出社時刻には、なんとか間に合った。
子猫の入った段ボール箱を抱えて、隼人が出社すると、雪吹はわなわなと肩をふるわせて、とがめるような声を出した。
「なんですか、それは……」
隼人は視線を下に向け、子猫を見つめながら、事情を説明する。
「通勤途中に子猫を保護することになったんですけど、うちに戻る時間もなくて、連れてきてしまいました。今日一日だけ、どうか、会社に置いておくことを許してもらえないでしょうか?」
子猫の入った段ボールをデスクの上に置き、隼人は両手を合わせて、拝むようにして頼みこむ。
雪吹は呆れた表情を浮かべ、これまでにないほど大きな溜息をついた。
「だから、あれほど、学生気分でいられては困ると言っているのに。あなたは、会社をなんだと思って……」
そこに、ぐいっと割って入ってくる人物があった。
「この子、早く動物病院に連れて行ったほうがいいですよ」
隼人のデスクの横に立ち、子猫をじっと見つめて、抑揚のない口調でそう言ったのは、国語科担当の藍原杏子だ。
藍原も隼人とおなじく新入社員であり、研修では何度か言葉を交わしたが、どちらかというと無口なほうだと思っていたので、こんなふうに会話に入ってくるのは驚きであった。
「目ヤニが大量に出ています。治療してあげないと失明するかもしれません。それに、屋外で生活していた猫にはノミやマダニが寄生している可能性が高いので、獣医さんに見せて、一刻も早く駆除してもらったほうがいいでしょう」
隼人と雪吹が戸惑っている横で、藍原はよどみなくそう話す。
無表情ではあるが、そのまなざしはずっと子猫に向けられており、もしかして、このひと、めちゃくちゃ猫好きなのでは……と隼人は思った。
「えっ、いや、でも、仕事……」
隼人は戸惑いがちに、雪吹のほうをうかがう。
藍原の言うことは気になるが、さすがに勤務時間中に動物病院に行くわけにはいかないだろう。
そう考えて、思案に暮れていたところ、淡路の声がした。
「猫、どこなん?」
淡路はきょろきょろとフロアを見渡すと、隼人のデスクへと近づいてきた。
「この子か。めっちゃ可愛いやん。癒されるわぁ」
淡路は目尻をさげ、とろけんばかりの笑顔で、子猫のまえに人差し指を差し出す。淡路が人差し指を左右に振ると、子猫はじゃれつこうとして、前足をあげた。
「すみません。出勤途中に拾ってしまって……。今日一日だけ、会社に置かせてください」
そう言った隼人に、淡路は気楽な調子で答える。
「ええよ、ええよ。なんなら、ずっと、会社で飼うたってもええで」
その提案に、藍原が顔を輝かせた。
「いいですね! 大賛成です!」
これまでの愛想のない様子から一転して、声を弾ませて、藍原は勢いよく言う。
「ぜひぜひ、そうしましょう。会社に猫がいるなんて最高じゃないですか。そうすれば、私も毎日、会社に来るのが楽しみになります」
やはり、藍原は大の猫好きのようだ。
これまで知らなかった同期の一面を見て、隼人は意外な気持ちだった。
「どうや? 瀬口くん、この猫ちゃん、うちの会社で飼うことにするか?」
淡路の言葉に、隼人は戸惑う。
「えっと、はい、それでも、べつに……」
猫を飼うのは初めてのことであり、ちゃんと世話をすることができるのか、正直なところ、自信はなかった。もし、会社で飼ってもらえるというなら、渡りに船という気もする。
しかし、今朝、出会った流果という少年の顔が浮かんで……。
「私は反対です」
眉をひそめて、雪吹が言った。
「社内には動物アレルギーのひともいると思いますし、いくらなんでも、それは勝手すぎるかと……」
その意見に、淡路は納得したようだった。
「それも、そうやな。たしかに、アレルギーの問題を考えたら、やめといたほうがええか」
人差し指をくるくるとまわして、子猫と遊んでいた淡路であったが、ふと、真剣な表情を浮かべた。
「この子、目ヤニ、心配やな。はよ、病院、連れて行ったり」
淡路は言いながら、雪吹のほうを見る。
「わんわんパトロールの取材でお世話になった岡部先生のところは? 瀬口くんに、場所、教えたって。言うたら、これも取材や」
「そうおっしゃるのでしたら、仕方ありませんが……」
雪吹はあまり歓迎していない口調でつぶやいたあと、くるりと背を向けて、自分のデスクに近づいた。そして、家庭科の教科書を手に取り、隼人のところに戻ってきて、ページを開く。そこには「家族や地域の人々との関わり」とあった。
「この防犯パトロールの運動を中心となって行っているのが、岡部動物病院の院長先生です」
教科書に掲載されている写真を見せながら、雪吹は説明する。
写真には、犬のリードを持った飼い主が蛍光色の目立つ腕章をつけ、下校中の子供たちを見守っている様子があった。
