1
瑠生は、水音と一緒に敬斗の母親である愛美の案内で、マンションの部屋に入った――。
玄関で靴を脱ぎ、廊下に上がってすぐのところにあるリビングルームに通された後、ダイニングテーブルに座るように促され、水音と並んで座った。
瑠生は「お構いなく」と言ったのだが、愛美はカウンターキッチンの奥に進み、お茶の準備を始めた。
失礼にならない程度に、部屋の中に視線を走らせる。
壁には木製の十字架が掛けられていて、その下にあるサイドボードには、目を細めて微笑む敬斗の写真が飾られていた。
仏壇があれば、線香をあげさせてもらうところだが、キリスト教系のようだ。
敬斗の写真立ての隣には、もう一枚、写真が飾られていた。
中年の細身の男性で、カソックのような服を着て、自信に満ちた笑みを浮かべていた。もしかしたら、父親なのかもしれない。
愛美はシングルマザーだと聞いていたが、その経緯は知らない。あの写真の男性が敬斗の父親なら、既に他界しているということか。
などと考えていると、愛美が戻って来て、瑠生と水音にお茶を用意し、向かいの椅子に座った。
「改めまして、第三者委員会に選任されました、弁護士の神原瑠生と申します」
場が落ち着いたところで、瑠生は名刺を差し出す。
「同じく、本事案の第三者委員会に選任されました、スクールカウンセラーの山岡水音です」
瑠生に続いて水音も名刺を差し出す。
「すみません。私、名刺とか持ってなくて……」
恐縮している愛美に「お気になさらず」と声をかけた。
「この度は、ご愁傷様でした」
自己紹介を終えたあと、瑠生は愛美に頭を下げた。
仏教徒ではない人に対して、「ご愁傷様」と言うのは、ミスマッチな気がしたが、他に適切な言葉が思い付かなかった。
「お気遣い、ありがとうございます」
愛美が頭を下げる。
「お辛いとは思うのですが、敬斗君のことについて、色々とお話を聞かせて頂きたいと思っています」
「敬斗がいなくなったなんて、未だに信じられないんです……」
愛美は静かに言うと、ハンカチで目頭を押さえた。
その姿は今にも壊れてしまいそうなほど弱々しく、動画配信や週刊誌のインタビューに答える姿とは、まるで異なるものだった。
相当に気の強い女性だと思っていたが、敬斗へのいじめのことを訴えるために、無理して演じていたのかもしれない。
「心中お察しいたします」
こういうとき、どう声をかけたらいいか分からず、ありきたりな慰めの言葉を発するのが精一杯だった。
「…………」
愛美は唇を噛み、じっと何かを堪えているようだった。
「大丈夫ですか? もし、お辛いようでしたら、また出直します」
瑠生の提案を、愛美は首を横に振って断った。
「平気です。私も、敬斗に何があったのか、本当のことを知りたいんです」
愛美は、そう言うと大きく深呼吸をしてから顔を上げた。
目には涙の膜が張っているが、その奥に強い意志が感じられた。いや、祈りなのかもしれない。
「くれぐれも無理はなさらないでください」
「ありがとうございます」
瑠生は、ICレコーダーで会話を録音する許可を取り、スイッチを入れてから話を始める。
「早速ですが、お母様は、敬斗君が学校でいじめを受けていたと主張していらっしゃいますが、彼がいじめを受けていると感じるようになったきっかけは何ですか?」
「二年生になったくらいから、みるみる口数が少なくなってきたんです。学校で何かあったのかと訊ねても、何でもないから心配しなくていいと……」
「そうでしたか」
瑠生が相槌を打ちながら、隣に目を向けると、水音がしきりにメモを取っていた。録音しているのだから、必要ないと思うが、特に指摘はしなかった。
「夏休みの間は、いつもの敬斗に戻っていたんですけど、二学期が始まって、また学校に通うようになってから、より一層、塞ぎ込むようになってしまいました」
「それで、学校に原因があると思ったんですね」
「ええ。知人に相談したりもして、やはり学校で何かあったのだろうということになりました。そうこうしているうちに、敬斗が身体に痣を作って帰ってくるようになったんです」
「痣……」
警察の報告書の中にも、敬斗の身体の痣に関する記載があった。
敬斗の腕や足、腹部や背中には、打撲などによる痣の痕跡があり、それは、転落するより前にできたものだという所見だった。
「それで、私、担任の先生に電話をして、敬斗が、学校でいじめられていませんか? と訊ねたんです」
「学校側は、どういう対応だったんですか?」
瑠生の問いに、愛美の眉間に皺が寄った。テーブルの上にある拳が固く握られ、何かに憤慨しているようだった。
