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第4回

 

 部屋に入ると、流果(るか)はあきれた口調で言った。

「うわっ、また、めっちゃ、散らかってるやん!」

 先週末に片づけをしたはずなのに、隼人(はやと)の部屋はまた服が脱ぎ散らかされ、本や書類があちこちに広がり、シンクには使った食器が放置され、惨憺(さんたん)たるありさまとなっている。

「なんで、一週間で、こんなことになるん? まあ、ゴミだけはちゃんと捨ててるみたいやから、まえに比べたら、まだマシかもしれへんけど」

 ぶつぶつ言いながら、流果は腕まくりをして、食器を洗いはじめた。

「いや、仕事が忙しくてさ……」

 我ながら言い訳がましいと思いつつ、隼人は流果のとなりに立ち、洗い終わった食器を布巾で拭いていく。

 商店街で出会ったあの日以降、流果は毎週のように隼人の部屋を訪れるようになった。ネコ太郎と遊び、漫画を読むことが目的であるが、毎回、隼人の部屋の状態を見るに見かねて、片づけを手伝ってくれるのである。

「だいたい、隼人くん、ひとり暮らしやのに、食器、多すぎとちゃう? 使っては置き、使っては置きで、いっぱい置きっぱなしにするから、シンクがこんなことになんねんで」

 最初のころは敬語まじりで話していた流果も、最近ではすっかり打ち解けて、口調が砕けている。それどころか、流果に家のことをなにかとやってもらっているうち、隼人は年上としての威厳をなくし、いまや「くん付け」で呼ばれている始末だ。

「たしかに、食器、多いかもな」

 隼人はうなずき、引っ越しのための荷造りをしていたときのことを思い出す。

「実家から出るときに、あれもこれもって感じで、親から使ってない食器を押しつけられたんだよな。よく考えたら、ひとり暮らしなのに四個セットの蕎麦(そば)猪口(ちょこ)とか、絶対にオーバースペックだろうって気がするし」

 おそらく贈り物でいただいたのであろう新品の食器が実家には大量にしまいこまれており、母親はここぞとばかりに引っ張り出してきて、段ボール箱に詰めこんだのだった。

「そんで、牛乳を蕎麦猪口で飲んでるんやろ? コップあるねんから、洗って、使ったらええやん」

 流果の指摘は至極もっともであるが、隼人が気づくと、部屋は散らかっているのだった。

「洗うのが面倒で、ついつい……」

 実家にいたころは、使った食器をそのままにしておいても、いつの間にか、きれいになって、元の場所に戻っていた。もちろん、それは自然現象でもなんでもなく、母親が片づけてくれていたのではあるが……。そのころの感覚がどうもまだ抜けていないようで、いろいろと置きっぱなしにしていた結果、小学生男子から説教されることになっている。

 キッチンを片づけたあと、流果は浴室の扉を開けて、そちらを確認した。

「ああ、やっぱり! 風呂も、ちゃんと洗ってへんやろ? ピンクのヌメヌメ、できてるやんか!」

 流果は頭を抱えて叫ぶと、腕まくりに加えて、靴下も脱ぎ、風呂掃除用の洗剤とスポンジを持って、突撃していく。

「風呂掃除は今日しようと思ってたんだって。いや、ほんとに。ちょうど、これから掃除しようと思っていたところに、流果くんが来たから……」

 隼人は言うが、シャワーの音にかき消されて、流果には届いていないようだ。

 風呂のほうは流果に任せるとして、隼人は部屋に掃除機をかけることにした。まずは散らばっていた服を集めて、洗濯機に入れ、床を見えるような状態にしてから、掃除機を用意する。

 掃除機のコンセントを入れると、ネコ太郎が近づいてきた。

 ネコ太郎はシャーッと威嚇するような声をあげ、掃除機に猫パンチを繰り出す。

 どうもネコ太郎は掃除機に敵対意識を持っているらしく、大きな音に怯えるどころか、打ち倒そうとしてくるのだ。隼人が掃除をサボりがちなのは、面倒だという理由が大きいが、ネコ太郎が嫌がるから気乗りしないところもあった。

「落ちつけ、ネコ太郎。掃除機と戦っても、勝ち目はないぞ」

 隼人はそう言い聞かせながら、ネコ太郎を抱きあげて、キャリーケースに入れる。

「そこでおとなしくしろ。すぐ終わるから」

 ネコ太郎は不満そうに抗議の鳴き声をあげているが、掃除機に轢かれる危険性があるので自由に行動させるわけにはいかない。

 ちょうど掃除機をかけ終わったところに、流果もこちらへと戻ってきた。

 ネコ太郎をキャリーケースから出すと、隼人は冷蔵庫を開けた。

「まあ、どうぞ、一杯」

 風呂掃除を終えた流果に、オレンジジュースを差し出す。

「いやあ、助かったよ。ありがとう。さすが、家事万能少年だ」

「べつに、万能ちゃうし」

 流果はオレンジジュースの紙パックにストローをさしながら、あきれたような声で言う。

「隼人くんができなすぎやろ」

 ネコ太郎が流果の足元にすり寄ってくる。流果は床に座ると、ジュースを飲みながら、ネコ太郎を撫でた。

 隼人も自分の分の飲み物を用意して、流果の近くに座る。

「でも、ほんと、えらいよな、流果くんは。毎日、商店街で買い物をして、ご飯を作って、洗い物をして、掃除もして……。小学生だっていうのに、こんなにできるのって、ほんと、すごいと思うよ」

