方の都合のいい部分だけを搾取する卑怯者に身を落とすなら。結果、自分たちと同じ側に馴染まない者を切り捨て、憐れむことでしか生きられなくなるなら。
蛍かもしれなかった人を、またこの手で地獄に落とすくらいなら、要らない。
気づけばバスタブの中で体を丸めて、服を着たまま頭からシャワーを浴びていた。
急激に冷水を浴びる負担より、水音で感覚を覆い尽くすことのほうが先だった。こんなものはただの生理現象にすぎない。意味などない、落ち着くまでやり過ごせば済む。いつものように自分にそう言い聞かせる。
水のないバスタブは、つねに春乃にとって唯一の安全圏だった。五年前の雨の日に、自分が逃げた後なにが起こったか、それも単身者用の狭い浴槽の底で知ったし、そうでないと調べることもできなかった。幼稚な子供の嘘と下世話な報道を鵜呑みにした連中が、蛍の過去や病歴を暴いて叩くことで熱狂的に正義という娯楽に興じた。事実が判明していっても一度流れた中傷への訂正や謝罪は行われず、ばら撒かれた個人情報も回収されず、蛍の名前を検索すればどぎつい見出しが顔写真付きで現れた。いい大人が隙のある行動をしたのが悪い、遅かれ早かれ似た事件を起こしたはずというのが世間の大意だったが、一部は「だから女の言葉は信用できない」と主張し、弱者を叩く武器として利用するために蛍を祭り上げ執拗に発言を求めた。彼の性格上、もっとも堪えたのはそれだったかもしれない。
くだらない、と思いながら、それでも仕事を擲って、スマホが熱で動作不良になるほど事の顛末を追いつづけた。そしてふいに、こんなくだらない連中にも蛍は勝てなかったんだ、だって間違えたから、と気がついて、バスタブの中からシャワーに手を伸ばした。
あの場にいながら彼を守らなかった自分も含む、すべてのくだらなさを洗い流さないと壊れそうだった。ひとりで壊れるならまだしも、すべてを破壊しないと済まなくなりそうだった。まだ足りないのか。こんなにも必死で血を吐く思いで我慢して、擬態して、努力してきたのに、まだ奪い足りないか。
あの日と同じように、ようやくシャワーを止めたときには指先が切り落とされたように末端の感覚が消え、歯の根が合わなくなっていた。こんな感覚を懐かしいと思うのもきっと狂っているのだろう、とぼんやり考えながら肌に貼りついた服を剥がすように脱ぎ、洗濯機に入れる。浴槽に湯を溜めるあいだ、玄関に放り出した荷物を片付けようと確認すると、三和土に転がったスマートフォンに新着メッセージを告げるランプが点っていた。
学習塾は春乃が大学時代にアルバイトを始めた当初、塾長と、彼女の夫である前塾長の自宅の離れに場所を構えていた。井上涼太と高宮玲々の一件で訪ねたときには懐かしむ余裕もなかったが、こうして日中に足を運ぶと、そして、呼び鈴に応えた塾長が玄関から顔を見せると、勝手に体が空気に馴染む感触があり戸惑った。懐かしさではなくデジャビュに近い、そんなはずはない、という困惑。蛍はいざ知らず、私はこの場所にも出入りしていた人々にも愛着を持ったことがない。塾長は嫌いではなかったが、それでも早く金を貯めることばかり考えていた。
「電話番号、当時とお変わりなくてよかったです」
そう言われて初めて、多くの人間関係を絶つ中で連絡先を変えたことは一度もなかったと気づく。煩雑なのが最大の理由だが、その必要があるほど追ってくる存在もいなかった。
どうぞ、と中に案内されて靴を脱ぎ、思いのほか整然とした洗面所に安堵しつつ自動のソープディスペンサーとペーパータオルで手を洗い、安堵したことに軽い後ろめたさを覚えながらリビングに入ると、日中にもかかわらず窓にかかったカーテンは閉じていた。
「庭が散らかっているもので」
塾長は天井灯をつけて春乃を座らせ、年季の入ったコーヒーメーカーからカップにコーヒーを二杯注ぐと、ひとつにシリコンのカバーを被せて春乃のほうに差し出した。
「お声掛けいただいて、恐縮です」
「こちらこそ。いまさらお呼び立てしてご迷惑かと思ったんだけど、ありがとう」
老後を考え離れに残った夫の遺品を片付けている、形見分けがしたいし、そうでなくても生徒の件で礼をしたいので顔を見せてくれというのが、塾長からの連絡の内容だった。彼女の夫と春乃は生前ほぼ関わりがなく、前者は建前かもしれないと訝ったが、溜息まじりに「男の人は、なぜ役に立たないものを集めたがるのかしら」とつぶやく彼女の口調は妙に切実だった。
「いくつになっても秘密基地が好きなのね。残された人間のことなんて、考えもしない」
真顔で言いつつも怒ってはいないようで、そのことが不可解だった。春乃自身は、たとえ家族と縁が濃かったとしても、死後まで面倒を見させるなど考えられない。ただ、まさしくこういう発想が疎遠になった理由と自覚はしていた。そもそも今日も、事前に「手土産はいりません」と言われたからといって本当に手ぶらで来てよかったのだろうか。自分なら一度断ったものを渡されたら迷惑だと考えたのだが、人間味を欠くと言われれば認めざるを得ない。
にに、とゴムを潰すような音が背後で聞こえた。振り向くと、扉の陰に隠れて小さな猫が中の様子をうかがっている。あら出てきたの、と塾長は慣れた様子で猫を抱き上げ、また向かいの席に戻って膝に乗せた。
「ごめんなさいね。猫は平気?」
「はい」