「学校にいじめの事実はないと言われました。私、納得ができなくて、身体の痣のことを追及したんです。そしたら、担任の先生は、ご家庭で虐待をしていませんか? と責任転嫁をしてきたんです」
「いくら何でもそれは……」
これには、さすがに瑠生も苦笑せざるを得なかった。
あまりに悪手だ。杜撰な対応と言わざるを得ない。昨日のいじめに関するアンケートを見ているからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。
「私、納得できなくて、何度も電話をしたんですけど、全然、話を聞いてくれませんでした。それどころか、児童相談所に通報すると脅されて……」
そこまで言ったところで、愛美は再びハンカチで目頭を押さえた。
瑠生は思わず水音と顔を見合わせる。彼女は、苦笑いを浮かべ、首を横に振った。
もし、今の愛美の話が本当だとすると、学校側の対応には、相当な問題があったことになる。
「動画配信や週刊誌では、そこまでの話はしていませんでしたよね?」
これまで黙っていた水音が口を挟んだ。
「ええ。学校の対応に不満を持っていましたけど、事を荒立てたかったわけではありません。ただ、本当のことを知りたかっただけなんです……」
愛美が顔を伏せたまま答えた。
思いの外、騒ぎが大きくなってしまったが、彼女としては、いじめに対して調査をしようとしない学校側に圧力をかけることが目的だったということか。
「お母様は、学校側と何回話をしましたか?」
水音が訊ねる。
「回数は覚えていません。でも、一回や二回ではなかったと思います」
「先ほど、知人に相談したと仰っていましたが、それは春山中学校の生徒の保護者などですか?」
「違います」
「どなたか教えて頂いてもいいですか?」
水音が訊ねると、愛美が急に顔を上げ、充血した目を向けてくる。
「それはちょっと……」
「どうしてですか?」
「学校とは関係のない人ですから……」
愛美は再び顔を伏せてしまった。
多分、恋人だろうなと瑠生は直感で思った。知人という言い方に、友人とは違うという意図を感じる。
恋人だと言わないのは、周囲の目を気にしているからだろう。
シングルマザーなのだから、恋人がいても何ら問題はないのだが、それでも、子どもがいるのだから恋愛をすべきではないとか、子どもより恋人を優先しているといった、根強い偏見がある。
もし、愛美に恋人がいたのだとしたら、これまで同情的だった人が、一気に掌を返しかねない。
きっと、愛美はこれまで、そういった偏見に晒され続けてきたのだろう。
もしかしたら、敬斗がいじめを受けたのは、シングルマザーという環境が影響していたのかもしれない。
そんなことは、あってはならないのだが、それが起きてしまうのが現実なのだ。
「もう一つ、別の質問をさせて頂いてもよろしいですか?」
水音が訊ねる。
愛美は「はい」と頷きながらも、その表情には警戒の色が浮かんでいた。
「お母様から見て、敬斗君はどんなお子さんでしたか?」
水音の問いに、愛美は睫を伏せた。
「そうですね。敬斗は、頭もよかったですし、気遣いのできる優しい子でした」
「そうですか。具体的に、どんな風に優しかったですか?」
水音が質問を重ねると、愛美は言葉に詰まった。
「私のために、家のことを色々と手伝ったりしてくれました。いつも、穏やかに笑っていて……」
「思春期の子どもだと、親に反抗的になることもあると思うのですが、その辺りはどうですか?」
「いえ。敬斗には、そういうことはありませんでした。私が、シングルマザーだったので、気遣っていたんだと思います」
愛美は三度顔を伏せて、ハンカチを目頭に当てた。
「親子関係は良好だったんですね」
瑠生が言うと、愛美がすっと顔を上げ、射貫くような視線を向けてきた。
「それは、どういう意味ですか?」
「ただ、確認を……」
「嘘! あなたたちも、あの教師と同じように、私の虐待を疑っているんでしょ?」
愛美が腰を浮かせて激昂した。
さっきまで涙を拭っていたのに、今の愛美は般若のような顔をしている。相槌程度のつもりだったのだが、どうやら愛美の地雷を踏んでしまったようだ。
「いえ。そういうつもりでは……」
「じゃあ、どういうつもりなんですか? 私は、ずっと敬斗と二人で生きてきたの! それなのに、どうして、そんな酷い疑いをかけるんですか? 虐待だなんて……。躾はあっても、虐待なんてするわけないでしょ!」
愛美が、ほとんど叫ぶような声で言った。