 おだてるつもりはなく、本心から隼人はそう思っているのだが、流果は複雑な表情を浮かべた。

「まあ、学校に行ってへん分、それくらいは……」

 聞いたところによると、流果はいわゆる不登校という状態で、小学校には通っておらず、その代わりというわけではないが、家事を一手に引き受けているらしい。

 そのことに対して、隼人には心配だという気持ちがないわけではなかった。

 しかし、多様性の時代であり、それもひとつの生き方なのかもしれない、とも思う。

「フリースクールみたいなところで、勉強はしてるんだろ?」

「いちおうは。週に二回くらいやけど。行ったときには先生が勉強を教えてくれる」

「そこって、どんな教科書、使ってるんだ?」

 職業柄、隼人は問いかけずにはいられない。

「教科書はもとの小学校のやつがあるから」

 そう答えて、流果は言葉をつづけた。

「でも、あんまり使わへんかも。プリントやったり、発表やったり、町探検マップ作ったりとかで、活動が多くて、教科書を見ることはほとんどないし」

「そうなのか」

 教科書作りの仕事のために、リアルな子供と接することで、なにかいいアイディアが浮かぶかもという考えがあったのだが、流果はあまり一般的な小学生とは言えないようだ。

 もっとも、ならば「ふつうの子供」と言えるような「平均的な小学生」が実際に存在しているのかはわからないが……。

「そういうところの授業も楽しそうだよな、自由な感じで」

 隼人が言うと、流果はうつむいて答える。

「うん、まあ、楽しいって言えば、楽しいんやけど……」

 流果はネコ太郎の背中を撫でながら、そう言ったあと、言葉を途切れさせた。

 自分の気持ちについて、どう説明したらいいのか、わからないようだ。

 流果は黙りこんで、ネコ太郎を見つめている。

 会話を切り上げてしまいたいという拒絶の意思は感じられないが、流果のほうからはなにも言ってこない。

「そもそも、なんで、学校に行かなくなったんだ?」

 そんな質問を口にして、隼人はあわてて付け足す。

「あっ、いや、話したくないんだったら、べつに無理には訊かないが」

 隼人の両親は厳しく、病気でもないのに学校を休むなんて、子供のころには考えもできなかった。学校に行くのは当然のことだと思っていたので、不登校という状況がどうにも想像しにくい。

「もともと、学校がキライやったから」

 ぽつりとつぶやいて、流果は沈んだ口調でつづけた。

「給食で牛乳と白ごはんをいっしょに食べるとか無理やし、プール寒すぎるし、意地悪なこと言うやつおるし……。でも、おばあちゃんがおったときは、それでも我慢して、学校に行っててん」

「おばあちゃん?」

 隼人は聞き返すと、流果は顔をあげ、少しだけ明るい声を出した。

「うち、お母さんがふたりとも働いてるから、ずっと、おばあちゃんが家におって、僕の面倒も見てくれてたから。保育園の送り迎えとかも、おばあちゃんがしてくれて、料理もめっちゃうまくて、生きてるときは、毎日、ご飯作ってくれてたし、掃除とかもおばあちゃんの手伝いをして、いっしょにやってたから、いま、ひとりでもできるねん」

 お母さんがふたりとも……。

 生きてるときは……。

 流果の言葉のなかには、引っかかるところがいくつもあり、隼人は理解が追いつかない。

「あのさ、お母さんがふたりって、つまり、どういうことなんだ?」

「そのまんまやけど。うちにはお父さんがおらん代わりに、お母さんがふたりおる」

「どっちかが、本当のお母さんってことか?」

 その質問に、流果は少しむっとしたような声で返した。

「それ、どういう意味? 僕にとっては、どっちも、ほんまのお母さんやし」

「あ、ごめん」

 どうも深入りしてはいけない部分だったらしいので、隼人はすぐさま謝った。

 現在の医療技術では、女性同士で子供を作ることはできないはずだ。おそらく、流果と血がつながっているのは片方だけなのだろうが、それは重要なことではないのかもしれない。

 事情はわからないなりに、隼人はそう推測した。

「でも、まあ、うちの場合、すみれちゃんも、(さき)ちゃんも、どっちもあんまりお母さんっぽくないんやけど」

 すみれちゃんというのは、以前、商店街で出会ったときに流果といっしょにいた女性だろう。一度だけ見かけたことのある女性を思い出して、隼人はそう考える。

「でも、うちにとってはお母さんがふたりおるのが、ふつうやから、そういうもんやと思っててん。でも、だんだん、ほかの家のことも知って、いろいろ言われて、ふつうとはちがうってことがわかってきて……。学校では、ふつうとちがうと、目立つから。変な家族とか、いちゃもんつけてくるやつ、おったりするねん。そんなん、うちの家の話やねんから、そいつには関係ないやん? べつに、なんも迷惑かけてへんのに、いちいち、悪口を聞こえるように言ってくるやつ、ほんま、ムカつく」