好きとも嫌いとも違う、平気、という表現がまさに的を射ている。ただ、猫自体より、猫好きを名乗る人種に慄くことはあった。飼い猫には隷属してはばからず、そのことを自分の善性の証明のように誇示する人々。
テーブルの下で猫を撫でる塾長の手つきはあくまで丁寧だが、慈愛よりは事務的な手早さと几帳面さを感じる。幼児語で話しかけたり、顔をこすりつけたりもしない。その事実を確かめると、ようやく少し安心した。
「いくつですか、その猫」
「三歳です。名前はながいき」
一瞬、その音を変換できなかった。
「……長寿の長生きですか」
「動物病院ではかならず聞き返されます」
「そうでしょうね」
「人間と違って恥を掻くでもなし、単純に願いを込めました。言霊というと胡散臭いですが、名前は一番耳にする言葉ですから」
春乃自身は名前に愛着がない。むしろ、たまに人の口から出るそれは昔から、すれ違いざまに吐かれる外国語のスラングのように感じた。正体はわからないが、とにかく湿ったものを押しつけられる違和感。それは相手が家族でも例外ではなかった。
八並青も石川さくらも井上涼太も、高宮玲々すら、春乃のことを苗字で呼んだ。気がつけば自然と、人にそうさせるなにかを纏っていた。なにも押しつけずにこの名前を呼んだ存在を、春乃はたったひとりしか知らない。
「真中くんが早死にしたのは、名前の影響だと思われますか?」
口にしてから自分でも耳を疑ったが、取り消すより先に「いいえ」と答えがあった。生徒の誤りを正すのと同じ、簡潔な否定だった。
「言葉に、すべての願いを込めることはできません。ただ、願わないことと呪うことを取り違えれば、人は本当に大切なことのためにすら、祈れなくなってしまいます」
「……申し訳ありません」
「いいえ。傷ついたとき、その理由をすべてに求めてしまうのは自然なことです」
「私は傷ついているんでしょうか?」
我ながら愚かな質問を重ねたものだ、と思う。さすがに塾長も少し眉を上げ「存じません。ご自分でどうお思いなの」と返した。
「心より、体が勝手に反応しているだけの気もします。悲しむような関係でもなかったし」
「関係性がないと、人を悼んではいけないのですか」
「彼の死に直面して傷ついたのは、ご家族や、彼を最後まで信じた子供たちです。なにも背負わず、気まぐれに墓でも暴くように思い出を掘り起こすだけの行為を、悼むとは呼びません」
蛍のパソコンを見て春乃の存在を知った彼の母親は、春乃へのメールで葬儀の連絡をできなかった旨を詫びた。だが、すべてが終わった後だという事実に安堵している自分に春乃は気がついていた。相手もそれを察したのかもしれない。返信後に追って連絡が来ることはなく、墓の場所も教えられなかった。春乃も訊ねなかった。
「後からならなんとでも言えることは、わかっています。ただ、いま思えば彼には最初から、世界にきちんと繋ぎ止められていないような不安定さがありました。それは、私自身がずっと感じていたものでもありました。だからこそ、より深い関わりを避けてきた気がします。お願いだから、消えるなら私になにも残さないでくれと、願い――呪いつづけてきました。どれだけ自由に見えたところで、人は霞のように消えたりできないのに」
塾長は、表向きには非難も憐憫も表に出さない。数多の子供たちを見てきて、この程度の愚かな独白には慣れているのだろう。そういう相手でないと言えなかった。
「私は間違って生まれたんです。生まれないほうがよかった」
否定を求める甘えた発言に響くだろうかと思ったが、幸いにも、静かな傾聴は続いた。
「それが無理なら、彼ではなく私が世界を去るべきだった。そうならなかったのは私が彼と違って、自分以外を大切にするという感情を知らないからです。形だけでも他者を救おうと試みたところで、しょせんは心が無いのでうまくいきません。そもそも自分が『他者のために』などと思い立つこと自体、おぞましく感じられます。害虫は、蛍にはなれません」
「だから、自分には離れることしかできない、と思われるの」
今度は春乃のほうが沈黙する番だった。
ふいに塾長が席を立つ。見ると彼女の腕を逃れた猫が、重く閉じたカーテンの奥にぬるりと潜り込むところだった。塾長がカーテンの端をめくり、隙間に向かって「連れてきてくださる?」と呼び掛ける。その響き方で、春乃はずっと窓が開いていたことを知った。
カーテンが開き、光が射し込む。春乃がまばたきして目を慣らしているうちに、だれかが庭から直接上がってきて塾長に猫を手渡した。そしてよく見るとそれは、信じがたいと言わんばかりの仏頂面をした遠野瑞樹だった。
「ありがとう。あなたも疲れたでしょう、そちらで少し休憩していきなさい」
塾長がさっきまで自分がいた席を指し示すと、瑞樹は「は?」と声を上げた。最初から塾長用ではなかったのか、と春乃は空席に置かれたコーヒーを見つつ思う。他に目のやり場がなかった。だれかが足音とともに出て行き、だれかが椅子を引いて春乃の前に座る。
「……なに、その髪型」
顔を上げると、遠野瑞樹がコーヒーカップを引き寄せながら目を細めている。塾長がとくに反応を示さなかったので、金髪にしたことを自分でも忘れかけていた。
「いいね。お手軽に何度も生まれ変わって、自分だけ、なにもなかったことにできて」
健全な無遠慮さで茶菓子に手を伸ばしながら、雑談のようにあっさりと瑞樹は言った。
「あそこも出てくんでしょ? いいんじゃない、あんたにはその程度ってことだもんね。あの部屋も、うるせー女も、おばさんも、ガキも犬も蛍先生も」