彼女は情緒不安定になり、被害妄想に取り憑かれているのだろう。すぐにこの場から逃げ出したいところだが、放置すれば、動画配信や週刊誌で、第三者委員会を批判する発言をしかねない。
ただ、どう対応すればいいのか分からない。困り果てた瑠生に代わって、言葉を発したのは水音だった。
「お母様の仰る通りです。今のは誤解を招く発言でした」
「つまり、あなたたちも、あの教師と同じように、私の虐待を疑っているということですよね」
「そう感じるのは当然です」
「…………」
「あまりに不用意な発言を、まず謝罪させてください。申し訳ありません」
水音が丁寧に頭を下げた。瑠生は迷ったものの、それに倣う。
「…………」
「お母様は、これまで大変な苦労をされてきたと思います。今、お話を伺って、そのことを実感しました」
「だったら、どうして、あんなことを……」
「それを感じたからこその発言でした。ただ、言葉足らずで、お母様の誤解を招くことになってしまいました」
「…………」
愛美が、深いため息を吐きながら、椅子に座り直した。さっきまで爆発していた怒りが、みるみる萎んでいくようだった。
さすが、スクールカウンセラーだけあって、こういうときの処し方を心得ている。
水音のことを、感情で突っ走るタイプだと思っていたが、その考えを改めた方がいいかもしれない。
「先ほどは、助かりました」
愛美の部屋を辞去して、マンションのエントランスを出たところで、瑠生は、水音に頭を下げた。
意図せずに、愛美の地雷を踏んでしまい、彼女を怒らせてしまったのだが、それを冷静に宥めてくれたのが水音だった。
「いえ。気にしないでください。私も、顔合わせでやらかしたとき、神原さんに助けられてますから」
水音が苦笑いを浮かべながら言う。
森と口論になったことを言っているのだろう。あのとき瑠生は、水音に対して猪突猛進という印象を抱いた。だが、それが彼女の全てではないと分かった。
「助けるなんて大げさですよ。でも、どうして愛美さんは、急に感情を露わにしたんでしょうか?」
「情緒不安定になっているんだと思いますけど、他にも何か理由がありそうです」
「理由――ですか?」
「ええ。愛美さん。嘘泣きをしていたじゃないですか」
「嘘泣き?」
「ええ。愛美さんは、嘘泣きをしていました。やっぱり男性は気付かないものなんですね」
水音の言葉に驚いて、瑠生は思わず足を止めた。
その脇を、学校帰りと思われる女子中学生たちが、楽しげな声を上げながら駆けて行った。
「どうして、愛美さんが嘘泣きをしていたと思うんですか?」
瑠生が訊ねると、水音は小さく笑みを浮かべた。
「女性が嘘泣きをするときって、涙は出るんですけど、表情が崩れないんです。あと、洟を啜るようなこともありません。見た目を気にする冷静さが残っているんですよ。ついでに言うと、声が震えるようなこともなく、きちんと受け答えができますね。感情が揺さぶられていないからです」
水音の説明に妙に納得してしまった。
あのときの愛美は、まさに水音の言っている通りの状態だった。
「つまり、彼女は我々の同情を誘うために、嘘泣きをしたということですか……」
「正確には、神原先生の――だと思います」
「ぼくの?」
「はい。女同士だと嘘泣きってバレるんです。愛美さんも、それは分かっていたと思います」
「なるほど。ただ、そうなると、愛美さんにも、何か隠し事がありそうですね」
「そうかもしれませんね。でも、現段階で、愛美さんを色々と追及するのは、あまりよくないと思います」
水音の意見はもっともだと思う。
敬斗に何があったのか、もっと情報を集めてからでないと話が先に進まない。
「まずは、いじめの事実があったかどうかを確かめないといけませんね」
「そうですね。新たにアンケートを取るのと、生徒へのヒアリングといったところでしょうか」
「その方向でいいと思います。学校側に、場所の確保の交渉をした方が良さそうですね」
「ですね」
「これから、学校に行って交渉してきます」
ここからなら、学校まで五分とかからない。ついでに、指導記録、出席簿、学級日誌などの書類もチェックさせてもらった方がいい。生徒に書かせた作文などがあれば、それも確認しておきたいところだ。
「でしたら、私も行きます」
水音が言った。
昨日は、水音のこういうところを煩わしいと思っていたが、さっきの一件で、意外と役に立つことが分かった。今回は、素直に「分かりました」と応じた。
2
学校での作業を終え、瑠生が事務所に帰ったときには、夜の八時を過ぎていた。