 話し出すと、止まらなくなったのか、流果は一気に語る。

「おばあちゃんは、そんなん気にせえへんでいいって言ってくれて、僕も、おばあちゃんがおったときは、べつに平気やった。おばあちゃんは体にどこも悪いとこはなくて、すごく元気で、それやのに……」

 流果はまたうつむき、その声がだんだんと暗くなっていく。

「学校から帰って、ただいまーってドア開けたら、玄関でおばあちゃんが倒れてるのが見えてん。どうしようどうしようって、めっちゃ焦って、声かけても全然動かへんし、ほんま、こわかった。すみれちゃんに電話して、救急車を呼ぶことになって、そんで、おばあちゃんは病院に運ばれたんやけど、手遅れで……」

 ネコ太郎はだらりと横たわり、流果に撫でられ、目を細めている。

「そんなことがあったのか。大変だったな」

 なんと声をかけていいかわからず、隼人はそんなありきたりのことしか言えなかった。

「そのあと、何回も考えた。もし、僕が学校に行かんと、家におったら、おばあちゃんが倒れたとき、すぐに気づいて、助けることができたんかな、って。もし、悪口を言ってきたやつなんか無視して、もっと早くに学校から帰ってきてたら、おばあちゃんは助かったかもしれへん、とか……。そういうことを考えているうちに、教室におるのがつらくて、学校に行くのがイヤになって、家から出たくなくなってん」

「おばあさんが、その、亡くなったあとも、しばらくは学校に行ってたのか?」

 話の内容を頭のなかで整理しながら、隼人は質問をする。

「うん。そんなんで休んだら、あかんと思って、がんばって行った。ちゃんと学校に行かんと、天国のおばあちゃんが悲しむと思ったし。でも、すごくおなか痛くなって、体もしんどくて……。そしたら、お母さんたちが、べつに行きたくないんやったら行かんでもいいでって言ってくれたから、いまは休めることになった」

「そっか」

 よかったな、と言いかけて、隼人は口をつぐんだ。

 はたして、よかったのだろうか。

 つらい思いをして無理に学校に行かなくていいという点ではよかったと言えるかもしれないが、流果の経験したことやいまの状況を考えると、適切ではないようにも思える。

「おばあちゃんが死んだから学校に行きたくないなんて言うても、話がつながれへんっていうのは、自分でもわかってるねん。先生に話しても、意味わからんって思われるだけやし」

「まあ、学校の先生とかにも、どうしようもないことだもんな」

「おばあちゃんがおったときは、学校でイヤなこと言われても、耐えれた。学校でめっちゃムカつくことあっても、家に帰って、おばあちゃんに話したら、すっきりするっていうか、おばあちゃんがおってくれるだけで、がんばれたから」

 流果の心情を想像して、隼人はうなずく。

「その気持ちは、ちょっと、わかる気もする」

 ネコ太郎を眺めながら、隼人が言うと、流果は顔をあげた。

「ほんまに? わかってくれる?」

 その声には、どことなく、うれしそうな響きがあった。

「俺にとっては、いま、ネコ太郎がそんな感じだと思う。会社でムカつくことあったときとか、家に帰って、ネコ太郎がいると癒されるし。ネコ太郎がいると思うだけで、力になるみたいなところがあるっていうか」

 自分の身に置き換えて、隼人はそう考えた。

「猫とおばあさんをおなじにするのは失礼かもしれないが、そういう心の支えみたいなのがあるからこそ、ほかの場所でがんばれるっていう気持ちはわかるよ、俺も」

 それを流果は失ってしまったのだ。

 学校から帰って、ドアを開けたときに、おばあさんが倒れているのを見て……。

 そのときの流果の気持ちを考えると、胸が潰れそうだ。

 流果は寝そべっているネコ太郎を撫でている。

 隼人は手を伸ばして、そんな流果の頭を撫でた。

「いつでも、ここに来ていいからな」

 そして、ふと思いつき、隼人は付け加える。

「そうだ。勉強、教えてやろうか?」

 なにしろ、部屋の本棚には(だい)大阪(おおさか)出版で作っている小学校の教科書が各種そろっているのだ。

「部屋の片づけを手伝ってもらったお礼っていうか」

 よい提案だと隼人は思ったのだが、流果の反応は芳しくなかった。

「そんなん、せっかく遊びに来てるのに、勉強なんかしたくないし。それより、漫画、読みたい」

 流果は立ちあがり、本棚へと近づいていく。

「このあいだのつづき……。あっ、新刊、出てるやん」

 勝手知ったる様子で、本棚から漫画を取り出した。

 教科書より、漫画か……。

 隼人は軽く落胆しながらも、内心で「そりゃ、そうだよな」と思う。

 自分が子供のころを思い返しても、勉強の誘いではなく、漫画を選んだであろう。

 流果は漫画を手に取ったあと、壁に背をつけて座ると、顔をあげて、隼人のほうを見た。

「隼人くんも、会社でムカつくことってあるん?」

 屈託のない問いかけに、隼人は一瞬、返答につまる。

「えっ、いや、ムカつくっていうか、うまくいかないときは、悔しいし。自分の実力不足ってのは、わかってはいるんだが」

 雪吹(ゆぶき)のことが浮かんだが、さすがに小学生相手に上司の愚痴をこぼすわけにもいかず、隼人は苦笑いを浮かべた。

「大人になっても、いろいろ大変だよ」

 肩をすくめて、隼人は言う。

「やる気があっても、思いどおりにできないことは多いし。学校とちがって、いろんな年代のひとがいるから、人間関係も複雑なんだよな。でも、まあ、給料がもらえる分、会社のほうが学校よりまだマシかもな」