相変わらず刺々しい口調に反し、表情からは以前の、触れたとたんに弾け飛ぶような危うさが薄れている。態度が軟化したわけでもないのに、それだけで妙に成熟して見えた。地に足が着いた、というのだろうか。蛍しか信じられないという目をしていたころからずっと彼の横顔にまとわりついていたほの暗い面影が、すっきりと消えている。理由はわからない。
あるいは、理由などないのかもしれない。この子は生きているから。
カップを取りつつそう考えた瞬間、なぜか軽い吐き気がせり上がってきて、春乃はコーヒーに口をつけずカップを戻した。手元が狂い、ソーサーが高い音を立てる。瑞樹がちらと視線を動かし、次いで春乃を見て「おれ、あんたの顔が昔から大嫌い」と言い捨てた。
「いつも自分が捨てられる側なんだね。だれが傷ついてもそのエセ悟り顔で『わかっています』って先回りして、実際はなにも言わせないんだからそんな楽な話ないよね。置いていかれた側の地獄なんか、見たこともないのに。なにが『彼の代わりに死ぬべきだった』だよ」
実際は「死ぬ」とは言っていない。死は単純な消失ではないことを、春乃はもう学んでいる。ただ、違和感はその部分だけだ。彼の指摘が真理を突き、胸を抉るほどに心は凪いだ。自分がどれだけ救いようのない人間か、乾いた砂に水が流れるように、彼の言葉は自身で望んでも触れられないところまで抵抗なく落ちた。
「なにがしたかったの?」
「……なに、とは」
「けっきょく、あそこに出入りさせてた奴らにあんたはなにを残したかったの。弱ってるところに半端に手伸ばして、最後には捨てられるんだってトラウマだけ植えつけて」
春乃は「あそこに出入りさせてた奴ら」の顔を順番に思い浮かべる。彼らに自分がなにかを「残そう」としたのか、その様を想像するとなぜか、他者の体に卵を産みつけて食い破らせる寄生虫のイメージが頭をよぎった。とっさに首を横に振ると、瑞樹が眉をひそめる。
「なにも」
「なにも?」
「なにも、だれにも、残したくはありませんでした。ただ――」
「ただ?」
「私には、あの人たちが、罰として居場所を奪われるほど悪いことをしたようには見えませんでした。もしそうだとしても、ひとつくらい、許される場所があってもいいと思いました。たとえ一歩外に出れば意味のない、無力で無責任な許しでも、まったく与えられないのと、一度でも与えられたことがあるのとは違うのではないかと」
「で、やっぱり居場所は奪われるって失敗体験を残すまでがセット? すごい拷問」
「申し訳ないとは思っています。でも、あの人たちは善良で、いま時機が悪いとしても、傷が癒えればきちんと世界に求められる人たちですから」
「自分と違って、って言いたいわけ?」
性急な詰問だが、不思議とそこに逃げ道を塞ごうとする冷たさはなく、逆に突破口を求めているかのようだった。自分の理想に相手を当て込めるためでなく、未知の可能性を探すために問いを重ねる。声も顔も似ていないのに、その対話の手法はどこか蛍を彷彿とさせた。
彼はもう子供ではないのだ、と思った。どれだけ傷ついても、生き延びさえすれば人はかならず成長する。それが生命として正しい在り方だからだ。
だから八並青も、すぐに自分のことなど忘れるはずだ。井上涼太は言うまでもない。石川さくらは場所を変えられないぶんやや引きずるかもしれないが、その代わり彼女には守るべきものがずいぶん多い。その確かな存在感で、高宮玲々の力にもなってくれるだろう。
手つかずのコーヒーに視線を落とす。塾長が丹念に淹れてくれたそれはとうに冷め、表面に細かい塵が見えた。ただでさえ薄い食欲が沼に沈むように消えていくのを感じ、いつもそうだ、と思う。私はいつも、人の善意を無理やり飲み込み、受け取ったふりだけしてその場かぎりでやり過ごしてきた。
「――ごめんなさい」
ぽつんとその言葉が落ちたとき、あまりに自分の内心と共鳴しすぎて反応が遅れた。
「春乃さん、ごめんなさい」
名前を呼ばれて、ようやく我に返った。対面の遠野瑞樹が、逆光を背に受けながらこちらを見つめている。彼が春乃と正面から目を合わせようとしたことなど、これまで一度もなかった。
「あなたの言うことを聞くべきだった。最初から、責任のとれないことはするべきじゃなかった。紛い物の救いを世界は認めない。それどころか、受け取ってしまった相手にもっと深い罰を与えるだけだった」
遠野くん、と春乃が呼びかけても、彼は茫漠とした表情のまま続けた。
「ずっと伝えたかった。春乃さんが逃げたのは過ちじゃない、自分を守る正しい行為だったって。手の届く人をみんな助けたいなんて、単なる傲慢だった。僕は生まれたときから心に空いていた穴を、自分より弱い存在を利用して埋めようとした。神様にでもなれる気がしていた。そんなやり方で生きる理由を得れば、きっと罰を受ける。ああなることは運命だった」
伸びてきた手が春乃の手の上に重なる。ずっと人に触れることを恐れてきたのに、その体温は妙にすんなりと肌に馴染んだ。意識の表層が遠のいてゆくのを感じながら、もし、と、より深いところで思う。こんな体に生まれなければ。愛や恋など芽生えなくても、情だけでひとまず体を差し出すことができていれば。そして彼が、軽薄にそれを受けてくれれば。私は、もっと違う方法で蛍を救う立場を得られたのだろうか?
