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第3回

ぼくらは祈ることにした

 瑠生るいは生徒たちから回収したアンケート用紙を手に取り、その内容を目で追っていく。
 質問事項は次の三点――。

 ➀ いじめを受けたことがありますか?
 ② いじめを見たり、聞いたりしたことがありますか?
 ③ ➀、②で「はい」と答えた人は、いつ、どこで、誰が、どのようないじめを行ったのか具体的に書いて下さい。

 アンケート内容としては、ごく普通のものだったが、最初にクラスと出席番号、それから名前を書く欄がある。さらに、最後には次のような注意事項が記されていた。

 ※ 無記名のアンケートは無効になります。
 ※ ➀、②で「はい」と答えた生徒には、校長室でヒアリングを行います。
 ※ 記載内容に虚偽があった場合は特別指導の対象になります。

「いくら何でも、この注意書きは酷すぎませんか?」
 瑠生が苦笑いと共に言うと、隣に立つ大貫おおぬきが、申し訳なさそうに「いや、まあ……」と曖昧な返事をした。
 記名式な上に、こんな注意書きがあったのでは、誰も本音を明かさないだろう。現に、集計結果では、いじめ事案の目撃者は0人になっていた。
 校長の岸本きしもとの意図は明確だ。アンケートを記名式にした上で、注意事項で更なる圧力をかけ、生徒たちの口を封じたのだ。そうやって、いじめ事案が発生していなかったことにして保身を図っている。
 老害という言葉は、あまり好きではないが、保護者説明会といい、岸本にはそのレッテルを貼りたくなる。
 きっと、岸本の浅はかな考えは、アンケートを通して生徒たちにも伝わったのだろう。だから、誰一人としていじめについて回答しなかった。
 何れにしても、アンケートの結果を踏まえて、第三者委員会の方針を決めようということになっていたが、これでは何の役にも立たない。
「我々の方で改めてアンケートを取り直すことになると思います」
 瑠生は、段ボール箱にアンケートを戻しながら言った。
「そうですよね。そうなりますよね」
 大貫が困ったように眉を顰める。
「何か不都合があるんですか?」
「いえ。そういうわけではないんですが、岸本校長が何と言うか……」
 大貫の反応を見て、瑠生はため息が出そうになった。
 岸本は愚かだと思うし、それに怯えて、岸本の意向に沿うアンケートを実施した教師たちにも、相当な問題があるが、それを責めたところで何も始まらない。
 瑠生は、大貫と一緒に応接室を出ることにした。
「そういえば、北見敬斗きたみけいと君の担任の先生は、今日はいらっしゃらないんですか?」
 歩きながら訊ねてみた。大貫は学年主任だ。案内は彼がするにしても、担任教師が同席しても良さそうなものだ。
「実は、体調を崩して休んでいるんです」
「今回の事件があって――ということですか?」
「まあ、はっきり言われたわけではないですが、多分、そうだと思います。かなり憔悴していましたから……」
 精神的なダメージを受け、学校に来られなくなっているということのようだ。SNSで熾烈な誹謗中傷に晒されていたので無理からぬことだ。
 ただ、そうなるとヒアリングするのは、なかなか大変そうだ。つくづく面倒な案件を押し付けられたとげんなりする。
「そういえば、敬斗君の教室って見られますか?」
 職員室まで戻ったところで訊ねてみた。
 別に、教室を見たところで、何かが変わるわけではないのだが、なぜか見ておきたいという気になった。
「ええ。生徒はもう帰ってますし、自由に見てもらって構いません。四階の二年三組です。席は、窓際の一番後ろだったと思います」