「わんわんパトロールというのは、犬の散歩中に、このような腕章をつけて、防犯意識を高めることで、地域の安全を守ろうという運動です。岡部先生はその中心人物で、動物病院に来られた飼い主さんたちにわんわんパトロールについて話して、見守りボランティアを増やしているのです」
説明を聞き、隼人は大きくうなずいた。
「そういうつながりで、動物病院が出てくるのですね」
家庭科といえば、まずは「調理実習」や「裁縫」などが思い浮かぶが、中学の家庭分野では「家族」や「地域社会」といったことも扱われている。
地域における「協働」は、核家族化で異世代交流が少なくなった現代において、特に重要とされているテーマだ。子供たちは家族や地域などのたくさんのひとたちに「助けられている」「支えられている」ということを学び、そして、成長するにしたがって、自分がまわりを「助ける」「支える」存在へとなっていく。
そんな地域社会の活動として、大大阪出版の家庭科の教科書では「わんわんパトロール」の事例を取り上げているのだ。
「岡部先生にはきちんと挨拶をして、くれぐれもよろしく伝えてください」
雪吹は言いながら、一枚のリーフレットを差し出した。
動物病院のリーフレットであり、所在地なども書かれている。
「ありがとうございます! 行ってきます!」
隼人は子猫の入った段ボール箱を抱え、さっそく、動物病院へと向かった。
動物病院で検査をしてもらったところ、子猫の健康状態には特に問題はなさそうであった。
「シャンプーしてあげたら、目ヤニもきれいに落ちましたが、念のため、目薬も出しておきますね」
獣医師の岡部が、子猫を両手で持ち、ひっくり返して様子を確かめながら言う。
岡部はかなりの巨漢で、腕が太く、手も大きいので、子猫は両手にすっぽりと包まれて、ますます小さく見えた。
「猫を飼ったことがなくて、わからないことだらけなのですが、仕事に行っているあいだ、部屋にひとり……一匹で残していても、だいじょうぶでしょうか?」
隼人が気になっていたことを質問すると、岡部は待合室のほうに視線を向けた。
「この子はミルクじゃなく、フードを食べることができるので、仕事中、ごはんを用意してあげれば、お留守番させてもいいと思いますよ。帰りに受付で『初めてペットを飼うひとへ』という冊子を渡しますので、くわしいことはそれを読んでください」
「フードって、キャットフードですよね。いわゆる、カリカリと呼ばれる……」
「そうですね。子猫用のものがスーパーやドラッグストアに売っていますし、うちでもおすすめのフードを販売しています。最初のうちはドライフードをふやかしてあげるか、ウェットなタイプを用意してあげたほうがいいでしょう。あと、腎臓に負担をかけないためにも、水はいつでも飲めるようにたっぷり用意してあげてください」
「わかりました」
岡部はまた子猫のほうを見ると、そちらに話しかけるようにつぶやく。
「いいひとに拾われて、ラッキーだったね」
その声を聞いて、隼人は急に不安になった。
最初に拾ったのは、あの流果という少年だ。偶然の出会いと成り行きで、猫を飼うことになったが、本当によかったのだろうか……。
しかし、引き受けた以上はやるしかない。
子猫が「いいひとに拾われた」と思ってくれるよう、しっかりと面倒を見なければ……。
隼人は気を引き締めて、子猫を見つめる。
子猫は体を洗われて、毛並みがふかふかになっていた。目ヤニをつけていたときも可愛かったが、いまでは大きな目が宝石のように輝いており、愛くるしさに加えて、気品すら感じられた。
「雪吹さんは、変わりないですか?」
子猫をキャリーケースに入れたあと、岡部は不意に訊ねた。
「はい。岡部先生にくれぐれもよろしくお伝えするよう言われました」
隼人が伝えると、岡部は照れくさそうに目を細めた。
「雪吹さんから、わんわんパトロールの活動を教科書に載せたいと言われたときには困っちゃいましたが、まあ、お役に立ててよかったですよ」
「教科書に載ると、なにか困ることがあるのでしょうか?」
真意がつかめず、隼人は聞き返す。
「いやあ、なんか、恥ずかしいじゃないですか。そんな大層なことをしているわけでもないし」
岡部は片手を振りながら、巨体を揺らして笑った。
「でも、あのあと、うちの両親がすっかり喜んで、自分の息子が教科書に載るような人物になったなんて親戚中に自慢していたので、親孝行にはなったかなと思いました。親の世代の人間にとって、教科書というのは特別なものなんでしょうね」
満更ではない様子で、岡部はそんなふうに言う。
「雪吹さんには、こちらからもよろしく伝えておいてください。あと、ピーターくんにも」
「えっ?」
ピーター?