 流果の声は返ってこない。

 隼人の話にはすでに興味をなくしたようで、流果は漫画を広げて、夢中で読み耽っていた。

   ***



 鉛筆を削り、白い紙に、線を引いていく。

 教科書のページのうち、どこに、どんな大きさで、どのように文字やイラストや写真を配置するか。それを考えるのも、編集者の仕事なのである。

 大大阪出版ではいまでも鉛筆と紙を使う編集者が多く、隼人も伝統に従って、昔ながらの文房具を使い、手を動かしていた。

 あっ、しまった、ずれた……。

 線を引くのを失敗して、隼人は思わず、左手でショートカットキーを押そうとした。しかし、パソコンなら一瞬で「元に戻す」という操作ができるが、紙と鉛筆にはそういう機能はついていない。

 やっぱり、不便だよな。パソコン、使ったほうが手っ取り早いんじゃねえの、これ……。

 疑問を感じつつ、隼人は消しゴムを取り出して、失敗したところを丁寧に消していく。

 雪吹からは「前例どおり」にやるようにと命じられている。ただでさえ生意気な新人だと思われているようなのに、勝手にパソコンで作業をすれば、ますます不興を買うことになるだろう。

 そう考えて、隼人は反抗的な態度は取らず、素直に前例に倣い、手間ひまかけて、鉛筆で線を引くのだった。

 しかし、すべてを前例どおりにするのは、面白くない。以前の教科書のページを参考にしながら、隼人はレイアウトに工夫を加えることにした。

 レイアウトができあがったので、頃合いを見計らって、雪吹に見せに行く。

「いま、お時間よろしいでしょうか」

 最初のころは仕事中に話しかけるタイミングがわからなくて、声をかけるのも緊張したものだが、いまではすっかり慣れたものだ。

「地域の食材や郷土料理のところなんですけど、こういうレイアウトで考えてみたんですが……」

 隼人が工夫した点について、雪吹はすぐに気づいたようだった。

「これは?」

 まじまじと見つめて、その部分を指さす。

「子供って、教科書より漫画のほうが好きじゃないですか。それで、もっと子供の興味を引く工夫ができないかと思って、週刊誌の連載漫画を参考にして、あおり文をつけてみました」

 隼人がそう説明すると、雪吹はわずかに眉をひそめた。

「せっかくのアイディアだけど、却下です」

 手で押し返すようにして、雪吹は言った。

「ふつうに……。余計なことはしなくていいので、これまでとおなじような感じで、ふつうに進めてください」

 雪吹の冷ややかな口調にはいちいち傷ついたりしないようになったものの、ダメ出しされることには慣れることはできない。

 もっと学んで、早く成長して、つぎに行きたい。

 そう思っているのに、ずっと足止めされている気分だ。

 アイディアを否定され、隼人はわかりやすく肩を落とした。

 辞めよっかな……。

 そんな思いが頭をよぎる。

 アイディアを出しても、認められない。

 どんな意見や提案も、受け入れてはもらえない。

 自分がここにいる意味はあるのだろうか……。

 とぼとぼと自分の席に戻ると、隼人はスマホを開いて、ネコ太郎の写真を眺めた。

 スマホの画面では、まだ子猫でほわほわの毛をしていたころのネコ太郎が、こちらを見つめている。

 そのすがたに癒されて、落ちこんでいた気持ちはだんだんと浮上してきた。

 とりあえず、ネコ太郎のエサ代を稼がねばならんのだ。

 どうにか仕事へのモチベーションを絞り出して、隼人は顔をあげる。

 ふつうって、なんなんだよ! ふつうって!

 心のなかで叫んだあと、隼人はレイアウトの修正作業に入った。

 仕事を終えて、帰宅しようとしていたところ、モナから声をかけられた。

「あ、瀬口(せ ぐち)くん。まだ居た。よかった。これから飲みに行くところで」

 モナのうしろには、藍原(あいはら)(きり)(ごえ)のすがたもあった。

「霧越さん。いいんですか、俺も」

「もちろん、もちろん」

 向かったのは、会社のすぐ近くにある居酒屋であった。

 高架下にあり、のれんをくぐって、店内に入ると、カウンターの向こう側から、威勢のいい「まいど」という声が飛んでくる。壁にはお品書きの短冊が所狭しと並び、商売繁盛を願う福笹が飾られ、レジ横には阪神タイガースのユニホームを着た招き猫が置かれており、客の入りもよく、がやがやとしていた。