「分かりました。あと、一応、屋上も見ておきたいのですが……」
「今、鍵を持って来ますね」
 大貫は一度、職員室に戻ると、屋上のドアの鍵を持って戻って来た。
「帰るときに返却をお願いします」
「分かりました」
 瑠生は、屋上の鍵を受け取ると歩き出した。
 廊下の先にある階段を上り、四階の二年三組の教室を目指す。生徒のいない学校は、冷たい静けさに満たされていた。
 四階まで上ったときには、少し息が切れていた。運動不足だな。自分が中学生の頃は、あまり苦にならなかった。それだけ、活力が有り余っていたのかもしれない。ぶつけどころのないエネルギーは、ときとして自分以外の誰かを攻撃することに費やされてしまうことがある。
 余計なことを考えたせいか、空気が重くなった気がする。
 気持ちを切り替えて二年三組の教室の引き戸を開けた。
「きゃっ」
 小さな悲鳴が響いた。
 一番後ろの窓際の席のところに、学生服を着た少女が立っていた。
 ポニーテールの少女で、清廉な雰囲気がありながらも、年齢に不釣り合いな大人びた印象を受けた。
 少女は、一輪挿しの花瓶を持っていて、そこには真っ赤な薔薇ばらが一輪挿してあった。
 もう下校していると聞いていたが、まだ残っていた生徒がいたようだ。
 薔薇の少女は、花瓶を持ったままじっと瑠生を見据える。警戒しているのだろう。向こうからすれば、突然、教室に知らない人が入って来たのだから当然だ。ちゃんと説明しないと、厄介なことになる。
「別に怪しい者じゃない。敬斗君のことを調べる為に派遣された弁護士なんだ」
 少女は、何も答えなかった。
 ただ、瑠生に視線を向けたまま、花瓶を机の上に置くと、ポニーテールをなびかせながら、教室を出て行ってしまった。
 追いかけようとは思わなかった。今のご時世、理由があっても、女子生徒を追いかけたりしたら、後で何を言われるか分かったものではない。
 苦笑いを浮かべつつ、瑠生は花瓶の置かれた机の前まで歩みを進めた。
 大貫の話では、確かここは敬斗の席だったはずだ。
 少女は、敬斗の為に花を供えたのだろうか。だが、だとしたら、真っ赤な薔薇というのは、少々不釣り合いな気がする。
 いや、それは思い込みに過ぎない。
 あの少女が、敬斗に恋愛感情を抱いていたとすれば、薔薇を供えた理由にも頷ける。赤い薔薇の花言葉は、愛情とか恋だったはずだ。
 何れにしても、生徒にヒアリングする際は、薔薇の少女を気に掛けておこう。敬斗に想いを寄せていたのだとすれば、色々と知っていることもあるはずだ。
 瑠生は、敬斗の座っていた椅子に腰を下ろしてみる。
 教室全体が見渡せる位置だ。敬斗はこの椅子に座り、何を見て、何を考えていたのだろう。
 ふと、自分の中学校時代の記憶がフラッシュバックする。
 少年が床の上で胎児のように蹲っていた。クラスメイトだった岳隆たけあきだ。瑠生は、黙ってそれを見下ろしている。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
 岳隆は涙を浮かべながら、そう繰り返していた。それが、誰に向けた謝罪なのか、瑠生にはよく分からなかった。
 瑠生は固く拳を握り、それをゆっくりと振り上げた。
 岳隆が怯えた目で瑠生を見ている。
「そんな目で見るな」
 瑠生は呟いてから、首を左右に振って頭に浮かんだ記憶の欠片を打ち消した。今は、自分の過去は関係ない。自分に言い聞かせながら、机に手を突いて立ち上がった。
 指先に僅かな凹凸を感じた。
 机に目を向けると、そこには文字が刻まれていた。コンパスの針やシャーペンの先などで、机に文字を彫る人は少なくない。そこには、次のような文字が確認出来た。

