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第2回

#2 Shall we ホルモー?


 このたび、デビュー作『鴨川かもがわホルモー』が刊行から十八年のときを経て、舞台化(十五年ぶり二度目)する運びとなった。
 ついては、「本読み」なるものにはじめて参加した。
 そも、「本読み」とはいかなるものか。
 それは、役者たちが台本に従って、それぞれのセリフを発し合う、本格的な立ち稽古に入る一歩手前の準備段階に行う、読み合わせのことである。
 今回の舞台化の脚本および演出はヨーロッパ企画の上田誠うえだまこと氏によるもの。『鴨川ホルモー』のストーリーを中心に据え、そこにスピンオフ風味の続編『ホルモー六景ろっけい』の話を織りこみつつ、上田氏による新たな物語として生まれ変わる――。それらの想いをこめ、タイトルも少し進化して『鴨川ホルモー、ワンスモア』と相成った。
 上田氏と言えば、本業のヨーロッパ企画による演劇はもちろん、森見登美彦もりみとみひこ氏の原作がアニメ化されるに際し、見事な脚本を担当していることで有名である。それに対し、森見氏もヨーロッパ企画の初期の名作『サマータイムマシン・ブルース』を下敷きに、己の小説世界と合体させた『四畳半よじょうはんタイムマシンブルース』を上梓した。
 これらの事実から導かれるように、二人の関係はまさしく不即不離、ニコイチの存在であり、互いの作品を土台に再生産を繰り返しては、富の上に富を築きまくる。その無限の創作構造を目の当たりにして、
「フィクション永久機関ですやん」
 と早々に看破した私であったが、まさか、そこに自分も属する日が来ようとは(ちなみに万城目・上田・森見三人によるグループLINEの名前は「フィクション永久機関」である)。
 