 まずはお通しとして鰻とキュウリの酢の物が出されて、それから各々好きなものを注文していく。

 霧越とモナが生ビールを頼んだので、隼人もおなじものを選ぶ。藍原はひとり、ウーロン茶を頼んでいた。

 飲み物が運ばれてきたので、それぞれグラスを掲げる。

「今日もよく働きました。お疲れー」

「お疲れ様でーす」

 乾杯をしたあと、霧越はビールをぐいと飲んで、しみじみと言う。

「いやあ、仕事終わりの一杯は格別だね」

 霧越は満足げに目を細めているが、実のところ、隼人はビールという飲み物があまり好きではなかった。アルコールを積極的に摂取したいという思いがなく、ビールも大人ぶるために苦いのを我慢して飲んでいるのだ。

「瀬口くんは、東京出身なんだよね。どう? 慣れた? こっちの暮らし」

 霧越の言葉に、隼人はうなずく。

「はい。大阪って、やっぱり、ひとがあったかいというか、商店街で買い物とかしても、ひととの距離が近いなあって感じます」

「かく言う僕も、北海道出身でね。縁あって、大阪に来て、いまじゃ、こっちでの暮らしのほうが長いくらいだ」

「そうだったんですか」

「その土地に馴染めるかどうかは、食べ物が大きいよね。食文化はどう? カルチャーショック、受けた?」

「あんまり外食しないんで、まだそんなに実感はないですが……。あ、でも、駅そばとか、出汁の色が薄くて、関西風はちがうんだなって思いました」

 職場の飲み会は業務の一環だと聞いたこともあるので、隼人は気を抜かず、受け答えをする。

「この店のおすすめは、これだから」

 運ばれてきた料理のうちのひとつを手に取り、霧越は隼人の前に置いた。

「どて焼き、食べたことある?」

「いえ、ないです」

「じゃあ、ぜひぜひ、食べて。ほんと、ここのどて焼きは絶品だから」

 どて焼きとは、牛すじ肉とこんにゃくを味噌やみりんで煮込んだ料理である。一口食べると、そのやわらかさに隼人は感動した。

「うわ、これ、おいしいっすね。ビールが欲しくなる味っていうか。とろとろに煮込まれていて、白ごはんと食べても合いそう」

 こってりとした甘辛い味わいに、トッピングされた青ネギの香りが爽やかで、あとを引くおいしさである。

「いいねえ、そういう反応。どて焼きのおいしさがわかるってことは、瀬口くんは大阪でも馴染んでやっていけそうだ。うん、安心したよ」

 霧越はうれしそうに目を細めて、ビールを飲み干す。そして、つぎは日本酒を注文していた。

「そういえば、まさにいま、日本各地の郷土料理のページを作ってるんです。食生活のところで、地域の食材とか、郷土料理を紹介するページがあるんですが、今日はそのレイアウトを考えていて……」

「へえ、大阪はなにが載ってるの?」

「箱寿司です。って言いながら、俺、箱寿司も、まだ食べたことないんですけど」

「なら、今度、連れて行ってあげようか。モナちゃんや藍原さんもどう?」

 霧越の提案に、モナは声を弾ませる。

「わあ、ぜひぜひ、行きたいです」

 乗り気な様子のモナに対して、藍原のテンションは低い。

「私は遠慮しておきます。生もの、苦手なので」

 上司の誘いをあっさりと断ったあと、藍原は隼人のほうを見た。

「ところで、瀬口さん。私、ぜひともお願いしたいと思っていたことがありまして」

 藍原に改まった口調で言われ、隼人は身構える。

「なんでしょうか」

 やや警戒した声で聞き返すと、藍原は真剣な顔つきで、重々しく口を開く。

「猫ちゃんの写真、見せてください」

 なにを頼まれるのかと思いきや、そんなことならお安い御用である。

 隼人はスマホを取り出して、ネコ太郎の写真を見せた。

「わあ、子猫、尊い……。肉球、たまらん……。なに、このポーズ、可愛すぎる……」

 藍原はスマホを手に取ると、ぶつぶつとひとり言をつぶやきながら、写真を堪能する。

 隼人はスマホが返却されるのをしばらく待っていたのだが、藍原の視線はネコ太郎の写真に釘付けのままで、一向に顔をあげようとしない。

「気にしないで。藍ちゃん、いつもこんな感じだから」

 隼人の困惑に気づいて、モナがフォローするように言った。

「仕事はできる子なんだけどね」

 霧越も苦笑まじりに言って、あたたかく見守るような視線を向けている。

「あの、具体的に、藍原さんって、どこがどういうふうに仕事ができる感じなのでしょうか」

 評価されるポイントを知りたい。

 そう思って、隼人は訊ねてみた。

 もっとも、「仕事()できる」と「仕事()できる」では、そこに込められているニュアンスがちがう気がしないでもないが……。

「物覚えがよくて、飲み込みが早い」

 霧越は指を折りつつ、挙げていく。

「文章を読む力と書く力が高い。マイペースだけど、常識がないわけじゃなく、礼儀正しくて、専門知識もあるから、著者の先生方とも臆せずやりとりができる。一度、聞いたことは忘れないし、指示したことを的確にこなしてくれて、ほんと、いつも助かるよ」