両手で抱えていた段ボール箱を、自分のデスクの上に置いてから、椅子に座って深いため息を吐く。
ヒアリングの場所の確保は、大貫の協力もあって、すぐにできた。だが、ヒアリングをする生徒のリストの作成に時間がかかった。
一応、ヒアリングの内容について、口止めはするが、相手は中学生だ。広まることを前提にした方がいい。
そうなると、話を聞く順番というのは、非常に重要になってくる。
できれば、担任教師から、クラスの人間関係を聞きだした上で決めたかったのだが、肝心の担任が休んでしまっている状態だ。仕方なく、大貫の意見を取り入れながら、取りまとめることになった。
その後、指導記録や学級日誌、出席簿などの書類を回収して、段ボール箱に詰めて持ち帰った。
これらを全部、チェックしなければならないと思うと、正直、げんなりする。
「神原。まだ残っていたのか」
急に声をかけられ、顔を上げると宇佐美がコンビニのレジ袋をぶら下げて事務所に入って来た。
「宇佐美さんこそ、まだ残っていたんですか?」
「まぁ色々とあってね」
宇佐美はそう言って、瑠生の隣の梅田の席に座ると、レジ袋の中から缶コーヒーを取り出し、瑠生に差し出した。
「ありがとうございます」
瑠生が缶コーヒーを受け取ると、宇佐美も自分の分を取り出し、タブを開けて一口飲んだ。
「それで、調子はどうだ? 母親に会って来たんだろ」
宇佐美が何気ない調子で切り出す。
本当に、この人は抜け目ないと思う。さも、偶然を装っているが、最初から二人分の缶コーヒーを用意してある。
多分、瑠生が事務所に戻るのを見計らっていたのだろう。
「主張の内容は、概ね動画配信や週刊誌で言っていたのと同じです。ただ、新しい証言が引き出せました」
「何かな?」
「担任の教師が、敬斗君の母親に虐待を疑うような発言をしたそうです」
「なるほど。いじめ問題を訴えたら、家庭内の虐待を疑われたというわけか。それは、なかなか酷い話だね」
「ええ」
「でも、敬斗君の母親は、どうして週刊誌などにそのことを言わなかったんだ?」
「諸刃の剣だと分かっていたからじゃないですか」
瑠生は苦笑いとともに口にした。
いじめの事実を隠すために、虐待を疑ったというのは、学校側を批難する材料になるが、同時に、愛美が世間から疑いの目を向けられるリスクも孕んでいた。だから、第三者委員会である瑠生たちにだけ打ち明けたのだろう。
「なるほどね。一応、担任教師に話を聞いた方がいいね」
「そうなんですが、担任教師は体調不良でずっと休んでいるようなんです。家に押しかけるわけにもいきませんし、なかなか困っています」
「何だ。そんなことなら、私の方から手を回しておこうじゃないか」
宇佐美が、あまりにさらっと言うので、瑠生は戸惑ってしまう。
「担任教師とコンタクトが取れるんですか?」
「まあね。私は、担任教師の父親と懇意にしていてね。ひとまず様子を聞いてみるよ」
「そういうことは、先に言ってくださいよ」
「聞かれなかったからね。それで、この後の方針は決まっているのか?」
「明日から、ヒアリングを始める予定です」
「保護者や教師は、同席させるのか?」
「いえ。今回のケースでは、同席させない方がいいという判断をしました。おれと山岡さんだけで対応します」
学校側は、校長の岸本の指示で、いじめ事案を隠蔽しようとしていた。そのことは、生徒にも伝わっているはずだ。そんな状態で、教師を同席させたら、みな口を閉ざしてしまうに違いない。
「そうだね。その方がいい」
「後は、学校から回収した指導記録や日誌なんかに目を通そうと思っています」
瑠生は、段ボール箱をぽんぽんと叩きながら言った。
「結構な量があるね」
「はい。一応、学年全部のものを回収しましたから」
「結構、手間がかかりそうだね」
「そうですね。ただ、書類よりネットの方が厄介かもしれません」
瑠生の説明で察してくれたらしく、宇佐美が「ああ」と声を漏らした。
昨今は、中学生でも当たり前のようにスマホを持っている。生徒のSNSや、学校関連の掲示板など、ネットにある情報を丹念に拾っておく必要もある。
「全部、一人でやるつもりか?」
「いえ。山岡さんが手伝ってくれることになっています」
「森さんと林さんは? 二人はヒアリングにも参加しないのだろ?」
「一応、お願いしてみたんですけど、あっさり断られてしまいました。各々、忙しいということでしたが、まあ、単純に年下なんで舐められているんでしょうね」
「それはあるな」
宇佐美がうんうんと頷く。
「まあ、何とかします」
「そうやって、一人で抱え込むのは、いい傾向ではないな」