 Agnus Dei

 アニュス・デイ――ラテン語で神の小羊。敬斗が屋上から飛び降りる前の投稿動画でも、同じようなことを言っていた。
 もしかしたら、敬斗はいじめを受けていて、その内容は儀式めいたものだったのではないだろうか。敬斗は、生け贄の子羊として扱われていた。いや、先入観はやめよう。瑠生は、苦笑いを浮かべながら教室を出ると、屋上に行く為に再び階段を上り始めた。
 敬斗が自分の意志で飛び降りたのだとしたら、彼はいったいどんな気分でこの階段を上っていたのだろう。
 足を進めながら、ふとそんなことを考えた。
 階段を一段上る度に、自分の死が近付いてくる。彼は、その現実をどう受け止めていたのだろう。
 死刑台に上る死刑囚のように、恐怖に震えていたのだろうか。それとも、ゴルゴダの丘を登るキリストのように、死すら受け容れる覚悟が出来ていたのだろうか。
 考えたところで意味はない。敬斗は、もういないのだから、その真意を知ることは誰にも出来ない。
 考えを巡らせているうちに、瑠生は屋上へと通じるドアの前に辿り着いた。
 グレイの鉄製のドアだった。ところどころ塗装が剥げていて、かなり年季が入っているように見える。
 鍵穴に鍵を差し込んで回したところで、瑠生は違和感を覚えた。
 鍵は既に開いていた。
 生徒が屋上から飛び降りたというのに、施錠忘れをするなんて、危機管理があまりにお粗末だ。これも、報告書に記しておく必要があるかもしれない。
 瑠生はドアを開けて屋上に出た。
 びゅっと音を立てて、強い風が吹き抜けた。
 床はコンクリート敷きで、二メートルほどの高さのフェンスが張り巡らされている。
 フェンスの高さからして、事故や誰かに突き落とされたということはなさそうだ。
 ――いったい何のために?
 その答えを見つけ出すのが第三者委員会の役割なのだが、それが自分に出来るとは思えない。弱気になる自分を奮い立たせて、歩き出そうとしたところで、奥のフェンスの前に黒い影があるのが見えた。
 ちょうど、敬斗が飛び降りた辺りに、こちらに背中を向けて座り込んでいる人がいる。制服を着ているので学生だろう。
 屋上の鍵が開いていたのは、この生徒が忍び込んだからなのだろう。
 何の目的があって屋上にいるのかは不明だが、敬斗の事件があった後だ。このまま、放置して何かあったら、それこそ責任問題になる。
「そこの君――」
 瑠生が声をかけると、座り込んでいた生徒が飛び跳ねるように立ち上がり、こちらを振り向いた。
 横と後ろは短くしているが、前髪が長く、目許を隠していた。
 小柄で華奢な身体つきをした少年だった。顔立ちは柔らかい丸みがあり、中性的な感じがして、女子生徒と見間違えてしまいそうだ。
「北見敬斗君のことについて調べるために派遣された、弁護士の神原かんばらです」
 さっきの教室での経験があり、瑠生は早口に自分の身分を名乗ったが、彼からは返事はなかった。