「春乃さんは僕の大切な人だ。だれにも理解されなくても、あなたがどこかで生き延びてくれることで僕も生きられた。お互いにそうだったよね? それなのに、僕はあなたを置いて神になろうとした。真に救いが必要な人間は、真に救えない人間でもある。何度も忠告してくれたのに。あなたが僕を捨てたんじゃない、僕があなたを裏切った。生まれなければよかったのは、僕のほうだ。僕のほうだったんだよ」
もう一本の手が春乃の顔に伸び、羽のように儚い手触りで頬を撫でた。
「泣かないで。もういいんだ。僕のことは忘れてほしい。いま、そばにいてくれる人を大切にして、幸せになるために生きてほしい。あの部屋も出て行っていいよ。大丈夫、春乃さんなら居場所は見つかる。ちゃんと想ってくれる人が現れただろ? 僕と違って、あなたは許される資格がある人なんだから――」
世界が大きく揺れた、と春乃は思った。
直後に響いた脳が砕けるような音が、どこから聞こえたのかもわからなかった。前か後ろか横か、柱を失った城のように、沈みかけた船のように傾ぐ世界で、そんなことは問題ではないように思えた。ただ、人形のようなその顔が視界に映ったとき、自然と「私は」と荒い呼吸とともに声がこぼれ出た。
「あなたを見捨てた世界に、居場所なんか欲しくない。もう、なにも与えられたくない」
そのとたん、滅びかけた世界が制止した。
椅子を蹴立てて立ち上がり、重ねられた手を払ったことを自覚するより前に、近づいてくる足音が妙に鮮明に聞こえた。聴覚が一新されたように、外界の音が隔たりなく入ってくる。春乃はそのとき初めて、虫の羽音にも似た耳鳴りが、蛍を喪った日から何年もずっと自分の鼓膜にまとわりついていたことを知った。それが、たったいまあっさりと止んだことも。
リビングに現れた塾長は、まず立ちすくむ春乃を一瞥した。続いてその背後でひっくり返った椅子と、テーブルの上にこぼれたコーヒーを確認する。最後にひとり、彼女が出て行ったときと変わらない様子で座っている瑞樹に目を止めると、もっぱら彼に向けて厳しい声で「何事?」と訊いた。
「揉め事は起こさない約束で協力しましたよ」
すみません、という瑞樹と春乃の声が重なったことで、その視線に宿る険は和らいだ。塾長が確かめるように春乃のほうを見る。
「コーヒーを取ろうとしたら、手が滑って」
我ながら苦しい言い訳だと春乃は思ったが、塾長はそれ以上は追及せず、そう、とうなずいてキッチンに向かった。布巾を取ってきた彼女がコーヒーを拭き取る傍らで遠野瑞樹がカップやソーサーを片付け、倒れた椅子を戻して春乃を座らせる。軽く肩を突いたときの無愛想な手つきにさきほどの面影はなく、はたと自分の顔に触れて確かめたが、頬に濡れたような痕跡はなかった。
「原田先生って、案外うっかりなんですね」
平然と言う瑞樹に春乃が反応するまもなく、塾長が「あなたも人のことは言えないでしょう。手足を持て余して、そこかしこにぶつけているのをよく見ますよ」と答えた。
「若い方は腕が長いから、正しい距離を体で知るのに時間がかかるのね」
えー、そうですかね、と瑞樹が怪訝な顔で答える。その様子をたしかに認知しながらも、あまりに現実的で前向きなやりとりはうまく頭に入ってこなかった。ただ、意識だけを未知の土地に連れ去られたように呆然としていた。
この世の生きる人間はみな成長し、傷だらけの過去も養分にして、明るい未来を目指す。それが正しい、生きているかぎり希望を見出すべきだと、疑いもなく希望から希望へと渡り歩く。自分たちが食い潰した光そのもののことなど、あるいは光を見失って彷徨いつづける一匹の虫のことなど、顧みもせずに。
生まれなければよかった。一度でも間違ったものに救われることを決して許さない、正しさに馴染めないものをどこまでも排斥しつづける、こんな世界には。
蛍の死を消費する、この世界が憎かった。こんな世界に認められなくてもいい、一緒に間違ったまま片隅で生きようと彼を説得できなかった自分が憎かった。一丁前に孤独ぶりながら、その実同類とばかり番を作り、理解の及ばぬものを排除しながらでしか生きようとしないすべての人々が憎かった。どんなに他者に寄り添う多様性を叫んだところで、彼らの認める「他者」はけっきょく、自分の正しさへの確信を深める道具にできるものだけだ。苦痛も自己破壊も伴わない理解など、自分しか愛さないことと変わらないのに。
あの部屋に人を受け入れたのは、彼女たちのためでも、ましてや自分のためでもない。彼らを生き延びさせることは、徹底的に春乃を受け入れず、蛍までも最悪の形で奪った、この世界への最後の復讐だった。
「お話が済んだなら、そろそろ庭へどうぞ」
その言葉を合図に、瑞樹がさりげなく春乃から離れ、歩き出す塾長のほうへ寄っていった。表情は変わらないが、あきらかにさっきまでの茫漠とした雰囲気ではなく、ふてくされた子供さながら逸らされた目にはふてぶてしい光が戻っていた。あのやりとりが何なのか、芝居だとしてもどういう意図だったのか、真実を知る機会を逸したことを春乃は悟ったが、そもそも知りたかったのかどうかもわからなかった。たとえば、動機がそこまでして自分を痛めつけたいという純粋な悪意だったなら、なおさらそのまま尊重しておきたかった。
理解したい、安心したいという欲望のまま人を追い詰め、すべてを吐き出させ、真実を白日の下にさらした果てに待っている光景が悪意と絶望しかない荒野なら、もしかしたら、という淡い未知を選びたい。そう願うことを、おそらく多くの人は無責任と呼ぶのだろう。
裏庭のプレハブの中は、すでに閑散としていた。真面目に故人を偲ぶ来客たちはとうに訪れたのだろう、残ったものたちにはどことなく、灰色がかったような諦観の空気がまとわりついている。紐で縛った古本の束、額縁入りの絵画、外国土産の不気味な人形、趣味の道具らしい大型の機械。そこを片付けたのが井上涼太だと知らない春乃は思いのほか整然とした様子に安堵しつつ、それでもこもった黴の臭いや床から舞い上がる埃には居心地の悪い思いがした。譲渡を断る口実を考えつつ二人の後ろからざっと見渡したときも、無意識に及び腰になった。