隼人が戸惑っていると、岡部は補足した。
「うさぎですよ、雪吹さんが飼っている」
「ああ、なるほど。というか、編集長、うさぎを飼っているんですね。全然、知りませんでした」
会社で猫を飼うことには反対して、動物アレルギーの話もしていたので、てっきり、あまり動物が好きではないのかと思った。
「もともと、ピーターくんがうちの病院に通っていて、その縁で教科書のことも声をかけられたんですよ」
「そうだったんですか」
そんな話をしたあと、隼人は診察室を出て、受付で名前を呼ばれるのを待った。
子猫はキャリーケースのなかで、しずかにまるくなっている。様子を見てみると、どうやら眠っているようだ。
「瀬口ネコ太郎ちゃーん」
受付でそう呼ぶ声がしたので、隼人は立ちあがり、そちらへと向かう。
問診票を書いたときに、ペットの名前を書く欄があったのだが、名前をつけていなかったことに気づき、とりあえず「ネコ太郎」と書いておいたのだ。
その場の思いつきで記入したものの、こうして呼ばれると、あまりに安易なネーミングではないかという気がしないでもない……。
「お代金はこちらになります」
そこに表示された金額を見て、一瞬、隼人は意識を失いそうになった。
診察代や薬代に加えて、キャットフードとキャリーケースを購入したことで、支払い金額が三万円近くになっていたのだ。
手持ちの現金で足りるか心配しつつ、財布を確認してみたところ、どうにか支払えそうだ。
猫を飼うのって、結構、お金がかかるんだな……。
現実の厳しさを痛感しながら、隼人は会社に戻ったのであった。
電車に揺られているあいだ、子猫はキャリーケースのなかでおとなしく眠っていた。
会社に着くと、藍原がぱっと顔をあげ、隼人のデスクまで突進するような勢いでやって来た。
「猫ちゃん、どうでしたか?」
藍原の問いかけに、隼人はキャリーケースを見せながら答える。
「健康に問題はないって。目ヤニも、洗ったら、すっかりきれいになった」
「それはよかったです」
ほっとしたように笑うと、藍原はスマホを取り出した。
「写真、撮らせてもらっていいですか?」
「いいけど、いま、寝てるかも」
そう答えつつ、隼人はちくちくと背後から刺さるような視線を感じた。
どうも、雪吹から「仕事中なのに……」という非難のまなざしを向けられている気がして仕方ない。
キャリーケースを開けると、子猫はまるくなり、すやすやと眠っていた。
その様子を藍原は写真に収め、至福の笑みを浮かべ、自分の席へと戻っていった。
子猫の入ったキャリーケースを足元に置き、隼人は仕事を進めていく。
議事録を提出したところ、雪吹からはまたしても厳しい指摘をいくつも受けた。
「発言をすべて記録するのなら、機械と変わりません。わざわざ議事録を作ることの目的がわかっていますか? 人間がやるのですから、しっかりと頭を使って、なにが大切なのかを考え、要点をまとめてください」
隼人は落ちこみそうになるが、雪吹のきつい口調は気にせず、ただ内容に耳を傾けて、改善点をメモに取った。
編集者として、早く一人前になりたい。
そのためには日々の仕事を確実にこなしていくしかないのだ。
「ご指摘ありがとうございます。直してきます」
自分のデスクに戻り、さっそくダメ出しされたところを修正する。
再提出すると、今度は特に注意されるところはなく、無事に受け取ってもらえたので、ほっと胸を撫でおろした。自分のデスクに戻ろうとしたところ、雪吹が言った。
「録音に使ったICレコーダーは、会議室に戻しましたか?」
「あっ、忘れてました!」
あわてて自分のデスクに置きっぱなしにしてあったICレコーダーをつかみ、会議室へと向かう。ICレコーダーは会議室の備品なので、使い終わったら、もとの場所に戻しておかなければならないのだ。
会議室に入ると、先客がいた。
長身の女性が、長机やパイプ椅子を移動させている。隼人の同期で、中学の英語科担当に配属された鼻毛モナである。
「手伝いましょうか?」
おそらく、編集会議のために机や椅子をセッティングしているのだろう。
そう判断して、隼人は声をかける。
長机にはキャスターがついておらず、自分がセッティングをしたときには、ひとりで動かすのに苦労したのだ。
「は……」
鼻毛さんと呼びかけようとして、隼人は言葉を呑みこむ。
モナはからかいのネタになりがちな自分の苗字を嫌っているようで、研修で知り合った際には、下の名前で呼ぶようにと強く要請されたのだった。
そのことを思い出して、苗字で呼ぶことをためらったのだが、だからといって、そんなに親しくもない女性を名前で呼ぶというのはハードルが高い。
「英語科は、編集会議、このあとですか?」