 本人を目の前にして、べた褒めである。

 直属の上司にこんなにも認められているなんて、うらやましい限りだ。

 そして、藍原がここまで高く評価されているのであれば、今後、自分が国語科に配属されることは望み薄だろうと思い、隼人は絶望的な気分になった。

「そんなふうに言ってもらえるなんて、すごいですね、藍原さん」

 自分のことが話題になっているというのに、藍原はスマホから顔をあげず、つぶやいた。

(いつ)()(げん)です」

 その言葉に、霧越が返す。

荘子(そう し)の『人間(じんかん)(せい)』だね。これ両喜は必ず溢美の言多く、両怒は必ず溢悪の言多し」

 なにかの引用らしいが、隼人にはさっぱりついていけない。

 モナのほうを見ると、彼女も軽く肩をすくめていたので、わかっていないのは自分だけではなく、ほっとした。

「褒め言葉が過ぎると謙遜しているんだよ」

 そう説明して、霧越は言葉をつづける。

「こちらは身びいきゆえの褒めすぎのつもりはなく、本心でそう思っているんだけど。それで、瀬口くん、きみは自分が仕事で評価されていないと感じているのかな?」

 眼鏡の奥から、霧越が見透かすようなまなざしを向けてくる。

 隼人はビールを一口飲むと、思いの丈をぶつけた。

「そうなんです。俺、雪吹さんに認めてもらえないというか、どんな提案をしても、ダメ出しばっかりで……」

 悪口にならないように気をつけながら、隼人はこれまでの雪吹とのやりとりを話す。

 自分の実力不足なのか、それとも理不尽な対応をされているのか、客観的な意見を知りたいと思ったのだ。

「自分なりに、いい仕事をしたいと思っているんですけど、いまの状況だと突破口が見えなくて。だから、ぜひ、霧越さんにアドバイスをもらいたいと思っていたんです」

「いい仕事か。難しい問題だね」

 隼人の言葉を受け止めるように、霧越はうなずくと、問いを投げかけてきた。

「瀬口くんはさ、いい教科書って、なんだと思う?」

 少し考えてから、隼人は口を開く。

「どんな子供にもわかりやすくて、しっかりと内容が伝わる教科書が、いい教科書ではないでしょうか」

「そうだね。それもひとつの答えだ」

 霧越はうなずいたあと、モナに視線を向けた。

「モナちゃんの考えは?」

 視線を向けられ、モナは淀みのない口調で答える。

「瀬口くんが考えるのが学ぶ子供たちにとっていい教科書なら、教える先生にとっていい教科書という考え方もありますよね。教科書のエンドユーザーは子供ですが、実際に使う子供たちは直接の顧客ではなくて、採択をするのは教育に関わる大人なので」

「そのとおり。さすが、モナちゃん、視座が高い。大人の事情をよくわかっている」

 満足げな笑みを浮かべて、霧越はうなずいた。

「採択という視点で考えるのは、とても重要だよ。現場の先生方が避けたいと思うような教科書は選ばれない。先生の多くは子供たちにとってベストな教育を施したいと思っている。そして、それにふさわしい教科書を選ぶわけだ」

 霧越の話を聞いて、隼人は疑問に思う。

「だったら、子供にとっていい教科書と、先生にとっていい教科書って、ちがいはないんじゃないですか?」

「それがまた難しいところでね。いくら編集委員の先生が、子供を伸ばす題材だと思っても、実際の現場で歓迎されるかどうかはわからない。教育現場には長年にわたって積み重ねてきたものがあるからね。それを来年度からまったく新しいもので教えるようにと言われても、現場の先生にしてみれば準備が大変で、混乱が生じるだろう。子供たちに安定した授業を供給するためにも、これまでの経験を活かすことのできる教科書を望むというのは当然だ」

「変化を嫌う、ということですか?」

 雪吹からはことあるごとに言われていた。前例どおり、余計なことをしない、と……。

 その言葉の裏側には、そういう事情もあったのだろう。

「たとえば、国語の教科書には、定番教材というものがあって、芥川龍之介の『羅生門』、夏目漱石の『こころ』、中島敦の『山月記』、森鷗外の『舞姫』あたりは、多くの教科書で採用されている」

 霧越は指を折りながら、作品名を挙げた。

「学習指導要領には具体的な作品名までは示されていないのだから、どんな作品を使ってもいい。けれど、ほかの会社は定番教材を使っているのに、うちだけ定番教材をなくすなんて、こわくてできないよね」

「なるほど」

 隼人はようやく納得した。

 新しいことをして目立つと、それが理由で採択に落とされるかもしれないのだ。

 たしかに、少年漫画風のレイアウトや面白いあおり文を見れば、子供は喜ぶかもしれないが、ふざけていると感じて不快に思う先生もいるだろう。先生に嫌われてしまっては、教育現場で使ってもらえない。そう考えると、自分のアイディアが没になったのも、無理はないかもしれない。