その足はしかし、ある一角に意識が向いたとき、勝手に前にいる二人を追い越して奥へと向かっていた。
床からフラミンゴのように伸びる一本の足に、水晶玉を彷彿とさせる本体が支えられている。そのおよそ半分ほどは、同じく球体の小さなカプセルで埋まっていた。上についた学帽に似た形の蓋、銀色のレバーとコイン投入口のついた赤い台座。
よく街中で見る近未来風の形ではなく、中身を示す派手なステッカーも貼られていない。収まりのいい愚鈍な四角さで、機械的な養鶏場のように上下左右に並んでもいない群れから離れたそれは、名前から想像していたよりずっと優雅なたたずまいだった。
がちゃがちゃ、と蛍が呼んだ名を口に出す。久々に「頭が悪くなる」ような、すべての機能が単純化していく不思議な感覚があった。
「そのガムボールマシンは、真中先生が置いていったんです」
反対に塾長が口にした大仰な名前は、跳ね返されるようにうまく馴染まなかった。
「ご実家に戻る前に。一度は断りました。うちは学ぶ場所であって、遊ぶ場所ではありませんから。でも彼、譲らないんです。笑顔のまま『ここが一番必要とされる場所だと思うんです』の一点張り。けっきょく主人がすぐここにしまい込んで、それきりにしてしまいましたが」
簡潔な説明の後、塾長はぽつんと「あれはどういう意味だったのかしら」とつぶやく。珍しく困惑したような、本当にわからない、理解が及ばないという様子だった。
当然だ、と思った。長年正しい場所に根付いて正しいルールを築き、目に映るすべてを正しい名で呼び、守られるべきものを正しく守りつづけてきた彼女には、いくら言葉を尽くしてもきっと理解できない。強さゆえに見なくて済む景色もあるし、自分たちのような人間は、そのことに絶望もすれば、救われることもある。
それにしたって、言葉が足りなすぎるよ。
春乃はガチャガチャの脚に指を滑らせ、確かめるように上へとなぞった。半透明の本体にてのひらで触れ、犬を撫でるように蓋を軽く揺らす。予想以上に軽薄な手応えだった。レバーを傾けるとコインを入れるまでもなく回り、がこがことカプセルがかき混ぜられる。そうだろう、と知っていたように納得した。たとえ小銭であれ、蛍が子供たちの金を取るわけがない。たとえ正しくなくとも、与えることでしか生きられない人だった。
さらに力を込めると古びたレバーは存外抵抗なく回り、ぽん、と小さな球が膝に当たった。出産したての卵のように濁ったそれは、手に取ると思いのほか軽く、たたまれた小紙が入っているのがわずかに透けて見える。両手でひねってみたが、いまにも潰せそうな儚い感触にもかかわらず、時を経たそれはぴったりと固く閉ざされ動かなかった。
「こんなものにいくら払ったんでしょう」
春乃の言葉は見守るふたりの耳にも届いていたが、どちらも声が出なかった。汚れた床に膝をつくことも厭わず体を丸め、銀の足に腕を回して倒れそうな体を支える春乃の背中は、彼らから見ると、二度と会えない相手にすがりつく頼りなげな子供のようだった。
「理解できない。本当、変な人ですね」
言葉に反してそこから離れられずにいることに、春乃自身だけが気づかなかった。
後部座席に寝かされたガチャガチャは、妙な具合にくつろいで見えた。シートの収まりがいいのかもしれない。そのふてぶてしい様子をバックミラーで確かめるたび、人の車の助手席が苦手な春乃もどこか心が和らいだ。
「もしかして、あなたが引き取る気でしたか」
一度、赤信号で停まったタイミングで運転席の瑞樹に訊くと、彼は「んなわけ」と即答した。その間合いのなさはむしろ懸念を確信に変えたが、いまさら謝るのも気が引けた。彼がどういうつもりで春乃と蛍の私物の送迎を了承したのかはわからないが、思い出話がしたいからではないだろう。実際、彼は車に乗り込むやいなやカーステレオを大音量にセットし、道中ではほとんど口をきかなかった。
大通りを右折して一本、直線距離にボワティエメゾンが見える通りに入ったとき、心臓が跳ねるのを感じた。エントランスの近くに人がいる。小さな子供としっかり手を繋ぎつつ、もう片方の手にスマホを持って車道に身を乗り出す若い女性。腰を屈めて子供と目線を合わせ、眉尻を下げつつ話しかける壮年の女性。後者には春乃も見覚えがあった。
石川さくらに春乃について忠告したらしい、元理事長の妻。一緒にいるのは遊びに来た娘と孫娘だろう。共通した雰囲気で、遠目にもすぐ三世代の母子だとわかった。
「ここで」
とっさに出た声は、思いのほか細かった。とはいえ瑞樹の一瞬こちらに流した視線がバックミラーに映ったので、聞こえはしたはずだ。にもかかわらず、彼は軽くスピードを上げて車をマンションに近づけ、彼女たちがよけた駐車スペースの入口に淀みないバック駐車で割り込んでゆき、エンジンを止めると運転席から降りて助手席のドアを開けた。あまりにスムーズな一連の動作に、抗議する暇もなかった。
「どうぞ、先生」
いつになく丁重な呼びかけを見上げた春乃の表情が爽快だったのか、瑞樹は後ろにいる一家に見えないよう口角を片方だけ上げた。
「こんにちは」
しゃあしゃあと瑞樹が放った挨拶に、同じ言葉を返したのはおそらく若い女性ひとりだった。おそらく、というのは、答えることすら危ないと言わんばかりにそのタイミングで祖母が孫娘に話しかけたからだ。彼女の娘は、昨今の事情までは把握していないらしい。よくわからない事件でたまにしか会えない子供と孫に心配をかけたくない、という配慮はいかにも健気だ。
それに比べ、自分たちの存在はなんといかがわしく見えることだろう。
そう思いつつ春乃はしかたなく車を降り、後部座席からガチャガチャを引っ張り出した。日常にそぐわない異物を、少し迷ってから肩に担ぐ。申し訳程度に会釈して足早に場を辞そうとしたとき、
「ろぼっとー?」
足元で声を上げたのは、母親の陰に隠れた女の子だった。
歳は春乃にはわからないが、おそらく小学生にはなっていないだろう。冬が来る前から着膨れた体の向こうで、彼女の祖母が軽く顔をこわばらせている。
「ロボットじゃなくて、ガチャガチャ」
快活な声で答えたのは、瑞樹だった。
「ほら、みっちゃん夏休みにお台場行ったでしょ? パパにフジパンのスクイーズ取ってもらったじゃん。昔のはああなんだよー」