 本読みの会場は広かった。
 出演するキャストは総勢十八人。そこに主催者や、音楽や美術や衣装のスタッフ、さらに演者の事務所マネージャーなどが集った結果、七十人超えという大所帯で本読みが開催された。
 私の席は現場の司令官と言える上田誠氏の横に用意されていたので、いわば特等席から、徐々に集まってくる演者たちの様子を眺めては、
「ああ、こんなふうに本読みしたことがむかしあった。あれは小学四年生のとき、文化祭でのクラス劇。題材はプロメテウスが火を得るギリシャ神話だった。私は何を演じたっけ? そうだ、リスだ。しかし、ギリシャ神話でリスって何をする役だったのか……」
三好みよし兄弟がズルい。あまりに外見が似ているおかげで、神妙に並んで座っているだけでおかしい。先ほどから、視界に入ると笑ってしまう。何度、天井を見上げ、吹き出しそうになるのをこらえていることか……」
「はじめて乃木坂のぎざか46に所属する方と話した。彼女もAKB48から連綿と続く、女性アイドルグループの興亡の歴史を担う一員であるわけだ。余談であるが、私とAKB48はデビュー年が同じ。つまり、『鴨川ホルモー』とAKB48は同期なのである。だから何やねんという話だが……」
 などとひとり思念していた。
 要はラクチンであった。
 なぜなら、私の役目は原作を書き上げた時点で終了しているからである。
 されど、この場にいる面々は違う。これから、なのである。作品を自分たちの身体と声でかたちにしていく演者のみなさん。彼ら、彼女らを指揮する上田氏。演技プランが具体化するのに合わせ、音楽やセット、さらにCG(最近の舞台は進化がめざましく、LED板をセットに貼ることで、それまでの書き割りが突如、映像を流すスクリーンに変身する)の準備も進めなくてはならない。何より興行であるので、主催者はチケットを売りさばかんと、日々SNSを更新し、あの手この手で購買者の関心を引きつけるべく頭をしぼっている――。
 舞台の成功を目指し、重い責務が各人の肩にのしかかっている。
 されど、私はもうやることがない。確かに事前に台本を渡され、チェックはしたが、上田誠氏の紡ぎ出す新たなホルモーの物語を始終ニマニマとしながら、ときに「うへっへっへ」と笑いながら読み終え、
「すばらしかったです。傑作ですわ!」
 と感想を上田氏にLINEでお伝えしたら、それでお役御免である。
 では、演者の心境はいかなるものなのか。これだけの大人数が聞き耳を立てるなか、声を出して台本を読むのである。やはり、心臓はドキンドキンと高鳴っているのか。
 とはいえ、演者のみなさんはそもそもが演技の達人である。ロの字形に組んだ机を囲み、互いに談笑する人もいれば、ぱらぱらと台本をめくる人、タブレットをいじる人(数人が台本の情報をすべてタブレットに入れて臨んでいた)、各人マイペースな風情で座っていて、緊張しているのか、それともリラックスしているのか、まったく真のところが読み取れない。
 上田氏によると、本読みは演者にとって嫌な時間なのだという。まだ全然出来上がっていない状態なのに、様々な関係者に見られてしまうことへの心理的抵抗があるらしい。実際に、
「嫌な時間ですけど、これから本読みを始めます」
 と上田氏が開始のアナウンスを告げると、演者たちだけがいっせいに苦笑を返していた。
 かくして、本読みが始まった。
 台本の一ページ目からラストまで、所要時間を計る意味もあり、休憩なしで一気に読み通す。
 はい、という上田氏の静かな合図とほぼ同時に、
「あー、やってるぅッ!」
 驚いたのが、一行目の第一声から本気だったことである。
「本読み」なるものへの漠然としたイメージとして、
「何となく最初は照れくさいこともあって、多少は棒読みテイストで入り、徐々に先生の指導などに引っ張られ、本気度を上げていく」
 というおもに小学校での実体験に基づく勝手な思いこみがあった。
 されど、ここはプロの世界。この場所に集いしは、己の演技一本で生き残っている猛者ばかりである。
 これまでのゆるい雰囲気が一変した。
 右から左から、演者を変えて次々とセリフが乱れ飛ぶ。かと思ったら、複数人によるユニゾンのセリフが見事に決まり、感情的な言葉の応酬では、座ってのやりとりとは思えぬ熱いバトルが繰り広げられた。
 とにかく、テンポが速い。さらには、言葉が鋭い。正確な音量で、正確なタイミングで、言葉が発せられ、置かれていく。ひとつ前のセリフが終わるのを待つのではなく、ほとんど重なるくらいの際どい拍子で次のセリフが来て、三人目、四人目が躊躇なく踏みこんでいく。
 改めて書くが、はじめて行われる本読みである。
 にもかかわらず、各人、完全にできあがっていた。キャンプ初日に身体を作って合流した若手を見て、目を細めるプロ野球の監督の気持ちとは、かくの如しだったのか。
 これらの準備はプロとして当たり前のことであり、そこに驚くこと自体ひょっとしたら、プロの演者に対し失礼なのかもしれない。されど、むき出しの演者たちの技量を前にして、私は魂消たまげてしまった。
 すごいな、この人たち、とひたすら圧倒されていたら、気づくと終盤である。
 実は、脚本執筆途中の上田誠氏に、私はいくつかの相談を持ちかけていた。
 うちひとつは、相談というよりも、単なる後悔の吐露と言うべきものだったかもしれない。