「そうそう。それで、セッティングしておくように言われたんだけど、こんな感じでいいのかな。プロジェクターって、どうすればいいの?」
モナが言う「セッティング」や「プロジェクター」の発音がいちいち本場っぽくて、隼人は内心で、さすがは帰国子女……と感嘆する。
大阪生まれのイギリス育ちということで、モナの英語力はかなりのものだ。
「このあいだはプロジェクターは使わなかったですけど、でも、もしかしたら、教科によってちがうかもしれないので、確認しておいたほうがいいかと思います」
「そうね。じゃ、そっち、持ってくれる?」
モナに言われて、隼人は長机を運ぶ。
「そういえば、藍ちゃんに聞いたけど、猫、連れてきたんだって?」
「あ、はい。会社に来る途中で、拾っちゃって……」
「藍ちゃん、猫大好きだから、めっちゃ興奮してたよ。子猫なんでしょ? いいなあ、あとで私も見たい」
「わかりました」
隼人がうなずくと、モナは苦笑を浮かべた。
「同期なんだし、敬語じゃなくていいって。もっと、フランクにいこうよ」
モナは手振りをまじえて、そう提案する。
「いや、でも……」
モナは高校卒業後にしばらく海外を放浪してから日本の大学に入ったらしく、隼人よりも年上なのだ。しかも、目鼻立ちのくっきりとした美人で、最先端のファッションを身につけ、自信に満ちあふれ、いかにも有能そうなオーラを出しているので、どうにも気後れして、隼人は改まった口調になるのであった。
「藍原さんとは、よく話すんですか?」
「まあ、同期だからね。いっしょにランチ行ったりするし。あと、国語科の霧越さんが、藍ちゃんを飲みに連れて行くとき、私も誘ってくれるんだよね」
「そうなんですか」
陽花とのやりとりのあと、たまには同期と話したいような気がしていたのに、誘われていなかったことが判明して、隼人はひそかにショックを受けた。
「瀬口くんも参加したかった?」
隼人の表情を読み取ったのか、モナはそう問いかけてくる。
「まあ、いちおう、俺も同期ですし」
「そっか。瀬口くんって、いまどきの若者っぽいというか、上司と飲みに行ったりするのは好きじゃなさそうだし、迷惑がられるかもと思って、霧越さんは誘うの遠慮したみたいだけど」
「え、マジですか」
国語科の霧越とは何度か話したことがあるが、そんな印象を持たれていたとは思わなった。霧越はごま塩頭で、文豪のような丸眼鏡をかけ、どことなく茶目っ気を感じさせる男性で、言葉を交わすのは楽しかった。
隼人としては、国語科の担当になりたかったということもあり、霧越に対しては愛想よくしていたつもりだったが……。
「正直、うらやましいですよ。こっちは上司と飲んだりするのとかないんで」
上司と飲みに行くのは面倒だという気持ちはあるものの、自分だけがその機会を逃していると考えると、損しているような気もしてくる。
「家庭科の雪吹さんは、そういうの好きじゃなさそうだもんね。英語科も家庭持ちが多いから、ほかのひとたちとはあんまり飲みに行くことはないんだけど。っていうか、霧越さんがお酒好きで、面倒見がよすぎるんだよ」
「そんな霧越さんに、声をかけてもらえなかったとは……」
やはり、新人のうち、自分だけが取り残されているようだ。
「もしかしたらだけど、雪吹さんの手前、誘いにくいっていうのもあるかも」
声をひそめて、モナは言葉をつづける。
「うちの編集長と霧越さんはツーカーの仲らしいから、英語科の新人もまとめて面倒を見てやるって感じみたいなのね。でも、雪吹さんと霧越さんって、そういうんじゃなさそうだし」
モナの考えを聞き、隼人は腑に落ちるところがあった。
「言われてみると、そういうの、ありそうですね」
これまでの言動から見るに、雪吹は体面というものに重きを置いていそうだ。
べつの教科の上司と仲良くすることは、あまり歓迎しないだろう。
「セクショナリズムってやつだよね」
モナは肩をすくめて、両手をあげ、やれやれというジェスチャーをした。
「うーん、面倒くせえ」
打ち解けた気持ちになり、隼人は砕けた口調で返す。
「モナさんって、すごいっすね。職場の人間関係、すでにそこまでつかんでいるなんて」
思ったことを口に出したところ、自然にモナのことを名前で呼んでいた。
「日本で働く以上、そういうところには気をつけるよう、親からアドバイスされたから」
モナの話を聞いて、納得する自分がいる一方で、隼人は反発も感じていた。
「でも、それって、バカバカしいよな」
つい、そんな言葉が口から出る。
「そもそも、会社って、いい仕事をするためのところで、そのためには教科の垣根を越えて協力したほうが、絶対にいいと思うんだけど」