母親が娘に説明し、そんなものがあるのか、と春乃は感心した。
「タクシー遅いわね。みっちゃん、ちょっとコンビニでお菓子でも見る?」
家族の反応を遮るように、しかし不穏な空気にはしないように声を張り上げながら、入江妃佐子が腕を孫の体に回して引き寄せた。
そのこと自体を責める気にはなれなかったが、ふと横を見ると、遠野瑞樹が笑顔を貼りつけたまま子供に近づきかけた足を下げ、後部座席のドアを閉めるところだった。蛍の面影を求めたとはいえ、彼も本質的には子供と接する仕事が合うのだろう。春乃が初めて見る明るい笑顔がじょじょに消え、代わりに、消えたはずの孤独な子供の影が目に戻ろうとしている。
「やってみる?」
ガチャガチャを地面に下ろして呼びかけると、入江妃佐子のみならず、瑞樹までぎょっとしたように春乃を見た。そんな、申し訳ないですよ、と答えたのは母親だったが、愛想のいい笑顔の裏の薄い困惑は伝わってくる。
「そうよ、みっちゃん、ほらコンビニ行きましょ? おばあちゃんギンビス買ったげる」
理解できないものを理解するには、近づかなければいけない。そんな危険を冒すよりは視界に入れず隔離したほうが早い。ましてや傷つくのは自分だけではない。そう考えるのは自然だし、春乃とて、ただ相手を安心させるためだけに胸の奥まで引きずり出させるつもりはない。蛍の葛藤を、過ちを、祈りを、正義の名の下に踏みにじることを良しとした世界を、自分だけは、認めるわけにはいかない。
「文化祭の小道具に使うものなので、きちんと動くかどうか確かめたいんです」
突拍子もない嘘だが、愛想笑いが苦手でいつもどおりの顔だったのが逆に功を奏した。一瞬緩んだ祖母の腕を逃れ、子供がおそるおそる近づいてくる。瑞樹が春乃の顔を盗み見て、よくもまあ、と息だけで毒づいた。
小さな手が慣れた様子でレバーを回すと、がこがこ、と鈍い音とともにまた半濁のカプセルが排出された。開かないままポケットにしまった固さを思い出して春乃がなにか言うよりも先に、彼女はそれを拾い、きゅぽん、という快い音とともにきれいに回し開けた。え、開いた、と思わず口に出すと、みっちゃんはうろんげに春乃と目を合わせた。
「カプセルだもん」
「すごいね。私、固くて開けられなかった」
「いっかいねー、ぎゅーしてからぽんする」
ぎゅ、と復唱しつつ腰を屈め、春乃はポケットから取り出したカプセルに、小さな手が示す動きを真似しながら力を込めた。一度押したことでぴったり閉ざされていた接合部に空気が入り、嘘のように軽く上下が離れる。すご、と春乃がつぶやくと、これにーながうまい、とみっちゃんが無表情に答える。
「お子さんの、文化祭ですか」
「いや……塾の生徒さんの。自分はそこの国語講師で、こちらはその、OGというか」
屈んでカプセルに熱中していた二人は、頭上で探り探りの世間話が始まったことに気がつかなかった。カプセルの中身は紙だけで、軽く緊張しながら開いたものの、内容はフォーチュンクッキーに入っていそうな英文のおみくじ、というより簡素なメモだった。パソコンで作ったらしいそれ自体に蛍の面影はないが、書かれた名言は、彼の好きなチャンドラーの小説から引用したものではある。とはいえ、あまりに有名なそのフレーズから個人的な意図を読み取ることはできずにいると、
「これなにー?」
ずいと春乃の鼻先に差し出された紙には、同じフォントで春乃のものより少し長い英文がプリントされている。一目で文意を察し、あなた子供になんてこと言うの、しかもなんで私に言わせるの、と内心で蛍を恨みつつ、春乃はその知らない諺を、この先きっとどちらかを選ぶことになる子供に訳して聞かせた。
The price of being a sheep is boredom. The price of being a wolf is loneliness. Choose one or the other with great care.
羊でいる代償は退屈。狼でいる代償は孤独。どちらを選ぶか、慎重に考えなさい。
「しょぼーい」
みっちゃんが不満げに言い、ね、しょぼいよねえ、と春乃も苦笑して答えた。
401号室の呼び鈴を鳴らすと、ドア越しに犬の鳴き声がした。存外近くから聞こえるそれによって、春乃は部屋の主が外出間際だったことを悟る。しずかに、とささやいてからしばらく間を置き、春乃がもう一度呼び出すか迷いだしたところで石川さくらがやっとドアを半分ほど開けた。険しい顔と裏腹な、やや怯えたような瞳を彼女がしていることには春乃も気づいたが、それが過去の記憶と結びついていることまでは思い至らなかった。
「なにか用ですか」
いまさら、という前置きが明白な声で彼女は言い、突然恐縮です、という普段どおりの春乃の返事を聞いてさらに眉間にしわを寄せた。
「文化祭の日程をお訊きしたくて」
「文化祭?」
「はい。井上くんと、高宮さんの学校の」
石川さくらはうろんな顔をしながら「そんなの」とつぶやいた後、続けようとした言葉を飲み下し、今月、と短く答えた。今月末の日曜日ですよ。催し物の細かい時間は、ホームページで見られるんじゃないの。
「ありがとうございます。お邪魔しました」
深く頭を下げると、春乃の爪先を肉球で叩きつつ鼻を鳴らす犬と目が合った。そちらにも会釈をして急いで踵を返すと、待ちなさいよ、と背後からますます尖った声がした。
「久しぶりに顔を見せたと思ったら、それだけ? もっと他に言うべきことがあるでしょう」
「……ご心配をおかけして、すみません」
「催促されてから言っても遅いのよ、そういう台詞は。むしろ逆効果なんだけど」
「では、どう言えばよかったでしょうか」
あなたって、と絶句しながら、石川さくらは頭痛を堪えるようにこめかみを支えた。
「八並さんのところには?」
「いいえ。彼女、出て行ったのでは」
「よくそんな平気な顔で言えたものね」
「もともとなんです、顔に感情が出なくて。無理に出そうとすると嘘になるんです」
「顔だけじゃないでしょう。死人の部屋に引っ越すくらいの行動力を、少しは生きている相手に対しても見せたらどうなの」
「すみませんが、その『死人』という言い方は控えていただけますか」