「君は、この学校の生徒だよね。名前を教えてもらっていいかな?」
 瑠生が訊ねると、「つばさ」と答えた。
 声変わりが終わっていないのか、かなり高い声だった。
「屋上は立入禁止になっているはずだけど、何をしていたのかな?」
 瑠生が訊ねると、翼は長い睫を伏せてしまった。
 さらに質問を重ねようとしたところで、背後から「翼」と低い声が響いた。
 振り返ると、屋上のドア口のところに男子生徒が立っていた。
 背が高く細身ではあるが、肩幅が広くがっちりとしている。何かスポーツをしているのかもしれない。
 顔立ちも、翼とは対照的に直線が多く、いかにも男子という感じだった。
 彼の登場により、翼は肩を竦めた。視線も落ち着きなくあちこち動いている。瑠生には、翼が怯えているように見えた。
「翼。何やってんだ。さっさと来い」
 彼が強い口調で言うと、翼は「う、うん」と掠れた声で返事して、屋上の床に広げた荷物を纏め始める。
 二人の間には、絶対的な主従関係があるように見えた。
「ちょっと待って。君も、この学校の生徒? ここで何をしているのか、教えてもらいたいんだけど」
 瑠生は、ドア口に立つ彼に向かって訊ねる。
「は? おっさんには関係ないですよね」
 彼は鋭い眼光で瑠生を睨んでくる。
 まだ、三十歳になったばかりなのに、おっさんと呼ばれたことにショックを受けつつも、瑠生は自分の身分を名乗る。
「北見敬斗君のことを調査に来た弁護士です」
「だから何?」
「この学校で何が起きたのかを調べに来たんだから、関係ないことはない」
「何その理屈。意味分かんないんだけど」
「目上の人に対して、その言い方はないんじゃないかな」
「そういうこと気にしてるから、おっさんなんだよ。――翼。早くしろ」
 彼が声をかけると、翼はバッグを胸の前で抱え、小走りで瑠生の脇を抜けて翼に駆け寄る。そのまま、二人は屋上から出て行ってしまった。
 追いかけようとしたがやめておいた。状況が分からない中で、無理に話をしてもややこしくなるだけだ。
 何れにしても、屋上の鍵の管理については大貫に確認が必要だ。
 瑠生はため息を吐きつつ、さっきまで、翼が屈み込んでいたフェンスの前まで足を進めた。
 ――彼はここで何をしていた?
 疑問を抱いた瑠生だったが、フェンスの前の床だけ、色が違うことに気付いた。
 屈み込んで確認する。
 それは描きかけの絵だった。
 そういえば、翼は立ち去る前に、床に散らばったものを掻き集めていた。あれは、画材だったのかもしれない。
 翼は、敬斗が転落した屋上に絵を描いていたということか。いったい何の為に? 考えるほどに、分からなくなってくる。何より奇妙なのは描かれた絵だった。
 数多の羊が群がっていて、一様に空を見上げている。その視線の先には、両手を広げた少年の姿がある。
 その少年の足は地面に着いておらず、今まさに天に昇ろうとしているように見えた。
 奇妙な絵だが、同時に神々しい空気を纏っているように見えた――。