 原作『鴨川ホルモー』では、主人公安倍が所属するサークル京大青竜会に十名の新入生が集結するところから、物語が本格的に動き始める。されど、作中で十名全員が活躍するかと言うと、否。お読みになった方はご承知のとおり、ほぼ名前しか登場しないメンバーが数人いる。
 ストーリーの都合から、スポットライトが当たる面々が限られるのは仕方のないことかもしれない。されど、あれは『鴨川ホルモー』が映画化されたときのことだった。2008年、京都太秦きょうとうずまさの映画スタジオに撮影見学に向かった私は、倉庫のような薄暗いスタジオの隅で、いっこうに出番が訪れず、所在なげにタバコをふかし続ける京大青竜会の「ほぼ名前しか登場しないメンバー」を見て、何とも言えず罪悪感を抱いたのだった。著者が京大青竜会メンバー全員に確固たる役割と、有機的なストーリーのつながりを拵えておけば、彼らはあんなふうに居心地悪そうに出番を待つ羽目にはならなかったのではないか?
 すべては我が未熟さゆえ――。そう、思ってしまったのだ。
 もしも現在の私が、同じ話を執筆したのなら、きっと十人全員に見せ場を用意して、ストーリーを構築するだろう。今の私なら、必ずそうする。だが、『鴨川ホルモー』を書いた時分には、それらの分別も技量も備わっていなかった。
 これらの後悔を、脚本執筆途中の上田誠氏にまるっと託した。
 果たして、上田氏は懸案の「ほぼ名前しか登場しないメンバー」たちに、『ホルモー六景』からも自在に話をスライドさせ、見事な造形を施すことに成功していた。何しろ、目の前でそのメンバーたちが生き生きとセリフを口にしているのだ。間違いない。
 さらには、キャストの十八人全員が各自の役割をまっとうすべく、縦横無尽なる掛け合いを全編にわたって続けるという、複雑怪奇な演劇構成をあっさりと成立させていた。
 本読みが最終盤に差しかかるにつれ、私の心に湧き上がったのは、長年のリグレットが無事成仏してくれたという安堵の念と、鬼神が手がけたかのような脚本を世に現出させた上田氏への畏敬の念である。
 さらに、もう一個のお願いも、無事成就が叶った。
 それは時の経過に合わせて、違和感が強くなってきた部分への修繕希望だった。
 すなわち、原作『鴨川ホルモー』ではエンディング近くで、ヒロインの楠木ふみが主人公の依頼に応えるかたちで、トレードマークだったメガネを外し、コンタクトに変えることにより、別人のようにきれいになる、という展開が待っている。
 私がこの部分を執筆した2005年当時、メガネを着用する女性が、それを外すとアラ美人! という変化は、きわめてオーソドックスな、古き良きモテ展開として認識されていた――、ように思う。
 しかし、である。
 昭和は今やはるか彼方、さらにときは平成から令和に移った。
 楠木ふみは好きでメガネをかけている。
 それに対し、主人公が外したほうがかわいい、と一方的に主張し、その要請に彼女は唯々諾々いいだくだくと従う――。この展開に、何だか違和感が募るようになってきた。本人がメガネ姿のほうがいいと思うなら、そのまま、つけさせてやりゃいいのではないか? 二十年前と違って、メガネのデザイン自体、選択肢も増え、圧倒的におしゃれになった。ここは本人が望んでいたメガネスタイルを尊重してあげるべきではないのか?
 執筆後二十年目にして発生した、時代へのすり合わせ問題。
 正解のない、あいまいな感覚ばかりが頼りのこのクエスチョンについて、上田氏に相談した。
「楠木ふみはメガネをかけ続ける」
 これが、われわれの下した結論だった。
 原作を書き直すことはもちろんしないが、今の若者の物語として演じさせるのならば、それ相応の変更があってもよい、という判断である。
 こちらの要件も、ストーリーに巧みな微修正を加え、上田氏が見事に実現してくれたのを確認しつつ、本読みはいよいよ脚本の最終ページに突入し、最後のセリフが部屋の上空に響いた。
 全員がふうとため息を吐き出し、手元の台本の紙束を整え始める。
「こりゃ、やはり傑作ではないか!」
 掛け値なしの実感として、そう心でつぶやいたわけであるが、どっこい、まだ何も出来上がっていない。
 スケジュール表を見たら、本読みから公演初日までの約二十五日間、ひたすら稽古の予定が組みこまれている。これから演者&上田氏たちによる、本番に向けての熾烈な戦いが始まるのだ。
 されど、こちらはどこまでもお気楽な原作者である。文字と声だけで構成された本読みの段階で、とんでもなかった。今後、演者たちの動きや音楽、美術の成果が加わったあかつきには、いかなるめくるめく立体の空間が立ち上がることやら――!
 この文章を書いている今も、彼ら彼女らは、「ホルモー!」と叫びながら、阿呆なる物語の稽古に打ちこんでいるはず。完成した舞台を見るのが、今から楽しみで楽しみで仕方がない。
 

※『鴨川ホルモー、ワンスモア』は2024年4月12日から、東京池袋のサンシャイン劇場にて公演スタートします。詳しくは公式ホームページ(https://event.1242.com/events/kh_oncemore/)をごらんください。

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