「分かってますけど、他に手がありません」
「大丈夫。森さんと林さんなら、私が説得するよ」
「いいんですか?」
「いいも何も、私が単純にお前に仕事を押し付けるわけないだろ。足りないところがあればフォローする」
宇佐美は豪腕ではあるが、こういう面倒見のよさもある。
「ありがとうございます」
瑠生が礼を言うと、宇佐美は「段ボール箱は、私のデスクに置いておいてくれ」と言い残して、事務所を出て行った。
それを見送った後、瑠生はメールのチェックをして、残務処理をしてから事務所を出た。
外に出ると、風が強いせいか、一気に冷え込んだような気がする。
駅に向かって歩き始めたところで、スマホに電話がかかってきた。恵奈からだった。
昨日の別れ話の続きだろう。
瑠生は振動を続けるスマホを鞄の中に仕舞うと、再び駅に向かって歩き出した。
恵奈と交際を続ける気はない。向こうも、同じ気持ちだろう。だったら、電話に出て「別れよう」とひと言言えば、それで終わりだ。
さっさと終わりにした方がいいのだろうが、こうやって結論を先延ばししてしまう。きっと自然消滅を狙っているのだろう。自分の決断ではなく、時間が終わらせてくれることを願っている。
自分の弱さがほとほと嫌になるが、長年、こうやって生きてきてしまった。今さら、変えようがない。
3
応接室は冷たい空気に満たされていた――。
降りしきる雨が、冬を引き連れてきているような気がする。
瑠生は、小さくため息を吐いてソファーに凭れた。
昨日、学校側に生徒へのヒアリング用のスペースの確保を依頼し、用意されたのがこの応接室だった。
応接用のソファーセットがあるだけの空間だが、これくらい殺風景な方が話し易いかもしれない。
「神原先生、緊張されていますか?」
隣に座る水音が訊ねてきた。
「緊張はしていませんが、相手が中学生ですから、どう接するべきか戸惑いはあります」
学校の教師や塾の講師でもない限り、中学生と絡むようなことはまずない。
思春期の年代の子どもたちと、どう接すればいいのか分からないというのが本音だ。しかも、敬斗の事案でのヒアリングなので、心のケアも含めて慎重を期する必要がある。
「そうですよね。普段は中学生と接するようなことはありませんよね」
「関わる上で、何かコツはあるんですか?」
「そうですね。私が心がけているのは、焦らないことでしょうか」
「焦らない?」
「はい。いきなり、核心を突くような話をしても、心を開いてはもらえません。まずは、相手が話し易い空気を作ることが大事ですね」
「なるほど」
確かに、それはそうかもしれない。
見ず知らずの大人にいきなり呼びつけられて、いじめのようなデリケートな事案について簡単に口を開いてくれる生徒はいないだろう。
理屈は分かるが、どうすれば、子どもたちが心を開いてくれるのか、その方法が分からない。
「大丈夫です。基本は、私の方で話をします。一応専門家なので」
瑠生の不安を見透かしたように、水音が笑みを浮かべた。相手を安心させる、柔らかい表情だった。
「それもそうですね。基本は、お任せします」
水音はスクールカウンセラーなのだ。ここは、余計なことをせずに、任せてしまえばいい。
「任せてください」
水音が自分の胸を叩く。
本当に心強い。最初の印象が悪かっただけに、そんな風に感じてしまう自分に、少し戸惑った。
「では、一人目を呼びます」
瑠生はヒアリングする生徒のリストを確認すると、スマホを使って、学年主任の大貫に連絡をした。
大貫も同じリストを所持していて、こちらから連絡を入れる毎に、順番に生徒を応接室に連れて来てくれることになっている。
大貫に用件だけ伝えて電話を切る。それから五分ほどして、ノックの音がした。
「どうぞ」
水音が声をかけると、戸が開いて一人の少女が顔を出した。
敬斗のクラスの学級委員長の三橋真莉愛だ。放課後の教室で、敬斗の机に薔薇の花を供えていた少女――。
真っ直ぐに、こちらに目を向けた真莉愛は、中学生とは思えないほど、大人びた美しさを放っていた。
◇Profile◇
神永学(かみなが・まなぶ)
1974年、山梨県生まれ。2004年『心霊探偵八雲 赤い瞳は知っている』でプロデビュー。「心霊探偵八雲」シリーズとして人気を集める。他の著書に「天命探偵」「怪盜探偵山猫」「確率搜查官 御子柴岳人」「殺生伝」「革命のリベリオン」「浮雲心霊奇譚」の各シリーズ、『イノセントブルー 記憶の旅人』『ラザロの迷宮』『マガツキ』『青龍中学校 オカルト探偵部』などがある。