すると、モナは面白がるように笑った。
「瀬口くん、熱いね。もっと、クールなタイプかと思っていた。そんなに真剣に仕事と向き合っているなんて意外だよ」
「いや、なんで、そんなふうに思われてるのか……」
自分はやる気に燃えているつもりなのに、周囲からの評価はちがっているようで、隼人は困惑した。
「だって、教科書作りにあんまり興味ないみたいだったし」
モナの言葉を聞き、隼人はあわてて否定する。
「そんなことないっすよ!」
しかし、隼人が興味を持っているのは編集者という職業であり、言われてみれば、教科書というものへの思い入れが強いわけではない。
しっかりと仕事をして、編集者としてのスキルを身につけて……。そのあとは転職しようと考えているのだ。
もしかしたら、勘の鋭い相手にはそれがわかってしまうのかもしれない。
「瀬口くんの場合、教科書作りっていうか、教育に興味がなさそうなんだよね」
モナは首を傾げて、考えつつ、言葉をつづける。
「ほら、うちの会社って、教育学部出身だったり、教職経験者だったり、教育畑の人間が多いじゃない? 私もいちおう、カンボジアで学校作りをしてたし。そういう、子供への思いとか、教育にかける熱意が感じられないから、クールな印象だったのかも」
モナの言葉は、まさに図星を指していた。
子供への思い。
教育にかける熱意。
そういえば、先日の編集会議でも編集委員の先生方の発言からそれらを強く感じたが、自分の内側にあるかというと、隼人は自信がなかった。
「いや、でも……」
否定しようとして、言葉のつづきが思いつかない。
うつむいて、改めて考えてみる。
雪吹にどうも嫌われているような気がするのも、そのあたりに原因があるのではないか……。
そう思い至ると、隼人は顔をあげて、モナを見た。
「あのさ、モナさんを人間関係マスターと見込んで、教えてもらいたいんだけど」
「いやいや、人間関係マスターって、どこから出てきたのよ。そんなすごいものになった覚えは……」
モナは苦笑しているが、隼人は気にせずに話をつづける。
「俺、いま、家庭科でうまくやれてないっていうか、編集長に嫌われてるみたいなところがあって、それを国語科の霧越さんに相談するのって、どう思います? そんなことしたら、ますます、雪吹さんにムカつかれるっていうか、気まずくなりそうかとも思うんだけど、俺としては霧越さんといろいろ話してみたいっていう気持ちもあって……」
どうしたら、編集長に自分を認めてもらえるのか。
いまのままでは、企画を通すどころか、聞く耳さえ持ってもらえない。
雪吹の「攻略法」がさっぱりわからず、途方に暮れていた隼人は、ほかのひとの意見を聞くことで突破口が見えるのではないかと考えた。
「難しいところだね」
モナは腕を組み、考えながら答える。
「雪吹さんのことはわかんないけど、霧越さんは喜んで相談に乗ってくれるとは思うよ。とりあえず、今度、みんなで飲むときに参加する?」
「はい、ぜひぜひ」
「じゃあ、そういう機会があったら、瀬口くんにも声かけるね」
そして、長机や椅子のセッティングを終え、ふたりは会議室をあとにした。
***
その後、飲み会の誘いがあるかと思いきや、モナからはなんの連絡もないまま、日々は過ぎていった。
あの流果という少年も、いつでも遊びに来ていいと伝えたはずなのに、一向に訪れる気配はない。
弱々しい子猫だったネコ太郎は、すくすくと成長して、いまではもうすっかり元気いっぱいで、やんちゃぶりを発揮していた。
「待て、ネコ太郎! カーテンに登っちゃダメだって言ってるだろう!」
休日の昼下がり、隼人は漫画を読みながらのんびり過ごそうと思っていたのだが、カーテンのほうから、びりっと不穏な音がしたので、あわてて立ちあがる。
ネコ太郎はレースのカーテンに登ろうとするのだが、最近は体重が増えてきたので、布地がその重さに耐えきれず、爪をひっかけたところからびりびりと破れ、無残な様子となっていた。
隼人がスマホで「猫 カーテン 破る」と検索してみると、さまざまな対処法が書かれていた。カーテンの近くにキャットタワーを設置することで、猫の興味をそちらに向けることができる場合もあるようだ。しかし、決して広くはない部屋なのに、キャットタワーなど置けば、かなりの圧迫感となるだろう。
「この本棚をどうにかできないものか……」
猫は高いところが好きであり、本棚の上に登っている写真も多かった。
壁一面に設置された本棚には、お気に入りのコミックスがみっしりと収められている。自宅で暮らしていたころには、本棚がこの倍ほどあって友人に「おまえの部屋、漫画喫茶みたいだな」と言われたものだ。その全部はさすがに持ってくることができず、引っ越しのときに厳選したつもりだったが、それでも本棚はすでにいっぱいで隙間がない。