 瑠生が屋上の鍵を返却する為に職員室に顔を出すと、まだほとんどの教師が残っていた。
 何人かは電話の受話器を握り、ペコペコと頭を下げている。未だにクレーム対応が続いているようだ。
 今すぐクレームの対応を停止しないと、教師たちが疲弊するだけでなく、授業を始めとした業務に支障が出る。ただ、瑠生に学校の運営方針を決める権限はないので、黙っているしかない。
「あ、神原先生」
 大貫が瑠生の姿を見つけて声をかけてきた。
「鍵、ありがとうございました」
 瑠生は大貫に鍵を返却する。
「いえいえ」
 鍵を受け取り、立ち去ろうとした大貫を瑠生は呼び止めた。
「さっき、屋上に生徒がいたんですが、普段、鍵はどうなっているんですか?」
 瑠生が訊ねると、大貫は「え?」と驚いた顔をした。
「それは、本当ですか?」
「ええ。私が屋上に行ったとき、鍵が開いていて、生徒が一人屋上にいました」
「誰かが閉め忘れたのかもしれませんね」
 大貫が、ぽりぽりと頭を掻きながら答えたが、瑠生は別の可能性を考えていた。
「鍵は、普段は何処で管理しているんですか?」
「職員室のキーボックスの中です。貸し出しを管理するノートがあるので、そこに名前と日付けを記載して鍵を持ち出すことになっています」
 大貫は壁に設置されたキーボックスを指さしながら言った。その脇には、フックがあって、ヒモで括られたノートがぶら下がっていた。
「屋上以外の鍵も、纏めてあのキーボックスの中に入っているんですか?」
「ええ」
「生徒だけでも貸し出しが可能ですか?」
「はい。部活なんかで使う場合もあるので、貸し出しノートに記載すれば、生徒が借りていくことも可能です」
「その際、教師が立ち会うとか、そういうルールはあるんですか?」
「いえ。特にはないですね」
 平然と答える大貫を見て、瑠生は危機感のなさに辟易した。ノートに書きさえすれば、いつでも誰でも鍵を持ち出すことが出来たわけだ。いや。そもそも、第三者の立ち会いもないのだから、ノートに何も書かずに持ち出すことも可能なわけだ。
 これでは、管理していないのと同じ。ガバガバの運用だ。
「あんなことがあった後です。せめて屋上の鍵は、別の場所に保管した方がいいと思いますよ」
 瑠生が忠告すると、大貫は「はあ」と曖昧な返事をした。
 自分たちのセキュリティーの緩さが、実感として分かっていないのだろう。言いたいことはあるが、この状態では、何を言っても意味はない。
「それで、少し伺いたいんですが、この学校に翼という名前の生徒はいますか?」
 代わりに瑠生は別の質問をした。
「います。佐藤さとう翼君ですね。敬斗君と同じクラスでした。彼が屋上にいたんですか?」
「ええ。それともう一人。背が高くて、制服を着崩していて、割とイケメンの男子生徒も一緒でした」
「翼君と一緒だったなら、熊沢陽司くまざわようじ君かな」
「二人は仲がいいんですか?」
「よく一緒にいるんで、仲はいい方だと思いますよ」
 大貫の答えに迷いはなかった。嘘を吐いているのではなく、本気でそう思っているらしい。
 今日、初めて目にした瑠生でさえ、二人は対等な立場の友だちではなく、主従関係なのだと感じ取ったのだが、大貫にはそれが見えていないようだ。
「二人は、敬斗君とも友だちだったんですか?」
「翼君は敬斗君と仲がよかったと思いますよ。ただ、陽司君の方は、どうだったかな……」
 大貫が顎に手を当てて考え込んでしまった。
 この感じからして、陽司の方は敬斗とあまり親交がなかったのかもしれない。
「それと、もう一人。教室に行ったときに、女子生徒に会いました。ポニーテールで、敬斗君の机の上に、花瓶を置いていました」
「多分、それは三橋みつはし真莉愛まりあさんじゃないかな」
「敬斗君と仲がよかったんですか?」
「普通に話はしていたと思いますよ。あと、彼女は学級委員長だから、机の上に毎日花を供えているんですよ」
「赤い薔薇ですか」
「そうそう。いつも赤い薔薇です」
 今日が偶々ということではなく、真莉愛は赤い薔薇を選んで、敬斗の机に供えているようだ。
 大貫は、特に気にした様子はないが、やはり瑠生は赤い薔薇ということに引っかかりを覚えてしまう。
 何れにしても、生徒にヒアリングする際は、真莉愛、翼、陽司の三人には注意しておいた方がよさそうだ。
「色々とありがとうございました」
 瑠生は礼を言って職員室を後にした。
 昇降口で靴に履き替えているときに、屋上の床に描かれた絵について、大貫に伝え忘れたことを思い出した。
 戻ることも考えたが、結局、やめておいた。あの絵を描いたのが、翼だという確証はない。話をするなら、もう少し調べてからでもいいだろう。
 昇降口を出たところで、スマホに電話がかかってきた。宇佐美うさみからだった。
「はい。神原です」