石川さくらが黙ったので、理解されなかったのかと思い「前から気になっていて」と付け加える。単なる補足のつもりだったが、それが余計な一言だったことには、彼女が「そんなこと、どうでもいいでしょう!」と声を張り上げたことでさすがに気がついた。
「どうでもよくありません」
それでも譲れず答えると、石川さくらは肩で大きく息をつき、幾分か冷静な声で続けた。
「家族や恋人ならまだわかる。でもその人、あなたにとってただのバイト先の元同僚で、しかも何年も会っていなかったんでしょう? そんな人間の無実を根拠もなく信じて、いまでも自分の人生を擲って、どうかしてると思わないの」
「私と彼の関係の価値は、私と彼にしかわかりません。どう感じてどう動くかは私が決めます。それに、家族でも恋人でもない存在だから、無条件に信じられるということもあると思います。それに救われることも」
「そういうの普通なんて呼ぶか知ってる? 思い出補正っていうの。死人は都合の悪い面は見せないし、そりゃあ生きた人間より都合がいいでしょう。あなたたちみたいな孤独ぶりたがりって、居場所を脅かされるのはいつも自分たちばかりで、私みたいな人間は悩みなんかないと思ってるんでしょうね?」
孤独ぶりたがり。言い得て妙だ、と思う。おそらくこんなふうに俯瞰してしまう態度自体、まっとうな人の神経には毒なのだろう。
「しかたないじゃない。あなたたち、怖いんだもの。なにを考えているかわからないし。さんざん居心地の悪い思いをしてきて、やっと安心な場所が見つかって、そこへ後からそんな人たちが流れ着いてきた身にもなってよ。言いたくないことは言わない、でも仲間外れにしたらそっちが悪い、なんて理屈がどれだけ人に窮屈な思いをさせるか、少しは自覚したらどうなの」
「……私は、恋人でも家族でもない死人を、一生いちばんに置きつづけます。八並さんや石川さんが私をどれだけ心配してくれても、井上くんや高宮さんがこの先どれだけ苦しんだとしても、この順番はきっと揺らぎません」
石川さくらが傷つけられた少女のように目を瞠り、両手で口許を覆った。これまで彼女にした仕打ちでいちばん酷い行為だと自覚しながらも、ここで止まるわけにはいかなかった。
「愛情なんて美しいものではありません。人生でたったひとり、言葉の通じる存在がたまたま彼だったから、相手が死んでも手放してあげられないんです。好きとか嫌いとか、生きるとか死ぬとか、だれのそばにいるとか、たいていの人が自分の意志で選べるものが、我々にはどうしようもないことなんです。ずっと羨ましかったです、選んだ相手の人生を占有して、居心地の良い場所を勝手に居場所と呼んで、実際にそこに帰ることを当然と思える人たちが。そんな連中、どうなろうが知ったことじゃない。そう、いまも思っています」
硬直する主の足元で、犬は身を低くしつつただならぬ様子を見守っている。
「でも、もし選べるなら、私は石川さんや、八並さんや井上くんや高宮さんが、今後正しさに馴染めないときが来ても、許されるんだと思える場所を居場所と呼びたいです。それは、私が存在することを許される世界でもあるからです。……いま言えるのは、これがすべてです」
「……なにそれ」
石川さくらが頭を抱え、脱力したようにその場にうずくまる。様子をうかがっていた犬がその頬に鼻先を寄せ、次いで春乃を見上げて威嚇するように喉を鳴らした。潤んだ瞳はどことなく飼い主を想起させ、血の繋がりがなくとも家族は似るのだ、と春乃は思った。
「あなたの言ったこと、私、全然理解できない」
「当然だと思います」
「共感もできないし」
「そう、ですよね」
「そのくせやたら切実で、聞いてると、わからない自分が悪いんじゃないかって不安になる。私が長い時間かけて、ようやく信じられるようになってきた世界が、どうしようもなくくだらないんじゃないかって気持ちにさせられるの」
「そんなつもりは」
「やっぱり近づかなければよかった。ただのお隣さんのまま、顔も知らないままでいられればお互い平和だったと思わない? こんなふうに近所迷惑も考えず議論する必要もなかったし」
「議論は、できればしたくないですよね」
「そう、最初からどうかしてた。見知らぬ人の家で昼寝なんて、あんなばかげたことどう説明するの? 表だって話せない関係なんてろくなものじゃない。そういうものを抱えれば抱えるほど、人生は面倒になってしまうのに」
「まったくです」
「あなたのせいだからね」
「ごめんなさい」
「でも」
また顔が見られて嬉しいわ、と、春乃を見ないまま絞り出すように石川さくらは言い、私もです、と春乃も答えた。今日何度目かでその場に膝を突き、うずくまって動かない頭に触れるべきかためらっていると、その頭を抱えていた手がおもむろに伸びてきて春乃の手首を掴み、玄関の中へと引きずり込んだ。
「隣にいるのよ、こういうときは。正面だと観察されてるみたいで気分が悪いから」
「……そうなんですか」
「ほんと、なんにも知らないのね」
「はい、すみません」
ドアが閉まると同時に待ちかねたように吠え始めた大豆が、三和土に並んで腰を下ろしたふたりの前を不思議そうに往復し、やがて尻尾を振りながら鼻を鳴らした。
鏡に映る自分の、稲穂のような髪に見慣れるまで一週間ほどを要した。
久しぶりにスマートフォンでアラームをかけて起きたせいか、寝起きの頭はまだぼやけている。もう少し眠るか迷いながら顔を洗い、よろよろと玄関に向かって、チェーンロックと錠を開けたところで、ちょうど扉を隔てた共用廊下から犬の声が聞こえてきた。なんとなく耳を澄ます。石川さくらは今日、大豆を行きつけのペットホテルに預けてから姪の学校の文化祭に赴くらしい。
「べつに、そのまま帰ってもらってかまわないけど」
春乃が訪れた日、彼女は仏頂面で説明してくれた。昨今の文化祭では防犯上、予約制を用いている学校が増えているらしい。井上涼太と高宮玲々の通う学校も例外ではないそうで、あらかじめ生徒に配られるチケットを持った招待客でないと入れない。受験生の保護者など、内部に関係者がいない場合はインターネットで事前に申請しておく必要があるが、設定された期日はとうに過ぎていた。
「厄介ね」
「子供の安全が第一ですから」