「よし、ネコ太郎、ここをおまえの専用スペースにしてやるから」
本棚の一番上から本を取り出すと、猫一匹が入れるほどの空きスペースを作った。そして、服を入れているキャスター付きのチェストを窓際に持って来て、そのとなりには段ボール箱を置き、本棚の上の部分へ登るためのステップとする。
「どうだ? ここなら、登っていいぞ」
そう言いつつ、隼人がふわふわした羽根のついたおもちゃを手に取って、本棚のほうに誘導すると、ネコ太郎は軽やかな身のこなしで、飛びかかってきた。段ボール箱、チェスト、本棚と、階段を登るように飛び移ると、思惑どおり、本棚の一角が気に入ったようで、その場で前足をそろえて座り、こちらを見下ろしていた。
そのすがたを一枚、写真に収め、陽花へと送る。
〈かわいい~〉
陽花からはすぐに返事があった。
〈早く、なでなでしたいなあ〉
陽花もすっかり、ネコ太郎に夢中だ。
ここ最近のふたりのやりとりは、ほとんどネコ太郎の写真や賛辞で占められていた。
〈ごめんな。そっち、行けなくて〉
本当なら隼人が近いうちに土日の休みを使って東京に帰る予定だったのだ。それが、猫を飼ったことにより、家を空けられなくなった。まだペットホテルに預けるのも心配なので、しばらくは旅行をするのも無理そうである。
隼人が謝ると、陽花はユーモラスなイラストといっしょに返事を送ってきた。
〈気にしないで〉
〈大阪、楽しみ!〉
わくわくしている陽花の顔が目に浮かぶようだ。
〈どこ行きたい? USJとか?〉
〈USJもいつかは行ってみたいけど、まずは隼人くんの部屋で、ネコ太郎とゆっくり遊びたいな〉
〈それまでに、部屋、片づけておかないと〉
隼人はそんなメッセージを送り、自分の部屋をぐるりと見まわした。
溜まっていたゴミ袋は前回のゴミの日にまとめて捨てたので、少しはすっきりしたが、ネコ太郎が使うためのトイレや砂が増えたので、散らかっている印象は否めない。
陽花とのやりとりを終えると、隼人はさっそく掃除をはじめた。それから、シンクに山積みになっていた食器類を洗い、空っぽの冷蔵庫に食品を補充するため、買い物へと出かけた。
隼人の住んでいるマンションは近くに商店街があり、野菜でも肉でも日用品でも、そこで調達することができた。精肉店では店頭で揚げたてのコロッケを販売しており、いつも行列ができている。
小腹が空いていることに気づき、隼人はまず、コロッケを買うことにした。コロッケをかじりつつ、商店街を歩く。
そこで、あの少年を見つけた。
「流果くん!」
呼びかけると、流果は少し戸惑ったものの、すぐに隼人のことを思い出したようだった。
「あのときの……猫の……」
「会えてよかった。猫、すっかり元気になったぞ。写真、見るか?」
隼人はスマホを取り出して、写真を見せようとしたが、ふと思い直す。
「いや、それより、直接、会うほうがいいか。このあとって、予定ある?」
「猫、見に行きたい!」
流果は振り返ると、近くにいた女性に声をかけた。
「すみれちゃん。このひとのところに、遊びに行っていい?」
すみれと呼ばれたのは淡い色の花柄のワンピースを着た丸顔のおっとりとした女性で、親しげな様子から、隼人は「お姉さんだろうか」と思った。
「いいけど……」
すみれから「どちらさん?」と問いかけるようなまなざしを向けられ、隼人は自己紹介をする。
「俺、瀬口隼人と言います。そこのマンションに住んでいて、流果くんが拾った猫をうちで育てることになって……」
事情を説明する横で、流果が手に持っていたエコバッグをすみれに渡す。
「これ、持って帰っといて。刺身あるから、冷蔵庫に入れるの、忘れたらあかんで」
「はいはい、わかった。ご迷惑にならんようにね」
すみれはそう言うと、隼人のほうを見て、ぺこりと頭をさげた。
「では、息子をよろしくお願いします」
それを聞いて、隼人は「えっ?」と内心で驚いたものの、口には出さなかった。
すみれは若々しい印象で、自分よりもそんなに年齢が上には見えず、流果の母親というには違和感があったのだ。しかし、隼人に女性の年齢を正確に見極めることなどできるわけもない。また、後妻や継母という可能性にも思い至り、あまり立ち入るのも失礼かもしれない気がして、深く考えないようにした。
「あ、ごめん、流果くん、ちょっと買い物してもいいかな」
隼人はそう声をかけて、商店街の青果店に向かった。
店頭に並んだ野菜や果物を見て、かごに盛られたバナナを買う。流果はこの店の常連らしく、隼人が買い物をしているあいだ、店主と親しげに言葉を交わしていた。