「霧越さんに教えてもらったおかげで、やっと、理解できました。雪吹さんはただ却下するだけで、全然そういうことを説明してくれないので……」

 すると、モナが会話に入ってきた。

「でもさ、やっぱ、お酒の席でもないと、こういう裏事情っぽいことって話しにくいよね」

「ああ、言われてみれば、それはそうかも。俺、雪吹さんとの会話は、必要最低限っていうか、業務連絡みたいな感じで、こういう本音トークは一切できないんですよね。なにを考えているのか全然わからないし、雪吹さんの下で、このまま働いていて、成長できるのかなっていう不安もあって……」

 隼人が思いを吐露すると、霧越は少し考えて、口を開いた。

「おそらく、雪吹さんは勝つことより、負けないことを考えているのだろうね」

「負けないこと、ですか。たしかに」

 これまでのやりとりでも、失点しないことを求められているような気はしていた。

「家庭科はシェアも安定していて、よほどのことがない限り、採択が大きく変わるということはないだろうし」

 霧越はそう言ったあと、隼人のほうを見て、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「ただ、瀬口くんには現状維持じゃなく、もっと先を目指してほしいけれどね。淡路(あわ じ)さんもそのへんを期待しているはずだ。どれだけダメ出しされても、あきらめないで、瀬口くんのやりたいことをどんどんぶつけたらいいと思うよ」

 ビールを一口飲んでから、霧越は軽く肩をすくめた。

「あんまり焚きつけると、雪吹さんに怒られちゃうかな。でも、まあ、いいか。若者っていうのは、挑戦してなんぼだと思うし。評価なんてあとからついてくるから。認めてくれるようになるまで、しぶとく粘り強くへこたれず、つづけていれば、道は開けるものだよ。いまの調子で、突き進みたまえ」

 霧越の励ましを受けて、隼人は大きくうなずいた。

「わかりました! へこたれず、がんばってみます」

 会話が一息ついたところで、藍原がスマホを差し出してきた。

「猫ちゃんの写真、ありがとうございました」

 深々と頭をさげて礼を述べる藍原に、モナが問いかける。

「藍ちゃんって、すごく猫好きだけど、自分では飼ってないんでしょ? なんで飼わないの?」

「私は自分のことも満足にできない人間ですので、猫を飼う資格はないと重々承知しているのです。しかし、いつか、お迎えできるような人間になれたときに備えて、日々、猫について学び、研鑽を深めているのです」

 藍原の大仰な言葉を聞き、隼人は戸惑う。

「いやあ、猫を飼う資格って……。そんなの、俺にもあるのかどうか……」

 成り行きで引き取ったものの、ネコ太郎がどう思っているかはわからない。

「藍ちゃんは、まじめだね~」

 茶化すような口調で言いつつ、モナはうなずいた。

「でも、わかる気もする。命に責任を持てるかって考えはじめると、自信がないっていうか、ためらうよね」

 それを聞き、霧越もうんうんとうなずく。

「ほんと、いまの若い子はしっかりしてるよ。いろんなことを考えて、堅実に将来設計してるし。まあ、情報が多い分、取り越し苦労をしてるなあって思うこともあるけどね。僕たちが若いころなんて……」

 霧越は自分が新人だったころに経験したエピソードを語り、隼人は身を乗り出して、その話に耳を傾ける。

 インターネットで得た情報では、職場の飲み会など無駄だという意見が多く、上司の説教や自慢話を聞くなんて苦痛でしかないと、隼人は思っていた。

 しかし、今日の飲み会は有意義だったような気がした。

 霧越が会計を済ませているあいだ、店の外で待っていると、モナが声をかけてきた。

「どうだった? 面倒なら、今度から誘わないけど」

「いや、ぜひ、つぎも呼んでください」

「じゃあ、瀬口くんも、霧越会の仲間だね」

 霧越が店から出てきて、藍原が深々と頭をさげる。

「いつも、ありがとうございます」

「ごちそうさまでーす」

 モナが軽い調子で言う横で、隼人は財布を取り出した。

「あの、今日の飲み代……」

 霧越は断るように、片手を振る。

「いいよ、そんなの」

「ありがとうございます!」

 隼人が勢いよく言うと、霧越は意味深な笑みを浮かべた。

「こういうのは持ちまわりだからね。上司から受けた恩は、部下に返せ、って。僕も若いころは上司にいろいろと面倒を見てもらって、いまがあるわけで」

 つまり、いまこうして奢ってもらっている分は、いつか、自分に部下ができたときにおなじようにしろということなのだろう。

 そう読み取って、隼人は胸にちくりと痛みを感じた。

 はたして、自分はそのとき、ここにいるのだろうか……。

 霧越の世代であれば、終身雇用の制度が信じられていて、おなじ会社で一生働きつづける人間もめずらしくはなかった。しかし、いまや転職は当たり前であり、隼人もスキルを身につけて、出て行くつもりなのだ。