そう答えると、石川さくらは鼻を鳴らして廊下を引き返していった。散歩をお預けにされた大豆がちょこまかとその足元についていくのを見送りつつ、また塾長に頼るか、それとも井上涼太に訊く機会は持てるかと春乃が考えていると、ふいに鼻先に封筒が突きつけられた。指を入れると出てきたのは細い横長の紙で、左の七割ほどに美術部の生徒の作品らしい、水彩調のイラストが施されていた。ミシン目を挟んで残った右側には、学校名とイベント名と日時、そして「ご招待」とあらかじめ印刷された余白に、そこだけは手書きの文字が並んでいた。
『ご招待 原田春乃様』
「白紙だと転売されるおそれがあるから、先に来てほしい人を選ぶんですって。私は、せいぜい門前払いされて途方に暮れるべきだと思うんだけど」
「そうですね」
心底同意し、ありがとうございます、と頭を下げてポケットにしまおうとした矢先、裏側になにかが貼りついていることに気がついた。封筒の中で重なっているうちにくっついたらしい。端に爪を立てて剥がすと同じ内容の印刷されたチケットで、招待客の名前だけが異なった。
「だれとも手を繋げずにひとりで生きてるような顔して、実際そうなんだろうけど」
子供にまで気を遣わせたんだから、あとはあなたたち、自分でなんとかしてね。
腰に手を当ててぴしゃりと言い放つ石川さくらの剣幕に押されて視線を下げると、妙にきらきらした目の大豆と目が合った。普段からこうして叱られているのだろう彼は、今回難を逃れたせいか尻尾を振りつつこちらを見上げている。あなたはなにをやらかしたんですか、と言わんばかりに満面の笑みを浮かべたようなその表情は、どことなく蛍を思い起こさせた。
――大ちゃん、だめですよ。まだ朝だから静かにしてあげてね。
春乃に向けたものより格段に甘い声で石川さくらがたしなめ、そのまま彼らは廊下を遠ざかっていく。朝といっても九時は回っているので、彼女からすればとうに活動時間だろう。配慮を受け止めて春乃は欠伸を噛み殺し、もう一度洗面所に向かった。
頭の印象を少しでも落ち着けようと久しぶりにヘアアイロンを取り出し、しばらく苦心した末にあきらめて最低限見苦しくない程度にまとめた。立ったまま薄く化粧をし、昨夜のうちに用意しておいた打ち合わせ用の外出着に着替える。コーヒーを淹れるためにキッチンに立つと、見慣れたがらんどうのリビングの中央に白っぽい光が射し、いまにも手で掬い取れそうな陽だまりを作っていた。
普通の人は休みの日に、あの光を受けながらソファでテレビを見たりうたた寝をしたり、友人を招いたりするのだろうか。
そう考えてから小さく溜息がこぼれた。普通の人。本当に興味があるのはそんな、実在するかさえわからない幻のことではない。
思い立って、洗面所の片隅に丸めておいたヨガマットを取ってきて陽だまりの中に広げた。処分しそびれたまま丸めて放置していたそれは本来、そういう用途で贈られたものだったのだろう。コーヒーカップを持ったまま、その上に正座し、次いで少し足を崩してみる。
「また買い替えたの?」
新しいソファが届いたから座りに来い、という誘いに見せかけた買い物報告を聞いて、思わず春乃が上げた声を蛍は楽しげに笑った。春乃自身はソファを買った経験がないが、一年に三回という買い替えの頻度が異常であることはさすがに察しがついた。
『春乃さんは寝落ちの快楽を知らないもんなー。おれはソファがないとか信じらんない。帰った後とか食後とか、やるべきことを置いてなにもしない時間のために生きてる』
「そんなことするから夜ベッドで眠れないんでしょう。思い切って処分したら?」
『春乃さんくらい潔ければ、そうするけど』
当時はその返事に棘を感じた気がした。だが、いまならそれが自分の負い目のせいだとわかる。彼はいつも、裏表などない人だった。
『大事だと思うよ、なんでもないまま許される場所があるって』
ドアが開く音がした。
春乃はいつのまにか足だけでなく全身を陽だまりの中に横たえて、それを合図に目を閉じたまま浅く覚醒した。その音を待って鍵を開けておいたにもかかわらず、悲観に慣れすぎた体は起き上がることはおろか、足音の主を確認することすら躊躇した。それでも勇気を出してうっすら目を開けると、天井灯を遮るようにしてこちらを覗き込む、八並青の顔が視界に映った。
以前より少し短くなった髪を、複雑な形で巻いたり編み込んだりして結い上げている。まつげや唇はいつもより存在感が濃く、着ているのは鮮やかなスカイブルーのワンピースだった。そのことを春乃が指摘する前に、相手のほうが「原田さん」とつぶやいた。
「おはようございます。って、昼ですけど」
「……寝ていました」
「はい。気持ちよさそうでした。あと、髪も」
「髪……ああ」
「意外でしたけど似合います。こうやって明るい場所にいると、たてがみみたい」
「いい比喩ですね」
馬にせよ、ライオンにせよ。気に入りました、とつぶやいて、春乃はもう一度目を閉じる。まぶたに窓越しの日差しが触れ、そこに八並青の視線が届くのがわかった。気持ちよさそう、と、また子供のような小さな声が繰り返す。
「触りますか」
自分がそう口にしたことより驚いたのは、八並青がすぐに「いいんですか」と答え、実際に額にかかった前髪を、そっと指先でなぞったことだった。肌に直接触れない、毛先だけをさらさらと流れていく触れる慎重な手つきに身を任せながら、春乃はなるべく動かないようにじっと目を閉じていた。このまま眠ったらきっと悪夢は見ないだろう、と根拠もなく思う。
「ここにソファを置くなら、何人掛けがいいでしょうね」
春乃が訊くと、八並青はううん、と短く唸ってから「一人掛けはやめたほうがいいです」と真面目な声で答えた。家具なら石川さんが詳しいみたいですよ、買う前にすごく調べるって前言ってたし。ああ、いいですね、今度訊いてみます。
とりとめのない話をする一方、少しでも余計なことを口にすれば彼女は出て行ってしまうのではないかと春乃は薄く懸念していた。それから、この懸念を周りの人たちはずっと、自分に対して抱いてきたのだと初めて気がついた。訊きたいことや伝えるべきことが、たくさんあるようにも、なにもないようにも思えた。