 すぐに電話に出る。
<第三者委員会はどうだった?>
 茶化すような宇佐美の声を聞き、心底うんざりする。
「どうもこうもないですよ。おれ、あのメンバーを纏める自信がありません」
<もりさんも、はやしさんも、癖が強いからね>
 宇佐美がへらへらと言う。まるで他人事だ。瑠生が苦戦している姿を想像して、楽しんでいる節すらある。
「まあ、あの二人もですが、もう一人もなかなかです」
 瑠生は水音みおの姿を思い浮かべながら口にした。
<ああ。彼女はやる気もあるし、行動力もあるんだけど、アイディアリスト(理想主義者)だからね。空回りすることも多いだろうな>
「既に、空回りしていますよ」
 別に理想主義者でも構わないのだが、やる気があり過ぎて、面倒に感じてしまう。
<それを纏めるのが、第三者委員会の委員長の仕事じゃないか>
「無理やりやらされているだけです」
<そんな言い訳は、私にしか通用しない。世間はお前の発言を通して今回の事案を見ることになる。それを肝に銘じておいた方がいい>
 宇佐美の声から笑いが消えた。
 彼の言う通りだ。世間は、委員長がどんな経緯で選出されたかは知らないし、興味もない。ただ、説明責任は求めてくる。自分の発言次第で、今回の事案がどう受け止められるかが変わってしまう。
「分かってます……」
<理解しているなら、それでいい。で、学校の方はどうだった? 今、足を運んでいるんだろ?>
「ええ。この学校は校長に相当な問題がありますね」
 瑠生は周囲に視線を走らせ、誰もいないことを確認してから、声のトーンを落として言った。
<具体的に、どんなことが問題なんだ?>
「教師たちに、学校にかかってくるクレーム電話の全てに対応するように指示を出しています」
 瑠生は改めて職員室の窓に目を向ける。
 罵声を受けながら、米つきバッタみたいに頭を下げている教師たちの姿を想像すると、同情を禁じ得ない。
<それは、また愚かなことを……>
「例の保護者説明会で失墜したイメージを、回復させようとしているんでしょうね」
<イメージを回復させたいなら、校長自らが記者会見でも開いて、サンドバッグになるしかないと思うけどね>
「同感です。問題は、それだけじゃありません。学校で行われたいじめに関するアンケートですが、校長の指示で記名式にしていたようです」
<それは、また愚行に走ったものだね>
「そうですね。おまけに、無記名は無効にすることと、アンケートで『はい』と答えた人には、個別に校長室でヒアリングをすることや、内容に虚偽があった場合は、特別指導の対象になることなんかが、ご丁寧に書き記されていました」
<完全に口封じをしようとしたというわけだ>
「そのようです。岸本校長が一番の問題のような気がします。効率を考えると、まずは校長からヒアリングした方がいいかもしれません」
<そうか? 私は校長のヒアリングは、後回しにした方がいいと思うけどな>
「なぜです? 校長からヒアリングするのが、一番手っ取り早い気がしますけど……」
 岸本から真っ先にヒアリングして、春山中学校の問題点を洗い出した方が、早く解決しそうだ。
<若い人は、すぐにタイパ、コスパで効率を重視するが、こういう問題は、効率を考えて動いてはいけない>
「しかし……」
<考えてもみたまえ。最初に校長にヒアリングしたら、どうなると思う? 彼は何処までも保身を第一に考える人間だ。自分の証言を守る為に、他の教師に口裏合わせを指示する可能性が高い>
「それは……」
 否定出来なかった。校長の岸本なら、そういうことをやり兼ねない。そうなると、かなり厄介だ。誰も真実を喋らなくなってしまう。
<校長を本丸に据えて、外堀を埋める方が得策だろうね>
「その場合、何処から切り崩すのが正解ですかね?」
 瑠生が訊ねると、宇佐美がはっと声を上げて笑った。
<正解なんてないよ。そういうのは全て結果論だからね。ただ、今後、スムーズに調査を進める上では、敬斗君の母親を押さえておくのは必須だと思うよ>
 それはそうかもしれない。
 敬斗の母親は、SNSに投稿するだけでなく、暴露系配信者の動画に出演して、学校の対応の不誠実さを批難している。早めに会って対策を練っておかないと、第三者委員会の対応を批判することもあるかもしれない。
 第三者委員会まで炎上してしまったのでは、調査もクソもあったものではない。
「そうですね。まず、敬斗君の母親にヒアリングするところから始めます」
<それがいいと思う。とにかく神原は、第三者委員会優先でいいから、しっかりやってよ>
 宇佐美は、軽い口調で言うと電話を切った。
 本当に厄介な案件を押し付けられたと思う。出来れば、今すぐにでも放棄したいところだが、そういうわけにもいかない。
 ため息を吐きつつ、瑠生は歩き出した。