 店の戸が開き、ほろ酔い加減の客が出てくる。

「ほんま、おいしかったなあ~。ごっそさん! また来るわ~」

 その大阪弁が、妙にはっきりと耳に響いた。

 霧越との飲み会に、また呼んでほしい、とモナには伝えた。

 つぎも、またつぎも。

 しかし、それはいったい、いつまで……。

   ☆☆☆



 霧越和彦(かずひこ)には、妻と娘がひとりいる。

 新入社員たちに見送られ、電車に乗ったあと、霧越は同期の女性のことを思い出す。

 雪吹の前に編集長をやっていた女性は、霧越の同期であった。おなじ時期に入社して、おなじ時期に結婚をした。

 彼女はずば抜けて優秀だった。

 だから、優秀なふたりの同期の女性に、引け目を感じている隼人の気持ちが、手に取るようにわかるのだ。

 おなじ時期に子供が生まれることになり、彼女は産休に入ったが、霧越は妻の出産にも立ち会うことなく、ずっと出社していた。霧越の結婚相手は、上司の紹介であり、いわばお見合いみたいなものだった。いいとこのお嬢さん。初対面のときの印象をいまも覚えている。霧越と出会ったときには、家事手伝いをしていた。結婚してからは、ずっと専業主婦だ。

 一方、同期の女性は、大学院時代の先輩と結婚したと聞いた。共働きであり、仕事復帰したあとは、度々、子供が熱を出したと保育園から呼び出しがかかっていた。

 霧越が編集長を任せられた三年あとに、彼女も編集長となった。しかし、半年もしないうちに、彼女は会社を辞めてしまったのだった。

 本人から、退社の理由を直接聞く機会はなかった。同期とはいえ、それほど親しいわけではなく、上司にはよく飲みに連れて行ってもらい、仕事のことでもプライベートでもなんでも話していたが、彼女とは酒を酌み交わした記憶がほとんどない。

「ただいま」

 自宅につき、玄関を開けて、リビングに入ると、娘のすがたがあった。

「まだ寝てなかったのか」

 娘はローテーブルに、教科書やプリントを広げている。

「宿題が終わんなくて……」

「どれどれ」

 近づいて、娘の手元をのぞきこむと、嫌がるような声が返ってきた。

「パパ、くさーい」

 娘は顔をしかめて、鼻をつまむ。

「また、お酒、飲んできたでしょ~。最悪やわ~」

「ああ、すまんすまん」

 霧越はあわてて、娘のそばから離れた。

「家庭科の宿題で、自立度チェックっていうの、やってるねん」

 娘はプリントを手に取り、読みあげる。

「朝、ひとりで起きることができる」

 この自立度チェックという家庭科の教材プリントは、おそらく、雪吹が作成したものであろう。

 悪い予感しかしないが、霧越は娘の言葉に耳を傾けた。

「これ、パパはできてへんよね。いっつも、ママに起こしてもらってるし」

 愛する妻が朝餉(あさ げ)の準備をする音を寝床で聞き、優しく起こしてもらうというのが、霧越の憧れの生活であった。新婚当初から変わらず、いまもそれをつづけてくれている妻には、いつも心のなかで感謝している。

「自分の着替えは自分で用意して、脱ぎっぱなしにしない。これもあかんやん。お風呂に入るとき、パジャマ用意してもらってるし、靴下そのへんに脱ぎ散らかすし」

 耳が痛いことを言われても、事実なので反論のしようがない。

「食事のあと、自分の食器は流し台まで運ぶ。これも、やってへんよね」

 家事については妻が一手に引き受けているので、霧越には出る幕がないのである。しかし、弁明をするのも潔くない気がして、甘んじて受けることにする。

「簡単な食事なら自分ひとりで作ることができる。これも無理、と」

 娘は容赦なく、霧越の自立度をチェックしていく。

「学校や約束の時間に遅れない。うーん、いちおう、会社には遅刻せんと行ってるけど、前にあたしの塾のお迎えの時間に遅れたことあったから、ちょっと怪しいな」

 つづいて、娘はまたプリントを読みあげる。

「自分の部屋の掃除は自分でしている。これは絶対に×。パパが掃除してるところなんか見たことない」

 結果を確認すると、娘は手を口に当て、大げさに驚いてみせる。

「パパ、ヤバすぎ。全然、自立できてへんやん」

 散々な言われようであるが、娘はさらに追い打ちをかけてきた。

「あたし、将来、結婚するなら、パパみたいにお酒を飲んで遅く帰ってくるようなひと、絶対にイヤやわ。仕事が終わったら、すぐに帰ってきて、家事とかちゃんとやってくれるひとがいい」

 そんな娘の言葉に、霧越はなにも言い返すことはなかった。

 そうだ、そういう時代なのだ。時代が変わったということは理解している。

 霧越はただ、娘がよき相手と巡り合うことを願うのみであった。


藤野恵美(ふじの・めぐみ)
1978年大阪府生まれ。2003年、『ねこまた妖怪伝』で第2回ジュニア冒険小説大賞を受賞し、翌年デビュー。著書に、13年、啓文堂大賞(文庫部門)を受賞した『ハルさん』のほか、『初恋料理教室』『わたしの恋人』『ぼくの嘘』『ふたりの文化祭』『ショコラティエ』『淀川八景』『しあわせなハリネズミ』『涙をなくした君に』『きみの傷跡』などがある。

                 

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