「兄ちゃん、リンゴ、食べるか? 流果くんの知り合いなんやったら、これもおまけしといたるわ」
店主はそう言って、バナナといっしょにリンゴもひとつ、袋に入れてくれた。
「どうも、ありがとうございます」
商店街を歩きながら、隼人は流果に話しかける。
「流果くんのおかげで得したな。いつも、あの店におつかいに行ってるのか?」
「おつかいっていうか、買い物するの、僕の役目やから」
「そうなのか。小学生なのに、えらいな。俺なんか、ひとり暮らしするまでほとんど家の手伝いなんかしなかったけど」
そんな話をしながら、マンションに戻った。
部屋に入ると、流果は本棚を見て、声を弾ませた。
「わあ、すごい、漫画がいっぱいだ」
ずらりと並んだ背表紙を見て、その視線がネコ太郎のところで止まる。
「で、ここがネコ太郎の特等席だ」
本棚の空きスペースで、ネコ太郎はまるくなっていたが、流果の存在に気づいて、警戒するように身を起こした。
「ネコ太郎っていう名前になったん?」
隼人に訊ねているというより、ネコ太郎に話しかけるように言って、流果はそちらに手を伸ばす。
「獣医さんのところで、急いで考えた名前だから、我ながらセンスないとは思うんだけど」
隼人はそんなふうに言い訳するが、流果の意識はすっかりネコ太郎に向けられ、聞いてもいないようだ。
「抱っこできる? 嫌がらへんかな?」
おそるおそるという様子で流果がつかまえようとすると、ネコ太郎は立ちあがり、その両手をすり抜けるようにして、ぴょんっと本棚から飛び降りた。
「ああ、やっぱ、無理か……」
しょんぼりと肩を落として、流果はつぶやく。
「ねこじゃらし、あるぞ」
隼人はそう言って、羽根のついたおもちゃを渡す。
流果がそれを揺らすと、ネコ太郎はつぶらな瞳をらんらんと輝かせて、飛びかかってきた。
「めっちゃ可愛い~。すっかり元気になって、よかったなあ~」
流果はうれしそうにネコ太郎と遊んでいる。
その無邪気な様子を見ながら、隼人は先日のモナとの会話を思い出した。
……子供への思いとか、教育にかける熱意が感じられないから……。
その鋭い指摘により、自分に欠けているものを自覚させられたのだ。
思えば、子供というものは、未知の存在だ。
隼人には弟がいるが、ひとつしか年齢がちがわない上、生意気な態度で隼人のことを兄とも思っていないようなので、同級生と変わらない感覚で過ごしてきた。
自分が成長するにしたがって、まわりには子供と呼ばれる存在がいなくなっていった。改めて考えてみると、小学生の子がどんな気持ちでいるのか、よくわからない。
教科書を使うのは子供である。
ならば、子供と接することで、気づきがあるかもしれない。
「流果くんって、学校の勉強だと、なんの教科が好きなんだ?」
そんな質問をしてみると、流果は顔をあげたあと、困ったような表情をした。
なにか言おうとしたが、結局、無言のまま、うつむいた。
「どうした?」
引っかかりを感じて、隼人は訊ねる。
流果はうつむいたまま、ネコ太郎のほうを見ながら、小声で言った。
「僕、学校、行ってへんから」
思いがけない言葉に、隼人は問い返す。
「えっ、なんで?」
流果は素っ気ない口調で答えた。
「行きたくないから」
そして、話題を変えるように、本棚のほうに目を向けた。
「ここにある漫画、読んでもいい?」
「おう、いいぞ」
「やった!」
喜びの声をあげて、流果は本棚に手を伸ばす。
学校に行っていない子か……。
わくわくと目を輝かせて漫画を読み耽っている少年のすがたを、隼人は複雑な心境で見つめていた。
☆☆☆
雪吹京香は皆勤賞をもらう子供だった。
勉強にしろ、運動にしろ、一番を取れるほどの能力はなく、音楽や美術の方面にも秀でているものはなく、なにが得意というわけではなかったが、小中高と毎日休まず、学校に通っていた。
家政学部に進むことに決めたのは、そこが四年制の女子大だったからだ。小学生のころには乱暴な男子に突き飛ばされ、中学に入ってからは精神年齢の低い男子から容姿について侮蔑的な言葉を投げつけられるなど、男子がいると碌な目に遭わず、苦手意識があり、大学や職場は女性の多いところを選ぼうと考えたのだ。
雪吹の人生設計としては、在学中に教員免許を取得して、卒業後は私立の女子校で家庭科の先生になり、今後はなるだけ男性と関わらずに過ごすつもりだった。しかし、大学での勉強が楽しくて、もっと学びたいと大学院に進み、研究をつづけていたところ、教授に薦められ、大大阪出版に就職することになったのだった。
これまでに学んだことを活かして、教科書を作るという仕事は、とてもやりがいがあった。
しかし……。