 川崎市教育委員会は、川崎市立春山中学校の生徒K君が、学校の屋上から転落した事案を、重大事態と認定し、第三者委員会の設置を決めた。

 電車に揺られながら、スマホで週刊誌の記事を見て、瑠生はため息を吐いた。
 こうやって記事にされるということは、それだけ注目が集まっている証拠だ。今後の展開次第だが、書面だけの報告ではなく、記者会見までやらされることになるかもしれない。記者たちから、質問攻勢に遭うことを想像すると、思わずげんなりした。
 記事は、教育委員会の決定だけではなく、匿名にしてあるが、敬斗の母親のインタビューも掲載していた。

 私は、何度も学校に足を運び、息子がいじめを受けていることを訴え続けました。でも、学校はその事実はないと突っぱねるだけで、相手をしてくれませんでした。おまけに校長からは、シングルマザーだから家庭に問題があるかのように決めつけられてしまいました。事件の前日も、担任の先生に相談に行ったのですが、予定があるからと面会を断られてしまいました。噂では、マッチングアプリで出会った相手と、デートの約束があったそうです。息子の命より、デートを優先させるなんて……。

 このインタビューは、事件が起きた直後のものを再掲載してある。
 これを読んで、義憤に駆られた者たちが、学校にクレームの電話をかけまくっている。結果として、担任教師は登校出来ない状態に追いやられた。
 学校側の対応に問題があったのは事実だ。しかし、一方の意見だけを吸い上げて記事にする週刊誌の姿勢は、褒められたものではない。
 同時に、敬斗の母親もなかなか厄介な人物だと警戒する。
 文章を読む限り、決めつけと被害者意識が強いように感じる。
 担任教師がデートを優先させたことについても、噂に過ぎないのだが、それを確認することもせずに発信してしまっている。
 こちらの対応に細心の注意を払わないと、強い被害者意識を持ったまま、憶測の発信をされることになり兼ねない。
 などと考えているうちに、目的の駅に到着した。
 駅の改札を出ると、既に水音が待っていた――。
 遅刻したのかと思って時計を見てみたが、約束の時間より五分早い。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません」
 瑠生は、一応、詫びの言葉を並べながら水音に歩み寄った。
「いえ。私が少し早めに来てしまっただけですから」
 水音は屈託のない笑みを浮かべる。
 そんなつもりはないのだろうが、あまりに真っ直ぐな視線を向けられると、何だか責められているような気分になる。
「先方には、アポを取ってあります。取り敢えず向かいましょう」
 瑠生は、水音を促して歩き始めた。
 春山中学校を訪問したのが、昨日のことだ。それから、敬斗の母親である愛美まなみに、敬斗の事案について、詳しくヒアリングさせて欲しい旨のメールを送った。すぐに、夕方以降なら在宅していると連絡があったので、早速、足を運ぶことにした。
 第三者委員会のメンバーに、今後の調査方針を伝えるメールを送りつつ、報告として、愛美からヒアリングをしてくる旨を記載しておいた。森も林もスルーだったのだが、水音だけが【私も同席させて下さい】と返してきた。
 一度は、一人で大丈夫だと断ったのだが、彼女はそれでも行きたいと譲らなかった。
 仕舞いには、森が【二人で行った方がいいと思います】と返信してきたところで彼女の説得を諦めて、同席することを承諾した。
「今日は、あくまでヒアリングなので、基本は話を聞くだけに留めてください。引っかかる点があっても、一旦は流すようにお願いします」
 瑠生は、歩きながら水音に釘を刺しておく。
 スクールカウンセラーである水音が、普段どんなスタンスを取っているかは分からないが、少なくとも第三者委員会は、問題を解決するのが目的ではなく、その洗い出しに重点が置かれている。
 余計なことを言えば、口を閉ざされてしまうかもしれない。何が起きていたのか、正確に把握する為にも、一旦は受けに回る必要がある。
「大丈夫です。私も、それは心得ています」
 水音は自信に満ちた笑みを浮かべたが、それを見て、瑠生は余計に不安になってしまった。
 本当に大丈夫だろうかと不安を抱えながらも、瑠生は閑静な住宅街を歩いた。
 五分ほど歩いて、愛美が住むマンションの前までたどり着いた。
 クリーム色の外壁で、開放感のある広いエントランスがあった。
 早速、インターホンを押そうとしたのだが、「あの――」と一人の少女に声をかけられた。
 ショートボブで、いかにも快活そうな顔立ちをしている。着ている制服から、春山中学校の生徒だということが分かる。
「あんまり余計なことを書くのを、やめて欲しいんですけど……」
 少女は、敵意の籠もった視線を向けながら言った。
「どういう意味かしら?」
 水音が聞き返すと、少女はむっとしたように口をへの字に曲げた。
「あなたたちが、焚き付けるせいで、敬斗君のお母さんまで、おかしくなっちゃったんです。もう、そっとしておいて下さい。そうじゃないと、敬斗君がかわいそう……」
 気丈に振る舞ってはいるが、言葉の最後の方は震えていた。恐さや緊張からではない。悲しみ故のように瑠生には思えた。
「君は、敬斗君の友だち?」
 瑠生が訊ねると、少女は警戒心を露わにして、一歩後退る。
「答えたくありません」
「そっか。まあいいや。ただ、君は少し勘違いをしている。ぼくたちは、週刊誌の記者じゃない」
 瑠生は取り繕うように言いながら、少女に名刺を差し出した。
「弁護士?」
 少女は名刺の肩書きを見て、驚いた声を上げる。
 多分、この少女は、見慣れない瑠生たちがマンションに入ろうとしている姿を見て、週刊誌の記者と勘違いしたのだろう。
「そう。正真正銘の弁護士だ。バッジも着けているだろ」
 瑠生はジャケットの襟に着けたバッジを、指で指しながら言う。
「弁護士がどうして……」
「第三者委員会といって、教育委員会からの依頼で、敬斗君のことについて、色々と調べに来たんだ」
 瑠生が丁寧に説明すると、少女は「そうですか」と呟くように言いながら目を伏せた。
 週刊誌の記者と勘違いした申し訳なさもあるだろうが、ろくに確認もせずに非難めいた言葉を投げかけてしまった恥ずかしさもあるのだろう。
「改めて訊くけど、君は敬斗君の友だち?」
「幼馴染みです」
 敢えて幼馴染みと言ったのは、友だちというほどの距離感ではないという意味だろうか。それとも、昔から彼を知っていることを暗に主張しているのだろうか。
「学校は敬斗君と一緒なんだよね。名前を訊いてもいいかな?」
長谷川杏樹はせがわあんじゅです」
「もし、時間があれば、少しでいいから敬斗君のことを教えて欲しいんだ」
「…………」
 杏樹は返事をしようとしなかったが、同時に立ち去ろうともしなかった。それを同意と受け止め、瑠生は質問を続ける。
「敬斗君は、どんな子だった?」
「敬斗は、優し過ぎるくらい優しかった。自分が一番大変なのに、いつも他人のことばかり心配していて。見ていて痛々しかった――です」
 杏樹の目にじわっと涙の膜が張った。
 彼女は、それでも涙を零すまいとするように、下唇をきつく噛んだ。
「敬斗君が大変だったって、いじめを受けたりしていたのかしら?」
 水音が横から会話に入って来た。
「そんな単純な話じゃありません」
 杏樹は、水音を睨むようにしながら言う。
「どういうこと?」
「敬斗の優しさを、みんなが利用したんです。クラスメイトだけじゃなくて、先生も、敬斗のお母さんも、みんな……」
 ついに耐え切れなくなったのか、杏樹の目からぼろっと涙が零れて頬を伝った。
「それって……」
 水音がさらに質問を重ねようとしたところで、マンションのエントランスに、一人の女性が姿を現した。
 事前に写真を見ていたので知っている。彼女が、敬斗の母親の愛美だ。
 切れ長の目をしていて、少しキツい印象があるが、整った顔立ちをしている。
 約束の時間になっても瑠生たちが来ないので、様子を見に来たのだろう。杏樹は、愛美の姿を見るなり、さっと踵を返して走り去ってしまった。後を追いかけることも考えたが、今は愛美に対応した方がいいだろう。
「北見愛美さんでいらっしゃいますか? 昨日、連絡させて頂いた弁護士の神原と申します」
「スクールカウンセラーの山岡やまおかです」
 それぞれ挨拶すると、愛美は「お待ちしていました」と丁寧に頭を下げ、中に入るように促してきた。
 瑠生は、水音と視線で合図をかわしてから、その案内に従って家に入った――。

Profile

神永学(かみなが・まなぶ)
1974年、山梨県生まれ。2004年『心霊探偵八雲 赤い瞳は知っている』でプロデビュー。「心霊探偵八雲」シリーズとして人気を集める。他の著書に「天命探偵」「怪盜探偵山猫」「確率搜查官 御子柴岳人」「殺生伝」「革命のリベリオン」「浮雲心霊奇譚」の各シリーズ、『イノセントブルー 記憶の旅人』『ラザロの迷宮』『マガツキ』『青龍中学校 オカルト探偵部』などがある。

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