雪吹にとって最大の懸念事項となっているのは、部下の指導である。
これまで家庭分野に配属された新入社員はみんな女性だったのだが、はじめて男性の部下を持つことになった。
初っ端から遅刻をするし、自分が担当する教科への興味も持っていないみたいだし、とんでもない新人だと思っていたけれど、まさか職場に子猫を連れてくるとは……。
雪吹は部屋の掃除をしながら、先日の会社での出来事を思い浮かべて、心のなかで愚痴をこぼす。
自分が入社したてのころと比べると、あの新入社員の言動は信じられないことばかりだ。
雪吹は雑巾で床を隅々まで磨きあげ、うさぎにかじられて困るものを一切なくしてから、ケージを開けた。
うさぎのピーターは、鼻をひくひくさせながら、動いては止まり、顔をあげ、こちらを見て、また動いては止まりを繰り返す。
その様子を眺めながら、ぼーっとするのが、雪吹にとって充実した休みの日の過ごし方であり、仕事をしていくために欠かせないリフレッシュの時間だ。
相談しようにも、頼れるひともいないし……。
うさぎを見つめながら、雪吹は心のなかでつぶやく。
新人のころは、尊敬できる先輩たちがいた。当時の編集長はとても厳しい男性で、落ちこむことも多い日々だったが、優しい女性の先輩たちのフォローや励ましのおかげで、どうにか乗り越えることができた。そんな先輩たちも、ひとり、またひとりと辞めて、いまではだれも残っていない。退職の理由については、大っぴらには口に出さないものの、ひっそりと打ち明けてくれるひともいた。夫の転勤についていくため、不妊治療のため、親の介護のため……。そんな家庭の事情を聞くたびに、どうして女性ばかりが仕事を諦めなければならないのか、と悔しい思いを抱いたものだ。
雪吹は家庭を持つことはなく、仕事一筋で生きていたところ、前を進んでいた先輩たちはいなくなっており、編集長を任せられることになったのだ。
編集長なんて器じゃないのに……。
休みの日には仕事のことを考えないようにしたほうがいいのはわかってはいるが、会社のことが次々に思い浮かんで、心のなかでのひとり言が止まらない。
曲がりなりにも編集長として最初の検定を乗り越えることができたのは、まわりの協力のおかげだった。
編集長になったころは、信頼できる部下がいた。けれど、部下たちもまた、気づけばいなくなっていた。異動になったひともいるが、辞めてしまったひともいる。新人のころから面倒を見て、仕事だけでなくプライベートでも仲良くしていた相手から、突然、退職の意思を告げられたときには、ショックのあまり、言葉を失った。退職の理由は、一身上の都合ということで、くわしくは教えてもらえなかった。こちらは親身になってアドバイスをしてきたつもりだったが、相手にしてみれば腹を割って話すような関係ではなかったのだろう。どうにか引き留めようとしたが、翻意させることはできなかった。
その穴を埋めるべく、雑誌編集の経験がある女性が中途採用されたが、彼女の場合は自分のやり方に固執して、編集委員や取材先のひとに失礼な態度を取っていたので、辞めると言われたときには、ほっとしたものだ。
うさぎが牧草をかじる音を聞きながら、雪吹はぼんやりと物思いにふける。
ほかの部署から人員を割いてもらえず、まったく知識も経験もない新人がただひとり、自分の下につくという事態になったのは、指導力不足のせいだろうか。
淡路の采配について、思うところはあるものの、本人に訊ねることなどできるわけもなく、こうして悶々と悩んでいるだけだ。
もしかしたら、家庭分野を切り捨てるつもりなのかもしれない……。
そんな考えがよぎって、雪吹は打ち消すように頭を左右に振った。
さすがに、そんなことは……。
淡路からは実務はできるだけ編集プロダクションに任せて、今年度はとにかく新人育成に注力するように言われている。
あの新人にはかなりの期待を寄せているようだ。
淡路が言うには「新しい風を吹かせたい」らしいが……。
どうにも淡路はその場のノリで調子のいいことを言うようなところがあり、雪吹は対応に困ることが多い。
はたして、淡路の真意はどこにあるのか……。
休日だというのに、雪吹はもやもやとした気持ちを抱えて、会社のことばかり考えていた。
藤野恵美(ふじの・めぐみ)
1978年大阪府生まれ。2003年、『ねこまた妖怪伝』で第2回ジュニア冒険小説大賞を受賞し、翌年デビュー。著書に、13年、啓文堂大賞(文庫部門)を受賞した『ハルさん』のほか、『初恋料理教室』『わたしの恋人』『ぼくの嘘』『ふたりの文化祭』『ショコラティエ』『淀川八景』『しあわせなハリネズミ』『涙をなくした君に』『きみの傷跡』などがある。